実家で農業を始めてから、もう幾年かが経つ。都会のボロアパートで過ごした日々を思い出すと、人生の奇妙さに今でも驚かされる。あの頃の俺は、ただの普通のサラリーマンで、毎日を無難にやり過ごすことが全てだった。
田舎の農家の一人息子として育った俺は、隣のおじさん家族や近所の親戚たちと、いつも賑やかに過ごしてきた。兄弟のように育った従兄弟たちと、大人に叱られながら遊んだ記憶は、今でも鮮明に残っている。だからこそ、静かな自分の時間に憧れて、都会の大学へ進むことを決めたんだ。
「若いとはそういうことだろうな。いつか帰ってきてね」
母は寂しそうに笑いながらも、背中を押してくれた。都会での生活は、思っていたよりずっと孤独だった。大学時代は友人たちと鍋パーティーを開いて、母が送ってくれる野菜を消費できた。でも社会人になると、一人で食べきれる量じゃなくなる。
「母さん、あの量は一人じゃ無理だよ。もう送らなくていいから」
「だめよ。あんた、野菜全然食べないんでしょ」
何度言っても伝わらない。結局、送られてきた野菜は痛ませてしまうことが増えた。一人で鍋をつつきながら、昔の賑やかな食卓を思い出す。従兄弟たちと競うように箸を伸ばしたあの頃を。
ある日、隣の部屋に新しい住人が引っ越してきた。シングルマザーの女性と、小さな男の子。挨拶を交わすうちに、自然と親しくなっていった。彼女は明るくて、子どもも人懐っこくて、俺はよく夕飯を誘われるようになった。最初は断っていたけど、彼女が作る料理の匂いに負けて、いつしか一緒に食卓を囲むのが当たり前になっていた。
でも、日に日に二人の元気がなくなっていくのに気がついた。母子の顔色は悪くなり、痩せ細っていく。何か問題を抱えているのは明らかだった。ある晩、勇気を振り絞って聞いてみた。
「あの、旦那さんって、いらっしゃらないんですよね?」
彼女は少し困った顔をして、俯いた。しばらく沈黙が続いた後、彼女は静かに口を開いた。
「夫は、子育てに耐えきれなくなって、女を作って出ていったんです。それから、実母も……私がシングルマザーになることを許せなくて、縁を切られました」
その言葉を聞いた時、俺の中で何かが固まった。彼女は一人で、子どもを抱えて、この街で必死に生きている。なのに、俺は何も知らずに、ただの隣人として暢気に過ごしていた。胸が締め付けられるような思いだった。
「大変だったんだな……何かできることがあったら、言ってくれ」
そう言うのが精一杯だった。でも、彼女の目に浮かんだ涙を見て、俺は思った。この親子を放っておくわけにはいかない、と。
翌日から、俺は積極的に彼女の家に通うようになった。子どもの世話を手伝い、買い物に行き、一緒に飯を食う。彼女は最初こそ遠慮していたけど、次第に俺の存在を受け入れてくれるようになった。そして、いつしか俺は、彼女のことを特別な目で見ている自分に気づいた。
「ねえ、あなたはどうしてこんなに良くしてくれるの?」
ある夜、彼女がぽつりと訊ねた。俺は言葉に詰まった。自分でも答えが分からなかったからだ。ただ、この親子の笑顔を守りたいという思いだけが、胸の中に溢れていた。
そんなある日、彼女の元夫が突然、部屋に現れた。酒の匂いを漂わせ、目は充血していた。
「俺の子どもに会わせろ」
彼女は青ざめ、子どもを背後に隠した。俺は二人の間に立ちはだかった。
「あなたに会わせる義理はない。出て行ってください」
「何だ、お前は。他人が口出しするな!」
男は掴みかかろうとした。でも、俺は一歩も引かなかった。この親子を守るんだ、という決意が身体を満たしていく。男はしばらく睨みつけていたが、やがて舌打ちを一つ残して去っていった。
その場に崩れ落ちた彼女を、俺はそっと抱き寄せた。彼女は泣きながら、震える声で言った。
「もう、誰も信じられない」
「俺は、信じてくれなくていい。ただ、隣にいるよ」
彼女は涙を拭い、小さく頷いた。その日から、二人の距離はゆっくりと縮まっていった。俺は彼女を大切にしたいと、心から思うようになった。実家に帰って農業を継ぐという計画も、どこか遠いものに感じられていた。
そんなある日、母から電話がかかってきた。
「そろそろ帰ってくる気はないの? 畑も、あんたを待ってるよ」
俺は受話器を握りしめ、都会の夜空を見上げた。彼女と子どもの顔が、頭の中に浮かぶ。俺は決断を迫られていた。田舎に帰ることと、ここに残ること。それは、彼女を選ぶかどうかということでもあった。
「母さん、少しだけ時間をくれ」
俺の答えに、母は沈黙したあと、静かに言った。
「分かった。でも、自分の人生を後悔するなよ」
その言葉が、胸に刺さった。俺は彼女に、自分の気持ちを伝えることにした。翌朝、彼女の部屋のドアを叩いた。
「俺、実家に帰って農業を継ぐつもりだ。だから、一緒に来てくれないか? この街を出て、俺の故郷で、三人で暮らそう」
彼女は驚いた表情で俺を見つめ、それから子どもを抱きしめた。長い沈黙のあと、彼女は小さく頷いた。
「……本当に、いいの?」
「ああ、俺の家族になってほしい」
その言葉に、彼女は涙を流しながら笑った。俺は彼女を強く抱きしめ、子どもも一緒に抱き寄せた。この瞬間、俺の人生は大きく変わったんだ。
そして今、俺は実家の畑に立っている。隣には彼女と子どもがいる。都会のボロアパートで始まった物語が、こんな形で結ばれるなんて、あの頃の俺には想像もできなかった。母が送ってくれた野菜が、縁を繋いでくれたのかもしれない。人生はどこでどう転ぶか分からない。でも、今の俺は、この田舎で家族と一緒に生きていくことを、心から幸せに思っているんだ。



