「実力の差だ。嫌ならやめれば?」
そう言い放ったのは、女子である部長の広格だった。月18万の研究を告げられたのは、俺がこの会社で23年間、設計者としてやってきた後のことだ。産業機械メーカーの俺は、自動車部品を作る工場に大型生産設備を納めてきた。材料の投入から箱詰めまで、一連の設備をまとめて設計するのが仕事だ。
若い頃、現場を見ずに図面だけで進めた設備で、材料投入のタイミングを誤り、ラインを1週間止めてしまったことがある。それ以来、必ず現場で実測することにしている。
今、俺は300億円規模の案件を抱えている。発注元の工場の隣に立ち、新設の生産設備の設計を担当しているのだ。他者に先駆けて部品の生産量を増やすための案件で、発注元は稼働の時期も社外には極秘にしている。稼働日は9月と決まっており、動かせない。
新しい設備は、今動いている製造ラインと併用する。稼働中のラインに新設備をつなぐ以上、部品を送り出す速さや天井クレーンの稼働域は、止めた状態では測りようがない。しかも、材料投入から箱詰めまでを1人でまとめて設計する規模だ。区画ごとに測るべき数値が違い、1度の訪問では測りきれない。
おまけに、極秘案件のため工場に入れる機会自体、視察の名目でしか与えられていない。
4月第2週の火曜日、俺は発注元の工場に入った。これで14回目だ。1年半でラインを止めて測れたのは2回だけだ。ラインを止めるのは年末年始の休みだけだからだ。残る12回は、動いているラインを通路から見て測ってきた。
手帳に数値を書き取っていると、発注元の生産技術部長である霧山が後ろから覗き込む。
「田瀬さんがここまで通ってくれるから、うちも安心して任せられます」
「これだけ来なければ、測りきれませんから」
桐山と組んだ現場はこれで3件目になる。前の現場で、他者の図面が見落としていた既存ラインとの干渉を、俺は実測だけで見つけたことがある。それを覚えていた桐山が、我が社の社長の足沢に、俺の名を挙げて発注したのだ。
そこへ、現場の責任者がやってきた。顔には何度も書き込んでは消した後があり、浮かない顔をしている。
「田瀬さん、ここの配管の逃し方、教えてもらえますか?」
俺は、新設備を繋ぐ際に配管が干渉しないか、図面と実測値を照らし合わせて説明した。
「ここをこの角度で逃がせば、既存ラインに干渉せずに済みます」
責任者は頷き、手帳にメモを取る。俺はさらに、新設備の設置場所と既存ラインの間隔を確認し、必要な数値を書き足した。
「この数値、もう一度測らせてください」
俺は、ラインが動いている状態で、部品の送り出し速度を測り始めた。天井クレーンが頭上を通過する。その動きを目で追いながら、稼働域を計算する。
「この辺りでクレーンが干渉する可能性がありますね」
俺は、その場所をマークし、調整案を考える。
「ここを少しずらせば、干渉を避けられます」
責任者が驚いた顔をする。
「よく気づきましたね」
「現場を見続けてきたからです」
俺は、測った数値を全て手帳にまとめた。工場を出る前に、桐山に会った。
「田瀬さん、進み具合はどうですか?」
「あと2回測れば、設計図をまとめられます」
「頼りにしてます」
桐山は、にこりともせずに言った。
帰社後、俺は設計図をまとめ始めた。だが、部長の広格が俺の机に来た。
「田瀬さん、ちょっといいですか?」
「はい」
「今月の研究、ちょっと厳しいんだけど」
「分かってます。でも、この案件が終われば…」
「その案件、本当に受注できてるの?」
「もちろんです。300億円の案件です」
「へえ。どうやって?」
「俺の実績です。桐山部長から直接依頼されてます」
広格は、鼻で笑った。
「実力の差だ。嫌ならやめれば」
俺は何も言わずに、広格を見つめた。
「月18万で我慢してるんでしょ? それが嫌なら、さっさとやめればいいじゃない」
「…」
「どうせ、大した案件じゃないんでしょ?」
俺は、それ以上何も言わなかった。だが、手帳にはあの日の日付と「300億」という数字が残っている。
翌日、俺は桐山に電話した。
「設計図がまとまりました。明後日、現場で最終確認をしましょう」
「分かりました。楽しみにしています」
俺は、設計図を送る前に、もう一度数値を確認した。何度も測り直した末に、自信を得た。
そして、その週の金曜日。桐山の工場で最終確認が行われた。俺は設計図を広げ、桐山に説明した。
「この部分が、既存ラインとの干渉を避けるための調整箇所です」
桐山は、図面をじっくり見つめた。
「よくここまで詳細に…。信頼できます」
「ありがとうございます」
その場で、契約書に印が押された。
契約が成立した数日後、広格が俺の机に来た。
「田瀬さん、ちょっと聞きたいんだけど…」
「何でしょう」
「あの案件、本当に受注してるの?」
「ええ、先日契約しました」
広格の顔色が変わる。
「何百億って話?」
「300億です」
「…」
広格は、しばらく呆然としていたが、やがて口を開いた。
「じゃあ、あなたが担当してるの?」
「そうです。最初から」
広格は、何も言わずにその場を去った。俺は、その背中を見ながら、机の引き出しから契約書のコピーを取り出して、じっくりと見つめた。
負けたのは、俺じゃない。
翌週、俺は桐山に呼ばれて、工場の現場にいた。新設備の設置が始まっている。
「田瀬さん、あの時、よく気づきましたね」
桐山が、クレーンの干渉のことを言っている。
「何度も現場に通った結果です」
「あなたのような設計者がいて、よかった」
俺は、ラインの動きを見ながら、手帳を閉じた。あの日、広格に言われた言葉が、今はもう何の重みも持っていない。
「実力の差だ」
確かに、実力の差だ。



