「お前、得意先の社長に何を言ったんだ?無能な顧客はいらないそうだから、10億の相談は取り消すと言われたぞ。とにかく早く説得して何とかしろ!」
工藤部長の怒鳴り声を聞いて、すぐに思い当たる取引先があった。食品スーパーを各地に展開する会社で、新規出店のための店舗や土地の担当を長年任されていた。俺が辞めた後も、契約は継続しているはずだった。
俺の名前は細川俊之。不動産会社の営業マンだ。長年この会社で働き、営業成績も良く、社内外から頼りにされてきた。そんな中、上司の営業部長が定年退職すると聞き、最後に飲みに行った。部長には新人の頃からお世話になり、顧客との関係の築き方や信頼の大切さを教わった。楽しい時間を過ごし、部長を見送った。
新しい部長は工藤一。俺より年下で、社長の息子だった。有名大学を出た後、ずっと親のすねをかじってきたらしい。他の会社で働いた実績もなく、社長のコネだけで営業部長になった。社員たちは皆、社長への失望を感じていた。
工藤部長は業務をろくに覚えようとせず、スマホでゲーム動画を見ながら説明を聞いていた。唯一やる気を見せるのは、社長が出社する日だけ。その日は俺に仕事のやり方を聞いてきて、社長の前では「マルチタスクが得意だから大丈夫」と得意げに言った。だが次の日には、また業務を放棄。社員に細かい文句をつけてはふんぞり返るようになった。
俺は被害を受けた社員の愚痴を聞く役割まで引き受けていた。すると工藤部長から目をつけられ、コピー取りや飲み物の注文など、雑用を押し付けられるようになった。「細川って何年営業職やってんの?その年で管理職になれないってどうなの?」と嫌味も増えた。俺は外回りが多いから、内勤の日だけ我慢すればいいと割り切っていた。
ある日、外回りから帰ると、営業部の社員が俺のデスクを取り囲んでいた。「部長のことなんですけど、細川さんに当たりが強いことはみんな気になってたんです。最近、細川さんがいない時にもひどくなって…」彼らによると、工藤部長は俺の印象を悪くしようと、他の社員に口悪く愚痴を言っているらしい。さらに「他の部署で、細川さんが取引先にワイロを渡して仕事を受注しているって噂が流れ始めてるんです」と言う。
根も葉もない噂だが、社長の耳に入れば、息子を信じるかもしれない。嫌な予感は的中し、次の内勤の日に工藤部長に呼び出された。「細川さん、取引先にワイロを渡して契約を取ってきているというのは本当ですか?」
「妙な噂の件でしたら、全くの出鱈目です」
「あなたが素直に認めるとは思っていませんけどね。今までの成績を見ても、ずっとトップなんておかしいですよ」
「取引先とは誠実に仕事させてもらっています。私は何もやっていません。社長と話してきます」
社長室へ向かおうとすると、工藤部長が立ちはだかった。「社長からこの件に関して、部長の僕がしっかり対応するように任されてるんだよ」
「では、きちんとした調査をお願いします」
工藤部長はふざけた笑みを浮かべたまま首をかしげた。「ワイロを渡しているというのが例え事実じゃなくても、これだけ噂が広まってしまっては会社の評判に関わるんだよ。火のないところに煙は立たぬっていうしね」
「それはどういう意味ですか?」
「卑劣な手口でこれまでやってきたんだろう。つまり、あんたは優秀でも何でもなかったってことだ。無能な社員はこの会社にはいて欲しくないんだよね」
「ワイロなんて渡したことありません。それに私を信頼してくださっている取引先が多くあります。それをこんな形で手放すと言うんですか?今進行中の相談だっていくつもあるんですよ。どうか噂だけで判断しないでください」
何を言っても、工藤部長には伝わらない。信じてもらえないことが怖いと思った。悔しさで拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいた。
「どうせワイロを受け取るような顧客ばっかりとお付き合いしてるんだろう。正直、あんたみたいな無能の顧客なんてうちの会社には必要ないんだよ」
「部長、あなたは何ということを!」
顧客のことまで悪く言い出した部長に、俺は呆れた。これ以上、この人の下で働くことはできないと思った。
「ワイロ漬けの見苦しい顧客を連れて、さっさと会社を離れてくれよ」
「わかりました。今月をもって辞めさせていただきます」
俺はそう答えて一礼し、そのまま工藤部長の顔を見ずに自席へ戻った。得意先への挨拶や引き継ぎを済ませ、会社を去った。
潔く決断したつもりだったが、辞めた後は気落ちしてしまった。このまま営業の仕事を続けていくと思っていたのに、人生の急展開に気持ちが追いつかなかった。そんな俺を見かねて妻が言った。「あなたらしくない。過去なんて振り返らない主義でしょう。何か新しいことをしてみるのはどう?私は何でも応援するから」
妻のおかげで気を取り直し、まだ行ったことのない場所へ旅に出た。電車に揺られ、スマホの地図を片手に冒険気分を味わいながら、妻に感謝していた。ところが、突然工藤部長から電話がかかってきた。今更どうして?せっかく気持ちを切り替えたのに、もう関わりたくない。俺は思い切ってスマホの電源を落とした。
その日は旅館に一泊し、翌朝目覚めると電源を切ったままだったことに気づいた。妻が心配しているだろうと思い、電源を入れると、通知の音が響いた。妻からのメッセージは「今日は疲れて寝ちゃったのね。おやすみなさい」の1件だけ。ほっとしたのも束の間、着信履歴を埋め尽くす工藤部長からの異常な数の電話に驚いた。
画面を眺めていると、また着信が鳴り、反射的に通話ボタンを押してしまった。
「もしもし」
「やっと出やがったか。おい、お前、得意先の社長に何言ったんだ?無能な顧客はいらないそうだから、10億の相談は取り消すと言われたよ。とにかく早く説得して何とかしろ」
その取引先は、食品スーパーを各地に展開する会社で、新規出店の際の店舗や土地の担当を長年俺が担当していた。辞めることになった際、挨拶の連絡を入れた。すると社長は「有能な君がどうしてこんな突然に辞めることになったんだ。君が担当している10億の大口相談はどうなるんだ?」と聞いてきた。俺は謝ることしかできず頭を下げた。すると社長は小声で言った。「君の会社の評判は聞いてるよ。前の営業部長が定年退職になった後、社長のバカ息子がその席に座ったってな。君の妙な噂も聞いたが、君のことを知っている連中は出鱈目だって分かってる。そして君が何やら窮地に陥っているのだろうってことにも勘付いてるよ」
俺は顔を上げ、社長の顔を見た。今でも俺を信頼してくれているのだと分かり、気持ちが温かくなった。「僕はそういう人間は許せないたちでね。ここは友人として、何があったのか洗いざらい話してくれ。悪いようにはしないから」
気持ちが弱っていたこともあり、俺は退職に至るまでの一部始終を話した。その後、工藤部長からの電話には「そこの社長には辞める経緯を聞かれたので正直に話しました。しかし残念ですが、無能な私にはどうすることもできません。有能な工藤部長なら対応できますよね。よろしくお願いします」とだけ言って電話を切った。
その後、工藤部長からの連絡はなかった。旅を続けていると、例のスーパーの社長から連絡が入った。「10億の契約を切ると言ったら、工藤部長が慌てて頭を下げに来たよ。細川君を首にした責任を受け止めろと言って追い返してやった」
社長の満足そうな笑い声を聞いて、モヤモヤしていた気持ちが晴れていくのが分かった。「まあそれはともかく、君に是非紹介したい会社があるんだ」
「私にですか?」
「ああ、まだ最終職場が決まっていなければ是非にと思ってね」
こうして俺は社長の紹介で、別の不動産会社に再就職が決まった。そこでも営業として働き、俺が担当していた仕事を再びすることになった。
一方、工藤部長はと言うと、10億の契約ばかりでなく、スーパーの社長との大口契約を全て破棄されてしまったため、責任を取るはめになった。父親の工藤社長の怒りを買った彼は、懲戒処分を受けた上に解雇されて家から追い出されたと、前の会社の同僚から連絡をもらった。工藤社長も己の愚かさを反省し、同僚たちに謝罪したそうだ。
俺はそのことに安堵すると同時に、前の職場の同僚たちに負けぬようしっかり働かなければと気合いを入れた。新たな道を歩み始めた俺は、やはり営業の仕事が好きなのだとつくづく思う。再び働ける今の幸せを噛みしめながら、現場一筋で頑張ろうと決意を新たにした。
***
「無能な部下の親の顔が見たい。俺に挨拶するように馬鹿に言えよ」
ある日、仕事終わりに立ち寄った寿司屋で、最低の上司と遭遇してしまった。俺には分不相応な店だとけなした挙げ句、俺が母と待ち合わせをしていることを知ると、ここぞとばかりに俺と俺の母を侮辱してくる。
「母を馬鹿にというのはやめてください。母は父が亡くなった後、ひたすら真剣に僕を育ててくれました。常に懸命で立派な人だ」
「何が立派な人だ。こんな目上の人間に言い返すような躾のなってないバカを育てたやつだろうが」
俺が我慢ならず言い返すも、上司は声を張り上げて威圧する。声の大きさだけで俺を黙らせた上司は、勝ち誇った顔を見せた。俺は悔しさで口を一文字に結び、目を伏せた。
「ご迷惑をおかけしているようで申し訳ありません。お詫びいたします」
その時、凛とした声が響いた。視線を上げた先には、見慣れた顔と青ざめた上司の姿。現れたのは、上司にとって最悪の人物。その人の登場で、上司の人生はもろくも崩れ去ることになった。
俺の名前は水沢大樹。ある資産家の企業に務める会社員だ。社会人生活は今年で10年目。大学卒業後に入社して以来、俺は社内で遊撃隊という異名を得ている部門に所属している。遊撃隊に所属する社員は、1つの部署に長く在籍しないのが特徴だ。1年単位で所属部署と仕事を変え、会社内の様々な部門で仕事をする。総合力のある人材を育成するという会社の方針に乗った人たち、それが通称遊撃隊員。俺は10年の間に、本社から地方の小規模な営業所まで、国内をほぼ動き回ってきた。
営業もやれば経理もやり、時には総務に席を置き、人事関連の部署で新卒採用に関わった。普通は数年かけて覚える仕事を1年で頭に入れなければいけない。おかげで気の抜けない日々を過ごしているが、経験はたっぷりと積んでいる。
「君、遊撃隊らしいね」
俺はこの春、数年ぶりに本社に戻ってきた。九州の支社から本社の営業部への移動。久しぶりの本社勤務に、俺は少々緊張していた。ところが、俺はとんでもない上司に出会ってしまった。
「総合力があるのが遊撃隊の社員らしいが、逆に言えば強みがないってことだろう。学習能力も業務遂行力もないから、どこにも置けないだけ。それが遊撃隊員じゃないのか」
営業部の補佐及びリサーチを担当する部署の大平部長。この人こそ、社内でも指折りの曰く付きで評判の悪い上司だった。移動初日から、俺は大平部長に絡まれ、質問攻めにされた。遊撃隊員として何をしてきたのかから始まり、出身大学や家族構成、性格や私生活まで細かく尋ねられる。
「水沢君、経歴的には国立大だろう。遊撃隊は確かに高学歴が多いし、実家も太そうな子が多いよ。けど実際はどうなの?」
「僕はそこまで目立つような人間じゃないと言いますか…」
「おお、そうなの?家もそうですね。厳しく育てられた部分もありますが…」
「ああ、何?金持ちの高学歴だけど使えない人材じゃないとか言いたいわけか」
「えっと、そういうつもりではないです」
「どうなんだろうね。でも遊撃隊って結局そういう人間の集まりなんじゃないの?金持ちで高学歴、それだけで社会人としては使い物にならない。まあ平たく言えば、会社のお荷物的な」
「それはどうなんでしょうか。会社が考えることですから」
ズバズバと切り込んでくる大平部長に、俺はどう答えるのが正解なのか分からなかった。下手なことを言えば揚げ足を取られそうで、はっきりした物言いができない。
「荷物でどこでも使えないけど、高学歴はもったいないからあちこちたらい回しにされて、国内を転々とさせられてるだけでしょう」
俺の曖昧な態度が大平部長を増長させてしまった。今思えば、自分が会社の厄介者と言われた時点で否定すべきだったのだろう。しかしそれをしなかったことで、俺は大平部長に完全に無能な社員と思われてしまった。
実際に本社での業務が始まると、毎日これでもかというほど大平部長に振り回された。「この書類なんだけど、せっかくだからもっと高学歴を感じさせるアプローチで書き直してくれないか?」と、意味不明な理由で企画書を突き返されるのは日常茶飯事。「悪いけど輸出関連の法律を調べ直してまとめてくれる?どこでもいいからその辺が専門の弁護士でも探して手を借りて、まとめたら営業と総務に回して配っておいてよ」と、業務には重要でないことを押し付けられる。「ちょっと部署内の備品の数をエクセルで表にしてまとめてくれない?まあ他がやってるけど、自主管理も大切だから」と、やれば時間のかかる無意味な仕事を山積みにされた。
「部長、こういった業務を行うことに問題はないんでしょうか?」
本筋ではない業務を行っても、当たり前だが経費は使う。大平部長のしていることには全てにおいて疑問がつく。しかし大平部長は俺の問いを生意気だと一笑するだけ。「僕はね、会社のお荷物に上司として仕事を恵んであげてるんだ」と開き直り、感謝して欲しいと微笑む。俺は反射的に嫌な人だと怒りを覚えたが、怒りをぶつけるのは得策ではないと思い、ひとまず抑えた。
本社に戻って日が浅い。もう少し慎重に動かなければ、自分が痛い目に会うかもしれない。俺は大平部長の前で息を潜める日々を続けた。
「部長、今日は取引先訪問に同行するようにと聞いていたんですが…」
大平部長のリサーチ業務への同行を命じられていたある日、俺は部長から嘘のスケジュールを吹き込まれて会社に置き去りにされた。前日、俺は大平部長から午後からの取引先回りに同行しろと言われていた。午前中はそれぞれの仕事をして、約束の時間に大平部長の元に行くと姿が見当たらない。おかしいと感じて電話をすると、電話口で正々堂々と笑われた。「水沢君は気楽なもんだ。自分の立場も理解しないっていうのもさすがだね」
「あの、部長、何をおっしゃっているんですか?」
「いや、自分が本当に俺と外回りできると思ってたなんてね。あのね、誰が君みたいな荷物で無能な社員を連れていくんだよ」
大平部長が笑いを噛み殺して電話を切る。耳に携帯を当てたまま、俺はしばらく立ち尽くした。嫌味な人と思っていたのを撤回して、嫌な人だと思い直した。それでも仕方がないのは、大平部長が上司であるのは変わらないという事実。世の中には様々な嫌なことが転がっている。その全てに自分で折り合いをつけていくしかない。
同期や同じ遊撃隊員の同僚から心配されたが、「下積みや我慢の時期と考えている」と返していた。自分の考え方が社畜そのものという人もいたが、ここで大平部長とやり合うのも得策ではないと冷静な自分もいた。
大平部長の嫌みと嫌がらせ的な仕事を押し付けられる毎日。時には気が触れそうにもなるが、ぐっとこらえる。そんな中、ある週末に母に食事に誘われた。「お寿司が食べたいの。付き合ってもらえる?」
俺の母は、俺を1人で育て上げた人。父が早くに亡くなった後、母が働き、家を取り仕切り、1人大活躍だった。俺とは一味違う完璧主義者で、やると決めたことにしがみついて離さない根性の持ち主。厳しい人でもあったが、手本にできるところも多く尊敬していた。
「ああ、悪いけどこれ頼むよ。会議室の向こう1週間の空き状況の確認。それからあれだ。備品の数でも数えておいてくれないか?俺は帰るけど」
母との待ち合わせを知らない大平部長が、いつものように俺に退社間際に雑用を押し付けようとした。
「すみません。それは明日か後日にしてもらえませんか?今日は定時で上がらせていただきたくて」
「なんだ?活躍の機会を断るのか?やっぱりお荷物は違うね。鈍感さも天下一品だ」
「あの、すみません。失礼します」
俺は大平部長の命令も憎まれ口も振り切り、会社を出た。母がお気に入りの寿司屋に着き、店の前にまだ母がいないと気づく。母にメッセージを送ると、「少し遅れるから先に入っていて欲しい」と返事があった。
俺は店に入り、母の名前を告げ、予約されていたカウンター席に腰を下ろした。店の大将と言葉を交わし、お茶を飲み、母を待っていると、店の引き戸が開いた。母が来たのかもしれないと思い、何気なく引き戸の方へ目を向ける。すると、カウンターに向かって歩いてくる大平部長と目があった。
「おい、おい、おい、どうしてお前がここにいる?」
大平部長は俺を見つけると、鮮やかにいつもの流れで俺に絡み、すっと隣の席に座る。「お前さ、俺からの仕事断って何してるんだ?ここどんな店か知ってるか?」
「ええ、それはまあ存じてます」
大平部長がにやりとして俺の顔を覗き込む。それから店内を見回し、俺を嘲笑う。「本当に分かってるか?お前のその頭で。ここはなあ、俺のようなエリートが通う高級寿司の店だぞ」
大平部長がいつの間にか俺の肩を掴み、1人楽しそうに笑う。「いいか?お前がここにいるのは無理だ。会社のお荷物であり無能者が来るには値しない店なんだぞ」
俺は身を引き、大平部長の手を避けた。そして仕方なく、自分が寿司屋にいる理由を明かす。「今日は、その、母と待ち合わせをしていまして」
「母親?」
大平部長の声が響き、俺は顔をしかめる。大平部長は大きなため息をつくと、今度は俺の母親の罵倒を始めた。「お前の母親っていうのもやっぱりどこかずれてるんだな。いい年した息子を甘やかして、ここで飯を食わせようっていうのは」
「あの、そんなことは…」
「無能な息子をどれだけ甘やかしてるんだ。全く、嘆かわしいバカ親ってやつだな」
大平部長に母を侮辱され、俺は無意識に立ち上がった。「いい加減にしてもらえますか?母のことも知らずにそんなことを言うとは。部長、あなたこそずれた非常識者だ」
俺に詰め寄られ、大平部長が一瞬だけひるんだ。「うちの母は父が亡くなった後、ひたすら真剣に僕を育ててくれました。常に懸命で立派な人だ」
母を侮辱された怒りをぶちまけ、大平部長を圧倒する。だが、それは俺が思っていただけ。大平部長は軽く怯んだだけなのか、俺と同じように立ち上がると、俺よりも大きな声で言い返した。「何が立派な人だ。こんな目上の人間に言い返すような躾のなってないバカを育てたやつだろうが」
「あなた、まだそんなこと言うんですか?」
「ああ、いくらでも言ってやる。お前、バカ親に言っておけ。息子が俺に迷惑をかけていることを詫びろと。挨拶の1つぐらい、バカ親にしっかりさせろ」
言いたいことを言い終わった大平部長は、すっきりした顔を見せる。喧嘩は声の大きい人間が勝つと聞いた覚えがあるが、大平部長はそれを実践していたらしい。「分かったか?」と勝ち誇った大平部長の満面の笑み。俺はそれに呆れ、目線を下に落とす。
「息子がご迷惑をおかけしているようで申し訳ありません。母親としてお詫びいたします」
母の声に驚き、目を上げると、大平部長を冷めた目で見つめる母が立っていた。
「水沢…会長ですか?」
「はい、水沢です」
俺の母に向かって振り返った大平部長の声が震え、体も遅れて震えていた。「何事でしょうか?先ほど私がお店に入った時に騒ぎが聞こえました。全てを聞かせてもらいましたが、あの会話は一体何事ですか?」
「会長、あれは冗談のつもりで…」
「そう聞こえない見幕でした」
「あの、会長…」
母を会長と言ったきり、大平部長の言葉が続かなくなる。大平部長の驚きようを見て、俺も多少は同調する。口喧嘩に勝ったつもりで有頂天になっていたら、急に勤務先の会長が現れたのだ。女手1つで息子を育て上げた俺の母親は、大平部長と俺が務める会社の会長だ。ちなみに会社の創業者は俺の曾祖父。母は会社の3代目で、家族の中で俺は4代目と言われている。俺はいずれ家族の会社を継ぐ予定で入社していた。
はっきり言って、いわゆるコネ入社だった。しかしここまでそのことは隠し通し、一般社員としての経歴を作ってもらっている。それは俺と母が望んでそうなり、事情を知る一部の幹部社員が協力してくれていた。俺が移動を繰り返す遊撃隊員になったのも、俺の正体を隠すための策の1つ。俺の素性をできるだけ探らせない。そして将来会社を束ねる立場を目指して、社内を隅々まで知り尽くす。俺の特権的な身分を伏せた上で成長を促す方法が、遊撃隊に身を置かせることだった。
俺はそうしてこれまで社内で生きてきた。まだ修行と勉強中の身だが、礼儀だけは母のおかげで身につけていると思っている。
「大平部長、息子も大声を出していたようで、そのことに関してはお詫びいたします」
母が静かに皮肉を交えて大平部長に頭を下げた。そして俺には「店の大将に謝罪しなさい」と言いつける。「大平さん、あなたは謝らないんですか?お店にご迷惑をおかけしたと思わないんですか?」
母は大平部長にも俺に続けと促す。その顔は、まるで会社の会長というよりも母親そのものだった。「あなた方はよそ様にご迷惑をおかけしたということでは同じですが、大平さん、そもそもあなたは公衆の面前で人を平気で罵る」
「私は今ちょっと酒が回っておりまして…」
「酔っていれば何でも許されるんですか?」
お粗末な言い訳を繰り出していた大平部長に、母のため息が浴びせられた。「あなたには社会的立場があるかもしれません。しかしそれは関係ありません。どのような場であっても、あなたがどのような立場であっても、人を口汚く罵るなど御法度です」
寿司屋の店内は本当に静まり返っていた。ありがたいことに客の目は引いていない。だがその代わりに、俺たちには大将や店員たちの視線が注がれていた。
「私もできた人間ではないと思います。けれど、あなたに対してはそう思いますよ」
「申し訳ございません」
大平部長の体が俺の視界から消える。「すみません。本当に私が悪いんだ。とんでもないことを会長のご前で…」
床に膝と額を擦りつけた大平部長が、涙声で母に許しを乞うていた。
「部長、おやめになった方が…」
俺は大平部長に土下座をやめさせ、立ち上がらせた。公衆の面前で人を罵るのが無しと言われるならば、土下座もそうだろう。しかし立ち上がった大平部長は、母に向かって土下座のように謝罪をした。
「大平さん、もう結構です。これからはプライベートな時間で食事をしますので、お引き取りいただけますか?」
「あの、それだけは…お引き取りください」
大平部長は母にすがりつこうとしていたが、冷たくあしらわれて身を引いた。呆然としながら体を引きずって寿司屋を出ていく。大平部長の様子を確かめて、母は店の大将に腰を折った。それを見て俺も慌てて母に倣った。
大平部長が去り、俺と母は夕食を楽しんだ。寿司を食べ、日本酒を飲み、食事を思う存分楽しみ、気持ちを切り替えた。
その翌日、母は大平部長に対して社内での調査を行うと宣言した。きっかけは前日のプライベートな場での騒動が原因だが、改めて大平部長に関する悪評が真実かどうかを確かめることにしたのだ。母は調査期間を3ヶ月程度と考えていたようだが、始まって数日で想定以上の結果が出た。俺への日常的な嫌がらせの他に、他部署に在籍する元部下への職務指示という一見行為。驚かされたのは、取引先からも大平部長の言動への苦言が寄せられたこと。打ち合わせの席などで大平部長は取引先へ侮辱とも取れる発言を繰り返していたそうだ。
「大平さん、役職なしで地方のグループ会社の人事に左遷だってさ」
調査期間の満了を待たずに、大平さんには処分が言い渡された。東北にあるグループ会社の関連と言われる人事部へ送り込まれる。最後は挨拶もなく、知らぬ間に本社から消えた。
「今日からまたよろしくお願いします」
大平さんがいなくなり、新部長が決まり、俺は係長に昇進した。寿司屋で母と夕食を共にした日、俺はその内示を受け取っていた。
「これからが大樹の会社人生の本当のスタートだと思いなさい。部下と言われる人たちとどう仕事をするのか。そのステップの始まりよ」
母はあの日、俺にその思いと考えを伝えるために席を設けていた。今後の俺の会社人生には、今までとは違う覚悟がいる。母は静かに俺に言い聞かせ、俺の背中を叩いた。
幸いにもと言っていいのだろうか?それは分からない。だが俺は、大平さんという反面教師を見てきた。そして大平さんよりも素晴らしい上司にも恵まれていた。今までのその全て、俺はそれを糧にして、会社から必要とされ続ける人間でありたいと強く思っている。



