学会発表の朝、同期の足立が俺を遮って言った。「底辺大卒のお前が発表するなんて、心憑性がないだろう。国立大卒の俺が実績にしてやる」 俺が5年以上かけて研究してきた成果を、彼はあっさり横取りしようとしている。研究チームのトップは俺なのに、彼は俺の名前を資料から消し、壇上に立とうとしている。 彼は知らない。この研究の第一任者がドイツ人だということを。そして、俺がドイツ語を流暢に話せることを。…

学会発表の朝、同期の足立が俺を遮って言った。「底辺大卒のお前が発表するなんて、心憑性がないだろう。国立大卒の俺が実績にしてやる」 俺が5年以上かけて研究してきた成果を、彼はあっさり横取りしようとしている。研究チームのトップは俺なのに、彼は俺の名前を資料から消し、壇上に立とうとしている。 彼は知らない。この研究の第一任者がドイツ人だということを。そして、俺がドイツ語を流暢に話せることを。...

学会発表の朝、俺は足立に呼び止められた。

「お前が発表するなんて、心憑性がないだろう。田舎の底辺大学のお前の言うことなんて誰が聞くんだよ」

俺が長年携わってきた研究を発表する医学会。国立大卒の足立は、壇上に上がろうとする俺をそう言って遮った。

「研究チームのトップは俺なんだよ。国立大卒の俺がしっかりと実績にしてやるよ。お前はこれまで通り底辺らしくちまちましてればいいんだよ。どうせ出世もできないんだから」

彼は息よとに上がり、得意げに説明を始めた。だが彼は知らない。この後とんでもないことが待ち受けていることを。そして彼は足を震わせて涙ながらに謝ることになるのだった。

俺は川上悟。雪出身で地元の医学部を卒業し、大学病院に務めている。彼が言うように、俺が卒業した大学の医学部は私立でそれほど偏差値は高くない。

父が事故で亡くなって、俺は母と母の地元へ引っ越した。当時まだ幼かった俺は、家に帰ると毎日お腹を空かせて母の帰りを待っていた。中学生になって部活を始め、俺はその空腹の時間が耐えがたくなった。母に正直に相談すると、母との協議の末、1日あたり300円のお小遣いをもらえることになった。欲しいものがあればそのお小遣いを貯めて買うこと、計画的に使うこと。最初の頃はその言いつけを守っていた。初めて自分で自由に使えるお金だ。当時の俺は舞い上がっていた。

腹が減って耐えられないと言っていた俺は、空腹を我慢してお金を貯めた。2、3ヶ月我慢して、小さなゲーム機とソフトを買った。目標を達成したことで、本来の目的である空腹を満たすために小遣いを使うようになる。その頃が一番幸せだった。母を待つ時間も、ゲームをしながら買ってきたパンやお菓子を食べた。

そのソフトにも飽きてきた頃、俺には欲が出た。新しいソフトが欲しい。だが我慢はしたくない。俺は母に交渉を試みた。

「もう少しお小遣いが欲しいんだけど」
「どうしてお金が欲しいの?最初に約束したでしょ?」
「もう少し食べ物があったらと思って」

そう答えたが、それは嘘だった。新しいソフトを買うためと言ったら断られると思った。

「何か欲しいものでもあるの?」

そう聞かれてぎくりとしたが、俺は必死に首を横に振った。そんな俺の心の内を見透かすように、母は5000円という大金をくれた。

「欲しいものがあったら正直に言いなさい。それで足りなかったら、悟るのお小遣いから出して。誕生日の分の前払いだからね」

俺は母から受け取ったお金ですぐに新しいソフトを買った。だが、それを後悔する日が来る。

中学2年生になる直前、母は病に倒れて入院してしまった。医者の話によると、ずっと無理を重ねていたことも原因の1つらしい。確かに母はパートを2つも掛け持ちし、朝晩働いている。休みの日もなく、生き抜きをしている姿も見たことがない。ずっとそうだったから当たり前だと思っていた。無理をしていたんだ。俺は嘘をついてお金をもらい、家で呑気にゲームをしていたのに。

それから母は入退院を繰り返すようになった。母が入院でいない日は、当面の間の生活費を渡された。食費は俺が想像しているよりも高かった。毎日ちゃんとしたご飯を用意するのに、これほどお金がかかるとは。当たり前のように思っていたあの頃が急にありがたく思えた。

辛そうな母を見るのが、俺は一番嫌だった。俺は母の病気について、看護師さんや担当医によく話を聞いた。病院の人たちは親切に色々と教えてくれた。中学生の俺には分からない難しい話もあったが、それでも根気よく聞いた。

俺は節約して余ったお金があれば本を買うようになった。母の病気を改善させるために何かいい方法はないものか。その思いで何冊も本を買い、図書館にも通い読み漁った。医学に興味を持ったのはそれが発端だった。

「悟る、お医者さんになりたいの?」

高校1年生の夏、俺は母にそう聞かれてはっとした。俺は医者になりたいんだろうか。確かに俺がヒーローのように母の病をさっと直せれば、さかしいだろう。だが医者になるというのは、名門の家の人がお金と時間を存分にかけてやっと慣れるというイメージもあった。

「まだわかんないかな」

俺は母の問いにはうまく答えられなかった。高校3年生になって進路を決める段階になっても、俺は迷っていた。確かに医者になりたいという気持ちはある。だが病気がちの母のこともある。それに家が裕福だとはとても思えない。

定期的に見舞いに来て塞ぎ込む俺を見た母は、静かに尋ねた。

「どうしたの?何か困ってるの?」
「いや、大丈夫」

俺は答えの出ない迷いの中で、そう返すしかできなかった。正直に言って、母のその言葉に俺は昔のことを思い出した。腹が減って仕方がないと言って小遣いをもらっていた日々。時は嘘をついたことを悔やしていた。

俺は観念して、迷っている現状を打ち明けた。母は優しく笑った。

「お金のことを心配してたのね。大丈夫よ。大学に行けるようにしっかりと勉強するのよ」
「でもお金が」
「大丈夫。お父さんが残してくれたお金、あなたのために取ってあるのよ。お母さんのことは大丈夫だから、気にせずに自分の人生を生きなさい」

母のその言葉に背中を押され、俺は無事に地元の大学の医学部に入学できた。地元に大学があったのは救いだった。母の見舞いをしながら、無事に卒業試験と国家試験に受かった。

そんな日々を胸に、今は大学病院で医師をしながら研究に没頭している。より多くの人を救いたい。それは自分がヒーローになりたいというよりも、純粋に苦しんでいる人たちの一助になりたいという思いが強い。医師の仕事もこなしながら研究にも没頭してる。正直体は辛かったが、目標を達成したいという思いが俺を支えていた。

「川上君、調子はどうだい?疲れているように見えるが」

すれ違い様に委員長に声をかけられた。

「大丈夫です。気にかけていただいてありがとうございます」
「医者の不養生という言葉もある。あまり無理をしないようにね」

委員長は優しい人だ。廊下などで会うたびに体調などの心配をしてくれた。周りの人もよく頑張っていると言ってくれていた。そんな中、同じ研究チームの一員である足立君だけは俺を認めてはくれなかった。

「なんで国立大卒の俺より、田舎の底辺大学のお前が目をかけられてるわけ?」

せっかく同期で配属されて同じ研究チームなのに、俺たちの仲は良くなかった。黙々と仕事をこなす俺とは反対に、彼は要領よく立ち回る。先輩や他の医師たちとよく飲みに行ったり、看護師や医師とランチに行ったりと、コミュニケーションに重きを置いているみたいだった。周囲にはいい顔をしているが、彼はやりたくないことはやらない。自分の実績に関係なさそうな人には冷たかった。

「あれでもう少し研究を手伝ってくれればな」

あのコミュニケーション能力は俺にはない。羨ましく思いながらも、手伝ってくれないという不満は常にあった。

ある日、俺が入る予定の手術が足立君に変更になった。

「なんで変更になったんですか?」

担当医からの答えで俺は悟った。

「ああ、足立君がどうしてもと言うからね。君は研究で大変なんだろう。彼はなかなかに気を配れる人間だ。いい同期を持ったなあ」

そう。足立君はあたかも俺を気遣うようなことを言いながら、俺が参加したかったオペを横取りしたんだ。確かに研究は忙しいが、俺だって実績は欲しい。俺はその日珍しく研究室に顔を出した足立君に問い詰めた。

「足立君、まさか本気で俺を心配してるのか?だとしたら余計なお世話だ。なぜ俺に相談もなしに仕事を横取りするんだよ」

足立君はふんと鼻を鳴らした。

「あのな、お前が実績を積んだって出世なんかできないんだよ。どうせ出世できないんなら、国立大卒の俺が変わってやったんだ。お前の分まで出世してやるから」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「なんだよ。俺はあの担当医と仲良くしてる。他にもいろんな医者と繋がりがあるんだ。そういう人間が出世していくんだ。俺は教授を目指してる。研究なんてしてる暇はないんだ。お前はちまちました無駄な作業が好きなんだろ。だったらそれでいいじゃないか」

彼がなぜそこまで出世にこだわるのかは分からない。俺たちはお互いに全く分かり合えなかった。

研究内容の整理と考察をするために、俺は夜遅くまで作業することが多かった。

「ふう。一息つくか」

休憩室の自販機で飲み物を買い、椅子に座ると、ほくして足立君も休憩室に入ってきた。

「お、川上じゃないか。お疲れ」
「ああ、お疲れ」
「全くなんで俺が雑用なんか下済みなんて俺にはいらないんだよな」
「雑用は下っぱだけの仕事じゃないだろう」
「ふん。そういうお前は何をやってんだよ。お前は雑用じゃないだろう」
「ああ、学会が近いからな。学会発表用の資料作成だよ。あと一息で終わるから、そろそろ戻るよ」
「は、底辺大卒は使えないなあ。こんな時間までかかるなんて」

足立君が手伝ってくれればこんなに大変じゃない。俺はそう思いながらも、その言葉を飲み込んで研究室に戻った。

気まぐれに足立君が研究室についてきた。もう特に手伝ってもらうこともないのだが。俺の研究の成果を見て、足立君は驚いていた。

「この研究、もしかしてお前が発案したのか?」
「ああ、そうだよ。昔からずっとこの病気について調べていたんだ。これで多くの人を救える。あと一息だ」

足立君は食い入るように分析の結果、考察を読んでいた。

次の日、その学会発表前の俺の研究が少し噂になっていた。論文になれば医学に大きく貢献できる発見。俺がずっと取り組んでいたことがやっと形になって見えてきたところだ。

「今日の診察はこれで終わりか。少し遅くなったな」

俺は足早に研究室に向かった。研究室の前に足立君がいた。

「あれ?足立君、今日は休みだろ?休みじゃないのか?」
「いや、色々とあってさ。なあ、あの研究なんだけど、俺の名前を最初にしてくれないかな」

珍しくというか初めてしらしく話したと思ったら、そのお願い事はとんでもないことだった。名前の順序は大切で、将来論文になる時までずっと影響するものだ。研究に一番貢献した人の名前が最初に来る。それを碌に参加もしてない君の名前にするなんて、到底受け入れられるわけがない。

「そんなの無理だよ。俺がどれだけ心血を注いだと思ってるんだよ」
「分かってるよ。頼む。今回だけでいい。田舎の母さんも俺の研究が論文になるのを楽しみにしてんだよ。それに国立大卒の俺の方が注目度高いだろう」

そんないくらなんでも自分勝手だろう。俺も一歩も引く気はなかった。これは俺が始めた研究だ。病に苦しむ人たちのことを思い、必死になってやってきたこと。それを足立君に横取りされるなんて真っ平ごめんだ。

「騒がしいな。2人ともどうしたんだ?」

不意にした声に振り返ると、委員長がこちらに向かって歩いてくる。

「お疲れ様です」

俺たちは頭を下げる。

「何を揉めているんだね。説明してみなさい」
「実は研究のことで」
「そうなんです」

足立君が俺の声に被せてきた。

「研究の筆頭は、一番研究に貢献した人の名前が書かれるんですよね。確かに川上か発案したかもしれませんが、一番貢献しているのは俺です」

それを発案者だからと無理やり。碌に研究に参加もしない足立君がありもしないことをまくし立てた。

「そうなのか、川上君」
「いえ、そんなことは」

委員長の問いかけに俺は否定した。

「いい加減なことを言うなよ。国立大卒の俺の指示がなければ、研究成果が上がるわけないだろう」

生きり立つ足立君をなめるように、委員長は言う。

「確かに一番貢献しているというのなら、発案者じゃなくてもいい。最近は貪欲にオペや手術をこなしていたが、研究も主導していたとはね。大したものだ。まあとにかく、これ以上内で騒がないように」

悪けに取られる俺をよそに、委員長はそのまま離れていった。

「おい、足立君、どういうことだよ」
「聞いたか?さっきの委員長の言葉。お前が主導じゃない。底辺大学卒の研究成果なんて信用できるかよ。やっぱり俺の方がふさわしいってことだ」

なんてことだ。せっかく長年頑張ってきた研究成果が、こんな形で人に取られるなんて。

そして俺は慌ただしい日々を終え、明後日の学会を迎えることになる。資料の名前の順番は、彼が一番上に来ている。

今回の学会は小規模だが、より専門性が高い医師たちが参加していた。委員長はもちろん、海外から来られている医師もいる。初めての経験に俺は緊張していた。

数の発表の後、ついに俺たちの番がやってきた。俺の名前が呼ばれ、立ち上がろうとしたが、足立君がそれを制した。

「俺がこの研究のトップだからな。急な変更だったから、司会に伝わってなかったんだろう。俺が出るから」
「おいおい、待てよ。質疑もあるし、俺が出た方がいいよ。ほとんど参加してないじゃないか」
「全く何度も言ってるだろう。底辺大学卒と国立大卒。どっちが偉いか分かるか?もうこの研究は俺のものだ。それに俺はお前と違って優秀なんだ。研究内容は頭に入ってるし、質疑応答を予想した資料も読んだ。楽勝だ」

せめて質疑応答ぐらいはちゃんとしてほしい。この研究を台無しにしたくはない。不安になる俺を置いて、彼は壇上へと向かっていった。

研究の概要、資料の駐などの要点を説明を終え、質疑に入った。最初にマイクを持ったのは委員長だった。

「足立君、ドイツから来られている方々のために、ドイツ語でも同じ説明をしてくれるかな?」
「え?ドイツ語で?」

足立君は委員長の言葉に動揺した。

「引用してる故は役がありますし、そちらを参考にしていただければ。それに医学の学会ですから」

委員長はため息をついた。

「おかしいな。君が主導であれば、ドイツ語が話せないと辻褄が合わない。この研究の第一任者はドイツ人だよ。最先端の内容は常にドイツ語で公開されている。この研究にも普段にその内容が入っているが」
「それは」

足立君はしどろもどろするばかりで、会を進行させようとしない。

「これじゃあいかんな。本来の者である川上君に変わった方がいい。君は下がりなさい。川上君、壇上へ」

俺は名前を呼ばれてほっとした。学会での質疑応答は、この研究を論文にしていくために重要な要素だ。ドイツから名だたる医師たちが来ていて、言葉を交わせるチャンスだ。ここから俺はしばらく日本語を忘れたようにドイツ語で話した。

「大変失礼いたしました。私が今回の研究を率いています。川上です。よろしくお願いします。では改めて説明をさせていただきます」

俺が携わってきたのは母の病気の研究だ。母の病気を完治させる大きなきっかけになれば。俺の胸の中にはやはりその思いはあった。

1つの症状から多様な症状を併発してしまうという特徴がある。この病気は医師としては手ごわいものだった。俺が学生時代に母の病気を調べようとした時、日本ではほとんど研究されていなかった。調べてみると海外の、特にドイツの文献ばかり。ドイツでは盛んに研究されているようだった。

俺はドイツ語を独学することを余儀なくされた。当時好きだったゲームをやめ、辞書と学術書を読み漁る日々。お金は随分とかかったが、その病気だけに関して言えば、俺の知識は医師以上だった。

俺も母の治療の助けになれる。そう思って当時の担当医に話した。

「君の思いはよくわかった。だが、今の我々の技術では完全には直せないのが現状なんだ。君の努力は素晴らしい。医師になってしっかりと研究しなさい。この病に苦しむ世界の人々を君が直すんだ」

当時の担当医の言葉で、俺は医師を目指すようになった。医師免許を取得した後、俺は当時の担当医さんと働くことを希望した。彼は大学病院に移籍し、委員長を務めているということがわかる。そして自分の夢のために都会の大学病院に出てきたんだ。

「おい、お前ドイツ語が話せるんだな。じゃあ通訳にてろ。底辺大卒が出し張ったら失礼だろうが」

壇上から降りようとしない。足立君に説明を遮られた。

「足立君、もうやめなさい。川上君はもう5年以上もこの病気を研究しているんだ。その彼の思いがわからんのか」
「5年。そんなまさか、まだ大学生じゃないですか?委員長、この研究は今後とも俺が主導すべきです」

彼のキャリアアップへのこだわりは異常だ。まさか委員長にも意見するなんて。

「足立君、もうやめてくれ。大事な学会の場なんだ。俺だってこの研究には並々ならぬ思い入れがある」
「お前がしたって無駄だろう」
「無駄じゃない。これが母の病気を直す第一歩なんだ」
「母のってお前?」
「頼むから壇上から降りてくれ。貴重な時間なんだ」

俺が今丁寧にお願いすると、足立君はやっと壇上から降りてくれた。

学会は無事に終わり、研究については有意義な見識を聞いたり指摘を受けたりした。やはり本場の名医は違う。包括的で鋭い。この熱が覚めないうちにと足早に帰ろうとすると、俺と足立君は委員長に呼び止められた。

「主導は川上君。それで間違いないな」

そう問い詰められる。足立君ははいともいえとも言わずに黙っていた。

「君の技術や頭の良さは買っていたがね。なぜ川上君を落とし入れるような噂を流したりしたんだ?」
「別に俺は落とし入れようだなんて」
「いや、他の医師から聞いている。あいつは研究も遅いから、俺が主導者を変わってあげたんですよ。助かる助かるって頼られっぱなしで困りますよ」
「そんなことを言い回っていたそうじゃないか。その研究にはほとんど参加していない。それであの男にだなんて、どういう神経をしてるんだね」
「う、それは」
「そのような人間がこの病院にいては迷惑だ。それに自分の実力に過大評価して遊び回っているそうじゃないか。医者を忘れた医師もこの病院には必要ない。無理に人を誘ったり、古い時代の根回しのようなもので出世できたりはしないんだよ」

委員長のお説教に、足立君はぐうの根も出ないようだった。結局数日のうちに、足立君は病院に出勤しなくなった。そしてそのまま病院をやめてしまった。嘘つきのレッテルを貼られ、居づらくなったんだろう。

俺は4年なく研究を続け、やっと論文を完成させた。この論文は世界中の人に読まれ、この研究への多くのフィードバックが得られる。母の病気を完治させる大きな一歩となった。来日していたドイツの名医たちも協力してくれることになった。ドイツに来いと言われるのを断るのには苦労したが、俺の論文は世界でも評価され、母の病気の治療法は確立した。母は長年の付き合いだった病と離れ、地元で元気にしている。

この病気の治療を確立させた第一任者と呼ばれ、いろんな病院に呼ばれることも増えた。

こんな忙しい日々の中、俺に一人の来客があった。

「川上先生、足立さんという方がお見えですが」

聞き覚えがないな。患者ではないようだけど。足立って、もしかして。

俺が対応に行くと、花束を持ったおばあさんがいた。足立君の言っていた母か。その予想は的中した。足立君のお母さんは丁寧にお詫びをしながら、俺に花束を手渡した。そして足立君の近況を話してくれた。

彼は生まれながら優秀で、自慢の息子だったそうだ。頭が非常に良く、医者、弁護士、大学教授といろんな道の中で、自ら医師を選び目指したそうだ。地元の人たちは戦望の眼差しを向けるも、中には嫉妬する人たちもいたそうだ。彼はそんなプレッシャーの中、必死に勉強して医師になったと。

「今にして思うと、私たちが息子をあんな風にさせてしまったんだと思うんです。賢介は立派だ、優秀だって褒めるたびに、賢介は生真面目をなくしていたのかもしれません」

そう言って、足立の母親は涙を流した。足立君なりに有名になって周囲を認めさせる、そんな気持ちや焦りがあったのだろう。

「賢介のしたことは決して許されることではありません。川上先生にはご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません」
「いえ、そんな。あの、足立君は今何をしているんですか?」

足立君の母親によると、彼は地元の小さな病院に務めているらしい。腕が良く評判のいい名医だと言われているそうだ。そう言われるようになって、本人の口から俺のことを聞いた。そう、恥ずかしいことをしたと。

いつか彼が言っていた、母のために論文を発表したいと。あれは本心だったのか。最初からお互いに心を開いていれば、もしかしたら違う未来もあったのかもしれない。

人は嘘をついてしまう生き物だ。わざとだったり、ずるそうしてしまうことがある。だがそれは結果的に多くの人を傷つけてしまう。自分がどれだけ誠実でいられるか、俺は自分自身に問いかけ、今日も誠実に生きていこうと前を向く。

こんな日に遅刻だなんて、何を考えているんだ。結婚式の日、式場に向かう途中で体調を崩した妊婦を病院へ運んだ。その結果、主役の一人である俺は遅刻してしまったのだ。

遅れて式を始めようとしていた俺たちの元へ、怒鳴り散らしながら向かってくる花嫁の父親。

「お父さん、申し訳ございません。途中で体調の悪い妊婦さんがいまして」
「ふん。見えた。嘘。万が一本当だとしても、娘よりもどこの誰かも知らない女を優先したということだ。我々に恥をかかせて」

ランの父親は俺の腕を掴んで、式場に引っ張っていこうとする。スタッフが止めようとしても振り払ってしまう。

「ちょっとお父さん、やめて。何するの?」
「やはりこいつはろくな人間じゃない。結婚式は中止だ。参列者一人一人に土下座して回れ」

参列者が着席していた式場に現れたランの父親と、引きずられている俺を見て、みんなが目を丸くする。俺を風美さんの前に押し出すと、早く土下座して謝れとなった。

俺が言うことを聞かなければ、場が収まりそうにない。なんでこんなことに?いよいよ俺が膝をつこうとすると、

「だ、大変です」

と義父にあるニュースが告げられる。義父は顔を真っ青にさせて俺を見つめた。

「お、お前、まさか」

岐阜の転落人生が、まさにここから始まったのだ。

俺の名前は千里勇気、33歳。旅行記事をメインとした出版社に務めているサラリーマンだ。競争が激しい出版業界だが、大手ではないこともあり、時期によっては穏やかな職場だ。そんなところで働いている俺自身は、特段仕事ができるわけでも、引いてた才能があるわけでもない。ごくごく普通の人間。

「頼まれていた資料、できました」

先輩に出来たてのインタビューを提出すると、首をかしげられた。

「千里君。このインタビュー、現地でお店を開いている人に聞くためのものよね」
「あ、はい。そのつもりで書きました」
「おすすめのお店はって聞いたら、自分の店って答えるんじゃないかしら」
「あ、しまった。その通りだ。よくあるインタビュー内容のレパートリーから安易にピックアップするんじゃなかった。すみません、書き直します」
「ふふ。これはこれでいいわ。自分のお店の他にもう1つ聞けば、現地の人にとっての隠れスポットが見つかるかも」

笑いをこらえながら俺の提案を受け入れてくれる先輩。結果オーライだったが、もっと気をつけないと。

俺たちの話を聞いていたのか、休憩時間に同僚の話が聞こえてしまった。

「さっきの千里君のおすすめのお店ってインタビュー、笑っちゃった」
「私も。千里君ってなんか抜けてるよね」
「わかる。こうぼんやりしてるって言うか」
「弟みたいでなんか気にかけちゃう」

どうやら悪口ではないらしい。ほっとしたのも束の間、部長の萩さんに呼び出された。何かしでかしてしまったのだろうかと、恐る恐る向かう。萩さんは俺と目が合うとにこやかな表情で手招きをした。

「千里君のおかげで、クライアントへの資料提出が早かったそうだね。担当の方からお褒めの言葉を頂いたよ」
「いえ、そんな。俺は特に」
「チームの人に聞いたよ。みんなの作業スケジュールを管理してくれたり、書類チェックを全員分やってくれたって。君自身の仕事もあるのに、フォローしてくれたんだろう」
「少し余裕があったので。大したことでは」
「でも、そういったこまごまとした仕事がとても助かることは、自分でもよくわかるだろう。ああ、そうだ。雑誌のホームページの更新もやってくれたんだよね。誰も見ていないと思ったら大間違いだ。君の頑張りはみんな知ってるよ」
「あ、ありがとうございます」

ここまで褒められては、謙遜することが逆に失礼だと思った。素直にお辞儀をし、萩さんからの今後の応援の言葉ももらった。よくしてくれる同僚や先輩の負担を減らすためにと、押し付けがましくない程度にやったつもりだった。だけどやはり、見てくれている人がいるのは嬉しい。

「そうだ。明日のバーベキューでも、千里を紹介させてくれないか?君は人付き合いがいいから、きっと先方も気に入ってくれるだろう」

そう、明日はいくつかの出版社と共同でバーベキューをすることになっている。名刺交換をしたり、新たなコネクションを築いたり。もちろん、うまい肉が食べられることもあって、俺は楽しみにしている。

翌日、バーベキュー会場に到着した俺は驚いた。とにかく規模が大きい。パーティーと名打ってもいいかもしれないと思った。大手出版社が主催とあって、とにかく豪華。セルフサービスの飲み物も種類が多く、これだけでも満腹になってしまいそうだ。同僚たちと合流し、食事を楽しみつつ、他社の記者や編集者、印刷会社の人も紹介してもらう。念には念を入れて、名刺をあり余るほど持ってきていてよかった。

営業活動を一時休憩し、各々好きに食事や歓談している中、ふとある女性が気になった。割箸の袋や、もう使われないであろう紙をまとめてゴミ箱へ持っていくポニーテールの女性。今度はドリンクサービス付近が気になったのか、近くのテーブルを濡らし、机を拭いていた。時々誰かと話しながら食事をしているので、会場のスタッフではなさそうだ。あの一人で動き回っている姿が気になり、たまらず声をかけてしまった。

「え?あ、その、自分は桜トラベル出版の千里と申します」

すると女性はポケットから名刺を取り出し、渡してくれた。その様子を見て、俺も慌てて名刺を引っ張り出す。

「ご挨拶ありがとうございます。アスナビューティ出版社の風美と申します」

薄桃色の可愛らしい名刺には、編集部 風美ランと書いてある。アスナビューティ出版社とは、女性向けのファッション雑誌やメイク雑誌を主に取り扱っている会社だ。これまで関わりの少ない業種の名刺を手に入れ、緊張してしまう。いや、そうじゃない。俺は彼女と名刺交換をするために近づいたわけではないのだ。

「アスナビューティ出版社さんということは、主催ではないですよね。お一人でお掃除されていたのが気になって」
「ああ、すみません。お気を使わせてしまって。どうしても散らかっていると片付けずにはいられなくて」

相当な綺麗好きなのか、育ちがいいのかもしれない。だとしても、こんな広い会場で増え続ける汚れに対応するのは大変だろう。

「そうだとしても、すごいですよね。気遣いと言いますか。皆さんとお話ししたり休憩されたりしたいでしょ?誰も見ていないところでそういう気配りができる人って、とても尊敬します」
「そう言ってくださって嬉しいです。でも私が好きでやっているだけなんですよ」
「その気持ちわかりますよ。俺もこういうの気になっちゃうタイプなんです。今ちょうど腹も膨れて、少し体を動かしたいなと思っていたところなので、俺もお手伝いしましょうか」
「ではお言葉に甘えて」

俺たちは自社の専門誌について話し、時折り肉をつまみながら会場を片付けて回った。女性用専門誌には知見がなかったので、風美さんの話はとても興味深い。一方の風美さんも、父親が旅行会社で働いているらしく、俺の会社の話を熱心に聞いてくれた。

お開きの時間になり、二次会の案内をされる。俺と風美さんはまだ話したいと、共に二次会に向かった。居酒屋だったので、食べ終わった後の食器は店員さんが下げてくれる。そのおかげで手持ちぶさたになったと、俺たちは笑い合っていた。

次の出社日、俺たちのことは社内で有名になっていた。俺と他社の美人が仲良く一緒にいたと、社員たちが目撃していたらしい。知り合いなのか、何でもしたのか。社内では噂や憶測で持ち切りだった。そして出社した途端、興味心身の女性社員たちに問い詰められたのである。

「そんなんじゃないですよ。ただ気になって」
「気になったって、一目惚れってこと?」
「そういう意味じゃなくて、会場の片付けを善意でされていたので、つい手伝わずにはいられず」
「なるほど。千里君らしいわ。ナパしていることに自分で気づいていないなんて」
「で、それから彼女とはどうなの?」
「どうって?」

二次会の後、風美さんとはプライベートの連絡先も交換した。今日はありがとうございましたという風美さんの連絡に返事をして、それっきりだ。

「それっきりって信じられない。せっかく向こうから連絡くれたんだから、ちゃんと話続けないと」
「でもあれは社会的な付き合いだっただけで」
「本当にそれでいいの?」
「いいも何も。その風美さんとはこれっきりなんだよ」
「そうそう。千里君が何もしない限りね」

これっきり、仕事の付き合いだからそんなものだろう。だけど風美さんとこれっきりなのは嫌かもしれない。俺は仕事帰り、風美さんのプライベートの連絡先にメッセージを送った。また色々お話しさせてもらってもいいですか、と。

それから半月後、俺と風美さんは頻繁に食事に行くようになった。近況報告や、映画鑑賞が趣味という共通点。そんな話をしているうちに、話題の映画を互いに見ていないことが分かり、思い切って次のお休みの日に一緒にどうですかと誘ったのである。そのことを社内で話すと、女性社員たちにこぞって褒められた。それから何度かデートを繰り返し、いつの間にか恋人と呼べる関係になっていった。

1年が経った頃、俺は彼女のことをランと呼び、ランも俺をユキ君と呼んでくれるようになっていた。プロポーズをしたのは出会ってから2年後、あのバーベキューをした会場近くのレストランで行った。ランも俺も互いに心を許し合い、共に生きたいと思えるようになっていたのだ。

プロポーズから1ヶ月後、俺はランの実家へ挨拶をすることになった。一人暮らしの彼女の家には何度も行ったが、実家は初めてである。ランに連れられてタクシーを降りた俺は、自分の目を疑った。目の前には、どこかの寺か料亭かと思わせるような、日本らしい重厚感のある豪邸。ランの父親が旅行会社で働いていることは聞いていたが、社長であると知ったのはつい最近の話だ。

恐る恐る、しかし情けなく見えないように正面の門をくぐり、待っていたお手伝いさんの案内で中庭を抜け、応接間に通される。現れたランの両親に挨拶をし、名刺を出した。

「ランさんとお付き合いしております、千里勇気と申します」

俺の名刺を見たランの父親は眉を潜めた。

「桜トラベル出版。うちの下受けじゃないか」

え、うちの元受けに旅行会社なんてあっただろうか。一社員の俺が知らないだけかと思っていた。俺はランの父親から名刺を受け取り、首をひねる。エメラルド旅行会社。そうだ。

「随分世話をしてやっているだろう」

いろんな旅行会社との付き合いはあるが、旅行会社の提案でプランを組んで雑誌に載せ、その雑誌内で旅行会社の宣伝をする。いわば協力会社、ビジネスパートナーの関係である。下受けとは意味が違うのだ。

「まさかランの相手が下受け会社の社員だとは」

彼は俺たちのことを下受けと誤解しているらしい。社長はそれぞれの会社との契約を把握していないのかもしれない。誤解を解こうとしたが、ここで仕事の話をするのも良くないと思い、笑いにとどめる。そんな俺に、ランの父親はこう言った。

「下受けの社員との結婚なんて許せるわけがないだろう」
「そんな」
「お父さん、何言ってるのよ。私が誰と結婚しようが私の自由でしょう。ユキ君はいい人なのに、会社で決めるなんて」
「ダメなものはダメだ。第一、桜トラベル出版なんて、うちの業績にも響かないような使えない会社じゃないか。風美とエメラルド旅行会社の品が問われるだろう」
「そ、そんなことありません。昨年度の旅行雑誌では全国での売上1位を達成していますし、他の旅行会社さんにもひいきにさせていただいています」

俺のことを何と言われても構わないが、会社のことを馬鹿にされては黙っていられない。みんな優しくて仕事に一生懸命で、売上1位の時だってお互いを褒め合って打ち上げをしたほどだ。これまでのみんなの努力を否定されているようで、どうにも口を出さずにはいられなかった。

そんな俺の反論が気に食わなかったのか、ランの父親はさらに不快そうに顔を歪めた。

「だから何なんだ?下受けの分際で偉そうなことを言うもんじゃない。そもそも弊社と恩者はビジネスパートナーで、まだ口応えをする気か」

ランの父親は立ち上がり、母親が止めるのも無視して怒鳴った。

「さっさと帰れ。お前の顔を見ていると不愉快だ」

もうまともに話ができる状態でもなく、俺は一旦引き上げることにした。

その日の夜、ランに謝られた。

「お父さん、プライドが高くて。昔から私には身分の高い相手と結婚するようになんて言ってくるくらいなの。全然理解できなくて、そのうち落ち着くだろうと思って放っておいたんだけど、あんなにひどいとは思わなかった。本当にごめんなさい」
「ランが悪いんじゃないよ。結婚報告なのに、俺も余計なことを」
「自分の大事なものをあんな風に言われたら、誰だって傷つくわよ。ユキ君は悪くないわ。私、しばらくお父さんを説得するから、少し時間をちょうだい」
「うん。ありがとう」

結婚の話が一旦保留とは別に、新たな問題が生じた。エメラルド旅行会社からの資料が一向に届かない。催促しても生返事。姉妹には値上げ交渉までしてきたのだ。向こうの不手際で対応が遅れているにも関わらず、契約の更新料はそちら持ちでなんて言ってきて、経理部が対応に追われている。突然むちゃくちゃな態度を取ってきた原因は、きっと俺だ。

俺は萩さんに経緯を説明した。最初は「そんな子供じゃないんだから、一個人の機嫌を損ねたくらいでどうにもならないよ」と言ってくれたが、次第に「千里という社員は関わらせるな」と連絡が来て、いよいよ俺は責任を感じていた。もしもランの父親が他の旅行会社や取引先にうちの悪い噂でも流していたら、嫌がらせがどこまで広がるか分からず、俺は恐怖した。この会社が俺のせいで窮地に立たされるなんて、あってはいけない。

俺は萩さんに相談することにした。自分がいなくなった方が会社のためなんじゃないか、と。すると萩さんは珍しく怒った。

「なんてことを言うんだ。悪いのは、社長という立場のくせに私情を仕事に持ち込む方だろう。君は何も間違っていない。だからそんなことを言うんじゃない。いざという時は上が責任を取るもんだ。何も気にしなくていい。婚約者の人とも、これからも仲良くするんだぞ」
「ありがとうございます」
「ほら、今日は三山さんとこの営業だろ?気持ち切り替えて、行っておいで」
「はい、そうします。もしこの契約が取れたら10億の利益だなんて課長に言われて、ちょっと緊張ですけど」
「千里君にだから任せられる案件なんだよ。それくらいはうちにとって大切なメンバーなんだ。自信を持ってくれ」
「あ、はい」

本当にいい人たちに恵まれた。萩さんだけでなく、誰も俺を咎めないどころか、心配してくれている。だからこそ、俺はうちの会社を馬鹿にされたことが悔しかった。

その日、ランから連絡が来た。母親と説得を繰り返し、無理やり俺たちの結婚を納得させたそうだ。電話口のランは疲れた声をしていたから、相当苦労したのだろう。申し訳なく思いながらも、礼を言った。歓迎されていないことは分かっているが、これは2人の問題だと自分に言い聞かせることにした。

そして無事に結婚式当日を迎えた。式は12時からで、新郎新婦は9時に現地集合だ。ランに今から家を出ると連絡をして、駅へと向かう。なんとかこの日を迎えることができた。来賓はさすが社長令嬢なだけあって、ものすごい人数だった。これでも絞ったのと苦笑していたランの顔を見たのが昨日のことのようだ。本当にあっという間の準備だった。ランの母親が親族に連絡を取ってくれたり、とても世話になった。彼女がいなければどうなっていたか。会社の人たちもずっと俺を応援してくれた。結婚式の招待状を渡した時には、自分のことのように喜んでくれたな。

そんな日々を思い返し、予定より早い電車に乗れそうだと駅を目の前にしたところで、前を歩いていた妊婦さんが突然うずくまった。

「え、あの、大丈夫ですか?」

駆け寄ると、額に汗をかき苦しそうにしている。これでは歩けないだろう。駅前のロータリーにタクシーが止まっているのが見えたので、慌ててそのタクシーを捕まえ、彼女を乗せる。苦しそうにしながらも、病院の診察券を渡してくれた。その病院の名前を運転手に告げ、俺は彼女の手を取り励まし続けた。

病院に着くと、担当の医師がすぐに彼女を見てくれた。疲労が溜まっていたのか、突然の発作のようなものを起こしていたらしい。医師には休むようにと言われている彼女は、行くか顔色が良くなっている。念のため今日は入院するらしい。

「あの、本当にありがとうございました。あなたが連れてきてくださらなかったら、どうなっていたことか」
「いえいえ、無事で何よりです」
「よければお名前を伺ってもいいですか?改めてお礼をさせてください」

ここまでのことではないと思ったが、申し出を無下にもできず、名刺を渡して病院を出た。その時の時刻は12時30分を過ぎていた。ランから不在着信と、俺を心配するメッセージが届いている。タクシーに飛び乗り、ランに電話をかけ、ことの経緯を説明した。泣き出しそうなランは、本当に心配してくれたのだろう。ユキ君もその妊婦さんも無事で良かったと言ってくれた。

申し訳ない思いで式場につき、急いで着替えたが、支度ができた頃にはすでに14時を回っていた。式場のスタッフから連絡をもらったのか、みんなは俺を温かく迎えようとしてくれたが、そうはいかない人物が一人いた。ランの父親だ。

「こんな日に遅刻だなんて、何を考えているんだ」

遅れて式を始めようとしていた俺たちの元へ、怒鳴り散らしながら向かってくる。

「お父さん、申し訳ございません。途中で体調の悪い妊婦さんがいまして」
「ふん。見えた。嘘。万が一本当だとしても、娘よりもどこの誰かも知らない女を優先したということだ。我々に恥をかかせて」

ランの父親は俺の腕を掴んで、式場に引っ張っていこうとする。スタッフが止めようとしても振り払ってしまう。

「ちょっとお父さん、やめて。何するの?」
「やはりこいつはろくな人間じゃない。結婚式は中止だ。参列者一人一人に土下座して回れ」

参列者が着席していた式場に現れたランの父親と、引きずられている俺を見て、みんなが目を丸くする。俺を風美さんの前に押し出すと、早く土下座して謝れとなった。

どうしたらいい?土下座で彼の気が収まるのか?いや、きっとその次にも何か要求してくるつもりだ。でも俺が言うことを聞かなければ、場が収まりそうにない。人生最高の日が、こんな最悪の日になってしまうだなんて。

俺はもうどうすることもできずに、やっとのことで声を振り絞った。

「こ、この度は申し訳ございませんでした」

諦めて膝をつこうとした時、それを制する人が現れた。

「千里君。そんなことをしなくていい。立ちなさい」

萩さんだった。俺の隣に立ち、腕を引っ張って立たせてくれる。

「何の真似だ」
「不要な侮辱はおやめください。彼は今日の主役です」
「お前、こいつの上司だろ。下受けの分際で生意気なことを」
「弊社は弊社のビジネスパートナーです。下受けではありませんし、もしそうだとしても、こんな態度を取られる筋合いはございません」
「あまり余計なことを言わない方がいいぞ。お前のところなんて、うちが圧力をかければすぐに」

ランの父親がすっと前に出て、一発となると、その時突然ランの父親の隣に若い男性が現れた。

「社長」

何やら急いでいる様子で、こっそりと耳打ちをしている。この状況で間に入ってこれるということは、秘書か何かなのだろう。

「何?」

その話を聞いた彼は、顔を青ざめさせる。

「バカなことを言うもんじゃない」
「そんなことが。私にも今連絡が来たんです」

こちらを師匠が見せたスマートフォンの画面を、食い入るように見ている。

「三山アーズが桜トラベル出版と大規模契約だと、ついに出したのか」

ランの父親の言葉が会場に響き渡る。俺と萩さんは顔を見合わせた。三山ツアーズは今や業界最大手の旅行会社だ。国内国外問わず多種多様なプランを提供している。エメラルド旅行会社とはライバル関係に当たるのだが、今までうちとの契約はなく、俺が最近営業をかけていた会社だった。

「どうやらエメラルド旅行会社さんとの取引が中止になっても、問題ないようですね」

萩さんはそう言って、確認のためか会社に電話をかけた。しばらくして切った後、俺を見てにやにや笑う。

「千里君、ここに来る途中、妊婦さんを助けたんだよね」
「はい」
「その人、三山の社長らしいよ」
「え?」
「先ほど会社に向こうの社長から、時々に礼を言ってくれたらしい。元々千里君が営業をかけていたから、名前は知っていたんだって。あと一歩の決め手で、うちとの契約を迷っていたらしい。それで君が彼女を助けたことで人柄を知って、是非一緒に仕事をとのことだ」

そうだ。そんなことか。悪けに取られている俺をそのままには、萩さんはランの父親と対峙する。

「そういうわけで、もう弊社と縁を切ろうと、痛くも痒くもありません。これ以上彼への嫌がらせは慎しんでいただきたい」
「いいのか?このままだと、お前の部下は結婚できないんだぞ」
「それとこれとは関係ないでしょう」
「いや、こんな無能な会社の社員が風美と関係を持つなんて、私が許さない。どうだ?困るだろう」
「いい加減にしてよ、お父さん」

ウェディングドレス姿のランが、彼の前に立つ。

「私はお父さんの威厳を保つための道具じゃないわ」
「そんなこと言った覚えはない」
「今、私を交渉に使おうとしたじゃない」
「それは」
「分かってるわ。お父さんが社長の立場のせいで、ろくな人が寄ってきて、何度も裏切られてきていることも。慎重になるのも当然だと思う。でもね」

ランは俺の腕に抱きついた。

「彼は唯一、私をそういう立場で見なかった人よ。お父さんが嫌っている人とは違う。私が一人で片付けをしていた時に、手伝いましょうかって声をかけてくれた優しい人よ。私より掃除だって上手なんだから」
「ラン、私たちに近づく人がみんな下心を持っているわけじゃないことくらい、分かるでしょ。もう子供みたいなわがままはやめて」
「親になんてこと?」
「お父さん、いい加減にしてください」

ランの母親が鋭い目つきで睨む。いよいよ居場所がなくなったのか、会場を出ていってしまった。

その後、俺とランはみんなに迷惑をかけたことを謝罪し、結婚式をやり直した。段取りはめちゃくちゃになったが、人の絆を再確認できた。いい式だったと思う。

後日、ランの父親は、うちとの取引を市場で失ったことや、他にも訪れていた参列者たちにことごとく契約を切られ、その責任を取るために社長職を解任された。加えて、彼の傲慢な態度にほとほと呆れていたランの母親も、もう付き合いきれないと離婚届を突きつけてきたらしい。さすがに堪えたらしいランは、2人の仲を取り持つために色々と説得を試みているのだとか。あんな親でも親なのだと、毛なげに母親を説得したり、2人で出かける機会を作っているらしい。道具にしようとしていた娘からの無償の優しさで、彼女の父親が少しは改心してくれることを願うばかりだ。

後日、三山ツアーズの社長である泉さんが、生まれたての赤ちゃんを連れてお礼を言いに来てくれた。せ、間もない赤ちゃんはとても可愛くて、俺もいつかと夢見たほどだ。そして三山ツアーズとの大口契約を達成した俺は、昇進して課長になった。徐々に人を管理する仕事を行わなければいけない不安について、萩さんに相談した。

「そうやって不安に思うのがいいことだよ。自分にならできると、根拠もないのに思い込むよりずっといい。失敗して当然なんだから、どうすればいい?何をしてはいけないを学んでいく姿勢が大事だ」
「そうですね。萩さん、本当にありがとうございます。何だい改まって。結婚式の日も俺をかばってくれて、もうずっと萩さんにはお世話になってます。萩さんは俺の憧れです」
「それは嬉しいな。じゃあ君も、そんな風に言ってもらえるような上司になってくれ」
「はい」

俺もよく、千里はいいやつだと言ってもらえるが、自分にそのつもりはない。無償の優しさは、きっと萩さんを見習って身についたものだ。俺が彼に憧れたように、いつか俺もそんな人になりたい。そしてその人がまた誰かに憧れられる人になれば、世界はとても優しいものになるんじゃないだろうか。そんな大それた夢があるわけではないが、せめて自分に関わった人だけでも、そんな気持ちになれたらいいなと思うのだった。

「ちょ、ちょっと、今私の胸触ったでしょ?」
「え?」

目の前で倒れそうになった女性を支えると、月行された。触っただろうか。自覚はないが、正面から抱き止めたから触ってしまったかもしれない。

「えっと、君が倒れたから」
「やっぱり触ったのね、この変態」

俺を大声でののしりながら、彼女は泣き出してしまう。困り果てていると、再び彼女はふらつき、倒れそうになる。今度は慎重に支える。すると彼女の腹から、ぐーという小さな音が聞こえた。

なんだ、お腹が空いただけか。俺は安心して後ろの建物を指さした。

「俺、見ての通りラーメン屋やってるんで、よかったら食べていく?」

この提案が、俺と彼女の人生や価値観を大きく変えることになるなんて、今は思いもしなかった。

俺の名前は工藤正斗。れないラーメン屋を経営している。元々祖父が切り盛りしていた店を父が受け継いだ。あと10年は父の台だと思っていたのだが、父が足を悪くしたことで、予定より早く俺に引き継がれたのだ。祖父の台から変わらぬ味を提供できている自信はあるが、もう1年ほど赤字が続いている。これまでの蓄えで何とかやっていけているが、潰れるのも時間の問題だろう。自慢の味を引き継いだが、この店も味も時代にそぐわないのかもしれない。近くの繁華街には全国チェーンのラーメン店が立ち並んでいる。個人経営の店は地元の常連さんだけで成り立っていたが、その常連さんたちも年を取ったり引っ越したり、新しい店に興味を持ってしまった。今ではランチとディナータイムに一瞬でも満席になれば御の字である。

一人での経営には無理があるのだろうかとも考えたが、それは言い訳だ。だって時間は余るほどある。自分で店のレイアウトを変えたり、新メニューを開発することだってできるのだ。なのに今の俺が何もしないのは、すでに手を尽くしたから。数年前に経営が傾きかけた頃から、あれこれと試行錯誤して顧客獲得のために努力したつもりだった。なのに結果は変わらず。もうどうしていいかわからず、ただ廃れていく店の中で、その時を待っていた。

それでも開店時刻の30分前に店のシャッターを開ける。これは子供の頃から父親の店を手伝っていた時に着いた習慣だ。朝の空気を取り入れ、店の前を箒で掃く。いつもと同じ朝かと思いきや、見慣れないもの。いや、人が目に飛び込んだ。女性が地面に膝をついて倒れていたのだ。

「え、あの、大丈夫ですか?」

手を伸ばすと、そのまま力を失う女性。地面に衝突するギリギリのところで受け止めたが、その顔は真っ青だ。どうしよう。救急車を呼ばないと。女性を抱えたままポケットからスマホを取り出そうとした時、女性が目を覚ました。どうやら一瞬だけ気を失っていただけのようだ。それでも異常事態に変わりはない。俺は女性を支え、再び声をかけた。

「もしもし。大丈夫ですか?救急車を呼びましょうか?」
「え?」

ぼんやりと地面を見つめていた女性は、次第に顔を上げ、支えている俺の腕を見た。

「ちょっと」

先ほどまでの力の抜けた様子はどこへやら。俺を押しのけ、立ち上がった。

「今、私の胸触ったでしょう」
「え、触っただろうか。自覚はないが、正面から抱き止めたから触ってしまったかもしれない。えっと、君が倒れたから」
「やっぱり触ったのね、この変態」

俺を大声でののしりながら、彼女は泣き出してしまう。どうしよう。困り果てていると、再び彼女はふらつき、倒れそうになる。今度は慎重に支えた。すると彼女の腹から、ぐーという小さな音が聞こえる。

まさか、彼女がふらついている理由って、お腹が空いたのか?

「あ、その」

さっきの威勢はどこへやら、真っ赤になって俯いてしまう。焦りや戸惑いが伝わってきて、つい笑ってしまった。

「俺、見ての通りラーメン屋やってるんで、よかったら食べていく?」
「ええ、でも私、これくらいしか持ってなくて」

女性がポケットから取り出したのは10円玉。俺はさらに気が抜けた。

「いらないよ、俺の奢り。さあ、入って」
「でも、ラーメンは好き」

ラーメン拠頓として何か考え込む女性。もしかして食べたことない?もし苦手だったら強制はしないけど。

「味には自信あるから、一口だけでもどうぞ」
「ありがとうございます」

女性を奥のボックス席に通し、一番人気の煮干ラーメンとチャーハンを用意する。

「どうぞ」
「いただきます」

丁寧に両手を合わせ、レゲを手に取り、スープを口に運んだ。それと、彼女の顔がみるみる輝く。

「美味しい」
「本当?」
「はい。とても回線の香りがとても濃厚で」

言いながら2回スープを飲み、箸に手を伸ばす。麺を美味しそうにすする様子を見て、口に合ったのだと確信した。夢中になって食べてくれる姿。久しぶりに新鮮な反応を見たな。このところ無表情で食べるお客様の顔ばかり見ていた気がする。もちろん常連さんたちが来てくれるだけでもありがたいし、うちの味を信頼してくれている証拠だ。

「ご馳走さまでした」

チャーハンも平らげてくれて、また丁寧に手を合わせる。

「美味しかったです。とても」
「それは良かった」

人生初のラーメンがうちの店で良かったのかと思ったが、彼女の満足そうな顔を見ていると、こちらまで笑顔になれた。

「あの、さっきはごめんなさい」
「え?」
「その、変態都会ってはあ、誤解だって分かってくれたならいいよ」

落ち着きを取り戻したからか、俯き気味に言う。

「その、色々あって情緒が不安定になっちゃって、泣いてしまいました。3ともなかったですね」
「そんなことないよ。誰でも弱ることはあるし」

確かに驚いたが、彼女にも事情があったのだろう。見たところ髪はボサボサで、服も汚れている。不潔に見えるわけではないが、彼女に何かの異常事態が起こっているのは分かる。

「あの、お皿、せめて自分で洗います」

女性は立ち上がり、食器を片付け始めた。

「え、いいよ、いいよ。お客さんだし」
「でもお金も払っていないし、これくらいは」
「ご迷惑ですか?」

悲しそうな、まざしを向けられると困ってしまう。その時、店の入り口から声がかかった。

「正斗君、煮干ラーメン大盛で」
「俺は塩で。餃子もよろしく」
「あ、はい。いつもありがとうございます」

常連さんたちがやってきた。厨房に戻る俺の後ろを、女性は食器を持ったままついてくる。うん。このまま手伝ってもらおうか。その方が彼女も変に気を使わなくていいだろう。スポンジと洗剤の場所を教えると、彼女は丁寧にどんぶりを洗い始めた。その様子を見て、常連さんたちは目を丸くする。

「正斗君、新しい子やっとった」
「えっと、あの、私お手伝いしてるんです。お世話になったので」

彼女が言うと、常連さんたちはそうかそうかと頷いた。

「なるほどな。正斗君はいい子だからね」
「はい、私もそう思います」
「あ、ありがとうございます」

なんだか妙に懐かれたかもしれない。その後、彼女は常連さんの食器も洗ってくれた。同じスポンジと洗剤なのに、俺よりも綺麗な仕上がりになっている気がする。俺が下手だったのか。

「ありがとう。すごく綺麗に洗ってくれて助かったよ」
「いえ、そこまでのことでは。えっと、正斗さんですよね。こちらこそ本当にありがとうございました。私は川北友と言います」

両手を合わせ、深々とお辞儀をされる。滅多にされない仕草に、俺はどう返事をしていいかわからない。

「川北さんだね。一人で帰れる?これも何かの縁だし、送っていくこともできるけど」

俺が提案すると、川北さんは力なく首を横に振った。

「帰る場所ないので」

え、家出だろうか。外見は成人を過ぎているようだが、深く聞いていいものかわからない。

「あ、あの」

俺が返答に困っていると、川北さんが再び頭を下げた。

「私、世間知らずで、正直どうやって生きていいか分からないんです。何かアドバイスをけませんか?」
「あ、アドバイス?」
「はい。お金もないので、雨風をしのげる場所とか、仕事を探せるところとか教えて欲しいんです」

まるでの塾もわない言い方だ。空腹で倒れるくらいだから、相当切羽詰まっているのだろう。だが今の状態では、どこに行っても前払いだ。

「俺の店、見ての通り古くて流行ってないから、大した給料は出せないけど」

俺は2階に続く階段を指さした。2階は住居で、昔両親が住んでいた部屋がまるまる開いている。

「住み込みで3食なら、どうかな」
「それ、ここで働いていいんですか?」
「うん。正直お金を稼ぐっていうのは難しいけど、きちんとした就職先が見つかるまでは面倒見るよ」
「ありがとうございます」

そういう経緯があり、俺は川北さんと同居することになった。どうせ店は暇なので、早速風呂を進める。飲食店だから、身だしなみに気を使って欲しいからだ。近くの店で着替えを買い、風呂場に置いておく。しばらくして、お風呂ありがとうございましたと言って厨房に戻ってきた川北さんを見た俺は、度肝を抜かれた。

艶やかな黒髪の隙間から、先ほどは見えなかった大きな瞳と健康的な桃色の頬が見える。俺が適当に買ったシャツが高級なものに見えるほどのスタイル。これまで親しい女友達も彼女もいなかった俺にとって、刺激的な状況だ。しかし行く当てもなく不安な女性に、変な気を起こしてはいけない。俺はドキドキと高鳴る胸を必死に抑えた。

それから、忙しくはなく、いつも通り暇な日が続いた。少しだけ変わったのは、川北さんが一日中そばにいること。彼女は綺麗好きらしく、時間を見つけては店だけでなく住居スペースも掃除してくれた。おかげでこの建物は常にピカピカだ。またセンスも良く、

「お花を飾ってはどうでしょう?このネギ入れと醤油ケース、黒色の方が器とテーブルの色にマッチするんじゃないでしょうか」

ふとした時に意見をくれた。俺としては自分の思いつかなかったアイデアを発見してくれたことが嬉しくて、川北さんの言う通りに花やインテリアを工夫していった。どうせあと半年もしたら潰れる店だ。たとえ検討違いなことだとしても、最後くらい上がいて好きにしてもいいだろう。それに今まで一人で行っていた仕事を2人でできる。そのことが俺にはたまらなく嬉しかった。アルバイトを雇う必要も余裕もなかったので、これからも店が潰れるまで一人で働いていくつもりだった。そんな俺にとって、川北さんの存在は得難いものだ。彼女のおかげで少し厨房が賑やかになった。常連さんも珍しい川北さんに興味があるのか、いつもより店での会話が増えているように思う。それに彼女は、俺が店を閉めている間に夕食を作ってくれるのだ。他にも仕事が暇な時は洗濯もしてくれて、住み込みの家政婦のような状態である。実のところとても助かっていた。暇な職場とはいえ、家事のために店を不在にするわけにはいかない。だから店と家を往復して色々と動いてくれる川北さんには、感謝してもしきれなかった。

「川北さん、いつもありがとう」

今日の掃除を終えて、新しく買ってきた花を生けている川北さんに声をかける。川北さんは一瞬驚いた顔を見せたが、微笑んで答えた。

「お礼を言うのは私の方です。出会えたのが正斗さんで本当に良かった。優しくて一生懸命お仕事をしていて、しっかりしていて。あなたじゃなかったら、今はこんなに楽しく過ごせていないです」
「そこまで褒めてもらうほどでも」
「いえ、今となっては正斗さん以外に拾ってもらうなんて想像できません」

そのまましがとても優しくて、俺の胸がどくんと大きな音を立てる。そこまで俺は彼女の寄り所となっていたのか。

「一食を与えてくださって、こうして社会勉強も働きながら暮らすことが大変だって知れたことにも感謝しています」
「え、それはどういう」

俺が疑問を口にしようとすると、お客様がやってきた。常連さんだ。

「正斗君、ランチ1つ」
「チャーハンセットですね。はい、ありがとうございます」

俺は会話を切り上げ、ラーメンの準備に取りかかる。麺を茹でながら、常連さんに話しかけた。

「昨日も来てくださってましたね。ありがとうございます」
「いや、ともちゃんと話したくってね」
「え、ともちゃん、聞き上手だから」
「そうそう。うちの工場でも評判なんだよ」
「え、あの、ありがとうございます」

名前を呼ばれた川北さんは、嬉しそうに接客をしてくれた。

「お客様に求められるのって嬉しいですね」

そう言って肩を緩める彼女。彼女が褒められて嬉しいはずだ。なのに俺はなぜか面白くなかった。俺が注文を仕上げると、彼女は息よと石に向かう。彼女が俺以外の言葉でこんな顔になるなんて。だって、俺は何を考えているんだ?

俺はふと湧いた胸の奥の感情を振り払うように、仕込みに入った。慌てて包丁を握ると、いって少し指を切ってしまった。それに気づいた川北さんは慌てて、大丈夫ですかとガーゼを持ってきて、俺の指をぎゅっと握る。

「あだ。大丈夫だよ。このくらい」

恥ずかしさのあまり俺がそう言うと、彼女はダメですと言い、手に力を込めた。そして俯きながら小さな声で言った。

「もう少し、このままでいさせてください」

え、俺の聞き間違いだろうか。しばらくの間、次の客が来るまで、俺はその場から動けずにいた。

それから徐々に店は変わっていった。うちに新しい従業員ができたことを知り、最近足が遠のいていた常連さんが物珍しさに帰ってくることがあった。そしてうちの味が再評価され、口コミで近所のお客様が増えるようになったのだ。また川北さん目当てでやってくる人も増えた。男性だけでなく、女性のお客様も彼女と何やら楽しげに話していた。

「店長さん、ともちゃんのおかげで店の中超おしゃれじゃん」
「うん。本当に感謝しているんだ」

近くの大学に通っている女子大生の2人組が、川北さんと俺を交互に見る。そして実に楽しそうに笑っていった。

「で、店長はともちゃんとどういう関係なわけ?」
「え?関係?」

生き倒れていた彼女を助けたなんて言ったら、川北さんが不信がらレやしないだろうか?俺が返答に困っていると、何を勘違いしたのか2人は嬉しそうにした。

「やっぱり付き合ってるんだ」
「はあ。どうしてそうなるんだよ。別に彼女とは何もないって」
「またまた照れちゃって。一緒に住んでるんでしょ?さすがに言い逃れは無理だよ」

俺は本当に誤解だと何度も言ったが、信じてもらえなかった。そうか。俺たちはそんな風に見られていたのか。申し訳ないな。こんなさえないラーメン屋の店長と噂なんて。

少しだけ川北さんを意識し始めた頃から、店はだんだんと忙しくなっていた。どの時間帯にも必ずお客様がいる。それだけではない。昼時には店の前に行列ができ、整列させるためのポールを倉庫から10数年ぶりに引っ張り出した。誰かがSNSで拡散したと、お客様から聞いたこともある。言うまでもなく川北さんのおかげだろう。ありがたいのだが、そろそろ彼女もここを出て、きちんと給料が払われる場所で働くべきだ。そう思って就職活動を進めようとしていた矢先、とある2人が店を訪れた。身なりのいい男性だ。一人は俺と同じくらいの年齢に見える。背が高く、明らかに高そうな腕時計が光っていた。もう一人はスーツのいい初老の男性。彼は俺が店長だと分かると、名刺を渡してきた。

「三浦孝介と申します。こっちは息子で社員の孝太です」
「初めまして」

受け取った名刺には、大手飲食チェーン店の名前と、代表取締役社長という肩書きが記されていた。実感がない。本当に俺に用があるのか?

「あの、何のご用でしょう?」
「実は君の店の噂を耳にしまして、地元からの支持が高いラーメン屋として、同業者として興味があるんです」
「はあ」
「勘違いしないでください。これは先々不告ではありません。私は視察に来たんだ。新規事業の」
「新規事業ですか?」
「ああ。今やラーメンは日本人のソウルフードと言っても過言ではありません。うちには未だラーメン店の実績がないから、まずはどこかの店に協力してもらおうと思っているんですよ」
「そうですか。でも、うちよりももっと大きくて有名な店がありますよ」

すると三浦社長は手を大げさに振る。

「そういうことじゃないんです。有名だとか規模だとか、そんなもの食品の本質には関係ない。私が重視しているのは、うまいのか?それだけです。よければ食事をさせてもらってもよろしいですか?」
「お客様ということでしたら、どうぞ」
「え、マジでここに入るの?汚いって。いつも言ってるフレンチレストランにしようぜ。こんな寂れた場所にある店なんて、うまいわけないって」

孝太さんは大声で店の不満を口にする。俺はむっとしたが、三浦社長が「失礼な言動は慎みなさい。それに今は仕事だぞ」という注意をしてくれたので、なんとか堪えた。

社長親子を奥に通すと、すぐに川北さんがお冷やとメニュー表を持っていく。2人とも定番のラーメンセットを注文した。スープを口にした途端、三浦社長は感嘆の声をあげる。

「これはうまい。想像以上だ」
「あ、ありがとうございます」

相手が社長だとかそういう理由ではなく、純粋にうまいと言ってくれたことが嬉しかった。しかし隣の孝太さんは渋い顔をしている。

「店がこんなにボロいと、せっかくの味も台無しだな」
「こら、失礼なことを言うんじゃない」
「すみませんね」

いえ、確かに失礼だが、彼の言うことも最もだ。この店は祖父の頃から変わらない。俺にとっては大事な空間だが、初めて来るお客さんにとっては時代遅れの古い店だろう。川北さんのアイデアのおかげで綺麗でおしゃれにはなったが、どうしても隠しきれない場所はある。

「まあ、店員の見た目はいいけど」

そう言ってニヤニヤと意地悪そうな顔つきで川北さんを見る。視線を受けた川北さんは一歩後ずさった。明らかに嫌悪感をあらわにしている。

「余計なことを言うんじゃない。全く、お前の勉強も兼ねているんだぞ。工藤さん、もしも良いお返事がいただけるようでしたら、改装費用なども出資させていただきます」
「ここまでは」
「いえ、この味にはそれくらいの価値がある。聞いた話では、おじい様の台から経営されているとか」
「はい。まあ、引き継いでいる形ではあります」
「なるほど。伝統を守っているんですね」

三浦社長は大きく頷くと、丁寧に手を合わせた。

「すぐに返事が欲しいとは言いませんが、直接伺って、私はますます気に入りました。どうか考えておいてください。また来ます」
「あ、はい」

ここまでうちを評価してくれる人に、そっけない態度を取ることもできず、曖昧な返事で見送ってしまう。しかし内心、どうしていいのか分からない。川北さんは心配そうな顔をしていたが、あんな申し出があるなんて驚いたねと笑ってごまかした。

翌日、開店準備をしていると、外から声が聞こえた。俺は仕込みをしていて、外の掃除は川北さんの仕事だ。つまり話をしているのは川北さん。もしかしてもうお客様が来たのだろうかと、仕込みの手を止めて店の入り口に向かう。すると川北さんの前にいたのは、昨日店に来た三浦社長の息子、孝太さんだ。

「お前、うちで雇ってやってもいいぞ」

耳に飛び込んできた言葉に、思わず息を潜めて身を隠す。2人の間に出ていってはいけない気がした。

「何ですか?いきなり。昨日いらっしゃった方ですよね」
「ああ、スカウトだよ。スカウト。お前、見た目いいじゃん。こんな寂れた店で働くより、うちの高層オフィスの方が似合うって。憧れるだろう、俺。で、社長になるし、交遇で雇えるよ。それなりの地位も約束できるし」

スカウト。突然出てきた思いがけない単語に、声が出そうになる。彼は川北さんのことを気に入ったらしい。理由が何であれ、あの会社で働けるのならありがたいことこの上ない。ようやくきちんと金を稼ぎ、一人で暮らすことができるのだ。こんな古い建物で俺と2人きりの生活ともおさらばできる。寂しくはなるが。

「ふざけないで」

きっぱりと川北さんは言い放った。

「私のこと何だと思っているの?そんなバカみたいな口説き文句で落とされるとでも」
「はあ。何を偉そうに。雇ってやるって言ってるんだぞ」
「頼んだ覚えはないわ。昨日もそうだったけど、本当に失礼な人ね。お店の邪魔だから、帰ってくれる?」

取り付く島もない川北さん。孝太さんは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「せっかく俺が言ってやってるのに、失礼なのはどっちだ?絶対に後悔させてやるから、覚えてやがれ」

そうして捨て台詞を吐いて、孝太さんは去っていく。頭を抑えて店内に戻ってきた川北さんに、俺は問いかけた。

「追い返してよかったの?就職のチャンスだったんじゃ」
「正斗さん、聞いてたんですね」
「ええ」
「人の大事な職場を馬鹿にするような人のところで働きたくありません。と言っても、私もそんなに偉そうなことは言えないんですけどね」

苦笑する川北さんは、テーブルを1つずつ丁寧に拭いていく。

「私なんて住み込みの立場なのに、おましく職場を選ぼうなんて。あの、私のことが迷惑だったら、遠慮なく言ってくださいね」
「迷惑なわけないよ」

俺はつい大声を出してしまった。びっくりしている川北さんに、俺は立て続けに感謝する。

「すごく助かってるんだよ。お客様が戻ってきて、昨日みたいに会社に声をかけてもらうまでになったのも、君のおかげだから」
「それなら良かったです」
「それに俺も」
「え?」
「川北さんが来てくれて、毎日が明るくなったっていうか。君には孤独を癒してもらっているのもあるんだ」

そう言ってから、つい俺の個人的な話までしてしまったことに気づく。彼女に下心を抱いているなんて勘違いされたら、出ていきたいと思われるかもしれない。で、何言ってるんだ俺。恥ずかしいやつだな。

「忘れてくれる?」
「私も、一人の寂しさを知っていますから、気持ちわかります。だから忘れる必要なんてありません」
「そっか」

気を使っているのではないかと危惧したが、川北さんの笑顔を見るに、本心で言ってくれているのだろう。せめてうちが潰れるまでに、可能な限りの社会経験をさせてあげたいと思った。給料も、今ならわずかではあるが増やせるだろう。

彼女への見方が変わって少しした頃、三浦社長から電話がかかってきた。以前とは別の事業計画があるらしい。三浦社長の子会社の1つがアメリカにあり、そこでラーメン屋の出店を希望しているらしい。よかったら挑戦してみないかということだ。条件次第では、俺が店長候補になるらしい。突然規模が大きくなった話に戸惑っていると、再来月にその子会社の経営人が日本にやってくるので、会ってみないかと進められた。孝太さんが営業部所属のため、彼を仲介して、その経営人たちにラーメンを振る舞ってほしいと言われる。その対応だけでも、彼らの研修費用として車令は払うと言われた。

「川北さん、聞いて。どうしたんですか?」

俺は慌てて川北さんに事情を話した。

「こんなうまい話があっていいのか?いや、三浦社長の会社が嘘をつくとは思えない。ということは、昇進の案件だ。信じられないかもしれないけれど、海外展開のお話が来て」
「か、海外ですか?」
「うん。もしも海外の人に認められたら、うちの評判にもつながる。うまくいけば、店をもっと長く続けられるかもしれない。これはチャンスだよ」

すると彼女も乗り気になって、色々と考えてくれたのだ。

「海外の方に提供するなら、新メニューを作るべきでしょうか?」
「え、海外の人って、日本らしいものを求めると思うんです。それにボリュームも足りないので、単に麺の量だけを増やすとなると、薄味になっちゃいますね」
「確かに」
「それと、欧米は職の制限にこだわる人もいるので、どんな相手なのか調査しないといけませんね」

俺は感心した。てっきり川北さんは経営や社会に疎い人だと思っていたが、俺よりも広く深く物事に詳しいのではないだろうか。

「どうして川北さんはそんなこと知ってるの?」
「え?」

川北さんは瞬きした後、目を泳がせていった。

「えっと、知り合いに海外の人がいて」
「そうなんだ」

彼女のことは未だに謎が多い。家のことも、どうして一文なしだったのかも不明だ。詮索されたくないのだろうな。

「なんか川北さんに支えてもらってばかりだね。ありがとう」

それとなく話をそらすと、川北さんは大きく首を横に振った。

「いえ、前に言いましたけど、正斗さんにこそお世話になっていますから。それに私は案を考えたり意見することしかできませんから。結局正斗さん頼りなんですよね」
「そんなことないよ。あ、でも、せっかくの案を無駄にしないよう、頑張るね」

それから俺と川北さんは、新メニュー開発研究の日々を送った。営業中に暇ができると、川北さんが色々と案を考える。それを閉店後に試作して、気がつくと深夜になっていることもある。寝不足の日もあるが、大きな目標のために頑張れた。それに、うちの店を選んでくれた川北さんのためにも成功したいという思いが、日に日に増していった。

そんなある日、再び電話がかかってきた。今度は孝太さんからだ。1週間後に控えていた子会社の経営人の来日が、数日後に繰り上がるそうだ。メニューの開発はすでに終えていたので、休業日をずらせばいい。俺は了承の返事をして電話を切った。その時、店の外から視線を感じた。見ると、スーツ姿の聴心の男性がこちらを見ている気がする。誰だろう?知らない人だ。俺と目が合うと、その人は去っていった。入転するか悩んでいたのかもしれないと思い、特に気にすることはなかった。

それから1週間後、開店から2時間後、昼時を迎え、いつも通り店内が賑わってきた頃に、外国人の団体客がやってきた。

「いらっしゃいませ」

応対しようとすると、先頭の男性が何か英語で話しかけてきた。

「え、えっと」

俺は英語ができない。なんとかアレックスという名前だけ聞き取ることができた。その後、彼は名刺を俺に渡してくる。見覚えのある名前だ。もしかして、三浦社長の言っていた海外にある子会社の経営人。来日は別の日だと聞いていたのだが、一体これはどういうことだ?

なんとか少し待ってほしいと伝え、孝太さんに電話をかける。

「もしもし。子会社の方の来日は来週に変わったんですよね」
「え、結局元の日に戻ったって言いませんでしたっけ?あれ?日間違えてた?言い忘れてた?どっちだっけ?」

とぼけた調子でありえない返事をされる。俺は今の状況を説明した。

「そういうわけですから、今すぐ来てください。営業部の方が対応してくださるって話ですよね」
「あ、ちょうど今から会議なので、無理ですね。それじゃあ、頑張ってください」
「はあ」

物理と電話が切られる。もしかして彼は最初からやる気なんてなかったのか?いや、今はそんなことを考えている場合ではない。どうしよう。新メニューのレシピはあるが、仕込みができていない。それに今は店が混んでいて、対応しきれない。俺はなんとか英語で対応しようとするが、向こうの言っている言葉は分からないし、俺の言葉も通じない。次第に相手が困惑している様子が伺えた。何人かはため息をついている。このままでは、今回の話はなかったことになる。せっかくこの2ヶ月頑張ってきたのに。

「ただいま帰りました。あれ?これはどういう状況ですか?」

買い出しから帰ってきた川北さんが、経営人を見て首をかしげる。

「川北さん、実は手違いで、三浦社長の言っていた日が今日だったんだよ」
「え?」

川北さんは店内の様子を見て、事態の深刻さに気がついた。

「えっと、とりあえず中に案内しますね。彼らには手違いの件を説明しますから、その間に例のメニューを作ってください」

説明って言っても、どうやって伝えるのだろうかと不思議に思っていると、川北さんは彼らに何やら説明を始めた。堂々と滑らかな発音の英語でだ。

「え、川北さん?」

俺が呆然としていると、海外からの客人たちは納得した様子で頷き、店の奥へと向かっていった。

「正斗さん、彼らは私が相手しておきますから」
「うん」

川北さんが英語が話せたのか?それもあんなに流暢に。疑問を抱いたまま、俺は新メニューの準備をしながら、他のお客様の注文にも応じていく。これまでにないほどの忙しさだ。しかし今、川北さんに時間を稼いでもらっているのだから、急がなければ。俺はいつになく集中し、完成した人数分のラーメンを次々と奥の席に運んでいく。隣で川北さんが食べ方の説明をしているらしかった。彼らは香りを嗅いでスープを口にする。すると一気にテーブルが盛り上がった。どうやら気に入ってくれたようだ。安心してその後の様子を眺めていると、麺にも箸を伸ばす。箸がうまく使えない相手には、フォークで代用してもらった。時折り何かを英語で質問してくるので、川北さんはすらすらと返事をする。その頃には俺もスマホの翻訳アプリを起動する余裕ができていた。音声を取り込み、日本語で出力するものだ。どうやら出汁の取り方や材料などを聞いているらしい。川北さんの返事も完璧で、さすがは一緒に開発しただけのことはあった。

彼らは食事を終えると、海外の出展を前向きに考えたいと言ってくれた。どうやら大成功のようだ。俺たちは嬉しくて、思わずハイタッチしてしまう。この後、経営人たちは三浦社長の会社に出向き、今日の感想と今後の出展について話し合うそうだ。

帰り際に彼らを店先まで見送る。するとアレックスが川北さんをじっと見た。何か言ったらしい。彼は川北さんが返事をすると、嬉しそうに言った。

「やっぱり、君だよね。彼とはこの間もあったよ。君とは社交公会で一度会っているんだ。覚えてないかな?」
「あ、アレックス」
「そうだよ。また会えて嬉しいな」

どうやら2人は知り合いだったようだ。それにしても、社交公会。一つだけ思い当たることがある。川北貿易という、昔から海外貿易で成功している大きな会社だ。確か社長の名前は川北司。じゃあ、川北さんは。

「シジによろしく伝えておいてくれ」

それじゃ、とアレックスはそう言って去っていった。店は未だ忙しく、彼女の素性について言及する時間がない。川北さんは何か言いたげな俺に気がついているらしく、お互いに若干気まずい空気を挟んだまま、閉店まで仕事をした。

無事に閉店の時間を迎え、締めの作業を行いながら、俺は尋ねた。

「川北さん、君は」
「ごめんなさい。もう隠すのも限界ですよね」

俯いたまま食器を洗う川北さん。彼女の口から出た真実は、俺が想像していたものだった。彼女は川北貿易の一人娘、いわゆる社長令嬢というやつだ。日本人の父親とアメリカ人の母親とのハーフ。仕事の関係で日本と海外を行き来しており、世界各国に知り合いが多い。立場上様々な社交会に出席する必要があり、英語は徹底的に叩き込まれている。そんな彼女は、両親に敷かれたレールの上で生きてきた。言われるがままの教育を受け、言われるがままの友達を作り、それがだんだんと負担になってきたそうだ。今まで何でも自分の能力と努力で乗り越えてきた。自分一人でも生きていける。そう思って半ば家出の状態で外に出たはいいが、見知らぬ土地に着いた途端、スリに遭い、雨に降られ、もうどうしようもない状態だったらしい。

「すぐに自分の力の小ささを知りましたが、手遅れでした。手元には何もない。知り合いもおらず、帰る場所もなく、2日ほど野宿をしていたんです。自分は世間知らずの箱入り娘だったと思い知りました。そんな中、正斗さんに出会ったんです」

川北さんは黙って聞いている俺を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「無知な私にこんなに優しくしてくれて、正直びっくりしました。正斗さんには、人への無償の優しさと、自分の力で暮らしていくことがいかに大変かを教わりました。できるなら、ここをずっと手伝って恩返ししたい。でも、もう限界かもしれません」

食器を全て洗い終えていた。相変わらず彼女は丁寧にピカピカに洗ってくれる。

「限界って」
「実は、何日か前から私の家人がお店に来ていて、様子を伺っているんです。いつ連れ戻されてもおかしくないと思います」

もしかして、あのスーツ姿の数日前に見た背の高い男。彼が川北さんのお嬢様迎えに上がりました。その時頭に浮かんでいた男が、店にやってきた。

「高野」

川北さんは悲しげに男の名前らしきものを呼ぶ。

「これでも私としては、シジ様に隠していたんですよ。しかし、もう限界のようです」
「え」
「分かっているわ。私をかってくれてありがとう」

川北さんは諦めたように男の前に出た。

「ちょ、ちょっと待って。そんな突然」

俺は引き止めようとしたが、川北さんは首を横に振る。

「いきなり押しかけて、急に去っていくなんて、本当に失礼な人間ですよね。でも、これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません。それに、このままここにいたら、正斗さんとずっと痛くなるんです。それこそ、一緒」

それって、川北さんは頬を染め、ふと華枯な笑みを浮かべた。

「お願いがあるんです」
「お願い?」
「と思って、呼んでくれませんか?」

別れ際にそんなお願いをするなんて、ずるいじゃないか。でも、よく考えろ。このままさえないラーメン店で働くよりも、彼女はいるべきところで世界を見る方が幸せなんだ。

「ともさん、今まで本当にありがとう。俺、君のこと忘れないよ」
「ありがとう、正斗さん。絶対ですよ」

こうして川北さん。いや、ともさんは帰ってしまった。その日の夜のことはあまり覚えていない。ただ、夜けに広く感じる家の中で一人で食事をして、風呂に入って、いつの間にか気を失うように眠っていた。

翌日、俺は朝食を取る気にもなれず、早くに厨房へ降りた。笑顔で朝の掃除をする彼女はもういない。だが、悲想感に溺れていてはいけない。ともさんがここにいた証を残すためにも、俺は頑張らなければ。

「朝早くに失礼いたします」

夜けに丁寧な挨拶で、店に人が入ってくる。まだ開店前だと伝えようとしたのだが、その人物の顔を見て、言葉が止まってしまった。

「あなたは、友城様の家人の高野です。昨日ぶりでございます。工藤様には、お嬢様が本当にお世話になりました」

うやうやしく頭を下げる。その所作だけで、立派な場所に務めていることがよくわかった。

「こちらこそ、彼女にはお世話になりました」
「あの、ともさんの様子は、心ここにあらずと言ったご様子でございます。工藤様との一時がとても楽しかったのだろうと推察されます」
「そうですか」
「本日は、お礼を兼ねて、ある情報をお伝えしようと思いました。俺と友がこちらにいらっしゃることは、2ヶ月ほど前から気づいておりました。私はお嬢様に何かよからぬことが起こった際、直ちに対処できるよう見張っていました。その時、妙な話を聞いたのです」
「妙な話?」
「はい。こちらに三浦フーズの代表取締役社長とそのご子息がいらっしゃったかと存じます」
「ええ、何度か」

高野さんは頷き、胸元からスマホを取り出す。

「そのご主則がお一人で来られた際、厳密には彼にも家人がいたようですが、彼らが工藤様のお店から出られた際、このようなことをおっしゃっていました」

スマホの録音データが操作される。日付は確かに、孝太さんが一人で来た時のものだった。録音の内容は、俺に嘘の来日情報を教えて、今回の話を失敗させようと、そう家人に言っているものだった。孝太さんの高笑いが聞こえ、俺は拳を握りしめた。俺たちの苦労を、努力を、そして店にかける思いを、何だと思っているんだ。

「こちらを録音しておきながら、事前にお知らせできずに申し訳ございません。ですが、友お嬢様の主腕が問われる場面だと判断いたしました。実績を作れば、お嬢様が真事様からおしりを受けることもないのでは」
「謝らないでください。悪いのは、工藤さん」

昨日はありがとうございました。ちょうどそこに、三浦親子が訪ねてきた。三浦社長は相変わらず人のいい笑顔をしている。反面、孝太さんは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

「昨日子会社の経営人と話をしました。いや、彼らはあなたのお店を絶賛しておられましたよ」
「ありがとうございます」
「しかし、1つ気になる点がありまして」

俺は、予定日の変更があったこと、そして結局は予定通りに来たことを説明すると、三浦社長は首をかしげる。

「日程変更の予定はなかったはずですが」
「そうですか。では、やはり彼の独断ということでしょうか」

俺は孝太さんを見て、高野さんの録音を聞かせた。三浦社長の顔がみるみる青ざめていく。そして孝太さんに問いかけた。

「これはどういうことだ?」
「ご、こいつが悪いんだよ」

孝太さんは俺を指さす。

「本当は俺が営業部長として、海外出店の店長になる予定だったんだ。なのに」
「つまり、自分が手柄を上げるために、彼を落とし入れようとしたのか」

三浦社長はわなわなと全身を震わせる。

「だからお前は、いつまで立っても犯人前なんだ。他者を蹴落として得られた地位に、何の意味もない。大体、現場を知らないやつが店長だと?笑わせるんじゃない」
「そこまで言わなくても」
「そこまでだ。本当に反省していないんだな。これはうちの信用にも関わるんだぞ」

三浦社長は少し席を外すと言って、孝太さんを店の外に連れ出した。しばらくして帰ってきた社長。孝太さんの姿はない。

「息子だからと甘やかしすぎたようです。彼の役職は剥奪して、1から勉強させることにしました。今後一切、親子として扱わないことを誓います」

三浦社長は深々と頭を下げた。

「この度は、グソ足がご迷惑をおかけし、申し訳ございません。海外出店の話は、そちらに有利な条件で進めましょう。どうか、我が社との契約を検討いただけないでしょうか?」

彼は悪い人ではない。俺だって店を続けていきたい気持ちはある。だから俺は承諾することにしたのだ。

それから数ヶ月経ち、俺は店を続けながら海外出店への準備を始めていた。今の店は、三浦社長が作ったラーメン経営の部署を作り、引き継いでくれることになった。店が繁盛してくれることはありがたい。両親もとても喜んでくれた。だが、心にぽっかり開いた穴は、未だに塞がっていない。今の俺の状態を一番に知って欲しいと、ともさんには伝えられていない。あの大企業の令嬢に、一介の俺が連絡を取るなんて。いや、それは言い訳だ。本当は俺も彼女に惹かれていた。でも、釣り合わないことは分かっている。連絡が取れたら、諦めがつかないだろうから。

「煮干ラーメンを2ついただけるかな」

新たなお客様が来て、物思いにふけっていたことに気づく。急いで店先に向かうと、俺は持っていた皿を落としそうになった。一人は60代くらいの男性、もう一人はともさん。

「正斗さん、驚いてる?」

屈託のない笑顔を浮かべたともさんが、そこにいた。

「どういうこと?なんで」
「私が連れてくるように頼んだんだよ」

男性が出した名刺には、川北シジと書かれている。ともさんのお父さん。

「娘がお世話になったね」
「父に話したんです。ここでの生活のこと。そして、私は自分の道は自分で決めたいってこと」
「娘が家出をするまで、この子の幸せは、何不自由ない生活と、確実に成功するであろう仕事を与えてやることだと思っていた。でも、飛んだ事故満足だと気づかされたんだよ」
「私も、今まで世間を知らずに、ただ外に出たいというだけの漠然とした思いがあった。でも、それを形にしてくれたのが、正斗さんでした。成長させてくれて、ありがとう」
「いえ、そんな。俺こそ、店を大きくできたのも、ともさんの知見と能力があってこそです」

するとともさんはずいっと前に出た。

「それって、私が役に立つってことですよね」
「え?うん。もちろんだよ」
「それじゃあ、またここで働かせてくれませんか?」
「え?」

驚いてシジさんを見ると、大きく頷いていた。

「君と共同経営するアメリカの会社だか。うちと窮地の中でね。是非私も参りたいと伝えたんだ。だから、我が家の代表として、ともを一緒に連れて行って、経営してほしい。どうかな?」
「そんなの、願ったり叶ったりです」

またともさんと一緒に働ける。空虚な感覚が一瞬にして満たされた。シジさんが帰り、今後の打ち合わせをすることになった俺とともさん。まずは、お帰りと言った。

「ただいまです。これからもよろしくお願いします」
「うん」

それと、返事を言えていなかったよね。手の届く場所にいる彼女を諦める理由はもうない。

「俺も、あなたが好きです。また一緒に暮らしませんか?」
「正斗さん、喜んで」

ともさんが俺に飛びつく。俺は彼女の体をしっかりと抱きしめた。能力があっても、世間を知らなければ生きていけない。世間を知っていても、必要な力がなければ、かないこともある。互いの足りないところを補い合って生きていく。それは人間にとって大切なことだ。俺たちも、互いに足りないところを補えば、きっと描いた未来にたどり着くことができるだろう。そう信じて、新しい土地での生活に胸を躍らせるのだった。

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