あの日、左肩の傷跡を見られてしまった瞬間、私はすべてが終わると思った。十年前、紛争地域で軍医として働いていた時、患者の命を救うために選んだ選択——それは私の名前を消して、日本で静かにやり直す代償だった。今の病院で信頼を築き、ようやく平穏な日々を手に入れたと思っていた矢先、突然現れた監査チーム。そして、私の過去を知る男が病院の廊下を歩いてくる。その男が見た瞬間、私は悟った。この病院で積み上げて…

あの日、左肩の傷跡を見られてしまった瞬間、私はすべてが終わると思った。十年前、紛争地域で軍医として働いていた時、患者の命を救うために選んだ選択——それは私の名前を消して、日本で静かにやり直す代償だった。今の病院で信頼を築き、ようやく平穏な日々を手に入れたと思っていた矢先、突然現れた監査チーム。そして、私の過去を知る男が病院の廊下を歩いてくる。その男が見た瞬間、私は悟った。この病院で積み上げて...

病院の白い壁と消毒液の匂い。俺はここで十年ぶりに医師として働き始めた。タクシーの運転手が「先生、お医者さんですかい?」と聞いてきた。俺は「ええ、今日から不妊するんです」とだけ答えた。それ以上は何も言わなかった。

病院は町外れの古びた四階建てだった。外壁の白い塗装は所々剥がれている。事務局で手続きを済ませ、用意された机に荷物を置いた。古い木製の机だ。俺は立ち上がり、ジャケットを脱いでシャツの袖をまくった。鏡に左肩の引き連れた傷跡が映った。十年経ってもこの傷だけは消えない。あの日のことが頭の片隅に浮かびかけて、俺は静かに袖を下ろした。語ることはもう何もない。

不妊から二週間が過ぎた。俺は外来診療を担当し、午後は病棟を回る。繰り返しの日々だ。「先生って前はどこで働いてたんですか?」と聞かれることも何度かあった。俺は決まって「海外の小さな病院でしばらく」とだけ答える。それ以上は誰も聞こうとしなかった。

ある日、医局でコーヒーを入れていると、若い男の声が後ろから聞こえてきた。

「は山先生、その内科の方針もう少し攻めてもいいんじゃないですか?」

振り向くと滝沢集平が腕を組んで立っていた。二十九歳の下界では腕利きの若手として通っている。

「攻めるべき場面ならそうします。今はまだその時ではありません」

「あなたみたいに慎重だと患者を逃しますよ」

滝沢はカルテを持って医局を出ていった。その日の午後、俺は新前の患者を見ていた。脈を取り、機を当て、検査値を確認する。処置は淡々と進めた。特別なことは何もしていない。それでも患者の呼吸はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。

ステーションに戻ると、隣に立っていた女性がカルテを見つめていた。片瀬綾根だ。循環器内科で三十五歳。院内でも実力者として知られていると看護師たちの噂で耳にしていた。

「は山先生」

俺は顔を上げた。

「先ほどの処置、薬剤の選び方も投与量も迷いがありませんでしたね」

「教科書通りにやっただけですよ」

「教科書通りに迷いなくできる人はそう多くありません」

俺は何も答えずカルテに目を落とした。彼女の視線がしばらく俺の横顔に向けられているのを感じた。

数日後、当直明けの早朝のことだ。医局の洗面所で顔を洗っていた俺は、白衣を脱いでシャツ姿になっていた。襟元から左肩の傷跡がわずかに覗いていたのかもしれない。背後で足音が止まった。鏡越しに片瀬が立っているのが見えた。彼女は何も言わなかった。ただその視線は明らかに俺の肩に向けられていた。俺はゆっくりとタオルで顔を拭き、白衣を羽織った。

「失礼しました」

そう短く言って彼女は背を向けた。

その週の金曜の夕方、医局長室に呼ばれた。ノックをすると「どうぞ」と低い声が返ってきた。医局長の山本が書類の山に囲まれた机の向こうに座っていた。

「は山先生、忙しいところすまんね。少し話を聞いてもらいたくて」

「気になさらず、何かありましたか?」

山本は眼鏡を外して拭きながら、率直に言った。

「君のことは評価している。処置の正確さも、患者からの信頼も。ただ、もっと前に出てほしい。滝沢君なんかはどんどん新しい治療を試している」

「私は今の自分のやり方が正しいと思っています」

「うちの病院は地方の中核を担っている。新しい風も必要だが、確実な実績も必要だ。君の経歴は興味深い。だが、ここで何か特別なことをやろうとしているわけではないのだろう?」

「ただ患者を診たいだけです」

山本はため息をついた。

「そうか。だが、君の過去が何であれ、この病院では全てのことが表に出る。それを頭に入れておいてくれ」

その言葉に何か含みがあることは分かった。俺は軽く会釈して部屋を出た。

翌朝、外来の順番を待つ患者の中に、見覚えのある顔があった。田中という五十代の男性だ。少し前まで別の病院で治療を受けていたはずだ。

「先生、あの日は助かりました。心臓の痛みで倒れた時、私を診てくれたのは先生でしたよね? あの時、他の医者は私を切るべきだって言ったのに、先生は薬で抑えた。結果的に手術しないで済みました」

俺はカルテに目を落とした。

「覚えています」

「あの後、色々あって今はこっちに来たんです。また先生に診てもらえて安心しました」

その日の午後、片瀬が俺の机に来た。

「田中さんの件、聞きました。あの処置は正しかったんですね。よく見抜きましたね」

「経験があっただけです」

「その経験がどこで得られたのか、教えてもらえますか?」

俺はしばらく沈黙した。

「海外の小さな病院で、と言いましたよね」

「それは本当ですか?」

片瀬の目は真剣だった。何かを探っているように見えた。

「本当です」

そう答えると、彼女は何も言わずに去っていった。

その夜、当直室でカルテを整理していると、電話が鳴った。受話器を取ると、三階病棟の看護師の声だった。

「は山先生、三〇二号室の患者が状態を悪化させています。呼吸が速くなって、意識がもうろうとしています」

俺はすぐに病棟へ向かった。ベッドの上で青ざめた顔の患者が横たわっていた。モニターの心拍数が上がっている。脈を触り、呼吸を聞く。酸素飽和度は急速に下がっていた。

「気管挿管の準備を。あと、この薬をすぐに」

看護師たちが動き出した。俺は患者の肩に手を置いて声をかけた。

「大丈夫です。私がいますから」

処置は淡々と進んだ。血液検査の結果を確認し、原因を特定する。心筋炎の急性増悪だった。薬を投入し、呼吸を整える。モニターの数値が徐々に安定していく。患者の呼吸も落ち着いてきた。

一時間後、患者は危険な状態を脱した。看護師たちが安堵の息を漏らす。俺は手を洗い、当直室に戻った。時計を見ると夜の十一時を回っていた。

翌朝、医局に来ると滝沢が待ち構えていた。

「昨夜のこと、聞きました。あの処置、何か特別な訓練を受けたんですか? 普通の内科医があんな迅速な判断できるはずがない」

「ただの経験です」

「その経験って、どこで?」

滝沢の目は鋭かった。何かを察しているようだった。

「海外の病院で、と言ったはずです」

「それだけじゃ不自然すぎる」

俺は何も言わずに机に座った。滝沢は長く睨んだ後、医局を出ていった。

数日後、医局長の山本が俺を再び呼んだ。

「は山先生、君の経歴について調べる者が病院に来ている。何か知らないか?」

俺の心臓が速く打ち始めた。

「何の者ですか?」

「県の医療監査チームだ。どうやら君の資格について確認したいらしい」

俺は息を飲んだ。十年近く隠してきたことが表面化するかもしれない。何を答えるべきか、頭の中で言葉を探していると、山本が付け加えた。

「ただし、君を疑っているわけではない。ただ、対応を考えておいてほしい」

その日の夕方、病院の入り口に見慣れない男が立っていた。スーツ姿で、手に書類を持っている。俺は廊下からその姿を見て、足を止めた。あの男はどこかで見たことがある。確実に前にも会ったはずだ。

しかし、どこでだったか思い出せない。

その夜、片瀬が当直室に来た。

「は山先生、少しお話ししてもいいですか?」

「何でしょう」

「あの男が今日、医院に来てたのを見ました。あなたのことを知ってるみたいでした」

「知り合いですか?」

「逆に聞きたいんです。あの男は昔、軍医だった武藤と言う人です。私は十年前、あの男の部下でした」

俺は手に持っていたペンを机に置いた。十年ぶりに聞く名前だった。胸の奥で古い記憶が音を立てて動き始める。

「なぜ俺にそんなことを言うんです?」

「あなたの左肩の傷跡、あれは銃創ですよね? 十年前の紛争地域で、あの武藤の部隊にいたのはあなたじゃないですか?」

沈黙が部屋を埋めた。俺は立ち上がり、窓の外を見た。黒い雲が空を覆い始めている。

「どうしてそれを」

片瀬は目をそらさなかった。

「私は当時、同じ病院で看護師をしていました。あなたの手術を手伝ったのは私です。あなたが日本に帰国する前日、私たちは最後に話しましたよね。『このことは誰にも言わないでほしい』とあなたは言った」

俺は壁に手をついた。十年隠してきたことが、一人の人物によって崩れ始めている。

「それで、あなたは今になって何を」

「警告です。武藤があなたを探しています。彼はあの時のことを、あなたが何か知っていると疑っている。そして、山本医局長にも何か話を通しているかもしれない」

病院の外で雷鳴が轟いた。雨が窓を叩き始める。

俺はゆっくりと振り返り、片瀬を見た。

「あの日、手術室であなたが言ったことを覚えていますか?」

「『このことを誰にも言わなければ、あなたはここでやり直せる』と。私はその言葉を信じて十年前に日本へ帰りました。でも、もう逃げ場所はないようですね」

片瀬は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。外では雨が激しくなっていた。机の上に置かれたカルテの名前の欄には、は山浩司と記されている。俺はその文字を指でなぞり、口を開いた。

「明日、あの男に会います。全て終わりにするために」

その言葉を最後に、俺は当直室の明かりを消した。翌朝、病院の廊下に足を踏み入れる。スーツ姿の武藤がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。俺は足を止め、彼の目を見つめた。何が始まるのか、誰にも分からない。ただ一つ確かなのは、この場所で俺の本当の物語が始まるということだった。

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