「女の子?よりによって女だなんて。なんで女なのよ、この役立たず。」 産まれたばかりの娘を抱いた私に、義両親はそう罵った。夫のかずやはスマホに夢中で、赤ちゃんにも興味がない。それでも私はこの子を守ろうと必死だった。なのに、出産直後の分娩室に現れた夫は、娘の顔も見ずに離婚届を突き出した。「すまん。離婚しよう。お互い今が都合いいよね。」…

「女の子?よりによって女だなんて。なんで女なのよ、この役立たず。」 産まれたばかりの娘を抱いた私に、義両親はそう罵った。夫のかずやはスマホに夢中で、赤ちゃんにも興味がない。それでも私はこの子を守ろうと必死だった。なのに、出産直後の分娩室に現れた夫は、娘の顔も見ずに離婚届を突き出した。「すまん。離婚しよう。お互い今が都合いいよね。」...

「女の子?よりによって女だなんて。なんで女なのよ、この役立たず。」

ようやく授かった命の性別が女の子と分かった瞬間、義両親から浴びせられたのはそんな言葉だった。夫のかずやはそ知らぬ顔でスマホに夢中。赤ちゃんにも興味がないようだ。こんな家庭環境で無事に出産できるのか、不安で仕方なかった。

ところが出産直後の分娩室にかずやが入ってくる。なんだかんだ言っても我が子の誕生の瞬間に駆けつけてくれたらしい。だが酒の匂いをさせた彼は、生まれたばかりの娘の顔を見ようともせず、離婚届を突き出した。

「すまん。離婚しよう。お互い今が都合いいよね。」

心の中にあった悲しみは、冷徹な決意へと変わった。

「OK、本当にいいのかな?」

笑いが込み上げてくる。人生絶好調で浮かれているかずやは私を捨てた。でも私は彼の足首を、密かにけれどがっちりと掴んでいるのだ。寝ているだけの使えない女がどれほど恐ろしいか、たっぷりと思い知らせてやる。

私の名前は西城まゆみ、31歳。1年ほど前、夫のかずやと結婚して、この町で新しい生活を始めたばかりだ。彼との出会いは同業者が集まる親睦会だった。当時の私は仕事の忙しさに追われ、恋愛なんて二の次、三の次。そんな中でかずやは全く目立たない存在だった。

親睦会でかずやの隣には酔っ払った男性がいて、運の悪いことに男性が手にしていたウーロン茶をかずやの胸元にバシャっとかけてしまった。真っ白なシャツに茶色い染みが広がる。会場の空気が一瞬だけ凍りついた。

「あ、すみません。」

平謝りする相手に対し、彼は嫌な顔ひとつせず、手持ちのタオルで自分の胸をトントンと叩く。

「大丈夫ですよ。気にしないでください。本当に全然、大丈夫です。」

困ったように、けれど優しく笑った。なんて穏やかで心の大きい人だろう。派手さはないけれど、この人と一緒にいたらきっと温かな家庭を築ける。そう確信したのが恋の始まりだった。

交際期間を経てゴールインした私たちは、親戚からも「二人ともノンビリした感じで似たもの夫婦だね」と祝福された。結婚して数ヶ月は本当に夢のような日々だった。仕事から帰ればかずやが「お疲れ様」と迎えてくれる。週末には二人で散歩がてら買い物に出かけた。

夕方になり、「お腹も空いてくるねえ。今日は晩御飯を食べて帰ろうよ。何にする?」

「何でもいいよ。まゆみの好きなものにしなよ。」

「じゃあ回転寿司にしよっか。」

「いいね。」

いつだってかずやは優しい。穏やかに微笑む彼と二人で店へ向かおうとしたところ、彼のポケットでスマホが震え出した。取り出したスマホの画面には「お母さん」の文字。私は一瞬でテンションが下がった。

そんな私の変化には気にも止めず、かずやは通話ボタンを押す。

「もしもし、かずや。お父さんといつものレストランに行こうと思うの。5時に予約しておいたから、まゆみちゃんを連れていらっしゃい。」

やっぱりお誘いだ。夕方のこの時間に電話が来た時点で分かっていた。義母のよく通る声がスマホから漏れ聞こえてくる。来るという打診ではない。断られることなど微塵も考えていない。完全なる決定事項だ。

「あ、えっと、今から回転寿司を食べに行こうかって話してて…」

一応かずやは私の顔色を伺っている。でも義母に一蹴された。

「そんなのいいから早く来なさい。最上家の人間が安っぽい回転寿司で夕飯を済ませるなんて関心しないわよ。お母さんは回転寿司なんて行ったことないもの。」

かずやは困ったように、けれどいつも通りの情けない苦笑いを浮かべた。

「あ、うん、分かった。今から行くね。」

電話が切れる。私は隣で呆れを通り越して深いため息をついた。

「お寿司楽しみにしてたんだけど。」

「まあまあ、せっかく予約してくれたんだし、行かないと後が面倒だろ。お母さんもよかれと思って言ってくれてるんだからさ。」

「まあまあ」とかずやは私の不満を封じ込める。連れて行かれたのは、近所でも少し値の張る和風ファミレス。和を貴重とした落ち着いた内装だが、高級和食店ではない。「各種お祝い承ります」という看板が掲げられた、ごく一般的なチェーン店である。

「まゆみちゃん、こっちよ。こっち。」

派手な花柄のチュニックを身にまとった義母が大声で手を振った。私とかずやが席につくなり、メニューも見せてくれずに義母は店員を呼ぶ。

「かずやはいつもの天ぷら御前だよね。あなたは揚げ物が好きでしょ。男はしっかり体力をつけなきゃ。」

「あ、うん。そうだね。」

いつもの天ぷら御前とは、豪華なエビがメインで他に刺身や茶碗蒸し。2480円でこれはだいぶお得だ。そして義母は私をちらりとも見ずに注文を続けた。

「まゆみちゃんはこの鍋焼きうどんでいいわね。この店の名物なんだから。ここのはダシが効いていて美味しいのよ。女性は体が冷えちゃいけないし。これがいいわね。」

「嫌です」という隙すらない。結局私の元に運ばれてきたのは890円の鍋焼きうどん。

「ほら、まゆみちゃんのこうかね。お鍋にぎっしり具材が詰まってる。いいでしょ?これが一番美味しいのよ。この店の名物だからね。」

確かにほうれん草、ネギ、椎茸、卵にかまぼこ、具材は多い。メニュー表の一番最初にデカデカと載っていて、名物であることも美味しいことも知っている。でもこれが一番美味しいのかは不明だ。私は鍋焼きうどんしか食べたことがないので、他と比較のしようがない。かずやの天ぷら御前との価格差、実に3倍であることにモヤモヤする。

うどんをすすっていると、少しおしゃれした人たちが個室の座敷に入っていく姿が目に入った。若い夫婦と両家の祖父母だと思われる。私と年の変わらない女性の腕の中で、ベビー服のロンパースを着た赤ちゃんが眠っていた。

「あらまあ、可愛らしいこと。お食い初めかしらね。」

義父は赤ちゃんにちらりと目をやって鼻を鳴らす。

「服がピンク色だ。女か。」

「ああ、本当。あれは女の子ね。」

しばらくして、その席に立派な鯛が運ばれていった。それを見た義母が身を乗り出して言う。

「まゆみちゃん、あなたも子供を産んだら必ずここでお食い初めをしなさいね。この店はすごいのよ。お食い初めから法事まで何でもできちゃうんだからね。」

「あ、はあ。」

スープの底に沈んだほうれん草を探しながら、私は愛想笑いを浮かべた。ここで母のスイッチが入る。

「そういえば、お隣の佐藤さんのところ、3人目が夏に生まれるんだって。3人とも男の子よ。すごいわ。」

すでに知っている話だった。義母は会うたびに繰り返す。当の本人はまるで初めて話すかのようだ。

「高橋さんのところのお嫁さんも、この前立派な後継を産んだのよ。女の子と来てやっと男の子。高橋さんも安心したでしょうね。」

この前生まれたという立派な後継は、もう一歳になっている。つまり1年間同じ話題なのだ。なんだったら生まれる前から「お腹の子、やっと男の子なんだって」と聞かされていた。後継の男の子どころか、高橋さんの顔も知らない私は、毎回どのような反応をすればいいのか悩む。

「そうなんですね。」

結局、当たり障りなく微笑むしかない。義父とかずやは無口な方だ。沈黙が続くより、おしゃべりな義母が場を盛り上げてくれるのはありがたい。でも一つ避けたい話題もある。孫の催促だ。

「で、まゆみちゃん、あなたの方はどうなの?最上家の血を絶すわけにはいかないんだから、努力してもらわないと。」

隣のかずやを肘でつつく。「何か言ってよ」という私の無言の訴えに対し、彼は視線を泳がせた。天ぷらを口に運びながらへらりと笑う。

「うん。まあ、そうだよね。」

中身のない、とりあえずの同調。私一人に義母の相手を任せ、かずやは黙々と食事を味わっていた。

「まゆみちゃん、30歳過ぎてるでしょ?子供は若いうちに産んでおかないと大変なんだから。私はね、23歳でかずやを産んだの。最初から男の子を授かって鼻が高かったわ。」

義母の話はいつも決まった場所に着地する。23歳の若さでかずやを生み、しかも男の子を授かった優秀な母親であるという自慢だ。耳にタコができるほど聞いた。31歳の私にとって、その言葉は鋭い棘となって胸に刺さる。追い打ちをかけるのは義母だけではない。普段は物置のように黙っている義父が、低く濁った声で口を開いた。

「高齢出産は危ないとテレビで言っていたぞ。30歳を過ぎての出産とは、もし赤ん坊に何かあったらどうするつもりだ?最近の女はつまらん権利を主張して仕事を優先するから、こういうことになる。」

義父の言葉に義母は首がもげそうなほど頷く。

「そうよ。今の人は男性を支えようという気持ちが足りないの。なんでもかんでも男性を押しのけて怖いわ。まゆみちゃん、あなたは大丈夫よね。うちのかずやが優しいからって、つけあがらないでね。」

「あ、はあ。もちろんです。」

これ以外にできる返事があるだろうか。義母は上品に笑うが、目は笑っていない。あなたが仕事などしているから、できないと責められていると感じた。妊娠出産は女性一人でするものではない。隣で天ぷらを頬張っているかずやは、今年で39歳になる。もし年齢的なリスクを言うのなら、彼だって同じはずだ。

義両親の考えは少々古い。下手な発言をして波風を立てるのも面倒だ。温和なかずやも義両親との衝突を望んでいない。義両親と顔を合わせるのも月に2、3回なので、その時くらい「そうですね」と合わせておくのが得策だ。私の方法は引き際。中空微笑みを絶やさない努力をしたので、明日は頬が筋肉痛になりそうだ。

実は半年ほど前から病院へ通い、不妊治療を始めた。かずやは少しだけ自然妊娠が難しいらしい。検査を受け、薬を飲み、排卵日に合わせて生活を整えている。そんな努力を知らない義両親は、目の前で楽しそうに「お宮参りはあそこの神社がいいわよ。ここからも近いしね」と気の早い話をしていた。不妊治療していることを義両親には伝えない。かずやと話し合ってそう決めた。それなのに、曖昧に笑って話を合わせている彼にモヤモヤする。しかも私だってヘラヘラと笑っているのだ。

ようやく食事会が終わり、解放された帰り道。あの苦しい空気から逃げるように、かずやが「コンビニに寄ろう」と言い出す。義両親と会った後の私たちのお決まりのコースだ。

「まゆみ、ほらアイス。ストロベリーだよね。高いけど美味しいやつ。」

かずやが冷凍ケースから小さなアイスを取り出した。普段なら躊躇するような、1個400円近くする高級ブランドのアイスだ。彼はこれでも私に苦労をかけているという自覚があるのだろう。義両親の前では助けてくれないけれど、こうして二人きりになれば労ってくれる。彼が優しいから、私も義両親を大切にしようと思えるのだ。

「ありがとう。明日また朝一で病院に行ってくるね。」

「うん、分かった。お母さんたちも孫を楽しみにしてるし、頑張ろう。」

かずやは穏やかに頷く。気は遣ってくれるが、気持ちは少し重かった。治療は痛みを伴う。会社で頭を下げて休暇の許可をもらうのも心苦しかった。

「あ、じゃあ食パンも買っていこうか。明日会社休みだから朝時間あるでしょ。フレンチトースト作ってよ。あれ美味しいよね。」

「あー、うん。そうだね。病院行くけど、いつもよりは時間あるもんね。」

かずやは私が病院でどんな処置を受けているのか知らないだろう。一度も詳しく話を聞こうとはせず、他人事だ。「俺にできることは何でもするからね」と言ってくれるだけで、協力的な旦那さんなのだと思う。帰宅してから二人でアイスを食べ、食パンを卵液に浸してからベッドに入った。

「おやすみ。」

「うん。おやすみ。」

軽い挨拶を交わして目を閉じる。しばらくすると、静まり返った寝室にざわざわとした小さな音が聞こえてきた。隣で寝ているかずやの耳に白いワイヤレスイヤホンが入っている。そこから音が漏れていたようだ。彼の背中越しに覗き込むと、スマホで動画を見ていた。

「何してるの?」

「あ、起きてたの?別に、ちょっとした暇つぶしだよ。」

「そっか。明日もあるんだし、早く寝てね。」

「うん。」

そうして私は再び布団を被り直す。イヤホンからのわずかな音漏れは、その後しばらく続いていた。暗闇にぼわんとスマホの明かりが浮かんでいる。彼がいつまでスマホで動画を見ていたのか分からないが、気がつけば私は先に眠っていた。

朝日が寝室を明るくして、自然と目が覚めた。かずやはまだ夢の中だ。枕元にはスマホとイヤホンが転がっている。小さなイヤホンがなくならないように拾ってケースに収めておいた。

「かずや、おはよう。朝だよ。」

「うーん。」

まだ眠たそうな彼は顔まで布団に埋めた。

「フレンチトースト焼いておくからね。そろそろ起きてよ。」

「うん。」

全く、昨夜は動画に夢中で夜更かししたのだろう。目が覚めるように濃い目のコーヒーも入れた。しかし5分10分経っても起きてこない。フレンチトーストとコーヒーから立ち上る湯気もすっかり消えてしまった。

「かずや、さすがに起きないと。」

しびれを切らして寝室まで様子を見に行く。かずやは小さないびきをかいて寝ていた。

「ねえ、かずや。いつもの起きる時間、特に過ぎてるよ。大丈夫?」

「うーん。え、あ、何時?」

突然かずやがむくっと飛び起きた。

「7時10分。」

言い終わるよりも先にベッドサイドの時計を見て、彼は真っ青になる。

「嘘でしょ?遅刻なんだけど。」

そう叫び、歩きながらパジャマを脱いでいく。

「え、今日早番だったの?」

「そうだよ。なんで起こしてくんなかったの?まゆみは休みかもしれないけど、俺は仕事なんだから。ああ、もうやばい。最悪だ。」

「あ、ごめん。」

うっかり謝罪の言葉が出てきてしまったが、寝坊は自分の責任ではないかとモヤモヤした。けれど、今正論を突きつけても時間は戻らないし、止まらない。

「うっそ、朝ごはんフレンチトーストなの?最悪。おにぎりだったら持っていけたのに。」

顔を洗い、口をゆすぎ、あっという間に着替えて出勤準備は整った。それでも朝食を取る時間はないようだ。

「もうマジでありえない。本当最悪。」

ぶつくさ文句を垂れながら、彼は「行ってきます」も言わずに出かけていった。普段は穏やかで優しい人でも、余裕のない時はあるよねと自分を納得させる。冷め切ったコーヒーと、ふっくら感の失われたフレンチトースト。食卓に残されたそれを、私は見下ろしていた。

不妊治療。その言葉はよく聞くけれど、詳しいことは何も知らなかった。当事者となって初めて、その痛みや不安を思い知る。赤ちゃんを授かりたいという強い願いがあるから苦しい治療にも耐えられるが、現実は無常だった。毎月抱いていた期待は、トイレの水と共に流れていく。初めからやり直しだ。

仕事から帰ったかずやに残念な結果を伝えると、彼は眉をハの字にした。

「え、また何万もかかったのに、またダメだったの。わあ、また無駄にしちゃって、なんかもったいないね。」

悪気はないのだ。私だってつい額のことを考えてしまう。それでも妊娠できなかったことを責められているようで、私の心はツンと冷えた。もったいないのはお金だけではない。私が捧げた時間と痛みと期待。全てが無駄だったと言われているように感じ、余計に悲しくなる。

「そうだね。でも次こそはね。また同じだけお金かかるんだよね。高いよね。正直、こんなにかかるとは思ってなくて。」

かずやは言葉を濁し、頭を掻いた。俯いた彼の顔は影に隠れ、表情は見えない。辛い気持ちを心の奥底に押し込めて、私は明るい声を出した。

「大丈夫だよ。私、赤ちゃんが欲しいから、これからも治療頑張ろうね。」

顔をあげたかずやは苦笑いする。

「うん。まあ、うちのお母さんも孫って楽しみにしてるしね。会うたびにうるさいから、早く孫を抱かせてあげなくちゃ、一生恨まれそうだよ。怖い。」

冗談めかしたかずやの言葉に、私も笑って頷く。確かに最高の親孝行をしなくちゃね。

それから数日、普段通りに振る舞っているけれど、本当はショックを引きずり、気持ちが晴れない。少しだけ暗い顔をしていた私に、かずやが弾んだ声で話しかけてきた。

「ねえ、まゆみ。あのさ、すごい話聞きたい?」

無邪気な子供のように目をキラキラさせている。こちらが返事をするよりも先に「実はね」と話し始めた。

「俺、最近動画投稿をしてるんだ。」

彼はファミレスの店長をしている。その合間に「裏側店長」という名前で密かに動画配信の活動をしていたらしい。

「見てよ。このドリンクバーのメロンソーダにバニラアイスを乗せるアレンジ動画。これが今すごいんだ。」

誇らしげにスマホの画面を見せてくる。彼が動画投稿していることも知らなかったので驚いた。

「ドリンクバーの投稿で一気に200人も登録者が増えたんだよ。すごいでしょ?今1000人超え。すごいよね。」

「あ、うん。すごいね。」

私は戸惑いながらも無理に相槌を打った。

「知ってる?こういう動画配信って、稼いでる人はすごいんだよ。俺も多分行けると思う。不妊治療のお金くらい、俺ががっつり稼ぐからさ。だから次も失敗したって全然大丈夫。何回でもやればいいよ。」

ドンと自分の胸を叩いたかずや。「失敗したっていい」という言葉に胸がギュッと締めつけられた。私が病院で受けている検査の不快感や痛みを、彼はまるで分かっていない。その苦痛を乗り越えた先に何も得られなかった絶望も。でもかずやの根拠のない自信と明るさが、今の私には唯一の救いのように見えた。不妊治療の結果に打ちのめされている私を、彼なりに明るい話題で励まそうとしているのだろう。

「本当、頼りにしてるね。」

「オッケー。任せといて。」

しかし、その優しさのメッキは半月も経たずに早くも剥がれ始める。不妊治療において夫の協力が不可欠な大切な日があった。事前に何度も伝えていたはずなのに、かずやはカレンダーを見て露骨に顔をしかめる。

「え、病院だっけ?よりによって明日か。うーん。明日は用事あるのに。」

「病院より大事な用事なんてあるの?そもそも病院のために休みの調整をしてくれたんだよね。」

私の問いにかずやは悪びれもせず、スマホをいじりながら答えた。

「いろんなお店でドリンクバー飲み比べ企画をやろうと思ってたんだよね。うちの店は種類が少ないからさ、もっと高い隠れ家のある店に行って、おしゃれなブレンドを研究して投稿したいんだよ。」

目の前が暗くなる。私は会社に頭を下げ、同僚に申し訳なさを感じながら休みを調整した。それなのに彼は休みを取った理由をすっかり忘れ、動画のことしか頭にない。結局、何度も説得し、かずやはブツブツと不満を漏らしながら病院へついてきた。痛い思いをするのは私。検査の屈辱に耐えるのも私。

かずやは自分のやるべきことが終わるや否や、「俺、忙しいから先に帰るわ。動画ってのは昼間の明るいうちに撮影した方が綺麗に映えるんだ。確かにドリンクバーの飲み比べと最高アレンジは俺にしかできない。じゃ、頑張ってくれ。」

私の返事を待たず、風のように去っていく。仕事熱心といえば聞こえはいいが、動画投稿は今のところ完全なる趣味の範疇だ。「頑張って」と背中を押せない私は、夫の可能性を潰すダメな嫁に思える。病院の待合室で一人、まだ空っぽのお腹を撫でた。かずやが買い与えてくれた400円の高級なアイスの冷たさが、喉の奥に蘇る。「置いていくんならひどい」と後で抗議をすれば、また申し訳なさそうにアイスを差し出してくれるかもしれない。かずやの精一杯の優しさだと思っていた。でも冷静に考えてみれば、あんなのただの機嫌取り。400円で幸せになれる私は、なんて安い女だろう。

さて、不妊治療という暗いトンネルをようやく抜け出した。妊娠検査薬はたくさん買ってある。「もしかして」とフライング検査をこれまで何回もしてきた。いつもは残念な結果となるが、今回は違う。遅いけれど、確かなピンク色の線が検査薬に2本浮き出た。その瞬間、私はトイレの床に泣き崩れた。

「え、本当?本当に?」

かずやも子供のように目を輝かせて私を抱きしめる。

「すごいよ、まゆみ。俺、パパになるんだな。うわ、わけわかんない。」

夫婦でこんなにも喜び合ったのは初めてだ。かずやの手がそっと私のお腹に触れた。まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、おずおずとした手付きで優しく撫でている。

「ここにいるの?俺の赤ちゃん。」

「うん、そうだよ。まだ赤ちゃんは豆粒くらいなんだって。無事に育って欲しいね。」

実は不妊治療を始めるにあたって、妊娠は難しいかもしれないと医師から言われていた。今回の妊娠はまさしく奇跡なのだ。

「すごいなあ。無理かと思ってた。俺、頑張るよ。家族のために、もっと。」

その時のかずやの瞳に嘘はなかったと思う。私たちは幸せな家庭というゴールに向かって二人三脚で走り出したけれど、現実は甘くない。奇跡を維持するのは想像を絶する苦行だった。

妊娠初期。お腹はまだ膨らんでいないのに、私の体の中では激変が起きていた。朝から晩まで船酔いが続くような激しいつわりに襲われる。仕事中も、立ち上がった瞬間に込み上げる吐き気を耐え、何度もトイレに駆け込んだ。まだ安定期ではないからと、周囲には妊娠を秘密にしている。万が一のことを考えたら、安易に喜びを表に出せない。この子だけは何があっても守り抜くという一心で、同僚に気を使いながら私は必死に耐えていた。

かずやはといえば、相変わらず動画投稿に精を出している。仕事が休みの日には朝から晩までスマホと睨めっこ。今は高性能のパソコンを使わなくても、スマホ一台で気軽に動画を作ったり投稿したりできるらしい。

「はい、どうも裏側店長です。みんなチャンネル登録、高評価忘れずによろしく。」

時々ハイテンションな声が漏れ聞こえてくる。撮影が終わると缶ビールを飲むのが彼の決まりだ。撮影時につけていたマスクとサングラスを外し、美味しそうにビールを煽る。大きな仕事をやりきった顔だ。

「ねえ、まゆみ。この間のパンケーキアレンジしてみたって動画、見てくれた?それがすごい人気でさ、『真似します』ってコメントやばいの。すごい登録者も増えてさ。」

「そうなんだ。すごいね。」

今はつわりがひどくて、動画を見ている余裕もない。かずやの方も動画に夢中で、私の体調を気にする余裕がないようだ。赤ちゃんができて二人で喜び合ったのはつい先日のこと。それなのに今の私たちは全く違う方向を向いている。かずやはお腹の子に話しかけることもしないで、画面の向こう側の人しか見ていない。話し合う気力すら湧かず、私はくったりとリビングのソファーに倒れ込んでいた。

そんなある日の休日、義母からかずやに電話がかかってきた。

「もしもし、かずや。これからお父さんといつものレストランに行くの。まゆみちゃんを連れて今すぐ来なさい。」

あの女だ。昼時の電話という時点で分かった。隣で聞いていた私は、仰向けになった顔で首を激しく横に振る。

「無理。今日は本当に無理だからね。」

小声しか出なかったが、必死に訴えた。天ぷらの油の匂いを想像しただけで、胃の中の酸っぱいものが込み上げてくる。困ったように眉を下げたかずやは、私の目を見て確かに頷いた。

「ああ、お母さんごめん。今日は行けないや。」

「なんでよ。もうお昼ご飯食べちゃったの?じゃあデザートだけでも食べればいいじゃない?」

「いや、そうじゃなくて。まゆみ、今つわりがひどくてさ、気持ち悪いってずっと寝込んでるんだよ。」

かずやが放ったその一言に、私の心臓が凍りついた。なんで?心拍が確認できたばかりで、この先どうなるか分からない。だから会社の同僚はもちろん、親への報告も少し待とうと話し合ったのに。かずやはあまりにも簡単に約束を破った。

「つわり?え、やっと妊娠したの?」

スマホの向こうで義母の甲高い声が響く。

「うん。そうなんだよ。まだ内緒なんだけどね。」

かずやはヘラヘラと笑いながら答えた。

「お父さん、大変。かずやに子供ができたって。最上家の後継よ。後継!」

「なんだと?よくやった。うちの孫はいつ生まれるんだ?性別はどこだ?」

受話口から漏れ聞こえる義両親の熱狂。かずやは「お父さんもお母さんも気が早いな」と言っている。彼の服の裾を私は引っ張った。

「かずや。なんで妊娠のこと言っちゃったの?震える声を絞り出す。何かあったら怖いから。まだ誰にも言わないでおこうって。」

かずやは不思議そうに私を見た。

「え、でもお母さんたちも喜んでるしいいじゃない。どうせいつかは言うんだしさ。親孝行になったね。」

私の抱えている不安など、彼は微塵も気にしていないのだ。もうすぐパパとママになる。お互い同じ立場だと思っていたけれど、彼は「サンタさん来てくれるの楽しみだな」というノリでしかない。待望の赤ちゃんは、みんなが持ってる流行りのおもちゃのようなものだ。自分はほぼ何もしていないくせに、最上家の後継を授かったと誇っている。それを親に報告して褒められたのだから、さぞ気持ちがいいだろう。

「ああ、もうどうしましょう。何からしたらいいの?えっと、名付けは神社さんにお願いするよね。」

「まずはお参りだろ。もうしたのか?俺たちも行くから、明日でいい?」

「いや、今から行くか。」

ハイテンションな義両親の声は、スピーカーにしなくても丸聞こえだ。私はまたしても首を横にブンブンと振る。この時ばかりは気持ち悪さも吹っ飛んでいた。

「あ、なんかダメみたい。まゆみが嫌がってるよ。」

一応私の気持ちは伝わっていたようだが、かずやの馬鹿正直な断り方に目眩がする。期待していた義両親の態度が一変して、罵詈雑言をぶちまけた。

「はあ。嫁が嫌がってるから何だってんだ。お前、まさか嫁なんかに尻に敷かれてんじゃないだろうな。嫁なんか引っ張ってでも言うこと聞かせろよ。ほら、本音出した。後継を産むからって偉くなった気でいるの?やっぱりね、私、あの子には裏があると思ってた。よくしてあげたのに、裏切るのね。」

かずやへの電話だから、私に聞こえているとは思っていないのかもしれない。「嫁なんて所詮他人だ」とは分かっていたが、実際に義両親の口から突きつけられるとかなり応える。猛烈な吐き気が戻ってきて、体中の血の気が引いた。トイレに立とうとするも間に合わない。

「げっ…」

ヘラヘラしていたかずやが顔を歪めて叫んだ。その後、彼らがどんな風に通話を終わらせたのか記憶に残っていない。とりあえず今すぐお参りに行く話はなくなったようだ。私はしばらく汚れたソファーにただ座り、時間が経ってから自力で起き上がった。床に垂れた吐しゃ物ももちろんそのまま。かずやの姿は消えていた。まだ気持ち悪さはあるけれど、汚れを放置しておけない。なんとか掃除した。よたよたと洗面所に向かい、手を洗う。口をゆすいでいると、寝室からかずやの声が聞こえてきた。

「はい、どうも裏側店長です。みんなチャンネル登録、高評価忘れずによろしく。」

一番寄り添って欲しい時に、彼は動画に夢中。私なんて眼中に入っていない。今、彼の動画は人気が出て波に乗っている。「家族のために頑張る」と宣言していたので、動画に向き合うのも家族のためかもしれない。

「はい。今日は皆さんに重大発表があります。どどん。裏側店長、パパになります。イエーイ。拍手。」

義両親の次は、全世界への妊娠報告。もう呆れて言葉も出ない。

「実を言うと、妊娠は難しいって医者から言われていたんですよ。でも諦めなければ奇跡は起きるんです。」

ぺちゃくちゃと奇跡を語るかずや。尊い命すら、彼にとっては動画のネタになる。胃の奥から込み上げる吐き気は、つわりのせいだけではないようだ。

気持ちを抑えていたが、やっぱりここで我慢するのは違う。その晩、ベッドに入ったところでスマホをいじっているかずやに声をかける。

「かずや。さっき聞こえちゃったんだけど。妊娠のこと、さすがに動画で話すのはどうかな。私のプライバシーもあるし、まだ何が起こるか分からない時期なんだから。」

かずやはスマホから目を離さずに鼻で笑った。

「へえ。なんでまゆみは考えすぎなんだよ。ほら見てよ。コメント欄すごいから。」

差し出された画面には「おめでとうございます」「パパ店長頑張れ」「奇跡ですね」「勇気をもらいました」といった好意的な言葉がずらりと並んでいる。

「みんなこんなに祝福してくれてるんだよ。喜ばしいことじゃん。嫌がるまゆみの方が、なんだか冷たいっていうか、おかしいよ。あ、またいいねが増えた。」

かずやの目はまるで中毒者のように画面に釘付けだ。顔も知らない誰かからの「いいね」が、私の不安よりも優先される。その現実に、私は自分の感覚に自信が持てなくなっていった。妊娠を公表したら、みんなから祝福された。隠すようなことではないと、世界中の人から言われている気がする。妊娠を心から喜んでいるかずやは悪くない。私が気にしすぎなのだ。そう思いたいのに、心はささくれていく。

翌朝、つわりの吐き気と戦いながら、私はいつも通り仕事へ行く準備をしていた。一方のかずやはパジャマ姿でのんびりとコーヒーを飲んでいる。

「今日、かずやはおそば帰り遅いの?」

「いや、休み。」

予想外の返事だった。

「あれ?また休み?昨日も日曜日なのに休みだったよね。」

以前の彼は、万年人手不足の店を回すために休日返上で働いていたはずだ。アルバイトやパートの予定を優先するので、店長は自己都合で休みを取りにくいのは仕方ない。連休が少なく、泊まりの旅行なんて新婚旅行が最初で最後だ。また、私の誕生日は祝日。土日祝日は休めないから、誕生日当日を一緒に過ごすのは難しいと理解している。今日も動画の撮影があるから休んだんだ。

「いろんなチェーン店のモーニングを比較する動画を撮ってんだよね。日曜日と平日の違いも、みんなが知りたいでしょ。登録者もどんどん増えてるし。今が勝負どころだよ。」

動画のためなら、仕事も簡単に休めるようだ。私は会社で体調不良を隠し、冷や汗を流しながら頭を下げて働いている。その温度差に目眩がした。

「そう。じゃあ、行ってくるね。」

「うん。あ、今日の夜、登録者3000人超えたらお祝いの生配信やるよ。まゆみも少し映る?あ、俺、顔出しはしてないから大丈夫。まゆみもお腹だけ映せばいいよ。」

「無理。」

私は吐き気を飲み込み、逃げるように家を出た。仕事はいつもと変わらないのに、なぜか今日はクタクタに疲れた。

今すぐにでも寝てしまいたいと帰宅した夜のこと。玄関を開けると、そこにはなぜか義両親の靴があった。ぎょっとして血の気と共に疲れさえも引いていく。

「おかえり、まゆみちゃん。遅かったわね。」

リビングには義両親の姿があった。自宅のようにくつろいで、私を迎えてくれる。肩をぎゅっと小さくして、私は頭を下げた。

「あ、ただいま戻りました。」

「こんな時間まで妊婦がどこほっつき歩いてたんだ?」

缶ビールを手にした義父が不機嫌そうに尋ねる。時刻は夜の7時を過ぎたところ。仕事をしていれば帰れる時間でもない。義父はまだ60代前半。専業主婦の義母に叱られるならまだしも、現役で働いている義父の理解のなさに寒気がした。義父の手元にはビールの缶が3本ある。いつからこの家にいたのかは知らないが、少々待ちくたびれたのかもしれない。

機嫌の悪い義父とは正反対に、義母はニコニコしている。

「まあまあ、お父さん。」

彼女はテーブルの上に鎮座する箱を指差した。「胎児から始める英才教育」と少し仰々しい金色の文字が躍る教材セットだ。箱を開けてみると、有名なクラシックのCDや、お腹に語りかけるための絵本、妊婦の心得などが記された教材が詰まっている。

「これ、最高にいい音楽なんですって。大切な最上家の後継には、お腹の中にいる時から一流の音楽を聞かせないとね。絵本も早くから読んであげれば、頭のいい子に育つのよ。」

私は引きつった笑顔を浮かべる。待ちに待った初孫だ。浮かれるのも仕方がない。

「あ、ありがとうございます。助かります。」

せっかくの厚意をありがたく受け取ろうとしたその時、義父が突然、一枚の領収書を突き出した。

「5万8000円。」

「え?」

「教育のためだ。安いもんだろう。」

私は耳を疑った。プレゼントではなかったらしい。こんな高額な代金を請求されるなんて思ってもなかった。不妊治療で貯金は消えた。今後は生まれてくる子供にお金が必要なのに、5万8000円をポンと出すのは難しい。抗議しようと口を開きかけた瞬間、かずやが財布を取り出した。

「はい。6万でいい。お釣りはいらないよ。」

かずやはすんなりと1万円札を6枚、義父の手の上に置く。その光景をただ呆然と眺めていた。不妊治療の数万円を「もったいない」とぼやき、私の苦痛を高級アイス一つで誤魔化してきたくせに、親に言われるがまま、あっさりと6万円を差し出す。給料日の直後でもないのに、財布に6万円もの現金が普通に入っていたことにも驚いた。

リビングには早速、大音量のクラシックが鳴り響く。優雅な雰囲気のはずなのに、私の心はちっとも落ち着かない。

「ああ、やっぱモーツァルトはすごいな。こうなんていうか、すごいね。」

「やだ、かずや。これバッハよ。」

「え、嘘。めちゃくちゃモーツァルトっぽいね。」

かずやと義両親の声が混ざり合い、せっかくのクラシックも不快なノイズにしか聞こえなかった。分かりもしない音楽に合わせてリズムを取るかずや。鼻歌を歌いながらスマホで教材セットやデッキを撮影していた。また動画のネタにするらしい。「パパとして最高級の教材をしています。モーツァルトはすごいです」というナレーションも容易に想像がつく。

以前、不妊治療を何回でもできるくらい動画で稼ぐと宣言していたが、結局どうなったのだろう。動画投稿で生活が成り立つほど成功している人は、ほんの一握りだと聞いたことがある。

最近のかずやは、目に見えて浮かれていた。どこか自信に満ち溢れ、家の中でも堂々と胸を張って歩く。

「そういえば、動画投稿の方はどうなの?順調?」

夕食の片付けをしながら尋ねると、かずやは「待ってました」とばかりに最新型のタブレットを私に突き出してきた。いつの間にタブレットなんて買ったのだろう。そんな疑問も、画面に並ぶ数字を見て吹き飛ぶ。

「じゃーん。すごいでしょ。給料の半分ぐらい稼いじゃった。」

「え、本当にすごい。」

この間の高額な教材セットの代金を迷わず支払えたのも、この副収入があったからなのか。「家族のために頑張る」というかずやの言葉は口先だけではなかった。彼は彼なりに、新しい家族を守るための基盤を作ろうとしてくれていたのだ。そう思った私は、ずっと胸に溜めていた気持ちを切り出した。

「ねえ、かずや。少し相談があるの。私の仕事のことなんだけど。」

「ん?何?」

「仕事を少しセーブさせてもらえないかな?最近本当につわりとお腹の張りが辛くて。それに、この間の検診で切迫流産の気配があるから、できるだけ安静にって言われちゃったし。」

現在、私たちは共働きで家賃も光熱費もきっちり半分ずつ出し合っている。けれど今の私には、その生活費を稼ぐための労働があまりにも重い。立っているだけでもお腹が張り、張りが出ることもしばしば。

「いっぱい稼いでいる」と豪語していたかずや。当然「分かった。無理しなくていいよ」と言ってくれるものだと思っていた。しかし、かずやの顔は一瞬で氷のように冷たくなる。

「え、なんで仕事やめるつもりなの?」

「やめるわけじゃないよ。時短勤務ができる制度を利用したくて。少しお給料は減るけど、今は体を優先させたいの。その分、少しの間だけかずやに頼らせてもらえないかな。」

かずやはタブレットを乱暴にテーブルに置くと、腕を組んで鼻で笑った。

「あのさ、まゆみ。前から思ってたんだけど、甘すぎない?うちの店舗にだって、妊娠しながら働いてた主婦のパートさんはたくさんよ。みんな産む直前まで普通にホールに出て、走り回ってたけど。」

人差し指を私に向けてくる。居心地が悪くて目をそらした。

「それは人によって体調は違うし…」

私が言い終わるのを待たずに、かずやは言葉を被せてくる。

「いや、それが甘えでしょ。そりゃ重いものを持つとかはさせないように配慮するけど、みんな辛いなんて言わずに淡々と働いてたよ。それが妻というものだからね。」

その声がナイフのように胸に突き刺さった。

「俺の稼ぎが増えた途端、それを当てにするなんて、正直がっかりだよ。」

自分のお金を狙われている。彼の冷たい視線からは、そんな被害妄想が透けて見えた。私だって怠けたいわけではないし、依存したいわけでもない。ただ、自分の中にある掛け替えのない命を守るために、必死にSOSを出しているのだ。

「私は本当に辛いの。他の誰かと比べられても困るよ。お腹の子に何かあったら、取り返しがつかないんだよ。」

「まあまあ、大げさなんだよな、まゆみは。そうやって悲劇のヒロイン気取るの。動画のネタならいいけどさ、現実でやるのはやばいよ。」

かずやは吐き捨てるように言うと、そのまま自分の部屋に閉じこもってしまった。最近は寝室を分けている。彼が夜遅くまで動画の編集やナレーションを入れる作業をしているためだ。広い夫婦の寝室が彼の部屋となり、私は将来の子供部屋に布団を持って移動した。リビングに一人残された私は、張り詰めたお腹を抱え、ただ震えることしかできなかった。

数分後、壁越しにかずやが楽しそうに録音している声が聞こえてくる。

「はい。どうも裏側店長です。みんなチャンネル登録、高評価忘れずによろしく。」

この頃は嫌にハイテンションで、音量を全く抑えていない。聞きたくないことまで、嫌でも耳に入ってくる。

「皆さん、聞いてくださいよ。最近の女っていうのは、ちょっと妊娠しただけですぐ働きたくないなんて言い出すんですよね。彼のことって、うちの嫁のことですよ。はい。」

ファミレスでのドリンクバーやパンケーキのアレンジを配信していたはずなのに、なぜ妻の愚痴を吐くのだろう。妊娠報告をした頃から、こういう雑談のような投稿も増えたらしい。彼の動画はあまり見ていないが、聞こえてくるナレーションからそのように感じていた。

「俺なんてね、所詮ATMですよ。ひどいですよね。旦那の稼ぎを当てにして、うちの嫁は楽したいんです。ああ、男は辛いですよ。誰か慰めてください。」

悲劇のヒロインを気取っているのは、かずやの方だ。こんな投稿をすれば、「店長さん頑張れ」と擁護するコメントがたくさんもらえるのかもしれない。私へのコメントもつくはずだ。顔も知らない他人にあれこれ批判されても気にしない。そうやって強気でいられたらいいのだが、私は誹謗中傷のコメントを勝手に想像して、もう打ちのめされた。

体調の限界を感じ、ようやく職場に妊娠を報告した。怒られるかもしれないし、迷惑がられるかもしれない。そんな不安を抱えて切り出した私を待っていたのは、温かい拍手と祝福だった。

「まゆみさん、おめでとう。やっと教えてくれてよかった。顔色が悪いから心配してたんだよ。無理しないでね。仕事はみんなでカバーするから、自分とお腹の子のことだけを考えて。」

ずっと前から妊娠に気がついていたらしい。思い返してみれば、同僚たちはさりげなく荷物を持ってくれたり、休憩を進めてくれたりしていた。外の世界には、こんなにも思いやりが溢れている。同僚たちの優しさに、私はトイレの個室で声を殺して泣いた。

それなのに、家に帰れば冷え切った空気が待っている。かずやには、まさに人生の絶頂期がやってきた。店長としての機転の利いた振る舞いが、偶然視察に来ていた役員の目に留まり、本部のメニュー開発チームへの昇進の話が持ち上がったのだ。

「俺の時代が来た。動画もすごい人気だし。もう笑いが止まんないよ。」

「おめでとう。」

心から祝福したけれど、喜びが少し足りなかったらしい。

「ちょっとまゆみ、顔が暗いよ。もしかして俺が成功しすぎて嫉妬でもしてるの?やめてよ。」

かずやは私を対等なパートナーとしては見ていなかった。

「ま、パートのおばちゃんと一緒に仕事なんか、俺には合わなかったんだよ。これからは本部のエリートだ。やっと俺にふさわしい地位を手に入れたんだよ。」

そう演説しながら、彼の視線はスマホの画面に向けられる。昇進について私への報告より先に、動画で速報でも出していたようだ。おそらく祝福のコメントが止まらないのだろう。ニヤニヤと笑って、自室に入っていった。

かずやは浮かれるが、私の体調は最悪だ。検診で切迫流産の危険性があると告げられる。自宅での絶対安静を言い渡された。トイレ以外に一歩も動けず、ただ天井を見つめて横たわるだけの毎日。もちろん仕事にも行けない。

「いいよな。まゆみは一日中寝てるだけで、羨ましいよ。俺は本部への昇進の準備と動画の撮影で、忙しく走り回ってるのに。」

ただ寝ているだけの私を見下ろして、かずやは鼻で笑った。

「好きで寝てるわけじゃないの。動くとお腹が張って苦しくて。それってつまり、赤ちゃんが苦しんでるんだよ。」

「へえ。赤ちゃんを人質に使うんだ。赤ちゃんが苦しむから私は寝てます、ってか。はいはい。俺が稼ぎますよ。俺なんかATMですからね。楽ができて良かったですね。」

私の苦しみを全て依存と怠けだと、彼は解釈する。かずやの帰宅は日に日に遅くなっていった。深夜、玄関が開く音と共に強いアルコールの匂いが漂う。

「こんな時間まで仕事だったの?」

「仕事だよ。本部の連中との付き合いとか、動画の撮影とか。寝てるだけのお前には分からないだろうけど、成功する男は忙しいんだよ。」

言葉遣いはどんどん荒れていく。穏やかで優しいかずやは、もういなくなった。深夜だというのに、遠慮もせず撮影を始める。

「いやあ、やっぱり大企業の人間と話すのは楽しいですよね。これまで俺の身近にはパートのおばちゃんくらいしかいなかったもんですから。本部の人からはいい刺激をもらえますよ。あ、ちなみにうちの嫁、相変わらず寝てばっかりですよ。ま、俺が稼いでるからいいんですけど。向上心のない人間といるのは、正直苦痛ですよね。働かない嫁って、皆さんどう思いますか?」

壁一枚隔てた先で、私の存在を徹底的に否定される。薄暗い部屋の中でお腹をさすりながら、ただじっと耐えた。

今、私の唯一の楽しみは、ようやく向かう産婦人科でのエコー検査だ。妊娠7ヶ月目。恥ずかしがり屋の我が子が、ようやく性別を明かしてくれた。

「あ、はっきり見えましたね。女の子ですよ。」

先生の優しい声に、私は胸まで熱くなる。元気に生まれてくれれば性別はどちらでもいい。でも女の子なら、一緒におしゃれをしたりお茶をしたりできるかもしれないと、淡い夢を抱いた。そんな浮かれた気持ちは、その日の夕方に無惨にも打ち砕かれることになる。

「あら、まゆみちゃんは今日も寝てるの?楽でいいわね。」

あがり込んできた義両親が、リビングでかずやと団欒を始めた。普段は布団を頭まで被るところだけれど、私は重い体を起こす。リビングのソファーへ移動して、ようやくの思いで報告した。

「お父さん、お母さん。今日、赤ちゃんの性別が分かったんです。女の子でした。」

その瞬間、部屋の空気が変わった。義母の手からコップが落ち、義父の顔は般若のように赤黒く染まる。

「は?なんて?」

聞いたこともないような低い声で義母が聞き返す。

「女の子?最上家の後継が必要だって、あれほど言ったじゃない。それをよりによって女だなんて。なんで女なのよ、この役立たず。」

「え、そう言われましても…」

義父がテーブルを拳で叩き、私はびっくりと肩を揺らした。

「どれ?最上家の血を絶すつもりか?女なんか生んでも終わりだろう。そんな価値のないもののために、お前は三食昼寝つきでだらだら寝ていたのか。恥を知れ、恥を。」

彼らにとって、私の体の中に宿る命は可愛い孫ではない。最上家というブランドを維持するための道具でしかなかったのだ。

「ああ、情けない。私は一発でかずやを産んだのに。やっぱり30過ぎての妊娠だから、質が悪いのよ。」

二人の罵声が、寝不足とつわりで弱り切った私の脳を容赦なく攻撃する。私は隣に座るかずやにすがるような視線を向けた。けれど、私の視線に気づいているはずなのに、彼は全くこちらを見ようとしない。無言でスマホを操作し、流れてくる自分の動画の再生数をうっとりと眺めているだけだった。目の前で妻が罵倒され、我が子を価値がないと切り捨てられている。それでも彼は他人事のように無関心だ。ただスマホをポチポチと叩き、「店長いつも面白い」というコメントにご満悦。

私は震える手をぎゅっと握りしめた。切迫流産の危機、義両親からの罵倒。そしてかずやの無関心。苦しい日々を耐え抜き、ようやく正期に入った。ほっとしたのも束の間。夜9時過ぎにトイレへ立ったところ、突然足元が濡れた。破水だ。心臓が早鐘を打つ。かずやはまだ帰宅していない。出産の準備はしっかりしてきたけれど、いざその時が来ると頭が真っ白になった。とりあえずかずやに連絡しなければと電話をかける。

「破水したみたい。今から病院に行かないと。」

「あ、そっか。言ってらっしゃい。俺、今ちょっと大事な打ち合わせの真最中だから。じゃあ。」

励ましの言葉も、心配するそぶりもない。背後から騒がしい音楽と女性の笑い声が響いていて、声は聞き取りにくかった。彼は一方的に電話を切る。

私はタクシーを呼び、病院へと向かった。分娩室で孤独に戦っている間も、かずやからの連絡は一度もない。そして明け方、元気な声と共に、3000gに満たない小さな女の子が生まれた。胸に抱くと、あまりの愛おしさに涙が溢れた。

そこへバタバタと足音が近づいてくる。着替えもせずにかずやが分娩室に入ってきた。なんだかんだ言っても、我が子の誕生の瞬間に駆けつけてくれたらしい。ところが、酒の匂いをさせた彼は、生まれたばかりの娘の顔を見ようともせず、私の枕元に一枚の紙を放り出した。

「あ、生まれたんだ。で、これ書いてくれない?」

それは離婚届。涙で目の前がかすんでいたけれど、見間違いではない。

「どういうこと?」

問いかけると、彼は照れ臭そうにヘラヘラと笑う。

「へ、すまん。離婚しよう。お互い今が都合いいよね。」

私は呆然と見上げる。さすがに急なことすぎて、理解が追いつかなかった。

「え、今、赤ちゃん生まれたばかりなんだけど…」

初めこそ少しだけ申し訳なさそうにしていたかずやが、ポケットに手を突っ込み、ひどく平坦に語り始めた。私があまりにアホで固まっていたからか、調子に乗ったらしい。

「ていうか、子供欲しがってたのはまゆみだよね。俺は別にいらなかったし。お前は欲しかったものを手に入れたんだから、俺を自由にしてよ。」

目の前が暗くなる。この男は自分の娘を物と呼んだ。大切な命だと認識していない。

「それに、まゆみってうちの親のこと嫌いだったでしょ?いつも会うたびに嫌な顔してたの、バレバレだよ。離婚すれば、今後の付き合いも全部免除してあげる。これ、俺なりの優しさだからね。」

彼は追い打ちをかけるように、自身の動画の画面をちらつかせながら笑った。

「あとさ、今の俺にはもっとふさわしい華やかな女性が必要なんだ。寝てるだけで不満ばかりのお前じゃ、ちょっとね。本部のエリートになる俺を解放して、って感じかな。ごめんね。頼りになるATMになれなくって。」

一分、いや一秒でも早くこの男と縁を切りたい。私の中にあった悲しみは、冷徹な決意へと変わった。差し出されたペンを震える手で握る。迷いはなかった。

「OK。本当にいいのかな?」

笑いが込み上げてくる。手や声の震えは、かずやから見れば泣いているように見えただろう。出産直後で力が入らないけれど、私は丁寧に離婚届を書き上げた。

「これで離婚だね。」

望み通りに離婚届にサインしたのに、彼は不満げに眉を下げた。

「はあ、こういう時まで我慢して、可愛くないよな、お前は。もっと泣いてすがってくれば、少しは考え直してやってもよかったのに。ま、シングルマザーって大変だと思うけど。せいぜい頑張れよ。」

かずやは一度も赤ちゃんの顔を見ることなく、分娩室を後にした。足音が遠ざかる。静かになった分娩室で、私は小さく息を吐いた。先ほど赤ちゃんの温もりを感じた胸に、離婚届を抱く。

周りには看護師や医師が「おめでとうございます」と祝福することもできず、皆が呆然として、まるで安いドラマでも見ているように固まっていた。私より少し年上くらいの女性医師が、はっとして口を開く。

「大丈夫。母は強しだよ。」

隣で眠る娘の手を握り、私はしっかりと頷いた。そう、母は強しだ。これまでは「かずやは優しい」と自分に聞かせて、幸せな三人家族になるのだと無理やり夢見ていた。でも、赤ちゃんと一緒に苦痛や我慢まで生み落としたらしい。私の体は軽くなり、心もすっきりとした。今までのうつうつとした気分が嘘のように晴れて、視界が明るい。人生絶好調で浮かれているかずやは私を捨てた。でも私は彼の足首を、密かにけれどがっちりと掴んでいるのだ。寝ているだけの使えない女がどれほど恐ろしいか、たっぷりと思い知らせてやる。

五日間の入院生活を終え、私は小さな赤ちゃんを抱いて自宅に戻った。玄関を開けると生活感が漂っているけれど、かずやの姿はない。まだ痛む体を引きずって、赤ちゃんと役所へ向かった。赤ちゃんの名前はいくつか候補を考えてあり、顔を見てから決めると決めた。出生届と離婚届を同日に窓口へ差し出す。

それから数日後のことだ。静かな平日の昼下がり。嫌がらせのように玄関のインターホンが激しく連打された。ガチャガチャと荒っぽくドアを引っ張られ、開かないとなれば、どんどんと拳で叩きつける。モニターを見るまでもない。

「おい、まゆみ、開けろ。いるんだろ?」

チェーンをかけたままドアを開けると、そこには顔を真っ赤にして肩で息をするかずやが立っていた。以前の穏やかさなど微塵もない、獣のように険しい顔だ。

「お前、会社に何を言った?なんてことしてくれたんだ?」

かずやの怒声に、奥の部屋で寝ているユナが起きないか心配だ。私は氷のように冷たい目をして彼を見据える。

「何って、動画のこと?私はただ、あなたの素晴らしい活動をみんなに共有しただけよ。登録者とか高評価とかが増えると嬉しいんでしょ。だから、かずやの身近な人たちにも見てもらおうと思って。」

実は入院中に、私は動いていた。かずやの動画チャンネルのURLと、特に問題のある発言を抜粋したメモを、匿名で彼の会社へ送信していたのだ。最初はドリンクバーのアレンジやパンケーキの盛り付けといった平凡な内容だったけれど、承認欲求に狂ったかずやの動画は次第に変化していく。

「今日は不満をぶちまけます。使えないパートはどうやって教育したらいいですか?正直、おばさんのパートは邪魔なんですよ。なんか偉そうなんですよね。従順な女子高生と女子大生だけの店なら、すごい理想的なのに。」

その動画には「うちもお局様がうざい」「可愛い店員しかいない店に行きたい」などのコメントが多くついた。また別の日には、お客を侮辱する動画が上げられている。

「今日は俺、やってやりました。どうしてもね、ムカつく客ってのはいるんです。そういうやつには特別大サービス。料理を提供する前に、この指を突っ込んでやります。ズブズブズブ。」

パスタに人差し指を突っ込んで、ねちゃねちゃと掻き回した。片手で撮影しているようで、画面はぶれている。最後に自分の顔を映すと、マスクをずらして指をペロリと舐めた。またしても「クレーマー撃退、よくやった」とかずやを賞賛するコメントばかり並ぶ。

「ふざけるな。あれは遊びじゃん。視聴者が喜ぶから、わざと過激にやってただけなんだよ。でも会社にばらすのは違う。普通、そういうの分かるだろ。」

動画の中では人気者の彼に批判的な人はほぼいないけれど、現実では少々異なる反応をされたようだ。今日の午前中、かずやは本社へ呼び出されたらしい。いよいよ本部のメニュー開発の正式抜擢かと、鼻歌を歌いながら向かっただろう。笑顔で開けた会議室には、かつてないほど険しい表情の上司や幹部がずらりと並ぶ。いくら脳天気なかずやでも、VIP待遇されて「俺すごい」と浮かれられないほど、空気は重かったはずだ。ドアの前で立ち止まった彼に、着席を促すこともせず、一人が切り出す。

「最上君、これについて説明してもらえますか?」

机に置かれたタブレットには、サングラスとマスクで顔を隠した怪しい男が映し出されていた。上司が再生ボタンを押すと、動画の中の男は楽しそうに笑っている。

「このパンケーキ、実は賞味期限切れなんですよね。ま、安いファミレスに来るような客は、味とか質の違いなんか分からないでしょ。もったいないので、逆に食べさせます。エコです。」

かずやの目が上下左右にぎょろぎょろと動き、冷や汗をにじませた。

「ち、違います。これは私じゃありません。何ですか?知りません。」

真っ青になりながら言い逃れようとしたが、今しがたの彼の声と動画の声は全く同じだった。さらに、背景に映り込んでいるのは、彼が店長を務める店舗のキッチンだ。何より、いくら顔を隠しても、知人が見ればその話し方や仕草でかずや本人であることは一目瞭然である。

「お客様を馬鹿にして、共に働く仲間を見下し、食品衛生を疑わせるような発言を全世界に発信したんですね。処分は追って言い渡します。」

上司の冷徹な言葉にかずやは絶望した。昇進どころではない。事実確認のため本日から自宅待機。今後の調査次第では懲戒解雇もあり得る。そんな天国から地獄への宣告を、彼は突きつけられたのだ。

「お前、俺の人生をめちゃくちゃにするつもりか。会社を首になったら、お前のせいだぞ。」

かずやはなおも怒声で私を脅そうとする。自分は私より上の立場にいると信じ込んでいるのだろう。ひたすら寝ている弱々しい姿の記憶しか、彼には残っていないのかもしれない。

今思えば、あの時の私はどうかしていた。切迫流産と診断され、天井を見つめるだけの毎日。したくても動かせず、流産の恐怖に怯え、不安と孤独が膨らんでいく。スマホの小さな画面だけが、私と社会を唯一つないでくれる。ふとかずやが熱中していた動画投稿が気になり、検索したところ、ドリンクバーの美味しいアレンジをニコニコと語っていた男はどこにもいない。画面いっぱいに映し出されたのは、不気味なほどアップになったかずやの口元だ。黒いマスクに、時々ちらりとサングラスも見える。顔を全面覆っていても、雰囲気と声からかずやだとすぐに分かった。やけに薄暗い部屋で、彼は暴露系配信者のような禍々しい空気をまとう。

「はい、どうも裏側店長です。みんなチャンネル登録、高評価忘れずによろしく。今日は特別に、うちの会社の無能な経営陣の話をしましょうか。ここだけのすごい話を、こっそりとお届けします。」

雰囲気は恐ろしいが、口調は軽くて猛烈な違和感がある。直近の動画はどれも、職場での違法ギリギリな内情の暴露や、私の悪口ばかり。

「何これ?こんなこと話して大丈夫なの?」

常識的に考えればアウトだけれど、コメント欄を見るとそんな常識が揺らぐ。「店長よく言った」「そんな嫁、捨てちゃいなよ」と、何百という見知らぬ人たちがかずやを正義の味方として担ぎ上げている。そして私や、会社、気に食わないお客、パートの女性を悪として叩いていた。義両親からは「役立たず」とののしられ、かずやには生活費を出してもらっている恩があり逆らえない。精神を削り取られていたので、いつしか自分の感覚を信じられなくなっていた。私が間違っているのだろうか。世間の感覚とずれているのは私の方なのかもしれない。所詮、寝ていることしかできないお荷物。かずやが副業の動画投稿でも頑張って稼いでくれているから、私は生きていられる。そう自分に言い聞かせた。かずやという唯一の支えを失うのが怖くて、必死だったのだ。

けれど、あの声を聞いた瞬間、私を包んでいたどす黒いモヤのような感情が、スポーンと音を立てて吹っ飛んだ。しかも、生まれ立ての我が子に目もくれず、離婚届を突きつけてきた冷徹なかずやを目の当たりにして、完全に正気に戻る。私はどうして、こんなクズでもない男が世界の全てだと思い込んでいたのだろう。これほど卑怯な人間を唯一の頼みの綱だと信じ込もうとしていたのが、不思議でならない。目が覚めたら、もう1ミリの迷いもなかった。不安や恐怖は消え、代わりに冷静な思考が戻ってきた。初めての育児に奮闘しつつ、問題のある動画を選別して彼の会社に報告したというわけだ。

今目の前にいるかずやは、かつて私が愛した穏やかで優しい男性ではない。自信に満ち溢れてキラキラとした輝きも消え去った。髪は乱れ、目は血走り、唾を飛ばしながら喚き散らす、見苦しいモンスターだ。

「この野郎。ふざけんな。ドア開けろよ。お前が今すぐ会社に電話して、全部私の嘘でした、間違いでしたって言えば済む話だろ。やれよ。」

もはや怒鳴るかずやは、わずかに開いた玄関ドアの隙間に無理やり指をねじ込んできた。ドアチェーンがギリギリと音を立てる。ドアをこじ開けようとするが、チェーンをかけているのでこれ以上開きようがない。廊下に彼の怒声が響き渡る。いくら昼間とはいえ、近所迷惑だ。でも、近所迷惑だからやめてね、と言える相手ではない。

ため息をついた時、背後から重たい足音が近づいてくる。

「かずや君、話なら私が聞こう。」

振り返ると、そこには腕を組んで仁王立ちする父がいた。かずやの動きがぴたりと止まる。ドアの隙間にねじ込まれていた指が、力なくそろりと抜けていった。

「あ、お父さん。いえ、その、別に…」

先までの威勢はどこへやら、かずやは急激に猫背になり、視線を泳がせた。父は特別恐ろしい外見ではないけれど、堂々と胸を張りかずやを見下ろすには威圧感がある。小さな画面の中でしか憂さを晴らせない小物とは違うのだ。

「娘は今、産後の体で孫の世話をしているんだ。お前を構ってやる暇はない。外で見苦しく喚くのはやめなさい。話があるなら、私が代わりに聞いてやろう。ほら、話してごらん。」

父は穏やかで、決して声を荒げない。それなのに、かずやは完全に気圧された。

「えっと、いえ、大丈夫です。」

情けなく肩を落として、とぼとぼ退散していった。思い返してみれば、彼は義両親にも逆らわず従順だった。年長者に意見するほどの勇気はないらしい。動画の中では偉そうにしているが、実際にはパートのおばさんやクレーマー気質なお客に文句を言えないでいる。

「父さん、ありがとう。」

私は緊張の糸が切れ、その場に座り込みそうになる。父がとっさに体を支えてくれた。実家は新幹線を使う距離にある。両親は二人ともまだ現役で働いているし、何より心配をかけたくなくて、私はずっと強がっていた。けれど、出産と離婚が重なり、自分一人ではもう抱えきれなくなった。母に電話をかけたところ、「今すぐ行くから待っててね」と一言。すると母だけでなく、父まで有給を全て使って仕事を休み、駆けつけてくれた。

「会社は社員が一人抜けても回る。だけど、唯一の娘のピンチは、親である私たちが助けるしかないだろう。」

父はぶっきらぼうにそう言って、ユナを恐る恐る抱き上げた。かずやが全ての狭い世界に閉じこもり、義両親の理不尽な言葉をシャワーのように浴びて、自分は価値のない存在だと卑下していた。でも、私は一人ぼっちではない。両親の愛に触れて、涙が溢れて止まらなかった。それは悲しみの涙ではなく、ようやく本来の自分を取り戻せたという安堵の涙だ。

リビングに戻ると、ユナを抱っこした母が言う。

「まゆみ、明日はあちらのご両親へのご挨拶に行かないとね。」

笑顔の裏に、確かな怒りが燃え上がる。私は滲んでいた涙を拭って、力強く頷いた。

翌日、私は父と共に、けじめをつけるために義実家へと向かった。ユナを連れて行きたくなかったので、母に託す。義実家は町から外れた古い住宅街にある。立派なのは門前だけで、庭は手入れもされず雑草だらけ。どこか淀んだ空気が漂っていた。

私たちの突然の訪問に、義母が不機嫌そうな顔をする。奥の間には、相変わらず不機嫌そうな顔をした義父が座っていた。

「土曜日の朝っぱらから来るとは、非常識な。」

新聞で壁を作り、こちらを見ようともしない。父は冷静に、低く落ち着いた声で返す。

「失礼。平日は私も仕事をしておりますので、お宅も仕事でしょうから、土曜日にお邪魔した次第です。」

すると義父は新聞をばさりと置き、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「はは、仕事なんかとっくにやめたよ。平日も休日も関係なく、今は悠々自適の暇人でね。あれ、もしかして、お宅まだ働いてるの?60歳を過ぎてまだ働かなきゃ生きていけないなんて、悲惨だね。」

私は耳を疑った。義父はまだ定年退職の年齢ではないはずだ。けれど父は顔色を変えずに微笑んでいる。

「ええ、必要としてくれる場所があるのは、ありがたいことです。」

義父の意味不明な自慢話には興味がないので、私は単刀直入に切り出した。

「お父さん、お母さん。今日はご報告があってお邪魔しました。かずやさんからお聞きになっているかもしれませんが、かずやさんと私は離婚したんです。事後報告となり申し訳ありません。」

勝手に離婚して怒り狂うかと思ったが、両親の反応は意外なものだった。二人は顔を見合わせ、ほっとしたように息を吐く。

「あら、そう。かずやのお金を食い潰すだけの人がいなくなって、清々したわ。」

「離婚して当然だな。女も産まないし、気も聞かない嫁なんかいらない。かずやに迷惑をかけるなよ。かずやの金を絶対に当てにするな。」

切れた。孫が無事に生まれたかどうかの確認すらない。彼らの頭の中にあるのは、かずやがもたらすであろう輝かしい未来と金だけだった。どうやらかずやは、私を追い出した後、義両親に相当な見栄を張っていたらしい。「本社のエリート部門に大抜擢された」「動画投稿が爆発的人気で、遊んで暮らせるほどの収益が入る」と。その言葉を鵜呑みにした義父は、早々に仕事をやめてしまったのだろう。

「かずやは、これからもっと華やかな世界で生きていく人間なんだ。知ってるか?かずやは芸能人みたいに人気者なんだぞ。あんたみたいな地味な女じゃ、あれだ。映えないってやつだな。」

義父はそう言って、私を以前にも増して見下すような目で見下した。出発前に母から「冷静にね」と言われているけれど、どうしても怒りの感情に火がついた。

「かずやさんに、ちゅうちゅう吸えるほどのお金があればいいですけどね。」

笑顔をなんとか保ったまま、私は静かに言い放つ。今の空気が一瞬で凍りついた。

「はあ。何よ、その嫌味な言い方。かずやは本部のエリートになるのよ。お金なら腐るほどあるの。あんた、かずやからあり金全部をむしり取る気?最低な女ね。」

「やだ、お母さん。もしかして知らないんですか?かずやさんは今、会社を首になるかどうかの瀬戸際に立っていますよ。」

嫌な表情は、散々義両親から学んだ。顎をしゃくり、口角を右側だけ上げて顔を歪める。半開きの目は笑っているようで、鋭く義両親を突き刺す。余裕の表情に、義両親は少しひるんだ。

「かずやさんは、動画投稿に夢中になるあまり、不適切な内容を全世界にさらしてしまったんです。会社側はすでに事実確認に動いています。昇進どころか、懲戒解雇されるかもしれませんね。店長の立場にすらとどまれない。退職金すら出ない形での首を宣告される可能性が、非常に高いんです。」

初耳だったようで、義両親の顔から一気に血の気が引いていく。義父は私を睨みつつスマホを掴むと、すぐかずやに電話をかけた。

「おい、かずや。言い訳はいいから、さっさと帰ってこい。仕事なんか言ってないんだろ。」

15分ほどして、かずやが義実家にやってくる。今の私と父の姿を見るなり、彼は「ひっ」と短い悲鳴をあげた。逃げ出そうとしたが、背後から義母が腕をがっしりと掴む。

「かずや、説明しなさい。昇進するのよね。お給料ものすごく増えるのよね。」

「あ、いや、それはどうかな。今、調整中というかなんというか…」

かずやはもごもごと言葉を濁した。視線を泳がせ、得意のヘラヘラ笑いを浮かべてごまかそうとする。だが義父の剣幕がそれを許さない。

「話とは何だ?お前の給料と動画の金がどっちも入って、すごいことになるんだろ?俺はもう仕事をやめたんだぞ。なんで仕事をやめたの?」

「は?お前が稼いでるのに、なんで俺が働く必要があるんだよ。」

激昂したかずやを、義父は当然とばかりに一蹴した。自慢はしたが、まさか義父が退職するとは想定外だったのだろう。逃げ場を失い、冷や汗を滝のように流すかずや。そこに私は淡々と事実を並べて追い打ちをかける。

「かずやさん、本部の方と私はすでにお話ししました。あなたの動画が原因で、店への苦情も殺到しているみたい。損害賠償を請求するって話も出ているよ。」

「損害賠償?え、ただの動画で…」

かずやの顔が青を通り越して白に変わった。そんな正気を失ったかずやを心配することなく、義両親は彼の方を激しく責める。自分たちの財布が消滅する危機だ。黙っていられないらしい。

「あんた、何てことしてくれたの?遊びの動画で会社を首になっちゃ、笑えないよ。この大バカたれが。会社に土下座して謝ってこい。動画なんか、わけわかんないもんだけじゃ食っていけないだろう。絶対に会社をやめるなよ。」

まくし立てる義両親と、震えが止まらないかずや。その様子を、私は父と共に静かに眺めていた。子供のピンチに駆けつけてくれる親がいれば、ピンチの子供を寄ってたかって袋叩きにする親もいる。かずやはただ床にうずくまり、べそべそと鼻を鳴らして泣いていた。いい大人が、情けないにもほどがある。

ずっと沈黙していた私の父が、ゆっくりと口を開いた。

「かずや君、少し聞いてもいいかな?」

穏やかで、決して大きな声ではないのに、なぜか義両親の罵倒がぴたりと止まる。

「最近、SNSというのかな?楽しそうに迷惑行為をする動画を上げて喜んでいる若者がいるようだね。私はそれを見ていつも不思議に思っていたんだよ。」

かずやの肩がびくっと跳ねた。

「かずや君も動画でやっていたね。お客様に提供する前のパスタに、自分の指を突っ込んでニヤニヤ笑ってた。その時、どんな気持ちだったの?面白かった?楽しかった?」

真面目に問われても、かずやは答えられない。俯いた顔が見るみるうちに赤く染まっていった。父の言葉は説教ではなく、純粋な疑問として投げかけられた。衝撃的な動画はたくさんの人に見てもらえる。再生数が跳ね上がり、「俺すごい」と単純に喜んでいたかずやは、今初めてくだらない行動をしたと気がついたのだろう。

「ネットリテラシー云々の前に、人間として恥ずかしくなかったの?匿名なら何をしてもいいって思ってたのかな?意味の分からない動画で小銭を稼げたかもしれないけど、そんな風に成功して、本当に嬉しい?」

今は静まり返った。あれほど喚いていた義両親も、父の圧倒的な正論の前に返す言葉を失う。かずやはただただ恥ずかしさに震えていた。自分のしたことが法に触れるとか、会社を首になるとか、そういう話ではなく、単にひどくダサくてバカな行為だと真正面から突きつけられたからだ。

このまま開眼するか、あるいは絶望するか。そう思ったのも束の間、かずやの口が小さく動くと、どすの利いた声が漏れ始めた。

「くそ、お前に何が分かるんだよ。」

かずやが弾かれたように顔を上げた。その目は血走り、興奮してぎらついている。

「お前みたいな年寄りには分からないだろうけどな。今は動画の時代なんだよ。俺の動画は何十万人に見られてるんだ。これが世論だ。俺はそこら辺のつまらない大人と違って、世間に支持されてるんだよ。」

父が何かを言おうとしたが、かずやはそれを遮るように叫んだ。

「会社なんか首になってたまるか。こっちからやめてやるよ。見ろよ、これ。」

スマホを叩きつけるように突きつける。彼が見せつけたのは、銀行口座の入金画面だった。直近の振り込み額は42万円。

「すごいでしょ。動画一本バズれば、金なんか一瞬で稼げるんだ。俺にはその才能がある。俺の給料、手取りで25万ちょっとだよ。ファミレスの店長なんか、馬鹿らしくてやってられるかよ。」

それまで唸っていた義両親の目が、金額を見た瞬間にらんらんと輝き出した。

「え、動画で42万円も稼げるの?かずや、あんた本当にすごいのね。」

「なんだ、そうか。お前、すごいんだな。うん。会社なんかやめてしまえ。組織に縛られるのはバカだ。」

義父は手のひらを返したように私の父を指差し、下品な高笑いをした。

「あら、やだ、かずや。他人さんにそんな大きな金額、教えちゃだめよ。今更復縁してなんて泣きつかれても、1円も上げないから。狙われちゃうわ。怖い怖い。」

「大丈夫。かずやの金は俺が守ってやるよ。動画に集中しろ。」

「そうだ、かずや。今すぐ会社に電話してやれ。やめてやるってさ。」

義父に背中を押され、かずやは万能感に酔いしれる。彼は通話をスピーカーモードにして、会社に電話をかけた。

「あ、もしもし。最上です。あの、自宅待機の件ですけどね。もう結構です。会社、やめてやりますよ。すっと息を吸い込んで一気にぶちまける。二度と俺に関わるな。」

捨て台詞を吐いて通話を切ったかずやは、鼻の穴を膨らませて勝ち誇った。

「言った。言ってやった。ああ、清々した。おい、まゆみ。見たか?俺が会社を捨てたんだ。会社に動画のことを告げ口したら、仕事を失って俺が困るとでも思った?は、残念でした。」

はあはあと肩で息をするかずや。私は驚くでも呆れるでもなく、未知の生き物を観察している気分だ。

「そう。」

何を言っても、今のかずやには負け惜しみにしか聞こえないだろう。

「俺がすごくてごめんね。明日から俺は自由だ。めちゃくちゃ動画作るぞ。億万長者になってやる。」

かずやと義両親は、まるで宝くじが当たったかのように炊き合って喜んだ。狂喜乱舞の輪から一歩引き、私は覚めた目で彼らを見つめていた。かずやは自ら命綱を切り落としたことに、まだ気がついていない。

42万円という数字に浮かれ、「お寿司の出前とるぞ」と下品な笑い声を背中に聞きながら、私と父は義実家を後にした。帰り道の車中で、私はふとつぶやく。

「結局、最後まで一度も『赤ちゃんは元気?』って、誰も聞かなかったね。」

かずやと義両親は、ユナという新しい命にまるで興味がない。最上家の後継にならないと分かった瞬間から、その辺の石ころと変わらない価値になったのだ。

「まあ、離婚して正解だよ。あんな連中に、可愛いユナを見せてやる必要はない。」

父の穏やかな言葉に、私は深く頷いた。ユナを愛してくれない父親や祖父母は必要ない。その分、私や実の両親がたっぷり愛情をかけて育てればいい。かずやとの縁は切れた。これからは余計なことに頭を悩ませず、ユナとの時間を大切にしよう。

けれど、まだ落ち着いた一時を過ごせそうにない。翌朝、自宅でユナの世話をしていたところ、インターホンが鳴り響いた。モニターを確認すると、そこにはかずや。昨日、億万長者になると力強く豪語したばかりなのに、もう別人のような顔をしている。目はうつろで焦点が合っておらず、亡霊かと思ってぎょっとした。インターホン越しに冷たく対応する。

「何?」

「あ、と、どうしよう。まゆみ、助けて。」

かずやは震える声を漏らした後、その場に膝から崩れ落ち、ばたんと倒れ込んだ。あんな男、放っておけばいい。ただ、もし家の前でぽっくり行かれでもしたら、自爆例になって取り憑かれそうだ。私は警戒しながらドアを開け、力なく玄関に転がっているかずやに水を差し出した。幸い、息はある。

「何かあったの?」

かずやは震える手でコップを掴み、一気に飲み干す。それから泣きそうな声で話し始めた。

「動画のアカウントが消されたんだ。永久ってやつ。あ、どうしよう。どうしたらいいの?」

今朝、彼がいつものように小銭のコメントをチェックするためアプリを開いたところ、画面には「規約違反によるアカウント停止」の表示が出ていたという。これまで作ってきた動画も、登録者も、いいねも、収益化の権利も、全てが灰となって消え去った。

「なんで、どうして。俺の動画は人気だったんだ。誰かが嫉妬して、組織的に通報したに違いない。」

かずやのくぼみ落ちた目が、ぎろりと私を捉える。

「お前だろ?会社にちくったみたいに。お前が裏で何かしたんだろう。」

弱々しくも必死に私を犯人に仕立て上げようとする姿は、哀れですらあった。

「私は何もしてないよ。あなたの自業自得でしょ。」

「嘘だ。俺は何もしてない。ただ面白い動画を撮って、みんなを喜ばせていただけなのに。」

頭を抱えて喚く彼に、私は冷たく事実を突きつける。

「何もしてない?してたでしょ。あなたは動画の中で、どれだけ多くの人を傷つけてきたと思ってるの?」

かずやはぽかんとした顔で首をかしげた。本当に心当たりがないようだ。

「お店に来たお客様の隠し撮りをして、『豚の餌食い』なんてあらわしたこともあったよね。」

「あ、でも、あれは受けてたし。」

「他にも、スタッフルームのロッカー内を映して『女子大生Sちゃんの可愛い私服大公開』なんて、従業員のプライバシーを侵害したこともあった。でも、服しか映してないし。」

「それに、他の店のデマを流して営業を妨害したこともあったよね。『ハンバーグの肉はネズミの肉を使ってるらしい』と、信憑性に欠けることをもっともらしくぺらぺらと喋って、『信じるか信じないかはあなた次第』と最後はドヤ顔で決めていた。」

「でも、別に罪じゃないし。都市伝説みたいなもので…」

それら全部、規約違反どころか犯罪に近い行為だとかずやは認識していない。

「いや、そんなことでも、視聴者はみんな面白いって喜んでくれてたのに。俺にはアンチなんて一人もいなかったんだぞ。なのにおかしいじゃん。」

アカウントを消されてもなお反省できない彼に、私は深いため息をついた。かずやのチャンネルがあまりに絶賛だったので、自身が万能で誰からも好かれる人気者だと勘違いしていたのだろう。

「かずや。私が切迫で一日中寝ていた時、何をしてたと思う?ずっとあなたの動画を見ていたのよ。暇だったからっていうのもあるけど、あなたの狂気がどこまで加速するか見届けたくなってね。」

私は彼が仕事中だと思われる時間帯、何度も動画のコメント欄を更新していた。一見、賛辞コメントで埋め尽くされているように見えたが、実はその裏で凄まじい数の批判や通報の呼びかけが寄せられていたのだ。

「あなたは仕事中も必死にスマホをいじって、批判的なコメントを片っ端から消していたね。一秒でも早く否定的な意見を排除して、自分を褒める声だけを残してた。そうやって、自分の居心地がいい場所を作っていたんでしょ。まともな人間は、賞賛だらけの異常なコメント欄を気持ち悪がって去っていく。残るのは、かずやと同じように歪んだ価値観を持つ人間と、彼を煽って楽しむ愉快犯だけ。かずやが消すよりも早く、私は全部見ていたよ。『不快です。通報しました。店を特定しました。』そういう声が積もり積もって、ついに動画を消されたんじゃない?」

いくら批判的なコメントを消しても、初めからなかったことにはできないのだ。かずやは涙目になり、必死に自分の体を抱きしめた。

「でも、登録者が、いいねが、あんなにすごくあったんだ。俺はすごかったんだ。」

「はいはい。すごかったんだね。でも、そのすごさの証拠はもうネット上のどこにも残っていない。アカウントも動画も、綺麗さっぱり消されてしまった。会社を自分から辞め、唯一の収入源となった動画も失った。泣きたくなる気持ちはよく分かるけれど、私には無関係なこと。ここで泣かれても迷惑だよ。お母さんに慰めてもらえば?」

軽くかずやの肩を押すと、中身のないお人形さんのようにころんとよろめいた。その際、私は玄関のドアを音を立てて閉める。しばらくモニターを見ていると、彼はふらふらとした足取りで、幽霊のように去っていった。

しかし、嵐はこれで終わりではない。数時間後、さらに威力を増した暴風が私の自宅を襲った。インターホンを壊しそうな勢いで連打される。それと同時に、ドアを足で蹴飛ばしているのか、ガンガンと不快な衝撃音が廊下に響き渡った。慌ててモニターを確認すると、そこには般若のような形相の義母と、顔を真っ赤にして怒り狂う義父。その後ろで、かずやはぼーっとただ突っ立っていた。

運よくユナは母が散歩に連れ出しているので、被害が及ぶ心配はない。父がすぐ隣で腕を組んでいて、臨戦体制だ。私は胃を押さえ、チェーンをかけたままドアを数センチ開けて対応した。

「何のようですか?警察を呼びますよ。」

「うるさい。警察を呼ぶのはこっちだわ。」

義母が隙間に指をねじ込み、金切り声をあげる。

「あんたが変な告発したせいで、かずやの動画が消されたんだって。あんたは42万を消したのよ。」

「そうだ。会社も辞めて、動画もダメだって。お前が余計なことをしなければ、俺たちは億万長者になれたのに。」

呆れて物も言えなかった。彼らはまだ自分たちの息子が犯した醜悪な行為を知らず、責任が私にあると本気で信じているのだ。

「全部、自業自得でしょ。かずやさんがルールを破り、人を傷つけたからです。正当な報いを受けただけですよ。」

「いや、でも…」

真っ向から正論を突きつけると、義父は一瞬言葉に詰まった。隣の義母と目くばせして、顔を歪める。

「分かった。もういいわ。」

意外と物分かりが良くてほっとしたのも束の間、信じられないようなことを言い出した。

「かずやも反省したみたいだし、今回だけは特別に、やり直してあげてもいいわよ。」

「へ?」

義母はねっとりと微笑むと、声を甘くする。

「いい?子供はね、両親が揃っていないと可哀想でしょ。かずやは優しい子だから、いい父親になるよ。近くに私たちがいるのに、遠くからわざわざ実家の両親を呼ぶなんてね。もう水臭いことしないでよ。私に任せて。孫の面倒はちゃんと見てあげる。」

義母は絶対に開かない玄関をこじ開けようとしながら、室内を必死に覗き込む。廊下の先にはリビングがある。リビングに置いたベビーベッドや可愛らしいメリーゴーランドを目敏く見つけたらしい。

「まあ、そこに赤ちゃんがいるの。おばあちゃんに抱っこさせて。」

ユナが散歩に出ていて本当に良かった。おばあちゃんを演じている悪魔に、ユナの顔を見せるのすら嫌だ。義父がぽんと手を叩く。

「そうだ、かずや。また動画で稼げばいいじゃないか。子供を映してるだけで何が面白いのか分からない動画を、俺も見たことがあるよ。でも、そういうの需要あるんだろ。ほら、ちょうど子供がいるんだし。ファミリー動画の爆発力も分からないくせに、孫を出しに使って金を稼ごうとする義父は浅ましい。」

「え、お父さん、天才。」

「ちょっと、まゆみちゃん。うちの孫を一人じめしないでよ。孫を返して。」

急に義母の目がぎらりと光って、室内に向かって呼びかけた。

「可愛い赤ちゃん。おばあちゃんよ。おばあちゃんと遊びましょう。」

その瞬間、私の背後の温度が急上昇した。後ろからひょっこり顔を出したのは、可愛い赤ちゃんではなく父だ。ドアの隙間に顔をめ込ませていた義母が、驚いて飛び跳ねる。

「いい加減にしなさい。」

低く唸るような声を響かせた。父はチェーンを外してドアを開け放ち、義両親の前に立ちはだかる。

「自分たちの生活が立ち行かなくなったから、今度は孫を利用するのか。復縁の道具どころか、金稼ぎの道具にするって。生まれたばかりの大切な命を、お前たちは何だと思っている?」

私ですら、父の怒声は聞いたことがない。普段は物静かな人が怒りを見せて、さすがの義両親も後ずさりした。

「な、何だよ、急に。孫に会いたいっていうのは、祖父母として当然の権利だろう。」

「黙れ。女の子だと知った途端に、価値がないと罵倒したことを忘れたのか。出産したばかりの娘に離婚届を突きつけた男を放置した連中が、どの口で祖父母などと抜かす。」

父は顔を真っ赤にして、震える手で義父の胸ぐらをつかまんばかりの勢いで詰め寄る。

「私の娘と孫は、お前たちの浅ましい欲望を満たすための道具ではない。汚い金儲けや自分たちの保身のために利用しようなど、断じて許さない。」

溢れ出る涙を拭うことも忘れて、私も叫んでいた。

「さっさと帰ってよ。復縁?冗談じゃない。あなたたちみたいな、命を物としか見ない人たちに、絶対娘を渡さないから。」

私たちの本気の怒りに、義両親は完全に気圧された。かずやといえば、親の後ろでガタガタと震え、ひっ短い声を漏らして廊下の隅まで後退している。

「あ、覚えてなさいよ。こんなに侮辱されて、ただで済むと思わないで。」

義母は捨て台詞を吐きながら、逃げるようにエレベーターへ向かった。

「こっちこそ、ただで済むと思ってるの?無職だろうが何だろうが、かずやに養育費は請求するからね。離婚後に祖父母が孫に会う権利はないけどね。父親が養育費を払うのは義務なんだよ。」

義父も慌てて義母の後を追う。遅れて、かずやもエレベーターに転がり込んだ。怒りと悔しさ、そしてユナを守らなければならないという強い使命感で、全身の震えが止まらない。

「よく言ったよ、まゆみ。頑張ったね。」

父が私の肩を抱きしめてくれた。

それから数日後、父が手配してくれた弁護士を通じて、かずやに正式な養育費の請求書を送付した。連絡は全て弁護士を通すようにと添えたにも関わらず、かずやからは「こんな額、無職の俺には無理だよ。少しは事情を酌んでよ」という被害者面をしたメッセージが届いた。返信もせずに放置する。スマホを置いたところで、インターホンが鳴った。タイミング的にまたかずやかと身構えてモニターを見ると、そこに映っていたのは義母一人だ。しかも、先日の般若のような形相はどこへやら、妙にヘラヘラとした笑みを浮かべている。

「何のようですか?」

玄関を開けずにインターホン越しで応答すると、義母は猫撫で声で語りかけてきた。

「あ、まゆみちゃん。ちょっとお話ししましょうね。かずやのこと、今回だけは許してあげてくれない?夫婦なんだから、助け合わないとでしょう。」

話を聞いてみれば、義母の復縁要請には呆れ果てるほど自分勝手な理由があった。動画に出ているかずやが芸能人のように見えて羨ましかったから、自分も親子でデビューするつもりでいたらしい。その準備と称して、高級エステで100万円を超えるコースを契約してしまったというのだ。

「私も動画に出るかもしれないでしょ。少しでも綺麗にしておかないとと思って。でも、かずやがお金をくれなかったから、支払いができなくて困ってるの。」

体をくねくねさせて、上目遣いでモニターに迫ってくる。

「勝手にローンを組んだって、お父さんにバレたら怒られちゃうでしょう。だから、お願い、まゆみちゃん。あなたは働いてるんだから、お金あるよね。私を助けてちょうだい。」

仕掛けでもしているようだが、同性の私に効くわけがない。いや、異性であっても引っかかるだろうか。

「お断りします。お母さんの見栄のために作った借金を、なぜ私が払わなきゃいけないんですか?」

「なんでよ。冷たいわね。あんたは最上家の嫁なんだから、私に尽くす義務があるでしょうが。」

下手に出ていた義母が、本性を表して喚き始めたその時だった。

「なんだって?」

空気をぴりと揺らす声がした。義母が悲鳴を上げて振り返ると、いつの間にか背後に立っていた義父。何かを察して後を追ってきたのか、他に理由があったのかは分からないが、義父まで現れてうんざりした。

「え、お父さん、あの、その、事情があるのよ。」

「黙れ。一銭も稼がない専業主婦の分際で、エステだと?俺の許可もなく勝手に人の金を当てにしやがって、癪に障るやつだな。」

突然の剣幕に、義母は触れ上がりながらも必死に泣きつく。

「ごめんなさい。でも、借金が来て本当に困ってるの。かずやはもう頼りにならないでしょ。お父さんの退職金をちょっとだけ貸してくれない?」

すると義父が「あっ」と声をもらし、不自然に視線を泳がせた。一瞬の間。義母の目がすっと細められ、ベテラン刑事のような鋭い視線を放った。

「お父さん。まさか、退職金もうないなんて言わないわよね。」

冷や汗を浮かべた義父は、絞り出すように白状する。

「いや、えっと、かずやに連れて行かれたキャバクラが、あそこが楽しくてな。気づいたら使い果たしたというか、まあ、ごにょごにょ…」

言葉を濁した。義母の視線が義父に突き刺さって離れない。嘘をつける雰囲気ではなくて、義父はさらに罪を打ち明けた。

「ちょっとだけ、借金もしちゃったかな。」

「な、なんですって。」

今度は義母が発狂する番だ。

「あんた、私が家計のやりくりしてる間に、キャバクラで女と遊んでたの?しかも100万円まで?どの口で私を責めたのよ。」

「うるさい。そもそも、お前がもっといい女だったら、俺だって外に癒しを求めたりしなかった。お前がおばさんになったから悪いんだろ。」

「この浮気男!だから私はエステに通って綺麗になろうとしたんじゃない。」

お互いに自分の非は棚に上げて、相手を攻めまくる。どちらも結局、自分勝手だ。

「ああ、もう、ぐずぐずとうるさいな。だからこうして、まゆみさんにどうにかしてもらおうと思ってきたんじゃないか。」

義父が訪問してきた理由も、義母と同じだった。似たもの夫婦にもほどがある。揃って欲望のままに金を使い込み、行き詰まったら他人の財布を狙うのだ。玄関先での言い争いを繰り広げる老夫婦の姿は、哀れを通り越してただただ浅ましい。

「お二人とも、いい加減にしてください。」

冷たく言い放つと、彼らは一瞬、言い争いを止めた。

「あなたたちの贅沢も、キャバクラも、私には全く関係ありません。その借金、自分たちでどうにかしてください。これ以上騒ぐなら、今度こそ本当に警察を呼びます。」

廊下からは「お前のせいだ」「あんたが悪いんだ」という見苦しい責任の押し付け合いが、しばらくの間響き続けていた。

かずやを当てにしていた義両親だったが、彼は全くお金を出さない。会社からの給料と動画の収益が止まったとしても、貯金くらいあるだろう。でも、義両親がいくら頼んでも、泣いても、怒っても、かずやは首を横に振るばかり。お金を一人占めしてるのかと思いきや、実は本当に貯金がなかったのだ。そこへ届いた、元勤務先からの数百万に及ぶ損害賠償請求の通知。離婚後のかずやは義実家に身を寄せている。そこにプライバシーはなく、金当ての手紙でも義母が躊躇なく開けた。手紙には大きな金額が書いてあったので、もらえるお金だと勘違いした義母は大喜び。それが支払うお金だと気づいた時は、あまりの落胆に怒りが込み上げた。

「この疫病神!あんたが帰ってきてから、悪いこと続きだよ。お前のせいで、退職金も未来もパーだ。」

自分も贅沢したことは棚に上げて、義両親は揃ってかずやを攻め立てる。居たたまれなくなったかずやが向かったのは、唯一自分をすごいと肯定してくれた場所だ。恋人のミカの元へ走る。彼はその日、久々に鏡の前で髭を剃り、手持ちで一番上質なスーツを身にまとった。どん底からの人生の再出発だ。軽い気持ちで私と結婚した時よりも、ずっと真剣な顔だっただろう。

彼女が勤めている店はキャバクラ。男女が楽しくお酒を飲む店だ。開店直後の店はまだ客がまばら。仕事中に悪いと思いつつ呼び出したミカが席に着く。その瞬間、かずやは床に膝まづいた。

「みかちゃん、結婚しよう。」

驚きのあまり、ミカの笑顔が固まる。数秒後、にこっと笑ってミカはかずやの手を撫でた。

「もう、私たち、そういうんじゃないでしょ。何かあったの?かずや君、疲れてるんじゃない?とりあえず、飲もう。」

軽く流されても、かずやは真剣だった。

「俺、みかちゃんを本気で愛してる。だから、嫁とは別れてきたんだ。俺ってすごく一途な性格なんだよ。好きだってなったら、絶対に裏切らない。一生みかちゃんを大切にするよ。」

なぜプロポーズの詳細を私がこんなにも知っているのかと言えば、今、私の家の玄関前でかずやが泣きながら話しているからだ。

「あの女に、俺は騙された。絶対に両想いだったはずなのに。」

もちろん、玄関は開けない。彼は地べたにうずくまり、ドアに向かって一人で勝手に喋っている。プロポーズが本気だと悟った彼女は、急に声が変わったそうだ。聞いたこともないような冷たい地声で、はっきりと言った。

「結婚なんかできるわけないじゃん。私たち、そもそも付き合ってもいないし。」

営業用のキラキラした笑顔を消した。

「でも、たくさんデートしたじゃん。このまま店に行かないで、俺とずっと一緒にいたいって言ってたよね。」

「うん。仕事だから、売上のためだよ。」

ミカは素っ気なく答える。

「いつも俺のことすごいって褒めてくれたじゃん。動画も見てくれてたし、ファンでしょ。もう話が止まなくて、俺たちめちゃくちゃ気が合うから、運命だって。」

「うん。仕事だから、どんな自慢話でも『すごい』『面白い』って聞くよ。」

「え、あのボディタッチだって、俺のこと触ってきて。」

「うん。仕事だから。手を握ったくらいで勘違いしないでくれる?中学生じゃないんだから。」

純愛はこっぱみじんに叩き壊された。

「かずや君、今日のお金払えるの?無職になったって話。本当?お金を払う気がないなら、来ないで。営業妨害だから。」

かずやの顔も背中も手のひらも、汗でぬるぬるする。弁解することもできず、彼は涙を流して逃げ帰ってきたそうだ。そして、元妻の私に全てを話している。一緒に怒って欲しいのか、慰めて欲しいのか。彼の気持ちを想像してみたが、多分何も考えていなくて、衝動的な行動をしているだけだ。

「ひどいだろう、あの女。とんでもない詐欺師だよ。俺にあんなにこ笑いかけて、動画がバズった時もすっごい喜んでくれたのに。」

廊下で喚くかずや。人が泣いているというのに、あまりの哀れさに乾いた笑いが出る。彼女の言う通り、仕事だ。おじさんのつまらない話をニコニコと聞いていた彼女は、プロとしてかずやの承認欲求を完璧に満たしてあげていた。それに対してかずやは、対価を払っていただけに過ぎない。自らキャバクラに通って勝手にお金を使ったくせに、彼女を責めるのは筋違いだ。

無視を貫くつもりだったが、どうにも我慢できなくなった。モニターの通話ボタンを押す。

「勘違いもいい加減にしなよ。」

ぶつくさ言っていたかずやが、顔を上げる。

「でも、俺は本気だった。みかちゃんと結婚して、一生大事にしようって思ってたんだ。」

真剣に叫ぶが、説得力はゼロ。

「かずやは、妻と子供を簡単に捨てられる人だからね。大好きなみかちゃんも、嫌になったらぽいと捨てるよ。現に今、詐欺師呼ばわりしてるじゃん。キャバクラの女に本気になって家族を捨てた時点で、一途な性格ではない。ていうか、よくそんな勘違いできるね。鏡見なよ。30代後半の無職のおじさんが、20歳そこそこの子を本気で結婚できると思ってたの?」

かずやは39歳、ミカは20歳になったばかりだそうだ。手に入れかけた富も名声も、一瞬で吹き飛ぶような薄っぺらな男。そんな男に、若い女の子が人生をかけるはずがない。

「お金や知恵があれば、年齢差なんて関係ないこともあるよね。でも、かずや。今のあなたには、何があるの?これから一生かけて払う養育費と損害賠償の沼に、女の子を引きずり込みたいだけ。もし結婚したら、幸せにできそう?」

かずやは口をぱくぱくさせた。仕事も絶好調の時なら、話は違っただろう。それを失ったら、彼は一瞬の栄光にすがりつく、哀れな勘違いした男でしかない。

「まだ話したいことある?ないなら、もう帰って。それとも、養育費の他に、浮気の慰謝料も請求して欲しい?女の子にその気がなかったとしても、かずやは本気だったんだもんね。私が辛い時に、あなたは…」

かずやは絶望に染まった目で天井を見上げた。返事もせず、背中を丸めて去っていく。

嵐のような日々が過ぎ、実家の両親も「何かあったら、すぐに呼ぶんだよ」と言い残して地元へ帰って行った。ようやくユナとの生活リズムが整い始めたある日の夕方、インターホンが鳴った。モニターには、間違いなく気まずそうな面持ちをしたかずやと義両親の姿。

「養育費の件で、真面目な話し合いがしたいんだ。」

かずやの消え入りそうな声に、私はため息をつきながらインターホン越しに応じた。

「話し合いなら、弁護士を通してくださいと言ったはずですが。」

「そんな冷たいこと言わないでよ、まゆみちゃん。」

義母が割って入り、薄気味悪いほど明るい声を出す。

「あのね、みんながハッピーになれる解決策を持ってきたの。私たち、養育費を払うようなお金はないじゃない。だからね、お金の代わりに、育児そのものをやってあげる。」

また想定外なことを言い出した。

「まゆみちゃん、仕事を続けるんだもんね。赤ちゃんの世話をしながら働くのは大変でしょ。だから、私とお父さんとかずやで、ちゃんと面倒を見てあげる。このマンションに5人で住むのは狭いからね。まゆみさんも赤ちゃんを連れて、うちに来ればいい。そうすれば、お前は楽できるし、最上家も守れるし、ハッピーだ。」

義父もニコニコしている。自分たちが窮したから、私の収入を当てにして吸い尽くそうという魂胆だ。図々しいにもほどがある。

「お断りします。離婚したんです。あなたたちとやり直す理由がありません。」

きっぱりと拒絶した瞬間、彼らの化けの皮が剥がれた。

「何よ、こっちは折れてやってるのに。かずやの再就職も決まらないし、こっちは困ってるの。このままじゃ最上家が潰れるだろう。それでも嫁なのか。お前はまだ女じゃないんだろ。もう一回チャンスをやるよ。」

頼みたいなら、もう少しくらい本性を隠して辛抱できないものか。なじられて従うほど、私は従順な嫁ではない。彼らと離れてしばらく立ち、すっかり冷静になった。

「最上家がなくなるなら、別にそれでいいんじゃないですか?最上が途えたところで、誰か困ります?最上家に歴史に名を残す偉人でもいたんですか?守るべき伝統とか、素晴らしい家や財産でもあるんですか?ただの見栄っ張りで中身のない家が一つ消えたところで、世の中の誰も困りませんよ。」

家そのものを根底から否定され、二人は口をぱくぱくさせて立ち尽くす。義両親の背後で幽霊のように立っているかずやに、今度は矛先を向ける。

「かずや、あなたもいつまで親の後ろに隠れているの?動画の収益が42万円もあったんでしょ?そのお金で、困っているご両親を助けてあげたら?」

「そのお金も、全部キャバクラのみかさんに貢いで、消えちゃった。」

義両親が弾かれたようにかずやを振り返った。

「あ、ばっ、かずや。あんた、まさか、あの42万円はどうしたのよ。」

かずやは今にも泣きそうな顔で唇を噛み、小刻みに震える。さらに、彼が隠しに隠していた数字の空疎さを、私は暴いていく。

「ところで、その42万円は、動画一本でそれだけ稼げたの?それとも、一ヶ月分まとめた収益?まさか、数ヶ月分まとめた収益じゃないよね。」

かずやの顔から一気に血の気が引いた。切迫で寝込んでいる時に調べたのだ。かずやの再生数と登録者数じゃ、一ヶ月で数十万なんて稼げるわけがない。その42万円は、収益化が始まってから数ヶ月分、半年くらい貯めて貯めて、ようやく振り込まれた全財産だったんじゃない?仕事も動画も失っても、まだ丸裸ではなかった。過去の栄光というプライドまで、はぎ取る。

かずやはガタガタと震え出した。短期間で爆発的に稼いだ天才クリエイターというのは虚構。その実態は、長い時間をかけて貯めた、サラリーマンのボーナスにも満たない程度の蓄えだったのだ。

「そんな、まさか。動画を一本作るだけで、簡単に40万や50万になると思ってた。」

義父が唸る。

「大した稼ぎでもないくせに、それを全部女に使い込んだと?この大バカ者、役立たず。」

母がかずやの肩を揺さぶり、義父母が髪の毛をわし掴みにする。素晴らしいと称えられていた彼は、両親から「金を使い込んだ嘘つき」として、廊下で叩きのめされていた。

「ああ、もう頭に来た。再就職もなかなか決まらないし。あんた、本当に使えない子だね。ちょっと、まゆみちゃん。これ、返品します。」

なんとかずやを私に押し付けてきた。自分の息子を、まるで不良品のおもちゃか何かのように扱う。その言葉に私は耳を疑った。たとえ不良品だったとしても、製造販売元である義母が何を言っているのか。

「無理です。離婚は成立していますから。私には無関係ですね。」

冷たく返したら、義母は今度は逆切れしてドアを叩いた。

「私だって無理よ。こんな穀潰し、もう家に置いておけない。ていうか、あんた、離婚したのになんでこのマンションに住み続けてるのよ。おかしいでしょ。ここはかずやの家でしょうが。かずや、あんたはここに残りなさい。」

一方的にそう言って、かずやを私の玄関の前に置き去りにして立ち去ろうとする。かずやは情けなく「お母さん、待ってよ」と縋った。彼らは根本的な勘違いをしている。私は深くため息をつき、インターホンのマイク越しにはっきりと真実を告げた。

「かずやさんをここに置いていくなら、私は今すぐユナを連れて出て行きます。ここは持ち家ではなく、賃貸ですから。」

義両親の足がぴたりと止まった。

「ファミリー向けの物件で、少し家賃は高いが、職場に近くて住みやすい。だから、私名義で家賃を払って住み続けた。言っておきますけど、かずやさん一人じゃ、このマンションの家賃は到底払えません。例え会社員を続けていたとしても、私の収入がなければ、この生活レベルを維持するのは難しかったでしょうね。」

まさか、かずやよりも私の方が稼いでいたという事実を突きつけられた義両親は、むっとして顔を真っ赤に染める。

「その場で地団駄を踏んだな。何よ、女のくせに男より稼いでるなんて、生意気なんだから。かずやが肩身の狭い思いをして、動画とか他の女に逃げたんじゃないの?」

「かずやさんは、実力以上に自分を大きく見せたかっただけですよ。ちょっとうまくいったら、私や赤ちゃんをお荷物として扱って、『俺はすごい』と優越感を満たしていたんですね。」

私は最後の一撃を加える。

「かずやさんを連れて、早く帰ってください。まあ、ここに置いて行ってもいいけど、今度は家賃の滞納で借金が嵩みますよ。不良品は、どうぞ親であるあなたたちが引き取ってくださいね。」

般若のように顔を歪ませて、義両親は私を睨みつけるが、言い返す言葉も出てこなかった。見下していた嫁が、実はかずやよりもはるかに高い経済力と自立心を持っていたという事実を突きつけられた。かずやは完全に打ちのめされている。手で耳を塞いだ彼は、義両親に腕を引かれて、ずるずると引きずられていった。かずやの誇栄と最上家のプライドは、今度こそ、かすりも残らず消え去ったのだ。

その後、最上家の三人について、風の噂で聞いた話だ。一家の柱だった義父は、定年前に退職したものの、この不景気で再就職が見つかるはずもない。結局、60歳を過ぎてから始めたのは、和風ファミレスのアルバイトだという。以前は上客のような顔をして通っていた、あの和風レストランだ。そこで義父は、自分よりも年下の大学生に顎で使われ、ぷるぷると震える手で注文の品を運んでいるらしい。一方の義母も、高額エステの解約違約金を払うために、同じ店で朝から晩までキッチンに立って、店の名物の鍋焼きうどんを作っている。彼女はもう、天ぷら御前なんて高級なものどころか、鍋焼きうどんすら食べられない。そして、肝心のかずやと言えば、立ち上がる気力すら失った抜け殻のようだと聞いた。そんな彼の元へ、さらにお灸を据えるような無情な封筒が届いたらしい。住民税と所得税の納税通知書。税金というものは、今無職であることなど考慮してくれない。昨年度、彼が店長として稼いだ収入と、一瞬だけバズった動画の収益をベースに数字が算出されるのだ。「お金なんてない。今働いてないんだぞ」と役所の窓口で喚き散らすかずや。いや、義両親の姿が目に浮かぶようだ。「あんたが動画なんて始めたせいだ。早く働け」と朝から晩まで義両親に攻め立てられているそうだが、彼は自室に引きこもっている。「どうせ俺なんか…」と卑屈になって布団をかぶっているのだとか。身の丈に合わない夢を見て人生を台無しにしてしまった人たち。自分たちが何者でもなかったという残酷な現実を、毎日鍋焼きうどんを頬張る幸せな家族を見ながら、思い知ればいい。

一方、私は気に入ったから引っ越した。利便性より安全性だ。それから、両親が暮らす地元へと戻る。幸い、私の勤め先は全国展開している大手企業。本社での出世からは遠のいたけれど、今の私にとって、給料よりもはるかに大切で守りたい宝物がある。

「行ってらっしゃい。歓迎会、楽しんでおいでね。」

仕事復帰の日、母はそう言って私を送り出してくれた。新しい同僚たちとの食事を楽しんだ後、二次会のお誘いを丁寧に断って、私は家へと急ぐ。玄関を開けた瞬間、廊下の向こうから愛しい足音が近づいてきた。

「ママ!」

とことことかけてきたユナが、私の膝にぎゅっと抱きつく。その後ろで「お帰り」と両親が迎えてくれた。大好きな仕事をして、大好きな家族に囲まれている。特別なことではないけれど、ああ、幸せだなと感じた。頬を寄せてくるユナが、とても愛しい。

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