「俺らの言うこと聞いた方が身のためだよ」
そう言って男が母に手を伸ばした瞬間、母の声が部屋に響いた。
「お前ら、早く逃げろ」
え?
次の瞬間、母に触れようとした男が後ろに吹っ飛び、後ろにいた2人を巻き込んで倒れ込んだ。
俺は何が起きたのか理解できず、ただポカンと母を見つめるだけだった。
ちんぴらたちも同じように状況を飲み込めず、呆然と固まっている。
それから母が口にした真実が、俺たち全員の人生をひっくり返すことになる。
俺の名前は伊奈斗。22歳で、大学を卒業して働き始めたばかりの新社会人だ。
父は俺が幼い頃に離婚していて、俺は母一人に育てられた。
母は俺を愛してくれていたが、父のいない寂しさを俺は持て余し、その感情を外への反抗で発散するようになった。
中学に上がった頃には不良たちとつるみ、喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。
今となってはバカなことをしたと思うが、当時の俺は誰かに気持ちをぶつけないとやっていけなかったのだ。
母は何度も話そうとしてくれたが、当時の俺にはその優しさが煩わしくて、無視して家にも寄りつかなくなった。
高校2年の時、転機が訪れた。
俺に彼女ができたのだ。
相手は小学校からの幼馴染み、鈴木美音。中学も高校も同じだった。
同級生も先生も荒れている俺を煙たがっていたが、彼女だけは変わらず話しかけてくれた。
そのうちに彼女と話すことを楽しみにしている自分に気づき、告白すると、彼女も俺のことを想ってくれていた。
付き合うことになったが、このままじゃ彼女まで悪く思われる。
俺は髪を黒に戻し、授業に真面目に出るようになり、不良仲間と距離を置いた。
彼女に見合う男になりたいと思ったのだ。
そして同時に、母もずっと俺を見捨てずにいてくれたことに気づいた。
「お母さん、俺、彼女できた」
仕事から帰ってきた母に話しかけると、母は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んでくれた。
「それは良かったね」
「彼女のためにも、俺これからは真面目になるから」
「そう。彼女を悲しませちゃだめよ」
「母さんのことも、もう悲しませないようにするから」
照れくさくてはっきり言えなかったけど、精一杯のその言葉に母は目を潤ませながら嬉しそうに笑った。
母は元から細身だったが、ここ数年でさらに痩せて、見るからに貧弱そうな見た目になっていた。
そんな母にこれ以上苦労をかけるわけにはいかない。
ちゃんとした会社に就職して、今まで迷惑をかけた分、母には楽をしてもらいたい。
俺は美音に頼んで勉強を見てもらい、奨学金制度を利用して大学に進学した。
卒業後は無事に会社にも就職できて、俺はようやく母を楽にさせられると安心していた。
その矢先の出来事だった。
帰り道、駅前のコンビニで買い物を済ませ、家に向かって歩いていると、前方から3人組の男たちが歩いてきた。
ガラの悪い見た目に、俺は無意識に目線を逸らして道を空けた。
すると、母が前に出た。
「あんたたち、うちの息子に何か用か?」
母が俺を守るように立ちはだかったのだ。
すると男たちはニヤリと笑った。
「ああ? こいつ、昔俺たちの仲間だったんだよ。今は真面目ぶってるけどな」
どうやら昔の不良仲間だったらしい。
「お前、一人だけ優等生ぶって抜け出したよな? 俺たちの痛みを知ってるだろ?」
男たちが詰め寄ってきた。
母は俺を背に隠し、低い声で言った。
「息子に手を出すなら、私が相手になるわ」
男たちは笑った。
「おばさんが何言ってんだよ。そんなガリガリの体で何ができるんだよ」
「俺らの言うこと聞いた方が身のためだよ」
そう言って男が母に手を伸ばした。
その瞬間、母の目つきが変わった。
「お前ら、早く逃げろ」
え?
次の瞬間、男が後ろに吹っ飛んだ。
後ろにいた2人を巻き込んで、3人まとめて倒れ込んだ。
何が起きた?
俺は理解できず、ただ母を見つめるだけだった。
ちんぴらたちも同じように呆然としている。
母は倒れた男たちを見下ろし、冷たい声で言った。
「私を誰だと思ってるの?」
母の口から語られたのは、衝撃の過去だった。
母は若い頃、とある組織の構成員だったのだ。
「私はね、昔『鬼頭』って呼ばれてたのよ。今は大人しくしてるけど、体は覚えてるみたいね」
母はそう言って、自分の拳を見つめた。
倒れた男たちは顔を青ざめさせ、震えながら立ち上がった。
「す、すみませんでした! 俺たちが悪かったです!」
そう言って3人は逃げ去っていった。
俺はまだ状況を飲み込めず、母を見つめることしかできなかった。
家に帰ってから、母はすべてを話してくれた。
若い頃に組織から抜け出すために、当時の組長に掛け合い、命からがら逃げてきたこと。
その後、普通の生活を送るために必死に働き、俺を育ててきたこと。
「ごめんね、驚かせて。でも、あなたに手を出すような奴は、私が許さないから」
母はそう言って、優しく笑った。
俺はその日、初めて母の強さを知った。
そして、母が俺のためにどれだけのことをしてきてくれたのかを、心の底から理解した。
あれから数年後、俺は母に一人前の姿を見せられたと思う。
彼女の美音とも結婚し、今では子供も生まれた。
母は孫の顔を見るたびに目を細めて笑う。
かつて『鬼頭』と呼ばれた女は、今ではただの優しい祖母だ。
あの日の衝撃的な出来事は、今でも時々思い出す。
もしあの時、母が俺を守ってくれなければ、俺はどうなっていたのだろう。
でも、母がいてくれたから、俺は今ここにいる。
そう思うと、母への感謝の気持ちが溢れてくるのだ。



