雨の日、庭の真ん中で炎が音を立てて燃え上がっていた。雪野が唯一の誇りとしていた単金色の婚礼衣装が、門前で黒く焼け落ちていく。大店の若旦那である道之助は、虫けらでも見るような冷たい目で雪野を見つけ、こう言い放った。
「この埋めぬ不吉な女を、我が家の嫁にはできぬ」
親族一同が見守るその場で、今川家は雪野を表通りへ叩き出した。追い打ちをかけるように、実の母までもが娘を見捨てて固く門を閉ざした。
「私には5人の子がいる。共に来て、あの子らの母になってはくれぬか」
雪野の運命がこれからどう転がっていくのか、共に見届けていきましょう。
三つの時、家同士の間で縁が決められた。相手は江戸で名の知れた大店の若旦那、道之助であった。雪野は相手の顔を見たことがない。女が門の外へ出ることは許されていなかった。その代わり、雪野には小さく静かな部屋が与えられていた。隣の部屋からは兄が読む声が低く聞こえてくる。雪野は針を手に座り、その声にじっと耳を傾け、指先で畳の上に文字をなぞった。誰も雪野が文字を読めることを知らなかった。それは雪野だけの小さな秘密だった。
良き家に生まれ育ちながら、生涯一度も表の外を見ることのない娘たちがいる。雪野の日々はまさにそうだった。だが雪野は不平を口にすることがなかった。ただ朝が来れば針を取り、日が暮れれば枠を閉まった。
婚礼を明日に控えた夜のことだった。手にしていた糸は小金色の禁糸。布の上には鳳凰の翼がまだ半分だけ姿を表していた。この刺繍はただの刺繍ではない。明日出会う夫に初めて差し出す贈り物だった。他人の手を借りず、ただ自分の手だけで最初から最後まで仕上げた唯一の品だった。
襖が開き、母が入ってきた。母は雪野の傍らに座り、しばらく何も言わなかった。褒め言葉は出てこなかった。母はただ刺繍をじっと見下ろしていたが、やがて立ち上がった。振り向かぬまま一言だけ言い残して出ていった。
「もう火を消してお休み」
母の声には説明のつかない違和感が残っていた。
翌朝が明けた。観光色の婚礼衣装が雪野の体に着せられた。雪野は身支度を整えながら、昨夜手がけていた刺繍枠を小さな布に包み、自分の風呂敷包みの奥深くにしまい込んだ。門前には篭が待っていた。顔を覆う赤い綿帽子が下ろされ、視界は全て赤に覆われた。揺れる篭の中で雪野は風呂敷を固く握りしめた。篭は江戸の大通りへと進み始めた。その道の果てに何が待ち受けているのか、雪野は知るよしもなかった。
篭が石段の前に下ろされた。蓋を覆っていた赤い布が乱暴に引き上げられた。一枚の紙が雪野の膝の上に落とされた。紙の端には赤い陰番がくっきりと押されていた。祝いに集まった人々で満ちていた庭は、立ちまち静まり返った。空からは春の雨が降り始めた。
庭に立つ花婿の道之助が、紙を広げて手にした。彼は庭に集まった人々に向かってそれを大声で読み上げた。
「この女は埋めぬ運命である」
という言葉が一分ごとに連なっていた。道之助の声にためらいはなかった。
下人が縁側に立ち、静かに手を上げた。二人の下男が前に歩み出て、雪野の婚礼衣装を剥ぎ取っていった。雪野は慌てなかった。庭の真ん中に小さな炎が上がり、衣装が焼けていく。雪野を送り届けてきた親族たちも追われるように門の外へと消えていった。誰一人前に出るものはいなかった。
雪野は悲鳴をあげなかった。涙も流さなかった。ただ地面に座り、蓋を降りる直前に唯一取り出した小さな刺繍枠を固く握りしめていた。枠の上にはまだ半分だけ縫い上げられた小金色の鳳凰の翼が残っていた。
やがて下人の一人が雪野の腕を掴み、門の外へと引きずり出した。その時、道の木の影に一人の男が立っている姿が雪野の目にとまった。占い師の装束をまとった老いた男だった。男は深く頭を下げたまま、雪野と目を合わせようとしなかった。雪野が見つめると、男は慌てて身をひるがえし、路地の奥へと消えていった。雪野はその男が誰なのか知らなかった。だが逃げるように背を向けたその後ろ姿だけは目に焼きつけた。
雪野はゆっくりと立ち上がり、鳳凰の翼が描かれた刺繍枠を手に、実家へと向かった。道の果てには大きな欅の門が立っていた。両手を上げ、分厚い木戸を叩いた。
「父上、母上、雪野です」
雪野の声は小さかった。内側から土を踏む音が聞こえてきた。分厚い門が少し開いた。白い朝の着物をまとった父、宗右衛門が立っていた。父は雪野の顔を見なかった。父が見つめていたのは、門の向こうから顔を覗かせている村の者たちだった。
「この家にお前のような娘はおらぬ」
低くきっぱりとした声だった。
「家の恥を塗って戻ってきたものを受け入れる門はどこにもない」
父は雪野に向かってゆっくりと右手を差し出した。雪野は父が自分を助け起こしてくれるのだと思った。だが父の手が向かった先は、雪野が胸に抱いていた刺繍枠だった。父は雪野の手から刺繍枠を奪い取った。土間の隅には朝餉の支度で使った火の残り火がまだくすぶっていた。父は雪野の見ている前で、刺繍枠をその火の中へ投げ入れた。
「二度とこの家の娘とは認めぬ」
感動だという意味だった。小金色の禁糸で縫われていた鳳凰の翼が炎の中で一瞬光を放ち、立ちまち跡方もなく消え去った。炎が上がった瞬間、雪野は渡り廊下の影を見た。母が障子を少しだけ開けて外を覗いていた。目があった瞬間、母は障子を閉め、影の中へと消えていった。
父は後ずさりしながら門の内側へと入っていった。
「二度とこの子に足を踏み入れるな」
大きな欅の門が閉ざされ、重い鉄の閂が下ろされた。雪野は閉ざされた門の前にただ一人立っていた。手の中にはもう何も残っていなかった。誰にも見られていないことを確かめるように辺りを見回すと、自分の両手が小刻みに震えていることに気づいた。失ったのは布切れではなかった。あの半分の翼は、自分が誰かに愛される運命を持って生まれたのだというただ一つの証だった。それすらも灰になった。誰にも見せぬその一瞬の弱さだけが、彼女がまだ生きている証だった。
濡れた土の道の上を木の車輪が転がる音がした。荷車の上から一人の男が地面に降り立った。鍬を握る男の手の甲には、畑仕事のような深いタコが幾重にも重なっていた。頭に被った網笠は縁がすり切れ、新しい藁で荒く縫い継がれた跡が残っていた。男は雪野の前に立ち、しばらく何も言わなかった。ただ黙って、雪野が座り込む濡れた地面を見下ろしていた。
男はゆっくりと網笠を脱ぎ、雪野の頭の上へと傾けてやった。そして雪野の傍らの低い石の上に腰を下ろした。
「この地に百発百中で当てると言われる占い師がいる。男の口調にはいかなる欲もなかった。そのようなものが他人の大切な運命を乱りに口にするはずがない。あなたの顔に投げつけられたあの紙は、誰かが金を払って買ったものだろう」
雪は男の言葉を聞いても顔を向けなかった。だが肩がほんのわずかに震えた。男はしばらく黙っていた。
「あの向こうの山合いに家が一軒ある。子が5人いる。上の子は13。末の子はようやく1つを過ぎたところだ。半年前、妻が去った」
男は淡々と語ったが、その声の底には隠しきれない疲れが滲んでいた。畑を耕し、飯を炊き、5人分の飯を作る日々。男は半年の間、一人で支えてきたのだろう。誰かに助けを求めることも、弱音を吐くことも知らぬまま。
「私は文字も読めぬし、あなたに綺麗な着物を仕立ててやる甲斐性もない。あなたは今すぐ行く当てがなく、私は家のことを任せられるものが今すぐいる」
大げさな約束もなければ薄っぺらな道徳もなかった。それは崖っぷちに追い込まれた二人が交わす、極めて現実的で不器用な取引だった。
雪野はほんのわずかに顔を向け、男の横顔を見た。この男がどのような人物か少しも分からなかった。良い人であるのか、あるいはまた別の過酷な運命が待ち受けているのか、判断の材料がなかった。しかし雪野にはもはや引く場所も、他の門を叩く道も残されていなかった。
男が腰を上げ、雪野の方へ片手を差し出した。雪野の視線は男の差し出された手へと向いた。太く土のついたその不器用な手をじっと見つめながら、雪野は自分の空っぽな両手を見下ろした。ゆっくりと雪野が手を伸ばした。ごく軽い、握るとも言えぬ触れ方だった。
「私を連れて行ってください」
その一言が全てだった。
牛車が再び重い足取りを進め始めた。江戸を離れる長い道のりの間、二人は一言もかわさなかった。山道に入ると空気が目に見えて冷たくなった。震え始めた雪野の方に、男は薬草の束を覆っていた洗い上がりを無造作にかけてやった。ただ藁に包んでいた土のついた布切れだった。それでも雪野には十分すぎるほどのぬくもりだった。
牛車が谷へと下り始めた頃、ずっと沈黙を守っていた男が初めて口を開いた。
「上の子の名はお光と言う。今年で13になる。下に4人も弟妹がいるが、あの子が一番心を開かぬだろう」
男はそれ以上言葉を継がなかった。だが雪はその慎重な口から、自分が向き合うことになる最も険しい壁が何であるかを直感的に悟った。
間もなく牛車が完全に止まった。闇の中に古く低い茅葺きの家がぼんやりと姿を表した。閉ざされた戸の向こうから幼子の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。雪野は荷台に座ったまま、しばらくその家を見つめた。
「私は今、一つの家に見捨てられたばかりだ。この戸の向こうにもまた私を拒む者たちがいるだけではないのか」
半年前に母を失った子供たちが見知らぬ女を素直に迎え入れるはずもない。そう思うと荷台を降りる足がほんの一瞬だけ止まった。だが雪野はその迷いを振り払うように静かに立ち上がった。恐れて立ち止まるくらいなら、恐れたまま前へ進む方がましだった。
荷車を降りながら、男は珍しく言葉を継いだ。
「半年前まで女房が達者な頃は、この家の中にも笑い声があった。私は畑のことしか知らぬ男だ。女房の世話も何もできぬ。女房が死んだ晩、私は苗代で一晩中座り込んでいた。子供らにもう終わりだと言ってしまいそうで、それが怖かった」
男はそこで言葉を切り、それ以上は続けなかった。だが、その一言だけで雪野には、この男もまた何かを失ったものであることが分かった。二人は互いに哀れみを求めているのではなかった。ただ同じ深さの穴を知る者同士が隣合って立っているだけだった。
古い木戸が開いた。部屋の中には冷たく澱んだ空気がこもっていた。床には雨漏りを受ける古い桶が三つ置かれていた。誰かがこの家で雨が降るたびに繰り返してきた、生き抜くための工夫だった。
生涯、絹の匂いの中でしか生きてこなかった者には、息の詰まるような光景だった。だが雪野は動じなかった。奥の藁のゆりかごの中で末の子が泣いていた。柱の影には10歳ほどの子と、それより少し小さな子が身を寄せ合い、雪野と目が合うとすぐに顔を背けた。裏庭では別の男の子が振り向きもせずに鶏に餌を撒き、縁側には一番上の娘が部屋の内側に背を向けて座っていた。
5人の子供たちが、それぞれのやり方で見知らぬ侵入者を全身で拒んでいた。雪野は挨拶をしなかった。手にしていた小さな包みを部屋の隅に置くと、まっすぐ台所へと歩いていった。18年の間、糸を引き続けてきた柔らかな指が濡れた薪を掴んだ。火はなかなかつかず、濃い煙が台所を満たした。雪野は咳をもらす前と唇を強く噛み、涙で視界がぼやけても焚き木を握った手を離さなかった。
その間も末の子の鳴き声はますます激しくなっていた。男が不器用にゆりかごを揺らしても、泣き声は鋭さを増すばかりだった。
蒸せるような煙の中で身を起こした雪野は、泣く子の前へと近づいた。ゆっくりと両手を伸ばし、その子を自分の胸へと抱き上げた。汗と熱でじっとりと濡れた小さな体。雪野は初めて抱く命の重みに一瞬肩を強ばらせたが、やがて子の頭をそっと胸に寄せた。
その時、いつの間にか部屋の内側に立っていたお光と目があった。お光の視線は、雪野の腕に抱かれた妹に注がれていた。何の言葉もかわされぬまま、お光は身をひるがえし、裏戸の外へと歩き去っていった。一言もかわさなかったが、雪はその冷たい背中の向こうに、最も大きく硬い壁を見た。
夜が更けた。灯りも全て消えたが、末の子の鳴き声は収まらなかった。雪野は子を背負い紐で包み、暗い庭へと歩み出た。庭のこちらからあちらへ、一定の歩幅で夜の庭を巡り続ける。彼女の唇から、記憶の奥にある古い子守歌が漏れた。歌詞もろくに覚えていないため、ただ低く単調な節を繰り返すだけだった。
子の重みで雪野の肩は次第に下がっていったが、彼女は歩みを止めなかった。この過酷で見知らぬ世界で、雪が耐え抜くべき最初の夜がそうして更けていった。
翌朝の食事の席で、三番目の子が椀を乱暴に押しのけ、飯を床にぶちまけた。怒鳴られるのを待ち構える覚悟の仕草だった。だが雪は声をあげず、黙って床の飯を拾い集め、新しい飯を盛り直してその子の前に置いた。
二番目の子が四番目の子に言った。
「あの人は僕らの母じゃない」
静かな部屋では、雪野の耳に届いた。雪野の手が一瞬止まったが、すぐにまた布を拭く動作へと戻った。
「いつまでここにいるのですか?」
四番目の子の問いに、雪野はゆっくりと手を伸ばし、乱れた髪を一度だけ撫でた。それが雪野がこの家で初めて子供に渡したぬくもりだった。
子供たちの小さな反抗よりも、雪野を一層思い悩ませるのは一番年上のお光だった。三日の間、お光の前に置かれた飯は、手をつけた跡もないまま台所へと戻ってきた。雪野はお光を叱らなかった。ただ行く度に新しい飯を盛り直して前に置くだけだった。
ある日、三番目の子が急に熱を出した。額に触れると薪のように熱かった。雪野は慌てて濡れた手拭いを額に乗せたが、子供の呼吸はどんどん荒くなっていった。何をどうすれば良いのか、雪野には見当もつかなかった。18年、絹の上に針を刺すことしか知らなかった手は、この小さな命の前でなす術もなく震えるばかりだった。
結局、隣の部屋で眠っていたお光が異変に気づき、井戸水で手拭いを冷やし直す方法や、薬を飲ませる順序を、低い声で淡々と指図した。雪野はただその指図に従うことしかできなかった。
この熱が引いた明方、雪野は自分の無力さを噛みしめながら、お光の寝顔をそっと見つめた。この家ではまだ自分より子供たちの方が多くを知っている。そのことを雪野は静かに受け入れた。
日の出前、雪野は縁側で古い針を手に、子供たちの穴の開いた着物を繕っていた。18年、絹の上に刺繍を縫い上げてきた手が、今は古く分厚い糸を通していた。子供たちが目を覚ます前の静かな時間だった。
やがて物音と共にお光が庭に出てきたが、雪の姿を確かめると視線を落とし、裏庭の方へと歩いていった。お光の足は、末の子のすり切れた寝巻きがかかる古いゆりかごの前で止まった。何度も繕いを当ててもまた避けてしまった袖口。お光の指先がそれをそっと撫で、固く結ばれた唇がかすかに震えた。
子は乱暴に袖で目元を拭うと、急いで身を返した。その一部始終を見ていた雪野は、おもむろに空になったゆりかごに歩み寄り、末の子のすり切れた寝巻きをそっと胸に抱いた。そして縁側に戻り、膝の上に広げると布を当てて細かく針を刺し始めた。
それから幾日も、雪は日の出前の同じ時刻に同じ場所で、子供たちの着物を一枚ずつ縫い直し続けた。誰に言われたわけでもない、静かな習慣だった。
ある日、洗濯物を干そうと裏縁へ出た雪野は、隣の部屋の隙間から、おぼろな明かりの下で動く小さな影を見た。お光だった。皆がまだ寝ている時間に、お光だけが一人で起きていた。寒さに震える膝で這いながら、弟妹たちの寝床を一つずつ整えて回っていた。誰かに見せるための行いではなかった。光の当たらぬ場所で、一人で思いを背負い続けてきた13歳の子の、黙々とした日課だった。
雪野はその姿を見て、お光がなぜあれほど高い壁を築いているのか、ようやく理解した。お光にとって雪は救い主ではなく、自分が守ってきた小さな世界を脅かす、見知らぬ侵入者に過ぎなかった。
四日目の朝、見守る中、雪野はまたお光の前に椀を置いた。お光は相変わらず窓の外の虚空を見つめていた。その時、隣の部屋で裁縫をしていた雪野の独り言が、開いた戸の隙間からお光の耳に届いた。
「私はあなたたちの母上の代わりにはなれない」
ただ聞こえるとも思わず漏らした、静かなつぶやきだった。だがその言葉を聞いたお光の肩がかすかに揺れた。母の代わりになろうとする者ではなく、代わりになれないと認める者。お光は思わず息を止め、閉じかけていた戸の影からもう一度雪の背中を見つめた。
それから幾日か、お光は変わらず雪野を遠巻きに見つめ続けた。だがその眼差しには以前とは違う色が混じり始めていた。ある朝、お光は井戸端で水を汲む雪野の手つきを、柱の影からじっと見ていた。荒れた指先が桶の縁をしっかりと握り、一滴もこぼさぬように運ぶ姿。それは母がしていたのと同じ手つきだった。またある夕方には、雪野が焚き木を終わる音に紛れて低く歌う子守歌の切れ端を耳にした。歌詞のないただの節。それでもお光はなぜかその音に耳を澄ませずにいられなかった。
誰にも言わなかったが、お光の中で拒もうとする気持ちと、目が離せぬ気持ちとが、日々に攻め合うようになっていた。
その日の夕暮れ、台所に座る雪野の傍らにお光が音もなく歩み寄った。
「教えてくれないだろうか」
雪野が低く訪ねた。
「あなたの母上が作っておられた白菜の味噌汁だ。私が作ったものはいつも何かが足りない気がして」
雪野はそう言うと、お光の前で膝を揃え、答えを待つように静かに顔を伏せた。お光の小さな肩が強ばった。長い沈黙の後、お光はゆっくりと顔を向けた。四日にして初めて、この瞳が雪野の目をまっすぐに見た。だが答えはなく、お光は雪野の目を避けて立ち上がり、台所を出ていった。
しばらくして、台所の入口に小さな影が伸びた。お光が戻ってきていた。その手には、日干ししたかぼちゃの皮に包まれた味噌の塊があった。この家に残る最後の味噌だった。半年前、お光の母が亡くなる直前に仕込んだ、甕の底から掻き集めたたった一つの塊。お光は誰にも語らず、それを隠し持っていた。
「教えてくれるか?」
雪野がもう一度訪ねた。お光は答える代わりに、竈の方へ一歩踏み出した。
「白菜から入れなければなりません」
この声は低く硬かったが、以前のようなトゲトゲしさはもう消えていた。
「まだ入れないでください。白菜が完全にクタクタになるまで煮て、それから味噌を溶くと甘みが出ると、母はいつも言っていました」
雪野は頷き、自分の知る作り方を差し挟まず、ただお光の短い指図に合わせて手を動かした。竈の炎が燃え上がり、鍋の中から濃い匂いが立ちのぼり始めた。この家で長らく絶えていたあの匂いだった。
匂いが広がった瞬間、お光の動きが止まった。細い肩がわずかに震え始め、雪野の腰に小さな重みが乗った。お光が両腕を伸ばし、雪野の腰を抱いていた。声を上げず、ただ息を飲むたびに、この小さな体が背中越しに規則正しく震えていた。
雪野は振り返らなかった。代わりに、自分の腰を抱きしめるお光の両手の上に、荒れた自分の手をそっと重ねた。壊れやすいものを包み込むような、慎重で確かな手だった。台所には鍋の煮える音と、お光のかすかな震えだけがあった。
その日の夕暮れ、卓の上に並んだ六つの椀が、初めて全て完全に空になった。縁側から見守っていた安介は、いつものように席を立たず、暗い縁側にそのまま座り続けていた。彼の口元が普段よりわずかに緩んでいた。
深夜、部屋を出た雪野は、裏庭の柱に背を預けて座る安介の影を見た。彼女は何も尋ねず、台所へと入っていった。竈に残っていた粥を椀に盛り、縁側の安介の前にそっと置いた。柱一本を挟んだ向こうに腰を下ろし、二人は同じ方を見つめて座った。
しばらくして、安介が低く乾いた声で口を開いた。
「嫁に来てくれたこと」
その一言が全てだった。安介にとって雪野は、ただ家事を代わりにこなす者ではなかった。この危うく揺れる古い家を共に支えてくれる、傍らに立つただ一人の人だった。雪野は顔を向けなかったが、ごくゆっくりと一度だけ頷いた。
ある晴れた朝、台所の古い棚を拭いていた雪野の指先に、藁紐で結ばれた古い帳面が触れた。開くと、谷で取れる薬草の名と煎じる方法が、丁寧な文字でびっしりと記されていた。読み書きのできる女。この山深い谷では滅多に見られぬ痕跡だった。この家を満たしていた亡き妻の居場所を、雪野はその帳面から静かに感じ取った。
背後にお光が立っていた。子は黙って帳面を受け取ると、紐を解き、中ほどを開いて雪の高さに掲げた。
「薬草を煎じる方法が記されていました。母が残したものです」
お光の声は低く乾いていた。
「末の子には月に一度は必ず煎じて飲ませるよう言われました」
それはお光が雪野に差し出した、実に大きな信頼であった。母の遺した帳面を読ませ、母の残した知恵を見知らぬ人の手に委ねること。
季節が移り、雪野は幼い頃に覚えた文字を生かし、安介が市に持ち出す薬草を種類ごとに整理し、帳面に書き留めるようになった。それまで安介は薬草を大まかに束ねただけで市に出し、良い品が混じっていても正当な値をつけてもらえぬことがしばしばあった。
ある朝、出かけようとしていた安介は、卓の上に置かれた紙を見つけた。彼はそれを読むことができなかったが、紙に並んだ墨の跡が何を意味するのか一目で悟った。彼は問いかけることも詮索することもせず、紙を丁寧に折りたたみ、懐へ収めた。
正当な値がつくようになると、家には米の絶える日がなくなり、危うかった家の空気に、ごくかすかなぬくもりが漂い始めた。
ある日の午後、隣村の米問屋が米を担いで訪れた際、声を低めて告げた。
「村で穏やかならぬ話を耳にしましたよ。亡くなった奥方の兄上、総兵という者が、隣村の者に銭を渡して土地の訴状を整えさせているそうですよ。名主様を通さず事を構えるつもりらしいと、もっぱらの噂でしてね。この家の屋敷と畑は、元々妹が嫁入りの際に実家から持たされた分だという話でしてね」
雪野は米袋の結び目を黙って締め直した。
その夜、安介はいつもより早く部屋を出た。縁側から見ると、暗い畑の向こうに小さな灯りが揺れていた。安介が井戸の前に立ち、自分の土地を示す杭を手で確かめている。誰もいない暗い夜に、杭を撫でる男の後ろ姿は重く疲れて見えた。
翌朝、霧が晴れきらぬうちに、獣が土を蹴って坂を登ってくる。荒々しい音が響いた。一頭ではなく四頭の馬だった。
「総兵おじさんだ」
二番目の子の声が警報のように部屋を満たした。子供たちは誰に言われるでもなく、お光を先頭に部屋の奥へと身を寄せ合った。
庭先に馬が止まり、上品な草履を履いた総兵が地面に降り立った。泥に足先を汚しても構わず、庭の中へと進んでいく。安介が縁側から歩み出て、両手を体の脇に垂らしたまま男の前に立ちはだかった。
総兵は懐から折りたたまれた一枚の紙を取り出し、広げた。
「これは証文だ。この土地は元より私の妹が嫁入りの際に実家から持たされた分ではなかったか。国の定めがそうであるのだ」
安介はその紙を受け取らなかった。何が書かれているのか、自ら読み取る術がなかった。ただ重い沈黙だけが安介の周りを漂った。
その時、馬の音を聞きつけた村の者たちが木戸の向こうに集まり始めていた。総兵はその気配を感じ取ると、視線を縁側の端に立つ雪の姿へと移した。
「江戸を追われた女と聞いておる」
総兵は嘲りを含んだ声で、聞こえよがしに続けた。
「こう見込もれぬ運命であったとか、家に災いを呼び込む不吉な星の下に生まれ、実家の門さえ開かず見捨てられたと聞いておる。いかに養子の手が押しかろうとも、何故かような不吉なものを家に引き入れるのか」
その言葉は毒を含んだ刃のようだった。庭に集まった人々の息遣いさえ止まった。その静寂の中で、雪野は身一つ動かさなかった。まるで激しい風が過ぎ去るのを黙って待つ木のような佇まいだった。
安介が拳に力を込め、前へ踏み出そうとした。まさにその時だった。背後の縁側で小さな動きが起こった。四番目の子が三番目の子の袖を握り、三番目の子が二番目の子の手を引いた。子供たちが一人また一人と庭の土へと降り立った。最後に縁側を越えたのはお光だった。片腕に末の子を抱き、もう一方の手には苗代の古い鍬が握られていた。
5人の子供たちが雪の前に、小さくも確かな壁を作り上げた。お光が顔を上げ、総兵をまっすぐに睨みつけた。
「その口を閉じてください」
13歳の子の声だった。
「私たちの母に無礼な物言いをしないでください」
私たちの母。その言葉が庭に落ちた瞬間、雪野の視線がお光の後頭部へと向けられた。この家に来て以来、一度も許されていなかった呼び名だった。
「私たちの母は私たちを飢えさせません。一度も見捨てたことがありません。誰よりも立派な人です。あなたの方がよほど悪い人です。今すぐ出て行ってください」
庭を覆っていた重い空気が一瞬にして変わった。村人たちの沈黙の質が変わり、その視線はもはや総兵を無言のうちに責めていた。総兵は背後から突き刺さる鋭い気配を感じ取り、余裕の笑みを強ばらせた。
「子供が何を知って出しゃばるのか。近いうちに正式に訴え出て、この土地の真の持ち主を明らかにしてやる」
彼は慌てて馬に乗り、鞭をあげながら坂道を下っていった。
安介はその場に立ち尽くしたまま、拳を握った手をゆっくりと開いた。半年前まで、守ることも守ることもできず、ただ罪を背負うことしか知らなかった5人の子供たちが、今自分よりも先に前へ出て、一人の女を守ろうとしていた。安介は思わず一歩後ろへ下がった。畑を耕し、飯を食わせることが自分にできる全てだと信じてきた男の胸のうちに、初めて別の何かが芽生えた。この家に足りなかったのは米銭ではなく、こうして誰かのために立ち上がる強さだったのかもしれない。安介はそれを、雪野が来てからの日々の中で静かに教えられていた。
雪野はゆっくりと前へ進み、鍬を握るお光のすぐ傍らに立った。感謝の言葉で感情を溢れさせることも、抱きしめることもしなかった。ただ同じ方向を向いて並んで立った。
その夜、子供たちが寝静まった後、雪野は台所で安介と二人きりになった。安介が黙って湯飲みを差し出した時、雪の目から不意に涙がこぼれ落ちた。声もあげず、頬を拭うこともせず、ただ静かに涙が流れ落ちるのに任せていた。安介は驚いて手を止めたが、何も尋ねなかった。痛くて泣いているのではないと、彼には分かった。婚礼の日に焼かれ、大店の前でも、実家の門が閉ざされた時も、雪野は涙一つ見せなかった。だが今夜だけは違った。生まれて初めて、自分よりも先に前へ出て自分を守ろうとする者たちがいた。その事実が、長い間固く閉ざされていた何かを静かに溶かしていった。
安介は何も言わず、ただ湯飲みをもう少し雪の近くへ押しやった。かつて安介は雪野を家に迎えることを、亡き妻の代わりを立てることだと思い込んでいた。だが5人の子供たちが雪野を守って前に出たあの夜、その考えは静かに崩れ去った。雪野は誰かの代わりではない。この家に新しく根を張った、もう一つの家族そのものだった。
その夜、安介は村の名主と向かい合って座っていた。
「この家の人別帳に、あの女の名を正式に載せれば、総兵のとても無理を通す名分がなくなる」
名主が残した言葉が夜の縁側に届いた。安介は台所へ歩み、雪野の前にまっすぐ立った。
「そなたを嫁として、正式に周旋をあげたい。明日の朝、名主殿の証人に立ち会ってもらい、人別帳にそなたの名を正式に載せる所存だ」
甘い口説き文句でも愛の告白でもなかった。ただ安介は両手を膝の上でまっすぐに揃え、深く頭を下げた。雪野は極めて短く、ただ一度だけ頷いた。
「そういたします」
それが雪野の返した答えの全てだった。
翌朝、名主が門の内へと入ってきた。庭の真ん中には古い木の卓が置かれ、その上には清らかな水を湛えた椀が一つ。それだけだった。名主が筆を取り、分厚い帳面に雪野の名がまっすぐに刻まれていった。もはや雪野は、江戸を追われた名もなき女ではなかった。安介の妻として、この家の正式な母として、確かな居場所を得た瞬間だった。
末の子を抱いていたお光の唇がわずかに開いた。誰の耳にも届かぬほど淡い、長い息だった。母を失って以来、六ヶ月の間背負ってきた思いがようやく崩れ落ちる、深い安堵の息だった。
その日の午後、竈の前にいた雪野の手が、途中で止まった。いつも落ち着き払った彼女とは全く違う、不安げな足取りで庭に駆け出す姿にお光が気づいて、後を追った。裏庭の梅の木の下で、雪野は両腕で自分の腹を抱え、細く苦しげな息を繰り返していた。
「母上、どこか痛むのですか?」
お光の問いに、雪野はゆっくりと顔をあげた。目の周りは赤く染まり、涙が頬を伝っていたが、唇はほのかな笑みを描いて緩んでいた。涙と笑いが入り混じったその表情は、お光が今まで一度も見たことのない、不思議で胸に迫るものだった。
その日、呼ばれた医者は、雪野が二月を過ぎておると告げた。雪野の体には何の異常もなかった。元より彼女にはいかなる不具合も不吉もなかったのだ。誰かが金で買った一枚の紙と、残酷な噂が彼女の人生を崖っぷちへと追いやったに過ぎなかった。
季節は流れ、雪野の腹は誰の目にも明らかなほど丸くなっていった。ある日、安介は薬草を担いで市へ足を運んだ。人混みの中、古い室に座る占い師と目があった。また像だった。老いた男は安介を見るなり、深く頭を下げた。
「あの方は無事でおられるか」
安介は静かに答えた。
「あの方は今、七月の子を宿しておられる。何の恨み言もない。ただ一言だ」
また像は何の返答もできぬまま、先ほどよりもさらに深く腰を折った。詫びはせぬという意味だった。
やがて安介が、江戸の市へ薬草を運ぶことを告げた。子供たちは目を輝かせたが、雪野だけは動きを止めた。江戸。自分が生まれ育ちながら、最も無残に追い出されねばならなかった土地。だが雪野は何も言わず、ただ両手を膝の上に重ねた。
市の当日、露天の裏に立つ雪野の身には、子供たちが少しずつため銭で揃えてくれた青い絹の着物がまとわれていた。丸く重く膨らんだ腹を包み込みながら、雪野は凛と立った。その時、人の中から高価な絹の羽織をまとった男女が近づいてきた。露天の向こうに立つ雪野と男の目が正面から合った。道之助であった。
一年半前、雪野の顔に紙を投げつけ、燃える婚礼衣装の前に彼女を置き去りにしたあの男だった。彼の視線が雪野の顔から、青い絹の下で明らかに盛り上がった腹へと滑り落ちた。
「この女は埋めぬ運命」
自分が金を払って世間へ喧伝させたあの恐ろしい偽りが、今まさに目の前で生きづくしかない命によって打ち砕かれていた。道之助の顔から血の気が引いた。だが雪野は彼を避けなかった。ただ何の未練も残らぬ赤の他人を見つめる、穏やかな眼差しだった。
道之助の胸にあの朝がよぎった。父から示された縁談を断れば、店の後目すら危うかった。
「この埋めぬ女を嫁に取れ」
父の一言に彼は逆らえなかった。婚礼の数日後、道之助は一度だけ雪野の住まいの前を通りかかった。障子に針を動かす女の肩が震えているのが見えた。声を殺して泣いているのだとすぐに分かった。彼は戸に手を伸ばしかけたが、指が触れる前にそのまま踵を返した。占い師の言葉が偽りだと道之助は最初から知っていた。だが真実を明かせば、自分が妻を追い出した男だと江戸中に知れ渡る。それゆえ偽りの罪を雪野に着せたまま、口を閉ざし続けた。
「こちらは私の夫でございます」
雪野は安介へ手を差し伸べた。
「こちらが長女のお光。その下に次男、三男、四男、末の娘がおります。そしてこれは間もなく生まれてくる子でございます」
それが全てだった。淡々とした言葉が、道之助の胸に岩のごとくのしかかった。道之助の喉の奥に詫びの言葉が込み上げた。
「すまなかった」
と、たった一言で言いかけたが、雪野の穏やかな眼差しを見た瞬間、彼はそれ以上に恐ろしい事実を悟った。この女はもう自分の詫びを必要としていない。かつて自分が握っていたはずの雪野の人生への力は、跡方もなく消えていた。名誉を失うことよりも、その事実の方が道之助の胸を深くえぐった。
「そこまでだ」
人混みの中から、しゃがれた声が鋭く伸びた。人々が左右に割れる細い道の先に、また像が立っていた。かつて江戸の路地で、燃える婚礼衣装を前に頭を下げたあの男だった。彼の眼差しは、青ざめて凍りついた道之助の顔だけを見据えていた。
「証言いたします」
一年半前、道之助殿の家の者が私に握らせた銀。
「この女は埋めぬ運命」
「家を滅ぼす災いの星」
それらは全て、あの御仁が私に金を払って言わせた残酷な偽りでございました。私はその銀に目がくらみ、傷一つないという娘の一生を踏みにじりました。今日、私はその汚れた金をすっかり返しに参ったのでございます。
市には激しい怒号も叫びも起こらなかった。ただ証人たちも見物人たちも、示し合わせたように道之助の周りから一歩また一歩と後ずさっていった。妻は震える手を道之助の袖から離し、義父もまた鋭い目で彼を一瞥すると、黙って背を向けた。道之助は誰にも殴られなかったが、彼を取り巻いていた最も華やかな世界が、今まさに音もなく崩れ落ちていった。
全ての視線が道之助の転落に注がれる間、雪野は何の行動も起こさなかった。彼女はただゆっくりと背を向け、市の入口で待つ安介と5人の子供たちの元へ、確かな足取りで歩み出た。最も前にいたお光が、小さなタコの残る手を伸ばし、雪野の手をそっと握った。雪野はその手を握り返した。
遠ざかる道の上で、彼女はただの一度も後ろを振り返らなかった。その足取りは、かつて焼かれた鳳凰の翼を胸に抱いて雨の道を歩いたあの18の娘とは違うものだった。あの日、翼は炎の中で消え去った。だが今、雪野の傍らには、羽ばたく先を守り抜いてくれる者たちがいた。失われたものはもう戻らない。だが失われた場所に、新しい何かが根を張っていた。
冬が去り、谷合いに柔らかな春風が吹き始めた日、部屋の中から小さく確かな産声が響いた。六番目の子、陽が生まれた。深い闇を押しのけて差し込む、明るい光という意味だった。
14になったお光が真っ先に弟を胸に抱き上げた。
「お前、傷つけるな。順番に入って静かに見てから出ていくのだぞ」
狭い部屋は、子供たちの慎重なぬくもりで満ちていった。安介は妻の傍らに立ったまま、その光景をただ黙々と目に焼きつけていた。庭へ出た瞬間、生涯思いに押し潰され続けて丸まっていた彼の肩が、ごくかすかに下がった。
その日を境に、谷合いの古い家には静かで確かな変化が積み重なっていった。雨漏りしていた茅葺きの屋根は、質の良い藁葺きへと葺き替えられた。庭に置いた梅の木には、驚くほど豊かな白い蕾が先誇るようになった。貧しさと不安の漂っていた家の空気は、重く温かなぬくもりでしっかりと満たされていった。
やがてお光が嫁ぐ日が近づいた。相手は峠を越えた向こうの、実直な農家の若者だった。
嫁入り支度を終え、お光は門を出ようとして足を止めた。安介が太い木を削って組み上げた、頑丈な新しい門だった。お光はその門柱をそっと撫で、振り返って雪野を見つめた。両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。長く耐えていた時を無事に耐え抜き、自分だけの新しい家へと踏み出す者の、晴れやかな涙だった。雪野は涙を拭ってやろうと近づかず、ただ縁側に立ったまま、小さく暖かく頷いて見せた。
お光が去った後も、子供たちはそれぞれの役目を果たしながら育っていった。驚くべきことに、彼らの振る舞いの端々に、雪野のおかげが滲み出るようになっていた。長い年月、目覚めてから眠るまで同じ空間で生きてきた雪野の黙々とした後ろ姿が、子供たちの骨と肉に自然と染み込んでいったのだった。
ある晩秋の午後、江戸から使いの者が安介の所へ届け物をした。差出人は、雪野が一度も開かれることのなかった、あの固く閉ざされた欅の門だった。
「父上が危篤になられたそうです」
雪野の声は平らかだった。翌朝、彼女は江戸へと立った。
数日後、雪野は再びあの実家の門の前に立った。今度は冷たい雨の代わりに、柔らかな午後の日が門の上に差し込んでいた。門の隙間から現れた老いた母は、目を見開いた。その眼差しの先には、雨に濡れて泣いていた18歳の娘はもういなかった。長い年月を黙々と乗り越え、確かな肩を持つ一人の女がそこに立っていた。
母の顔に涙が溢れたが、雪は共に泣くことはせず、ただ軽く会釈をすると、袖をまくり上げて、亡き父の世話を始めた。奥の間で、骨だけとなった父が横たわっていた。ある日、雪野が枕元で縫い物をしていると、父が力なく首を巡らせた。乾いた唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。雪野は答えを促さず、ただ父の痩せた手の甲に、自分の荒れた手をそっと重ねた。
「おやすみくださいませ」
その一言だけだった。
数日後、父は何の遺言も残せぬまま息を引き取った。雪野は誰の手も借りず、葬儀の全てを一人で取り仕切った。かつて彼女を見捨てた親類たちは、その揺るぎない姿の前で何の言葉も発することができなかった。
弔いを終えた雪野は、一人残された母を谷の近くへ連れ帰り、小さな家を用意した。月日が流れ、母の記憶は薄れていったが、雪野が訪ねるたび、ある一つの言葉だけを繰り返した。
「止めねばならなかったのに、あの紙が火に開かれる時、私は逃げ出していかねばならなかったのに」
それは許しを乞う言葉ではなく、自分が生涯背負い続けてきた罪の意識を忘れぬために吐き出すつぶやきだった。雪野はその言葉を聞く度、慰めることも心をなだめることもしなかった。ただ布団を整え、湯飲みに温かい茶を注ぐだけだった。それは言葉ではなく、最も静かな形の介護だった。
深い冬のある夜、雪野が母の枕元で痩せた足を揉んでいると、母の手がそっとその手を覆った。
「逃げ出していく勇気がなかったのです」
雪野が門を叩いていたあの日、闇の中に隠れてしまった母の最後の告白だった。雪野はただ黙って、母の痩せた両手を両の手のひらで静かに包み込んだ。その夜、母は雪野のぬくもりを抱きしめて深い眠りに落ち、二度と目を開けることはなかった。
葬儀の帰り道、家族を乗せた牛車が山道をゆっくりと進んでいた。荷台の隅で、嫁ぎ先から駆けつけたお光がうとうとと居眠りし、その首が雪野の方へと落ち着いた。雪野は眠るお光を起こさぬよう、そっと肩を低くしてやった。前方では安介と三男が、来る春の種まきについて低く語り合っていた。窓の向こうに広がる小金色の田畑は、雪野が長い年月をかけて築き上げてきた、堅実で豊かな人生の色彩のものだった。
晩秋の日が狭い縁側に長く柔らかく差し込んでいた。丁寧に結い上げた雪野の髪には、いつしか白いものが混じっていた。縁側に座る安介の髪にも白いものが降りていた。彼の不器用な両手には、古い網笠が握られていた。ずっと以前、江戸の門前でうずくまっていた雪野の頭に、無言のまま被せてやったあの網笠だった。安介はその縁を新しい藁で編み、黙々と繕っていた。
庭では、お光が数日前に胸に抱いて尋ねてきた、この家の初めての孫が、確かな歩みを刻んで駆け回っていた。雪野の視線がその後ろ姿を追い、やがて自分の膝の上へと降りていった。膝の上には、滑らかに整えられた小さな木の刺繍枠があった。三男が山で木を切り出し、幾夜も削り整えて、母の誕生日に黙って差し出した品だった。
「何を縫っておいでですか?」
庭から歩み寄ったお光が尋ねた。かつて鍬と針を握りしめていた少女は、いつしか一人の子の母となっていた。
「鳳凰だよ」
雪野の口元に穏やかな笑みが広がった。
「うちの孫にあげるのだよ」
お光は少しずつ形をなしていく鳳凰の翼を黙って見下ろした。綺麗だと大げさに褒めることはせず、ただ深い眼差しでしばらく見つめてから、ゆっくりと一度頷いた。お光の指先が、雪野の膝に置かれた手の甲にそっと重なった。
傍らで網笠を繕っていた安介の唇がわずかに開いた。
「急がずとも良い道行きだな」
その言葉は、暗い部屋に閉じ込められ、誰かの決断だけを待たねばならなかった過去への静かな慰めだった。もはや追われることなく、自らの力で人生の根を張った女への、男の思いやりだった。
雪野は答えず、ただ声もなく微笑を浮かべた。最後の小金色の糸が針を通り抜けた。糸を引き、固く滑らかな結び目を作った。膝の上、頑丈な刺繍枠の中で、真紅に輝く小金色の鳳凰の翼が、ついに完全に広げられていた。どこにも足りぬところや急いだ跡のない、完璧で堂々とした翼だった。
あの日、焼かれた半分の翼はもう戻らない。だが長い年月を巡り、鳳凰は今、誰にも奪われることのない場所で、最も美しい姿となって完成していた。実家からも今川家からも見捨てられた女は、血のつがぬ子らに命がけで守られる母となり、自らの手で本当の家族を築き上げた。
庭に降り注ぐ秋の日を浴びながら、この家の笑い声が古びた家一杯に満ちていった。いかなる派手な演出も説明も必要なかった。全てがついにあるべき場所を見つけ、静かに輝いていた。



