母の葬式が終わって、まだ一週間も経っていない夜のこと。妻の香りが、玄関に荷物を置いて立っていた。台所のテーブルには、一枚の離婚届。彼女の判だけが押してあった。「私はあなたの二番目でいいの?」——母の介護が始まってから、ずっと胸に刺さっていたあの言葉を、彼女は何も言わずに置き去りにした。借金は二百万。俺は一人残された。だけど、母は亡くなる前に一通の封筒を残していた。「もしもの時が来たら、開けな…

母の葬式が終わって、まだ一週間も経っていない夜のこと。妻の香りが、玄関に荷物を置いて立っていた。台所のテーブルには、一枚の離婚届。彼女の判だけが押してあった。「私はあなたの二番目でいいの?」——母の介護が始まってから、ずっと胸に刺さっていたあの言葉を、彼女は何も言わずに置き去りにした。借金は二百万。俺は一人残された。だけど、母は亡くなる前に一通の封筒を残していた。「もしもの時が来たら、開けな...

玄関に置かれた一つの荷物。それが、俺の人生が終わった夜の始まりだった。

台所のテーブルの上には、一枚の紙が置かれていた。役所でもらってきたばかりの離婚届だ。妻の香りだけが、もう判を押してあった。俺はその紙を見たまま、しばらく声が出なかった。

母の葬式が終わって、まだ一週間も経っていない。

「ねえ、聞いてるの?」

香りの声は、驚くほど落ち着いていた。怒鳴るでもなく、泣くでもない。もう決めたことを、ただ淡々と伝えるだけの声だった。

何か言おうとして、口を開いて、そのまま閉じた。返す言葉が、本当に一つも見つからなかったからだ。台所の時計の音だけが、夜中に大きく響いていた。

あの夜、俺は全てを失ったと思った。母を失い、妻に去られ、後には二百万を超える借金だけが残った。だが、この時の俺はまだ知らなかった。母が本当に残してくれていたものが、一体何だったのかを。それを知るのは、もう少し先のことになる。

俺の名前は森本り介。三十五歳。町の小さな工場で金属プレスコをしている。朝の八時から夕方までプレス機を動かし、家に帰って飯を掻き込むと、今度は夜の宅配便の倉庫へ向かう。荷物を仕分けしてトラックに積み込んで家に戻るのは、日付が変わる頃だ。それが、この二年ほどの俺の毎日だった。

なぜそんな暮らしをしていたのか。母の看護と入院費で作った借金を、少しでも早く返したかったからだ。工場の給料だけでは、利息を払うだけで消えてしまう。だから夜も働いた。体はいつも鉛のように重かったが、それでも働くしかなかった。

昔の俺は、こんな人間ではなかった。もっと余裕があって、もっとちゃんと自分の人生を歩んでいるつもりだった。それがどこでこうなってしまったのか。今になって振り返ると、全ての始まりは母が倒れたあの日だったように思う。

母の名前は森本静。去年、七十歳になった。元気な母だった。朝早く起きて、庭の花に水をやり、近所の老人会にも欠かさず参加していた。そんな母がある日突然、倒れた。「脳卒中です」と医者に言われた時、俺の頭は真っ白になった。

その日から、俺の生活は一変した。病院の廊下で椅子に座り、手術が終わるのを待った。何時間待ったのか、もう覚えていない。母は助かったが、右半身に麻痺が残った。退院後、自宅での介護が必要になった。

香りは最初、反対しなかった。「あなたのお母さんなんだから、当然でしょ」とまで言ってくれた。だが、介護は想像以上に過酷だった。仕事に行っている間、香りが母の世話をしてくれた。しかし、母は自分の思い通りにならないと怒るようになった。ご飯を食べてくれない。靴下を履くのを嫌がる。介護ヘルパーにも暴言を吐く。

香りの顔から、次第に笑顔が消えていった。

「ねえ、今日はどうやって母さんを説得したの?」

「話を聞かないんだ。お前が帰ってくるまで、何も食べたくないって」

「そんな言い方、私が悪者みたいじゃない」

「母さんは病気なんだ。責めないでくれ」

そんな会話が増えていった。俺が家に帰ると、食卓には冷めた料理と、疲れ果てた香りの姿があった。俺は謝った。それも、「ごめん」だけの、短い謝りだった。

母の介護が始まって半年ほど経った時、母が「ベッドで横になりたい」と言った。一階に部屋を借りたい、と。実際には、部屋を借りるんじゃなくて、二階の寝室を壊して介護用の部屋を作る話だった。工事には金がかかる。だが、一緒に住む以上、それは避けて通れない出費だった。

香りはその話を聞いて、最初は黙っていた。それから、絞り出すような声で言った。

「私はあなたの二番目でいいの?」

その言葉に、俺は何も答えられなかった。答えられるはずがなかった。母を大切にすることが、なぜ妻を裏切ることになるのか。俺にはどうしても、その理屈が飲み込めなかった。

「俺はお前を大切にしてる」

「だったら、なんで私の気持ちを考えてくれないの?」

「お前も母さんの気持ちを考えてくれよ」

香りはそれ以上何も言わなかった。ただ、テーブルを見つめて座っていた。その机の上に、一枚の紙が置かれていた。離婚届だった。

香りが家を出て行った後、俺はしばらく台所の椅子に座ったままだった。離婚届の香りの判は、きれいに押してあった。おそらく、ずっと前から決めていたのだろう。それなのに、俺は何も言えなかった。言う資格がないと思ったからだ。

母はその一ヶ月ほど前に、肺を悪くして再び病院に運ばれた。医者には「覚悟しておいてください」と言われた。俺は仕事を休み、毎日病院に通った。母はベッドの上で、弱々しい声で言った。

「り介、お前には苦労をかけたな」

「そんなこと言わないで。母さん、ちゃんと治るから」

「そうだな。でも、もしもの時は…」

母はそこで言葉を切った。そして、枕の下から一枚の封筒を取り出した。

「これは、お前に残しておく。もしもの時が来たら、開けなさい」

俺はその封筒を受け取った。重みは、ほとんどなかった。何が入っているのか、その時はまったく分からなかった。医者からは「家で最期を過ごさせてあげたい」と言われた。俺は香りに相談した。しかし、香りは一言も頷かなかった。

「私は、もう何も言わない」

その言葉を最後に、香りとまともな会話はなくなった。

母は自宅で最期を迎えた。あの日、俺は母の手を握りながら、ずっと声をかけ続けた。母は静かに息を引き取った。それは、どこか穏やかで、救いのような死に顔だった。だが、葬式が終わった後、一通の明細書が届いた。母の入院費と医療費の請求書だった。総額は、俺の一年分の給料に相当する額だった。

俺は長い間、その紙と向き合っていた。借金を背負うことが、母を裏切ることのように思えた。現実には、借金を返すことが、残された俺の役目だった。

その矢先に、香りの離婚届がテーブルの上に置かれていた。香りは何も言わなかった。荷物をまとめて、玄関に置いてあっただけだった。玄関のドアが閉まる音が響いた。それから沈黙が続いた。俺はその場に立ち尽くしたままだった。

借金は二百万を超えた。香りは、俺の借金を背負う必要はない。その理屈は分かっている。だが、それでも、あの夜の香りの声が忘れられない。

「私はあなたの二番目でいいの?」

あの言葉が、まるで呪いのように俺の頭の中で繰り返される。

母が残してくれた封筒は、まだ開けていなかった。何が入っているのか、怖くて開けられなかった。何も入っていないかもしれない。ただの空っぽの封筒かもしれない。だが、あの日の母が、これをお前に残しておく、と言った時の顔は忘れられない。何かを隠しているような、そんな顔だった。

あれから数年が経った。俺は今もあの工場で働いている。借金の返済は、まだ終わっていない。だが、少しずつではあるが、返済は進んでいる。香りのことは、今も時々考える。俺が悪かったのか。それとも、あの状況では、どうにもならなかったのか。答えは出ない。

それでも、あの封筒のことを考えると、いつも何かが引っかかる。母はなぜ、あんなにもろい封筒に何かを入れて、俺に残したのか。もしかしたら、それは単なる思い出の品かもしれない。しかし、もしかしたら。

俺はその封筒を、一度も開けたことがない。今も、机の引き出しの奥にしまったままだ。夜、目が覚めた時、ふとあの封筒のことを思い出す。開けるべきなのか。それとも、開けずにこのまま生きるべきなのか。

今日もまた、あの封筒が頭から離れない。

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