午前4時半、まだ夜の闇が残る住宅街で、私はパン屋の厨房に立っていた。大きなステンレスのボールに張った仕込み水に手を浸すと、指先にひんやりとした冷たさが伝わる。粉と酵母を丁寧に合わせ、両手で生地をこね始めると、しっとりとした手触りが手のひらに馴染んでいく。隣では同僚のしおりが食パンの型にバターを塗る作業を手際よく進めていた。
「みほ、今日の生地の調子はどう?」
「少し元気が良さそう。2次発酵の時間を15分ほど短くした方が良さそうね。」
しおりは頷きながら慣れた手つきで型を並べていく。彼女とはこの店で出会い、今では何でも話せる大切な友人だ。バツイチで小学生の息子を一人で育てているしおりはいつも朗らかで、その明るさに何度救われたかわからない。
オーブンの中でじわじわと膨らんでいく生地を見つめるのが好きだった。何の変哲もない粉と水と酵母が、熱を加えることで金色に輝くパンへと姿を変えていく。その変化を見届けるたびに、人生にも同じことが言えるのではないかと柄にもなく思う。
2年前、夫の陣一が突然シンガポールへの海外赴任が決まったと告げた日のことは、今でもはっきりと覚えている。陣一は中堅商社・鳳凰商事の営業部に務めていて、結婚して10年、子供には恵まれなかったけれど、2人で穏やかな生活を送っていた。少なくとも私はそう信じていた。
陣一との出会いは友人の紹介だ。27歳の秋、初めて顔を合わせた陣一は背が高くて顔立ちが整っていて、話も上手で、その場にいた女性全員の視線を集めていた。海外と取引をしていると自慢する姿が眩しく、地味な事務の自分にはもったいない相手だと思ったものだ。それでも交際はトントン拍子に進み、半年後にはプロポーズされた。
結婚してからの陣一は平日は仕事で帰りが遅く、休日はゴルフや接待で家を開けることが多かったけれど、それがサラリーマンの当たり前なのだと受け入れていた。子供を望んだ時期もあったが、不妊治療がうまくいかず、互いに話題を避けるようになっていったのも、今思えば2人の間に生まれた最初のひび割れだったのかもしれない。
「3年間の赴任だけど、すぐに慣れるから心配するなよ。向こうで基盤を作って、いずれはみほを呼び寄せるつもりだ。」
リビングのソファに並んで座ったあの日の陣一は、いつになく真剣な顔をしていた。テーブルの上には陣一が広げた赴任先のパンフレットらしきものが置かれている。シンガポールの街並みが印刷されたそれを眺めながら、私は寂しさをこらえ、陣一のキャリアアップを応援するべきだと自分に言い聞かせた。
空港で見送る時、陣一はスーツケースを引きながら一度だけ振り返り、片手を軽く上げて笑顔を見せた。あの笑顔に嘘が混じっていたことを、当時の私は知るよしもなかった。
それから月に一度のビデオ通話が2人をつなぐ唯一の手段になった。画面の向こうの陣一はいつも白い壁を背景にして映っていたが、海外の街並みや現地の様子を見せてくれたことは一度もない。不思議に思わなかったわけではないが、仕事が忙しいからという言葉にそれ以上は踏み込めなかったのだ。
それよりも気がかりだったのは、毎月届く送金の依頼だ。
「現地の物価が想像以上に高くて、会社の手当てだけじゃ足りないんだ。悪いけど、毎月10万円だけ送ってくれないか?」
最初は戸惑ったものの、海外生活の大変さを思えば仕方がないと納得し、私はコツコツ貯めていた300万円の貯金から毎月10万円ずつ陣一の口座に振り込み続けた。銀行の窓口で振り込み用紙に金額を書くたびに小さなため息が漏れるけれど、陣一が海外で不自由な思いをしているのだと考えれば、10万円は夫婦の絆をつなぐ大切な架け橋のように思えた。2年間で合計240万円。残された貯金はもう60万円ほどしかない。
専業主婦だった私がパン屋で働き始めたのも、そうした経済的な事情が大きかった。求人誌で見つけた「ほのか」の募集広告には「未経験者歓迎、パンが好きな方」と書いてあった。パン作りの経験はなかったけれど、料理は得意だったし、何より家に一人でいる時間を減らしたいという気持ちが背中を押したのだ。最初は生地の扱いが分からず失敗の連続だった。だが、粉をこねる手仕事の温かさに触れるうちに、自分の手で何かを生み出す喜びを知った。
義母の金沢福からは月に一度は電話がかかってくる。
「みほさん、陣一はちゃんと元気にやってるかしら?あの子が海外で頑張っているんだから、あなたもしっかり支えてちょうだいね。」
いつも穏やかな口調の中に、どこか有無を言わせない圧力が込められている。結婚以来、義母は私に対して嫁としての勤めを果たしなさいという姿勢を崩さなかった。先月の電話ではこんなやり取りがあった。
「陣一に送金はちゃんとしているでしょうね。嫁が金を出し渋るなんてことがあったら許しませんよ。」
「はい。毎月きちんと送っています。ただ、貯金も残り少なくなってきまして。」
「それはあなたの稼ぎが足りないからでしょう。だったら、もう少しまともな仕事を探したらどうなの?」
受話器を握る手に力がこもるのをこらえながら、「はい」と答えるしかなかった。義母にとって私は息子に尽くすための道具のようなものなのだろう。電話を切るたびに虚しさが込み上げてくる。
そんな日々の中でも、パン屋の仕事としおりの友情が私の心を支えてくれていた。
「みほ、この黒わっさんの焼き加減、完璧じゃない?あんたの腕、どんどん上がってるわよ。」
「ありがとう。でも、しおりのフランスパンの成形の方がずっと上手よ。」
「何言ってるの?あんたは天然酵母の扱いに関しては天才よ。店でもみほの酵母パンが一番売れてるんだから。」
しおりの言葉に自然と頬が緩む。この店に来るまで、誰かに自分の仕事を褒められた経験などほとんどなかったから、その一言一言が胸に温かく染み渡っていく。
けれど、最近ほんのわずかな違和感が心の隅に引っかかるようになっていた。陣一とのビデオ通話はいつも日本時間の夜9時頃に行われる。シンガポールとの時差は1時間しかないから、向こうでは夜8時。それ自体は不自然ではないが、陣一の背後から聞こえてくる音がどうしても気になるのだ。救急車のサイレンの音色が海外のそれとは明らかに違う。日本の救急車と同じあの「ピーポーピーポー」という高い音が、画面の向こうからかすかに聞こえてきたことが一度や二度ではなかった。気のせいだと思いたかったし、実際に何度も自分にそう言い聞かせた。だが、一度気づいてしまった違和感はなかなか消えてくれない。
朝の仕込みを終え、開店の時刻が近づいてきた。ショーケースに並べられた焼き立てのパンたちが朝日を受けてこがね色に輝いている。開店と同時に常連のお客様が次々と足を運んでくれる。「いつも美味しいね」「今日のおすすめは?」という声に答えながら接客をしていると、自分がこの町の一部になれている実感が湧いてくる。
パン屋で働く前の私は、陣一の帰りを待つだけの毎日を送っていた。朝起きて掃除をして洗濯をして夕食を作ってテレビを見て眠る。その繰り返しに疑問を持つことすらなかった。だが今は違う。自分の手で生地をこね、自分の判断で発酵時間を調整し、自分の感覚で焼き加減を見極める。その一つ一つの工程に、私という人間の存在が確かに刻み込まれている。陣一のいない2年間で、私は少しずつ変わり始めていたのかもしれない。
変化は何の前触れもなく訪れた。ある秋の午後のこと。窓の外では銀杏の葉がこがね色に染まり、風に乗って歩道にひらひらと舞い落ちている。閉店まであと30分ほどとなった「ほのか」の店内にはもう客の姿はない。私はショーケースの売れ残りを片付けながら、明日の仕込みの段取りを頭の中で組み立てていたところだった。
そこへ、見慣れない男性客がガラス扉を押して入ってきた。グレーのスーツに紺のネクタイ、40代前半といったところだろうか。店内を見回しながらカウンターに近づいてくると、ショーケースの中のパンよりも私の顔をじっと見つめている。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
男性客はカウンターの前で少し迷うようにパンの並びを眺めていたが、不意にこちらへ視線を向けると、ためらうような口調で切り出した。この男性は、私が金沢陣一の妻ではないかと尋ねてきたのだ。心臓が一瞬大きく跳ねた。陣一の名前を知っている人物が、なぜこんな場所に?
私は動揺を押し殺しながら慎重に頷いた。
「はい。金沢の妻です。あの、どちら様でしょうか?」
男性客はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、両手で丁寧に差し出した。白い名刺の中央には「鳳凰商事 営業部主任 山崎健太」と印刷されている。陣一が務めている会社の社員だった。
山崎と名乗ったその男性は、以前陣一と同じ部署で働いていたこと、近くの取引先に来た際にたまたま私の顔を見かけたことを早口で説明した。ただ、そこで彼は急に言葉を詰まらせる。視線を床に落とし、一度深く息を吸い込んでから再び私の目を見た。その表情には申し訳なさと使命感が入り混じっていて、私の胸にざわざわとした不安が一気に広がっていく。
「あの、夫が何か…今はシンガポール赴任で勤務しているのですが…」
その瞬間、山崎の顔に浮かんだのは明らかな困惑だった。声を潜め、唇を一度硬く結んでから、声のトーンを落として、思い切ったように口を開く。陣一は2年前に会社を退職しており、シンガポール赴任という話は一切なかったのだと。
店内に流れていた穏やかなBGMが急に遠くなった気がした。山崎の声が頭の中で何度も反響するけれど、その内容がうまく像を結ばない。目の前の名刺に印刷された「鳳凰商事」の文字を何度も読み返しながら、私はようやく声を絞り出した。
「退職ですか?2年前に。でも、あの人は毎月ビデオ通話で海外の仕事が忙しいと…」
「詳しい事情は申し上げられないが、少なくとも海外赴任の事実はないと。」
山崎は付け加え、ぺこりと頭を下げた。そして彼は食パンを一気に買い、会計を済ませると、申し訳なさそうにもう一度小さく頭を下げて足早に店を出ていく。ガラス扉が閉まる音を聞きながら、私の指先からトングがするりと滑り落ちた。金属がタイルの床にぶつかり、カシャンと高い音が店内に響き渡る。その音が合図だったかのように、足元から力が抜けていくのを感じた。
「どうしたの?顔色が真っ白よ。聞こえてる?」
しおりが慌てて駆け寄り、私の肩を両手でしっかりと支えてくれた。そのぬくもりが伝わっているはずなのに、体の内側が氷のように冷たくなっていく。2年間毎月10万円を送り続けた。海外で頑張っている陣一を支えるために、早朝4時に起きてパン屋で汗を流してきた。節約のために自分の服は一着も買わず、外食もせず、美容院にも年に2度しか行かなかった。その全てが嘘の上に成り立っていたというのか。
目の前に並ぶパンたちが急にぼやけて見えた。閉店間際で店内に他のお客様がいなかったことだけが唯一の救いだった。膝から力が抜けそうになるのをカウンターに手をついてこらえながら、私は震える声でしおりに告げた。
「しおり、夫が会社を辞めていたみたい。海外赴任なんて、最初からなかったのかもしれない。」
その夜、私は陣一にビデオ通話をかけた。画面に映る陣一はいつもと変わらない白い壁の前に座り、にこやかな笑顔を浮かべている。
「お、みほ、どうした?急に電話なんて珍しいな。」
胸の奥で渦巻く疑念を押し殺しながら、私はできるだけ自然な声を作った。
「陣一さん、最近会社の方はどう?シンガポール赴任の仕事、順調に行ってる?」
「ああ、まあまあだよ。現地のスタッフとも打ち解けてきたし、来月は大きなプロジェクトが始まるんだ。忙しくなりそうだけどな。」
滑らかに言葉が出てくる。淀みなく、迷いなく、まるで本当にシンガポールで働いているかのように。その流暢さが逆に私の不安を増幅させた。
「そうところで、この前のビデオ通話の時に聞こえた音なんだけど、救急車のサイレンみたいな…」
陣一の表情がほんの一瞬だけ強張ったのを、私は見逃さなかった。だが、すぐにいつもの余裕のある笑みに戻る。
「ああ、あれか。シンガポールの救急車も日本と似たような音なんだよ。アジアだからな。心配性だな、みほは。」
笑いながら話題をそらす陣一に、それ以上追求する勇気が出なかった。画面越しに見える陣一の目が、いつもとは違う冷たさを帯びているように感じたのは気のせいだろうか。話が終わった後も、陣一の「心配性だな」という言葉が耳の奥にこびりついて離れなかった。
もしかしたら、山崎という人が何か勘違いをしているのかもしれない。あるいは鳳凰商事の中で部署移動があって、山崎が知らないだけで海外赴任の事実が出ていたのかもしれない。そう思いたい自分と、あの救急車のサイレンの違和感を無視できない自分が胸の中で攻め合い、眠れない。ベッドに横たわっても、天井の闇が陣一の嘘を映し出すスクリーンのように見えて、目を閉じることができなかった。
数日後、私は義母に電話をかけた。陣一のことを一番よく知っているのは、母親である義母のはずだと考えたからだ。
「お母さん、少しお話があるのですが。陣一さんの会社のことで、気になることがありまして。」
電話口の向こうで、義母の声が一瞬だけ硬くなったのが分かった。
「会社のこと?陣一は海外で一生懸命働いているのよ。余計なことを詮索するものじゃありません。」
「ただ、今日お店に来たお客様が、陣一さんは2年前に退職していると…」
「そんな話、信じる方がどうかしているわ。いず知らずの人間の言うことを真に受けて夫を疑うなんて、嫁として恥ずかしいと思いなさい。」
義母の声は語気を強め、有無を言わさぬ口調で私を叱りつけた。だが、私が注意を向けていたのは義母の言葉の内容ではなく、電話越しに伝わってくる微妙な声の震えだった。怒っているのではない。焦っている。何かを隠そうとして、その焦りが声に出ているのを、私は敏感に感じ取っていた。
電話を切った後、私は考え込んだ。義母の声に滲んでいたあの震えは、嘘を知らない人間の反応ではない。何かを隠している。義母もまた、陣一の嘘の一端を知っているのではないか。
テーブルの上に通帳を広げ、陣一への送金記録を改めて眺めた。2年間で24回、毎月10万円。黒々と記帳された数字の列が蛍光灯の下で無機質に光っている。私がパン屋で早朝から汗を流して稼いだお金と、結婚前からコツコツと蓄えてきた預金が、規則正しく陣一の口座に吸い込まれていく様が数字となって残されていた。この通帳は私の信頼の記録であると同時に、裏切りの証拠でもあるのかもしれない。
翌日、パン屋の厨房で私はしおりに昨夜のことを打ち明けた。
「やっぱりね。私、最初からあの人の海外赴任の話、引っかかってたのよ。だって、赴任先の住所も教えないなんて、普通じゃないもの。」
「でも、もし本当に海外にいるなら、私が疑ったことで関係が壊れてしまうかも。」
「みほ、私は前の旦那に散々嘘をつかれたから言えるんだけど、信じたいと信じるべきかは別よ。事実を確かめることは裏切りじゃないわ。」
しおりの言葉は鋭く、けれど温かかった。自身の離婚を経験したしおりだからこそ言える、実感のこもった助言だ。
「あんた、この2年間でどれだけ変わったか分かってる?だって、最初は粉まみれになって泣いてたじゃない。今じゃ店で一番の人気商品を焼いてるのよ。あんたには真実と向き合う力があるわ。」
その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。真実が怖い。10年間の結婚生活そのものが虚構だったかもしれないという可能性に向き合う勇気があるのだろうか。だが、嘘の中で生きることはもっと怖い。このまま毎月10万円を送り続け、存在しない海外赴任を信じたふりをして何年も過ごすのか、それとも自分の目で確かめるのか。
パン生地をこねる手に、自然と力がこもった。柔らかかった生地が私の手の中でしなやかにまとまっていく。天然酵母は目に見えないけれど、確かにそこにいて、生地を膨らませる力を持っている。目に見えない真実もまた、どこかに必ず存在しているはずだ。毎朝繰り返してきたこの作業が教えてくれたのは、どんなに不格好な塊でも、丁寧に向き合えば必ず形になるということだった。
数日後の夜、送金のことを考えていると、ふとパン屋で学んだ帳簿のつけ方を思い出した。入出金の流れを丁寧に追えば、必ずどこかに矛盾が見つかるという店長の教えが頭をよぎったのだ。私は通帳をもう一度最初から見直し、陣一への送金先口座の番号を一つ一つ確認していった。その口座は、陣一がシンガポールでの生活費用に使うと言って出発前に開設したもの。だが、送金先の支店コードを改めて調べてみると、それは埼玉県内にある地方銀行の支店番号だ。海外送金であれば国際送金の手数料が発生し、コードの記載が必要になるはずなのに、手数料は2年間で一度も引かれていない。つまり、私が毎月送っていたお金は、海外ではなく日本国内の口座に振り込まれていた。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。通帳を開くたびに目にしていた情報を、疑いたくないという気持ちが見えなくしていたのだ。信じたいという感情は、時に人の目を曇らせる最も強力な膜になるのだと初めて実感した。
翌朝、パン屋の常連客の一人と何気ない会話をしていた時のこと。70代の上品な女性で、毎朝食パンとメロンパンを買いに来てくれる方だ。その女性が何気なく、自分の娘が夫の浮気を調べるのに探偵事務所を使ったことや、最初は抵抗があったものの結果的にはすっきりしたということを教えてくれたのだ。何気ない世間話だったが、その言葉が私の心に深く刺さった。探偵に調べてもらえば、陣一が本当に海外にいるのかどうかはっきりする。
店が閉まった後、私はしおりに相談した。
「探偵所ね。私も離婚の時に使おうか迷ったことがあるわ。信頼できるところを探すのが大事よ。」
「でも、費用がどのくらいかかるのか見当もつかないし、残りの貯金も60万円しかないの。」
「みほ、このまま毎月10万円送り続けたら、あと半年で貯金は0よ。真実を知るための投資だと思えば、安いものじゃない。」
確かにその通りだ。費用が気になり、残りの60万円で足りるのかと尋ねると、しおりは自身の離婚時に調べた経験から、浮気調査なら20万から30万くらいだと教えてくれた。しおりの言葉はいつも現実的で的確だ。240万円を嘘に費やすのと、真実を知るために必要な金額を使うのと、どちらが賢い選択なのか。2年間陣一を信じて送り続けた240万円。それに比べれば、真実を確かめるための費用など微々たるものだ。
その夜、私はスマートフォンで「探偵所」と検索した。画面にずらりと並ぶ調査会社の一覧を見ながら、口コミや評判を一つ一つ確認していく。やがて一つの調査事務所が目に留まる。「青葉調査事務所」、女性調査員が在籍し、配偶者の素行調査を専門としているという。口コミには「親身になって相談に乗ってくれた」「証拠を確実に抑えてくれた」という声が並んでいた。口コミを読み進めるうちに、胸の中で固まりつつあった決意がじわじわと形をなしていく。「相談だけでも」という気持ちが、「必ず真実を突き止める」という覚悟に変わっていくのが自分でも分かった。明日、この調査事務所に連絡を取ろう。2年間の嘘に終止符を打つために、自分の足で一歩を踏み出すのだ。
青葉調査事務所は、駅前の雑居ビルの3階にあった。古びたエレベーターを降りると、すりガラスの扉に小さな看板がかかっている。ドアを開けた先に広がるのは、想像していた暗い探偵事務所の雰囲気とはまるで違う、明るく清潔感のある相談室だった。
「金沢美穂さんですね。お電話を頂いた調査員の茨城千尋です。今日はよくいらしてくださいました。」
対面に座ったのは、ショートヘアに黒縁の眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の女性。年齢は40代半ばくらいだろうか。背筋がすっと伸びていて、穏やかだがどこか鋭い目をしている。名刺には「主任調査員 茨城千尋」と印刷されていて、以前は警察官をしていたという。
「あの、こういう場所に来るのは初めてで、何をどうお話しすればいいのか…」
「まずは今のお気持ちをそのままお聞かせください。順番が前後しても構いません。私たちは依頼者の方のペースに合わせて調査を進めますから。」
その言葉に少し肩の力が抜けて、私は陣一の海外赴任の嘘を知った経緯を最初から話し始めた。2年前の出発、毎月の送金、ビデオ通話の違和感、そして山崎からの衝撃の情報。話しているうちに声が震え、何度か言葉に詰まったけれど、千尋さんはメモを取りながら静かに耳を傾けてくれた。
全てを聞き終えた千尋さんは、ペンを置いて私の目をまっすぐに見つめた。
「実は、海外赴任を偽って家を出るというケースは、私たちの業界では珍しくありません。過去に同様の案件を何件も担当してきました。」
「そうなんですか。私だけじゃないんですね。」
「ええ。そして、こうしたケースには一定の調査パターンがあるんです。まず送金先の口座情報から現在の居場所を特定する。次に本人の素行調査を行い、誰とどこで何をしているかを記録します。」
千尋さんは調査フローが書いてある資料を広げ、丁寧に説明してくれた。そして、「それから」と前置きを置いてさらに続けた。
「証拠は全て写真と書面で残しますので、仮に法的な手続きが必要になった場合にも十分に対応できます。」
千尋さんの説明は淡々としていたが、そこにはプロとしての確かな経験と自信が滲んでいた。
「調査期間は通常2週間から1ヶ月ほどです。費用は着手金が15万円、成功報酬が10万円、合計25万円をお見積もりします。途中経過は随時ご報告いたしますので、ご安心ください。」
私は鞄から封筒を取り出した。昨夜、銀行のATMで下ろしてきた15万円が入っている。パン屋で半年間、節約に節約を重ねて貯めたお金だった。
「お願いします。真実を知りたいんです。たとえそれがどんなに辛いものであっても。」
千尋さんは封筒を受け取ると、一度深く頷いた。
「金沢さん、私は調査のプロですが、同時に女性としてあなたの気持ちが分かります。真実は時に残酷ですが、嘘の中で生きるよりもずっと健全です。必ず事実をお届けします。」
事務所を出た帰り道、秋の風が頬に冷たく当たった。大きな決断をした後の高揚感と不安が入り混じった、不思議な心地だった。千尋さんという心強い味方を得たことで、暗闇の中に一筋の光が差し込んだような気がしたのだ。
千尋さんに調査を依頼してから2週間が経った、ある日曜日の朝のこと。休日だというのに、体に染みついた習慣で午前4時に目が覚め、台所でコーヒーを入れていると、玄関のドアが開く音がした。鍵は一つしかない。合鍵を持っているのは陣一だけだ。廊下を歩く複数の足音が近づいてくる。重い音と軽い音。そして、もう一つ、小さな鳴き声。
リビングの扉が開いた瞬間、目の前の光景に息が止まった。陣一が立っていた。2年ぶりに直接会う陣一は、以前より少し痩せた顔をしていたが、相変わらず整った身なりで、ブランド物のジャケットを羽織っている。その隣には、20代後半と思われる若い女性が赤ちゃんを抱いて立っていた。女性は派手なワンピースにハイヒール姿で、長い髪を巻いている。
「陣一さん、どうして?」
陣一はまるで近所のコンビニから帰ってきたかのような平然とした顔でリビングに入ってきた。ソファにどかりと腰を下ろし、足を組んで私を見上げる。
「まあ、細かいことは後で。」
その一言に、全身の血が凍りつくのを感じた。2年間、音信不通でもない。毎月ビデオ通話をし、毎月10万円を送り続けた。その妻の前に、愛人と赤ちゃんを連れて突然帰宅し、開口一番がこれだった。
隣に立っていた女性が作り笑いを浮かべながら一歩前に出た。
「初めまして。葉取結衣と申します。この子は、陣一さんとの間にできた子供です。」
結衣は赤ちゃんを私に見せるように抱き直した。半年ほどの赤ちゃんが小さな手を宙に伸ばしている。その無邪気な姿が、この異常な状況の中で唯一の無垢な存在だった。
「みほ、落ち着いて聞いてくれ。実は、シンガポールでの仕事が思ったように行かなくてな。それで、まあ、色々あって日本に帰ってきていたんだ。それから、結衣と出会って、子供もできてな。」
嘘を嘘で塗り固めるその口ぶりに、怒りよりも先に呆れが込み上げてきた。シンガポールでの仕事という新たな嘘。そもそも、陣一は2年前に会社を辞めているのだと山崎から聞いている。だが、私は感情を表に出さなかった。千尋さんに調査を依頼していることを、今ここで悟られるわけにはいかない。
「突然のことで整理が追いつかないのですが…とにかく、お茶でも入れますね。」
震える手で急須にお湯を注ぎながら、頭の中では冷静な計算が回り始めていた。陣一が帰ってきた。それはつまり、千尋さんの調査がより容易になるということでもある。
茶の間に戻ると、陣一はすでにテレビのリモコンを手に取り、まるで自分の家のように、いや、確かにここは陣一の家でもあるのだが、何事もなかったかのようにくつろいでいた。結衣は赤ちゃんにミルクを飲ませながら、物珍しそうに室内を見回している。
「しばらくここに住ませてもらうからな。結衣と子供の部屋も用意してくれ。あと、しばらく生活費が必要だから、また送金も頼むわ。」
愛人と子供を連れてきた上に、さらに金の無心をする図々しさに、腹が煮えくり返る思いだった。しかし、ここで爆発してはいけない。
「分かりました。少し時間をください。」
その夜、布団の中からスマートフォンで千尋さんに連絡を入れた。
「千尋さん、夫が突然帰ってきました。若い女性と赤ちゃんを連れて。女性は葉取結衣さんと名乗っていました。」
「分かりました。明日から、葉取結衣さんについても並行して調査を進めます。」
千尋さんは淡々と聞いてくれる。その冷静さが今はありがたかった。
「金沢さん、ご主人が帰宅したということは、こちらの調査にとっては非常に有利な状況です。行動パターンを把握しやすくなりますから。」
彼女の声が、暗い寝室の中で心強く響いた。
それから数日のうちに、千尋さんの調査報告が次々と届き始めた。最初の報告書を受け取ったのは、陣一の帰宅から5日後のこと。報告書の内容は、私の想像をはるかに超えるものだった。
まず、陣一は2年前に鳳凰商事を懲戒解雇されていた。理由は、営業部の経費を約500万円にわたって不正に流用していたこと。いわゆる横領である。会社側は当初刑事告訴も検討したが、陣一が全額返済することを条件に示談に応じた。その返済に当てられたのが、私が毎月送っていた10万円のうちの一部だったのだ。
次に、陣一は海外に一度も渡航していないことが、出入国管理局の記録から判明した。パスポートの出入国スタンプは一切なく、2年間ずっと国内にいたことが確認されている。陣一は懲戒解雇後、埼玉県内のマンションで葉取結衣と同棲を始めていたのだ。
そして、葉取結衣は陣一のことを「海外のエリートサラリーマン」と信じていることも分かった。陣一は結衣に対しても嘘をついていたのだ。妻とは離婚協議中だとか、シンガポールから一時帰国中だとかいう作り話で、結衣を騙し続けていたらしい。
報告書を読み終えた私は、しばらく放心状態だった。台所のテーブルの上に広げられた書類と写真を前に、両手で顔を覆う。涙は出なかった。むしろ、長い間もやもやとしていた霧が晴れていくような、奇妙な清々しさがあった。やはり嘘だったのだ。分かっていたはずのことが、証拠という形で突きつけられると、不思議と受け入れやすくなるものなのだと知った。
翌日の早朝、パン屋の厨房でしおりに調査結果を打ち明けた。
「横領で懲戒解雇。しかも、海外には一度も行ってなかった。」
「あの男、とんでもない嘘つきだったのね。」
「そうみたい。私が送ったお金も、一部は横領の返済に、残りは愛人との生活費に消えていたの。240万円全部をドブに捨てたようなものじゃない。」
「みほ、怒りなさいよ。あんたには怒る権利があるわ。」
しおりの目には怒りの炎が燃えている。自身も元夫に裏切られた経験があるだけに、その怒りは本物だった。
「怒りはちゃんと感じてるわ。でも、今は証拠を集めて、きちんと準備を整えてから動きたい。」
「変わったわね。前のみほなら、泣いて終わりだったのに。」
「パン作りが教えてくれたのよ。生地はこねすぎても、休ませすぎてもだめ。今はじっくり発酵させる時間なの。」
しおりは一瞬驚いた顔をし、やがてふっと笑った。
「パン屋さんらしい例えね。分かったわ。私も手伝うから、何でも言って。」
これからの日々、私は表面上は従順な妻を演じながら、裏では着々と準備を進めた。まず、陣一への送金記録を全て時系列で整理した。銀行の取引明細、振り込み控え、通帳のコピー。24回分の送金記録を日付順に並べ、クリアファイルにまとめていく。次に、千尋さんから届く調査報告書を証拠として体系的にファイリングした。陣一の懲戒解雇に関する情報、出入国記録の不在証明、結衣との同棲マンションの住所と写真。一つ一つの証拠に日付と番号を振り、作品を作成する作業は、毎朝のパンの仕込みと同じように丁寧で地道な手だった。
さらに、パン屋の常連客のネットワークも活用した。「ほのか」には地域の様々な職業の人が通ってくれている。その中に、市役所の戸籍課に務めている女性がいた。もちろん個人情報を直接聞くことはできないが、離婚届の手続きや必要書類について、一般的な知識として教えてもらうことができたのだ。
陣一は相変わらず、自分の嘘が露見しているとは夢にも思っていない様子だった。毎日昼前に起きてきては、リビングでテレビを見てゴロゴロするか、どこかへ出かけていく。それから夜遅い時間に酒の匂いをさせながら帰ってくるのが常だ。洗面所には髭剃りの泡が飛び散ったまま放置され、脱いだ服はリビングの床に丸めて置きっぱなしで、靴下は裏返しのままソファの下に転がっていた。壁際のカップ麺の容器がテレビ台の横に積み上がり、空缶がゴミ袋からはみ出していたこともある。2年間の無職生活で、陣一の生活力は完全に崩壊していたのだ。
結衣は別室で赤ちゃんの世話をしながら、時折りリビングに顔を出しては、私にぎこちない笑顔を向けてくる。
「みほさん、いつもお世話になっています。このお家、居心地がいいですね。陣二さんが、奥さんは理解のある人だっておっしゃってましたけど、本当ですね。」
その言葉を聞くたびに、胸のうちで複雑な感情が渦巻く。結衣は陣一に騙されている被害者でもあるのだ。陣一がエリートサラリーマンだと信じて疑わない純真さが、皮肉にも彼女自身を泥沼に引きずり込んでいる。
「そうですか。良かったです。」
短く答えながら、私は内心で思う。この人もいずれ真実を知ることになる。その時、結衣がどんな顔をするのか。
義母からも電話がかかってきた。
「みほさん、陣一が帰ってきたそうじゃない。良かったわね。それで、あの子の言うことをちゃんと聞いてるでしょうね。細かいことを蒸し返して陣一を困らせるんじゃないわよ。」
義母の口調には、いつも以上に威圧的な響きがあった。「細かいことを蒸し返すな」と、陣一と同じ言い回しを使う。母子の口裏合わせが行われていることは明白である。やはり義母は、陣一の嘘を知った上で隠蔽に加担していたのだ。
「ええ、分かりました。」
電話を切りながら、私は手が震えていないことに気づいた。怒りが恐怖を上回り、恐怖が悲しみを押しのけ、悲しみの奥から静かな決意が立ち上がってくる。
千尋さんの調査は着実に進んでいた。陣一の帰宅から3週間が経った頃、千尋さんから新たな報告が届いた。
「金沢さん、重要な情報が入りました。直接お会いしてお伝えしたいのですが。」
翌日、「ほのか」の閉店後に千尋さんと落ち合った。今回はしおりも同席してくれている。
「まず、陣一さんが帰宅した理由が判明しました。埼玉のマンションの家賃を3ヶ月滞納して、強制退去になったんです。つまり、行き場がなくなったから戻ってきたということです。」
「なんですって?愛人の家からも追い出されたってこと?」
「正確には、マンションは陣一さんの名義で借りていたものです。葉取さんは陣一さんの経済力を信じていましたから、家賃の滞納は寝耳に水だったでしょう。」
千尋さんはファイルから一枚の書類を取り出した。
「そして、もう一つ、非常に重大な事実が判明しました。陣一さんは、美穂さん名義で消費者金融2社から、合計150万円の借金を作っています。」
全身から温度が奪われていくのを感じた。私名義の借金。そんなことが可能なのか。
「陣一さんは、美穂さんの身分証明書のコピーと印鑑を持ち出して、無断で借入れを行ったようです。これは明確な不正行為であり、刑事罰の対象になります。」
テーブルの上に並べられた書類を見つめながら、私は両手を固く握りしめた。横領、虚偽の海外赴任、不貞行為、そして妻の名義での不正な借金。陣一の嘘は、もはや夫婦間のごたごたなどという域を超えている。
「みほ、警察に相談するべきじゃないの?」
「その選択肢もあります。ただ、今の段階で警察に届け出ると、陣一さんが証拠を隠滅する可能性があります。私としては、もう少し証拠を固めてから動くことをお勧めします。」
「千尋さんの言う通りだと思います。中途半端に手を出せば、陣一は逃げる。全ての証拠を揃えてから、一気に決着をつけたいんです。」
千尋さんは満足そうに頷いた。
「金沢さんは落ち着いていますね。正直、ここまで的確に対処できる依頼者は珍しいです。」
「パン作りで学んだんです。焼きに入るタイミングを間違えたら、どんなに良い生地も台無しになる。今はまだ発酵の途中です。」
帰宅すると、陣一はリビングでビールを飲みながらテレビを見ていた。テーブルの上にはコンビニの弁当の空き容器が散らかっている。私が買い置きしていた食材には一切手をつけず、コンビニで済ませるのが彼の性格をよく表していた。
「おお、遅かったな。夕飯はどうする?」
私は平静を装いながら、「今から作ります」と伝えた。すると、陣一はあくびをしながら付け加えた。
「何でもいいよ。あ、結衣の分も頼むわ。」
愛人の食事まで妻に作らせる神経は、もはや理解の範疇を超えている。だが、私は黙って台所に立った。野菜を刻む包丁のリズムが、静かな怒りの拍子を刻んでいく。
その頃、陣一の日常の行動パターンも明らかになりつつあった。千尋さんの報告によると、陣一は昼過ぎに家を出て駅前のパチンコ店で数時間を過ごし、夕方には近くの居酒屋で飲んでから帰宅するという生活を繰り返しているらしい。パチンコの資金は、私が家に置いていた生活費から抜き取っていた。
私は生活費の管理方法を変えた。現金を家に置くのをやめ、必要な買い物は自分で済ませるようにする。陣一は最初「金が足りないんだけど」と不満をもらしていたが、私が「パン屋のお給料だけでやりくりしているので、余裕がないんです」と答えると、口を閉じてそれ以上は追求してこなかった。
一方で、結衣との関係にも変化が見え始めていた。陣一は結衣の前では相変わらずエリートサラリーマンを演じていたが、金がないことは隠しきれなくなってきている。ある日、寝室の隣の部屋から結衣と陣一の会話が聞こえてきた。
「陣一さん、この子のミルク代とおむつ代、今月分はどうするの?先月も出してもらえなかったじゃない?」
「今、金がないんだ。来月にはまとまった金が入るから、それまで待ってくれよ。」
「いつも『来月』って言うじゃない。私だって、貯金もうほとんどないのよ。」
壁越しに聞こえてくるやり取りは、どこか滑稽でもあり哀れでもあった。
千尋さんの調査は、さらに深い層にまで達していた。陣一が鳳凰商事を懲戒解雇された際の詳細な経緯も判明している。彼は営業部で、取引先への接待費を水増し請求し、差額を自分の口座に振り込む手口を繰り返していたのだ。その総額は約500万円に上り、内部監査で発覚したのが2年前のことだった。会社側は示談に応じたものの、業界内での陣一の評判は地に落ちていた。再就職は絶望的だからこそ、妻からの送金と愛人の貯金を食いつぶしながら生活していたのだ。
私はこれらの証拠を一つ一つ丁寧にファイリングし続けた。朝は4時半にパン屋に出勤し、昼過ぎに帰宅してからは証拠の整理と千尋さんとの連絡。夕方には陣一と結衣のために食事を作り、夜は寝室で書類を読み返す。二重生活は体力的にも精神的にも消耗するものだったが、ゴールが見えている苦労は耐えられる。パンの発酵が進むように、私の準備もまた着実に膨らみ続けていた。
しおりはパン屋での仕事の合間に、私の精神的な支えになってくれた。
「みほ、無理してない?あの男と愛人の世話をしながら、証拠集めまでやってるんでしょ?体を壊したら元も子もないわ。」
「大丈夫よ。パン屋の仕事があるから、むしろ気持ちの切り替えができてるの。生地をこねている時間だけは、頭の中を空っぽにできるから。」
「あんたは強いわ。私だったら、あの男の顔を見るたびに鍋をぶつけてるわよ。」
「鍋をぶつけたら、あの人はきっと被害者面する。それより、証拠という名のパンを完璧に焼き上げてから、テーブルに出すの。その方がずっと効果的でしょ。」
しおりは私の手をぎゅっと握った。言葉にしなくても伝わる温かさが、心に染み込んでくる。
陣一の帰宅から1ヶ月が経とうとしていた。証拠のファイルは厚さ3cmほどに膨らみ、必要な書類は全て揃いつつある。離婚届の記入方法も、財産分与の基本的な考え方も、市役所勤めの常連客から教わった知識で把握している。あとは、最後のピースが揃うのを待つだけだった。千尋さんが追っている決定的な証拠写真。それが手に入れば、全ての準備が整う。
ある朝、パン屋の仕込み中にしおりが声を潜めて話しかけてきた。
「ねえ、昨日うちの息子の同級生のお母さんから聞いたんだけど、あんたの旦那さん、駅前の金貸しにも出入りしているらしいわよ。」
「金貸し?パチンコだけじゃなくて。」
「そう。しかも、かなり追い詰められた様子だったって。借金取りに追われてるのかもね。」
陣一の金銭感覚の崩壊は、私の想像以上に深刻なところまで進んでいるようだった。パチンコで負け、金貸しから借り、その返済のためにまた妻の金を持ち出す。底なし沼のような悪循環に、陣一自身が気づいているのかどうかすら怪しい。
その日の帰宅後、陣一の様子がいつもと違うことに気づいた。リビングのソファに座ったまま、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、時折りため息を繰り返している。額には薄く汗が滲み、右足が小刻みに揺れていた。
結衣が赤ちゃんを抱いてリビングに入ってくると、陣一は苛立った声をあげた。
「うるさいな。泣かせるなよ。こっちは大事な連絡を待ってるんだ。」
「だって、お腹が空いてるみたいで…ミルク代、まだもらえてないから、もう手持ちがないの。」
「しつこいな。金の話ばっかりするなよ。」
赤ちゃんの鳴き声と陣一の苛立ちが、狭いリビングに充満する。私はその光景を台所から見つめながら、彼がかつて私の夫だったことが、まるで遠い夢のように感じられた。
陣一の帰宅から5週間が経った頃のこと。
「金沢さん、今日の夕方、事務所に来ていただけますか?」
千尋さんの声からは、緊迫したものが感じられた。仕事を終えて急いで事務所に向かうと、彼女はすでに書類を広げて待っていた。
「陣一さんの行動に、新たな動きがありました。結論から申し上げると、陣一さんはあなた名義の借金だけでなく、ご自宅マンションの名義変更を画策しています。」
頭の中が真っ白になった。自宅マンションは、結婚時に2人の共同名義で購入したものだ。駅から徒歩8分、築12年の3LDK。南向きのバルコニーからは街並みが一望でき、日当たりも抜群だ。そんな素敵なバルコニーに合うように選んだカーテンは、私にとって掛け替えのない宝物だった。結婚当初、2人で内覧に訪れた時、陣一は「ここにしよう」と即決した。あの頃の陣一は、まだ真面目に働いていたのだ。ローンは10年かけて完済し、そのほとんどは私のパート収入から捻出していた。近年のマンション価格の高騰もあり、現在の資産価値は約2500万円。陣一にとって、最後に手をつけられる大きな財産がそれだった。
「調査の過程で、陣一さんが不動産業者と接触していることが判明しました。駅前の不動産仲介会社を2社訪問しています。マンションを売却し、その資金で新生活を始めようとしているようです。」
千尋さんはファイルから、陣一が不動産会社に出入りする写真を見せてくれた。ガラス張りの店舗の前で、スーツ姿の担当者と名刺交換をしている姿が映っている。彼は私を騙しながら、同時に家まで奪おうとしていたのだ。
「ただし、共同名義の物件を片方の配偶者だけで売却することは、法的にできません。売買契約には共有者全員の実印と委任状が必要です。」
千尋さんは戸棚から出した書類をテーブルの上に広げ、指でなぞりながら説明してくれる。
「そして、陣一さんは何らかの方法であなたの同意を取り付けるか、名義を書き換えるつもりでしょう。つまり、私を騙して同意にサインさせるか、私の印鑑を勝手に使うか。」
「その可能性が高いです。すでに身分証のコピーと印鑑を使って借金を作った前科がありますから、今回も同じ手口を使うことは十分に考えられます。」
私の借金を勝手に作っただけでなく、今度は家までも奪おうとしている。その身勝手さに、震えそうになった。そんな私に、千尋さんは「騙されないで」と教えてくれた。
「注意が必要なのは、印鑑の偽造です。本人確認が甘い業者に、偽造の委任状を持ち込む可能性も否定できません。」
私は千尋さんの言葉を一つ一つ噛みしめた。240万円の送金だけでなく、150万円の不正な借金。そして今度は2500万円の自宅マンション。陣一は私の人生そのものを食い尽くそうとしているのだ。怒りを通り越して、体の芯が冷えていく感覚があった。
「陣一さんが本格的に動く前に、こちらも対策を講じる必要があります。」
「何をすればいいですか?」
「まず、印鑑登録証明書の発行を停止してください。市役所で手続きできます。印鑑登録そのものを一度廃止し、新しい印鑑で再登録するのが最も確実です。」
千尋さんは手帳を開き、手順を説明してくれた。
「次に、マンションの登記簿謄本を法務局で取得してください。現在の名義状態を正確に把握しておく必要があります。さらに、法務局に不正な登記申請がされた場合に備えて、事前通知制度の利用も検討しましょう。事前通知制度は、登記名義人の住所に法務局から本人確認の書類が届く制度です。本人が知らないうちに名義変更されるのを防ぐ効果があります。」
帰り道、秋の冷たい風が頬を刺す。街灯に照らされた歩道を一人で歩きながら、心の中で静かに怒りの炎が燃え上がっていくのを感じた。これまでは証拠を集めて時期を待つという受け身の姿勢だった。だが、陣一が自宅マンションにまで手を伸ばそうとしている以上、もう悠長なことは言っていられない。
翌日、私は早朝のパン屋の仕事を終えた後、市役所と法務局を回った。市役所の窓口で印鑑登録の廃止届を提出した。新しい印鑑を自前で用意していたので、その場で再登録も済ませる。窓口の職員に事情をかいつまんで話すと、同情の目を向けられた。こういう被害は決して珍しくないのだという。続いて法務局に向かい、マンションの登記簿謄本を取得する。窓口で相談すると、共同名義の不動産は片方の配偶者だけでは処分できないことを改めて確認できた。担当者は丁寧に説明してくれた。もし不正な登記申請があった場合、法務局から私の住所に確認書類が届く。その回答がなければ、登記は実行されないと。
だが、陣一は法の網をかいくぐる手口を何度も使ってきた男だ。身分証明書を偽造し、印鑑を無断で使い、借金すら完済しなかった。法律を知らないのではなく、知った上で破る人間なのだ。油断はできない。
その夜、私はクリアファイルに閉じた全ての証拠書類を、パン屋の裏にある従業員用のロッカーに移した。家に置いておけば、陣一に見つかる危険がある。しおりに事情を話し、ロッカーの鍵を預けた。
「任せなさい。この鍵は、私の命に変えても守るから。」
大げさな言い回しに思わず笑みがこぼれたが、しおりの目は真剣そのものだ。彼女が味方でいてくれることが、どれほど心強いか。周りを固めた今、後は攻めに転じるタイミングを見極めるだけだ。
私が静かに防衛策を講じていることに、陣一はまだ気づいていないようだった。だが、この男は追い詰められると勘が鋭くなるタイプなのかもしれない。ある日、帰宅すると陣一がリビングで待ち構えていた。テーブルの上に、市役所から届いた印鑑登録に関する通知書が置かれている。
「みほ、これは何だ?印鑑登録を変更したのか?」
胸の奥がざわついたが、表情には出さなかった。
「ええ、印鑑が古くなったので、新しいものに変えたの。何か問題あった?」
陣一の目が一瞬鋭くなる。しかし、すぐにいつもの薄笑いに戻った。
「いや、別に。ただ、大事な手続きは事前に俺に相談しろよ。夫婦なんだから。」
「夫婦なんだから」という言葉が、これほど空しく響いたことはない。愛人と子供を連れて帰宅しておいて、夫婦の絆を持ち出す神経が理解できなかった。
それから数日後、事態は急激に悪化した。義母が突然、我が家を尋ねてきたのだ。玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、高級そうな着物に身を包んだ義母が、鬼のような形相で立っていた。
「みほさん、少し話があります。上がりますよ。」
有無を言わさず玄関に入ってきた義母は、リビングに通るなり私を正面から睨みつけた。
「あなた、陣一の邪魔をしようとしているでしょ。印鑑を変えたり、こそこそ何かを調べたり。嫁のくせに夫を疑うなんて、恥を知りなさい。」
やはり、陣一は義母に報告していたのだ。印鑑登録の変更に気づいた陣一が、彼女に泣きついたのだろう。
「私はただ、自分の身を守ろうとしているだけです。」
「何から守るというの?陣一は海外で苦労して帰ってきたのよ。あの子を温かく迎えるのが妻の務めでしょ。」
義母は相変わらず、陣一の嘘を信じているふりをしている。いや、嘘だと知った上で、嫁を従わせることが最優先なのだろう。
「陣一さんが海外赴任だったというのは、本当ですか?お母さんはご存知なのではないですか?」
その瞬間、義母の顔色が変わった。目が泳ぎ、唇がわずかに震える。だが、すぐに険しい表情を取り繕った。
「何をバカなことを言っているの?あの子が嘘をつくわけないでしょ。それより、あなたが余計なことをするなら、こちらにも考えがあります。親戚の皆さんに、あなたがどれだけ不出来な嫁か教えますからね。」
義母の口から出た言葉は、紛れもない脅しだった。義母は本気で親戚を味方につけて、私を孤立させようとしている。
そして、義母が帰った後、案の定、親戚からの電話が立て続けにかかってきた。最初にかかってきたのは、陣一のおばだ。「陣一が帰ってきたのに、冷たくしているのか」と一方的にまくし立てられた。海外で苦労した夫をねぎらうのが嫁の勤めだと言い、弁解しようとしても耳を貸す気配はない。義母から聞いた話をそのまま信じ込んでいるのだ。
次にかかってきたのは、陣一の従姉だ。穏やかな口調ではあったが、内容は同じ。「家庭の問題を大げさにするのは良くない」と諭され、「もう少し大人になれ」と言われた。その言葉が、鈍い鉛のように胸に沈んでいく。私はこの2年間、大人として耐え続けてきたのだ。
さらに翌日、陣一の従弟からもメッセージが届いた。一見気遣いを装いながらも、案にこちらに問題があると示唆するような内容だった。義母の巧妙さには、舌を巻くしかない。直接悪者だというのではなく、「心配している」という体で、私の評判を落としていく。じわじわと外堀を埋める、陰湿なやり方だ。義母が親戚中に「美穂が家庭を壊そうとしている」と吹聴したことは明らかだった。
電話の度に胸が締めつけられたが、事実を知らない人間に何を言われても、それは空砲のようなものだ。真実を知っているのは、私と千尋さんとしおりだけ。そして、その真実が最後には全てを覆すことになる。
だが、陣一の反撃はまだ終わらなかった。ある朝、パン屋に出勤すると、店長が困った顔をして待っていたのだ。何かあったのかと尋ねると、昨夜、お店に私の夫を名乗る男性から電話があったと知らされた。「妻が職場で不適切な関係を持っている。店に迷惑をかけているから、やめさせろ」という内容だったという。血の気が引いた。そんな事実は一切ない。陣一は私の職場にまで、嫌がらせの手を伸ばしてきたのだ。
私はすぐに否定し、全くの嘘だと伝えた。店長は私を信じてくれていたが、何度も電話が来ると業務に支障が出ると心配していた。この温かい言葉に救われたものの、職場にまで被害が及んでいる事実は重い。陣一は自分の嘘が暴かれることを本能的に恐れ、先手を打とうとしているのだ。
「あの男、最低ね。自分の嘘を隠すために、みほの仕事まで潰そうとするなんて。」
「きっと、私が何かを調べていることに、うすうす気づいているのよ。だから、先に私の信用を落としておこうとしているんだわ。」
「ますます許せないわ。でも、みほ、焦っちゃだめよ。」
しおりの言葉に深く頷いた。陣一のやり方は卑劣だが、裏を返せば窮地に追い詰められている証拠でもある。追い詰められた人間ほど、なりふり構わなくなるものだ。陣一は自分の嘘が危なくなっていることを本能的に感じ取り、だからこそ先手を打って私の信用を潰しにかかっているのだ。
パン屋の常連客の中には、嫌がらせ電話のことを噂で聞いた人もいるようだった。いつも笑顔で挨拶してくれていた女性客が、レジでの会話が少しぎこちなくなった。もちろん、大半の常連客は変わらず通ってくれている。だが、一部にでも疑いの種が蒔かれたことが、じわじわと心を蝕んでいく。
数日後、さらに予想外の展開が待っていた。陣一が直接、私の行動を監視し始めたのだ。パン屋から帰宅する途中、後ろから誰かにつけられている気配を感じた。振り返ると、電柱の影に陣一の姿が見える。ブランドのジャケットの襟を立て、サングラスをかけているが、体格と歩き方ですぐに分かった。わざと足を早めて角を曲がり、裏道に入ると、陣一は追いかけてこなかった。だが、それは始まりに過ぎなかった。
翌日も、その翌日も、帰り道に陣一の姿を見かけるようになった。商店街の角に立っていたり、公園のベンチに座っていたり、場所を変えながら私を追っている。ある日は、パン屋の向かいの喫茶店から、窓越しにこちらを見ている陣一の視線に気づいた。しおりが休憩中に気づいて教えてくれた。
「みほ、向かいの喫茶店にあの男がいるわ。ずっとこっちを見てる。」
「やっぱりね。最近、ずっと尾行されてる気がしたの。」
「気味が悪いわ。警察に相談した方がいいんじゃない?」
心配するしおりの気持ちは痛いほど分かったが、私は首を横に振った。
「今はまだ、泳がせておいた方がいいわ。」
さらに、家の中でも陣一の探りが始まった。帰宅すると、引き出しの中身が微妙にずれていることが何度かあったのだ。本棚の順番が入れ替わっている。クローゼットの奥に置いていた鞄のファスナーが開いていた。陣一は、私の留守中に何かを探している。証拠書類をパン屋に移しておいたのは正解だった。
千尋さんに報告すると、彼女は即座に対策を提案してくれた。
「陣一さんがあなたの行動を監視しているということは、何かを疑い始めている可能性があります。家の中も物色されているとなると、警戒レベルを上げる必要があります。」
「証拠書類は、パン屋のロッカーに移してあります。」
「よかった。今後の連絡は、パン屋の業務時間中にだけ行いましょう。陣一さんがいる家では、電話もメールも控えてください。通話履歴やメッセージも、その都度消すようにしてください。」
私は頷き、指示に従うことを伝えた。千尋さんはさらに、帰り道のルートを毎日変えるよう指示してくれた。同じ道を通ると、陣一が待ち伏せしやすくなるからだという。それから、千尋さんから驚くべき情報を聞いた。陣一のことで、鳳凰商事の弁護士が動いているらしいと。
私は千尋さんの的確な指示に従いながら、日常を装い続けた。朝はパン屋で働き、帰宅すれば従順な妻を演じ、夜は何食わぬ顔で陣一と結衣のために食事を作る。たまに千尋さんが仕事中にやってきては、調査の報告をしつつカンパーニュを買っていく。
「情報共有も大事ですけど、このカンパーニュが美味しくて。」
笑いながら話す千尋さんを見ると、とても誇らしく温かい気持ちになれた。帰宅ルートは3通りを日替わりで使い分けた。スマートフォンの履歴は毎晩削除する。二重生活の緊張感は増す一方だったが、不思議と恐怖は感じなくなっていた。
一方、陣一の苛立ちは日に日に増していた。金策に行き詰まっているのか、帰宅するたびに不機嫌で、些細なことで声を荒げるように。玄関のドアを乱暴に閉める音で、陣一が帰ってきたことが分かるようになった。リビングに入るなりテーブルの上のものを払いのけたり、壁を拳で叩いたりすることも増えている。結衣が怯えた顔で赤ちゃんを抱きしめる場面を、何度も目にした。
「おい、この味噌汁、ぬるいだろ。ちゃんと温め直せよ。」
「ごめんなさい、すぐに。」
「最近、お前、態度がおかしいんだよ。何を企んでるんだ?」
じろりと睨まれたが、私は表情を変えずに答えた。
「何も企んでませんよ。毎日、仕事と家事をしているだけです。」
陣一は疑わしそうな目で私を見つめたが、それ以上は追求してこなかった。嘘をつくことに長けた人間は、他人の嘘にも敏感になるものだ。しかし、陣一の勘が鋭くても、私が握っている証拠の全容までは見通せないだろう。
そして、結衣もまた変化を見せ始めていた。最初の兆候は些細なことだった。ある夕食の席で、テレビにシンガポールの観光地が映ったのだ。
「陣一さん、ここ行ったことある?」
陣一は箸を止めた。
「ああ、何度もな。」
だが、画面に映っていたのは、昨年オープンしたばかりの新しい施設だった。陣一がシンガポールにいた時期には、まだ存在していない場所だ。結衣の眉がわずかに動いたのを、私は見逃さなかった。
数日後の夜、結衣が赤ちゃんを寝かしつけた後、台所に来て私に話しかけてきた。その目には、以前のような作り笑いはなく、疲労と不安が滲んでいる。目の下のくまが濃くなり、頬もやつれていた。
「みほさん、陣一さんて、本当にシンガポールで働いていたんですか?」
心臓が跳ねたが、表情には出さない。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「だって、おかしいんです。シンガポールで働いていたはずなのに、向こうの話を全然してくれないんです。」
結衣は指を組んで、テーブルの上に視線を落とした。
「現地の友達もいないし、お土産も一つもなかったし、英語だって全然話せないじゃないですか。サラリーマンなのに。」
私は黙って聞いていた。
「それに、最近お金が全然ないって。エリートサラリーマンなのに、なんでこんなにお金に困っているのか分からなくて。私の貯金も底を突きかけているのに、陣一さんは毎日パチンコに行って…」
結衣の声は震えていた。彼女もまた、陣一の嘘の網の中で溺れかけているのだ。赤ちゃんのミルク代すら満足に出せない生活。エリートサラリーマンの妻になるはずだった未来は、すでに崩壊し始めている。
「結衣さん、今はまだ話せないことがあるの。でも、いずれ全てが明らかになる時が来る。その時まで、少しだけ待ってくれる?」
結衣は不安そうな顔で私を見つめた。その目には、答えを求める切実さと、答えを聞くことへの恐怖が同居していた。やがて、小さく頷いた。
「みほさん、あなたは陣一さんの奥さんなのに、私のことを怒ったりしないんですね。私がここにいることを責めない。」
「それは…」
「私、ずっと不思議だったんです。普通なら、愛人を追い出すはずなのに。みほさんは、何かを知っているんじゃないですか。」
鋭い問いかけだ。結衣は見た目の派手さとは裏腹に、勘の良い女性だった。だが、ここで真実を明かすわけにはいかない。
「私が知っているのは、パンの焼き方くらいよ。難しいことは分からないの。」
結衣は納得していない顔をしたが、それ以上は追求してこない。台所を出ていく結衣の後ろ姿が、夜の闇に小さく見えた。
陣一の嫌がらせは、さらにエスカレートしていった。パン屋への電話は一度では終わらず、繰り返しかかってくるようになった。「妻が店で問題を起こしている」「客に迷惑をかけている」という内容は、電話を重ねるごとに具体的になり、あたかも事実のような巧妙な嘘が紛れ込んでいる。店長は私を信じてくれていたが、何度も対応に追われることで、業務に支障が出始めていた。
店長からは、「味方だ」と前置きした上で、「このまま電話が続くと、他のスタッフにも影響が出てしまうため、少しの間休みを取ってはどうか」と提案された。その言葉には心からの気遣いが込められていたけれど、その提案は私にとって、居場所を失うことを意味している。パン屋は、2年間かけて築いた私の世界そのものだった。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。必ずこの状況を解決します。もう少しだけ、時間をいただけませんか?」
長い沈黙の後、店長はゆっくりと頷いてくれた。だが、その目には明らかな疲弊の色が見えた。「ほのか」は個人経営の小さなパン屋である。こんなトラブルに巻き込まれる余裕など、どこにもないのだ。
しおりが厨房の奥で、拳を握りしめていた。
「あの男、本気でみほの仕事を潰そうとしてるのね。本当に許せないわ。」
「しおり、ありがとう。でも、今は耐えるしかないの。」
「私もね、昔の旦那に同じことされたの。職場に電話して、嘘の噂を流して、私を孤立させようとした。だから分かるのよ、みほの気持ちが。」
しおりの目には、過去の傷を思い出した痛みと、親友を守りたいという強い意思が交差している。彼女がいなかったら、私はとっくに折れていたかもしれない。
その翌日、郵便受けに消費者金融からの督促状が届いた。赤字で「重要」と印刷された封筒を開けると、陣一が私名義で作った150万円の借金の返済が3ヶ月滞っているという内容だった。「期限までにお支払いのない場合、法的手続きに移行いたします」という一文が赤字で強調されている。延滞損害金が加算され、総額は170万円にまで膨らんでいた。
督促状を手に、台所のテーブルに座り込んだ。借りた覚えのない金、使った覚えのない金の返済を背負わされている。自分の名前が印刷された書類を見つめながら、全身から力が抜けていく。文字が滲んで見えるのは、涙のせいではなく、怒りで視界が揺れているからだった。
千尋さんには相談済みだが、この借金を無効にするためには、陣一の不正行為を立証する必要がある。立証するには、まだ時間がかかる。それまでの間、督促状は届き続けるのだ。
さらに追い打ちをかけるように、陣一の親戚からの電話攻撃も激化していた。義母が吹聴した「美穂が家庭を壊そうとしている」という話は、尾ひれがついて親戚中に広まっている。陣一の叔父からの電話は、特に厳しいものだった。日曜日の朝、まだパン屋の仕込みの疲れが残る体に、怒声が叩きつけられる。
「陣一は海外で苦労して帰ってきたんだ。嫁としての務めを果たせ。離婚など考えるな。恥をかくのは金沢の家だ。」
叔父は一方的にまくし立てた。実家まで持ち出されて、実家の名誉をちらつかせる手口に、怒りよりも虚しさが込み上げた。私の実家の両親はすでに他界している。守ってくれる家族はもういない。だからこそ、こうして脅しに使われるのだろう。
その日の夕方には、陣一の別の親戚の夫からも電話がかかってきた。穏やかな口調だったが、内容は刃物のように鋭い。「探偵所を使っているのか」と問い詰められ、「夫婦でちゃんと話し合うべきだ」と諭された。探偵所の件が漏れているとは、義母がどこまで把握しているのか、背筋が冷えた。陣一が家の中を物色して何かを書き取り、義母に伝えたのかもしれない。あるいは、義母自身が独自に情報を集めている可能性もある。いずれにしても、こちらの動きが読まれ始めている。千尋さんに急ぎ連絡を入れ、調査のペースを上げてもらう必要があった。
誰も真実を知ろうとしない。陣一と義母が作り上げた嘘の物語を、親戚全員が信じている。いや、信じたいのだ。真実に向き合うより、嘘を信じて私を悪者にする方が楽なのだから。
翌朝、パン屋に出勤すると、店長が深刻な顔で話しかけてきた。昨夜、また電話があったことを告げられた。今度は女性の声で、私が店の売上金を着服しているという内容だったという。もちろん信じてはいないが、「こんな電話が続くと…」と言いかけて、店長は言葉を切った。言いにくそうに目を伏せている。義母の仕業だろう。陣一だけでなく、義母まで職場への攻撃に加担し始めたのだ。
「本当にすみません。もう少しだけ時間をください。必ず解決しますから。」
店長はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いてくれた。その沈黙の重さが、私の胸を締めつける。店長の信頼を、これ以上消耗させてはいけない。
夜、一人きりの寝室で、涙が頬を伝って枕に落ちた。声を出さずに泣くことには慣れたつもりだったけれど、この夜の涙は特別に冷たかった。陣一の嘘のせいで、私の貯金は消え、信用は傷つき、職場にまで被害が及んでいる。170万円の督促状、親戚からの非難、職場への嫌がらせ。四方から同時に攻撃を受けて、逃げ場が見えない。これ以上、何を奪えば彼は満足するのだろうか。
翌朝、目覚ましが鳴っても体が動かなかった。いつもなら午前4時半にはベッドから出て、パン屋への支度を始めるのだが、その日は天井の染みを数えることしかできなかった。隣の部屋から赤ちゃんの鳴き声が聞こえる。結衣がなだめる声が、壁越しに響く。この家は、もう私の家ではないような気がした。
枕元のスマートフォンが振動する。しおりからのメッセージだった。「今朝来れる?無理しなくていいから」と気遣う内容だ。店長には「体調が悪いので休みたい」と連絡を入れたが、しおりからのメッセージには返信する気力もなく、画面を伏せた。布団を頭まで被り、暗闇の中で膝を抱える。
結婚して10年、海外赴任の嘘を信じて2年。愛人と子供を連れた陣一の帰宅から1ヶ月半。その間に私が失ったものを数え始めたら、指が足りなくなるだろう。もし結婚しなかったら、もしあの時陣一の嘘に気づいていたら、もし最初から一人で生きていたら。考えれば考えるほど、心が沈んでいく。
どれくらいの時間が経っただろう。インターホンが鳴った。無視しようとしたが、何度も繰り返し鳴り続ける。陣一と結衣は外出しているはずだ。重い体を引きずるようにして玄関に行くと、しおりが紙袋を抱えて立っていた。エプロンの上にカーディガンを羽織っただけの格好を見ると、パン屋から走ってきたのだろう。
「やっぱり、来なかったわね。」
「はい…」
紙袋の中には、「ほのか」のパンが入っていた。カンパーニュ、黒わっさん、よもぎあんぱん。どれも私が配合を工夫した商品ばかりだ。紙袋の底から、焼き立てのぬくもりが手のひらに伝わってくる。
「今朝、お客さんが聞いてきたのよ。『今日はみほさんいないんですか?みほさんのカンパーニュが食べたいんですけど』って。」
その言葉を聞いた瞬間、涙腺が一気に崩れた。玄関に立ったまま、声を殺して泣く私の背中を、しおりはそっとさすってくれる。しおりの手のひらは温かくて、少し荒れていて、職人の手だった。
「あんたは、一人じゃないのよ。お客さんも、お店のみんなも、私も、あんたのパンを待っているの。あの男に、あんたの居場所まで奪わせちゃだめよ。」
彼女の温かい言葉が、凍りついた心を少しずつ溶かしていく。
「あんたがこの2年間で作ってきたものは、嘘じゃないわ。パン作りの腕も、お客さんとの信頼も、私との友情も、全部本物よ。あの男の嘘に、あんたの本物まで汚させちゃだめなのよ。」
しおりは私を台所に引っ張っていき、椅子に座らせた。紙袋からカンパーニュを取り出し、ナイフで厚めに切ってくれる。
「ほら、食べなさい。あんたが作ったレシピのパンよ。味を思い出しなさい。」
涙でかすむ視界の中で、カンパーニュを手に取った。ずっしりとした重さと、天然酵母の香ばしい匂い。このパンを「ほのか」の看板メニューにしたのは、他の誰でもない、この私の手だ。表面のひび割れ一つ一つが、私の技術の証である。初めてカンパーニュを焼いた日のことを覚えている。何度も失敗して、配合を少しずつ変えて、ようやく納得のいく一つが焼けた日。「これがあなたのパンだ」と、店長が太鼓判を押してくれた。あの日の喜びは、陣一が奪えるものではない。
しおりの言う通りだ。陣一に奪われたものは確かに多い。だが、パン屋で築いたものは、陣一の嘘とは無関係に、私自身の力で生み出した本物の財産なのだ。カンパーニュをちぎって一口食べると、噛みしめるほどに深い味わいが口の中に広がっていく。天然酵母の酸味、全粒粉の香ばしさ、ほのかな塩け。この味を生み出したのは、2年間の試行錯誤と、何百回も繰り返した発酵の見極めだった。その味が、止まりかけていた心臓をもう一度動かしてくれるような気がした。
その日の午後、私はパン屋に出勤した。しおりの訪問から3時間後のことだ。店長が「無理はしなくていい」と心配そうに声をかけてくれる。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。明日から、いつも通り出勤させてください。」
私をじっと見つめた店長は、決意を読み取ったのか、静かに頷いてくれた。
パン屋の裏で、千尋さんと会った。千尋さんは大きな茶封筒を持っている。
「金沢さん、最終報告書が完成しました。全ての証拠が揃っています。」
封筒を受け取る手が、かすかに震える。だが、それは恐怖の震えではなく、長い準備がようやく実を結ぶことへの高揚感だった。オーブンの前で焼き上がりを待つあの胸の高鳴りと同じものが、体の内側を満たしていく。
「この中に、決定的な写真が入っています。」
封筒の口を開け、中の書類をゆっくりと引き出した。最初に出てきたのは、A4サイズに引き伸ばされた一枚の写真だ。それは、陣一と結衣が手をつないで歩いている写真だった。場所は、私が住む町の駅前商店街。結衣は赤ちゃんをベビーカーに乗せ、陣一はその隣で笑顔を見せている。何の変哲もない家族の風景に見えるが、この写真が決定的なのは、背景に映り込んでいるものだった。商店街のアーケードに掲げられた横断幕。そこには「第35回 高崎駅前夏祭り 8月15日」と大きく書かれている。陣一がシンガポールにいるはずの時期に撮影された、国内にいた動かぬ証拠。さらに、写真の陣一が着ているTシャツの胸元には、地元のスポーツチームのロゴが入っている。シンガポールでは手に入らない、この町のローカルショップで夏の間だけ売られている限定品だ。
この一枚が、2年間の嘘を終わらせる鍵になる。陣一の笑顔は、写真の中で無邪気に輝いていた。この同じ時期に、私は早朝4時半に起きてパンを焼き、必死に捻出した10万円を送金していたのだ。シンガポールに届くはずのない金を、この男の愛人との生活のために。
「この写真は、陣一さんの海外赴任が完全な嘘であることを証明するものです。証拠として、これ以上ないものを。」
千尋さんは見つけてきてくれたのだ。その事実に、胸が熱くなる。
「これに加えて、出入国記録の不在証明、懲戒解雇の記録、送金記録、借金の証拠を合わせれば、陣一さんの嘘は一つ残らず白日のもとにさらされます。」
私は写真をじっと見つめた。陣一の笑顔があまりにも自然で、あまりにも無邪気で、だからこそ腹の底から怒りが湧き上がってくる。
「千尋さん、ありがとうございます。これで、全ての準備が整いました。」
「どのように動かれますか?」
「陣一と義母と結衣を、同じ場所に集めます。全員の前で、全ての証拠を見せるつもりです。」
「状況から考えて、早い方がいいと思いますし、今週末にでも…」
千尋さんは軽く頷き、封筒の中身を確認するよう促した。写真の他に、証拠写真の一覧表が入っている。懲戒解雇記録、出入国記録、送金記録、借用書、不動産業者との接触記録。全26点の証拠に番号が振られ、時系列順に整理されていた。
「金沢さん、これは私がこれまで手掛けた調査の中でも、最も丁寧に整理された証拠ファイルです。あなたが日々記録をつけ続けてくれたおかげで、証拠に穴がありません。」
「パン屋の帳簿管理と同じです。一つ一つの数字を丁寧に積み上げていけば、最後には辻褄が合う。」
「理解しました。もし何かあった場合に備えて、私もすぐに駆けつけられるよう待機しています。」
私は涙が出そうになりながらも、お礼を告げた。
「それから、鳳凰商事の件ですが、先日お伝えした通り、会社側の弁護士が動き始めています。タイミングは、同じ週末になるかもしれません。」
千尋さんとの会話が終わり、帰路に着く途中、しおりに電話をかけた。
「しおり、準備が整ったわ。週末に、全て終わらせる。」
「ついにね。私、何か手伝えることはある?」
「ありがとう。でも、これは私一人でやらなきゃいけないことなの。生地を窯に入れるのは、いつだって焼き手の仕事だから。」
電話の向こうで、しおりが息を吸い込む音が聞こえた。
「分かった。でも、終わったらすぐ電話して。焼き立てのクロワッサンを持って、どこにでも駆けつけるから。」
電話を切った後、夜空を見上げた。秋の星が、冷たく、けれど確かに輝いている。あの星のように、私もこれから真実の光を放つのだ。
帰宅すると、陣一はいつものようにリビングでテレビを見ていた。何も知らない顔で、ビールを飲みながら笑っている。あと3日。この男の嘘が終わるまで、あと3日だ。私は平静を装い、台所で夕食の支度を始めた。包丁で野菜を刻みながら、頭の中では証拠の提示順をもう一度確認する。写真を見せた瞬間の陣一の顔を、私は冷静に見届けなければ。感情に流されてはいけない。これは復讐ではない。真実を明らかにし、自分の人生を取り戻すための、正当な手続きなのだ。
週末の土曜日、私は朝から入念に準備を整えた。午前4時に起きて、パン屋に行く前の身支度を整えていく。鏡に映る自分の顔は痩せてはいたが、目だけは澄んでいた。パン屋の仕事を手早く終わらせ、昼前に帰宅した。証拠書類の入ったクリアファイルを、パン屋のロッカーから持ち帰った。テーブルの下に目立たないように置き、提示する順番を頭の中で何度も確認する。最初に写真、次に懲戒解雇記録、出入国記録、送金記録、借用書、示談書。この順番で出せば、陣一の嘘が一枚ずつ剥がされていく構成になっている。
まず、陣一に「大事な話がある」と告げ、リビングのテーブルに座らせた。次に、義母に電話をかけ、「陣一さんの今後のことで相談したい」と伝えて呼び出した。結衣には、「3人で今後の生活について話し合いましょう」と声をかけた。
義母は1時間ほどで到着した。玄関に入るなり、「要件は手短にしなさい」と言い放つ。いつも通りの高圧的な態度だが、それもあと少しの辛抱だ。
午後2時、リビングに4人が揃った。義母は高飛車な態度でソファの端に座り、陣一はテレビのリモコンを手に持ったまま退屈そうな顔をしている。結衣は赤ちゃんを膝の上に抱きながら、不安そうに周囲を見回していた。
「で、大事な話って何だよ。手短に頼むわ。」
私はテーブルの前に立ち、全員の顔を見渡した。心臓は激しく打っているが、不思議と手は震えていない。
「陣一さん、一つ見てもらいたいものがあるの。」
テーブルの下に置いていた茶封筒から、一枚の写真を取り出した。A4サイズのあの写真。それを静かにテーブルの中央に置く。陣一は最初、興味なさそうに目をやった。だが、写真の内容を認識した瞬間、その顔から血の気が引いていくのが手に取るように分かった。唇が小さく動き、言葉にならない声が漏れる。
「これ…どこで…」
「探偵所に依頼して、手に入れてもらったの。あなたがシンガポールにいるはずの去年の8月に、この町の駅前で撮られた写真よ。」
義母が写真を覗き込み、顔をこわばらせた。
「こんなもの、合成に決まっているでしょう。みほさん、あなた、どこまで卑劣なんの?」
「合成ではありません。これだけではないんです。」
私は封筒から次々と書類を取り出し、テーブルに並べていった。
「一つ目、鳳凰商事の懲戒解雇に関する記録のコピー。陣一さんは2年前、鳳凰商事を懲戒解雇されています。理由は、営業経費約500万円の横領。海外赴任の事実など、一度も出ていません。」
陣一の顔が土色に変わった。唇が痙攣するように動き、何か言いかけて止まる。隣に座る義母も、書類に目を落としたまま固まっている。
「二つ目、出入国管理局の記録に基づく、出入国履歴の不在証明。陣一さんのパスポートには、2年間で一度も出国のスタンプがありません。つまり、シンガポールには一歩も足を踏み入れていないということです。」
「三つ目、銀行の送金記録と送金先口座の情報。私が2年間で送った240万円は、埼玉県内の銀行口座に振り込まれていました。海外送金の手数料は、一度も発生していません。このお金は、あなたと葉取さんの生活費に使われていたんですよね。」
「四つ目、消費者金融の借用書のコピー。そして、あなたは私の身分証明書と印鑑を無断で使い、私名義で150万円の借金を作りました。これは不正行為です。」
テーブルの上に広がった証拠の山を前に、陣一は椅子の背もたれに押し付けられるように体をそらせた。顔面は蒼白で、額には油汗が浮かんでいる。写真、書類、記録、証明書。私が2年間かけて積み上げた一つ一つの証拠が、今、この男の虚構の城を叩き壊しているのだ。
結衣が震える声で口を開いた。
「陣一さん、これ、本当?海外赴任って、嘘だったの?あなた、会社を首になってたの?」
「違う。これは全部、でっち上げだ。みほが俺を陥れようとして…」
陣一は急に椅子から立ち上がり、テーブルの上の書類を手で払おうとした。だが、私はすでに書類の端を抑えていた。散らばることなく、証拠はテーブルの上に止まる。
「そもそもな、懲戒解雇じゃないんだよ。会社と意見が合わなくて、こっちから辞めたんだ。金の件だって、立て替えてただけで、横領なんかしていない。」
「鳳凰商事の人事記録には、懲戒解雇と明記されています。退職届は受理されていません。そして、あなたが返済に同意した示談書のコピーも、ここにあります。」
五つ目の書類を取り出し、テーブルに置いた。陣一が示談金の分割払いに同意した署名が、はっきりと読み取れる。否定しようのない、自筆の署名だった。
「それは、俺が騙されてサインさせられたんだ。」
「誰に騙されたんですか?あなたが騙していたのは、私と結衣さんでしょ。」
陣一は唇を噛みしめた。体の油汗が、額から頬を伝って顎先から落ちる。追い詰められた動物のように、視線があちこちに飛び回っている。
「いいか、これには事情があるんだ。俺だって、好きでこうなったわけじゃない。会社を辞めてから、どうしていいか分からなくて。お前に心配をかけたくなくて…」
「心配をかけたくなかったから、海外赴任だと嘘をついたのですか?心配をかけたくなかったから、愛人を作ったのですか?心配をかけたくなかったから、私の名義で借金をしたのですか?」
一つ一つ問いを重ねるたびに、陣一の体が小さく震えた。もう逃げ場がないことを、彼もようやく理解し始めている。
「でっち上げではありません。全て、公的な記録と専門の調査員による報告書に基づいた事実です。もう、嘘は通用しないのよ。」
陣一の視線が泳いだ。反論の糸口を探しているのだろう。だが、そこに並んでいるのは、数字と記録と写真という、動かしようのない事実の集積だ。
義母が立ち上がり、高い声をあげた。
「みほさん、あなた、何様のつもり?陣一には事情があるのよ。会社のことだって、濡れ衣かもしれないじゃない。」
「お母さんも、知っていたんですよね。陣一さんが海外にいないことを。最初から嘘だと分かった上で、私に送金を続けさせていた。」
義母は反論しようとして口を開いたが、言葉が出てこない。図星だったのだ。
「お母さんが『余計なことを詮索するな』と言ったのは、真実がバレることを恐れていたからでしょう。私が陣一さんの会社に問い合わせることを、阻止しようとした。違いますか?」
「それは、陣一のためを思って…」
「陣一さんのためですか?それとも、自分の体面のためですか?息子が横領犯だと知れ渡ることが、お母さんにとっては耐えられなかった。だから、嘘を隠し、私に全ての負担を押し付けたんでしょう。」
義母の目が大きく見開かれ、唇が震えた。
「あなたに何が分かるのよ。母親が息子を守るのは、当然でしょう。」
悲鳴のような声だったが、私はもう引かない。
「守るのと、嘘の共犯者になるのは違います。お母さんは、親戚中に私の悪口を言いふらして回りましたよね。嘘を重ねて、無実の人間を追い詰めることが、母親の愛情ですか?」
義母は、糸の切れた操り人形のようにソファに崩れ落ちた。威圧的だった目はうつろになり、膝の上で両手が細かく震えている。
結衣がよろめくように立ち上がり、陣一の前に立った。その目は真っ赤に充血し、涙が頬を伝って落ちている。
「あなた、エリートサラリーマンだって言ったわよね。シンガポールで大きなプロジェクトを任されてるって。マリーナベイのオフィスで、毎日遅くまで働いてるって。」
「結衣、聞いてくれ。俺にも…」
「黙って。全部、嘘だったんでしょ?私が友達に自慢していた話は、どうなるの?『陣一さんはシンガポール駐在のサラリーマンで、もうすぐ日本に帰ってくる』って、みんなに言ってたのよ。」
結衣の声は、怒りと屈辱で裏返っている。
「私の友達は、あなたのことを羨ましがったわ。『素敵な方ね』って。それが、全部嘘だったなんて。私は、嘘つきの共犯にされてたの?」
「違う。お前のことは、本当に好きで…」
「好きだったら、嘘をつくの?奥さんがいることを隠すの?好きだったら、無職なのに金持ちのふりをするの?」
結衣は赤ちゃんを強く抱きしめながら、声を絞り出した。
「この子に、どう説明するの?『お父さんは嘘つきの横領犯でした』って、そう言えばいいの?」
結衣の叫びが、リビングの空気を切り裂いた。赤ちゃんが大きな声で泣き始める。あの計算高そうに見えた女性が、今は一人の騙された女として、ただ泣いている。陣一は、全ての人間を騙し、全ての人間を裏切っていたのだ。
陣一がついに膝を折った。テーブルの前で床に崩れ落ち、両手を合わせる。顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになり、鼻水をすする音が聞こえた。
「みほ、頼む。やり直させてくれ。全部、俺が悪かった。反省している。お前なしじゃ、俺はもう生きていけない。」
その姿を見下ろしながら、私の胸の中を吹き抜けたのは、怒りでも悲しみでもなく、透明な風のような決意だった。この男の涙を、私はもう信じない。陣一の涙は、反省ではなく、保身のための道具でしかないのだ。
「陣一さん、あなたがやり直すのは、私とではありません。あなた自身の人生を、やり直してください。」
私は一呼吸置いて、続けた。
「私はこの2年間、あなたの嘘を支えるために生きてきました。でも、もうその役目は終わりです。私には、自分の人生があります。あなたの嘘の土台になるために生まれてきたのではありません。」
テーブルの上に、最後の書類を置いた。離婚届。すでに私の欄は記入済みだ。ペンを添えて、陣一の前に差し出す。
「この離婚届に、サインしてください。財産分与については、あなたが私名義で作った借金の全額返済と、送金した240万円の返還を求めます。マンションは、私が住み続けます。」
陣一の顔が歪んだ。
「そんな金、どこにもないよ。俺は一文無しなんだ。みほ、頼む。少しでいいから…」
「私はこれ以上、あなたの嘘のために一円も払うつもりはありません。2年間、十分すぎるほど払い続けてきました。」
その時、玄関のチャイムが鳴った。リビングの全員が息を飲む。ドアを開けると、スーツ姿の男性が2人立っていた。一人は銀縁のメガネをかけた中年の男性で、もう一人は書類鞄を持った若い男性。中年の男性が名刺を差し出した。鳳凰商事の代理人だと名乗った男性は、金沢陣一に用があると告げる。陣一の顔が凍りついた。
男性の説明によると、改めて経理記録を精査した結果、横領金の返済が不完全であることが判明したという。示談時に合意された返済額500万円のうち、実際に返済されたのは約320万円で、残り約180万円が未返済のままとなっているらしい。連れの若い男性が書類鞄から資料を取り出し、テーブルの上に置いた。
「残額180万円の即時返還を求めます。応じない場合は、改めて刑事告訴を検討するとのことです。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あの件は、示談で終わったはずだろう。全額返すって約束したじゃないか。」
「約束にも関わらず返済が滞っていたため、示談契約の不履行として再度対応を検討しており、近日中に正式な通知書を送付する予定です。」
陣一の顔に残っていた最後の色が、みるみる消えていった。横領の件は示談で終わったと思い込んでいたのだろう。だが、返済が不完全だったことで、会社側が再び法的措置に動き出したのだ。横領500万円のうち、私が送った金で320万円を返済し、残りは踏み倒していたらしい。結局、私の金は陣一の違法行為の後始末に使われていたのだ。
鳳凰商事の代理人が帰った後、リビングには重い沈黙が降りた。時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。陣一はテーブルに突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。義母はソファの隅で小さくなり、声もなく唇を震わせている。結衣は赤ちゃんを抱いたまま壁際に立ち、陣一を見る目には、もう何の感情も宿っていなかった。
私はテーブルの上の離婚届をもう一度、陣一の前に押し出した。
「陣一さん、サインしてください。これ以上引き延ばしても、あなたにとって状況が良くなることはありません。」
陣一がゆっくりと顔を上げた。抵抗する力がもう残っていないことは明らかだ。かつてブランド物のジャケットを颯爽と着こなしていた男が、今は涙と汗にまみれた顔で、妻の差し出す離婚届を見つめている。自業自得だ。同情の余地は、一片もない。
それから数日のうちに、陣一の人生は音を立てて崩れ去った。鳳凰商事は正式に法的措置の手続きを開始し、陣一は横領と不正行為の容疑で、警察の事情聴取を受けることに。私名義の借金についても、陣一が身分証明書を無断使用した不正行為として、被害届を提出した。警察署で事情を聞かれた陣一は、最初こそ否認していたが、次々と突きつけられる証拠の前に、やがて全てを認めた。横領も、偽の海外赴任も、妻への送金詐取も、名義の無断使用による借金も。
取り調べ室から出てきた陣一の姿は、かつてのブランド物のジャケットを羽織った男とは別人のようだった。背中は丸まり、足取りはおぼつかない。自分が作り上げた虚構の城が根底から崩壊した後の、残骸だった。
結衣は、全てを知った翌日に、赤ちゃんを連れて実家に帰った。「二度と顔を見たくない」という置き手紙だけを残して。陣一がエリートサラリーマンだと信じていた結衣にとって、無職の横領犯という現実は、受け入れがたいものだっただろう。結衣の実家は九州だと聞いた。東京に出てきて、陣一と出会い、子供まで産んだ。その全てが嘘の上に建てられた砂の城だったと知った結衣の心中を思うと、同情を禁じ得ない。
義母もまた、真実の重みに押しつぶされた。息子の嘘を知りながら隠蔽に加担し、嫁を攻撃していた事実が親戚中に知れ渡ると、義母の元には非難の声が殺到したそうだ。これまで義母の言葉を鵜呑みにしていた親戚たちが、手のひらを返すように義母を攻め立てた。かつて私を孤立させようとした人々が、今度は義母を孤立させていく。因果応報とは、まさにこのことだ。義母は自宅に引きこもり、誰とも会わなくなったようだ。息子を守ろうとした結果、全てを失った母親の姿は、哀れでもあり、自業自得でもあった。
離婚届は、陣一が警察で事情聴取を受ける前日に、サインされた。ペンを持つ陣一の手は震えていたが、もう抵抗する気力は残っていなかった。私が出した条件は全て通り、マンションの名義は私の単独名義に変更。借金については陣一が全額を返済する義務を負い、送金した240万円の返還も分割で行われることが決まった。
午前4時半、「ほのか」の厨房に温かな光が灯る。ステンレスのボールに仕込み水を張り、指先で温度を確かめる。2年前と同じ動作。けれど、今の私の手は、あの頃よりもずっとしなやかで力強い。
「おはよう、みほ。今日の生地の調子は?」
「絶好調よ。今日は、新作のくるみパンに挑戦するつもりなの。」
「いいじゃない。きっと、お客さんに喜ばれるわ。」
生地をこね始めると、手のひらに馴染む柔らかな感触が心地よい。天然酵母が生地の中で静かに呼吸し、じわじわと膨らんでいく。先日、千尋さんから連絡があった。調査のお礼を伝えると、彼女は笑いながら「事務所に『ほのか』のパンを届けて欲しい」と返してきた。あのカンパーニュが忘れられないのだという。
オーブンの中で、くるみパンがこがね色に膨らんでいく。新しい挑戦。新しい味。新しい朝。私はもう、誰かの嘘のために生きる必要はない。自分の手で生地をこね、自分の判断で焼き上げ、自分の足で立つ。その一つ一つが、私の新しい日常を形作っている。
焼き上がったくるみパンをトレーに並べながら、ふと窓の外に目をやった。朝日が静かに街を照らし始めている。今日もまた、温かいパンの香りに包まれた、穏やかな一日が始まろうとしていた。



