「三沢先生、その術式では患者さんの人生が壊れます」――カンファレンスで新人の女医が、俺の前で堂々と異を唱えた。成功率100%の外科部長である俺に、誰も意見したことなどなかった。だが彼女は、亡き恩師の手帳を俺に差し出し、こう言った。「先生はあなたを孤独な天才にしないと約束しました」。その言葉を聞いた瞬間、俺の10年間の自信が揺らぎ始めた。彼女は何を知っている?…

「三沢先生、その術式では患者さんの人生が壊れます」――カンファレンスで新人の女医が、俺の前で堂々と異を唱えた。成功率100%の外科部長である俺に、誰も意見したことなどなかった。だが彼女は、亡き恩師の手帳を俺に差し出し、こう言った。「先生はあなたを孤独な天才にしないと約束しました」。その言葉を聞いた瞬間、俺の10年間の自信が揺らぎ始めた。彼女は何を知っている?...

信じられない。もう終わってる。そばにいた研修医が小さく頷いた。三沢先生のオペは何度見ても次元が違うよ。俺は彼らの視線を背中で感じながら手術を終えた。俺の名前は三沢裕二。42歳。大学病院の外科部長。新聞や週刊誌では成功率100%に最も近い男と書かれている。大げさな見出しだと思うが訂正したことはない。事実、俺はこの10年、致命的な失敗をしていない。

手術を終えて手洗い場に戻ると、霧島委員長が立っていた。いつも仕立ての良いスーツを着ている、病院の経営を握る男だ。

「三沢君、見事だったね。来週の取材だが、写真は手術室で撮らせてもらう。」

「委員長、術中の写真は患者の同意が要ります。」

「そこは抜かりなくやらせるよ。君は病院の顔だ。出てくれるだけでいい。」

俺は黙って頷いた。頷くだけで話は通る。俺が首を縦に振るか横に振るかでこの病院の方向は動く。そういう立場に俺はいた。廊下を歩けば誰もが道を開ける。看護師たちは目を伏せ、若手医師は背筋を伸ばす。カンファレンスで俺が口を開けば、それで方針は決まった。意見する者はいない。それが当然だと俺は思っていた。

医局に戻ると机の上にコーヒーが置かれていた。誰が入れたかは知らない。俺の机には毎朝置かれている。窓の外を見た。薄雲の空が無機質に広がっている。

午後2時、カンファレンスルーム。長机を囲んで外科の医師たちが20人ほど並んでいる。最前列は俺の席だ。スクリーンには症例が映し出されている。俺は淡々と術式を説明していった。難しい症例だ。俺の提案はこれまで10数例で結果を出してきた術式だった。

「以上の理由から、今回も同じアプローチで行く。質問は?」

形式的に俺はそう言った。質問が出ないことを俺は知っている。ところが、部屋の後ろで椅子の動く音がした。全員の視線がその音の方へ向く。立ち上がっていたのは見慣れない女性だった。背が高く、白衣の下に紺のシャツを着ている。髪は肩の少し下までまっすぐに揃えていた。化粧は薄いが整った顔立ちだ。モデルかと思うような立ち姿だった。海外の名門病院から招聘された、美貌の外科医と呼ばれる朝倉美だった。俺は彼女を今日初めて見た。

「失礼します。今月から外科配属になりました、朝倉美と申します。」

落ち着いた声だった。

「先生の術について、1点お伺いしてもよろしいでしょうか?」

部屋の空気がぴたりと止まった。誰かが俺の顔色を伺うようにちらりと振り返った。

「どうぞ。」

短く返した。動揺は見せなかったつもりだ。

「今回の症例は門脈の浸潤が広範囲に渡っています。先生のやり方ですと、術後の生活が大きく損なわれる可能性があります。海外ではより負担をかけないアプローチで成功した報告があります。検討の余地はないでしょうか?」

声を荒げているわけではない。ただ一言一言が明瞭で、迷いがない。

「データは出ているが症例数が少ない。確立された術式とは言えない。」

「症例数が少ないのは事実です。ですが、患者さんのその後の人生は20年、30年続きます。10年後に評価されるやり方を今選ぶ意味はあると思います。」

部屋の中で誰かが息を飲む音がした。若手医師が目を見開いて朝倉を見ている。霧島委員長は廊下から窓越しにこちらを覗いていた。俺は朝倉の目を見た。そらさない。こちらをまっすぐ見つめてくる。挑むような目ではなかった。

「朝倉先生、ご意見は伺った。今回は予定通り進める。次のスライドを。」

俺はそう言って議事を進めた。朝倉は静かに腰を下ろした。反論はしなかった。ただ俺の目から視線を外さないまま、ゆっくりと座った。

会議が終わって医師が退出していく中、俺は資料を片付けながらもう一度彼女の方を見た。朝倉は瀬戸と短く言葉を交わしていた。瀬戸が何度も頷いている。廊下に出ると、霧島委員長が待っていた。

「三沢君、彼女のことは聞いていたかね? ボストンの病院から招聘した、成り上がりだよ。」

「初めて聞きました。」

「君と並べて売り出すつもりだ。男と女のスター外科医、絵になるだろう。」

俺は答えなかった。霧島の「絵になる」という言葉が妙に耳に残った。医局に戻る途中、廊下の窓から差し込む光の中に朝倉が立っていた。ナースステーションへ歩いていく。俺は自分でも気づかぬうちに、しばらくその姿を目で追っていた。

夕方、医局のドアがノックされた。入ってきたのは朝倉だった。カルテのファイルを胸に抱えている。

「三沢先生、お時間よろしいでしょうか? ご相談したい症例があります。」

「どうぞ。」

彼女は俺の机の前に立ち、ファイルを開いた。

「牧村修二さん、58歳。3年前に切除を受けられた患者さんです。今回、再発が認められました。」

俺はファイルに目を落とした。牧村修二の名前は知っていた。3年前、その手術を執刀したのは三辺教授だ。俺の恩師、そして2年前に亡くなった外科の重鎮。再発か。

「はい。私が主治医として担当させていただいております。再手術が必要だと判断しました。症例として難しい。前回の癒着も強いだろう。」

「だからこそ、先生にチームを率いていただきたいのです。」

彼女は一度息を整えた。

「私も執刀チームに加えてください。」

その声に、午前中とは違う何かがあった。

「君は赴任したばかりだ。まずは病棟業務に慣れてからの方がいいだろう。」

「牧村さんの最初の手術は、三辺教授が執刀されました。」

三辺という名前が出た瞬間、俺の指先が止まった。彼女の目がわずかに揺れる。

「私は三辺先生の指導を受けていました。アメリカに渡る前の3年間です。牧村さんのカルテは留学中もずっと気にかけていました。三辺先生に…」

「はい。」

その一言で、俺は彼女が何者なのか少し分かった気がした。

「先生、お願いします。牧村さんをもう一度助けてください。」

彼女の声がわずかにかすれた。三辺の名を口にした時だけ、彼女の表情に何かが宿る。それは義務感ではなかった。もっと個人的な、深い場所から出てくる感情のように見えた。

「考えておく。」

そう言うのが精一杯だった。朝倉が部屋を出ていった後、俺は窓の外を見た。夕焼けが医局の壁をオレンジ色に染めている。机の引き出しを開けた。一番奥に古い名刺が1枚入っている。外科教授・三辺。俺はその名刺を長い間見つめていた。三辺先生の最期に、俺は立ち合えなかった。海外出張中だったというのは表向きの理由だ。本当は、衰えていく恩師の姿を見たくなかったのかもしれない。朝倉美。あの女は何を知っているのだろう? 三辺先生と何を話したのだろう。

牧村修二の治療方針検討会は、翌月曜日に開かれた。会議室には外科のスタッフが10数名集っていた。俺は資料を配り、術式の概要を説明した。三辺先生が3年前に執刀したルートをそのまま辿り、癒着を剥がして再発部分を切除する。俺の中では最も確実な方法だった。

「前回の手術記録は三辺先生のものが残っている。これに沿って入れば迷いはない。所要時間は6時間。出血は800ml以内に抑える。」

誰も口を開かなかった。いつも通りの光景だ。ところが、後ろの席で朝倉が手元のファイルを開く音がした。俺は彼女の方を見ずに続けようとした。

「三沢先生、よろしいでしょうか?」

彼女は静かに立ち上がった。

「牧村さんは現在58歳です。手術が成功した場合、まだ20年以上の人生があります。今回の術式では残肝機能がギリギリまで削られます。化学療法の選択肢も狭まります。私は温存する分割切除を提案します。私がボストンで関わっていた術式です。難易度は上がりますが、術後の生活が大きく違います。」

「牧村さんのように癒着の強い再手術例で、安全に行えるとは限らない。」

「先生のチームでなら行えると思っています。」

会議室の空気がピンと張った。俺の隣でベテランが小さく咳をする。誰かが資料をめくる音がやけに響いた。

「私は確実に救える方法を選ぶ。」

「私は救った後の人生まで考えたいんです。」

検討会の後、瀬戸が俺の席に来た。

「三沢先生、少しだけよろしいですか?」

「どうした?」

「朝倉先生の術式論文を読んでみました。確かに最終例での報告はまだ少ないですが、考え方には筋が通っています。」

俺は黙って瀬戸を見た。彼はいつも俺の手元を見つめてきた若手だ。その瀬戸が、別の医師の名前を出して話している。

「君はどっちが患者のためになると思う?」

「正直、まだ判断できません。ただ、考えたいんです。いつもみたいに三沢先生がそう言うから、で終わらせたくないんです。」

「そうか。考えればいい。」

短く返したが、胸の奥が妙にざわついた。瀬戸が部屋を出ていく後ろ姿を、俺は黙って見送った。俺がいつから、若手に「考えるな」と言わせるような医者になっていたのか。気づかぬうちに、俺は周囲から思考を奪っていたのかもしれない。

その夜、俺が一人で医局に残っていると、朝倉が訪ねてきた。時計は9時を回っていた。彼女の手には革張りの古い手帳があった。

「三沢先生、これを見ていただきたくて。」

「何だ?」

「三辺先生の手帳です。ご家族から私に預けていただきました。」

俺は息を飲んだ。三辺教授の字を俺は知っている。細長い、細かい字だ。朝倉は付箋の貼られたページを開いて机に置いた。俺はそのページに目を落とした。

「三沢裕二は、私が育てた中で誰よりも優秀だ。あれほどの手は二度と現れまい。だが、あいつは孤独になりすぎる。腕が良すぎる者は、いつか誰も寄せつけなくなる。私はそこまで導いてやれなかった。」

たった4行の文章だった。俺はその4行から目を離せなかった。

「三辺先生が亡くなる2週間前に、私に渡されました。『日本に戻ったら裕二を頼む』と。」

「それで君は戻ってきたのか?」

「それだけが理由ではありません。でも、大きな理由の1つです。」

俺は手帳を閉じた。表紙の革が指先にざらりとした。三辺先生が亡くなったのは2年前の冬だ。俺はその日、ニューヨークで学会発表をしていた。訃報を聞いたのは、発表を終えてホテルに戻った夜だった。すぐに帰ろうと思えば帰れた。だが、俺はあと2日の予定を全て消化して帰国した。葬儀の日にはもう間に合わなかった。

「三辺先生は最後に何かおっしゃっていたのか?」

「『裕二は来なかったか』と、一度だけ聞かれました。」

俺の指先が机の上で止まった。

「責めているのではありません。先生はただ確認されただけです。来ない理由も分かっておられたと思います。」

「私は見たくなかったんだ。あの人が衰えていくところを。」

「ええ、先生もそうおっしゃっていました。『裕二はきっと来ない。来られない男だ』と。」

俺は窓の外に目をやった。夜の駐車場に街灯がぽつぽつと光っていた。朝倉が俺を試すために議論を仕掛けてきたのではないと、ようやく分かった。彼女は三辺との約束を守ろうとしているだけだ。午前中のあの真っすぐな視線も、今夜のこの静かな声も、全てその約束から来ている。

「先生は私にとって父のような方でした。アメリカに行く私に最後まで反対せずに送り出してくださった。私が今、医師でいられるのはあの方のおかげです。」

「そうか。」

「先生のお願いは断れません。」

俺はもう一度手帳に目を落とした。三辺先生の字が滲んで見えた。医局の蛍光灯がわずかに音を立てていた。

その週の金曜日、俺は屋上でタバコを吸っていた。2年前にやめたはずだった。だが、1本だけ残っていて、今夜はそれに手が伸びた。海風が煙をすぐに散らした。ドアが開く音がして振り返った。朝倉が立っていた。白衣の上にカーディガンを羽織っている。

「先生、ここにいらしたんですね。瀬戸先生が屋上に上がっていったと。」

「タバコを1本だけだ。誰にも言うなよ。」

「言いません。」

彼女はフェンスの近くまで歩いてきた。俺の隣に、少し距離を置いて立った。夜の街の明かりが2人の足元まで届いていた。

「牧村さんのことを、瀬戸先生と話しました。先生が迷っておられると。」

「迷ってはいない。考えている。」

「同じことです。」

俺は煙を吐いた。反論する気にならなかった。

「先生、1つだけお話しさせてください。三辺先生に私はお約束したんです。『あなたを孤独な天才にしない』ということを。」

風が一度強く吹いた。

「私には先生のような腕はありません。でも、隣に立つことはできます。意見を言うことも、間違っていると言うこともできます。それが三辺先生が私に望まれたことだと思っています。ご迷惑ならそう言ってください。私はそれでも諦めませんが。」

朝倉の表情は穏やかだった。

「迷惑じゃない。」

口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

「迷惑じゃないんだ、朝倉先生。むしろ、礼を言うべきなのかもしれない。」

「礼なんていりません。」

「三辺先生が君をよく見ていたな。」

「はい。そう思っています。」

風が彼女の髪を揺らした。この女を、俺は対抗相手だと思っていた。病院が並べて売り出すための、もう1人のスター外科医。だが、俺はもうそう思えなかった。

「先生、戻ります。明日も早いので。」

彼女は静かに一礼し、屋上のドアの方へ歩いていった。牧村さんの手術をどう組み立てるか。答えはもう出かけていた。

牧村修二の容態が悪化したのは、検討会から10日後だった。これ以上待てば、どちらの術式も選べなくなる。俺は朝の医局で瀬戸と朝倉を呼んだ。机に画像と血液データを並べる。窓の外は雨だった。

「手術は明後日に動かす。術式は朝倉先生の温存の分割切除で行く。」

朝倉はわずかに目を見開いた。

「先生、よろしいんですか? 難易度は相当上がります。」

「分かっている。だが、牧村さんはまだ58歳だ。手術が終わってからの人生の方が長い。」

「はい。」

俺は今まで、確実に終わらせることばかり考えてきた。今回は、終わった後を考える。朝倉は何も言わずに頷いた。

霧島委員長を委員長室に訪ねたのは、その日の昼だった。霧島は俺の話を聞き終えると、机の上で指を組んだ。

「三沢君、君の連勝記録に傷がつくかもしれんよ。難しい術式に切り替えるということは、そういうことだ。」

「委員長、私は記録のために手術してきたわけじゃありません。」

「後報には何と言えばいい? 来月の特集はどうする?」

「それは終わってから考えます。今は牧村さんのことだけ考えさせてください。」

霧島はしばらく俺を見ていたが、やがて短く息を吐いた。

「分かった。好きにやれ。」

委員長室を出ると、廊下の窓に雨が打ちつけていた。俺は深く息を吸った。肩の力が少しだけ抜けた気がした。

手術当日の朝、手術室の前で俺は朝倉と並んで立っていた。緊張しているのが横顔から伝わってくる。

「朝倉先生、よろしく頼む。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

「いつも通りでいい。君は君の信じる手をすればいい。」

朝倉は俺を見て静かに頷いた。手術室に入ると、瀬戸がもう機材の最終確認をしていた。麻酔科医、看護師、工学技士。全員がいつもより少しだけ背筋を伸ばしている。

手術が始まった。俺の手と朝倉の手は、ほとんど言葉を必要としなかった。門脈の枝を1本ずつ確かめながら彼女が切る。俺がその先で血流を制御する。途中、出血がわずかに増えた場面があった。俺が圧迫し、朝倉が縫合する。2人の動きが1つの呼吸のように揃っていた。見学室にいた瀬戸は後にこう語っている。「あの日の三沢先生は今までと違いました。1人で全部やる先生じゃなかった。朝倉先生の手をちゃんと信じていました。2人の手が1つに見えたんです。」

7時間後、最後の縫合が終わった。バイタルは安定していた。肝機能も術前の予測より良好に保たれていた。俺はマスクを下げて朝倉を見た。彼女の額に汗が一筋流れていた。その目がわずかに潤んでいた。

「終わったな。」

「はい。終わりました。」

短いやり取りだった。それで十分だった。

牧村は順調に回復した。術後1週間で歩き始め、2週間でリハビリ室まで自分の足で行けるようになった。病院はこの成功をマスコミに発表することを決めた。霧島委員長の指示で記者会見が組まれた。会見の朝、委員長が俺に原稿を渡してきた。

「読み上げるだけでいい。質疑応答も君が1人で答えてくれ。」

「委員長、執刀は2人でした。朝倉先生も同席させてください。」

「彼女のことは別の機会に紹介する。今日は君が主役だ。」

俺は原稿を一度開いて、すぐに閉じた。

「委員長、今日はもう1席増やしてください。」

「三沢君、お願いします。」

霧島はしばらく俺を見ていた。やがてふっと表情を緩めた。

「分かった。後方に伝える。」

会見場には20社近い記者が集まっていた。俺の隣には朝倉が座っていた。俺は原稿を脇に置いて、自分の言葉で話した。今回の手術が難易度の高い分割切除であったこと。従来の術式ではなく、患者の術後の人生を優先する判断をしたこと。そして、その判断を支えたのは朝倉美医師の知見と技術だったこと。

「執刀は私1人ではありません。隣にいる朝倉医師との共同執刀です。彼女の判断がなければ、牧村さんの今の状態はありません。」

会見が終わって控室に戻ると、朝倉が小さく笑っていた。頬の力が抜けた、柔らかい笑い方だった。

「先生、よろしかったんですか? 私の名前まで。」

「当たり前だ。君がいなければ成功はなかった。私は隣にいただけだ。」

「その隣が、私には必要だったんだ。」

朝倉は驚いたように俺を見た。

「朝倉先生、これからも君と一緒に命を救いたい。1人で背負うのはもう疲れた。」

「はい。私でよろしければ。」

窓の外に薄い日差しが差していた。

季節は2度巡った。俺と朝倉は、いつの間にか仕事帰りに同じ店で食事をするようになっていた。病院の近くの小さな食堂だ。彼女は白衣を脱ぐと、一人の女性だった。休日には川沿いを並んで歩いた。三辺先生の話を2人でよくした。あの人がどんなに頑固で、どんなに優しかったか。

ある秋の夜、俺は彼女を川のベンチに連れて行った。川に町の明かりが揺れていた。

「朝倉先生。いや、美さん。」

「はい。」

「私の人生も、隣で支えてほしい。手術室だけじゃなく。三辺先生に君は『私を孤独にしない』と約束してくれた。今度は私が君を1人にしないと約束したい。」

朝倉の目に、ゆっくりと涙が滲んだ。

「はい。よろしくお願いします。」

結婚式は翌年の春にあげた。親しい人だけを呼んだ、さやかな式だった。会場の正面に三辺教授の写真を飾った。白い髪の、少し笑った顔の写真だ。司会は瀬戸が務めた。彼は途中で何度か声をつまらせ、原稿から目を離して話した。

「三沢先生は僕にとってずっと遠い背中でした。今は2人の背中を見て、僕も走っています。お2人に追いつけるように。」

会場の隅で、霧島委員長が半泣きで目元を抑えているのが見えた。式の終わり、朝倉が三辺先生の写真の前に立った。彼女は写真に向かって深く一礼した。写真の中の三辺先生は、少しだけ笑っているように見えた。

俺はもう、孤独な天才ではない。隣には美がいる。

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