隣の席に置かれた離婚届。義母が湯飲みを置きながら笑った。
「次の嫁はもっといい人よ。」
食卓の真ん中には、捺印したばかりの書類が広がっていた。夫の姉が冷蔵庫を開けたまま言う。
「家具は置いてってよ。どうせ持って行く宛てもないでしょ。」
夫の妹はスマホから顔も上げずに続けた。
「私、お姉ちゃんの部屋使うからね。前から決めてたし。」
夫が私の署名欄をつまみ上げた。
「お前はもう用済みだ。部屋を片付けて、今すぐ出ていけ。」
「わかりました。」
四人の視線が一斉に私へ集まった。反論すると思っていたのだろう。私はボールペンのキャップを押して、顔を上げた。
「皆さん、本当にこの家に住み続けるんですね。」
「当たり前でしょ。」義母の声が台所まで響いた。
「そうですか。わかりました。」
私は席を立った。黙って署名したのは、諦めたからではない。この人たちには、一つ決定的に勘違いしていることがある。それが何なのか、この食卓の誰もまだ知らない。
私は大和香織、三十五歳。都内の資材メーカーで経理をしている。夫の高幸は三十八歳で、住宅設備の会社の営業だ。結婚して七年になる。
私たちが暮らしているのは、施鉄の駅からバスで十二分の住宅地にある古い一軒家だ。十日も歩けば海が見える。それでも私はこの家が好きだった。
この家は、母方の祖母の初枝が暮らしていた家だ。子供の頃、夏ごとに預けられた。庭の金木犀は祖母が植えたものだ。
祖母は五年前に九十二歳で亡くなった。遺言書には、「この家には香織に住んでほしい」と書かれていた。祖母の子は私の父一人で、その父も十二年前に亡くなっている。母も九年前に亡くなった。相続で揉める相手は初めから誰もいなかった。
結婚してすぐ、私たちはこの家で祖母と暮らし始めた。祖母が亡くなるまでは三人だった。土地も建物も私の名義になった。登記の手続きは私が一人で終わらせ、高幸は書類を一枚も見なかった。
「そういうのはお前の方が得意だろ。」そう言って、彼はソファで野球中継を見ていた。面倒を押し付けられただけだと、その時は思った。違う。あの人は最初から、知らないままでいることを選んだのだ。
付き合っていた頃、高幸は祖母の家に連れて行った時、「いい家だな」と言った。あの言葉が何を指していたのか。私は七年かけて、やっと分かった気がする。
祖母が遺したのは、家だけではなかった。祖母は生前、遺言書とは別に、私に一通の封筒を渡していた。「困った時に開けなさい」と言って。私はそれをタンスの奥にしまい込んだまま、ずっと忘れていた。そんな封筒の存在を、今この瞬間思い出した。
食卓に戻ると、義母が台所から私の実家の住所を書いたメモを持ってきた。
「何かあったら、ここに送ってあげるわよ。」
「いえ、結構です。今日中に全て荷物をまとめますから。」
「あら、そう。じゃあ、鍵はテーブルに置いてってね。」
姉が冷蔵庫を閉めて、妹が立ち上がった。高幸はソファから立ち上がって、私のスーツケースを指さした。
「それ、俺のじゃない。お前のだけだ。」
「ええ、分かってる。」
私は二階へ上がり、寝室のクローゼットを開けた。祖母の封筒は、タンスの一番下の引き出しの底に敷いてあった布団の下に隠していた。生地をめくると、茶封筒が出てきた。表面には祖母の筆跡で「香織へ」と書いてある。
封筒を開けると、中には一枚の紙と、銀行の通帳が入っていた。紙にはこう書いてあった。「香織、もしもの時は、この通帳を使いなさい。ここには私が娘の頃から貯めたお金がある。あなたが使ってくれれば、私も安心する。」
通帳を開けると、残高は三千万円を超えていた。私が気づかなかったのは、高幸が家計を全部握って、私に少ししか生活費を渡していなかったからだ。このお金は、祖母が私のために残してくれたものだ。
私は封筒をバッグの中に入れ、クローゼットの荷物をまとめ始めた。服、日用品、思い出の品。七年前に祖母と三人で暮らし始めた時から、私が持ち込んだものは一つひとつ、愛着があった。
一階に降りると、義母がテレビを見ていた。高幸はスマホをいじっている。姉と妹は二階の空き部屋を覗いて、さっそく「ここにベッドを置こう」と話し合っていた。
「出ていくわ。鍵はここに置く。」
私はテーブルに鍵を置いた。義母は振り返りもせず、「気をつけてね」と言った。高幸は顔を上げて、「そんなに急いで引っ越し先でも見つけたのか」と笑った。
「まあね。あなたたちがくつろいでいる間に、私はもう決めてたから。」
私はそう言うと、玄関へ向かった。ドアを閉める前に、ばあちゃんの家を振り返った。庭の金木犀が風に揺れている。
私は駅前の不動産屋にへ行って、畳一間のアパートを契約した。今月中に入居できると言われた。荷物は、とりあえず駅前のトランクルームに預けることにした。
翌日、私は会社を辞表を出した。経理の経験を買ってくれた会社が、リモートワークの仕事を紹介してくれた。収入は前より少し下がるけど、生活費を人に握られない自由の方が、ずっと価値がある。
離婚届は、私はあの夜、署名した。でも、あそこに置いてきたのはコピーだった。本物は私が持っている。役所に出すかどうかは、私が決める。高幸は、私が署名した書類を手にした時、彼の口元が歪んだのは見えた。あれは安心か、それとも軽蔑か。どっちでもいい。もうどうでもいい。
アパートに移り住んで、私は祖母の封筒を机の引き出しにしまった。そして、銀行口座の明細を開いた。祖母の通帳の他に、私名義の口座が一つあることに気づいた。記憶にない。
開けてみると、そこには高幸が毎月少しずつ積み立てていたお金が入っていた。理由は分からない。でも、これは私がもらえるものだ。
数週間後、高幸から電話があった。
「どこにいるんだ。こっちは大変なんだよ。」
「どうかしたの?」
「家のローンの名義がお前になってるだろう。銀行が払えないって言いやがって。」
「あら、そう。だって、あの家は私の名義よ。あなたは相続放棄したじゃない。」
「何言ってるんだ。登記は俺がやってたんだぞ。」
「いいえ。登記手続きをしたのは私よ。あなたは何も見なかったし、聞かなかった。私が一人でやったでしょ、あなたがソファでテレビを見ている時に。」
電話の向こうで、高幸が黙り込んだ。私は受話器を置いた。
私は新しく始めた仕事を続けている。アパートの窓からは海が見える。ばあちゃんが好きだった海だ。庭の金木犀の木は、あの家に残してきたけど、また新しい家に植えようと思う。
私は自由になった。


