5年間、一度も開かずに押し入れの奥にしまっていた、亡き夫の保険金150万円の通帳。それを取り出したのは、仲良くしていた同僚から、まさかの言葉を掛けられたからでした。彼女は泣きながら私に借金の相談をしてきました。けれど、ある日、新聞に載った彼女の夫の逮捕記事を見て、私は全てを悟ったのです。彼女は、最初から私を騙していたのでしょうか。静かな住宅地で、人を信じることの脆さを思い知った68歳の私が、…

5年間、一度も開かずに押し入れの奥にしまっていた、亡き夫の保険金150万円の通帳。それを取り出したのは、仲良くしていた同僚から、まさかの言葉を掛けられたからでした。彼女は泣きながら私に借金の相談をしてきました。けれど、ある日、新聞に載った彼女の夫の逮捕記事を見て、私は全てを悟ったのです。彼女は、最初から私を騙していたのでしょうか。静かな住宅地で、人を信じることの脆さを思い知った68歳の私が、...

黒橋静は、68歳。雨の音を聞きながら、いつものように朝を迎えていた。目覚まし時計が鳴る前に自然と目が覚める。それは5年以上続いている、体に染みついた習慣だった。起き上がると、髪を整え、黒っぽく染めた髪を一つに結ぶ。少しでもきちんと見えるように。それは、自分自身に課した、義務に近い小さな儀式だった。夫の鉄王が亡くなってから、彼女の生活は静かに、そして孤独に回っていた。

掃除を終え、薬を飲み、簡素な朝食を済ませる。今日も、地元のクリーニング店での仕事へ向かう。雨の日も、風の日も、決して休むことはない。駅前の小さな店で、黙々とアイロンをかけ、服を畳む。同僚の井上は、明るくてよく気がつく女性だった。静はいつも、この店が、唯一社会と繋がっている場所だと感じていた。数少ない、自分の居場所。

ある雨の日の午後、40代半ばの井上から唐突に、金融の相談を持ちかけられた。彼女は、誰にも言えずに借金を抱えているらしい。義理の両親の介護費用、夫の事業の失敗、子どもの教育費。静は、知らない間に、心の内を打ち明けられていた。「本当に、誰にも言えないんです…」と、井上は泣きながら言った。静は、曖昧にうなずくことしかできなかった。自分がそれほど信頼されているとは思っていなかったからだ。

数日後、井上が突然、会社を休んだ。心配になった静は、心当たりを頼りに、彼女の自宅を訪ねた。しかし、インターホンを押しても、返事はない。静は、落ちていた新聞を拾い上げ、何気なく目を通して、凍りついた。そこには、見知った顔の写真があった。それは、井上の夫だ。記事によると、彼は数日前、夜の繁華街でトラブルを起こし、逮捕されていた。借金の原因は、事業の失敗だけではなかったのだ。静は、自分が井上の言葉を信じていたことが、悔しくてならなかった。

それから、井上は店に戻ってきた。彼女は、相変わらず明るく振る舞っていたが、静の目には、その笑顔が痛々しく映った。しばらくして、静は思い切って井上に問い詰めた。「新聞のことは、本当なのですか?」と。しかし、井上は、ただ静かに言った。「…差し出がましいですよ。私のことは、放っておいてください」。その冷たい一言に、静は何も言い返せなかった。それでも、井上は俺にだけは、私のすべてを話してくれていたのに。静の中で、何かが音を立てて崩れていくのを感じた。そして、心配よりも先に、ある感情が湧き上がってきた。裏切られた、という感情が。

その夜、静は、押し入れの奥から、あの通帳を取り出した。5年間、一度も開けることのなかった、夫の保険金が振り込まれた通帳だ。表紙には、かすかに、夫の名前が残っている。裏切りとは無関係な、しかし、自分にとって唯一の砦。静は、通帳を開くことなく、そっと元の場所に戻した。そして、窓の外を見つめ、呟いた。「…もう、人を信じてはいけないのかもしれない」。翌朝、静は、井上と顔を合わせても、何も言わなかった。ただ、黙々とアイロンをかけた。台所の小さな窓の外では、また雨が降り始めていた。

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