「ここで食事をしていいのはエリート弁護士やそれに順ずる人だそうです。根本先生にそう言われまして」
弁護士会の新年会。座敷の隅で一人、何も飲まず食べずに立っている湯沢さんに声をかけると、彼女は唇を噛みしめ、悔しそうにそう呟いた。周りの弁護士たちが盛り上がる中、彼女だけが席を与えられず、雑用係として走り回っている。昼間、彼女が一人で弁護士たちに使われ、忙しく動き回っていた姿を思い出す。
俺はいても立ってもいられなくなった。
「あの、よろしければなんですが、一つ試してみてもいいですか」
「え、あの、何でしょうか?」
「あなたはあまり知らない方がいい。ただ、私はこれから電話をかけにここを出ます。あなたはそれを見て見ぬふりしてください」
彼女は戸惑いながらも頷いた。俺はそれを見届け、座敷を出た。
俺の名前は塩田京介。61歳のNPO法人代表だ。1年前まで企業で役員を務めていたが、定年退職を機に、長年活動に協力していたNPO法人での仕事を引き受けることにした。大学では法学部で学び、企業法と国際法を専門にしていた。知り合いの弁護士からSDGsという言葉を知り、その精神に共感してNPOの活動にのめり込んだ。
会社を辞めてからは、様々な場所で公演やイベントを開催し、SDGsについて一から説明している。環境やジェンダーの問題に触れると、過激な考えを持つ人たちとぶつかることもある。程よい理解を得たいと思いながらも、なかなかうまくいかない悩みを抱えていた。
そんなある日、弁護士会の会長である根本弁護士から、弁護士会の集まりでの講演依頼が入った。
「柴田さんの団体が推進するSDGsとその精神について、我々弁護士は真剣に取り組んでいくべきだと考えております」
当日、会場のホテルに到着すると、現役の弁護士たちが集まり始めていた。真っ先に声をかけてきたのは、首から「世話係」というネームホルダーを下げた女性弁護士だった。湯沢と名乗る彼女は、俺を控室に案内してくれた。
控室にいるのも気詰まりになり、少し外に出ると、会場内を世話しなく動き回る湯沢さんの姿が目に飛び込んだ。椅子の用意や資料の配布をこなし、時にはどこからか呼びつけられて走っていく。彼女に指示を飛ばしているのは、全員が男性弁護士だった。
その様子を見て、俺は講演内容を一部見直した。男女平等とジェンダーフリーについて話す時間を多く取り、法律家としていかにアプローチするかを考えた。壇上で俺は、弁護士たちがイメージしやすい方向からSDGsとその意味を語った。
「弁護士と法律家が意識すべきことは、自分が関わる企業が法令遵守を徹底しているかということです。身近な目線では、会社内で男女平等が正しく扱われているかどうか」
若い弁護士たちが大きく頷いているのが見えた。講演後、若手の弁護士たちからも声をかけられた。
「身近な問題だと考えるべきですね。今後仕事での問題解決の糸口になりそうな考えを聞けました」
俺は、彼らこそ新時代への希望だと感じた。
講演と勉強会が終了した後、根本さんから新年会の打ち上げに誘われた。帰ろうと考えていたが、予定もなく、誘いに応じて会場の料亭に移動した。
新年会には根本さんをはじめとする20数人が参加していた。昼間の会に出席した若手の姿は見当たらない。俺や根本さん、いわゆる団塊の世代がざっくばらんに飲み食いしている席だった。
座敷の片隅に湯沢さんがいることに気づいたのは、自分の席に案内されてすぐだった。根本さんの事務所に所属している彼女も、同じように新年会を楽しむのだろうと思っていた。しかし、いつまで経っても彼女は席につかず、座敷の隅で立っている。何も飲まず食べず。どうやら彼女には席すらないのだと分かった。
俺が彼女に挨拶をすると、彼女は小声で応じた。
「あの、湯沢さんはお食事は?」
「ここで食事をしていいのはエリート弁護士やそれに順ずる人だそうです。根本先生にそう言われまして」
「そんな根本さんがそんなことを?」
「先生は尊敬できる方でもあるんですが、時々そんなことを言ってしまうんです」
根本さんは民事訴訟を専門に扱う弁護士で、数多くの人権問題に関する訴訟に関わってきた。人権派弁護士と呼ばれることもある根本さんが、実は差別的な考えを持っているとは衝撃的だった。
「一体どういうことなんでしょうね」
「お気になさらず。先生は仕事はしっかりと完遂される方ですから」
呆然とする俺に、湯沢さんは根本さんを見ながら答えた。根本さんの外面は完璧だとでも言いたげな彼女の言葉に、俺は少し黙り込んだ。
そして、ふと根本さんを試す方法を思いついた。一か八かだったが、やる価値はありそうな気がした。
「よろしければ、一つ試してみてもいいですか」
「え、あの、何でしょうか?」
「あなたはあまり知らない方がいい。ただ、私はこれから電話をかけにここを出ます。あなたはそれを見て見ぬふりしてください」
彼女は戸惑いながらも頷いた。そのタイミングで、根本さんが湯沢さんを呼びつけた。
「湯沢。仕事はサボらずとっとと雑用をして回れ」
「はい。すぐに参ります」
根本さんの横柄な命令に湯沢さんが応じる。俺はそれを見届け、電話をかけるために座敷を出た。
電話を終えて席に戻ろうとすると、いよいよ本格的に酔った根本さんの、聞くに堪えない愚痴が聞こえてきた。
「いいか。本来なら新入りの女がここにいるなどありえない。100年早いんだ」
湯沢さんに酌をさせながら、根本さんは上機嫌で女性蔑視の発言を繰り返す。
「それでも仕事を与えてやらなきゃならん世の中だから、今日はお前に雑用係をさせてやった。いいか。お前は黙って男の言うことを聞いて雑用をして回ればいい」
真面目で社会情勢に敏感で、被害者の心に寄り添えると評判のはずの根本さんの本性が、酒で簡単に暴れてしまう。
「しかし本当に世の中というのは面倒なものですよ。弱者救済だの何だのと仕事で縁あって関わるが、本来は弱者は諦めるだけ無駄だと教えるべきだと思ってますよ」
本音を打ち明けて笑う根本さんに、周囲は賛同もせず、笑い声も返さない。触らぬ神に祟りなしとでも言いたげに、誰もが曖昧な苦しげな笑みを浮かべているだけだ。
俺はちらりと腕時計を見た。電話の相手が手間取っていなければ、もうそろそろ到着するはずだ。
「おい、酒が足りない。持ってこいよ。全くお前は使えない奴だ」
根本さんが湯沢さんを叱りつけ、笑いが響き、空気が凍る。湯沢さんは仕方なくという感じで立ち上がり、座敷を出ようとした。
すると、そこに根本さんの一派とは別の、男女が入り混じった数名の集団が登場した。
「お楽しみのところ失礼いたします」
集団を引き連れているのは凛とした雰囲気の女性。彼女は座敷を見回すと、俺を見つけてやってきた。
「お久しぶりです。塩田さん。もうこんな楽しい会があるなら、私たちも最初からこちらにお邪魔したのに」
「いや、そちらはそちらで予定が終わりのようだったから」
集団のリーダーの彼女は俺の知り合いだった。会社務めをしていた頃に仕事関連で出会い、それから交流を続けている。この日、彼女たちは別の場所で新年会を催していた。俺も誘われていたが、公演の予定があって辞退していた。
「根本先生、長いことご無沙汰してしまって。私も以前、駆け出し時代にあなたにお会いしてるんですよ」
リーダーの女性は今度は根本さんに話しかけた。突然入ってきた集団に気を取られていた根本さんは、女性の顔を見ると首をかしげて眺める。どうやら根本さんには彼女が語る昔の対面の記憶がないらしい。
「それにしても、塩田さんから全て聞きましたよ。先生、あなたは昼間何を聞いていたんですか?」
「何を聞いていたとは?」
「塩田さんの講演を。それなのに何も理解していないんですね」
リーダーの女性は根本さん相手に厳しく切り込んだ。俺からの電話で聞いたことを並べ、女性蔑視の発言をしていた根本さんを攻め立てる。
「先生のお言葉は全てSDGsのジェンダー平等に何も配慮していませんね。あなたがおっしゃることは何から何まで女性蔑視で差別でしかありませんけど」
「何なんだ君は?誰だか知らんが、偉そうだな。この女は」
自分には覚えのない女性に責められ、根本さんは声を荒げた。
「私に立てつくとはな。偉そうにしやがって。貴様は誰なんだ?」
赤い顔で根本さんが女性に反撃に出る。
「失礼。先ほどから女のくせに生意気だ」
「本当に私のことを覚えていませんね。まあ無理もないでしょうけど。私もまだ20代だったから」
「そんなことどうでもいい。名乗らんか。この女が」
根本さんの罵倒を制するかのように笑った女性は、名刺を先生に差し出した。
「斎藤秋恵だと?」
「ええ、そうです。ASリーガルエージェンシー所長の斎藤です。私はあれから法律事務所の所長になりました」
「おい、冗談だろ」
根本さんの顔から血が引き、足元がふらついていた。女性の正体を知り、一気に雰囲気が変わる。
法律事務所所長の斎藤と名乗った彼女は、弁護士会では今や時代の寵児と言われている女性弁護士だった。発想力豊かで思いやり溢れる性格の彼女は、若手時代からSDGsに興味を持ち、弱者の権利向上のために働いていた。
「一つ、根本先生から言われて忘れられないことがあります。『女性弁護士など結婚したらやめるから価値がない』と、そう言われたんです」
「それはその当時も根本先生は弱者の味方と言われていましたね。それなのに、と私は随分と疑問に思いまして」
根本さんが便宜上の人権派弁護士になったのとは違い、彼女はずっと筋金入りの人権派弁護士だった。
「私は何があっても弁護士を続けようと決意したんです。自分は自分で人のために働こうと決意して」
現在の彼女はASリーガルエージェンシーという名の大きな弁護士事務所を束ねる所長で、自らの志に賛同する仲間と世界を相手に活動している。事務所にいる弁護士は全員海外の弁護士資格も持つ国際弁護士だ。俺が彼女と知り合ったのも、かつて勤めていた企業の法務と彼女の事務所が取引することになったのがきっかけだった。
「根本先生がご自分の信念の元に生きておられるように、私や塩田さんも信念と志を胸に生きています」
斎藤弁護士は自分の性別など考えずに、弁護士として強く生きていた。
「ああ。だが君のことなど」
斎藤弁護士の勢いを前に、根本さんはもごもごと呟いていた。
「君と私は別の人間なんだ。主義も違う」
慌てて根本さんは弁解をしようとしていたのだろう。しかしそれは斎藤弁護士に打ち砕かれた。
「先生、よろしいですか?今回のことは糾弾させてもらいます。まずは先生が主催しているこの弁護士会に対して。それは以前からこちらの弁護士会にまつわる噂を耳にしていました。脱会を考えているという方から相談を受けたこともあります」
「待ってくれ。何かの間違いだ」
「間違いかどうかを確かめるためにも、調査や審査を受けられたらいかがですか?その結果、あなたが会長でいられなくなるとしても、それは当然のことです」
斎藤弁護士は根本さんを追い詰めていった。根本さんご自慢の弁護士会に水面下で綻びが入っていると探りを入れ、先生の問題行動と発言を公にすると宣言する。業界の応護所に堂々と揺さぶりをかける斎藤弁護士。
彼女の態度に観念したのか、粘りを見せていた根本さんはここで態度を変えた。
「これだけは酒がいけないんだ。私は酒癖が良くない。だから、これは酒のせいで起きたこと。頼む。多めに見て水に流してはもらえないか」
媚びを売るように斎藤弁護士にすり寄った根本さんは、周囲の弁護士たちに援護射撃を求めた。
「皆さん、私がこういう男だというのはご存知でしょう。私は仕事と私生活を分けて考えて、酒が入るとブレる」
必死に仲間に訴えかける根本さんに、弁護士の威厳などなかった。俺の元に駆け寄った時には、俺の手を掴み懇願した。
「塩田さん。塩田さんには本当に尊敬の念を抱いているんですよ。これからの時代に合わせて物事を考える素晴らしい方だと」
「根本さん、もうおやめになった方がいい」
俺は根本さんの手をゆっくり振りほどき、黙るべきだと忠告した。しかし諦めない根本さんは哀れに座敷内を走り回り、最後には湯沢さんに頭を下げる。
「湯沢君、すまなかった。私はつい教育のためにと厳しくしてしまったんだ。これは断じて私の本心ではない。酒が言わせた戯言なんだよ」
湯沢さんに上目遣いで許しを乞う根本さん。それはもう情けないの一言だった。
「心を入れ替える」などと言いながら、土下座寸前の勢いで湯沢さんを持ち上げる。
「君は骨があるし、女性にしては強い。そうだ。君も斎藤先生のようになれるかもしれんぞ」
取り繕う根本さんの言葉から、やはり本心と本音が透ける。それを湯沢さんも見抜いたのか、彼女は大きく息をつくと根本さんを冷たく睨んでいった。
「先生、私はあなたを許すつもりはありません。お酒だなんだとおっしゃっても、あなたがどんな人なのか、それはよく知っていますので」
湯沢さんからの決別宣言に、根本さんが無言のまま唸だれた。目を見開いたまま立ち尽くし、やがてずるずると膝から崩れ落ちる。
「根本さん、よろしいですか?」
俺は根本さんの前で膝をついた。聞いているかどうかは分からないが、彼に語りかけ、そのまま座敷にいる人々の顔を見渡す。
「私は今日昼から見てきたことが全てなのだと思っていますよ。誰かが協力してもいいことを、彼女だけがしている。場が変わっても、彼女はお手洗いに行くことすら許されないような状態だった」
「そ、それは」
「あなたが湯沢さんの上司だからといえば、答えとしては成立するんでしょうね。ですが、その他にも問題はある。ここにいる皆さんも、誰一人として湯沢さんを手伝おうとしなかった」
この日昼から始まっていたありえない光景。湯沢さんが女性だからと、人のために尽くすことを要求され、従わされていたこと。このことは別にこの日だけに限られてはいなかったのだろう。湯沢さんは日頃から根本さんにそう扱われ、この日のための準備も以前から一人でやらされていても不思議ではない。そして、そのことに何も言わない根本さんの同士たち。おかしいと思いながらも、しがらみに縛られて何も言えずに過ごしていた。
俺のそんな指摘に、根本さんの同士たちは黙り込んだ。だが、ぽつぽつと自責の念が漏れ出す。
「おかしいと思っていたんですがね」
苦渋混じりの嘆きもあれば、湯沢さんへの丁寧な謝罪もあった。
「弁護士としてこれでは申し訳が立たない」
そう言って唇を噛んでいる人もいた。そのうち一人の弁護士が「申し訳ありませんでした」と湯沢さんに頭を下げ、自分たちは許されるものではなく恥じるべき存在だと謝罪した。
そのまま根本さんに全員が視線を注ぐ。あなたはどうするのかと無言で問われ、根本さんは固まっていた。しばらく言葉を探す様子で首をひねり、それでも最後は無言で頭を下げた。そしてそのまま根本さんは無言で去ってしまった。
根本さんを追いかけようとした人もいたが、それは誰かが制して動きが止まった。弁護士会の新年会はそのままお開きになり、俺は湯沢さんや斎藤弁護士の一行と料亭を出た。
「柴田先生、斎藤先生と皆様、今日は本当にありがとうございました。なんというか、私も目が覚める思いです」
料亭から少し離れたところで湯沢さんが立ち止まった。俺や斎藤弁護士に向き合うと思いの丈を、爽やかな表情で語る。
「私もこれまでのことにくじけずに糧にしていきたいです。そして、いつか斎藤先生のように場所も何も関係なく強く働く弁護士になりたいです」
湯沢さんの顔にこの日最高の笑みが浮かぶ。俺と斎藤弁護士の一行はそんな湯沢さんをねぎらい励ました。今後のことは斎藤弁護士に任されていたが、彼女なら全てを終わらせられると信じて、この日は別れた。
後日、新年会での出来事が根本弁護士主催の弁護士会の中で正式に調査されることに決まった。その他にも根本さんへの調べが行われることとなり、調査は数ヶ月をかけて慎重に進められた。
「根本先生が今後弁護士として活動することはありません」
「そのようですね」
調査と各所への聞き取りの結果、根本さんは弁護士会の会長を解任されることとなった。そして、弁護士会の中のみならず自らの事務所内でのハラスメント行為の他に、一部の依頼主との間で不正なお金のやり取りをしていたのではないかという疑惑が浮上した。ハラスメントもそうならば、金銭に関する問題も重大だ。根本さんは公的に弁護士活動の禁止を言い渡され、その期間は無期限とされた。
現在、根本さんはひっそりとどこかで身を潜めていると聞いている。自宅にいるのか、別荘にこもっているのか。とにかく居所は分からないが、マスコミを避けることに必死で、疑心暗鬼の日々を過ごしているそうだ。
俺はと言うと、相も変わらず自分の仕事に没頭している。SDGsの推進のための活動と公演を重ね、斎藤弁護士には時に協力とアドバイスを求める。そして今、その仲間に湯沢さんも加わっている。彼女は根本氏の事務所を退所し、現在は知人の事務所に所属していた。自分の経験を還元したいと語る彼女の目は、どこまでも未来を見据えている。心強い味方を得た俺は、これからも自らの信念を大事にこの道を突き進んでいくだけだと思っている。



