10年間一緒に会社を作ってきた相棒が、ある朝、社員7人を全員連れて消えた。残ったのは俺と、会議で一度も手を挙げたことのない、一番静かな女性社員だけだった。「私は残ります」――彼女のその小さな声がなければ、俺は会社を畳んでいたかもしれない。だが、その静かな彼女が、実は会社の全部を一人で見えていたことを、俺はまだ知らなかった。最初は「よりによってこの人か」と思った。でも、その直感が全部間違いだっ…

10年間一緒に会社を作ってきた相棒が、ある朝、社員7人を全員連れて消えた。残ったのは俺と、会議で一度も手を挙げたことのない、一番静かな女性社員だけだった。「私は残ります」――彼女のその小さな声がなければ、俺は会社を畳んでいたかもしれない。だが、その静かな彼女が、実は会社の全部を一人で見えていたことを、俺はまだ知らなかった。最初は「よりによってこの人か」と思った。でも、その直感が全部間違いだっ...

「私は残ります。」
聞き返さないと聞こえないような、かすかな声だった。ダンボールを抱えた社員たちの列がようやく途切れて、事務所が急に静かになった。机もパソコンも、いつも通りのまま。それなのに、人が座っているのは一番奥の一台だけだった。その机の上には、鉛筆立てと付箋の束、表紙のすり切れた大学ノートが積んであった。他の机はどれも、消しゴムの欠片までも拭き取られたみたいに空っぽだった。

その日、俺の会社から社員が7人まとめて消えた。旗を振ったのは、10年前に一緒にこの会社を作った男だった。残ったのは俺と、一番奥の席に座るこの一人だけ。俺はその時、彼女に返す言葉を持っていなかった。正直なところ、その瞬間、心の中で思ってしまったのだ。「よりによって、この人か」と。

会議で一度も手を挙げたことのない社員だった。名前を呼ばれても返事が小さくて、二度聞き直したことが何度もあった。仕事はきちんとやる。ただ、いてもいなくても会社は回る。そう思っていた。この一番静かな社員が、この会社の何もかもを変えていくことになるとは。その時の俺は、まだ知らなかった。

俺の名前は麻野大輔。41歳。吉という人口12万の町で、「朝の企画」という小さな広告制作会社をやっている。会社と言っても大したものじゃない。駅の南口から歩いて8分。3階建ての雑居ビルの2階だ。40坪の部屋に机を10台並べて、壁際に紙の見本と印刷物の束を積んである。エレベーターはない。夏はエアコンの効きが悪くて、冬は窓際が冷える。仕事は地元の会社のチラシとホームページだ。商店街の用品店、郊外の工務店、川沿いの町、山手の旅館、それに個人の医院。そういうところから集客の相談が来る。大企業の広告は一本もやったことがない。テレビのコマーシャルも作ったことがない。うちが作るのは、新聞に折り込まれるB4のチラシと、月に一度更新するホームページと、店の前に立てるのぼりだ。

派手さはない。それでも俺はこの仕事が好きだった。社長になって10年。会社を大きくしたいと思ったことは、正直に言えば一度もなかった。ただ、頼まれた店の名前を、もう少しだけ多くの人に知ってほしかった。それだけでここまで来た。そのやり方が、この10月に全部ひっくり返された。

朝の企画を作ったのは10年前。俺が31歳の時だ。一人で始めたわけじゃない。黒沢シジという男と二人で始めた。黒沢は俺の一つ下で、専門学校の頃からの付き合いだった。俺はデザイン科で、黒沢は広告ビジネス科。学食の同じテーブルでよく飯を食っていた。卒業してからはお互い別の会社に入ったが、月に一度は駅前の居酒屋で会っていた。黒沢は営業の才能があった。人の懐に入るのがうまい。初対面の相手を10分で笑わせて、30分で名刺の裏に携帯番号を書かせる。あれは真似できない才能だ。俺にはできない。俺はその逆で、人に会うのが得意ではなかった。ただ、机に向かって手を動かすのは苦にならなかった。だから、二人で始めるのは自然だった。黒沢が取ってきて、俺が作る。会社の名前を俺の苗字にしたのは、黒沢が「麻野のほうが語呂がいい」と言ったからだ。

最初の3年は順調だった。黒沢が次々と仕事を取ってきて、俺は寝る間も惜しんでデザインを描いた。4年目に社員を一人雇った。5年目に二人。7年目には五人になっていた。みんな地元の出身で、真面目に働く連中だった。黒沢は営業部長として外を回り、俺は制作の管理をしていた。うまくいっていた。本当にうまくいっていたと思う。だからこそ、気づかなかった。黒沢が何を考えているのか、全く見えていなかった。

10月の第一月曜日。朝、出社すると、黒沢の机の上がきれいに片付いていた。引き出しを開けると空っぽだ。パソコンもない。俺はスマホを手に取って、黒沢の番号を押した。コール音の後、すぐに繋がった。黒沢の声は、いつもよりずっと落ち着いていた。「なあ、麻野。悪いけど、今日で辞めるわ。」俺は言葉を失った。「何言ってるんだ。お前、社長の俺を差し置いて…」言いかけて、止めた。黒沢は続けた。「社員も7人、一緒に連れて行く。向こうで新しい会社を作るから。」「向こうって、どこだ…?」「広島。もう話はしてある。」その一言で、頭の中が真っ白になった。

社員を連れて行くだけじゃない。うちが何年もかけて積み上げてきた取引先にも、あいつは裏で営業をかけていたのだ。取引先から「新しい会社の話をもらった」と連絡が来るまで、俺は何も知らなかった。信頼していた男に、会社ごと裏切られた。残ったのは、机とパソコンと、一番奥の席に座る望月という女性社員だけだった。

望月は、入社して3年になる。32歳で、地元の出身だ。いつも小さな声で、存在感が薄かった。会議でも発言はほとんどしない。ただ、与えられた仕事はきちんとやる。チラシの校正ミスを見つけるのが得意で、俺がチェックし忘れた誤字を見つけるたび、「麻野さん、ここ、違いますよ」と静かに教えてくれる。そんな彼女が、この日、こう言ったのだ。「私は残ります。」それだけ言って、自分の机に戻り、いつものように鉛筆立てを直した。

その日から、会社は二人だけになった。俺は失った取引先の穴を埋めるために、朝から晩まで電話をかけた。しかし、ほとんど断られた。「今の時期、切替えられないんで」「もう新しく決めましたので」――そんな返事ばかりだった。売上は半分以下に落ちた。家賃と給料を払えば、利益はほぼゼロ。このままでは、会社を畳むしかないかもしれない。本気でそう思った。

そんなある日、望月が俺の机の前に来て、小さな声で言った。「麻野さん、ちょっと、いいですか。」俺は顔を上げた。望月は、いつもと変わらない表情で、資料を一枚置いた。「これ、次のチラシの案です。印刷所に確認したら、来週の火曜までに入稿すれば間に合います。」俺は紙を手に取った。店名は、郊外の工務店。間取りや施工事例のレイアウトが、今までとどこか違う。配置が妙に考えられていて、見た瞬間に「伝わる」と思った。「これ、誰が作ったんだ?」「私です。」望月は、少しだけ間を置いてから言った。「フォントも、色も、全部変えてみました。割引の文言より、工務店の人は、安心を買いたいんだと思います。だから、施工事例を大きくしました。」俺は、その言葉に驚いた。入社して3年、会議で一度も手を挙げたことのない社員が、ここまでの考えを持っていたのか。

そのチラシを出した結果、工務店から「問い合わせが今までで一番多いぞ」と連絡が来た。その後も、望月は静かに提案を続けた。「この旅館は、露天風呂の写真をもう少し大きくしてもいいと思います」「この医院は、待ち時間の説明を入れたほうが安心してもらえます」――どれも、小さな提案だったが、どれも正しく当たっていた。気づけば、会社の売上は少しずつ持ち直していた。失った取引先の何社かは戻らなかったが、新しい仕事も増えていた。そして、俺はようやく気づいた。望月がいつも小さな声で話すのは、自信がないからじゃない。自分が言ったことが、誰にでも聞こえるように話す必要がないだけだ。彼女は、見えているのだ。俺には見えていなかった、顧客の本当の声が。

「なあ、望月さん。この会社、お前と二人で、もう一回、作り直してみないか。」俺はそう言った。望月は、少し驚いた顔をして、それから、いつもの小さな声で言った。「はい。私でよければ、一緒に頑張ります。」その日、俺は初めて「朝の企画」の二章が始まったと思った。10年前と同じように、今度は二人で。

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