10年間取引してきた大手メーカーの担当者が変わり、新担当として俺の前に現れたのは中学時代の同級生だった。新担当は俺の中卒という学歴を馬鹿にし、取引契約の更新を拒否してきた。しかしこの新担当は完全に見落としている。俺が取引しているものが大手メーカーの主力商品を支えていることを。そして知るだろう。俺を見下したことが会社ごと破滅に追い込まれる引き金になったことを。
俺は岡崎45歳。食品関連の保存剤を製造する小さな工場を経営している。父から継いだこの従業員10人の会社で、俺は10年前に画期的な保存技術の開発に成功した。それが特殊素材を使った鮮度保持フィルムだ。フィルムに無数の微細な穴を開けることで、冷凍食品を従来の2倍以上長期保存することができる。さらに冷凍焼けやドリップを大幅に削減でき、解凍後の味や食感、旨みを損なうことはない。何百回と実験を重ね、失敗を繰り返した末にたどり着いた技術だ。
この技術で特許を取得した時、複数の冷凍食品メーカーから取引の打診があった。俺は最も早く声をかけてくれた大手冷凍食品メーカーと年間更新の独占契約を結んだ。以来10年間安定した取引と契約更新を続け、今や俺の特許保存を使った同社の冷凍食品シリーズは業界シェア1位の主力商品にまでなった。
しかしこの10年間、他の進行メーカーからもいつか取引させて欲しいと連絡が来ていた。特に進行食品メーカーの社長である三浦は毎年1度は挨拶に来る。だが俺は最初に声をかけてくれた大手メーカーとの関係を大切にしてきた。
今年も契約更新を1ヶ月後に控えたある日、大手メーカーの調達部担当者奥野から連絡が入る。奥野は10年前の契約開始時から俺の窓口を務めてくれた人物だ。技術的な話も理解が早く、何より誠実な仕事ぶりで、俺はこの10年間奥野との取引に何の不満もなかった。
「岡崎さん、実は私、来月から商品開発部に移動することになりまして、後任の調達部長として高村というものが着任する予定です。」
その名前を聞いた瞬間、俺は嫌な予感がした。高村。それは中学時代、俺に必要以上に嫌がらせをしていた同級生と同じ名前なのだ。
「実は高村は財務畑が長く、今回調達部長に抜擢されたばかりなんです。調達コストを20%削減するという目標を掲げているそうで、上層部からのプレッシャーもあるようです。」
俺は奥野に新しい調達部長の年齢や学歴を確かめた。やはり同級生である高村に間違いない。中学時代、工場運営が軌道に乗っていなかった頃、俺はひどく貧しかった。一方、高村は地元でも名門と言われるほど裕福な家だ。しかし学校の成績は圧倒的に俺の方が上。高村は常に上位にいる俺を恨めしそうに睨み、ことあるごとに「貧乏人のくせに」と嫌みを言ってきた。
俺は中学卒業後に進学の学費を工面できず、すぐに工場で働き始めた。あれから30年以上が経っている。お互い社会人としてそれなりの立場にもなっている。さすがに高村も仕事の場で昔のことを思い出すような真似はしないだろう。そう言い聞かせ、契約更新日を迎えた。
大手メーカー本社に行くと、俺は応接室に通され、椅子に座って待っていた。ドアが開き、高村が入ってくる。30年ぶりの再会にも関わらず、俺は高村の第一声に面食らう。
「中卒が何の用だ?」
一瞬自分の耳を疑った。30年ぶりの再会でこの態度か。挨拶もなくいきなり学歴を持ち出す。思わず怒りが込み上げる。だが俺は工場で働く10人の従業員の顔を思い浮かべた。ここで感情的になれば皆を路頭に迷わせることになる。俺は深呼吸をして冷静さを保った。
「本日は特許契約の更新で参りました。」
俺が答えると、高村は椅子に座り資料を開く。
「従業員10人。うちはこんなボロ工場と契約してるのか。」
中学時代、高村は俺の父親の工場を「潰れかけの工場」と呼んだ。今、同じ口調で俺の工場を馬鹿にしている。
「特許使用料で年間数千万か。正直、金を捨てているようなものだな。」
高村はそう吐き捨てるように言い、資料を閉じる。
「お前みたいな下請けに、うちが頭を下げる必要はない。」
「しかし、本社との特許契約は10年間安定して…」
「特許契約だと?」高村は俺の言葉を遮った。「たかが保存剤で大げさなんだよ。そんなもんどこでも作れるだろう。もっと安い業者に切り替えればいいだけの話だ。」
俺は黙って高村を見る。この男は、そのたかが保存剤に詰め込まれた特許技術の価値を全く理解していない。見ているのは工場の規模と学歴だけだ。
「お前は中卒だが、俺は一流大学を出てエリートになった。」高村は腕を組んだ。「お前と俺じゃ格が違うんだよ。中卒ごときの工場が、うちと対等に契約を結ぶこと自体ありえない。間違いだから帰れ。」
高村は立ち上がり、ドアを指差した。「もう2度と来るな。」
この男と毎年契約更新のたびに会い、同じ屈辱を味わい続けるのか。いや、ここで粘って契約更新したとしても、そんな未来はいらない。俺は椅子から立ち上がった。
「では失礼します。」
俺は応接室を出た。廊下を歩きながら、俺は冷静さを取り戻していく。高村は知らない。俺の特許がなければ、あの会社の主力商品が作れない。業界シェア1位の商品は俺の技術で支えられている。大手メーカー本社を出た時、俺がやるべきことはもう決まっていた。
工場に戻った俺は契約書を確認した。契約満了日は今日から1ヶ月後だ。例年ならこの時期に更新手続きを済ませている。契約更新には双方の合意が必要だ。一方が手続きをしなければ、満了日をもって契約は終了する。
俺は窓の外を見た。この工場で働く10人の顔が浮かぶ。もし今俺が感情に任せて大手との契約を切れば、従業員たちの生活はどうなる?新しい取引先が見つからなければ工場は潰れる。だが俺は技術者だ。技術を侮辱され、人格を否定されてまで、その相手に頭を下げ続けたくはない。それは技術者としての誇りを捨てることではないのか。俺は深く息をついた。
それならば、他の取引先を探せばいい。俺は机の引き出しから1枚の名刺を取り出した。進行冷凍食品メーカーの社長、三浦の名刺だ。10年前、俺が特許を取得した直後、三浦は自ら工場に足を運んでくれた。「岡崎さんの技術は冷凍食品業界を変える力がある。いつか必ず一緒に仕事をさせてください。」以来、三浦は毎年必ず挨拶に来る。俺が大手との契約を続けていることを知りながら、それでも諦めずに10年間待ち続けてくれた。
10年間の関係を絶つ決断は決して軽いものではない。奥野への義理もある。しかし技術者としての誇りは譲れない。俺は三浦に電話をかけた。
「お久しぶりです。岡崎です。」
電話の向こうで三浦の声が弾む。
「実は大手メーカーとの独占契約が1ヶ月後に満了します。今回、更新は行いません。改めて取引の相談をさせていただけませんか?」
一瞬の沈黙の後、三浦は興奮気味に答えた。「本当ですか?是非お願いします。近日中にそちらに伺ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、お待ちしています。日程は改めて調整しましょう。」
電話を切った後、俺は工場の従業員たちを集めた。俺は従業員たちの顔を見渡しながら言う。「大手メーカーとの契約が1ヶ月後に満了する。」従業員たちの顔に一瞬不安の色が浮かぶ。「だが心配はいらない。新しい取引先との話が進んでいる。俺たちの技術を正当に評価してくれる相手だ。」従業員たちの表情が少しずつ明るくなっていく。
大手メーカーはまだ何も気づいていない。高村は自分が何をしたのか理解していない。契約がなくなり、俺の特許技術が使えないことに気づいても、もう手遅れなのだ。
翌日午前中、俺の携帯電話が鳴った。画面には奥野の名前が表示されている。
「岡崎さん、会社が大変なことになっているんです。」
電話に出ると、その向こうから奥野の切迫した声が聞こえてくる。
「やはりそうなりましたか。」
俺はこの事態をある程度予想していたため、冷静な声で返すと、奥野は一瞬言葉を失ったようだ。
「昨日の定例会議で、高村が自慢に報告したんです。」
奥野によれば、全部門の部長が集まる会議で、高村が俺との特許契約更新を拒否したことをコスト削減の成果として報告したという。高村は誰にも相談せず、調達部内でも事後報告だった。前任者の引き継ぎ資料をほとんど読んでいなかったようで、奥野が「岡崎さんとの契約は重要だ」と説明しようとしても、「数千万程度の小口契約なんて後回しだ」と取り合わなかった。それに、岡崎さんの会社名を見て何か個人的な感情があったのか、「こんな零細企業と契約する必要はない」と即断したそうだ。
俺は奥野の言葉に「ああ、やはり」と思った。高村は最初から俺の特許技術の価値など見ようともしなかったのだ。
「その瞬間、技術部長が立ち上がり、『あの特許技術は代替不可能だ』と叫んだんです。技術部は、自社の主力商品を支える俺の特許技術が代替不可能で唯一無二であることを知っている。」奥野の声は絶望的だ。「岡崎さんの特許保存剤が使えなければ、主力商品ラインが停止します。年間売上の40%が消失し、経営危機に陥ることは目に見えています。」
俺は何も返さず、ただ黙って耳を傾ける。
「技術部門を統括する取締役の石川が、すぐに謝罪して契約更新をお願いしに行くべきだと話しました。」奥野は懇願する口調で続ける。「岡崎さん、お願いします。取締役の石川が高村を連れて、すぐにでもそちらに謝罪に伺いたいと申しておりました。近日中に訪問の連絡が入るはずです。」
俺は電話口で少し間を置いてから話した。「奥野さん、あなたには10年間本当にお世話になりました。でも、私はもう決めたことがあるんです。」
俺は新しい契約交渉が進んでいることについて詳しく話すつもりはない。しかし奥野は俺の口ぶりから察したらしい。「そうですか。ですが、せめて今回の高村の非礼を謝罪する場だけは設けさせていただきたいのです。」
俺は明確な回答はせず、電話を切った。
同日午後、三浦から連絡が入った。「岡崎さん、早速ですが社内で緊急会議を開きました。岡崎さんの特許技術と是非契約を結びたいと全会一致で決まりまして、早速明日にでも伺ってもよろしいでしょうか?」
俺は快諾する。
そして翌日、三浦が工場を訪れた。
「ようやくこの日が来ました。」三浦は笑顔で俺と握手をかわす。「10年前、あなたの特許を見た時、これが業界を変えると確信しました。いつか必ず一緒に仕事をしたい。その思いだけで待ち続けました。」
俺は三浦の目を見る。そこには技術への尊敬と、対等なパートナーへの敬意があった。
その日の夕方、工場に電話が入った。「岡崎さんでいらっしゃいますか?技術部門を統括しております、取締役の石川と申します。」丁寧な口調の男性だった。「この度の高村の非礼について、直接お詫びに伺いたいのですが、お時間をいただけないでしょうか?」石川は真摯な態度で訪問を願い出る。
俺は少し考えた。「2日後なら開いています。」
「ありがとうございます。2日後、午前中に伺わせていただきます。」
それから2日後、高村ともう1人、取締役の石川と思われる男が俺の工場に来た。応接室に2人を通すと、男は名刺を差し出した。「技術部門を統括しております、取締役の石川と申します。私は技術者出身で、だからこそ岡崎さんの特許がどれほど画期的か理解しているつもりです。」
平然とした石川に対し、高村は俺と目を合わせようともしない。石川はそんな高村に構わず、俺に深く頭を下げた。「岡崎さん、この度は高村が大変失礼な対応をいたしまして、誠に申し訳ございませんでした。」
高村も、しぶしぶといった様子で軽く頭を下げる。
石川は苦渋の表情で話し始めた。「私ども技術部門は、岡崎さんの特許技術が弊社の主力商品にとって必要不可欠であることを十分承知しているつもりです。今回の件は高村の独断で行ったものでして、この特許契約が切れれば、我が社の主力商品を生産するラインを止めなければなりません。たちまち会社は存続の危機に陥ります。どうか特許契約を継続していただけないでしょうか?」
「お断りします。」
「岡崎さん、お願いします。条件は何なりとも。」石川は一度言葉を切り、真剣な眼差しで俺を見た。「岡崎さん、私は技術者として、あなたの特許がどれほど画期的か理解しているつもりです。だからこそ、私は技術者としてあなたに頭を下げているんです。」
その時、高村が初めて口を開いた。「金額の問題なんだろう。いくら上乗せすればいいんだ?」
高村の口調には、金さえ積めばなんとかなるという打算しか感じられない。石川が信じられないものを見るような目で高村を凝視した。
俺は高村をまっすぐに見据える。「高村、お前は契約更新の時、俺の顔を見るなり『中卒が何の用だ』と言った。そして『間違いだから帰れ』と追い返した。」俺は怒りを抑えながら淡々と言葉を継ぐ。「お前は俺の工場を『従業員10人のボロ工場』と呼んだ。『のくせに大手と対等な顔をするな』とも言った。」
高村は言い返そうとするが、俺は追及の手を緩めない。「そして何より、お前は技術の価値を全く理解していない。『たかが保存剤。どこでも作れる。もっと安い業者に切り替える』。そう言ったな。」
言葉を継ぐほどに、俺は自分が怒りで紅潮しているのを感じる。「お前が見ていたのは学歴と会社の規模だけだ。その保存剤に詰め込まれた技術の重要性など、まるで眼中になかった。そうしたお前の態度の全てが、今の事態を産んでいる。それにまだ気づかないのか?」
高村の顔に影が差す。「そんなつもりは…俺はただ…」しかし言葉が続かない。
石川が高村に向かって低い声で言った。「高村、貴様がどれだけのことをしたのか、いい加減自覚したらどうだ。誠意を持って謝罪しない限り、岡崎さんに伝わらないぞ。」
高村は唸ったまま、何も答えられない。
石川が俺に向き直る。「高村の件につきましては、会社として厳正な処分を検討しております。ですから、どうか…」
しかし俺は首を横に振った。「契約満了をもって、御社との取引は終了させていただきます。」
「岡崎さん。」石川が絶望的な表情を浮かべる。
「私には新しい道があります。」俺は2人から視線を外し、遠い目をして言った。「技術を正当に評価し、尊重してくれる相手と仕事をします。」
俺は高村に向き直った。「お前は30年前から何も変わっていない。」
高村の目には、もう強がりも傲慢さもなかった。あるのはただ絶望だけだ。
「ああ、そうさ。中学の時、俺はお前に負け続けた。テストの度に、貧乏工場の息子に負けたんだ。」高村の声は震えている。「俺の家は裕福だった。塾にも通った。なのにお前は塾にも行かず、工場を手伝いながら、それでも俺より成績が良かった。あの屈辱を、俺はずっと忘れられなかった。何もかも順調で恵まれているはずなのに、お前に負けたことだけが唯一の汚点だったからだ。」
高村は焦点の合わない虚ろな目で続ける。「そして今回、調達部長になってすぐに成果を出さなきゃいけなかった。お前の契約を切ればコスト削減の実績になる。それでようやく見返せると思ったんだ。」
石川が呆れた顔で言った。「高村、まさかお前、私怨で会社を危険に晒したというのか。」
高村は完全に打ちひしがれている。
俺は冷静に、しかし厳しく言った。「お前が過去に囚われている間、俺は工場を継ぎ、従業員を食わせるために必死に働いたんだ。夜遅くまで新しい保存剤を開発するため、何百回と実験を重ねたよ。失敗の連続だったが、それでも諦めなかった。諦められないんだよ。それが従業員の生活を支える糧となるからだ。技術を磨き続け、そして特許を取得した。俺は現実と向き合い、技術で勝負してきたんだ。」
俺は一呼吸置いた。「そして、その技術を本当に価値を理解してくれる相手に使ってもらう。それが俺の誇りだ。」
高村は顔を上げることすらできない。
「個人的な感情だけで仕事をするような人間とは、取引をするつもりはない。もう2度と来るな。」
石川と高村は絶望的な表情で応接室を後にした。
2人が工場を出た後、俺は深く息をつく。これでけじめはついた。
後日、正式な契約の席で、三浦は資料を開いた。「岡崎さん、条件についてご説明します。特許使用料は従来の2倍とさせていただきます。」
俺は驚きを隠せなかった。
「我が社は今、急成長しています。しかし商品の差別化が課題でした。岡崎さんの特許があれば、『鮮度が違う』という明確な強みを打ち出せます。大手が使えなくなった。今こそ我々が市場シェアを奪うチャンスなんです。だからこの金額でも十分に採算が合うんですよ。」
三浦の目には、ビジネスとしての計算と技術者への敬意の両方が宿っていた。
その後、奥野から連絡があった。高村は取締役会で処分が決まり、調達部長を解任され、地方の関連会社への左遷が決まったという。しかも格下げの一般社員待遇だと聞いた。会社に数十億の損失をもたらした責任として、退職金の大幅減額も検討されているらしい。また、特許の使用停止に伴い主力商品の製造停止を余儀なくされ、未だ代替策も見つかっていないとのことだ。
一方、俺は大手メーカーとの契約満了の翌日、三浦の進行メーカーと正式に特許契約を結んだ。特許使用料は従来の2倍。さらに進行メーカーの技術顧問としての契約も決まった。契約書にサインしながら、新しい道が開けたことを実感する。技術と誠意こそが次の道を切り開く。俺はその新しい道を、地に足をつけて歩んでいくつもりだ。



