「会社に従えないやつは首だ」
その言葉が工場の空気を凍らせた。俺は金属加工の町工場で育ち、大手自動車部品メーカーに就職した。だが効率最優先の生産体制に疑問を持ち、わずかな傷でも見逃さないように部品を弾いていたら、あっけなくお荷物扱いされた。
同じ業種なのに、規模が違えば大切な気持ちまで失わなければいけないのか。俺は部長に再度訴えた。
「規模が大きいからこそ品質が重要になるんじゃないですか。私が弾いてきた部品をしっかり見てください。問題が出てからでは遅いんです」
確かに、仕事が進む大企業では、一人ひとりのこだわりよりも量産スピードが重視されるのかもしれない。だけど俺は最後まで自分の感覚を捨てることができなかった。
「うちには職人技なんか必要ない。生産性が理解できない駒は出ていけ」
こうして俺はあっけなくお払い箱となった。だが、この理不尽な仕打ちが、俺の今までの人生が無駄ではなかったと証明してくれる大事件の幕開けとなるとは、この時は誰も知るよしもなかった。
俺の名前は鈴木ゲン。一人暮らしをしていたアパートを引き払い、今は誰もいない実家へ帰る電車を待っている。毎日「今日こそは」と気合いを入れながらホームへ駆け上がった駅とも、これでさよならだ。
下町方面へ向かう電車はガラガラで、心なしか冷たく感じた。俺は椅子の端に座り、目を閉じながら今までのことを思い出した。
俺の実家は「鈴木製作所」という小さな町工場だった。自動車関係の金属加工を得意としており、従業員数は少ないながらも会社としては順調だったと思う。俺は跡取り息子ということになるが、決められた人生だと思ったことは一度もなかった。それは子供の頃からずっと見てきた職人たちが、アニメや漫画のどんなキャラクターよりもかっこいいヒーローに見えていたからだ。
職人はみんなかっこよかったが、俺には特に憧れている人がいた。
「ゲン、微妙にずれてるじゃねえか。どうせ好きな女子のことでも考えてたんだろうが」
「ば、そんなんじゃねえよ。もう一回だ。次こそはゴロジーなんて超えてやるからな」
俺は中学から本格的に金属加工の修行に入った。その時面倒を見てくれたのが五郎さん、通称ゴロジーだった。ゴロジーの技術の高さは工場一だった。一歩間違えれば事故につながる危険な職場でもあり、ゴロジーはとにかく俺に厳しかった。だが、うまくできた時は全力で褒めてくれる人だった。
ゴロジーが俺に一番叩き込んだのは、金属の再生技術だった。修理技術と言ってもいい。繊細な腕もそうだが、知識と応用力も必要となる。この分野でゴロジーの右に出る人はいなかった。最近のものはもちろん、今はもう生産されていない部品まで動くように直す。機械のように一気に数をこなすことはできないが、プログラミングではできない、人の手のなせる技だ。
俺にもこの技術が身につけば、この工場はもっと有名になれるだろう。俺は毎日ゴロジーの元で修行を重ねた。そして高校二年生の時、ゴロジーは俺に真剣な顔をしていった。
「よく頑張ったな。もうお前は立派な職人だ」
「え、ゴロジー、それってつまり、あとはお前の好きなようにすればいいってことだ。だが技術の使い方を間違えるなよ。例えばいくら高性能のシャーペンを持ってるとはいえ、お前の頭がバカじゃ100点は取れねえってことだ。分かっただろ」
「なんとなく。とにかく俺、もう職人を名乗っていいんだよな。やった!」
「ああ、こらゲン。はしゃぐな」
俺は自分も職人の仲間入りができたこと、そしてゴロジーが認めてくれたことがとにかく嬉しかった。高校を卒業したら俺もこの工場でみんなと一緒に働く未来に胸を踊らせていた。しかし、俺の職人人生は始まることなく終わってしまった。
大量生産でコストを下げたいという時代の流れに、うちの工場は勝てなかった。結果、工場は閉鎖し、俺の両親は今田舎で暮らしている。
「みんなの力を世に出しきれず、本当に申し訳ない」
父は工場の最後の日にみんなへそう告げた。俺もまた、磨き抜かれた力が埋もれて消えていく現状を目の当たりにして、悔しくもあり悲しくもあった。俺のそんな気持ちを察したのか、ゴロジーは気合いを入れるかのように俺の背中をバシッと叩き、笑顔で工場を去っていった。
工場がなくなってしまった以上、俺も新たな道を見つけないといけなくなった。高卒採用があって、金属加工に携われる職場をひたすらに探した。行ってしまえば、そういう会社はうちの工場が潰れる要因とも言えるが、やはり俺はその道から離れたくなかったのだろう。
必死の就活の末、俺は自動車企業の大手であるブリッジワンの一番大きい部品工場へ就職することができた。ゴロジーから学んだことが何に生かされるか分からなかったが、仕事にかける熱意はきっと同じだと信じていた。
だが俺の描いた未来は、またもや塗りつぶされる運命だった。入社して早々に俺は注目の的となった。それもそのはず、高卒とはいえ金属加工歴は五年以上ある。単純作業だが、一つひとつの部品が自動車を作っていくのだと思うと、自然と目や手が鋭く、そして繊細になっていたのだろう。同期のみんなから俺は尊敬の眼差しを受けていた。
「鈴木君って本当に丁寧だよね。部品の全てが分かってる気がする。職人技だよ」
「言いすぎだよ。でも職人って呼ばれるのは悪い気はしないかな」
声をかけてくれたのは、同じレーンで働く楠木さんだった。年が近いこともあり、いつも気軽に声をかけてくれた。夢の形は変わってしまったが、やっていけるかもしれないと俺は思えるようになっていた。
だが上層部からの評価は厳しかった。
「この弾いた部品の数はどういうことだね?多すぎる」
「これなんて、一体どこがダメだと言うんだ」
「また君か。続きは、一応説明は聞こうか」
俺を事務所へ呼び出し、デスクへリストを投げ出しながら詰め寄ってくるのは、この部品工場を管理している生産管理部の正木さんだ。
「はい。微妙な曲がりと欠けがありましたので弾きました」
「で、その君の微妙というのは規定範囲を超えているのか?」
「ギリギリ超えてはおりませんが、何かの不具合の原因になるかもしれません。先に取り除いておくのが後々のためかと思うのですが」
入社してこのやり取りを何回繰り返してきただろうか。初めは工場長を通して、次は電話で。そして今回、直接部長がやってきた。毎回部長から帰ってくる言葉は同じだった。
「鈴木君ね、職人技だなんて持て囃されているらしいが、ここにそういうものは不必要なんだよ。こちらも安全性をしっかり考慮しての規定ラインを設けているんだ。それを小さなプライドで逆らって、時間も使って無駄な損失を出してほしくない。下町臭い考えを早めに改めなければ、こちらが君に効率的な方法を取ることになるからな」
俺の返答を待たずに部長は出ていってしまった。正木部長はパワハで有名で、普段から工場で働く人たちを下に見ている人だ。俺も正直関わりたくはないタイプだと思っている。だが、部長の言うことが間違っていないということも分かっていた。日本を代表するブリッジワンなのだから、実家でやっていたようなやり方ではダメなのかもしれないと思うこともあった。
だが俺は、心に染みついた「使う人の先まで考えて丁寧に作る」というプライドをどうしても捨てることができなかった。モヤモヤとした気持ちで働く日々が続いた。
そんな時、意外な人と出会うきっかけがあった。いや、後のことを考えると、悪い意味での運命の出会いだったのかもしれない。
俺が休憩室で弾いた部品を見つめながらじっと座っていた時だった。
「隣の席、開いてますか?」
「あ、どうぞ」
声をかけてきたのは、作業着ではなくスーツを着た女性だった。その人はコーヒーを飲みながらタブレットを使い、何やらペンを走らせていた。きっと外部から来た人だろうと思いつつ、真剣に仕事をしている美しい顔に、確かに俺は見とれてしまった。すぐに視線を逸らしたが、突然彼女の方から俺に話しかけてきたのだ。
「あの、その部品は何かに使うんですか?」
「え?あ、これは不良があって弾いた部品です」
それは例の俺が弾いたものだった。彼女が誰かは分からないが、胸を張って言えなかったことに少し情けなさを感じてしまっていた。彼女は「すみません」と言いながら部品を手に取り、まじまじと見入った。
「私にはどこがダメなのかわからないけれど、車になれなかった子たちか。でもリサイクルすればまた戻ってきます。その時はきっと、しっかり乗る人たちを守ってくれますよ」
俺がさらっとそんなことを言うと、彼女は少し目を大きくし、じっと俺を見た。そしてくすくすと笑い出した。
「部品工場であなたみたいな考え方の人がいたのね。嫌いじゃないわ。あ、自己紹介まだだったわね。私、宗田ルカと言います。デザイナーをやっているの。今は新作のアイデアになるかもと思って工場へ来させてもらっているわ」
宗田さんは自己紹介と共に名刺を差し出した。俺の名刺は鞄の中だったので、口頭で自己紹介をしたが、目は完全に彼女の名刺に釘付けになっていた。
「これ、この名刺に載ってる写真って、あの車ですよね。女性ドライバーに特に大ヒットしたあの車。もしかしてそれをデザインしたのって」
俺の伺うような表情に、宗田さんは自分の顔を指さしながらにっこりと笑った。それからは自動車話で盛り上がり、俺と宗田さんはよく休憩室で話す仲となった。ほとんどは車のこと。そして少し自身のことなどだ。もちろん楽しいが、宗田さんとの話はデザインという新たな観点があり、また別の楽しさがあった。何より、この仕事が大好きで誇りを持っているという気持ちがひしひしと伝わってきたのだ。
確かにそれは間違ってはいなかった。悩みの沼にはまりかけていた俺は、救われた気がしていた。しかし、彼女と分かり合えている気になっていたことが間違いだったのだ。
それが分かったのは、ある日の休憩室。いつものように俺は宗田さんと話をしていた。テーブルには初めて会った時のように、俺の弾いた部品が置いてあった。
「あ、また不良君出ちゃったの。機械でやっててもあるものなのね」
「いや、これは俺が自分の目で見て弾いたんです。確かに規定内ではあるんですけど、ここに小さな欠けが」
俺は部品を手に取り、彼女へ見せながら説明しようとした。だが、明らかに空気がいつもと変わったことを察した。宗田さんは軽蔑した顔をして俺に質問をしてきた。
「規定内なのに自分で弾いた。え、どういうこと?鈴木君、なんでそんな無駄なことをしてるの?」
「え、いや、だって、もし自分でも想像だにしなかった彼女の言葉がショックだったのだろう。生産管理部長と対立した時とは一変して、言葉が出てこなかった」
言葉を失った俺に向けて、宗田さんはさらに続けた。
「確か実家も工場なのよね。でもここは会社。守るべきことは守らないと。鈴木君、利益が出ない行動をなぜするの?ご実家の結果を考えれば簡単なことじゃない」
俺を諭すように宗田さんは真剣な目で見つめてきた。その瞳が、これが彼女の本音だと物語っていた。俺は何も言えずに立ち上がった。
俺は期待してしまっていた分、どん底へ突き落とされたような気持ちになってしまった。手洗いへ飛び込み、顔に水を何度もぶっかけたが、鏡に映る顔はひどくなる一方だった。
その日以来、俺は頑固に主張するようになった。危ないと思った部品はどんどん弾いていった。工場長に注意を受けても、「効率を重視しているといつか必ず大変な問題が起きてしまう。それに巻き込まれるのはお客様なんだ」と譲らなかった。同僚からも心配され、宗田さんともう話すことはなくなっていた。
だが、そんな俺の様子をずっと気にかけてくれていた人がいた。同じラインで働く楠木さんだ。
「鈴木君、最近無理してない?なんかいつもピリピリしてる感じがしてさ。みんなも心配してるよ」
「そっか。ごめん。俺、変に空気悪くしてるよな」
思わず視線を落とした。あれだけ声を荒げて部品を弾いていれば、周りが気を使うのは当たり前だけど、これだけは譲れなかった。
「俺、このまま流されるわけにはいかないんだ。危ないと思ったら絶対に止める。これで何か起きたら、お客さんが困るだけじゃなくて、安全に乗ってもらえなくなる。それが嫌でさ」
言葉に詰まって俯く俺を、楠木さんはじっと見つめていた。
「そうだね。鈴木君の気持ちは分かるよ。私も車に乗る側の人間だから、ちゃんと安全なものを作って欲しいって思うもん。でもあんまり一人で背負わないで。ここは大きい会社だから、どうしても効率って言葉が最優先されちゃう。鈴木君一人が声をあげても、なかなかうまくいかないことも多いと思う。だから困ったら相談して、何かあったら話してよ。私もまだ新人みたいなもんだけど、できる限り力になりたいからさ」
その言葉に胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。周りを見渡せば、同じ目線で俺に声をかけてくれる人がちゃんといる。そう思うと、ギリギリまで張り詰めていた心がゆっくりとほぐれるようだった。だが、俺はどんな言葉をかけられても変わらなかった。譲れないものは譲れない。いつの間にか俺の周囲に静かな壁ができ始めているのを感じていた。
そしてついにその日が来たのだ。
「下町臭い考えは結局変わらず、利益にしかならない職人気質は、いるべき場所へ戻るべきだと思わないかね」
荷物を整理してすぐ、俺は事務所へ行くように言われた。ドアを開けると、中には正木部長がいた。そして前置きもなく言われたのだ。解雇の通告だった。
同じ業種なのに、規模が違えば大切な気持ちまで失わなければいけないのだろうか。俺は部長へ再度訴えた。
「規模が大きいからこそ品質が重要になるんじゃないですか。私が弾いてきた部品をしっかり見てください。問題が出てからでは遅いんです」
あれだけ気に食わなかった正木部長へ、俺は全身全霊で訴えた。首にはなりたくはなかったが、「下町臭い」と言われた考えに少しでも耳を傾けて欲しかった。しかし部長は俺の言葉を聞いてはいなかった。俺の口が止まったことを確認し、書類を一瞥して置いた。そして言葉を吐き捨てて出ていった。
「非効率な人間は邪魔でしかない。お疲れ様、鈴木君」
最後の訴えも虚しく、俺はブリッジワンを解雇となったのだった。
俺は伝え方が下手だったのだろうか。もっとうまくやれば、部長や宗田さんに伝わったのだろうか。今となっては考えても仕方のないことだった。長いようで短い勤務だった。
気がつけば電車は目的地の駅についていた。俺は変わらない風景の中を歩き、ある場所へたどり着いた。
「色々あったけど、やっぱり帰ってきてしまったな。親父、ゴロジー、俺、ここでもう一度一から頑張るよ。職人として」
俺は閉鎖したままになっていた工場の前で、誰はばからず宣言したのだった。退職金と少ない貯金を元手に、俺は父の工場を再開することを決意していた。借金返済のために売ってしまったものを再び買い揃え、誇りを被っていた工場全体を綺麗に磨き上げた。一ヶ月後、全てが終わった頃には、もはや退職金などほとんどなくなっていた。
「一からというより、ゼロからのスタートだな」
俺は両手を腰に当て、生まれ変わった鈴木製作所を眺めていた。すると後ろからいくつかの声が聞こえてきた。
「鈴木君、おはよう。私も早く来たつもりだったけど、負けちゃったか」
「工場すっかり綺麗になったね。気合入るな」
「ああ、でもまずは営業からだ。仕事を勝ち取らないと。楠木さん、みんな本当にいいのか?」
「今更だよね」
みんな楠木さんの声かけに、後ろにいた数人が声をあげ、ポーズをしてくれた。俺が解雇になって地元へ帰ってきた時、楠木さんから連絡が来た。てっきり別れの挨拶だと思ったのだが、彼女は衝撃的なことを俺へ伝えたのだ。
「ブリッジワンをやめるだって?楠木さん、どういうこと?」
「うん、もう決めたの。鈴木君が解雇になって、何人かで話し合っていたの。そして結論が出たわ。私たちは、会社に不必要とされた鈴木君の職人技に惚れ込んでるって」
「楠木さん」
「一緒に働かせて欲しいの。大変なのは分かってる。でもみんな覚悟は決めたから」
こうして楠木さんを含む元同僚四人が、会社をやめてまで俺の工場へ来てくれることになったのだ。一人から始めるつもりだったが、仲間が四人もすでにいることに、俺は安心感を持った。責任も重大だが、あの会社でも同じ気持ちの人がいた事実が嬉しかった。
それから俺の睡眠時間のない日々が始まった。日中は営業とみんなへの技術講習をひたすらに続けた。単純作業とは全く違う作業がほとんどだからだ。だがみんな真剣に技術を身につけようとしてくれていた。夜まで続けたい人には最後まで付き合った。
営業はまず昔の取引先を回った。資金繰りができなくなって一度閉鎖しているのだから厳しくはあったが、再開したことを喜んでくれる会社もあり、ぽつぽつだが仕事を獲得し出していた。もちろん仕事にも精を出した。
「わあ、鈴木君、本当に職人だね。薄い板加工だよね。これが自動車のボディとかに使われるんだ」
「すごい、金属がこんなに薄くなるなんて」
「本当だ。鈴木君、やっぱすごいな。俺も早くできるように頑張るよ、みんな」
あ、未来をまだ描けるほどではないが、日々盛り上がっていく工場の活気に、俺は自然と笑顔が出始めていた。しかし、まだまだ鈴木製作所に平和が訪れるには早いようだった。
金曜の夜、みんなが帰った後、俺は一人工場にいた。これからのことを考えるためだった。家よりこの場所の方が落ち着くような気がしていたからだ。
「昔馴染みの会社はほぼ回ったな。何か他の角度からアピールできることを探さないと」
ん?俺は窓の方から何か見られているような気配を感じた。ここは夜にもなると人通りはほとんどなくなるので、嫌な予感が頭をよぎった。俺はそっと事務所から出て、近くにあった懐中電灯を持ち、裏口から視線を感じた方へ向かった。足音に気をつけ、そっと歩いていくときょろきょろしている人影が見えた。俺はすぐに逃げられるようにスマホを握りながら、勢いよく影へ向けて光を当てた。
「誰だ?」
「きゃっ」
暗闇の中、その影は光で照らされ正体を現した。なんと宗田さんだったのだ。
「宗田さん?なんでこんなとこに?」
「え、えっと、その、元気かなって思って。ごめんなさい。勝手にのこのこやってくるなんて、ごめんなさい」
立ち去ろうとする宗田さんの腕を、俺は反射的に掴んだ。宗田さんは初めはこちらを向かなかったが、ゆっくりと神妙に、力の抜けた様子でこちらを振り返った。俺はそのまま彼女が倒れてしまわないように背を支えながら事務所へ案内した。宗田さんは何も言わずソファーへ腰をかけ、手に持っていた紙袋を差し出した。
「これ、差し入れ。私の好きなコーヒークッキー。鈴木君、コーヒーよく飲んでたでしょ?本当に泥棒みたいなことをしてごめんなさい。君がどうしてるのかずっと気になってて。工場はどんな感じ?」
俺は今日に限ってお茶しかないことを申し訳なく思いながら宗田さんに差し出し、自分も腰をかけた。
「まあ、まだ始まったばかりだし、細々って感じですね。これからですよ」
俺は笑顔でそう答えた。しかし宗田さんには俺が強がっているように見えたのかもしれない。突然、入れたてのお茶を喉に流し込み、先ほどの一歩引いた表情とは打って変わり話し出した。
「あのね、私は部長とは違うから」
「はい」
「だから解雇はやりすぎってこと。そりゃ利益云々の話では、鈴木君と私の意見は合わなかったみたいだったけど。というか鈴木君、私の質問に答えなかったし。いいものを作りたいってことなんだよね。そうだよね。そういう人を会社は大切にしないといけない。それを首を切って終わりなんて。そりゃ確かに利益は大事だけどさ」
宗田さんは一気にまくし立てて話した後、ようやく喉の渇きを感じたのか少し咳込み出した。俺は水を用意し、そして宗田さんをじっと見ていた。確かに思い返すと宗田さんの言う通りだった。話した時にすぐ理解してもらえなかったことで、俺は言葉に詰まってしまい、彼女の問いには何も答えないまま終わってしまっていた。
「宗田さん、すみませんでした。それと、気にかけてくれてありがとう」
「そんな」
宗田さんは目を伏せた。
「ずっとモヤモヤしてたの。会社の利益だとか生産性だとか、もちろんそれは大事だよ。だけど君が使う人の先を見て物作りしてるのを見たら、羨ましくなった」
宗田さんはそこまで言うとすっと顔を上げる。
「こないだ鈴木君が弾いた部品を見た時、なんでこんな無駄なことをって思った。でも違うんだよね。作る人が最後まで責任持って、これだって思えるものを世に出したい。そこに鈴木君の職人の誇りがあるっていうのを分かってたのに、見ないふりしてた。その方が会社では楽に生きられると思ってたから」
その声は少しだけ震えていたけれど、彼女の瞳は真剣だった。
「だからありがとう。鈴木君が品質を守るんだって必死に言ってたのを見て、私ももう一度いいものを作りたいって気持ちを思い出せた」
彼女の言葉に、心の奥からじわっと熱い感覚が込み上げてくる。
「じゃあ、一緒にやりませんか?」
気づけば俺はそう言っていた。大きな会社の生産ラインとは違う。俺たちのやり方で、下町の小さな工場だけど、俺は一人じゃない。彼女のデザインセンスや物作りへの思いが加わったら、どれほどのことができるだろう。想像するだけで胸が高鳴る。だけど宗田さんはそこで一瞬戸惑ったように視線を落としてしまう。
「一緒にやるって、私、簡単には会社やめられないんだよ」
その言葉に俺は少し身を乗り出した。
「何か理由があるんですか?」
俺は宗田さんの表情をじっと見つめた。
「単なる借金よ。逃げた父親が作ったのを返すために。放棄もできなかったから、そのために私は生きてる。だから会社は何があってもやめられない。理不尽だと思っても、従順な歯車でないといけない。会社に染まらないと辛いだけだもの。それだけよ」
自虐的に語った宗田さんは、言い終わると最後に俺の方をじっと見た。
「あ、でも少し逆らっちゃったわ。私が鈴木君と顔見知りなのを正木部長は知ってて、あなたに関わるなって言われてたの。でも今日来ちゃった」
宗田さんはそう言うと、とぼけた感じの笑顔を俺へ向けた。それはとても可愛らしく、そしてどうしようもない悲しみも含んでいる気がした。
「全部投げ出したくなる時もあるよね」
「少し分かりますけど」
俺がそこまで言うと、宗田さんは「分かっている」と書いてあるような、先ほどとは違う気合いを入れ直した表情をした。
「やるしかないよね」
「ですね」
「宗田さん、俺たちお互い色んなものを抱えてますけど、だからこそ話聞けるんで、またでも来てください」
俺に関わるなと言われている彼女に言う言葉ではなかったかもしれない。だが立場は違え、人生をもがいている者同士なのだから助け合っていきたい。力になりたいと、俺は彼女に対して素直に思った。宗田さんはゆっくりと帰る準備をし、小声で「ありがとう」と言い工場を出ていった。
助け合っていきたいと思ったものの、自我を通そうとして解雇になった俺。そして自我を出すことを許されない彼女。相容れない俺たちに、果たして助け合いはできるのだろうか。もどかしい気持ちを抱えたまま、俺はまたデスクへ戻った。
それから一ヶ月が経った。工場ではみんなが技術向上に励んでいる。一見活気のある現場に見えるだろう。だが現実は窮地に立たされていた。俺はみんなの前では笑顔でいたものの、工場が閉まると一人で頭を抱える日々が続いていた。新規受注が一向に増えないのだ。営業も様々なところへかけた。工場を再開した時に仕事を取れた会社からの継続受注は少なく、新規もない。みんなの給料のこともある。もう一度工場を閉めるなど絶対にしたくはないと思いつつ、打開策が見つからない。俺は一人板挟み状態になっていた。
その日の夜も、一人デスク周りだけのライトをつけ、俺は答えの出ない迷路を彷徨っていた。デスクに突っ伏しそうになった、その時だった。突然窓の方から聞こえた音に俺が振り向くと、暗闇の中、開けっぱなしになっていた窓からぬるっと白い手が生え出してきていた。
「うわあっ」
「私よ、私」
「宗田さん!」
恐怖で目が覚め、ようやく飛び出しそうになった心臓が落ち着き、俺は事務所へ招えた宗田さんに紅茶を差し出した。
「全く、来るなら入口からにしてくださいよ。心臓に悪い」
「だって、一応はあなたと関わるなって言われてるし。あら、今日は紅茶なのね。いただきます」
「ええ、同じお茶より選べる方が楽しいだろうって、楠木さんが持ってきてくれたんですよ。あ、こないだ頂いた差し入れのクッキーも好評でした。ありがとうございます」
俺の言葉に頷くこともなく、宗田さんは紅茶を飲んでいた。
「楠木さん、あ、鈴木君について来てやめた人ね。ところで工場の方はどう?崖っぷちなんでしょ?」
ストレートな彼女の物言いについ俺は虚勢を張ろうとしたが、それより早く俺の顔は宗田さんの両手に挟まれていた。
「言い訳しても無駄よ。こんな目の下にクマ作って。私たち助け合うんでしょ」
お見通しだと言わんばかりの宗田さんの真剣な表情に、俺はついに観念してしまった。俺のぽつぽつと話すネガティブな言葉を、彼女は何も言わず聞いてくれていた。
「どうにかしなきゃなんですけどね。自分の営業力のなさと、仕事までやめてきてくれた楠木さんたちに申し訳が立たなくて、本当情けないですよ」
「バカね」
「え?」
すると宗田さんはまたもや俺の顔を手でサンドイッチにした。そして自分の顔をぐっと近づけて話し出した。
「あのね、君は背負い込みすぎ。会社やめてついてきた人たちのことまで背負い込まなくていいのよ。みんな自分で決めてそうしたんだから。今はまず経営難からの脱却法を考える。それに集中するの」
「あ、はい」
宗田さんは俺の話、工場の現状を聞いた後、じっと考え込みながら持ってきていたパソコンと睨めっこを始めた。声をかけられる雰囲気ではとてもなく、俺はただひたすら空になったカップへ紅茶を注いでいた。
「ねえ、鈴木君、君って学生の頃からここで技術学んできたんだよね」
「ええ、結構特殊なところまで叩き込まれたと思ってます。えっと、それがどうかしましたか?」
何も分かってない俺をよそに、宗田さんは立ち上がり、事務所をうろうろし出した。
「そ、宗田さん」
「ん、これ、結構有名なブランドのアクセサリーよね。これ、もしかして直してたの?」
宗田さんはデスクに置きっぱなしにしていたクロスのネックレスを手に取った。それは友人から修復を頼まれていたものだった。小さな欠けだったが、そういうものほど一度気になると目について仕方ないそうだ。特殊加工のものだったので、修理跡が目立たないように時間をかけて作業していた。実を言うと悩み事だらけになっていたので、いい気分転換にもなっていた。そんなものに宗田さんが興味を持ったことに、俺はまだ理解が追いついていなかった。
「金属製品の修復技術は特に叩き込まれたんです。車やバイクの部品はもちろんですが、アクセサリーもできますよ」
「それだ!」
宗田さんが突然突進してきそうな勢いで迫ってきたので、俺は踏ん張りきれずソファーへ倒れ込んでしまった。驚いて目を見開いている俺の顔の上には、ワクワクを隠しきれない彼女の綺麗な顔があった。
「お、俺にも分かるように説明してもらえますか?今完全に置いてけぼりになってます」
「これはまれば、一気に大逆転よ」
俺たちは改めて座り直し、会議を始めた。
「SNSですか?確かに大抵の企業はやってますけど、町工場が何を発信するんですか?」
「まずはきっかけ作りが大切。そしてそれがこれよ」
宗田さんはさっきのネックレスを手に取り、キラキラと光らせた。
「ビフォーアフターを載せてアピールしていくの。まずはそこから知名度を獲得する。アクセサリーの修理って珍しくはないけれど、これだけの完成度は素晴らしいし、町工場でやってるっていうのもインパクトがあるわ」
「そういうものなんですかね」
「自分で自分の力ってよくわからないものよね。よし、アカウント作成終了。早速始めましょう」
宗田さんの行動はとにかく早かった。俺は友人に連絡し、写真の許可を取った。そして一応撮っておいた修理前の写真を宗田さんへ送り、俺は宗田さんの動きをずっと目で追っていた。そして鈴木製作所公式アカウントの初投稿がアップされた。
「おお、なんかかっこいいですね。俺が身につけた写真も使われてる」
「アピールになるでしょ。実際すごいしね。さて、私ができるのはここまでかしら。あとは工場の皆さんと一度話し合ってみて決めてちょうだい。じゃあ私は帰るね」
さっさと帰ろうとする宗田さんを、俺ははっとして呼び止めた。
「ま、待ってください。宗田さんは、何か用事があったんじゃないんですか?何か話したくて来てくれたんじゃ」
俺の言葉に宗田さんは振り返り、そして前を向きながら大きく笑った。
「なんだか忘れちゃったわ。じゃあ頑張ってね、鈴木君」
宗田さんを見送り、俺はソファーへ腰かけ、彼女の作ってくれたSNSを見ていた。急に現れた町工場のアカウントに、すぐに反応が来ていた。してもらうばかりで宗田さんの力になれているのか分からない状況に心がもやついたが、まず彼女の作ってくれた道を生かしていかなければと決意した。
その時、閉めたはずの事務所のドアが開いた。宗田さんが忘れ物でもしたのかと思い俺は駆け寄ったが、そこにいたのはまさかの人だった。
「ごめんね。急に。鈴木君、疲れてるんじゃないかって気になって来てしまったの」
「楠木さん、そんなわざわざ。入って、お茶入れるよ」
突然の来者は楠木さんだった。俺のことを心配してくれていたそうだ。隠していたつもりが逆効果になっていたことを反省しつつ、俺はちょうどいいタイミングだと思い、楠木さんにSNSのこと、そして宗田さんの案であることを話した。楠木さんはSNSを使っていると前に話してくれたことがあったので、この話にきっと力を貸してくれると思っていた。だが俺の説明後に出た彼女の言葉は、想像もしない疑問だった。
「鈴木君、宗田さんって宗田ルカでしょ?デザイナーとして今もブリッジワンにいる。嫌な言い方になるけど、信用していいのかな?彼女、正木部長のお気に入りって噂もあったし、差し金かもしれないじゃない」
楠木さんは少し眉間にしわを寄せながらそう言った。宗田さんにそんな噂があったことすら知らなかった。俺は一瞬ドキッとしてしまった。まだ会社にいた頃、会社の利益が一番だと言い切った宗田さんが頭をよぎった。だがそれは一瞬だった。俺はこっちに来てから改めて向き合った宗田さんの方を信じたかったのだ。
「楠木さん、心配してくれてありがとう。宗田さんなら大丈夫だよ。それにこのSNSだって、彼女はアイデアをくれただけだ。あ、俺が頑張らないと。やったことないんだけどね」
俺がガシガシと頭を掻くと、楠木さんは少し口角を上げながら軽くため息をついた。
「分かったわ。鈴木君を信じるよ。SNSのことは任せてくれないかな?私、ハンドメイド好きで結構使ってるから。鈴木君よりはうまくできるからね」
「楠木さん、助かるよ」
こうして鈴木製作所の新たな挑戦が始まった。SNSでは技術の高さを分かってもらうため、そして拡散しやすいように身近な金属製品の修復過程を日々アップした。概要には車やバイクの修復もやっていると記載しておき、取り扱いの幅の広さもアピールした。楠木さんのSNS活用術は素晴らしかった。写真の撮り方、ハッシュタグ、時間帯など徹底的にこだわっており、俺はSNSを仕事に使うということの奥深さを感じていた。
そして一ヶ月も待たずに結果を実感することになった。いわゆるバズるということが頻繁に起き、仕事依頼のDMが大量に来るようになったのだ。アイデアをくれた宗田さん、運営の楠木さん、そして急に増えた仕事を真剣に丁寧に向き合ってくれた元同僚のみんなのおかげだった。俺一人の力では無理だった。鈴木製作所は噂が噂を呼び、知る人知る町工場へ生まれ変わろうとしていた。
小さな仕事を受けつつ技術を磨く日々が一ヶ月ほど続いたある日だった。鈴木製作所では会議が行われていた。議題はこれからの市場開拓についてだ。
「みんなのおかげでこの工場の知名度もだいぶ上がってきた。個人事業ならこのままで良かったかもしれない。だがここは会社だ。そこで、この波に乗って大きな一手を打とうと思う」
ソファーに座っているみんなが俺の言葉に少し緊張しながらホワイトボードに目をやった。俺は事前に書いておいた企画を見せるためボードをぐるりと回し、説明を始めた。
「俺もSNS勉強したんだけど、うちのアカウントかなりフォロワー増えたよね。一人ひとり確認したんだけど、意外な事実が発覚しました」
みんなが「おお」と声を上げた。俺はその反応を聞き、あえてトーンを下げ話を続けた。
「これは概要に楠木さんが入れてくれた『車やバイクの修復』って文のおかげだと思う。ここを逃してはならない。いよいよ本格的に自動車工場としての力を発信していこうと思う。みんな、よろしく」
先ほどよりさらに大きな歓声が上がった。やり方は今までと変わりないが、単に車の修理だけでは他社に負けるのは明らかだった。そこで俺たちはターゲットを絞ることにした。普通の修理も受けようが、生産終了のものやクラシックカーなどの修理に特化していることを売りにしたのだ。楠木さん曰く「ニッチ」と言うらしい。そしてニッチな市場は、手間がかかっても仕事がきっちりしていれば顧客が離れにくいそうだ。技術に心配はない。俺にはゴロジーから引き継いだ金属製品の修復技術があるのだから。
そして狙いは的中した。耐久性のアップと何より仕上がりの美しさに、お客様から評判を得たのだ。顧客に許可を得てSNSで宣伝する。そして顧客自身も自分のアカウントで紹介してくれる。評判は金属加工の業界まで広がり、「ここまでできるものなのか」と話題を呼んでいた。俺は本当の意味での工場の活気を感じ始めていた。それは決して昔に戻ったという意味ではなく、新たなメンバーと新たな未来へ向かっていくという高揚感に近いものだった。
だが、まだまだ一筋縄ではいかなかった。予想だにしない仕事が舞い込んだことにより、この工場は分裂の危機を迎えることになる。
自動車修理業務も軌道に乗ってきたある日だった。珍しく工場入口のチャイムが鳴った。
「はい。少々お待ちください」
事務所には俺と楠木さんがいたのだが、ちょうど手の空いていた彼女が玄関に出てくれた。特殊修理業務はまずネットで予約をもらってからにしていたが、通常の修理業務は飛び込みももちろんある。もしかするとそっちのお客かもしれないと思った。だがエンジン音も聞こえなかったし、何より楠木さんが帰ってこない。俺は様子を伺うように玄関へ向かった。すると意外な人が楠木さんと向き合っていた。
「え、宗田さん」
「鈴木君、あの、急にごめんなさい」
入口から現れた彼女に変な感覚になってしまったが、俺は彼女に伝えなければいけないことがあった。
「宗田さんに連絡しないとって思ってたんです。さ、中へどうぞ。そんな突っ立ってないで」
「あ、ありがとう」
その場で俺だけが空気を読めていない状態だったのかもしれない。元々控えめな宗田さんと、明らかに不審感を向けている楠木さん。とにかく俺は二人を中へ呼んだ。楠木さんは宗田さんへお茶を出した後、事務所を出て行ってしまった。雰囲気は最悪だった。俺は宗田さんに感謝を伝えたかったのだが、どうにもそんな雰囲気ではない。とりあえずお茶を飲むと、宗田さんの方から口を切った。
「うまくいってるみたいね。クラシックカー特化の修理なんて、とても目の付け所がいいと思う」
「ありがとうございます。元は宗田さんがSNSを進めてくれたからですよ。本当に感謝してます」
感謝は伝えられたが、宗田さんがそんなことを聞きに来たのではないことくらい、俺にでも分かった。何か話しにくいことなのだろう。俺から聞くことがまたお礼の一つになるかもと思った。
「どうかしたんですか?ほら、俺たち助け合いじゃないですか?」
話しやすいように笑顔で俺は彼女に問いかけた。すると宗田さんは少し苦笑いをすると、意を決したかのように真正面を向き話し出した。
「鈴木君、お願いがあるの。ブリッジワンの仕事を受けてもらえないかしら?」
「え?」
驚いている俺を「予想通りだ」という苦い表情で見ながら、宗田さんは続けた。
「まず聞くだけ聞いてほしい。まだ表にはなってない話なの。ブリッジワンの自動車がまた海外へ出荷されることになったのは知ってる?」
「知ってますよ。ついにあの車が海外へ出荷されるんですよね。おめでとうございます」
「そう。それも言おうと思って」
俺は口をつぐんだ。話の流れ的にいい話なわけがないのだ。俺は下を向き、彼女の言葉を待った。
「あの車を海外向けに改良して、部品工場にも最新機器を入れてガンガン生産していってたわ。だけどサンプルで海外へ先に送っていた車の強度を指摘されてしまって」
彼女の話を聞きながら、俺の脳内は部品工場にいたあの頃へ戻っていた。宗田さんはだんだん言葉に詰まり出した。
「すぐに強度チェックに入ったけど、大量生産だから小さい傷がどんどん出てきてしまって、もう納期に間に合わないの。この車の海外出荷はかなり無理を言って進めた話なの。これで納期が間に合わないとなれば、信用はなくなってしまいますね」
少しの沈黙の後、鼻をすする音が聞こえ出した。下を向いてしまっているが、宗田さんはこらえきれず泣いてしまっていた。
「調子のいいこと言ってるのは分かってる。でもどうか力を貸してください。鈴木君の工場なら信用できる。お願いします。お願い」
俺は宗田さんにティッシュを差し出そうとした。しかしその時、勢いよく事務所のドアが開いたのだ。
「私は反対よ。鈴木君、流されちゃだめだよ。あなたを追い出した会社だよ。しかも散々あなたの意見を馬鹿にしてきた。それを困ったから技術を貸してくれなんて、ふざけてるわ」
宗田さんへ土足を向けたのは楠木さんだった。後ろには怒りの表情で他のみんなも立っている。俺は一生懸命に考えようとした。みんなの気持ちも分かる。だが会社というより、宗田さんを助けたい。相容れない意見を一体どうすればいいのか、答えは出なかったので、俺はもう単純に考えることにした。背負い込みすぎるのをやめることにしたのだ。
俺は楠木さんたちへ言った。
「みんな、これは仕事の依頼だ。こんな大口の仕事を断れるほどうちはまだ余裕ないだろう。だって、俺が言っちゃダメなんだけどさ。あのブリッジワンが、どこなら海外を納得させられる仕事ができるかを考えて、うちを選んだんだ。これって勝ちじゃないか?俺はこの仕事を受けようと思う。目に見せてやろうじゃないか」
楠木さんたちは黙り込み、そして宗田さんは涙で赤くなってしまった目のまま俺の方を向いた。
「いいの?鈴木君」
「ああ、みんな忙しくなるけど、俺たちならできるよな」
みんなが言葉に迷っているところ、楠木さんがはっきりと言い切った。
「ちゃんと鈴木製作所に感謝してくださいよ。仕事は完璧にしますから」
「決まりだね。宗田さん。必ずあの車を海外へ旅立たせよう」
「ありがとう、鈴木君」
そう言うと宗田さんは立ち上がり、みんなの方へ向き直った。そして深々と頭を下げたのだ。
「鈴木製作所の皆さん、本当に本当にありがとうございます。このことは必ず上へ伝えます。よろしくお願いいたします」
大急ぎで部品の図面を送ってもらい、鈴木製作所はあの車の部品制作へ取りかかった。この小さな工場では若干キャパオーバーな量だったが、そこは皆元々部品工場経験者だ。感覚が戻れば仕事は早かった。
「鈴木君、これの不良品たちチェックお願いします」
「はい。うん。さすがだよ、楠木さん。ちょっとこの子たちはギリギリだな。リサイクルに回そう」
残業が続いた。しかしこの仕事が終われば、工場が再開してからで一番大きな収益を得られる。残業代もしっかり払えるはずだ。一生懸命に、そして正確に、チームワークで作業を続け、俺たちはきっちりと仕事を完了することができた。
「本当にありがとうございました。これは私個人ではなく、ブリッジワンとしての感謝の意です。鈴木製作所様、本当にお世話になりました」
納品後、工場へやってきた宗田さんは何度もみんなへ頭を下げた。あの時怒りの表情を向けていたみんなも、今は笑顔だ。楠木さんも少しだけ口角を上げていた。俺は宗田さんの手を取った。
「あの車の海外進出、楽しみにしてますよ」
「鈴木君」
「うん」
みんなで大きな山場を超えた達成感を胸に、俺は宗田さんを見送った。また明日から鈴木製作所としての仕事が始まる。みんなにも頑張りに見合った給料を払える。この仕事を受けたことに後悔はなかった。そのはずだった。
だが俺がブリッジワンの罠に気づいた時には、もう取り返しのつかないことになっていたのだった。
三日後、俺は作業着のまま電車に乗っていた。向かっていたのはブリッジワンだ。もう行くこともないと思っていたのに、こんな理由で行くことになるとは思いもしなかった。俺は自分の甘さとブリッジワンの怒りでぐちゃぐちゃになっていた。アポイントもなく受付へ行き、正木部長に合わせろと言った。断られても強行突破するつもりだった。しかし、正木部長はあっさりと俺を会議室へ通したのだ。
俺はノックもそこそこに会議室のドアを開けた。
「おや、久しぶりだな、職人君。アポも取らず乗り込んでくるとは、やはり今でも社会人としては無能のようだな」
「正木部長」
俺は数枚の紙をデスクへ叩きつけた。正木部長は冷めた目でそれを見ている。俺は一生懸命に気持ちを落ち着かせながら、部長を睨みつつ言った。
「どういうことですか?この契約書に記載されている契約通り振り込まれていません。半分にも満たない額だ」
「はあ。イレギュラーで早めの入金をしたことに、例はないのかね」
「俺は金額の話をしているんです」
今朝、俺は会社用の通帳を確認しに行っていた。今回は急な仕事だったこともあり、今日入金すると聞いていたから。だがブリッジワンからの少なすぎる入金に、俺はそのまま電車へ飛び乗り、ここまで来たというわけだ。頭に血が上るのを抑えられない俺をニヤニヤしながら見つつ、正木部長は契約書を手に取った。そしてメガネをかけ、契約書を読み出した。
「この契約金は仮とし、金額に関してはブリッジワンに一任するものとする。いや、急に下町工場へ降った仕事なんて、何があるかわからないものだろう。手を抜かれてはたまらないからね。一文付けておいたんだが、まさか読んでなかったと」
俺は部長から契約書を奪い取り、再度読み直した。契約書の二枚目にある契約内容の中に、先ほど部長が読み上げた分が確かに入っていたのだ。俺の血の気はどんどん引いていった。俺のミスだった。信じすぎてしまっていた。正木部長が関わっている契約書だと分かった時点で、疑うべきだった。
俺は契約書をぐしゃりと握りしめながら言った。
「もうこちらの仕事は絶対に受けません」
俺の絞り出した言葉に、正木部長は吹き出すように大笑いした。
「まあ、その決意がいつまで持つかな。きっと我が社へ仕事をくれと土下座してくることになるさ」
「はあ?」
言葉の意味が分からなかった。俺の聞き間違いだろうか。眉を潜めたまま部長を見ると、会社用のスマホが震え出した。
「ああ、いい。話は終わりだ。さっさと帰りたまえ。きっと今頃、祭りかもな」
「くっ」
俺は挨拶もせずブリッジワンを後にした。電話を折り返すと、楠木さんが出た。
「連絡できなくてごめん。どうかした?」
「鈴木君、会社が大変なの。今どこ?とにかく帰ってきて」
俺は電車を止め、タクシーに乗り込み、急いで工場へ戻った。中は仕事をしている人はおらず、みんな事務所へ集まっていた。
「何があった?」
「鈴木君、今まで契約を続けてくれていた会社が、打ち切りにしたいって」
「は?どこの会社?話しに行ってくる」
「全部なの?」
俺の肩から背負っていたリュックがずるずると落ちていった。
「全部」
確かに個人受注の修理仕事は順調だった。だが収益の土台は、やはり継続で契約してくれている会社だ。それが全てなくなってしまった。俺の脳裏には、先ほどの正木部長の言葉が思い返された。
「圧力をかけるだなんて、何がそこまで気に食わないんだよ」
上に叶わない悔しさ。部品工場にいた頃からずっと溜め込んでいたものを、俺はついに大声で吐き出してしまった。
「ごめん、みんな。今日は臨時休業にしよう。解決策は考えるからさ。すまない」
そう伝えても、みんな一向に動く気配はない。みんなの目は、職場をやめてまで俺のところへ来てくれた時のままだった。
「鈴木君、私たち、ちゃんと自分たちで決断してここへ来たんだよ。何かあったなら、一緒に乗り越えたいの」
全員が頷いてくれた。俺は泣きそうになるのをこらえ、みんなに感謝し、現状を伝えた。見る見るみんなの顔が赤くなっていくのが分かった。
「あの会社、許せないわ」
「部長のやつ、逆らった人間を徹底的に潰すのを楽しんでる」
「正木部長は俺たちがブリッジワンへ頼ってくると思ってるけど、今契約なんてすれば、ギリギリの賃金で働かされるのは目に見えてる。こうなるだけだ」
周りが敵だらけに見えて仕方がなかった。いや、俺が正木部長に目をつけられているせいで、敵になってしまったとも言える。考えれば考えるほど、自分を否定しそうになってしまっていた。しかしそんな暇はなくなった。またもやチャイムが鳴ったのだ。なんとなく嫌な予感がし、俺が玄関へ向かった。
「はい。どちら様でしょうか?」
「鈴木君」
俺は急いでドアを開けた。そこには一瞬だけ目を合わせ、そらした宗田さんがいた。
「宗田さん」
「あ、今はちょっと中には」
「うん。そうだよね。私のせいになってるよね。全部」
俺は言葉を返せなかった。そして何やらデジャブのようなものを感じていた。それも束の間、玄関に楠木さんを先頭に、みんなが鬼の形相でやってきたのだ。楠木さんはもう我慢の限界だと言った顔で、握った拳はわなわなと震えていた。
「あんた、どういうつもりで来たの?また部長の差し金?あんたのせいであんたが、泣き脅しなんてせこい手までして騙したから、どう責任取るつもりよ」
「ちょ、楠木さん、ちょっと待って」
「鈴木君は黙ってて」
楠木さんは元々宗田さんのことをよく思っていなかったのだから、こんなことになってしまった後では、怒り心頭に発していてもおかしくはなかった。
「私のせいです。私が全部バカだったんです。でももう目が覚めました。もう我慢の限界」
そこまで言うと宗田さんはごくりと一息飲んで、折りたたむ勢いで頭を下げた。
「虫がいいことばかり言っているのは分かってますけど、どうかここで働かせてもらえませんか?」
途端に空気が止まった。俺も驚いたが、全員が彼女の言葉に気を取られていた。だがその中でもすぐに着火したのは、やはり楠木さんだった。もう宗田さんに掴みかかりそうな勢いだった。
「ふざけてんじゃないわよ。工場を崖っぷちにしといて、ここで働きたい?身の程知らずもいいところよ。誰のせいでこうなったと思ってるの?」
「知らなかったの?本当に知らなくて。社員が噂話してるのを聞いて、部長を問い詰めたら、『職人なんてものはプライドだけで生きてるから、嵌めるのも呆気ないくらい簡単だ』って」
宗田さんもまた拳を握りしめながら下を向いている。楠木さんはひたすらに「信じられない」と宗田さんへ浴びせかけていた。俺は傍観者になってしまっていたが、これではいけないと、止まりそうにない二人の間になんとか入り込んだ。
「そうだ。それで、あの、うちで働きたいっていうのは、一体会社をやめてきたの?」
「え?」
「辞表は、ずっと持っていたから、叩きつけてきたの」
みんなはざわざわした。さすがの楠木さんも目を見開き、止まってしまっている。俺はそっと宗田さんへ近づき、小声で聞いた。
「でも借金の話は」
「当面は貯金でなんとか。今までもきっとできたはずなのに、動けなかった。でも今回は違うわ。ここで動けなければ、私は本当に私を許せなくなるって思ったの。私も進むって決めた。それでここへ来てしまったんだけど、やっぱりダメよね」
みんなの聞きたいことは分かってた。ようやく落ち着いてきた空気の中、俺は宗田さんへ最後の質問をした。
「この工場でないといけない理由、教えてくれますか?発展途上だし、デザイナーの仕事なんて全くありませんよ」
鋭い視線をあちこちから受けながら、宗田さんは真剣な顔でみんなを見ながら話し出した。
「私は本当は鈴木君の物作りに対する姿勢を尊敬してた。でも会社をやめられない以上、無理やり自分の考えを会社に合わせてきたの。唯一自分の意見を出せたのは、あの車のデザインだけ。一つひとつ、一人ひとりを大切にしながら物と向き合うここで働きたい。もう自分の気持ちに嘘をつきたくないの。どうかお願いします」
彼女の言った本心は、会社をやめてここへ来てくれた楠木さんたちと同じものだった。俺はまた頭を下げ出した宗田さんの肩へ手を置いた。
「今はまだないけど、近いうちに宗田さんのデザイン力を発揮してもらえるよう頑張るよ。なんたってあの車をデザインした人だ。そして熱い気持ちの人だ。俺は一緒に働きたいと思う。みんな、楠木さん、どうだろうか」
眉を下げ、不安な顔をしながら宗田さんは楠木さんの方を見た。楠木さんは腕を組みながらまだ眉間にしわを寄せていたが、ぷいっと横を向きながらぼそっと呟いた。
「変な動きしてたら、即首にしてもらうから。それでもいいなら、私は鈴木君を信じる」
「ありがとう、楠木さん」
「あ、ありがとうございます」
みんなも少し複雑な顔をしながらも、宗田さんが仲間へ入ることを納得してくれたようだった。みんな事務所へ戻り、玄関先には俺と宗田さん二人になった。
「鈴木君、本当にありがとう。あなたに会えてなかったら、私、きっとどこかで潰れてしまっていたわ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。あの日、食堂が混んでて本当に良かった」
小声すぎて聞き取れず、俺は耳を彼女の方へ向けて「ん?」というジェスチャーを取った。すると宗田さんは先ほどと違う、そして意味深なことを俺へ言ったのだ。
「実はお土産があるの。きっと気に入ってくれると思うわ」
宗田さんが入社して二週間が経った。作業着姿も意外に似合っていた。初めはみんな少し距離を取っている様子だったが、積極的に学ぼうとしている宗田さんの姿に心を打たれたのか、徐々に関係性も変わってきた。楠木さんとは最低限の言葉しか交わしていないようだった。
しかし工場の問題は解決していない。契約先を全て失った穴を埋める方法が見つからないのだ。
「もう少し広く営業範囲を広げるか。いや、でもそれじゃ移動費、輸送費。うーん」
俺は事務所で一人ぶつぶつと呟いていた。そんな独り言を聞いていたのは宗田さんだった。
「あら、営業範囲を広げるのはいいと思うわよ」
「そうですね。一そ海外とかはうまくいきますかね」
「確かに海外の人からはファンだってDMもらえますよ」
そんな他愛もない話を俺たちはしていた。宗田さんは俺の肩の力を抜くために話してくれたのだろう。宗田さんは事務所の掃除をしながら、ちらちらと外を気にしている。今日も何かが起こるのだろうかと少しぞわっとした、その時だった。またもやチャイムが鳴ったのだ。しかも今回はひたすらに連打をし、外から俺の名前を呼んでいた。
「この工場のチャイムが鳴る時は何かが起こる時」と誰かが笑いながら言っていたが、まさかの今回も大事件の起きる合図になるのだった。
大急ぎでドアを開けると、そこには髪を振り乱した正木部長が立っていた。あまりにも意外すぎる訪問者に、俺は呆然としてしまった。
「鈴木製作所!貴様ら、どういうつもりだ?」
部長の怒号に、みんな仕事を止めて集まってきた。
「正木部長、何のことでしょうか?」
俺は冷静に対応した。
「ふ、ふざけるな。そうだ。お前は知ってるよな。あの車の海外販売のために、俺が一生懸命になって契約をしたあの会社だ」
「あ、あそこか」
「あいつらが、契約は今回で終了で、次は鈴木製作所と契約するとか、わけのわからんことを言ってきたんだぞ」
正木部長はぜえぜえと肩で息をしながら、頭に詰まった不満と疑問をぶちまけた。それに引き換え、工場の面々は冷静だった。少し笑いをこらえているものもいた。俺は部長の正面に立って、淡々と話した。
「あちらの会社は、元々あの車のデザインを初めに気に入ってくれてたんです。なので宗田さんがブリッジワンをやめてから連絡を取った時、喜んでくれましたよ」
「なんだと?宗田、貴様」
俺は宗田さんを自分の後ろへ隠した。
「そこで、その縁を使って俺というか鈴木製作所は技術の売り込みをしました。製品を送ったり、職人技術の動画を送ったり。特に修理技術にはとても興味を持ってもらえましてね。送って来られたクラシックカーを修理したら、それは感動してもらえました。その結果」
俺はそこまで言ってから宗田さんへ目線を送った。彼女はにこりと頷き、話を引き継いだ。
「費用を全部あちらが持ってでも契約したいとのことです。これからの自動車関係の仕事も全て鈴木製作所とするという契約も結びました。契約金は現時点でそちらと契約していた時の十倍といったところですね」
部長は言葉が出てこず、ひたすらに肩で息をし、顔は真っ赤になっていた。だが、ふと何かに気がついたような表情の後、だんだんと顔色が青ざめていったのだ。そして言葉を無理やり絞り出していった。
「おい、お前たち、ま、まさか」
鈴木製作所全員がにやりと笑った。
「契約の際、色々分かりましたよ。あと宗田さんが集めた情報と合わせてね。部長、相当パワハしてたみたいですね。しかも部品工場も地方にあるところでは、やりたい放題してたみたいじゃないですか」
「あ、やりたい放題はいつもですね」
「これからどうなるか、楽しみにしていてくださいね」
正木部長は頭を抱えていたかと思うと、髪の毛をむしり取る勢いでぐしゃぐしゃにし出した。
「貴様ら、貴様ら。どんなに上に言っても、こんなクソ工場が我がブリッジワンに勝てるわけないだろうが。工場とも二度と立ち上がれないように、再起不能にしてやるからな。権力を思い知れ」
その時、俺のスマホが鳴った。メールが来たのだ。
「正木部長、笑っているところすみませんが、もっと面白いものが見られますよ」
「は?」
スマホで見られるニュースを彼の目の前で流し始めた。
「おい、なんだこれは?」
ニュースの中のアナウンサーの言葉が字幕と共に流れていく。画面にある見出しはこうだった。「日本大手の自動車会社ブリッジワンの不正疑惑」。アナウンサーとコメンテーターの間で、最低賃金での過剰労働、生産管理部長のパワハ疑惑、そして自動車の不備多発問題について議論がなされていた。部長のスマホが鳴り止ましくなり続けていたが、それを取る気力がないようで、部長はがくりとその場へ崩れ落ちてしまった。
「不正の証拠をネット番組へリークしたんですよ。ネットの方が反応早いですからね。これが真実だということを、俺は知っている。これからブリッジワンがどうなるのか、俺には分かりませんが、これだけは言える。これは職人魂の勝利だ」
正木部長はもはや目の焦点が合っていなかった。鳴り続けるスマホにようやく出たが、話は耳に入っていないようだ。誰かの怒号がこちらまで漏れ聞こえてきた。そのまま正木部長はこちらを振り向くことなく、薄笑いを響かせながら、ふらふらと乗り付けた車へ戻っていった。
車が去った後、俺たちはようやく肺の奥まで息を吸い込むことができた。
「ああ、一応、一件落着なのかな」
「お疲れ様、鈴木君」
宗田さんが俺の右肩へ手を置いた。
「スカッとしたよ、鈴木君」
楠木さんが俺の左肩へ手を置いた。二人は俺を挟んで少し見合っていたが、楠木さんは「どこがかっこよかったと思います?」と聞いた。
「私にだけ言わせるの?せーのにしましょう。せーの」
「職人魂の勝利だ」
二人の声だけでなく、みんなも一斉に叫んだ。俺も心の中で思いっきり叫んだのだった。
あれから三ヶ月が経った。製作所は職人の人数も増え、今日も忙しく活気のある職場となっている。アクセサリーやクラシックカーの修理業は続けており、海外との仕事もそろそろ本格的に始まる予定だ。仕事は増えているが、もちろん技術向上にも力を入れている。先日、金属加工業界での大きなイベント、技術展示会内で行われるコンテストで、鈴木製作所から出展した薄い板加工品と修復加工を施した部品が審査員特別賞を取ったのだ。知名度はさらに上がり、世界への大きなアピールにもなった。
ブリッジワンは監査が入り、日本大手と言われていたが、上層部は総入れ替えし、どうにかこうにか中規模の子会社へ吸収された。これは連日報道されるほど大きなニュースとなったのだ。正木部長はさらに悲惨だったかもしれない。パワハを受けた元社員たちへの賠償金。そして何より横領の証拠が揃ったことにより、逮捕となったのだ。最後の最後まで自分は権力者だと言っていたらしい。結果、国家権力に捕まることになったのだから、皮肉なものだ。会社で自分の好きなように振る舞えたことが、彼の考えを歪めてしまったのだろう。逮捕のことは、もはや誰も知らない。
宗田さんは無事に借金を返済し終えた。宗田さんもパワハを受けていたこともあり、賠償金が支払われたのだ。
「今までは諦めて月々を支払っていたけど、根本的に気合いを入れればどうにかなるものね」
宗田さんは笑いながらそう言っていたが、働いて切り詰めて払い切ったのは彼女の強さだと思っている。そんな宗田さんと距離のあった楠木さんだが、近づくもなく離れるもなく微妙な関係にあった。だが二人の距離が縮まったのは、楠木さんの愛車があの車だったことが発覚した時だった。言い出すタイミングもなく黙っていたが、たまたま休みの日に車で工場へ来た時、宗田さんもいたことでバレてしまったのだ。今は車好きという共通点ができたことで、二人で出かけることも多いらしい。
この工場が閉鎖してから今日まで、山あり谷ありなことばかりだった。俺はみんなが帰った後、これからもっと羽ばたいていくであろう鈴木製作所へ、そっと声をかけた。それは師匠に散々言われてきたあの言葉だった。
「技術の使い方を間違えるな。絶対に守るよ。ゴロジー」
「え?」
感慨に浸っていたのか、ドアが開いたことに気がついていなかった。知らぬ間に後ろにいたのは宗田さんだったのだ。
「鈴木君、今の言葉って、『技術の使い方を間違えるな』ですか?」
「ああ、これは昔ここで働いてた職人。いや、俺の師匠の言葉なんです」
久々にゆっくり昔を思い出す時間ができたからだろうか。俺は突然、小さな出来事を思い出した。
「そういえば、よく娘は絵の天才だって自慢してました。褒めろ、褒めろってうるさくて」
「ああ、そういえば工場を閉めた時、棚に入れていたんだった。本当はずっと事務所へ飾ってたんですよ。えっと、これだ」
俺も久々に見た絵だった。どこかの川沿いの桜並木を描いた絵だ。俺は自分の思い出を語っているつもりだった。だが宗田さんは顔を両手で抑えながら、顔をぶるぶると振っていた。そしてくぐもった声で言った。
「この師匠って人って」
「え、ゴロジーってみんな呼んでたんで、俺もゴロジーって。名前は五郎で、別におじいさんじゃないんですけど、雰囲気がもう雷みたいって感じで」
「その人って、今どこにいるの?」
「え?」
その叫びが工場へ響いた。俺はただ事ではないと察し、ゆっくりと話し出した。
「ゴロジーは工場閉鎖前から心臓が悪くて、一年後、亡くなりました」
「そっ」
「最後の最後までそばにいました。俺に自分の人生を残すみたいに、色々話してくれました。友人の借金を背負って、家族には迷惑かけられないから別れたけど、放棄できないかもしれないから悔しいって」
俺にはなんとなく答えが見えていた。だからこそ宗田さんに伝えなければいけなかった。
「娘は元気かな?会いたいなって言ってました。小さい頃書いてくれたこの絵をずっと大事にして、『絶対周りがほっとかない美人になるから覚えとけ』って言われてて、今やっと思い出しました。自分と違って華やかな名前だ。ルカだぞって」
宗田さんは立ったまま涙を流していた。俺はくしゃくしゃのハンカチを取り出して、涙を拭いてあげた。その手を宗田さんは震える手でそっと握った。
「かすかな思い出だけ。でもしっかり覚えてる。私が落書きしていたピカピカの指輪を作ってくれたり、車の話をよくしてくれた。どんどん私も興味を持っていったわ。『いつか家族でお父さんの作った車でドライブしよう』って言葉をずっと信じてた」
思い出が溢れ出すのをぐっと抑えながら、宗田さんは話を続けた。
「私の絵をいつも褒めてくれて、そしていつも『技術の使い方を間違えちゃだめだぞ』って。シャーペンがどうとかって話もよくしてくれてた」
宗田さんの指の力が強まった。
「借金を残した人ってことばっかりに追われて、大切なことを忘れていたわ。もう会えないお父さんに、鈴木君が合わせてくれたのね。ありがとう」
俺もまた彼女の手を強く握り、目を見つめた。
「これからですよ。これからお父さんの技術は、ルカさんのデザインと一緒に世界へ行くんだ。俺が必ずその道を作って見せますから」
「うん」
「私、お父さんに胸を張れるよう頑張る。よろしくね、ゲン君」
俺たちはお互いに照れ笑いしながら、少し誇りを被っていた埃を拭き、事務所へ飾った。ピンク色で描かれた満開の桜は、まさにこれからの俺たちの出発を喜んでくれているように鮮やかだった。



