あの日、夕方8時の団地の階段で、私は何気なく挟まれた紙を手に取った。白い紙には、政府の印が押されていた。「京都市建設局」の文字を見た瞬間、私は自分の年齢を思い知った。68歳、誰にも頼れない独りの身。長年住み慣れた部屋を、半年後に明け渡せという。心臓が凍るような感覚だった。あの日から、私は寝込むように隠れてきた。だが、今度は黙ってはいられない。この報せを突き返す方法は、たった一つしか残されてい…

あの日、夕方8時の団地の階段で、私は何気なく挟まれた紙を手に取った。白い紙には、政府の印が押されていた。「京都市建設局」の文字を見た瞬間、私は自分の年齢を思い知った。68歳、誰にも頼れない独りの身。長年住み慣れた部屋を、半年後に明け渡せという。心臓が凍るような感覚だった。あの日から、私は寝込むように隠れてきた。だが、今度は黙ってはいられない。この報せを突き返す方法は、たった一つしか残されてい...

あの日、私は古びた団地の階段の前に立っていた。6月の夕暮れ、手中のビニール袋には半額シールの貼られた春巻きと、傷み始めたトマトが入っていた。明日の朝食にするつもりで、節約のために工夫して買ったものだ。

4階まで上がるには、塗装が剥がれた手すりを頼りに、息を切らしながら高い階段を登らなければならない。エレベーターはない。廊下には各家庭の物がはみ出し、ポストの前には誰のものか分からない傘が何本も立てかけられていた。夕方になると、どこかの部屋から油と醤油の焦げた匂いが漂ってきて、それがまだここに人が生きている証拠のように感じられた。

私は68歳。小柄で、年齢より細く見えるが、歩くのは意外に速い。白髪が目立ち始めたのを隠すように、安く巻いてもらったパーマが毛先に残っている。今日も、変色した薄いカーディガンを羽織っていた。夏なのに半袖で外に出る勇気はない。これから先もずっとそうだろうと、自分でも思っていた。

夜の8時を過ぎた頃、私はスーパーの半額シールが貼られた袋を両手に下げて団地の入口に差しかかった。1段目の階段に足をかけた時、目の端に何か白いものが映った。扉の隙間に紙が挟まっていた。

足を止め、その紙を引き抜いた。紋の白い紙で、右上に赤い印が押されており、京都市建設局という文字が見えた。心臓が一瞬、変なリズムで縮んだ。

シミュレーションは何度もしていた。玄関先で彼らが何と言うか、私はどう答えるか。しかし、いざその瞬間が来ると、何も思い浮かばない。

紙を開くと、そこには確かに「公営住宅立ち退き」の通知が書かれていた。長年住み続けたこの部屋を、今年度中に明け渡せという内容。書面には、都市の再開発のための移転先として、遠い郊外の仮設住宅の地図が添えられていた。

私はその場で立ち尽くした。手が震え、紙が揺れた。あの階段を登り、47年住み続けたあの部屋が、もうここにはない場所へ移されようとしている。

息を整え、一段一段をゆっくりと登った。鍵を開け、部屋に入る。薄暗い室内には、私の生活の全てがあった。古い座椅子、茶碗が一つだけ置かれた小さなテーブル、壁のカレンダーは6月のまま止まっている。私は紙をテーブルに置き、窓の外を見た。夕闇が迫る街の景観が見えた。この景色を見るのは、あともう何回だろう。

翌朝、私は決めた。このまま黙って立ち退くわけにはいかない。老いていく身体で、新しい場所に根を下ろすことはできない。私には、ここに残る権利があるはずだ。

私はまず、同じ団地に住む顔見知りの老人たちに話を聞くことにした。1階の大家代の奥さんは、立ち退きに対する不満を漏らした。隣の部屋の男も、同様の通知を受け取っていた。私は彼らと共に、団地の管理組合の前で抗議の声を上げる決意を固めた。

1週間後、私は市役所に相談に行った。窓口の若い職員は、事務的に書類を見ながら「こちらが規定ですので」と繰り返すだけだった。私は、自分の年齢と持病のことを説明し、移転が難しいと訴えた。職員の目には、少しの同情の色が浮かんだが、決定的な答えは得られなかった。

それでも私は諦めなかった。法律相談所に電話し、無料の相談日を予約した。娘にはずっと連絡をしていなかったが、この時ばかりは電話をかけた。娘の声は冷たかった。「勝手に決めたんでしょ、それで」とだけ言って、突き放すように電話を切られた。

それから私は、通知への異議申し立ての準備を始めた。書き慣れない文章を必死にまとめ、証拠として持病の診断書を取り寄せた。面接は何度も聞き返した。誰かに頼るのは苦手だ。それでも、動かなければ何も変わらない。

月が変わる頃、私は市役所の再審査の面接に呼ばれた。窓口の奥の部屋で、担当者と向き合った。私は持病の詳しい説明をし、どうしてもここに残りたいと伝えた。担当者は書類をしばらく見つめ、こう言った。「一定の理由がある場合、期限を延長できる可能性もあります。但し、恒久的な解決にはなりません」

私は横にうなずいた。それでいい。少なくとも、今すぐ出て行かなくて済むのだ。

帰り道、私はまた団地の階段を登った。エレベーターのない、あの古い階段を。ふと壁に目をやると、移転を促す張り紙が新しく貼られているのが見えた。それでも私は、あの紙を握りしめた。今は、この手の小さな抵抗が、私に残された全てだった。

私は部屋に戻り、立ち退き通知の紙を、古い引き出しの奥にしまった。まだ先は長い。だが、私はこの場所を守るために動き続ける。誰にも、私の人生の場所を勝手に決めさせるわけにはいかない。

Thumbnail