40年間、妻のために守り続けてきたものが、たった1枚の通知書で崩れ去ろうとしていた。年金が月5000円増えただけで、私たちの生活は一変した。息子が突然帰ってきて、住民票を移した。その瞬間、区のシステムが静かに動き出した。翌月、届いた通知書の数字は信じられないものだった。妻の薬代は月14万円を超え、貯蓄は1年も持たない。息子は借金を抱え、取り立て屋が家に来るようになった。そして、私はある決断を…

40年間、妻のために守り続けてきたものが、たった1枚の通知書で崩れ去ろうとしていた。年金が月5000円増えただけで、私たちの生活は一変した。息子が突然帰ってきて、住民票を移した。その瞬間、区のシステムが静かに動き出した。翌月、届いた通知書の数字は信じられないものだった。妻の薬代は月14万円を超え、貯蓄は1年も持たない。息子は借金を抱え、取り立て屋が家に来るようになった。そして、私はある決断を...

40年間、妻のために守り続けてきたものが、たった1枚の通知書によって崩れ去ろうとしていた。黒川竜平はまだそれを知らなかった。

26年4月のある平日の朝、竜平は手帳を開いたまま台所の椅子に腰を下ろしていた。A6判の手帳で、縁がすり切れて色が変わっている。彼は毎月の収支をこの手帳に書きつける癖があった。数字を書き込みながら、無意識のうちにボールペンの尻を膝に叩きつけていた。トントンという規則正しいリズムが、彼が何かを考えている時の習慣だった。

部屋は東京高井戸の古いマンションの3階にあった。40平米ほどの2DKで、窓からは隣のビルの外壁しか見えない。壁には以前から薄い日が入っていたが、補修もせずそのままにしてある。家賃は月に6万3000円で、2人の年金を合わせれば過ごせる額だった。

物が少ない部屋だった。引っ越しを繰り返すうちに余計なものを捨て続け、50代の終わりにはすでに必要最低限しか残っていなかった。

台所と居間を兼ねた6畳の奥に、黒川千世子が立っていた。67歳。かつては物流会社の事務を週3日こなしていたが、5年前から体の調子を崩して仕事をやめた。自己免疫疾患の一種で、発症してから髪が急速に抜け落ちた。彼女は外出の時も家の中でも、いつも薄いシルクのスカーフを頭に巻いていた。今朝は無地の地に白い細い線が入った布で、朝の光の中でそれがぼんやりと光って見えた。

千世子は鍋に手を添えながら、何かを確認するように立ったり座ったりしていた。動作はゆっくりだが、慌てた様子はない。竜平はその背中を一瞬だけ見て、また手帳に目を落とした。

今月の光熱費は少し増えた。暖房を1月より長く使ったせいだ。食費は先月とほぼ同じで、薬が医療費の大半を占めていた。千世子が処方されている生物学的製剤は効果が高いが、彼らは住民税非課税世帯に該当していたため、医療費の自己負担に上限がかかっていた。その上限額がこの2人の生活を支える目に見えない柱の1つだった。

日本年金機構から封書が届いたのはその日の午後だった。竜平が郵便受けを開けると、白い角型の封筒が1枚入っていた。差出人の欄に日本年金機構とある。普段の通知とは少し厚みが違った。

彼は封を切りながら玄関の段差に腰を下ろした。靴を脱ぐのが面倒で、半分外に足を出したままの格好だった。書類を広げると、上部に「令和8年度 年金額改定通知書」とあった。物価スライドによる改定で、彼の基礎年金と厚生年金を合わせた受け取り額が年間6万円増額されるという内容だった。月にして5000円。

竜平は数字を3回読み返した。間違いではなかった。彼はゆっくりと立ち上がり、封を持ったまま台所に向かった。千世子が振り返った。竜平が数字を読み上げると、千世子はしばらく黙っていた。それから小さく「本当ですか」と言った。声が出なかったのか、ほとんど唇が動いただけだった。

「本当だ」と竜平は繰り返した。千世子は笑った。日頃表情が乏しい人だったから、それが余計に印象に残った。頬に深い笑いじわが刻まれ、目の縁がくしゃっとなった。竜平はその顔を見て、手帳を取り出してボールペンを走らせた。「6万円 年間の増額分」、そして横にかっこ書きで「月当たり5000円」と書き添えた。

その夜、2人で食卓に着いて竜平は静かに計算を続けた。千世子がお湯を沸かしながら、その月に切らしていたものの名前を口にした。梅干しとラップと2段の収納ケースと、だんだんと関係ない方向に話が流れていった。竜平はその声を聞きながら、5000円でどこに優先順位をつけるかを考えていた。

千世子の薬を包む小袋を毎月薬局で受け取る時、彼はいつも千世子が被っているスカーフを見ていた。今巻いているのは5年前に買ったものだった。繰り返し洗ううちに色が少し褪せている。生地も薄くなってきていた。5000円あれば、もう少し丈夫で上質なものが買えるかもしれない。それから、有機野菜の直売所が駅の近くに最近できたと千世子が話していた。普段は値段を見て諦めていたが、毎月少し足してやることもできる。竜平はそんなことを考えながら、ボールペンを手帳の表紙に当てて音もなく叩いていた。

4月の後半、新年度の変更手続きをいくつか終えた後、2人の日常は特に変わらなかった。竜平は早起きの習慣が抜けず、毎朝6時前には起き出して近くのコンビニまで歩き、新聞の見出しだけ確認して戻ってきた。千世子は朝食の準備をしながらラジオをつけていた。年金生活に入る前は2人ともそれぞれ忙しかったから、こうして朝を同じ空間で過ごすようになったのは定年後のことだった。

悪くない暮らしだと竜平は思っていた。余裕はない。旅行にも行けない。贅沢な食事もしない。だが毎月の収支はきちんと合っていた。千世子の病気の管理は複雑だったが、医療費の上限制度があるおかげで最悪の状態にはならずに済んでいた。制度の恩恵を正確に把握して、それを基準に生活を組み立てる。竜平はそれを退職後の仕事だと思って取り組んでいた。

4月の終わりに玄関のチャイムが鳴った。千世子が出た。竜平は居間でテレビのニュースをつけたまま手帳に何か書きかけていた。玄関の方でくぐもった声がした。千世子の声が高くなった。驚いている時の声だった。竜平は立ち上がって廊下に出た。

玄関のドアが開いていた。その向こうに、大きなキャリーケースを横に立てた男が立っていた。黒川哲也、39歳。竜平と千世子の1人息子だった。最後に会ったのは5年前だ。その前の年に一度竜平が電話をかけて口論になり、それきり連絡が途絶えた。理由は今更整理するほどのことでもないが、つまりは金と責任と不誠実の積み重ねだった。

竜平は哲也に対して貸したまま帰ってこない金の記憶と、何度も裏切られた記憶と、それでも諦めきれなかった時期の記憶を全部引き出しの奥にしまい込んでいた。

哲也は少し太っていた。頬の辺りに肉がついていて、以前よりふけて見えた。キャリーケースは黒くて大きい。明らかに1泊2日の荷物ではなかった。

千世子がまだ玄関に立ったまま「どうしたの」と繰り返していた。哲也は目を少し赤くしながら「会社が」と言いかけて、そこで声をつまらせた。竜平はその泣き方を以前にも見たことがあると思った。

哲也が言ったのはこういうことだった。年度の人員整理で勤務先を解雇された。賃貸のアパートも家賃が払えなくなって先月末に出なければならなかった。失業給付を申請したいが住所が必要で、今は知人の家を点々としていてどこにも定まっていない。だから実家の住所に住民票を移させてほしい。2ヶ月だけでいい。

竜平は哲也の顔を見ながら、廊下の壁に背中を預けた。腕を組んだ。部屋の中に入れとも上がれとも言わなかった。哲也の話に嘘がないとは言えないが、嘘だとも断言できない。リストラは本当にあったのだろう。アパートを追い出されたのも見た目からしてそうかもしれない。だが竜平の中にある慎重な部分が「だから何だ」と言いたがっていた。5年間一度の連絡もなく、困った時だけ戻ってくるのは哲也が昔からやってきたことだった。

「2ヶ月だけ」ともう一度言った。声が少し震えていた。千世子が竜平の袖をそっと引いた。竜平は千世子を見た。千世子は何も言わなかったが、目が語っていた。「この人は私たちの息子だ」という、それだけを伝えようとしている目だった。

竜平は息を1つ吐いた。「住民票だけだ」と彼は言った。「ここで生活するなら家事は自分でやれ。迷惑はかけるな。2ヶ月経ったら必ず出ていけ」

哲也は「分かった」と言って頭を下げた。深く。竜平にはその速さが気になったが、それ以上何も言わなかった。

哲也が部屋に荷物を持ち込んだのはその夜のことだった。DKの隅にキャリーケースを置いて、布団は押入れの古いものを出してやった。千世子が余っていた食器を出してきた。哲也は「ありがとうございます」と丁寧な言葉を使ったが、その言葉遣いが竜平には座りが悪かった。いつもの砕けた口調ではなく、よそ行きの礼儀正しさは、何かを隠している時の哲也の癖だった。

翌朝、竜平は早起きして手帳を開き、月の支出欄に哲也の分の食費を小さく書き加えた。「2ヶ月、それで終わる」そう思いながら数字を書いた。

5月の中旬を過ぎると、3人の生活はある種の安定を見せ始めた。哲也は昼間外に出てハローワークに行っているようだった。夜は早く帰り、夕食を一緒に食べた。千世子は少し明るくなった。息子と食卓を囲むのが久しぶりで嬉しいのだろうと竜平は思った。竜平は複雑だった。哲也に対して打ち解けた気持ちにはなれなかったが、千世子の様子を見ていると強く拒絶する気持ちも薄れていった。台所で2人が笑いながら何かを話している声が、今まで聞こえてくることもあった。千世子の声が弾んでいた。竜平はテレビの音量を少し下げてその声を聞いていた。

5月の終わりに近い夕方、竜平は食卓で今月の収支をつけていた。月末に手帳の計算を確かめる習慣があった。鉛筆で数字を書き、合計を出し、先月と比べる。特に変わったことはなかった。哲也の食費は増えたが、それは折り込み済みだった。

台所から千世子と哲也の話し声が続いていた。千世子が何か料理を教えているようで、哲也が「うまく切れない」と言っているのが聞こえた。千世子が笑った。その笑い声は、千世子が1人でいる時には出ないような力のある音だった。竜平はボールペンを手帳の上に置いてその声を聞いた。何か欠けていたものが戻ってきたような気配がある。それが本物かどうか竜平にはまだ判断できなかった。

千世子が元気に見えることは素直に良かった。哲也のことは信用できなかったが、今のところは約束を守っている。2ヶ月、それで十分だった。竜平はもう1度ボールペンを取り上げて、来月の予算欄に数字を書き始めた。窓の外はまだ明るく、4月から買い直そうと思っていた千世子のスカーフのことが頭の隅に残っていた。

竜平はその時、6万円の増額が1つの静かな歯車を回し始めていることをまだ何も知らなかった。

哲也の名前が住民票に加わった瞬間に、区の税務システムが2つの事実を読み取っていた。1つは竜平の年収が非課税限度をわずかに超えたこと。もう1つは世帯に労働年齢の者が加わったことで、高齢者世帯への優遇措置が自動的に解除されたこと。その処理は人の目に触れることなく、深夜のサーバーのどこかで静かに完了していた。

通知が届くのは翌月のことだった。

6月の第1週、区役所から2通の封書が同じ日に届いた。郵便受けを開けたのは午前9時頃で、竜平はちょうど台所でコップに水を注いでいるところだった。千世子の呼ぶ声がした。「郵便」と言った。それだけで声に特別な色はなかった。竜平はコップを置いて廊下に出た。千世子が郵便受けから取り出した封書2枚を竜平に差し出した。1枚は細長い白い封筒で、差出人に杉並区と書いてある。もう1枚はやや大きく、同じ区からだった。

竜平は2枚をまとめて受け取った。毎年この時期には住民税と保険料の通知が届く。竜平はそれを知っていた。だから封筒を手に持った時、特に警戒はしなかった。むしろ去年と変わらない手続きの1つとして、居間に持っていって食卓の上に置いた。

千世子が台所に戻る気配がした。竜平は椅子に座って、細長い方の封筒から開けた。住民税の納税通知書だった。今年度の課税額、分割納付の記載が書いてある。竜平は去年の通知書との比較を頭の中で始めた。数字を読んで、もう1度読んだ。手が止まった。去年の課税額との差が大きすぎた。

竜平は封筒から書類を全部引っ張り出して食卓に広げた。ボールペンを取り出して、去年の控えと今年の通知書を並べようとした。去年の控えは手帳に挟んであった。引っ張り出して2枚を横に並べた。数字が並んだ。ボールペンが手の中で止まった。転がって食卓の端に落ちた。竜平はそれを拾わなかった。

もう1枚の封筒を開けた。国民健康保険料の改定通知だった。こちらも去年から大幅に増えていた。竜平は電卓を取り出して2枚の通知書の数字を打ち込み、合計を出した。その数字を見た時、竜平は椅子の背もたれに体を預けた。

台所からラジオの音がしていた。千世子が鍋を洗う音もしていた。竜平はその音を聞きながら数字を見つめた。何か計算を間違えているのではないかと思って、もう一度打ち込んだ。同じ数字が出た。

その時、千世子が台所から出てきた。薬を飲む時間だったのかもしれない。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出した。その手が止まった。千世子が竜平の方を見た。竜平の顔を見て、食卓に広げた書類を見た。それから静かに冷蔵庫を閉めて、椅子を引いて座った。

「何があったの?」声は静かだった。竜平は数字を読み上げた。住民税の増額分、保険料の増額分、合計。千世子は黙って聞いていた。竜平は続けた。「去年から比べると年間でこれだけ増えている。毎月に直すとこれだけになる」

千世子はしばらく何も言わなかった。それから言った。「なぜこんなに増えるの?」竜平は答えられなかった。「まだ分からない」と言った。「区役所に行って確認する」千世子は頷いた。それ以上は聞かなかった。千世子は立ち上がりながら、薬を飲むのを忘れたまま台所に戻った。

竜平はその背中を見て手帳を取り出した。数字を書き留めた。トントントンとボールペンを膝に叩く前に、千世子の薬を思い出して立ち上がり、台所に顔を出した。「薬、まだだろう」と言った。千世子は少し驚いた顔をして「ありがとう」と言った。水を出しながら、今日の竜平には珍しいことを言うという顔をしていた。竜平は居間に戻った。

その日の午後、千世子が近くの診療所から帰ってきた。定期受診の日で、先週から予約が入っていた。竜平は区役所に電話して、翌日の午前中に窓口に来てほしいと伝えた。

夕方、千世子が薬袋を持って帰ってきた。玄関で靴を脱ぎながら、千世子の動きがいつもより少し遅かった。竜平は気づいて廊下に出た。千世子が薬袋を差し出した。手が少し震えていた。竜平は袋を受け取って、外側に貼ってある領収書の控えを見た。数字を見た瞬間、竜平は何も言えなかった。先月の同じ薬が2万4000円だった。今月は14万8300円になっていた。

千世子は靴を脱いだまま玄関に立っていた。竜平は千世子の顔を見た。千世子は唇を結んで竜平の反応を待っていた。竜平はゆっくりと息を吐いた。「上がって座ろう」と言った。それ以外に言葉が出なかった。

2人で居間に入った。竜平は薬袋を置いて、朝の通知書をもう1度引っ張り出した。電卓に数字を打ち込んだ。医療費の増額を加算した。新しい合計が出た。千世子は斜め向かいに座って竜平の手元を見ていた。竜平は数字を手帳に書いた。千世子に見せた。千世子はその数字をしばらく見ていた。それから言った。「上限が外れたのね」

「そうだ」と竜平は言った。「なぜ外れたかはまだ分からない。明日区役所に行く」千世子は頷いた。小さく1度だけ頷いた。その時、千世子のスカーフの端が少し揺れた。

翌朝、竜平は開庁の9時に合わせて家を出た。区役所まで歩いて15分かかる。梅雨前の6月で空は曇っていたが蒸し暑かった。竜平は通知書と薬の領収書を入れた封筒を手に持って歩いた。途中の交差点で信号待ちをしながら、竜平は数字を頭の中でもう1度整理した。住民税の増額分がいくら、保険料がいくら、医療費が月いくら上がった?それが年間でいくらになる?それを今の貯蓄と収入で何ヶ月賄えるか。計算はすでに何度もしていた。だから答えは知っていた。ただ答えを知っていても、別の出口がないか探し続けるのが竜平の癖だった。

区役所の1階で番号札を取って待った。フロアには高齢者が多かった。竜平より年上に見える人たちがカウンターの前の椅子に並んでいた。竜平は自分が列の中の1人に過ぎないことをその瞬間に自覚した。

30分ほど待って番号が呼ばれた。竜平が向かった窓口には白鳥という男が座っていた。40代半ばの男で、グレーのスーツを着ていた。髪が薄く、ネクタイは目立たない。縁なしの細いメガネをかけていて、レンズの向こうの目は表情が読みにくかった。デスクの上には書類が整然と並んでいて、コーヒーのカップも余計な私物も何もなかった。

竜平が封筒から書類を出して窓口に置いた時、白鳥はキーボードを叩きながら書類に目を向けた。顔は画面から離さないまま「お名前をお聞かせください」と言った。「黒川竜平です」と竜平は言った。白鳥は番号を打ち込んだ。画面をスクロールした。「確認しています」と言った。その言い方には感情がなかった。業務の手順を声に出しているような機械的な口調だった。

竜平は待った。白鳥がキーボードの手を止めた。眼鏡のブリッジを1度だけ上げた。それから口を開いた。「黒川様の今年度の課税状況について、2点の変更が生じています」竜平は身を乗り出した。

「まず1点目でございます」と白鳥は続けた。「令和8年4月より日本年金機構からの年金受給額が年間6万円増額されました。この増額により、黒川様の年間の合計所得金額が住民税非課税の基準額を超過しました。額はわずかですが、制度上超過した場合は課税対象に移行いたします」

「超過したんですか?」竜平は言った。白鳥は画面を確認した。「およそ5000円の超過です」竜平は黙って聞いた。

「2点目でございます」と白鳥は続けた。「今年の4月、黒川哲也様が黒川様の世帯の住民票に加入されました。哲也様は39歳で生産年齢人口に該当いたします。この変更により、黒川様の世帯は高齢者のみ世帯の要件を満たさなくなりました。令和8年度より施行された改正により、高齢者のみ世帯への優遇措置は、生産年齢の世帯員が1名でも加わった場合に自動的に解除されます」

白鳥はそこで1度止まった。さらに続けた。「この2点が重なった結果、黒川様の世帯は住民税非課税世帯の認定を失いました。それに伴い、高額療養費制度の自己負担上限区分も変更されております。奥様が加入されている医療費の上限は、旧区分から新しい区分に移行しています」

竜平は通知書の数字と白鳥の説明を照合した。合っていた。

「では」と竜平は言った。「年金の増額分6万円を受け取らないようにすることはできますか?受け取りを辞退すれば、所得が基準以下に戻りますか?」

白鳥はメガネの奥の目で竜平を見た。「年金受給額の辞退や変更は、10日では受け付けておりません。日本年金機構の管轄になりますが、一般的にすでに確定した増額を取り消す手続きはございません」

竜平は少し間を置いた。それから聞いた。「息子の住民票を外せば、世帯の要件は戻りますか?」

白鳥はパソコンを操作した。「哲也様が転出され、かつ次の課税年度の判定時点で高齢者のみ世帯の要件を満たしていれば、翌年度以降は非課税世帯に戻る可能性はございます。ただし、今年度の課税はすでに確定しています。今年度中の変更はできません」

竜平は繰り返した。「今年度は変えられない」「はい」と白鳥は答えた。

竜平は通知書をゆっくりと封筒に戻した。それから聞いた。「今の水準が続いた場合、今年度末までの増額の合計はいくらになりますか?税と医療費を合わせて」

白鳥はパソコンで計算した。しばらく画面を見てから、およその金額を口にした。竜平は手帳を取り出してその数字を書いた。ペンを走らせながら、手帳の中の数字が変わっていくのを感じた。150万円を超える数字だった。

「他にご質問は」と白鳥が言った。竜平は立ち上がった。「ありがとうございました」と言った。頭を下げた。白鳥はすでに次の作業に移っていた。

区役所を出ると、蒸し暑さが体にまとわりついた。6月の東京は梅雨入り前の気圧で空気が重い。竜平は日陰のない商店街を歩きながら頭の中で計算していた。2人の貯蓄の残高は230万円だった。それは老後の最後の備えとして手をつけないと決めていた金だった。その金が1年も経たずに消える計算になった。

歩きながら竜平は視線を歩道の先に向けたまま手帳を開いた。電柱の根元に立って、今まで何度も書いた数字を確認した。確認するまでもなかった。ただ書いた数字を見ていると少しだけ落ち着いた。これが事実だという感覚があった。感情ではなく数字として向き合えば、何かが見えるかもしれないという感覚だった。しかし今日は何も見えなかった。

帰宅すると千世子は居間にいた。テレビはついていなかった。千世子はテーブルの上に両手を置いて座っていた。竜平が入ってくると顔を上げた。竜平は椅子を引いて座った。今日聞いてきたことを順番に話した。年金が5000円増えたこと。哲也が住民票に入ったことで世帯の認定が外れたこと。今年度の課税は変えられないこと。

千世子は途中で1度、哲也の名前が出た時だけわずかに目を伏せた。それ以外は竜平の話を正面から聞いていた。話を終えてから、竜平は手帳をテーブルに置いた。数字のページを開いたまま千世子の方に向けた。千世子は数字を見た。しばらく見ていた。それから言った。「貯蓄を使うしかないのかしら」

「今年度は使うしかない」と竜平は言った。「来年度に向けて何か手が打てれば変わるが、今はまだ分からない」千世子は頷いた。少し間があった。千世子が言った。「薬を1日おきにすれば半分になる。医師に相談して」

竜平は首を振った。「そんなことはしない。薬は医師の指示通りに飲む」千世子は何も言わなかった。

その夜、竜平は遅くまで起きていた。千世子が寝室に入った後、スタンドをつけて手帳と別の紙を広げた。毎月の収入と支出を全部書き出して、削減できる項目を探した。食費、光熱費、通信費、どれもすでに必要最低限まで削ってある。これ以上削れる項目が見当たらなかった。

竜平は電卓を閉じた。紙をまとめて手帳の間に挟んだ。スタンドの光の中で、竜平は手帳の表紙を見ていた。革の表紙は傷んでいる。買い換えようと思ってずっと先送りにしていた。買い換える必要はない。まだ使えると思っていたが、本当は節約のために後回しにし続けていただけだった。

竜平はボールペンを取り出した。手帳を開いて余白に一行書いた。「出口を探す」と書いた。その一行の下に何も書かなかった。

数日後の夕方、千世子が台所で鍋を火にかけていた。竜平が水を飲みに台所に入った時、千世子が小声で何かを数えているのに気づいた。見ると、千世子は薬の錠剤を手のひらの上で確認していた。1錠を指でつまんで確認して、また戻した。

「何をしているんだ?」と竜平は言った。千世子は振り返った。「この薬、今月分はここにある分だけ」と言いかけて止まった。竜平は千世子の手のひらを見た。薬の数が、今月処方されたはずの数より少ない気がした。

「先週、割って飲んだりしたか」と竜平は言った。千世子は少し間を置いた。その間が答えだった。竜平は千世子の手から薬を受け取って袋に戻した。千世子は何も言わなかった。竜平も何も言わなかった。ただ竜平は袋を千世子の前に置いて「今月分は全部飲め」と言った。声は静かだった。千世子は頷いた。

竜平は台所を出た。居間に戻ってから、竜平は椅子に座った。手帳を開いた。開いたが何も書かなかった。ボールペンを手の中で転がしながら、台所の千世子の気配を聞いていた。千世子が薬を割っていた。その事実が竜平の中で静かに沈んでいた。数字の問題ではなかった。千世子が毎月受け取っている薬を、竜平に黙って分割して少しでも長持ちさせようとしていた。それが何を意味するか、竜平は分かっていた。千世子は怖いのだ。薬が変えなくなること。竜平に負担をかけること。

竜平はボールペンを手帳の表紙に当てた。トンと一度叩いた。それから止めた。その音が今日は普段より重く聞こえた。

翌朝、竜平は6時に起きた。コンビニまで歩く前に玄関の鍵を確認した。それから外に出た。朝の空気はまだ涼しかった。梅雨前の6月の朝で、空が薄い雲に覆われていた。竜平は歩きながら、今日からどう動くかを考えた。区役所で聞いた内容は全て把握した。制度の仕組みも理解した。では次は何をするか。出口はどこかにあるはずだ、と竜平は思った。制度というものは入口があれば出口もある。自分がまだ知らないだけで、どこかに抜け道がある。

竜平はコンビニの前を通り過ぎた。今日は入らずにそのまま歩き続けた。制度の本を読む必要があった。図書館に行こうと思った。それが今できることだった。

7月に入ってから、竜平は図書館に通うようになった。区立図書館は駅から少し離れたところにある3階建ての建物だった。開館の9時半に合わせて家を出て、できる日は夕方まで粘った。法律の棚よりも行政手続きの解説本が並ぶコーナーに時間をかけた。年金受給者向けのガイドブック。高齢者医療費の手引き。社会保障制度の解説。それらを端から引っ張り出して、付箋を挟みながら読んだ。職員に質問することはなかった。分からないことがあればまず自分で調べた。読んで理解できなければもう1度読む。物流の管理職をしていた頃から変わらない習慣だった。人に頼る前に資料を読む。それが竜平のやり方だった。

7月の第2週に入ったある夜、竜平は図書館で借りてきた本を食卓に広げていた。千世子はすでに寝ていた。スタンドの光だけで細かい字を読んでいた。年金の受給に関する特例のページで、竜平の手が止まった。「任意停止」という項目があった。受給者本人の申し出により、一時的に基礎年金の受給を停止することができる。申請月の翌月から最長2ヶ月、受給を自ら止めることができる制度だった。停止している間、その月の基礎年金は0になる。停止した分は戻ってこない。完全に消える。しかし停止している期間中、その分の所得も発生しない。

竜平は鉛筆を手に取ってその箇所に横線を引いた。もし基礎年金を1ヶ月分だけ任意停止すれば、今年度の合計所得がどう変わるか。竜平は電卓を引き寄せて計算した。基礎年金の月額を年収から引いた数字は、住民税課税の基準額をわずかに下回った。竜平は電卓の数字を見た。もう1度計算した。同じ数字が出た。

しかし条件がある。竜平はすぐに気づいた。世帯に生産年齢の者がいないこと。つまり哲也の住民票が外れていなければ、高齢者世帯の要件は回復しない。非課税の認定を取り戻すためには、所得の条件と世帯構成の条件、両方を同時に満たす必要があった。片方だけでは足りない。

哲也に住民票を動かしてもらう。それが前提になる。竜平は手帳を開いて2列の数字を書き始めた。左列に現状の収支の見通し、右に哲也が住民票を出させ、かつ竜平が基礎年金を1ヶ月分停止した場合の試算。右列の計算はいくつかの前提を置く必要があった。来年度以降、千世子の医療費上限が旧水準に戻ると仮定する。今年度の損失は取り戻せないが、来年度から正常化できれば貯蓄の減りが止まる。停止した1ヶ月分の年金は消えるが、それよりも医療費の累積損失の方がはるかに大きい。右の数字はかろうじて成立していた。余裕はなかった。来月の食費を今月より削る必要がある。外食はゼロにする。光熱費も工夫する余地がある。それでも毎月の収支には合う水準だった。

竜平は手帳を閉じた。スタンドを消した。暗い居間の中で、竜平はしばらく座っていた。問題は哲也だと思った。

翌朝、竜平は哲也が起きるのを待った。哲也は11時近くになって台所に出てきた。寝癖のついた髪で、シャツの裾が出たまま冷蔵庫を開けた。牛乳を出して、そのままコップに注がずにパックから直接飲もうとして、竜平の視線に気づいてコップを出した。

竜平は新聞を置いた。「哲也」と呼んだ。哲也はコップを持ったまま振り返った。竜平は言った。「区役所で制度を調べてきた。お前が住民票をここから出させれば、来年度から母さんの医療費が元の水準に戻る可能性がある。今月中に手続きをしてくれ」

哲也はコップをテーブルに置いた。少し間があった。その間に哲也の顔の表情が少しだけ動いた。驚きとも焦りとも取れた。それから哲也は言った。「まだ仕事が決まってないんだ。住所がないと面接受けられない会社があって、もう少し待ってほしい」

竜平は言った。「最初から2ヶ月の約束だった」哲也は視線を斜め下に向けた。腕を組んだ。それから言った。「2ヶ月ってのは目安で、状況が変わったら伸ばせると思ってた」

竜平は黙って哲也を見た。哲也は続けた。「俺だって早く自立したい。でも就職活動は思ったより時間がかかる。ハローワークにも毎週行ってるし、書類も何社か送った。ただタイミングが合わなくて」

竜平は言った。「お前のタイミングの問題で、母さんの薬代が月14万を超えている」哲也の顔が少しこわばった。だが何も言わなかった。竜平は続けた。「今月末に転出の手続きをしてくれ。それだけでいい。次の住所は友人のところでも、役所の扶助でも、ネットカフェでも構わない」

哲也は黙っていた。「1週間後に確認する」と竜平は言って立ち上がった。哲也は返事をしなかった。

その日の夕方、千世子が帰ってきて3人で夕食を食べた。哲也はいつもより口数が少なかった。千世子が何度か話しかけたが、「うん」とか「そうだね」という短い返事しか返ってこなかった。千世子は竜平を見たが、竜平も何も言わなかった。食後、哲也はすぐに部屋に引っ込んだ。

千世子が洗い物をしながら「何かあったの?」と声をかけた。竜平は住民票の話を千世子に言っていなかった。心配をかけたくなかった。「何でもない」と言った。千世子はそれ以上聞かなかった。

1週間が過ぎた。竜平は哲也に確認した。「手続きはしたか」と。哲也は「来週やる」と言った。もう1週間が過ぎた。また確認した。哲也はまだ動いていなかった。「今週中には」といった。

7月の末になった。竜平は毎日、取り立てが来るかもしれないという予感を持ち始めていた。哲也が何か隠しているという感覚は最初から薄くあった。それが日ごとに強くなっていた。

7月最後の日曜日の夜、竜平が図書館から帰ると、玄関に見慣れない靴が揃えてあった。男物の汚れたスニーカーだった。居間から声が聞こえた。哲也の声と、知らない男の声だった。竜平は廊下で立ったまま耳をそばだてた。聞き取れたのは断片だった。「だから場所を動かせないんだ」という哲也の声。それから知らない男の声で「期限を過ぎてるのは分かってるな」という低い声。

竜平は居間のドアを開けた。ソファに哲也と見知らぬ男が座っていた。30代後半に見えた。細身で、腕に入れ墨が覗いていた。男は竜平が入ってきた瞬間、立ち上がった。「失礼します」と男は言った。声は低く、感情がなかった。哲也に目配せしてから玄関に向かった。竜平は男の前に立たなかった。通り道を開けた。男は出ていった。玄関のドアが閉まる音がした。

竜平は哲也を見た。哲也は視線を床に落としていた。「今夜、話をしろ」と竜平は言った。

その夜遅く、千世子が寝てから、竜平と哲也は食卓に向かい合った。竜平は最初に聞いた。「さっきの男は誰だ?」哲也はしばらく黙っていた。それから「金の関係だ」と言った。「どういう金か」と竜平は繰り返した。哲也は腕を組んで天井に目を向けた。それから言った。「仮想通貨に入れてた。結構長くて、損した」

竜平は続きを待った。哲也はゆっくりと話した。「早く取り返そうと思って、別のところから借りた。でもそれも損した。借りた金が返せてない」

「いくら借りたんだ」と竜平は聞いた。哲也は答えなかった。竜平は繰り返した。「いくらだ」哲也はようやく数字を言った。竜平は表情を変えなかった。ただ手帳を取り出してその数字を書いた。書きながら、ペン先がページに押し付けられる力が少し強くなった。それだけだった。

「借りる時にこの住所を使ったのか」と竜平は聞いた。哲也は頷いた。「だから住民票を動かせなかった」と竜平は言った。「動かせば取り立てが追ってくると思ったから」哲也は何も言わなかった。それが答えだった。

竜平は手帳を閉じた。手帳の表紙を見ていた。それから哲也を見た。「お前は最初からそのつもりだったのか?」と竜平は言った。「俺たちの住所を借りる代わりに、住民票は動かさない」哲也は顔を上げた。「そんなつもりじゃなかった」と言い始めた。竜平は遮らなかった。哲也が言い終わるのを待った。哲也の言い訳は途中で言葉が細くなって、最後は消えた。

竜平は立ち上がった。「今夜の話はここまでだ」と言った。哲也は何か言いたそうだったが、言わなかった。竜平は居間を出た。

その夜、竜平は寝室に入らずに居間のソファで横になった。眠れなかった。天井を見ながら、今夜の話の内容を頭の中で整理した。哲也が住民票を動かせない理由が分かった。取り立て先にこの住所が渡っている。哲也がここから出せば、どこへ行ったか分からなくなると取り立て業者に判断される可能性がある。だから哲也はここから出られない。ならば竜平の計画は詰まっている。哲也が転出しない限り、任意停止の制度を使っても世帯要件が変わらない。非課税の認定は戻らない。千世子の医療費は来年度も高いままだ。

竜平はその夜、眠りにつかないまま夜明けを迎えた。

翌朝、竜平が起き出すと、哲也の部屋のドアが開いていた。中を覗くと布団だけが残っていた。枕もある。しかしキャリーケースがなかった。引き出しを開けると中が空だった。台所に行くと、食卓の上に財布が置いてあった。千世子の財布だった。竜平は財布を開けた。中が空だった。次に居間の棚の引き出しを開けた。千世子の薬代として先週引き出しておいた現金、10万円を入れた封筒がそこにあるはずだった。封筒はあった。しかし中身がなかった。

竜平は封筒を手に持ったまま引き出しの前に立っていた。哲也に電話した。繋がらなかった。もう1度かけた。同じだった。3回かけた。3回とも繋がらなかった。竜平は電話を置いて、封筒をそのまま引き出しに戻した。引き出しを閉めた。

千世子が起きてくる前に、竜平は台所に立って湯を沸かした。千世子が寝室から出てきたのは7時過ぎだった。台所に入ってきて「おはよう」と言った。それから哲也の部屋のドアが開いているのに気づいた。「あれ」と言った。「早く出かけたみたいだ」と竜平は言った。千世子は少し首をかしげた。「朝早くからどこへ」と言いかけたが、竜平が茶を出したのでそちらに気が向いた。竜平は千世子の財布の中身についてはその時言わなかった。

午前中、竜平は区役所の住民票担当窓口に電話した。最近、息子の住民票の転出手続きが行われたかどうかを確認したかった。担当者は個人情報の扱いについて少し確認してから、「直近での転出手続きはありません」と答えた。竜平は礼を言って電話を切った。

哲也は逃げた。しかし住民票はここに残っている。竜平は手帳を開いた。今の状況を書き出した。哲也が20万円を持って消えた。住民票は動いていない。取り立て業者がこの住所に来る可能性がある。千世子の来月の薬代の手元金が0になった。書き出すと状況がはっきりした。はっきりしても出口は見えなかった。

その夜、竜平は千世子に全て話した。哲也が金を持って出ていったこと。借金があったこと。取り立ての人間が来ていたこと。住民票がまだここに残っていること。薬代の現金が消えたこと。

千世子は竜平の話を最後まで黙って聞いた。話が終わってもしばらく何も言わなかった。窓の外で夏の夜の虫の声がしていた。それから千世子が言った。「薬代はどうするの?」竜平は答えた。「貯蓄から出す。今月は何とかなる。来月は」と竜平は言った。「来月も何とかする」

千世子は頷いた。泣かなかった。口を少し結んで、テーブルの上の自分の手を見ていた。竜平はその横顔を見た。千世子が頭に巻いているスカーフの端がわずかに揺れた。台所の換気扇が回っているせいだった。竜平はその揺れを見ながら、今夜はもう何も考えないようにしようと思った。考えることは明日以降にする。今夜はここまでにする。

しかし竜平が眠りに着いたのは夜中の3時を過ぎていた。

翌朝5時半、竜平は目を覚ました。居間に出て手帳を開いた。今日できることを書き出した。区役所に哲也の住民票を職員で動かせないか確認する。動かせなければ他の方法を探す。千世子の来月の薬代の手当てをする。取り立て業者が来た場合の対応を決める。竜平は書き出したものを読んだ。それから書き足した。「別の出口を探す」と書いた。

窓の外が少しずつ明るくなっていた。梅雨が開けた7月末の朝で、空気がすでに湿っていた。竜平はボールペンを手帳の表紙に当てて1度だけ叩いた。トンという音がした。千世子がまだ寝ていた。竜平は静かに台所に立って、今日の朝食の準備を始めた。

8月に入って最初の週、取り立て業者が2度来た。1度目は昼間だった。竜平は居間で手帳を広げていた。チャイムが鳴って、ドアスコープを覗くと知らない男が1人立っていた。30代に見えた。Tシャツにジーパンという格好で、手に何も持っていなかった。竜平はドアを開けなかった。「黒川哲也さんのご自宅ですか」という声がした。竜平はドア越しに答えた。「息子はここにはいない」男はしばらくそこに立っていた。それから「いつ戻られますか」と聞いた。「分からない」と竜平は言った。「連絡先も知らない」「また伺います」という声がして、足音が遠ざかった。竜平はドアから離れて居間に戻った。手帳を閉じた。

2度目は夜だった。チャイムが鳴ったのは9時を過ぎていた。千世子がすでに寝室にいた。竜平はドアスコープを覗いた。今度は男が2人いた。1人は昼間と同じ男だった。もう1人は年上に見えて、腕に入れ墨が覗いていた。竜平はドアを開けなかった。前と同じことを言った。「息子はいない。連絡先も知らない」今度は少し時間がかかった。男たちはドアの前で何か小声で話していた。それから「失礼します」という声がして去った。竜平は廊下に立ったまま、足音が階段を降りていくのを聞いた。

寝室のドアが少し開いた。千世子が顔を出した。「何?」と言った。「セールスだ」と竜平は言った。「もう行った」千世子は頷いてドアを閉めた。竜平は居間に戻って電気を消した。暗い中でソファに座った。外から車の音が聞こえた。このまま毎週来られたら、千世子が怖い思いをする。それだけは避けなければならなかった。しかし竜平には取り立て業者を追い払う手段がなかった。哲也の借金の責任は竜平にはない。しかし哲也の登録住所がここである限り、ここに来られ続ける。竜平は暗い居間に座ったまま長い間考えた。

8月の中旬、定期受診の日だった。竜平は付き添いで病院まで行った。千世子の主治医は山田という50代の医師で、毎回同じ机の同じ椅子に座って、同じ淡々とした口調で診察する人だった。千世子の最近の体調を聞いて、血液検査の結果を確認して、「投薬の調整が必要かもしれない」と言った。「費用が増える可能性があります」と山田は言った。その時、竜平を見た。竜平は頷いた。

診察が終わって廊下に出ると、千世子が待合いの椅子に座って薬を待っていた。竜平は隣に座った。千世子は何も言わなかった。竜平も何も言わなかった。2人で蛍光灯の光の下で番号が呼ばれるのを待った。薬を受け取って病院を出た。

入口の前で千世子が「今日は少し歩いてもいい」と言った。竜平は千世子の顔を見た。真夏の日差しが強かったが、千世子の顔色は悪くなかった。「少しだけなら」と竜平は言った。2人で並んで歩いた。千世子が先に話した。「夏の花が咲いているわね」と言った。路地の塀の向こうから何かの枝が出ていた。竜平はそれを確認してから「そうだな」と言った。

竜平は病院からの帰り道、千世子とは別のルートで歩いた。千世子は一足先にバスに乗せた。自分はもう少し用事があると言った。嘘ではなかった。ただ何の用事かは言わなかった。

竜平は歩いた。考えながら歩いた。考えなければならないことが多すぎた。取り立て業者の問題、千世子の医療費の問題、貯蓄の減り、哲也の行方、来年度の見通し。どれも繋がっていた。どれか1つを切り離して解決する方法がなかった。

古い住宅街を抜けた先に小さな公園があった。子供が遊ぶような施設のない、区が管理する緑地に近い場所だった。ベンチが2つと、低木の植え込みが続いている。平日の昼間で、人の姿はなかった。竜平はそこを通り過ぎようとして足を止めた。植え込みの前に、作業着を着た男がしゃがんでいた。60前後に見えた。軍手をして、剪定バサミを手に持っている。低木を丁寧に見ながら、枝を選んでハサミを入れていた。

男の前の低木に、小さな花が咲きかけていた。まだつぼみのものも多かった。それなのに男はハサミを入れた。つぼみのついた枝ごと落とした。竜平は思わず声をかけた。「すみません」と言った。男が顔を上げた。目が細く、肌が日焼けして黒い。竜平を見て「何か」という顔をした。

「花が咲きかけているのに、切っているんですか?」と竜平は言った。男は立ち上がった。膝の辺りをはたいてから、「この木は今、根がやられてるんです」と言った。「春先に虫が入って、根の中でやられた」竜平は続きを待った。男は剪定バサミを軍手の上に置いた。「根が弱ってると、木全体に水と養分が行き渡らなくなる。その時、花を咲かせようとすると、木はそっちに残りの力を全部使う。そうすると根の方が持たなくて、木が枯れる。だから今は花は諦めてもらって、根に養分が戻るようにする。そのための剪定です」

「花は咲かないんですか?」と竜平は言った。「今年は咲かせられない」と言った。「来年、根が回復したら咲く。でも、全部咲かせようとしたら、来年は基礎のものがなくなる。それだけのことです」男はそれだけ言って、またしゃがんで作業を再開した。迷いのない手つきでハサミが入った。つぼみが落ちた。

竜平はしばらくその作業を見ていた。それから歩き出した。歩きながら、男の言葉が頭の中で繰り返された。「根に返す。花を諦める。今年全部咲かせようとしたら、来年は基礎のものがなくなる」

竜平は立ち止まらなかった。しかし歩く速度が少し変わった。自分が今まで考えていたのは、失ったものを取り戻す方法だった。非課税の認定を戻す。医療費の上限を元に戻す。哲也を追い出す。それらは全て、現状を元の形に戻そうとする発想だった。しかしそれは哲也が住民票を動かすという前提に依存していた。哲也はいない。住民票は動かない。その前提が崩れた。今、元に戻す方法はない。

ならば、別の入り口がある。千世子をこの状況から切り離す。考えが形を持った瞬間、竜平は歩きながら1度だけ首を振った。すぐに否定したかった。しかし否定するための論拠が出てこなかった。代わりに数字が動き出した。千世子が単独の世帯になれば、彼女には収入がない。無収入の単身高齢者は住民税非課税世帯の認定を受け、高額療養費の自己負担上限が最低区分になる。生活保護に準じた医療費の公費補助が適用される。千世子の薬はほぼ全額が公費で賄われる水準になる。

どうすれば千世子が単独の世帯になるか。1つしか方法がなかった。

竜平は区役所の方向に足を向けた。区役所の1階に入った。今日は税務課ではなく、戸籍担当の窓口が目的だった。窓口に向かう前に、竜平は壁際の棚の前で立ち止まった。各種届出書の棚で、婚姻届や転出届が置いてある。その棚の隅に、白い用紙が何枚か立てかけてあった。「離婚届」と書いてあった。

竜平は手を伸ばして1枚取った。A3サイズの用紙で、書式は単純だった。夫の氏名、妻の氏名、本籍、届出人、証人2名の署名。協議離婚の場合は裁判所も弁護士も必要ない。2人が合意して、証人が2名いれば、あとは紙1枚で完了する。

竜平は用紙を折りたたんで鞄に入れた。それから税務課の窓口に向かった。白鳥がいた。竜平を見て「また来ましたか」という顔をした。言葉では言わなかったが、竜平はそう呼んだ。竜平は番号札を取って待った。白鳥の前に座ってから、竜平は言った。「家庭の話として確認したい」

白鳥はメガネの奥で竜平を見た。「もし私が離婚して、妻が別の住所に移した場合」と竜平は続けた。「妻は無収入です。無収入の単身高齢者として、新しい世帯で住民税非課税世帯の認定を受けられますか?」

白鳥はしばらく黙っていた。それからパソコンを操作した。「確認しています」と言った。竜平は待った。白鳥が口を開いた。「新しい世帯の課税状況は、その世帯の所得に基づいて独立して判定されます。無収入の単身者であれば、住民税非課税世帯の要件を満たす可能性が高い。その場合、高額療養費の自己負担上限は」

竜平は続けた。白鳥は確認した。「住民税非課税世帯であれば、最低区分が適用されます。奥様が現在処方されている生物学的製剤の種類によりますが、月の自己負担は大幅に軽減されます。具体的な金額は主治医や薬局での確認が必要ですが、現在の水準から大きく下がる見込みになります」

竜平は白鳥の顔を見た。白鳥は画面から目を上げなかった。「私の側はどうなりますか?」と竜平は聞いた。白鳥は操作を続けながら言った。「竜平様の世帯には哲也様の住民票が残っています。今後も哲也様が転出されない限り、世帯構成は変わりません。竜平様の課税状況は現状と変わらず、今年度と同水準の税負担が継続します。また、哲也様の借入れに関してこの住所が使われているとすれば、その対応はご自身でされることになります」

「つまり」と竜平は言った。「妻の負担はなくなり、私が全部引き受けることになる」白鳥はその言葉には答えなかった。画面を見ていた。竜平はもう1度聞いた。「この手続き、制度の範囲内ですか?」白鳥は竜平を見た。今日は初めて、少し長く竜平の顔を見た気がした。「制度の要件を満たしていれば、申請は適法です」と白鳥は言った。「制度はそのようにできています」その言い方には何も余分なものがなかった。進めてもいないし、止めてもいない。ただ事実だけを言った。

「ありがとうございました」と竜平は言って立ち上がった。白鳥はすでに次の書類に向かっていた。

区役所を出ると、8月の午後の日差しが頭から降ってきた。竜平は日陰を選びながら歩いた。鞄の中に折りたたんだ離婚届があった。

家に帰ると、千世子は居間で横になっていた。今日は疲れたのだろう。スカーフを巻いたままソファに浅く横たわっていた。竜平が入ってきた気配で目を開けた。「お帰り」と千世子は言った。「ただいま」と竜平は言った。千世子はまた目を閉じた。竜平は台所に行って、冷たい水を2杯注いだ。1杯を千世子の手元に置いた。千世子は目を開けずに「ありがとう」と言った。竜平は自分の水を飲んだ。それから居間の椅子に座って、鞄から手帳を出した。離婚届は出さなかった。手帳だけ出して開いた。

千世子の姿が視界の端にあった。スカーフが額の辺りまでずり下がっていた。竜平はそれを見たが、直しには行かなかった。千世子が自分で直すだろう。

その夜、千世子が早めに眠った後、竜平は食卓に1人で座った。鞄から離婚届を取り出して広げた。書式を端から読んだ。夫の氏名、妻の氏名、本籍、届出人、証人2名。竜平はボールペンを取り出して、自分の氏名の欄に字を書いた。「黒川竜平」字は普段と同じだった。手も震えなかった。書き終えた後、ペンを置いて、少しの間を膝の上に置いた。千世子の欄は空白のままにした。証人の欄も空白だった。証人は元の同僚に頼めばいい。2人いる。竜平より5歳ほど若い男で、退職後も年に1、2度は会う仲だった。1人は川崎に住んでいる。もう1人は埼玉だ。どちらかに電話すれば断らないだろう。ただ事情を説明することを考えると気が重かった。説明しなくても委細を押してくれるかもしれないが、それも竜平の性格に合わなかった。

竜平は離婚届を折りたたんで手帳の中に挟んだ。問題は千世子にどう話すかだった。本当のことを話せば、千世子は拒否する。竜平はそれを確信していた。「私のために離婚するなんてできない」と千世子は言う。そういう人だった。だとすれば、別の理由を作るしかない。

竜平は夜中の1時過ぎまでその言葉を探した。どんな言葉を使えば、千世子が信じて、かつ傷つきすぎないか。しかし考えれば考えるほど、傷つかせない言葉などないとは思えてきた。どう言っても傷つく。40年一緒にいた相手に離婚を告げる言葉が傷つかないはずがなかった。それならば、早く終わらせることが唯一、千世子への誠実さになる。

竜平はスタンドを消した。暗い居間で少しの間座っていた。それから立ち上がって寝室に向かった。ドアを開けると、千世子は眠っていた。横向きになって規則正しく息をしていた。スカーフが枕の横に置いてあった。外しておいたのだろう。竜平はそれを見てからドアを閉めた。

数日後の夕方、竜平は久しぶりに魚の煮付けを作った。千世子が好きな料理だった。スーパーで真鯛の切り身を見て、「今日はこれにしよう」と思った。普段は値段を見て別のものにするが、その日は迷わなかった。台所で鍋をかき混ぜていると、千世子が入ってきた。「珍しいね」と言った。「気が向いた」と竜平は言った。千世子は鍋を覗いて「いい匂い」と言った。それから食器の準備を手伝い始めた。

竜平は千世子の背中を見た。今日の千世子はいくらか調子が良さそうだった。先週の受診の後から、少し顔色が戻っていた。2人で食卓に着いた。食事の途中、竜平は箸を置いた。千世子が顔を上げた。竜平は手帳を取り出した。手帳から離婚届を取り出した。折りたたまれた白い紙を食卓の上に置いた。

千世子はその紙を見た。少し間があった。千世子の表情が変わった。笑っていた顔から笑いが消えた。竜平は言った。「別れよう」

千世子は何も言わなかった。竜平は続けた。「お前が嫌いになったわけじゃない。ただ、俺はもう限界なんだ。哲也のことも金のことも、全部が重くなった。お前の世話を続ける気力がない。俺1人では抱えきれない」

千世子はまだ黙っていた。手が箸を持ったまま止まっていた。「お前が単身になれば、区が面倒を見てくれる」と竜平は続けた。「市営住宅に入れる。薬代もなんとかなる。俺と一緒にいると、もうそれが保証できない」

千世子が顔を上げた。その目に何かが走った。竜平はその目を正面から見た。「なぜ薬代のことを知っているの?」と千世子は言った。声が低かった。竜平は答えなかった。千世子はもう1度言った。「薬代のことも、市営住宅のことも、なぜそんなに詳しく知っているの?私のために調べたの?」

竜平は視線を離婚届に落とした。千世子が立ち上がった。竜平の顔を覗き込もうとした。竜平は顔を上げなかった。千世子の声が変わった。「あなた、私のために」と言いかけて止まった。

竜平は顔を上げた。千世子の目を見た。そして言った。「違う。俺のためだ。俺が楽になりたい。お前の病気の管理が、俺には重すぎる。正直に言う。もう無理なんだ」

千世子はその言葉を聞いた。聞いた。それから、千世子の目から涙が出た。拭うことはなかった。立ったまま竜平の顔を見て泣いた。「あなたはそういう人じゃない」と千世子は言った。声が割れた。「40年一緒にいて、あなたがそういうことで逃げる人じゃないことくらい分かってる。なぜ本当のことを言わないの?」

竜平は何も言わなかった。千世子が竜平の胸を叩いた。力があるわけではなかったが、続けて叩いた。「なぜ1人で決めるの?なぜ言ってくれなかったの?」と声が途切れながら言った。竜平は千世子の手が当たるたびに奥歯を噛んだ。唇の裏を噛んだ。声が出そうになるたびに飲み込んだ。表情を動かさなかった。

千世子が竜平の腕を掴んだ。「行かないで」と言った。一言だけ言った。竜平は千世子の手を両手で包んだ。1度だけゆっくり握った。それから静かに話した。立ち上がって上着を取って玄関に向かった。

千世子の声が後ろでした。「竜平」という声だった。名前を呼んだのはいつ以来だろうかと竜平は思った。しかし振り返らなかった。ドアを開けて外に出た。

廊下は静かだった。隣の部屋からテレビの音が小さく聞こえた。竜平はエレベーターのボタンを押さずに非常階段に向かった。鉄の扉を開けて、段を降りた。3階から1階まで、足音を聞きながら降りた。外に出ると、夜の空気が顔に当たった。8月の夜で、まだ蒸し暑かった。

竜平は歩き出した。どこに向かうでもなく、ただ歩いた。街灯がついていた。歩道に人影がまばらにあった。竜平はその中を歩いた。ポケットの中でボールペンが揺れた。いつも持ち歩いているものだった。竜平は指でその形を確かめた。細長いプラスチックの感触。それだけ確かめて、また歩き続けた。

夜の町は静かだった。竜平は長い時間歩いた。家に戻ったのは日付が変わった後だった。玄関を静かに開けると、居間のスタンドだけがついていた。食卓の上を見た。離婚届があった。千世子の欄に字が書かれていた。印鑑が押されていた。

竜平は食卓に近づいた。紙を手に取った。千世子の筆跡を見た。乱れていなかった。少し離れた場所に、千世子のスカーフが畳んで置いてあった。無地の古い布が、スタンドの光の下で薄く光っていた。

千世子は寝室にいた。ドアが閉まっていた。光が漏れていなかった。竜平は離婚届を折りたたんで手帳に挟んだ。スタンドを消した。暗い居間で、竜平はしばらく立っていた。それから椅子に座った。何も考えなかった。ただ暗い中に座っていた。外から虫の声がした。どこかの家の換気扇が回っている音がした。竜平はそれらを聞きながら、暗い居間に座り続けた。

離婚届が受理されたのは8月の最後の週だった。区役所の窓口で番号を呼ばれた。竜平は鞄から封筒を取り出した。中に離婚届と証人2名の署名が入っていた。証人は川崎に住む元の同僚と、埼玉の元の同僚に頼んだ。2人とも事情は詳しく話さなかった。ただ証人が必要だとだけ言った。桑田は電話で少し黙ってから「分かった」と言った。森田は「そうか」とだけ言った。2人ともそれ以上聞かなかった。

窓口の担当者は若い女性で、書類を確認しながらパソコンを操作した。「不備はありますか?」と竜平は聞いた。「問題ありません」と担当者は答えた。少し間があって、「受理されました」という一言の後、控えを1枚渡された。40年が5分で終わった。

竜平は控えを鞄に入れて区役所を出た。外は晴れていた。8月の末の強い日差しだった。竜平は日陰のない歩道を歩きながら、頭の中を空にしようとした。空にはならなかった。ただ、いつもと違うしこさがあった。決めたことが終わったというしこさだった。

千世子は離婚届を出した翌日から、千世子の弟の家に身を寄せていた。弟は埼玉に住んでいる63歳で、妻と2人暮らしだった。竜平が電話で事情を話すと、弟は長い間黙っていた。それから「分かりました」とだけ言った。それ以上は聞かなかった。

千世子が荷物をまとめた日、竜平は朝のうちに外出した。見送るつもりはなかった。見送れば何かが崩れる気がした。夕方帰宅すると、部屋が変わっていた。変わったというより、減っていた。千世子が使っていた棚の上に薬の小袋がなかった。台所の引き出しの位置が数cm動いていた。千世子が使いやすいように少しずつ動かしていたのが、元に戻っていた。押入れを開けると、千世子の布団がなかった。それだけだった。

竜平は台所に立って湯を沸かした。茶を1人分入れた。飲みながら窓の外を見た。夕暮れの空が橙色から青に変わっていくところだった。

9月に入ると、千世子の市営住宅への入居申請が進んだ。収入のない単身高齢者は優先枠がある。千世子の弟が手続きを手伝ってくれた。審査は1ヶ月もかからなかった。10月の初めに千世子の入居が決まったと、弟から連絡が来た。竜平は電話を受けながら手帳に日付と内容を書いた。それから礼を言って電話を切った。場所は区内の別の住所だった。ここから電車で4駅ほどのところにある。竜平はその住所を手帳に書いて、何も書きたさなかった。

千世子が新しい住所に転入してから、医療費の区分変更の申請が通った。11月の分から、千世子の薬の自己負担が最低区分に変わった。弟から短い報告が届いた。「先生も顔色がいいとおっしゃっていました」という内容だった。竜平はそれを読んで返信を書いた。「よかった」と書いた。「お世話をかけます」と書いた。「何かあれば連絡してください」と書いた。それだけにした。

竜平の側の状況は何も改善していなかった。哲也の住民票はまだ竜平の世帯にあった。何度役所に確認したが、転出手続きはされていなかった。取り立て業者は9月になっても来た。10月も来た。竜平はその度にドア越しに同じことを言い続けた。「息子はいない。連絡先も知らない」ある夜は、男たちが2時間ほど廊下で待っていた。竜平は電気を消して暗い居間に座っていた。外で話す声が聞こえた。竜平は声の内容は聞き取ろうとしなかった。ただ静かに時間が過ぎるのを待った。足音が遠ざかったのは深夜になってからだった。

住民税と保険料の今年度分は全額竜平が払い続けた。白鳥が示した計算通りだった。毎月の手帳の数字が減っていった。

10月のある朝、竜平はハローワークに行った。以前に務めていた物流会社は退職して6年が経つ。その後は年金生活で働いていなかった。働く必要がなかったからだ。しかし今は必要がある。

ハローワークの求人端末の前で、竜平は条件を絞った。年齢68歳、経験物流管理、希望週4日以上、時間帯は問わない。表示された求人は多くなかった。年齢を入力した時点で選択肢が絞られた。竜平はその中から順番に見ていった。物流センターの夜間仕分け作業という求人があった。時間帯は22時から翌朝6時、週4日から5日。体力的な制約はあるが年齢不問と書いてあった。基本給は悪くなかった。深夜は割り増しが乗るからだ。

竜平は担当者に声をかけて面接の申し込みをした。面接は翌週だった。竜平はスーツを出してきた。退職以来ほとんど着ていないスーツで、上着の襟の辺りに少しほこりがついていた。はたいて来た。

面接会場は倉庫街の一角にある事務所だった。担当者は40代の男性で、竜平の経歴を確認してから「物流の管理職があるんですね」と言った。「現場の作業は?」と聞いた。「若い頃にやっていました」と竜平は答えた。「仕分けと積み込みを5年ほど。その後管理職に上がりましたが、現場は今でも理解しています」

担当者は少し間を置いた。それから言った。「夜間の作業になります。体力的にきつい時期もある。大丈夫ですか?」竜平は答えた。「体は動きます。慣れれば問題ありません」担当者はそれ以上何も聞かなかった。1週間後に採用の連絡が来た。

11月から、竜平は夜間シフトで働き始めた。仕事はベルトコンベアで流れてくる荷物を仕分けて、エリアごとのラックに積む作業だった。管理職時代とは違う体の使い方が必要で、最初の1週間は腕が重かった。しかし物流の流れは体で知っていた。どこにどう置けば次の作業者が楽になるか、どの順番で動けば無駄がないか。身体より先に頭が動いた。

一緒に働く人間はほとんどが竜平より若かった。30代、40代が多く、外国人の作業員も何人かいた。竜平が1番年長で、リーダーというわけでもないが、何かを確認する時に声をかけられることがあった。竜平は知っていることは答えて、知らないことは知らないと言った。それだけだった。誰も竜平の事情を聞かなかった。竜平も聞かなかった。

最初の給料日、竜平は手帳の収支欄に新しい収入の数字を書いた。税引後の金額を書いた。それから支出と引いた。今月は赤字を出さずに済む計算になった。竜平はその数字をしばらく見た。

12月に入ると、センターの中の荷物量が増えた。年末の繁忙期で、シフトの日数が増えた。竜平は申し出た通りに入った。体が疲れていたが、疲れていれば眠れた。眠れることが今の生活では意味があった。

夜中の2時過ぎ、コンベアが止まるメンテナンスの時間に、作業員たちは休憩室に引き上げる。竜平は1度だけ外の駐車場の端に出た。12月の夜の空気が冷たかった。頭が少しすっきりした。東京の夜空は明るくて星が見えなかったが、空の色が深い紺色だった。竜平は少し経って、また中に戻った。

シフトを終えて帰宅するのは朝の6時過ぎだった。冬の朝はまだ暗い時間もあった。電車が動き始めの時間帯で、車内は通勤客が少なかった。竜平は端の席に座って、手帳を開くこともせず窓の外を見ていた。車窓の景色が動いていた。

12月の中旬の日曜日、竜平はシフトが明けてから、いつもと違う方向に歩いた。はっきりした目的があったわけではなかった。ただ天気が良かった。冬の朝の冷たい空気の中を、少し歩きたかった。

大きなスーパーマーケットの前を通ったのは偶然だった。入口の近くに、何人かの人が立っていた。週末の朝に集まる高齢者たちで、開店前の時間を話しながら過ごしているようだった。竜平はその集まりの中に千世子を見た。すぐには分かった。スカーフの色で。見たことがない色のスカーフだった。濃い緑がかった灰色で、以前の無地の色とは違う。それでもすぐには分かった。

千世子の横に同年代の女性が2人いた。3人で話していた。千世子が何かを言って、隣の女性が笑った。それから千世子も笑った。竜平は駐車場の端に立っていた。作業着の上に薄いジャケットを羽織っていた。シフト明けの格好だった。髪も整えていなかった。千世子は竜平の方を見なかった。

竜平は動かなかった。千世子と連れの女性たちが話しながらスーパーの自動ドアに向かって歩いていくのを見ていた。千世子の足取りが、夏に病院で見た時と違った。軽かった。自動ドアが開いた。千世子が中に入った。ドアが閉まった。

竜平はしばらくそのままでいた。千世子が笑っていた。その一瞬だけが竜平の中に落ちていった。千世子が笑っていた。連れの女性と話しながら、顔を崩して笑っていた。頬のしわが深くなる笑い方だった。

竜平は踵を返した。来た道を戻った。歩きながら、何かが緩んだ気がした。緩んだのが何なのか、はっきりとは分からなかった。ただ体のどこかの力が少し抜けた。

帰宅して上着を脱いで台所に立った。冷蔵庫を開けると、昨日の残りのご飯があった。温めて、インスタントの味噌汁を作って、1人で食べた。食べながら窓の外を見た。朝の空が白んでいた。

食べてから手帳を開いた。数字のページを確認した。今月のシフト数と収入の見込みを書いた。来月の予定を書いた。それから、数字ではないものを書こうとして少し迷った。竜平は手帳の余白に1行書いた。「千世子、元気そうだった」それだけ書いて手帳を閉じた。

年が明けて2027年の1月になった。年越しは1人でした。テレビをつけたが、特に見なかった。静かだった。竜平は0時になる少し前から、手帳の去年のページをめくり直した。4月から始まった出来事が月ごとに記録されていた。数字と短い言葉が書いてある。読み直しながら、竜平は特に何も思わなかった。ただ、これが去年だったという事実を確認した。

元日の朝、竜平は近くの神社まで歩いた。初詣というほどの気持ちではなかったが、正月に外を歩くのが昔からの癖だった。千世子も同じ癖で、2人で毎年歩いていた。今年は1人で歩いた。神社は混んでいた。竜平は列に並ばずに脇の道から入って、少し立って空を見た。冬の空が高く澄んでいた。それだけ確認して、また歩いて帰った。

1月は仕事が落ち着いていた。年末の繁忙が終わって、センターの荷物量が減った。シフトの日数も戻った。竜平は空いた時間に図書館に行った。久しぶりだった。法律の棚ではなく、今日は別の棚を見た。特に目的はなかった。ただ本の背表紙を見て歩いた。

1月の終わりのある夜、夜間シフトを終えて外に出た時、見慣れない男が駐車場の外に立っていた。コートを着て、眼鏡をかけていた。竜平は足を止めた。白鳥だった。区役所の税務課で何度も向き合った顔だった。今日は制服ではなく、紺色のコートを着た私服だった。メガネは同じものに見えた。縁なしの細いメガネ。

白鳥は竜平を見ていた。竜平も白鳥を見た。2人ともしばらく何も言わなかった。それから白鳥がゆっくりと頭を下げた。会釈よりも深い角度だった。挨拶でも謝罪でもない。もう少し別の何かだった。竜平は何も言わなかった。頭は下げなかった。ただ白鳥の顔を見ていた。

白鳥は頭を上げてから、向きを変えて歩き出した。駐車場の出口に向かってまっすぐ歩いていった。振り返らなかった。竜平は白鳥の背中を見ていた。コートの後ろ姿が出口の向こうに消えた。

なぜここに来たのか、竜平は聞かなかった。白鳥も説明しなかった。ただ来て、頭を下げて、去った。竜平はしばらくその場に立っていた。白鳥が見たものは、深夜の物流センターで仕分け作業をしている竜平の姿だったはずだ。それで白鳥は去年の一連のことを理解したのだろう。理解して、それで今夜ここに来た。竜平はそれだけを考えた。それ以上は考えなかった。

手帳を取り出した。冬の夜の空気の中で、表紙の革が冷えていた。竜平はページを開かずに手の中に持った。それから鞄にしまってバス停に向かった。始発の時間まであと少しあった。

2月になった。取り立て業者は1月を最後に来なくなっていた。哲也の借金がどうなったのか、竜平は知らなかった。知る方法もなかった。ただ来なくなったという事実だけがあった。

哲也の住民票は2月になってもまだここにあった。ある日、竜平は区役所に確認の電話をした。「手続きはされていませんか」と聞いた。「されていません」という返答だった。竜平は礼を言って電話を切った。それ以上は何もしなかった。哲也がどこで何をしているか、竜平には見当もつかなかった。生きているかどうかも分からなかった。考えても答えが出ないことは、手帳に書かなかった。

2月の日曜日、竜平はまたあのスーパーの前を通った。今日は千世子がいるかもしれないし、いないかもしれない。どちらでも構わないと思いながら前を歩いた。入口の脇に、千世子が1人でいた。エコバッグを下げて、掲示板の前に立っていた。何かのチラシを読んでいるようだった。頭に巻いたスカーフは、前回と同じ濃い緑がかった灰色のものだった。

竜平は立ち止まらずに歩いた。千世子の横を、距離を置いて通り過ぎた。千世子は顔を上げなかった。チラシを見ていた。竜平は歩きながら横目で千世子の顔を見た。1秒か2秒か。顔色が良かった。頬に赤みがあった。夏に病院で見た時の、薬の影響で青白かった千世子とは別人のような顔色だった。

竜平は視線を正面に戻して歩き続けた。角を曲がったところで、少しだけ歩調を落とした。それだけだった。特に何も考えなかった。ただ足が少し遅くなった。それだけだった。

3月になった。来年度の住民税の通知が届く季節が近づいていた。竜平は手帳を開いて、来年度の収支を試算した。哲也の住民票が動かない限り、世帯要件は回復しない。竜平の税負担は来年度も高いままだ。夜間シフトの収入がなければ、今の生活は維持できない。試算して数字を確認した。かろうじて成立していた。余裕はなかった。しかし毎月の収支は合う。それで十分だった。

3月の中旬のある朝、竜平はシフトを終えて帰宅する途中にコンビニに寄った。缶コーヒーを買った。温かいものを選んだ。冬はまだ終わっていなかったが、空気に少し春の気配があった。外の椅子に座ってコーヒーを飲んだ。朝の通勤が始まっている時間で、駅に向かう人たちが前を歩いていた。若い会社員、学生、子供を連れた親、それぞれの方向を向いて、それぞれの速さで歩いていた。竜平はコーヒーを飲みながらその流れを見ていた。

コーヒーを飲み終えて、缶をゴミ箱に入れた。立ち上がった。作業着のジャケットのジッパーを少し緩めた。歩き始めると、ポケットの中でボールペンが揺れた。竜平はそのまま歩いた。今日も手帳に数字を書く。明日もシフトがある。月の収支は今月と大きく変わらない。千世子は今月も薬を受け取りに行く。その薬を、千世子は自分で買いに行ける体になった。それで十分だった。

竜平は歩き続けた。3月の朝の町が、少しずつ明るくなっていた。

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