「お帰りなさいませ、奥様。」…

「お帰りなさいませ、奥様。」...

「お帰りなさいませ、奥様。」

白髪をきれいに結い上げた老女が深く頭を下げた。その後ろで、同じ言葉がいくつも重なった。開け放たれた門の奥には、前かけ姿の女たちと作業着の男たちがずらりと並び、全員が私に向かって頭を下げている。

夕暮れの山あいの村だった。軽トラックを降りて、杉木立の坂道を登った先にあった古くて大きな門の前。私は色あせたボストンバッグを下げたまま、その場で動けなくなった。

奥様? この人たちは確かに今そう言った。けれど、ここに立っているのは、お見合いの1時間前に逃げた姉の代わりとして送り出されただけで、何の取り柄もない私だ。

歓迎されるはずがない。迷惑がられて当たり前。そう思ったから、私はつい震える声で言った。「ご迷惑なら、出ていきます。」

それなのに返ってきたのは、一斉の「お帰りなさいませ」だった。

意味が分からなかった。中の貧乏な男の元へと出されたはずなのに、目の前にあるのは想像していたボロ家ではなく、手入れの行き届いた広い屋敷だったのだから。

この出迎えが、誰にも必要とされてこなかった私の人生を根底から変えることになるなんて、この時の私はまだ知らなかった。

私の名前は瀬小春。26歳。生まれ育った町の小さな食堂で働きながら、実家の家事を一人で引き受けて暮らしてきた。家族は父と母、それから2つ上の姉のリカ。4人家族の中で、私はいつも都合のいい時にだけ名前を呼ばれる存在だった。

頼まれるのは、洗濯と掃除と親戚への使い走り。褒められた記憶はほとんどない。背は低くて顔は地味で、人と話すとすぐ目が泳ぐ。私の取り柄といえば、手先の器用さと料理の段取りくらい。履歴書の趣味の欄には、いつも「お菓子作り」と書いてきた。割れながらも花のない娘だと、自分でも思う。

そんな私が、なぜこの屋敷の門の前で「奥様」と呼ばれることになったのか。話はあの春のお見合いの日から始まる。本当のことを言えば、もっとずっと前から始まっていたのだけれど。

まず、うちの家のことを少しだけ話しておきたい。

姉のリカは昔から美人だった。目が大きくて、肌が白くて、笑うと親戚のおじさんたちがみんな目を細めた。その上、頭も良くて、人当たりも良くて、何を着ても似合った。私が同じ場所に立つと、誰もが「リカちゃんの妹だよ」と紹介した。名前さえ覚えてもらえないこともあった。

母はいつも姉の話ばかりしていた。

「リカはね、今度こんな賞をもらったのよ。」
「リカはね、就職先で評価されてるんだって。」

私に向かって言うのは、せいぜい「小春、早く夕飯の支度をしなさい」くらいだった。

父も同じだった。父は無口で、私が何か尋ねると「母さんに聞け」と言うだけ。でも姉が話しかけると、珍しく笑って何でも答えていた。私はその姿を見ながら、自分がこの家族の中でどんな位置にいるのか、ずっと考えていた。

ある冬の夜、母が私に言った。

「小春、お見合いの話が来たのよ。年も年だし、そろそろ結婚を考えなさい。」

私は台所で食器を洗いながら聞いていた。

「…私がですか? 」

「あなたにはリカみたいな魅力がないから、縁談もそう多くはないのよ。せっかく来た話なんだから、きちんとお見合いしてきなさい。」

それが私に対する母の物言いだった。私はただ「はい」と答えた。

そして、お見合いの日。

私は朝から母に言われて、髪を整えて、着物を着せられた。久しぶりに鏡に映る自分の顔を見た。化粧をしても、どこか貧相に見える。お姉ちゃんは、こんなにきれいなのに。私は思わずため息をついた。

出かける前に、姉が廊下で私に会って、言った。

「小春、お見合いなんだってね。頑張ってね。」

その言葉に嫌みはなかった。姉はただ、どこか気の毒そうな顔をしていた。

私は「うん」と小さく返して、家を出た。

お見合いの場所は、町のはずれにある小さな和食店だった。私は緊張して、店の前で何度も深呼吸をした。そろそろ時間だ。私は引き戸を開けようとして、手を止めた。

中から、私の名前ではない声が聞こえたんだ。

「…すみません、やっぱり今日は来られなくて。」

聞き覚えのある声。私は耳を澄ませた。

「姉が具合が悪くなってしまって。本当に申し訳ありません。代わりに…」

代わりに。その言葉を聞いて、私はすべてを悟った。

姉が来るはずだったんだ。私が連れてこられたのは、その代わりだったんだ。

私は店の中に入らず、そのまま玄関に立って、震える声を絞り出した。

「…私、間違えました。すみません。」

そう言って、私は店を離れた。足がふらふらして、道の端でしゃがみ込んだ。涙が出てきた。どうして私ばかり。どうして私はいつも、誰かの代わりなんだろう。

その時、低い声が聞こえた。

「大丈夫ですか? 」

顔を上げると、見知らぬ男性が立っていた。若いけれど、落ち着いた雰囲気の男性だった。

「…あ、はい。すみません、大丈夫です。」

私はそう言って、立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。

「顔色が悪い。ちょっと休みませんか?

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向こうに茶店があります。」

その人が連れて行ってくれたのは、川沿いの小さな茶店だった。私は何度も「ご迷惑では」と断ったが、その人は「いいえ、気にしないで」と笑った。

座ってお茶を飲んでいると、少し落ち着いた。私は何があったか、ぽつぽつと話した。姉の代わりに来たこと、断ったこと、家族の中で自分がどういう存在かということ。

その人は黙って聞いていた。そして、全部話し終わった後に、こう言った。

「家を出てはいかがですか。」

私は驚いて顔を上げた。

「私の家に来てください。うちは山あいの小さな村で、家業を継ぐ者がいなくて困っています。もしよければ、嫁として来てほしい。」

「え? 」

「私は、あなたを見て、真面目で頑張り屋だと思いました。そういう人が、うちには必要なんです。」

私は混乱した。知らない人に、いきなり嫁になってほしいと言われても、何が何だか分からなかった。

「あの…でも、私…」

「無理にとは言いません。ただ、今も言ったように、うちは家業を継ぐ者がいません。私はもうこの年まで独身で、親もそれを心配しています。あなたも、家に居づらいなら、ここを出て新しい暮らしを始めるのも一つの方法だと思います。」

私は、その言葉をじっくり考えた。実家にいても、私は誰の役にも立っていない。姉の代わりにすらなれない。むしろ、誰かが必要としてくれるなら、それでいいのかもしれない。

「…よろしくお願いします。」

私は深く頭を下げていた。

そして、そのまま私の新しい生活が始まった。

軽トラックに揺られて、何十分も山道を進んだ。着いたのは、杉の木が生い茂る斜面に開けた小さな村。そして、その一番奥に、古くて大きな屋敷があった。

門をくぐった瞬間のことだった。

「お帰りなさいませ、奥様。」

老女が深く頭を下げた。その後ろに、ずらりと並んだ使用人たちが続く。私は足がすくんだ。

「え…奥様? 私は奥様なんかじゃ…」

「あなたが、これからこの家の奥様です。どうかよろしくお願いいたします。」

私は混乱したまま、案内されるがままに屋敷の中に入った。畳の匂い。古いけれど、手入れの行き届いた調度品。自分がこんな場所にいてもいいのか、ずっと居心地が悪かった。

最初の夜、私は自分の部屋で天井を見ながら考えた。

「私は、この家の何なんだろう。娘なんだろうか。それとも、住み込みのお手伝いさんなんだろうか。」

この屋敷の人たちは、みんな私に丁寧に接した。老女の「お乳」が世話を焼いてくれて、他の使用人たちも私を「奥様」と呼んだ。

でも、私は知っていた。私はこの家に、何の技術もなく、ただ連れてこられただけの人間だ。これから何をすればいいのか、分からなかった。

ある日、私は屋敷の台所に立って、何か手伝えることはないかと思った。すると、老女が言った。

「奥様、そんなことはなさらなくて結構です。」

「でも…」

「あなたはこの家の奥様です。下働きは私たちにお任せください。」

私は何もすることがなくて、手持ち無沙汰に庭を眺めた。芝生は青く、手入れが行き届いていた。私はため息をついて、縁側に座り込んだ。

その時、ふと気になった。この家の主人は、どこにいるのだろう。

あの茶店で結婚を申し込んでくれた人が、この家の主のはずだ。でも、屋敷に着いてから、その人の姿を見ていない。使用人たちは皆、「旦那様はお留守です」と言うばかりだった。

何日かして、私は我慢できなくなって、老女に尋ねてみた。

「あの…旦那様は、いつお帰りになるのですか? 」

老女は少し間を置いて、こう言った。

「旦那様は、奥様のために、別邸を準備なさっております。もう少ししたら、お会いになれます。」

別邸?

私のために? 私はますます混乱した。私は、ただの代役なのに。それなのに、なぜこんなに手を尽くしてくれるのだろう。

ある日、屋敷の書斎を掃除していると、机の上に一枚の写真が置かれているのを見つけた。写真には、若い女性が笑っていた。綺麗な人だった。私はその写真を見た瞬間、胸がざわついた。

「この人は…誰ですか? 」

老女は沈黙した。そして、低い声で言った。

「…元奥様です。」

「元…奥様? 」

「旦那様は、以前奥様を亡くされております。それ以来、何年も喪に服しておられました。あなたは、旦那様が初めて心を動かされたお方です。」

私は写真を見つめたまま、言葉を失った。

私が心を動かされた?

そんなはずはない。私はただ、姉の代わりに倉庫から出てきたような女だ。

しかし、老女の目は真剣だった。

私は写真を元に戻し、その場を離れた。

それから、何日かして、旦那様が帰ってきた。

私は玄関で出迎えた。旦那様は、前より少し疲れた顔をしていたけれど、私を見て微笑んだ。

「小春さん、こちらでの生活には慣れましたか? 」

「あ、はい。とても…。」

「それは何よりです。明日、あなたに大事な話があります。」

大事な話。私は何を言われるのか、心臓がドキドキした。もしかして、やっぱり私はここにふさわしくないと言われるのか。

翌日、旦那様は私を庭に連れて行った。そして、ゆっくりと話し始めた。

「あなたが来てくれるまで、私はずっと一人で苦しんでいました。仕事には追われ、心を開ける人もいませんでした。あなたが茶店で、自分の話をしてくれた時、私は初めて人に心を打たれました。」

「私はただ、愚痴をこぼしただけです。」

「いいえ。あなたは、自分の弱さを隠さなかった。私はそこに真実の美しさを感じました。」

旦那様は、私の手を握った。

「どうか、このまま私の妻として、この家にいてください。」

私は涙があふれた。

「私は…何もできません。姉の代わりで来たのに…どうして私なんかを…? 」

「あなたは誰の代わりでもありません。あなたはあなたです。そして、私にとっては、かけがえのない人です。」

その言葉を聞いた時、私は初めて、自分がこの場所にいてもいいのだと思えた。

それから、私は少しずつ、この家での生活に馴染んでいった。老女や使用人たちとも仲良くなり、料理を教えてもらったり、庭の手入れを手伝ったりした。旦那様とも、本当の夫婦の会話を交わすようになった。

しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。

ある日、実家から手紙が届いた。母からの知らせだった。

「姉が病気で入院しました。あなたも、一度帰ってきてくれませんか。」

私は複雑な気持ちだった。姉のことは、昔から好きだった。けれど、実家に帰れば、またあの扱いが待っているかもしれない。

旦那様に手紙を見せると、旦那様は言った。

「行ってきなさい。あなたの家族でしょう。何かあったら、必ず助けるから。」

私は旦那様の優しさに、また涙があふれた。

私は実家に帰った。母は相変わらず、私を小春として見て、姉の心配ばかりしていた。私は病院に行って、姉に会った。

姉は痩せていたけれど、私の顔を見て、弱々しく笑った。

「小春…、ごめんね。あの時、お見合い、逃げちゃって。」

「ううん、もういいの。お姉ちゃん、無理しないで。」

「でも…お前、幸せそうだね。」

私は驚いた。姉が私の幸せを認めてくれたのは、初めてだった。

「うん、私は幸せだよ。お姉ちゃんも、早く良くなってね。」

私はそう言って、病院を出た。

その夜、実家の自分の部屋で、私は天井を見ながら考えた。

私は、この家の何なんだろう。娘なんだろうか。それとも、住み込みのお手伝いさんなんだろうか。

ずっとそう思っていた。

でも、今は分かる。私は、私の人生を生きているんだ。姉の代わりじゃない。誰かの思い出の代わりでもない。

枕元のスマホに、旦那様からメッセージが届いていた。

「待っています。あなたの帰りを。あなたは、私の大事な家族ですから。」

私は嬉しくなって、何度もそのメッセージを読み返した。

次の日、私は実家を出た。母は、何も言わなかった。ただ、玄関で「気をつけて」と言った。

私はうなずいて、軽トラックに乗り込んだ。

車が山道を走り、杉木立の中を抜けていく。前方に、古い大きな屋根が見えてきた。門の前には、老女の姿があった。

車が止まると、老女が深く頭を下げた。

「お帰りなさいませ、奥様。」

私は微笑んで、屋敷の中へと歩いていった。