「今日からここで同居させてもらう。」
玄関先で息子が放ったその一言に、私は冷水を浴びせられたような衝撃を受けました。夫の年明と二人で穏やかな夕食の支度をしていた夜のことです。チャイムが鳴り、ドアを開けると、そこには大量のダンボール箱を抱えた息子夫婦の姿がありました。
「正一、どうしたの? そんなに荷物を持って…」
驚きと戸惑いが入り混じる私に、息子は無表情のまま冷たく言い放ちました。
「説明は後でする。とりあえず入れ。」
そして、夢の彩佳が横から付け加えます。
「これからは私たちの家になるんです。お母さんたちのルールは私たちが決めますから。」
耳を疑うような言葉。まるで私たち夫婦が自分の家にいることを許されているかのような口ぶりでした。そして、息子の口から飛び出した決定的な一言。
「嫌なら出ていけばいい。」
その瞬間、私の中で何かが凍りつきました。実の息子からそんな言葉を浴びせられるなんて、胸が締めつけられるような痛みが走ります。あの言葉を浴びせられた夜、私は一睡もできませんでした。暗闇の中で、これまでの人生が走馬灯のように蘇ってきます。
正一が五歳の時、私は再婚しました。年明との出会いはまさに運命でした。シングルマザーとして必死に働く私を、彼は温かく見守ってくれました。正一のことも実の息子のように可愛がってくれて、三人での生活が始まりました。あの頃の正一は本当に可愛らしい子供でした。学校から帰ると「母さん、ただいま」と元気な声で飛び込んできて、今日あったことを嬉しそうに話してくれました。
私はジムの仕事をしながら、正一の教育費を必死で貯めました。大学進学の時には、百万単位の金額。決して安くない金額でしたが、息子の未来のためならどんな苦労も惜しくありませんでした。結婚式の時には準備資金として、また百万円。新居の家具家電も私が全額負担しました。百万円という金額でしたが、正一の幸せそうな顔を見ればそれだけで報われる気持ちになりました。
「母さん、ありがとう。俺、頑張るから。」
あの日の正一の言葉が今も耳に残っています。そして今、私たち夫婦が静かに暮らすこの家。三十年独身時代の貯金と年明との共有財産で手に入れた家でした。
同居生活が始まると、苦しさは日に日に増していきました。ある日、年明がこっそりと言いました。
「ひさよ、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。」
私はそう答えましたが、心の中は不安でいっぱいでした。正一は私を呼び捨てにするようになりました。かつて「母さん」と呼んでくれたその口から、今は違う名前が出てきます。
「ひさよ、夕飯まだ?」
そう聞かれるたびに、昔の優しかった息子の面影を探してしまう自分がいました。ある夜、珍しく家族みんなで食卓を囲んでいた時のことです。彩佳が唐突に切り出しました。
「ねえ、そろそろ正一にも跡を継いでもらおうと思ってるんだよね、義父さんの。」
年明が目を見張ります。
「何だって?」
「だって、正一は息子だし。会社を継ぐのが当然でしょ?」
彩佳の言葉に、年明は困惑した表情を浮かべました。
「私の会社は小さいし、まだ続けるつもりだ。」
「でも、もう年でしょ?」
その一言に、空気が凍りつきました。年明は長年築いてきた仕事に誇りを持っていました。それを、嫁に「年だ」と一刀両断されたのです。私は思わず口を挟みました。
「彩佳さん、それは言い過ぎじゃないかしら。」
すると彩佳は鼻で笑いました。
「あら、お母さん。私たちの家庭の方針に口出しするなんて、お門違いじゃない?」
「私たちの家庭」という言葉。かつては私もこの家族の一員だったはずなのに、今ではよそ者のような扱いです。正一を見ると、何かを言おうとしているようでしたが、結局何も言いませんでした。
ある日、私が老後の資金として大切に残しておいた貯金通帳が、引き出しから消えていることに気づきました。家中を探しても見つからず、不安にかられて正一に尋ねました。
「正一、私の通帳を知らない?」
すると、正一は何の悪びれもなく言いました。
「ああ、それなら彩佳が使ったよ。家具を買い替えるのに必要だったんだ。」
「勝手に? それは私の貯金よ。」
「だって、どうせお前たちには必要ないだろ。」
私はその場に立ち尽くしました。長年コツコツと貯めてきた大切なお金。それを、まるで自分のもののように使われたのです。しかも、その理由が「家具の買い替え」だなんて。
夜、年明と二人きりになった時、私は涙をこらえながら言いました。
「年明、私、もうここにいられないかもしれない。」
「私も同じ気持ちだ。でも、あの子には何か理由があるはずだ。」
「理由って何よ? 私たちを邪魔者扱いしていることの理由?」
年明は黙り込んでしまいました。彼もまた、正一の変わりように戸惑っているようでした。
数日後、私は決意を固めました。このままでは何も解決しない。年老いた夫と二人、穏やかな日々を取り戻すために、私はある行動に出ることにしました。
帰宅した正一に、私は冷静に言いました。
「正一、話がある。私たちはこの家を出ていくことに決めたわ。」
正一の表情がわずかに動きました。
「は? 何言ってんだよ。」
「あなたたちがこの家を自分たちのものだと思っているなら、私たちはここにいられない。でも、この家は私と年明が長年かけて手に入れた家よ。」
彩佳が叫びました。
「ふざけないで! 私たちがここに住むって決めたんだから!」
「彩佳さん、あなたたちにそんな権利はないわ。」
正一が立ち上がって叫びます。
「いい加減にしろ! お前たち、ひさよさんになんてことを!」
私は驚きました。正一が私をかばうなんて。しかし、その言葉には「母」ではなく「ひさよさん」という呼び方。喜びよりも、むしろ悲しさが込み上げてきました。
「正一、もういい。私たちは決めたの。」
私は年明の手を握りました。年明はうなずきました。
「ああ、そうしよう。」
私たちは隣の市に小さなアパートを借りました。荷物をまとめ、家を出る日。玄関で彩佳が言いました。
「あんたたち、自分たちのことを何だと思ってるの?」
「この家の主よ。」
私はそう言い残して、家を出ました。
新生活が始まって数週間後、正一から電話がかかってきました。
「…母さん。」
久しぶりに聞くその呼び方に、私は思わず息をのみました。
「正一?」
「……なあ、家のことなんだけど。考え直してくれないか? 俺、間違ってたかもしれない。」
「正一、あなたが何を思い詰めたかは分からない。でも、私たちはもう決めたことよ。」
「母さん……」
「あなたのことは、いつまでも大切に思ってるわ。でも、私の人生を捨てるわけにはいかないの。」
電話の向こうで、正一が何かを言いかけたようでしたが、私は静かに受話器を置きました。
あれから数年が経ちました。年明と私は小さなアパートで、穏やかな毎日を送っています。正一からは時々連絡があります。彩佳とはうまくいっていないようですが、それはもう私の知ったことではありません。
かつての夢のような日々は戻ってきませんが、私は後悔していません。自分の人生を自分で決めることの大切さを、私は息子に教えられたのかもしれません。



