「給料18万?高卒の初任給より安いんじゃない?」
美人秘書の今田さんが、書類を差し出した俺の手をチラッと見て、鼻で笑った。確かに俺の給料は月18万だ。でも、それはあくまで表向きの数字。本当の収入はその何倍もある。だが、俺は何も言わなかった。腹の中で笑いを噛み殺しながら。
俺は田村。35歳。実家は医者一家で、父も姉二人も医者だ。幼い頃から手先の器用さを買われ、医者のレールに乗せられてきた。研修時代は手術に没頭し、海外の文献を読み漁り、数年で一定の手術をこなせるようになった。父から「お前のメスさばきは兄弟の中で一番だ」と褒められたこともある。
だが、年を重ねるごとに父は研究や論文発表を求めてきた。文章をまとめるのが苦手な俺は、カルテの指示が分かりづらいと看護師長に何度も言われた。うんざりした俺は父に告げた。
「海外の大学で腕を磨きたい」
無茶な提案だったが、父も姉たちも半ば諦めたように承諾してくれた。アメリカの大学病院で5年。様々な難症例の手術を経験し、今では現地でも一目置かれる存在になっている。
今回の帰国は、日本企業の社長で父の知り合いでもある松川さんの手術がきっかけだった。日本では症例の少ない難病を患った松川さんの執刀を、俺が任されたのだ。手術は成功し、術後の経過も良好。松川さんは懇親会にどうしても出席してほしいと言い張り、俺は一時帰国することになった。
実家で両親と久しぶりの団欒を楽しんでいると、姉が言った。
「せっかく日本に帰ったのに、家でダラダラしてるなんてもったいないわよ」
「ずっと働き詰めだったんだ。少しは休ませてくれよ」
そう答えて、のんびり過ごすつもりだった。ところが、その日の夜。父が病院の懇親会に無理やり俺を連れ出したのだ。行きたくなかったが、父の顔を潰すわけにもいかない。
会場に着くと、今田さんがいた。父の病院で働く美人秘書だ。彼女は見るからに俺を値踏みするような目を向けてくる。
「給料、いくらもらってるんですか?」
突然の質問に、俺は面食らった。見ず知らずの人間に聞く質問ではない。
「……18万ですけど」
俺がそう答えると、今田さんはわざとらしく口を押さえて笑った。
「えっ、本当ですか?高卒の初任給より安いんじゃないですか?お医者さんなのに?」
「まあ、そうですね。でも、十分暮らせてますから」
この言葉を聞いて、今田さんはますます俺を見下すような表情を浮かべた。彼女は俺の実家が医者一家だということを知らないらしい。父が教授で、姉二人がそれぞれ整形外科と脳神経外科に勤めていること。そして俺がアメリカで5年間、難手術を成功させてきたことも。
「私、結婚するなら将来有望な人がいいのよね。お医者さんって結構稼げるんでしょ?でも、田村さんのようなお給料じゃあ、ちょっとね」
彼女はそう言って、意味ありげにウインクした。まるで俺がお粗末な男だと嘲笑っているかのようだ。
俺は何も反論しなかった。代わりに、こう思った。
――この女、俺の正体を知ったら、どんな顔をするだろうか。
翌日。松川さんから連絡が入った。
「田村先生、今日の会見に来ていただけますか?」
会見?何の会見だ?そう思いながらも、松川さんは俺の恩人でもある。断れずに応じた。だが、その会場で待っていたのは、俺にとって思いもよらない人物だった。今田さんが、松川さんの隣に座っている。そして、彼女は俺を見るなり、顔色を変えた。まるで幽霊でも見たかのように。
「な、なんで田村さんがここに……」
松川さんは不思議そうな顔で言った。
「今田さん、知らないのかい?この方が、私の手術を執刀してくれた田村先生だよ。アメリカから特別に呼んだんだ。この病院でも一流の腕前でね、私の命の恩人なんだ」
その瞬間、今田さんの顔が真っ青になった。さっきまでの余裕の笑みが、一瞬にして消え去った。口をパクパクさせながら、何も言えずにいる。俺はゆっくりと口を開いた。
「今田さん、改めて自己紹介します。田村亮太です。アメリカ・ボストンの大学病院で働く外科医です。給料は……まあ、先ほど申し上げたとおりですが、年収にすると、あなたの想像をはるかに超える金額になるかと思います」
彼女は何も言えなかった。その場に立ち尽くしたまま、ただ青ざめた顔で俺を見つめるだけだった。
「それでは松川さん、今後の経過について説明しますね」
俺は今田さんを無視して、松川さんとの会話に集中した。だが、心の中ではある疑問が湧き上がっていた。
――どうして今田さんが、松川さんのそばにいるんだ?
その答えは、会見の後、松川さんの口から明かされることになる。俺はその話を聞いて、本当に驚くことになるのだ。



