「このボロ宿屋への融資は一切ありません。さっさと土地を売るか、今すぐ2億円を返してください」…

「このボロ宿屋への融資は一切ありません。さっさと土地を売るか、今すぐ2億円を返してください」...

「はっきり言います。このボロ宿屋への融資は一切ありません。25歳の素人に旅館が経営できると本気で思っているんですか?さっさと土地を売るか、今すぐ2億円を返してください。」

テーブルを挟んで、支店長の藤堂徹也と桐山里が向かい合っていた。11月4日火曜日、午後2時。第一漢方銀行橋支店の応接室。里の前に一枚の紙が置かれていた。融資打ち切り通知書だった。

「2億円、60日以内にご返済ください。難しければ土地の売却も視野に入れてください。こんなボロ宿屋への融資はもう一切ありえません」

藤堂は言い切った。腕を組んで里を見た。若い子が旅館を継いでも、どうせ限界だろう。そう思っていた。

里は書類に目を落としたまま動かなかった。

「わかりました」

それだけだった。

藤堂は部下に「思ったより早く終わった」と報告した。里は支店を出た。11月の空気が冷たかった。九段の坂を一歩一歩登っていった。「ボロ宿屋」という言葉が頭の中に残っていた。でも足は止まらなかった。

「お父さん、旅館、まだ守ってるよ。あと少しで返せる。絶対に手放さないから」

旅館の門が見えた。木造の暖簾が風に揺れていた。

翌朝、午前9時2分。第一漢方銀行本店23階、融資室。三村政治62歳。直通番号の電話が鳴った。ほとんど鳴らない番号だった。受話器を取った。

「三村です」

「桐山里と申します。祖父、桐山泰造の孫です」

三村の手が止まった。

「桐山泰造さんのお孫さんですか?」

「昨日、九段橋支店長より融資の件で通知を受けました」

三村は立ち上がった。受話器を持つ手が震えていた。

同じ時刻、橋支店では藤堂が部下に言った。「山霞旅館の案件は法的手続きに移行する。午後に書類の準備を頼む」

ドアがノックされた。行員が封筒を差し出した。「支店長、融資室からお呼びです。今すぐ来てくださいと」

藤堂は眉をひそめた。今すぐ、なぜ呼ばれるのか。彼にはまだ分からなかった。

これは25歳の若者が父を失って3年間守り続けた旅館の物語だ。そして、知らなかった者が知るべきことを知る物語でもある。

時間は6ヶ月前に戻る。5月の第1週、月曜日。東京千代田区九段、第一漢方銀行橋支店の廊下。ダンボールを抱えた前任店長の田中が藤堂に声をかけた。

「藤堂君、山霞旅館さんのことだが」

「ああ、2億の融資先ですね」

「あそこの桐山家には気をつけろよ」

「どういう意味ですか?」

「ちゃんと引き継ぎ書を読んでくれれば分かるから」

田中はダンボールを抱え直して歩いていった。藤堂は「引き継ぎ書、どこだっけ」と思いながら自席に戻った。田中が残した引き継ぎ書の束は棚の奥に置かれた。読まれなかった。

藤堂哲也、42歳。東大経済学部卒。これまで7つの支店を渡り歩き、全支店でV字回復を達成した。本部から受けた指令は九段橋支店の負債先を整理せよ。要は負債を綺麗にして業績を上げればいい。いつも通りだ。

5月の第3週、藤堂は山霞旅館に初めて足を踏み入れた。油断の坂を登った先、古い門構え。山霞と書かれた木の看板、塗料が少しはげていた。その先に小さな離れが4つ並んでいた。

玄関を入ると、和装の女性が頭を下げた。

「ようこそおいでくださいました。女将の桐山里でございます」

25歳と資料には書いてあった。確かに若い。藤堂は大広間に通された。古い建物は昭和のまま、廊下が少しきしむ。想定通りだな、と藤堂は思った。

「桐山さん、融資の現状についてお話があります」

里は静かに頷いた。

「本部から融資基準の見直しを求められています。現在の稼働率と収益では継続が難しい状態です。計画書を60日以内に提出していただけますか?」

「作成いたします」

「旅館の実情もご説明できれば」

「数字で見せていただければ結構です」

里は黙って頷いた。藤堂は立ち上がった。帰り際、藤堂は廊下を歩きながら言った。

「ここ、耐震的に大丈夫ですか?しみが気になりますね」

「確認します」と里は答えた。

藤堂が出ていった。西川が玄関で見送った。

「嫌な雰囲気の方でしたね」

「大丈夫です。ちゃんと対応します」

西川は黙って里の顔を見た。「女将、無理しないでください」とは言えなかった。

6月、里は改善計画書を提出した。藤堂の部下、松本が内容を確認した。

「かなり丁寧な計画書だ。数字も正確だし」

藤堂は見た。「不十分です」と付けた。

7月、また不十分。8月、また不十分。9月も10月も繰り返した。

藤堂は毎月1度、視察と称して旅館を訪れた。来るたびに余計なことを一言言った。

「廊下のきしみ、耐震的にも問題でしょうね」

「稼働率40%ではどう計算しても返済は難しい」

「常連客の平均年齢は何歳ですか?高齢化しているでしょう」

里は毎回静かに答えた。怒らなかった。反論しなかった。

「正直に言いますが、もう土地を売る時期ではないですか」

それを言われた日、里は「そうですか」と返した。帰り道、藤堂は「折れかけている」と思った。しかし西川は知っていた。その夜も里が帳場前に1人で机に向かっていること。

「今日も遅くなりますか?」

「大丈夫です。西川さん、もう少しだから」

西川は廊下に出た。古い柱に手をついた。

「旦那様が見ていたら、何と言うか」

里が旅館を継いで最初の冬、暖房設備が壊れた。修理費100万円。業者から「強中に決めて欲しい」と言われた。里は電話を受けながら帳簿を開いた。ある。今月はなんとかある。

「ではお願いします」と言った。電話を切った。手が少し震えていた。西川に気づかれないように奥に引っ込んだ。夜中、1人でトイレで泣いた。誰かに頼りたい。でも頼れる人がいない。それも分かっていた。

翌朝、里は着物を着て笑顔で玄関に立った。「おはようございます。いってらっしゃいませ」誰も昨夜のことを知らなかった。それが里の3年間だった。

桐山里、25歳。3年前、父、桐山孝志が突然倒れた。バイク事故。まだ47歳だった。その1ヶ月後、母・秋子が体調を崩して入院した。里は大学を出てから父と肩を並べて旅館で働いていた。「継ぐのはもう少し先でいい」と父は言っていた。「里はまだ若い。もう少し外の世界を見てから」

先は突然来なくなった。22歳で1人で旅館を継いだ。3年間、1度も閉めなかった。

「ここはお父さんが守った場所だから」

それだけが里の理由だった。

大学を卒業した春、里は父と旅館で並んで働いていた。ある朝、常連の老夫婦がチェックアウトしていった。

「また来ます。ここじゃないとね」

父・孝志は玄関で頭を下げ、2人を見送った。振り返った時、里は父の横顔を見た。目が少し赤くなっていた。

「お父さん、泣いてるの?」

「まあなあ、20年来てくださってる方だから」

里はそういうものかと思った。廊下を歩きながら、父が古い柱に手を当てた。

「この柱、100年の木だ。里、この旅館はお前が思うより大きいものを背負っている」

「どういう意味?」

「いつかわかる。その時まで覚えておきなさい」

3ヶ月後、父は亡くなった。その時はまだ来ていなかった。

桐山泰造の話をしなければならない。1952年、東京九段生まれ、現在74歳。父が終戦直後に始めた山霞旅館を20代で引き継いだ。だが、体は旅館だけに収まらなかった。

「旅館だけで生きていれば、旅館しか残らない」

昭和30〜40年代、高度経済成長期。この町の土地は必ず価値が上がると確信して買い進めた。親族に「旅館屋が土地を」と笑われた。

「人は黙って見ておればいい。数字は嘘をつかない」

その言葉通り、土地の価値は数十年で何十倍にもなった。バブル期に一部を売却した。残した中に、千代田区九段の2000坪の土地があった。第一方銀行本店が立っている場所だ。

昭和51年。当時の融資部長が泰造に頭を下げた。「是非、本店の土地として貸していただけないか?」泰造は承諾した。ただし、条件を1つつけた。

「地代は市場価格の0. 7掛けでいい。その代わり、この旅館が経営難に陥った時、貴行は必ず支援すること」

50年前の約束だった。

三村政治が九段橋支店長として着任したのは25年前。泰造と向かい合い、帳簿を読み、この約束の重さを理解した。

「桐山家は当行の基盤そのものだ」

着任初日、泰造が旅館へ招いた。縁側でお茶を出した。三村は帳簿を読みながら1つ聞いた。

「なぜ本店の土地だけ売らないのですか?」

泰造は庭を見ながら少し間を置いた。

「ここに商売の根っこがある。根っこを売れば木は死ぬ」

三村は何も言えなかった。この人は利益だけで動いていない。そう思った。帰り際、三村は玄関で深く頭を下げた。

「必ず約束を守ります」

泰造は「よろしく頼む」とだけ返した。その一言が25年後も生きていた。そのメモは特別顧客管理台帳に閉じられ、本店に送られた。三村が融資部長になった後も、台帳はそのまま残っていた。しかし藤堂には渡されていなかった。田中が退職の日に「気をつけろ」と言ったのも、その台帳を手渡そうとして藤堂が断ったからだった。

「引き継ぎ資料は電子データで十分」

時代は変わった。

泰造が里に帳簿を渡したのは、里が18歳の秋だった。

「これはいざという時のためのものだ」

台帳には権利書、口座情報、そして最後のページに鉛筆で書かれた1行。「三村政治」と11桁の番号。

「お前が判断する時が来たら使え」

里は「いざという時」がいつ来るかずっと考えていた。まだその時ではないと思い続けてきた3年間だった。

11月に入り、藤堂から連絡が来た。正式な面談の場を設けたい。支店の応接室でと指定した。里は着物を着て九段の坂を降りた。イチョウの葉が黄色く舞い散る。11月4日の午後だった。

冒頭に戻る。「わかりました」の一言を残して、里は支店を出た。藤堂は部下に「問題なく処理できる」と報告した。「60日後、土地を売ってくる。それだけだ」

里は九段の坂を登った。旅館に戻り、着物のまま祖父に電話した。

「おじいちゃん、今日、銀行から通知をもらった」

「どんな?」

「2億円を60日で返せと。じゃなければ土地を売れと」

電話の向こうで泰造は黙った。

「支店長は何と言った?」

「ボロ宿屋への融資はもう一切ありえないと」

しばらく沈黙。やがて泰造は静かに笑った。

「里、どうする?」

里は窓の外を見た。九段のイチョウが黄色く揺れていた。3年間守ってきた旅館。父が愛した場所。

「おじいちゃんの台帳、使っていい?」

電話の向こうで泰造は少し間を置いた。

「ずっとお前が決める時を待っておった。やれ」

里はその夜、台帳の最後のページを開いた。鉛筆で書かれた名前と番号。三村政治。

翌朝8時55分、里は台帳を手に電話の前に座っていた。三村政治という名前と11桁の番号。

「これはいざという時のためのものだ」

18歳の里に台帳を渡したあの日の泰造の声が蘇った。いざという時。まだじゃないか。もう少し自分でなんとかできる。3年間そう思い続けた。でも今日はもう限界だった。旅館のために、父のために、母のために。そして3年間ここで働いてくれた西川のために。

9時ちょうど、里は深呼吸をして番号を押した。コール音が2回。受話器が取られた。

「三村です」

里は1秒間目を閉じた。

「桐山里と申します。祖父、桐山泰造の孫です」

融資室のシーンに戻る。三村は受話器を持ったまま窓の外を見た。1400億円の預金と本店の土地の件。三村は保留にした。すぐに副部長の江口を呼んだ。

「桐山家から連絡が来た。桐山泰造さんの孫娘だ。昨日、九段橋の藤堂が融資打ち切りを通告した」

江口は書類を置いた。顔が変わった。

「藤堂支店長は桐山家の全座を確認したのですか?」

「していない。土地の件も言及してきた」

「本店の定期借地権は今年12月31日が更新期限です」

「そうだ。もし更新されなければ、本店を移転する以外にありません」

2人は向かい合ったまま、しばらく黙っていた。千代田区に代替地を探すとなれば、2年3年では足りない。三村は受話器に戻った。

「桐山さん、少しだけお時間をいただけますか?必ず本日中にご連絡いたします」

「よろしくお願いします」

「融資の件は、対応次第で判断します」

三村は受話器を置いた。江口に一言だけ言った。

「藤堂を今すぐ呼べ」

同じ時刻、九段橋支店。藤堂は封筒を受け取った。「今すぐ来てください」という一文。融資部長が自分を。藤堂は首をかしげながら外に出た。タクシーで本店へ。エレベーターで23階へ。融資室のドアを開けた。三村と江口が待っていた。2人の顔を見た瞬間、何かが違うと感じた。

「座ってください」

藤堂は座った。

「山霞旅館の件、昨日融資打ち切りを通知したそうですね」

「はい。融資審査の結果、継続は不可能との判断を」

「桐山里さんの口座を確認しましたか?」

「2億円の融資先です。収支から見て」

「里さんの口座だけではありません。桐山家全座を確認しましたが」

「全座」という言葉に、藤堂は初めて引っかかりを感じた。

「特別顧客管理台帳は前任者から引き継ぎましたか?」

「特別顧客台帳?聞いていません」

江口はファイルを開き、藤堂の前に静かに置いた。

「桐山泰造様、預金残高1400億2800万円」

藤堂の目が止まった。

「桐山家は当行最大の個人預金主です。30年以上、九段橋支店でお預かりしてきました」

藤堂は書類を見たまま動けなかった。

「それだけではありません」

三村は別のファイルを藤堂の前に開いた。

「本店の所在地、千代田区九段の土地の所有者です。権利書に桐山という名前があった」

本店の土地。定期借地権の更新期限は今年の12月31日。藤堂は椅子の上で固まった。

1400億円の預金主に融資打ち切りを通告した。本店の土地の地主に土地を売れと言った。自分の言葉が頭の中で再生された。

「こんなボロ宿屋への融資はもう一切ありえません」

「さっさと土地を売るか、今すぐ2億返せ」

自分の声が今になって正確に聞こえた。

「藤堂さん、昨日、桐山さんに何とおっしゃいましたか?」

「ボロ宿屋への融資はありえないと。土地を売るか2億返せと」

三村は目を閉じた。50年前の約束が今、崩れていた。

「桐山家は本日、銀行への全額預金引き出しを申し出ています。1400億円の年間利息収益で換算すると」

江口は言葉を止めた。言わなくても分かるから。

藤堂は椅子の上で俯いたまま動かなかった。なぜ融資室に呼ばれたのか、6分前まで分からなかった。ボロ宿屋への融資打ち切りを褒められるのかとさえ思っていた。その答えが今、目の前にある。1400億円という数字が書類から離れなかった。

「藤堂さん、あなたは何を根拠に動きましたか?」

「本部からの指示で負債融資の整理を。桐山家の全座を確認せず、把握していませんでした。前任者の引き継ぎも読めていませんでした」

沈黙が続いた。三村は立ち上がり、窓の外を見た。本店の窓から見える九段の町。その土地の下に桐山泰造の権利書がある。

「藤堂さん、辞令を出します」

藤堂は顔を上げた。

「来週より、岩手県・花巻市への移動です」

一瞬、何を言われたか分からなかった。

「花巻ですか?」

「辞令書は本日中に届けます」

藤堂が部屋を出た後、三村は江口に言った。

「本部の水野を呼んでくれ」

水野優一郎。融資管理本部長、55歳。藤堂に負債の整理を指令した人物だった。水野が融資室に入ってきた。三村が書類を開いた。

「桐山家全座を確認せず、審査指令を出したのは本部ですね」

水野は口元を引き締めた。

「特別顧客管理台帳は本部にも保管されていたはずです」

「確認できていませんでした」

「できていなかったでは済みません。支店への管理責任を取ってもらいます」

3日後、水野の役職は融資管理本部長から審査室長へ降格された。九段橋支店だけの問題ではなかった。本部の体制そのものが問われた。

廊下を歩きながら、「花巻」という言葉が頭の中で回っていた。東北の地方都市。新幹線で3時間以上。花巻。九段橋支店長から花巻支店長へ。エレベーターが来た。藤堂は乗り込んだ。1階のロビーで行員たちが業務をこなしていた。誰も彼を見なかった。

その夜、九段橋支店では松本が1人デスクに残っていた。藤堂の移動通知を見て、しばらく動かなかった。

「桐山さんの計画書、ちゃんと読めばよかった。『不十分です』と付けたのは藤堂支店長だった。私は1度も声を出せなかった」

松本は書類をファイルに閉じた。

翌朝、松本は1人で山霞旅館を尋ねた。スーツのまま九段の坂を登った。玄関で里が迎えた。

「霧島…いえ、桐山さん。突然すみません」

里は松本の顔を見た。見覚えがあった。藤堂の隣にいた行員だった。

「計画書、私も何度も読みました。ちゃんとした計画書でした。数字も考え方も。それなのに、1度も声を出せませんでした」

松本は頭を下げた。しばらく上げなかった。里はしばらく松本の頭頂部を見ていた。誰かに頭を下げられることに、まだ慣れていなかった。

「顔を上げてください」

「申し訳ありませんでした」

「気づいてくれていたんですね。それだけで十分です」

松本は顔を上げた。目が赤くなっていた。玄関を出た後、松本は振り返らずに坂を降りた。

翌日の昼、三村は自ら山霞旅館を訪れた。スーツに着替え、1人でタクシーで来た。玄関で里が迎えた。

「桐山さん、昨日は大変な思いをさせてしまいました」

三村は深く長く頭を下げた。里は「どうぞお入りください」と言った。大広間。藤堂が「ボロ宿屋」と言ったのと同じ部屋だった。

「藤堂については、機能付けで移動の辞令を出しました。前任者からの引き継ぎが不十分だったことも、当行の管理責任です。深くお詫び申し上げます」

三村は再び頭を下げた。里はしばらく三村の頭頂部を見ていた。

「融資部長は25年前、九段橋支店長でしたね」

「はい。その時、泰造さんに大変お世話になりました」

「祖父から聞いていました。三村さんという方が、50年前の約束を最後まで守ってくださったと」

三村は顔を上げた。目が赤くなっていた。

「泰造さんは今もお元気ですか?」

「はい。74歳で今も元気です」

三村は少しほっとした顔をした。

「融資については、改めて継続のご提案をさせてください。旅館の改修や運営支援も含め、できる限りのことを」

「ありがとうございます」

里は少し間を置いた。

「でも、旅館は自分たちでやります」

三村は里の顔を見た。

「融資は現状のままで結構です。2億円は予定通りお返しします」

三村は目を細めた。

「泰造さんに似ておられる」

「そうでしょうか」

「条件を出して、自分では使わない。そういう方でした」

里は小さく笑った。

三村が帰った後、里は大広間に1人で残った。藤堂が「ボロ宿屋」と言ったテーブルをしばらく見ていた。3年間、毎月この言葉を受け続けた。「予算を売れ」「稼働率が低い」「耐震が問題だ」。里は立ち上がり、廊下に出た。古い柱にそっと手を当てた。

「お父さん、終わったよ」

声には出さなかった。でも唇は動いた。柱はいつもと変わらず温かかった。

里は廊下を歩いた。西川が縁側で掃除をしていた。

「西川さん、終わりました」

「どうなりましたか?」

「融資部長が謝りに来てくれました。融資も継続です」

西川は箒を置いた。しばらく里の顔を見た。

「旦那様のおかげですね」

「おじいちゃんのおかげです」

「いいえ。女将がいたからです」

里は何も言わなかった。ただ頷いた。

しばらくして、里は祖父に電話した。

「おじいちゃん、終わった。旅館、守れた」

「そうか」

電話の向こうで泰造は目を閉じた。「孝志、見ておったか」小さな声だった。里には聞こえなかった。

藤堂哲也は3日後、花巻へ向かった。新幹線の窓から東北の山々が流れていった。鞄の中に辞令書が入っていた。「花巻支店長」という文字を見るたびに、顔が熱くなった。

着任初日、支店には7名の行員がいた。藤堂が「全員の業績データを出してくれ」と言った。

「うちには業績目標がありません。地元の中小企業さんの相談窓口が主な仕事です」

藤堂は「なるほど」と言った。窓から花巻の港が見えた。漁船が並んでいた。九段橋支店長の名刺はもう使えない。花巻支店長、藤堂哲也。新しい名刺を初めて受け取った。小さな文字、目立たない肩書き。藤堂はその名刺をしばらく見つめていた。

田中さんが言っていた。「桐山家には気をつけろ」と。あの言葉の意味を今になって理解した。藤堂は窓辺の椅子に座り、港の風景を見た。数字を見ろと言い続けた自分が、一番肝心な数字を見ていなかった。花巻の風がガラス越しに音を立てた。

「知ればよかった。いや、知るべきだった」

それだけだった。

花巻での日々が始まった。朝8時45分に出勤すると、行員たちが「おはようございます」と言った。以前は自分が「おはよう」と言う側だった。今は言われる側になった。

「今日、地元の漁協さんが融資相談に来ます」

「わかった。準備を頼む」

相談。かつては部下に任せていた。今は自分が対応する。年配の漁師が来た。訛りのある言葉で話した。

「船のエンジンを変えたいんだが、うまくいかなくて」

藤堂は書類を広げた。「状況を教えてください」と言った。30分間、藤堂は漁師の話を聞き続けた。「数字で見せろ」という言葉は1度も出なかった。

漁師が帰り際に言った。「ありがとう。話を聞いてもらえるとは思わんかった」

藤堂は頭を下げた。「またいつでも来てください」と言った。

夕方、藤堂は1人で港沿いを歩いた。波の音が聞こえた。東京にはない音だった。九段橋支店長だった頃、部下の話を聞いたことがあったか。里さんの話を本当に聞いたことがあったか?藤堂は足を止めた。波をしばらく見ていた。

「里さんに謝っていない」

花巻に来て2ヶ月が過ぎた冬の夜、藤堂は机の前に座った。便箋を1枚出した。ペンを持った。しばらく止まった。「山霞旅館 桐山里様」と書いた。それからゆっくりと書き始めた。

「私は大切なものを全て数字に換算しようとしていました。予算は数字ではなかった。あなたが3年間守ったものは、100年分の人の気持ちだった。今は分かります。直接謝る資格は自分にはないと思っています。ただ、知らせていただいたことに感謝しています」

封筒に入れ、切手を貼ってポストに入れた。返事は来なかった。でもそれでよかった。

手紙は冬の朝、山霞旅館に届いた。西川が「女将、これが」と差し出した。里は封筒を受け取り、窓の前に立って読んだ。読み終わった。一度折りたんだ。

「わかりました」

小さく、それだけ言った。最初に「わかりました」と言った日から、もう何ヶ月も経っていた。あの時と同じ言葉なのに、意味が変わっていた。

翌年3月、山霞旅館の改修工事が始まった。里が発注した。銀行ではなく、泰造の自己資金で。「予算を守る金は特に用意してある。ただ、お前が自分で動くのを待っておった」

工事は3ヶ月かけて行われた。耐震補強、浴室の拡張、廊下の張り替え。きしんでいたあの廊下が新しい木材に変わった。でも「雰囲気は残してください」と里は職人に頼んだ。

「100年の雰囲気を出すのは難しいですよ」

「お願いします。ここが変わっても、ここでなければ」

職人は首をかしげながらも、丁寧にやってくれた。

完成の日、西川が新しい廊下を歩いた。

「ついに完成しましたね、女将」

「はい。父が言っていたことを、ようやく実現できました」

「旦那様もきっと喜ばれますね」

里は頷いた。目を細めた。入院中の母・秋子にも電話で伝えた。

「里、よく頑張ったね。お父さんもきっと喜んでいる」

「うん。あとはお母さんが元気になってくれれば」

「元気になる。必ず山霞に戻る」

その言葉が里には何より嬉しかった。

夏、秋子が退院した。白いワンピースを着て、タクシーで旅館に帰ってきた。玄関で里と西川が迎えた。

「お帰りなさいませ」

「女将のお母様」

「西川さん、長い間、里をよろしくお願いしますと言い続けてたわ」

西川は「もったいないお言葉です」と頭を下げた。目が赤くなっていた。

秋子は新しい廊下を歩いた。

「綺麗になったね。でも雰囲気は同じでしょ」

「うん。ここだって感じがする」

「お父さんが大好きだった廊下だもの」

秋子が振り返って里を見た。

「ありがとう、里」

里は「何が?」と言いかけた。でも分かっていた。「守ってくれてありがとう」という意味だと。

改修が完成した最初の週末、ある夫婦が予約を入れた。西川が予約を見て里を呼んだ。

「女将、山口様です。20年以上通っていただいている方です」

里は「そうか」と思った。父が送り出したあの老夫婦だ。

当日、玄関に2人が立っていた。

「綺麗になったね。でも、ここだな」

「変わったのに、ちゃんとここだわ。不思議ね」

里は深く頭を下げた。「ようこそ山霞旅館へ。お待ちしておりました」

老夫婦が廊下を歩いていった。父がいたら何と言っただろう?里はそっと思った。きっと目を赤くしながら見送っていたと思う。

ある春の休日、里は泰造の家を尋ねた。縁側に2人で並んで庭を眺めた。泰造は緑茶を一口飲んで、静かに言った。

「でかいことをしたなあ、里」

「でも、正直怖かった」

「そうか」

「おじいちゃんが最初から動いてくれればよかったのに、とも思った」

泰造は茶碗を置いた。

「俺が動けば、俺の旅館になる。お前が動いたから、お前の旅館になった」

里はしばらく庭を見ていた。

「そういうことか」

泰造は何も言わなかった。ただ緑茶をもう一口飲んだ。縁側に差し込む午後の日差しが温かかった。

ある休日、里は泰造と2人で九段の墓地を訪れた。桐山孝志の墓。父の名前が白い墓石に刻まれていた。里は線香を立て、白い菊を2本置いた。泰造は隣で黙ってそれを見ていた。里は手を合わせた。目を閉じた。父と働いていたあの春がふと浮かんだ。「この柱、100年の木だ」という声が聞こえた気がした。

「お父さん、守ったよ。旅館」

声が出た。次の瞬間、目の奥が熱くなった。里は泣いた。初めて父の前で泣いた。3年間、ずっと「泣いたら終わりだ」と思っていた。でも終わらなかったから、今ここに立てていた。

泰造は何も言わなかった。ただ里の隣に静かに立っていた。

「孝志、お前の娘が帰ってきたぞ」

小さな声だった。里には聞こえていた。

秋の空は高く青かった。

知らないことは罪ではない。しかし、知ろうとしないことは罪だ。数字を見ろと言った男は、一番肝心な数字を見ていなかった。売れと言った場所を、100年間誰も売らなかった。

桐山里は特別なことをしたわけではない。ただ、父が愛した場所を守りたかっただけだ。

山霞旅館の物語は、まだ始まったばかりだった。

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