白衣を脱いで作業着を着たその日、ぼくは黙って椅子を並べていた。誰も気づかない。ただの町医者が、なぜ東京ドームで雑用をしているのか。見つめていたのは、スポンサー企業の令嬢。彼女はぼくの顔を見るなり、鼻で笑って言った。「魚屋上がりのくせに、ここに立ってるのが不快だわ」と。周囲の笑い声が耳に刺さる。でも、彼女は知らない。今夜ステージで発表するのは、ぼくだ。教授が残した15年に及ぶ研究の真実を。そし…

白衣を脱いで作業着を着たその日、ぼくは黙って椅子を並べていた。誰も気づかない。ただの町医者が、なぜ東京ドームで雑用をしているのか。見つめていたのは、スポンサー企業の令嬢。彼女はぼくの顔を見るなり、鼻で笑って言った。「魚屋上がりのくせに、ここに立ってるのが不快だわ」と。周囲の笑い声が耳に刺さる。でも、彼女は知らない。今夜ステージで発表するのは、ぼくだ。教授が残した15年に及ぶ研究の真実を。そし...

東京ドームの天井はいつ見ても高い。俺は脚立の上で照明の角度を確認していた。床には金属パイプが転がり、配線が蛇のように這っている。開演まであと6時間。スタッフの怒鳴り声と機材の駆動音がドーム全体に反響していた。

「医療革命フォーラム」と書かれた巨大なバナーがステージの背後に下ろされていく。白崎龍一教授の引退記念。世界中の医療関係者が今日この日のために東京に集まっている。

俺の名前は大玉。42歳。地方の小さな診療所で働くただの町医者だ。と、世間にはそう見えている。脚立を降り、汗ばんだ体を作業着の袖で拭った。椅子の列を整えるために腰をかがめる。背中が痛い。40を過ぎてからの肉体労働は若い頃のようにはいかない。

「太田さん、こっちの音響確認できますか?」

「ああ、すぐ行く。ケーブルの取り回しをもう一度見直しておいた方がいいぞ。」

声をかけてきた若いスタッフに頷き、俺はステージ袖へ向かった。卓に並ぶスイッチを1つずつ確かめる。音の出力、マイクの感度、スピーカーのバランス。医療と縁のない作業のはずなのに手は止まらない。細かいことが気になる性分は、いくつになっても変わらないらしい。

舞台の中央に立つと客席の端から端までが見渡せた。あと数時間でこの席は満員になる。そして舞台には教授が立つ。教授がこの日を最後に現役を退く。信じられないような気もするし、当然のような気もする。俺はもう一度客席を眺めた。今日の主役はあの人だ。俺ではない。

昼前に来賓の視察が始まった。記者を従え、スポンサー関係者がぞろぞろと会場を歩いていく。華やかな声と香水の匂いが汗臭い設営現場に流れ込んできた。

その中心にいたのは若い女だった。年の頃は20代後半。仕立てのいい白いスーツに身を包み、ヒールの音を響かせて歩いている。神宮寺未令。今回のフォーラムのメインスポンサー、神宮寺製薬の社長令嬢だ。新技術の世界展開を仕切る人物だと運営から聞かされていた。

俺はちょうどステージ前で椅子の列を直していた。彼女が近づいてくる。俺は道を開けるために一歩横にずれた。

「ちょっと、そこの人。」

振り返ると、彼女が俺を見下ろしていた。目は細く、口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。

「あなた、魚の人でしょ。なんでそんな格好してここにいるの?」

魚の人。昔、俺が魚市場で働いていた頃についたあだ名だ。医者になる前の話だ。知っているのはごく限られた人間だけのはずだった。

「先生こそ、なぜそんな格好で?」

俺は自分の作業着を見下ろし、彼女のスーツを見上げた。

「先生? 誰が先生だって? あなた、勘違いしてない?」

彼女の声に周りのスタッフの視線が集まる。記者のフラッシュが光った。

「このフォーラムのスポンサーよ。あなたみたいな人がそこに立ってると、場の雰囲気が台無しになるの。わかってる?」

俺は答えなかった。代わりに、彼女の目の奥をじっと見つめた。

「あなた、何か誤解してるみたいね。私はあなたに用はないわ。どうか邪魔しないで。」

彼女はそう言って、ヒールの音を響かせながら去っていった。その背中を見つめながら、俺は深呼吸をした。これが俺の今の立場だ。町医者で、作業着を着て、椅子を並べる。ただの雑用係。

だが、それは表の顔だ。

数時間後、ステージに立つのは俺だ。教授の最後の講演の前に、俺がマイクを握る。教授が俺に託した役割がある。それは、教授が30年間研究を続けてきた治療法の、臨床試験の最終結果を発表すること。

教授は俺のことを、ただの町医者だとは思っていない。俺は教授の最も信頼する元弟子であり、彼の研究の継承者だ。その事実を知っている人は会場に数人しかいない。

開演まであと1時間。俺は控室で資料を読み直した。表紙には「非公開」の印が押されている。これから教授が発表するはずだったが、教授は俺に譲ったのだ。「お前がやれ。お前の成果だ」と。

教授は数日前、俺に言った。「お前はこの研究を最後までやり遂げた。俺の弟子の中で、お前だけが真剣にこのテーマと向き合ってきた。お前が発表するべきだ」

俺はそう言って笑った。あの日、教授のもとを離れて町医者になったとき、教授は何も言わなかった。ただ、背中を押してくれた。「お前は表を歩ける医者になれ」と。

「先生、どうしてそんな風に言うんですか?」

「ならなくてもいい。お前はもっとちゃんと表を歩ける医者になれ。」

「先生は表を歩けない医者なんですか?」

教授は答えなかった。ただ、俺を見て微笑んだ。あの時、俺は教授の本当の意味を理解できなかった。

今も分からない。だが、今日、その答えが明らかになるかもしれない。

「太田さん、準備できましたか?」

若いスタッフが控室のドアを開けた。俺は資料をしまい、立ち上がった。

「ああ。行こう。」

ステージに上がると、客席は満員だった。スポットライトが俺を照らす。神宮寺未令は最前列に座っていた。白いスーツが光に反射している。俺がマイクに近づくのを見て、彼女は眉をひそめた。

「皆さん、ご静聴ください。」

俺の声がドーム全体に響いた。神宮寺未令が立ち上がろうとするのが見えた。だが、俺は構わず続けた。

「まず、自分のことを紹介します。私は太田誠。地方の診療所で働く医師です。そして、私は白崎龍一教授の元で10年間、この研究に関わってきました。」

会場が一気に静まる。神宮寺未令の表情が強張った。俺は資料の表紙を開いた。

「今日お伝えするのは、教授の集大成です。そして、私の人生をかけた結果です。」

俺が深呼吸をして、最初のページを読み上げようとしたその瞬間、後方で何かが分裂するような音がした。

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