土砂降りの雨の夜、パン屋のドアを開けて飛び込んできたのは、骨と皮だけに痩せ細った5歳の孫、順一だった。びしょ濡れで震えるその体を抱きしめ、私は息を呑んだ。 「順一、どうしたの? パパとママは?」 か細い声で、順一は信じられない言葉を絞り出した。 「パパとママとトル君は、海に遊びに行った。僕は、置いてかれた。」 その瞬間、私の頭の中で何かがプツリと切れた。この大雨の中、たった一人で孫を置き去りにして、自分たちだけ楽しんでいるなんて。私は冷たく濡れた順一を強く抱きしめながら、腹の底から黒い怒りが湧き上がるのを感じていた。
夫は変わり果てた孫の姿に言葉を失い、黙って立っていた。焼きたてのクリームパンと温かい牛乳をテーブルに置くと、順一は夢中でかぶりついた。 「順一、ゆっくりでいいのよ。パンはまだたくさんあるからね。」 夫も優しく語りかけた。 「そうだぞ。もう誰もお前からパンを奪い取ったりしないからな。ここがお前の家なんだ。」 その言葉に、順一はピタリと動きを止めた。そして、小さな瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。 「じいちゃん、ばあちゃん…ありがとう。ありがとう。」 今までずっと我慢してきたのだろう。しゃくり上げて泣くその小さな背中を、私と夫はただ黙って優しく撫でてやることしかできなかった。
私の名前はみ子。夫の竹夫と二人で町の小さなパン屋を営んでいる。私たちには両太郎という一人息子がいるが、今はもう離れたアパートで暮らしている。その息子夫婦が、私たちの悩みの種だった。息子の嫁である美千留さんと共に、毎月のように「生活が苦しい」と金の無心に来るのだ。 「両太郎も美千留ちゃんも、まだ若いから。」 夫はそう言って、決して楽ではない私たちの生活の中から、毎月高額な仕送りを続けた。
息子夫婦には二人の子供がいる。上の子は順一。病気で早くに亡くなった両太郎の前の妻との子だ。下の子はトル。今の嫁である美千留さんとの間にできた子である。二人の孫は本当に可愛くて、店に遊びに来ては私の焼いたパンを嬉しそうに頬張る。 「ばあちゃんのパン、美味しい!」 その笑顔が見たくて、私たちは無理を重ねていたのかもしれない。このささやかな幸せが、ある日を境に音を立てて崩れ去ることになるとは、この時の私は知るよしもなかった。
仕送りを始めてから数ヶ月、私と夫の心配をよそに、息子夫婦の金遣いは荒くなる一方だった。美千留さんはSNSで見栄を張るかのように、毎週のように新しい服やバッグを買い、両太郎は夜な夜な友人たちと飲み歩いているようだった。そのお金が、私たちがパンを焼いて必死に稼いだお金だと思うと、腹が煮えくり返る思いである。特に、孫への態度の違いは誰の目にも明らかだった。
この前、店に遊びに来た時のこと。トルが「ケーキが食べたい」と一言こぼすと、美千留さんはすぐに近くの高級洋菓子店に走り、一番大きなホールケーキを買ってきた。そして、トルの皿にだけ、イチゴがたくさん乗った一番いい部分を取り分ける。順一が羨ましそうにそれを見つめているのに、二人は全く気づかない。それどころか、両太郎は順一にこう言ったのだ。 「順一は大きいんだから、我慢しろよな。」 美千留さんの実の子であるトルにはそうやって何でも買い与えるのに、順一には我慢を強いる。私は胸が引き裂かれる思いだったが、息子夫婦に強く言えずにいた。
そして、今夜。土砂降りの雨の中、店のベランダの窓に小さな人影が映っているのが見えた。上半身裸のまま、ガタガタと震えている順一だった。 「順一? あなた、そんな格好で何してるの?」 私は急いで窓を開け、震える順一を抱き寄せた。 「もういいでしょ。順一に万が一があったらどうするの?」 涙ながらに尋ねる私に、順一は衝撃の事実を告げた。 「パパとママとトル君は、海に遊びに行った。」 「海? こんな雨の中で?」 私は信じられなかった。まさか、本当に自分たちだけ楽しんでいるなんて。 「そうですよ、お母さん。私たち、これからどうすればいいんですか?」 その瞬間、私は決意した。もう、このままではいけない。守らなければ。この子を、私が。



