控室のソファに一人、私は座っていた。アイボリーのカーテンが柔らかく光を透かしている。今日は私の結婚式だ。なのに、胸の奥は重く沈んでいた。
「…来ないんだってさ。はぁ、さっき連絡があった。」
義理の母が、乾いた声でそう言った。新郎の家族は、誰一人として式場に来ていない。冗談かと思った。でも、その場の空気が、それが現実だと教えてくれた。
その瞬間、ピンと来た。幸せに水を差すまいと見ないふりをしていた違和感が、私の中で質量を増していく。彼らなの?何も言わない主人の様子に、違和感は確信へと変わった。
「…義家族、全員潰してやる。」
低く、血が通っていないような声が、自分のものとは思えなかった。体中の怒りが、今にも破裂しそうだ。
私の名前は塩崎地夏、42歳。全国に店舗を展開する手芸及び子供用品チェーンの代表取締役をしている。ここに至るまでの道のりは、決して楽なものではなかった。
物づくりとの出会いは高校生の頃。家の近くにあった小さな手芸店でアルバイトを始めたのがきっかけだ。店主の開き洋子さんとは昔からの顔馴染みで、「バイトがしたい」と何気なく話したところ、「働いてみるかい」と声をかけてくれたのだ。
「色々と大変だろ。ちょっとでも家計の足しになればね。おばちゃんも嬉しいよ。」
彼女は、我が家の状況をよく知ってくれていた。つまり、父と母がいないということについてだ。
母は私を産んですぐに息を引き取った。男手一つで育ててくれた父も、私が中学1年生の頃に、仕事中の事故で亡くなっている。
「のり君もうちだったら、許してくれるんじゃないのか。それでもダメだってんなら、一人じゃ大変だから手伝ってくれって頼まれたって言えばいいんだよ。」
大黒柱は、3つ年上の兄の広。父が亡くなって以来、彼の口癖はこうだった。
「地夏は何も心配するな。」
私は元々楽天的な性格だった。その言葉を真正面から受け取った。父を失った悲しみはもちろんある。しかし、金銭面については脳天気なまま中学校生活を送っていたように思う。兄を心の底から信頼し、頼りにしていたからだ。兄がそう言うならば間違いないと。
兄は仕事を掛け持ちして、日に日に痩せていく。たった一人の家族の姿に、私は気づけなかった。恥ずかしく、情けないことだ。
高校の学費や制服代がいくらかかるのか。同級生の母親たちが卒業式で話しているのを聞いて、初めて自分がどれほど兄に負担を強いていたのか理解した。
「私も働く。お兄ちゃんに甘えたばかりじゃいられないもん。」
「いつも言ってるだろ。何も心配するなって。甘えていいんだ。俺はお前の兄貴なんだから。勉強を頑張れ。いい大学に入っていい会社に勤めて、何不自由なく生きていくんだ。」
彼は私がアルバイトすることを良しとせず、首を縦に振らない。洋子さんはこうした事情も知っていた。
だから、「手伝いを頼まれたことにしろ」とまで言ってくれたのだ。結果として私は半ば強引に広の説得に成功。高校1年の夏休みからアルバイトを始めた。
だが、自分で分かっている。ここまで強く兄が、いやそれ以上の責任を自らに課す理由は、他ならぬ私にあるのだと。
「塩崎、お父さんがすぐ来なさい。」
父が亡くなった日のことは、鮮明に覚えている。音楽の授業中、慌てた様子の担任が突然飛び込んできた。その表情から、何か良くないことが起きたのだと察する。しかし、ざわめく教室の声を聞きながら音楽室を出た私は、さして大きな不安など感じていなかった。父は建設現場で働いていたので、転んで骨折でもしたのだろうかと、それくらいにしか思っていなかったのだ。
「…地夏は、だから気づかなかったんだ。」
「痩せたっていうか、余計な脂肪が落ちただけだ。言ってなかったけどな。昼は建設現場で働いてるんだよ。」
「ふ…」
体から力が抜けて、抜け殻のような返事が漏れる。
「もう1年近くなるかな。やっぱり体力仕事は給料がいいし。」
「…聞いてない。」
自分のものとは思えない低い声が耳に響いた。
「聞いてないよ。建設現場って。お父さんがどうして死んだか、忘れたの?」
父は、交通事故で亡くなったのではなかった。建設現場での転落事故だった。広は、母の代わりに、父の代わりに、私を養うために、あの父が死んだ現場で働いていたのだ。昼は本業、夜はアルバイト。その生活が体を蝕んでいった。
「つまり…は、歩けなくなるかもしれないってことですか?」
医師の言葉に、私は自分の耳を疑った。広の腰は、もう限界だったのだ。私のために、すべてを犠牲にしてきた兄。その背中は、もう悲しいほどに曲がっていた。
私は心を決めた。ここで終わらせるわけにはいかない。兄が築いてくれたもの、守ってくれたもの。それを絶対に無駄にはしない。私は手芸店での技術を磨き、やがて自分の会社を立ち上げた。全国に店を広げ、名を馳せるようになった。
そして、結婚。相手は優しい人だった。しかし、彼の家族は違った。
「あの家は、育ちが違う。」
初めて彼の実家に挨拶に行った時、義母は鼻で笑った。義父は無言で新聞をめくった。義姉は私の贈った手土産を、開けもせずに棚の奥へしまった。
「ふん。こんなもの、もらっても困るわ。」
私は笑顔を保った。しかし、心の中に小さな棘が刺さった。それでも、主人を信じた。彼は私のことを分かってくれていると。
結婚式当日。私は控室で一人、想いを巡らせていた。兄は来てくれる。それは分かっている。しかし、新郎の家族が来ないと聞いて、私は確信した。最初から、彼らはこの結婚を認めてはいなかったのだ。
「…分かった。」
私は立ち上がった。アイボリーのドレスが微かに揺れる。控えていた秘書に、静かに指示を出した。
「プランBを実行して。結婚式は続行する。そして、私の会社を通じて、彼の実家が経営する会社の株を、すべて買い集めなさい。今日中に。」
秘書は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「…かしこまりました。」
私は鏡の中の自分を見つめた。怒りで震える自分がいた。しかし、同時に冷静な自分もいた。私は、家柄や肩書きのために黙って耐えるような女じゃない。虐げられれば、それ相応の対応をするまでだ。
「さあ、始めましょう。」
私はドアを開けた。その先には、私を待つ世界がある。そして、私がこれから作り変えようとしている世界がある。



