お見合いの席で、私は「ニートです」と嘘をついた。相手は社長令嬢。当然、冷たい目で見られ、罵倒された。だが、仲居さんが茶をこぼした時、彼女の目が変わった。そして、私の袖口から覗いた古い火傷の跡を見た瞬間、彼女は泣き崩れて言った。「今すぐ、私と結婚してください。」 なぜ、ニートの私に? なぜ、あの火傷の跡に?…

お見合いの席で、私は「ニートです」と嘘をついた。相手は社長令嬢。当然、冷たい目で見られ、罵倒された。だが、仲居さんが茶をこぼした時、彼女の目が変わった。そして、私の袖口から覗いた古い火傷の跡を見た瞬間、彼女は泣き崩れて言った。「今すぐ、私と結婚してください。」 なぜ、ニートの私に? なぜ、あの火傷の跡に?...

畳に両手をついて、上品なワンピースを着た若い女性が涙をこぼしながら言った。「今すぐ私と結婚してください。」

初めはあれほど俺を氷のような目で見ていた人だ。隣に座った品のいい女性が口を抑え、ナコドのばあちゃんは湯飲みを持ったまま固まっていた。俺の右の袖はこぼれたお茶で濡れ、まくれた袖口から古い火傷の跡が覗いていた。

俺はこの日、貧乏なふりをしてお見合いに来ていた。職業を聞かれて「ニートです」と答えた男に、社長令嬢が涙ながらに結婚を乞う。誰が見てもおかしな光景だった。だが彼女は泣きながら確かにこう言ったのだ。「お願いします。あなたじゃなきゃダメなんです。」

肩書きを全部脱ぎ捨てて座ったこの席が、止まっていた俺の時間を動かすことになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。

俺の名前は篠田公平、33歳。職業は無職ということになっている。それには訳がある。本当の俺は、社員900人余りを抱える3つの会社を持つ経営者だ。だが世間には一切顔を出していない。名刺も持たない。取材も断る。だからその日の見合いの席で俺は堂々と嘘をついた。「ニートです」と。

どうしてそんな嘘をついたのか。金持ちの道楽だと思われるかもしれない。人の気持ちを試すような嫌な男だと思われるかもしれない。だが俺には俺なりの、のっぴきならない事情があった。そしてあの見合いの席には、俺の想像なんて遠く及ばない、もっと大きな縁が仕掛けられていたのだ。

それを話すには、俺の人生を少し遡らなきゃいけない。15年前のあの冬の夜までだ。

俺は下町の長屋で生まれ育った。父と母は俺が9歳の時に交通事故で死んだ。雨の夜、対向車線をはみ出してきたトラックに正面からぶつかられたのだと後で聞いた。まだ小学3年生だった俺には葬式の記憶がほとんどない。ただ線香の匂いと、ばあちゃんの背中だけを覚えている。

それから俺は父方の祖母に育てられた。名前はキヨ。長屋の奥の、風呂もない6畳だけの家で内職の袋詰めをしながら俺を食わせてくれた人だ。ばあちゃんは口数の少ない人だったが、口癖が一つだけあった。

俺が学校で喧嘩をして帰った日も、風邪で寝込んだばあちゃんの額に濡れタオルを乗せた日も、ばあちゃんは俺の手を取って、しもやけだらけの手で包みながら言うのだ。「公平の手はあったかいね。この手は人のために使うんだよ。」

子供の俺には意味がよくわからなかった。ただ、ばあちゃんの手の方がずっとあったかいじゃないかといつも思っていた。

貧乏だったが、不幸だとは思ったことはなかった。ばあちゃんの作る煮物はうまかったし、長屋の路地には夕方になるとどこかの家の味噌汁の匂いが流れてきた。隣に住んでいたご隠居さんのおばさん、田島トヨさんがよくおかずを分けてくれた。トヨさんはばあちゃんの一番の親友で、2人はよく縁側で茶を飲みながら笑っていた。

その暮らしが終わったのは、俺が18歳になった年の春だ。ばあちゃんが台所で倒れた。脳の血管が切れていた。救急車を呼んで病院に運ばれて、それから3日目の朝に、ばあちゃんは目を覚まさないまま亡くなった。享年74だった。

俺は天涯孤独になった。進学の話は消えた。元々金なんてなかったから、高校出たら働くつもりではいた。だが、帰る家があるのとないのとでは、働くということの意味がまるで違った。

長屋は取り壊しが決まっていて、俺は家賃1万8000円の風呂なしアパートに移った。解体現場の日雇いで食いつぐ毎日だった。朝は暗いうちに起きて現場に行き、鉄骨とコンクリートの粉塵にまみれて、夜は銭湯に寄って帰る。飯は現場近くの弁当屋の、いつも半額になった売れ残りだった。

生きている意味が、正直よくわからなかった。死にたいとまでは思わない。ただ、俺がいてもいなくても世界は何も変わらないんだろうな、ということばかり考えていた。ばあちゃんの言った「人のために使う手」も、粉塵と油で真っ黒になるだけだった。

そんな冬の夜だった。あの火事が起きたのは。

現場からの帰り道だった。夜の10時を過ぎていたと思う。俺のアパートの近くには「水荘」という古い木造の安宿があった。素泊まり1泊2000円。日雇い労働者や訳ありの家族が長く住むような、昭和のまま時間が止まった2階建ての宿だ。

角を曲がった瞬間、焦げ臭さが鼻をついた。水荘の2階の窓から黒い煙が吹き出していた。窓の奥がチラチラとオレンジ色に光っている。通りには人が集まり始めていて、誰かが「消防車早く!」と叫んでいた。

宿の前で女将さんが半狂乱になっていた。60歳くらいの、いつも前掛けをしていた小柄な人だ。俺も何度か銭湯の帰りに顔を合わせたことがあった。「2階の、2階の奥の部屋にまだ女の子がいるの。お母さんが夜の仕事に出てて、あの子1人なの。」

消防車のサイレンはまだ遠かった。気がついたら俺は駆け出していた。考えて動いたんじゃない。体が先に動いたのだ。玄関の引き戸をくぐると、中はもう煙で真っ白だった。腰を低くして、タオルを口に当てて階段を駆け上がった。

煙は上に行くほど濃くなって、目を開けているだけで涙が出た。廊下の奥から火の音がした。ゴウという、生き物の唸り声みたいな音だった。俺は叫んだ。「どこだ?返事してくれ。」

小さな声がした。咳き込むような、泣いているような声だった。突き当たりの部屋の襖を開けると、部屋の隅の押入れの前に女の子がうずくまっていた。小学生くらいの痩せた女の子だった。煙を吸わないように必死で顔を布団に押し付けていた。

俺はその子を布団ごと抱え上げた。軽かった。信じられないくらい軽くて、腕の中で小さく震えていた。廊下に出ると、さっきより火が近くなっていた。天井を炎が這っていて、熱気が顔を刺した。階段の手前の柱が焼け落ちて、火のついた木材が行手に転がった。

俺は女の子を左腕に抱え直し、右腕で顔を庇いながら火の脇を強引に抜けた。右の手首に、焼けた鉄を押し付けられたような激痛が走った。それでも足は止めなかった。階段を転がるように駆け降りて、玄関を抜けて、夜の冷たい空気の中に飛び出した。

わっと人だかりが湧いた。俺は宿から離れた電柱の下に女の子を下ろした。女の子は煤だらけの顔で目を見開いて、ガタガタ震えていた。声も出せないみたいだった。小さな手が俺の作業服の袖を握って離さなかった。

俺はその手を両手で包んだ。ばあちゃんがいつも俺にしてくれたみたいに。「大丈夫。怖かったな。でも、もう1人じゃない。」女の子の目からボロッと涙がこぼれた。張り詰めていたものが切れたんだろう。声を上げて泣き出したその子の背中を、俺はずっとさすっていた。「泣いていい。ただ、慌てなくていい。」そんなようなことを、俺は何度も繰り返し言っていた気がする。

消防車が着いて、救急車が着いて、辺りは一気に騒がしくなった。女の子が毛布に包まれて救急隊員に抱き上げられる時、その子はもがきながら俺の方に小さな手を伸ばして言った。「お兄ちゃんの手、あったかい。お日様みたいだね。」

それが、あの子の声を聞いた最後だった。俺は騒ぎに紛れてその場を離れた。名乗らなかったのには大した理由なんてない。手首の火傷は病院に行く金が惜しかったし、人に囲まれてお礼を言われるようなことをした覚えもなかった。当たり前のことをしただけだ。それに、あの頃の俺は、自分なんかが誰かに感謝される人間だとは思っていなかった。

薬局で買った軟膏を塗ってタオルを巻いて、次の日も現場に出た。火傷はなかなか治らなくて、結局右手の外側に引き攣れたような跡が残った。

だが、不思議なことが起きた。あの夜から、俺は変わったのだ。布団の中で、あの子の声が何度も蘇った。「お日様みたい」と言われた自分の手を天井にかざして眺めた。粉塵で荒れた、傷だらけの手だった。それでも、あの夜、この手は確かに人1人の命をこの世につなぎ止めた。

ばあちゃんの言葉の意味が、初めて分かった気がした。「俺がいてもいなくても世界は変わらない。」そう思っていた俺の中に、小さな灯が点った。この手は人のために使える。そのために生きればいい。そう思ったら、朝起きるのが苦にならなくなった。

翌年、俺は日雇いをやめてビルの清掃会社に入った。誰よりも早く現場に入り、誰もやりたがらない仕事を引き受けた。23歳で独立して、1人親方として清掃の仕事を受け始めた。バケツとモップと中古の軽トラ1台からのスタートだった。

仕事は正直で裏切らなかった。汚れた床は磨けば必ず光る。俺はそれが好きだった。24歳で法人にして、名前を決める時、俺は迷わなかった。株式会社日向。由来は誰にも話していない。相棒のサトルにも、税理士の先生にも、「なんとなくあったかい感じがするだろ」としか言っていない。だが本当は、あの夜のあの子の一言から取った。「お日様みたいだ」と言ってくれた、あの声から。

会社は伸びた。清掃から始めて、ビルの設備管理に広げた。27歳の時には防災設備の会社を作った。古い建物の配線点検と防災改修を専門にする会社だ。これだけは金勘定じゃなく始めた。水荘の火事の原因が古い配線の老朽化だったと後で知ったからだ。30歳で住宅リフォームの会社も加わって、気がつけばグループ3社、社員923人、年商は180億を超えた。

それでも俺は表に出なかった。メディアの取材は全部断った。業界の集まりにも顔を出さない。会社の登記を調べれば俺の名前は出てくるが、顔と名前が一致する人間は業界にもほとんどいない。日々の経営はサトルを始め、各社の社長に任せて、俺は現場を回って作業着で汗を流している方が性に合っていた。住まいも創業した頃から同じ町の古いワンルームのアパートのままだ。

なぜそこまで肩書きを隠すのか、サトルにはよく笑われた。だが俺には忘れられないことがあった。

29歳の時、結婚を考えた人がいた。リサという、取引先の紹介で知り合った人だ。明るくてよく笑う人だと思っていた。だが、ある日、式場の下見の帰りに、リサが友人と電話しているのを聞いてしまった。「見た目は本当ニートみたいな人なんだけどね。でも会社をいくつも持ってる社長さんだから、私、勝ち組ってやつ。」笑い声が廊下に響いていた。

俺は式場をキャンセルして、頭を下げてその縁を終わらせた。リサを責める気にはなれなかった。ただ、心の底から疲れたのだ。金と肩書きは人の目を曇らせる。俺を見ているようで、誰も俺を見ていない。それなら最初から肩書きなんてない方がいい。以来、縁談の類いから逃げ続けて33歳になった。

そんな俺に、あの見合い話を持ってきたのが田島トヨさんだった。長屋の頃から俺を知る、ばあちゃんの親友。俺にとっては、たった1人残った身内みたいな人だ。トヨさんはご隠居さんを畳んだ今も下町の一軒家に住んでいて、俺は月に1度、菓子折りを下げて顔を出す。仏壇にはばあちゃんの写真も一緒に飾ってもらっている。

その日もいつもの縁側でお茶を飲んでいたら、トヨさんが急にこう切り出したのだ。「公平、あんた、お見合いしてみる気はないかい?」俺は茶を吹きそうになった。この一言から、全部が始まった。

「相手はな、木崎ホームズさんの社長令嬢、木崎綾乃さん、27歳。」木崎ホームズなら知っていた。県内では名の通った住宅会社だ。軍城地の旗をあちこちで見かける。社員300人ほどの堅実な会社という評判だった。俺は湯飲みを置いて首を横に振った。「トヨさん、悪いけど、その話は受けられない。」「なんでよ。」「社長令嬢なんて、俺が一番苦手な人種だよ。それに、どうせ向こうは俺の会社の釣りを見てくるんだろう。もうこりごりなんだ、そういうのは。」

リサのことはトヨさんも知っている。トヨさんはしばらく黙って茶をすすると、ふっと笑った。「せやから、条件をつけたるわ。肩書きは全部伏せていく。釣り書にはうちが書くだけしか書かん。名前と年と、あとは職業とだけな。会社のことは一言も書かんし、先方にも言わん。あんたは丸腰で行くんや。」

俺は言葉を失った。丸腰の見合いなんて聞いたことがない。「公平。あんたはな、会社を脱いだら自分には何も残っとらんと思い込んどる。せやから肩書きを隠して人から逃げ続けとるんや。ほんまにそうか。いっぺん確かめておいで。肩書き抜きのあんたを見てくれる人か、金の匂いに寄ってくる人か。どっちみな、わからんやろ。」

痛いところを突かれたと思った。トヨさんの言う通りだった。俺は肩書きを憎んでいるふりをして、本当は肩書きの影に隠れていたのだ。会社の看板を外した篠田公平に、何か残っているのか。それを確かめるのが怖かった。

それでも断ろうとした俺に、トヨさんは畳みかけた。「それにな、これはうちの頼みでもあるんや。先方のお母さんの冴子さんはな、ご隠居さんからの古いお客さんでな、今でも付き合いがある。その冴子さんがこないだうちに来て頭を下げたんや。娘に気の進まん縁談が持ち上がっとる。その前に、いっぺん肩書きやのうて人柄で会える相手と引き合わせてやりたいって。うちはそれを聞いて、真っ先にあんたの顔が浮かんだんや。」

「気の進まない縁談って?」「取引先の建設会社さんや。そうや。同士の都合の縁談らしいわ。なあ、公平。窮屈な思いしとる娘さんと、意地張って1人でおる男や。会うだけおいで。キヨちゃんもなあ、いっつも言うとった。公平に家族を持たせてやりたいなって。あの子を1人で終わらせたらもったいないって。」

ばあちゃんの名前を出されたら、俺はもう弱い。気がついたら頷いていた。「会うだけだからな。それと、職業を聞かれたら俺は好きに答えるぞ。」「好きにせい。」

こうして俺は、人生で初めての見合いに、貧乏なふりをして行くことになったのだ。

その晩、サトルに電話で報告すると、電話の向こうでしばらく笑い声が止まらなかった。「見合い?お前が?しかもニートのふりして?ダメだ。笑えてきた。」「笑いすぎだろう。」「いや、悪い悪い。でもよ、公平、いいと思うぜ、俺は。」しばらく笑った後、サトルは真面目な声になった。「お前さ、リサさんの件からずっと止まってたろ。仕事は化け物みたいにやるくせに、自分のことになると貝みたいに閉じちゃってよ。行ってこいよ。ダメで元々だ。ばあちゃんの顔も立つしな。」

ダメで元々。その通りだと思った。どうせ断られる。そのつもりで、俺は気楽に構えていた。

前の日の夜、押入れから一着を引っ張り出した。創業の頃、初めての大口契約の挨拶に行くために買った、今の安物のスーツだ。袖を通すと、あの頃の緊張を思い出した。バケツとモップしかなかった頃の俺だ。鏡の前でネクタイを締めてみて、やめた。ニートがネクタイをしていくのも変な話だ。枕元でばあちゃんの写真に手を合わせた。トヨさんの家の仏壇に飾ってもらっている写真の焼き増しだ。「ばあちゃん、明日、見合いだとさ。俺の人生も変なことになったもんだよ。」写真のばあちゃんは、いつもの困ったような笑顔のままだった。

見合いの日は10月の日曜だった。場所は「龍月」という、死偽舗の料亭だった。庭に小さな池のある、昔ながらの店だ。俺はあの古いスーツで行った。散髪だけはしていったが、鏡の中の俺はどこから見ても金のない男だった。それでいいと思った。

駅でトヨさんと待ち合わせて、2人で店に向かった。トヨさんは上等な着物姿で、俺の風体を上から下まで眺めて満足に頷いた。「うん。見事に、うだつの上がらん男や。」「褒めてないだろ、それ。」「褒めとるんや。今日のあんたにはそれが清掃や。」

龍月の玄関で靴を脱ぐ時、少しだけ心臓が鳴った。緊張なんて何年ぶりだろう。何十億の商談でも緊張しなくなって久しいのに。高がお見合い1つで、俺は廊下の途中で深呼吸をした。

個室に通されると、先方はもう座っていた。息を飲んだのはこっちの方だった。木崎綾乃さんは写真よりずっと綺麗な人だった。紺色のワンピースを着て、背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。艶のある黒髪と、意思の強そうな目をしていた。その隣に母親の冴子さん。50代の、物腰の柔らかい上品な人だ。トヨさんが仲人役で俺のそばに座った。

挨拶をして席に着いた。綾乃さんは俺を一目見た瞬間から、明らかに温度が下がっていた。くたびれたスーツの袖口、日に焼けた顔、ゴツゴツした手。彼女の視線が俺の全身をすっと撫でて、見合いが終わったのが分かった。まあ、そうなるよな、と俺は思った。

形通りの挨拶と天気の話が少し続いた。トヨさんが一生懸命に場をつないでくれていた。綾乃さんはほとんど口を開かず、運ばれてきた先付けにも箸をつけなかった。そして、あの質問が来た。綾乃さんは扇子を口元に当てて、探るでもなく確かめるでもなく、事務的に聞いたのだ。「篠田さんは、仕事は何してるの?」敬語が半分外れていた。見合いが終わった相手への聞き方だった。

来た、と思った。釣り書には「自由業」としか書いていない。ここで何と答えるか、実は前の晩から決めていた。会社のことを伏せて、フリーランスだの投資だの、それらしい嘘を並べることもできた。だが、どうせ丸腰で行くなら、一番そこまで丸腰になってやろうと思ったのだ。俺は少し間を置いて答えた。「ニートです。」

部屋の空気が音を立てて凍った。冴子さんが「まあ」と小さく声を漏らして、助けを求めるようにトヨさんを見た。トヨさんは知らん顔で茶をすっていた。この人も大概である。綾乃さんの眉がぴくりと動いた。「ニート?お仕事をされていないの?」「はい。今は何も。」

嘘ではない。俺は現場には出るが、役職としての仕事は各社の社長に任せている。無職ではないが、まあ嘘ではない。そういうことにしておいた。心の中で俺は静かに思った。振られたな。いや、終わったな。これで先方から断りが来て、この話は綺麗に流れる。トヨさんへの義理も果たした。そのはずだった。

だが、綾乃さんの反応は俺の予想を少しだけ超えてきた。綾乃さんは扇子をパチリと閉じて、まっすぐ俺を見た。「あのね、篠田さん。お見合いというのは、人生をかけてくる場だと私は思ってるの。お見合いに来る前にお仕事くらい決めておくものじゃないかしら。」「おっしゃる通りです。」「うちの父が聞いたらきっと驚くわ。木崎の娘がニートの方とお見合いだなんて。」「でしょうね。」「悪いけれど、私とあなたでは住む世界が違うと思う。」

「綾乃、あなたいい加減にしなさい。」冴子さんが真っ赤になって娘を叱った。だが俺は不思議と腹が立たなかった。彼女の言っていることは何ひとつ間違っていないからだ。それに、これだけはっきり物を言う人は、少なくとも陰で笑う人ではない。綾乃さんのことを思えば、よほど誠実だとすら思った。「いえ、お母さん。綾乃さんのおっしゃる通りです。俺みたいなのが出てくる席じゃなかった。気を悪くされたなら謝ります。」

俺が頭を下げると、綾乃さんは一瞬、拍子抜けしたような顔をした。言い返されると思っていたんだろう。それから、居たたまれなくなったように目をそらした。

気まずい沈黙を、トヨさんと冴子さんの世間話が埋めた。俺は出された料理を静かに食べていた。せっかくの料亭の飯だ。うまいものはうまい。

その時だった。襖が開いて、若い仲居さんが椀物の乗った盆を運んできた。まだ10代にも見える、新人らしい子だった。緊張しているのが遠目にも分かった。その子が俺の脇に膝をついた瞬間、盆が傾いた。茶の入った湯飲みが倒れて、俺の袖と畳にバシャリと茶が広がった。「も、申し訳ございません。申し訳ございません。」仲居さんは真っ白な顔で畳に手をつき、身を縮めた。奥から年配の女将さんが飛んできて、仲居さんを叱ろうと息を吸ったのが分かった。

俺はその前に口を開いた。「大丈夫です。服にはほとんどかかってませんから。」自分のハンカチを出して畳の水を吸い取った。それから、震えている仲居さんの盆を支えてやった。「焦らなくていいですよ。熱いものじゃなくてよかった。誰も怪我してませんから。」「で、でも、お召し物が…」「安物なんで、水くらいじゃ痛みもしません。」俺が笑って見せると、仲居さんの目に見るみる涙が溜まった。女将さんが何度も腰を折って詫びながら、仲居さんを連れて下がっていった。

下がり際、仲居さんはもう一度だけ振り返って、俺に向かって深くお辞儀をした。まだ幼さの残る顔だった。俺は昔の自分を思い出していた。日雇いの頃、弁当をひっくり返して現場監督にどやされた俺に、年配の職人が1人、黙って自分の弁当を半分くれたことがある。ああいう時、人にいるのは説教じゃない。「大丈夫だ」という一言だ。

やがて女将さんが「お詫びに」と言って、頼んでもいない小鉢を一品つけてくれた。「先ほどはうちの新人が大変失礼をいたしました。お客様のようなお方に面して、あの子を叱らずに済みました。」「今時、ああいう庇い方をしてくださるお客様は滅多にいらっしゃいませんので。大げさですよ。誰でもやります。」「いえ。」女将さんは静かに首を横に振った。「誰でもはやりません。」

新しいお茶が届いて、咳が落ち着いた頃、俺はふと視線を感じた。綾乃さんがじっと俺を見ていた。さっきまでの冷たい目とは何かが違った。まるで信じられないものでも見るような、それでいて何かを探すような目だった。目が合うと、彼女はすっと視線を落とした。膝の上の手が扇子をきつく握っていた。どうしたんだろう、とその時の俺は思っただけだった。

綾乃さんはしばらく黙っていた。それから、皮肉の調子を取り戻すように言った。「ニートなのに、随分落ち着いてるのね。普通、ああいう時ってもっと慌てるものじゃない。」嫌みのつもりだったんだろう。俺は苦笑して正直に答えた。「何も持ってない時ほど、慌てても仕方ないですから。」

その瞬間だった。綾乃さんが固まった。グラスに伸ばしかけた手が、途中で止まっていた。目を見開いて、唇が小さく震えて、血の気が引いていくのが分かった。倒れるんじゃないかと思うくらいだった。「綾乃、どうしたの?顔色が…」「なんでもない。ごめんなさい。」綾乃さんは水を一口飲んで、深く息をついた。それでも、俺を見る目は元に戻らなかった。氷が溶けた後みたいな、揺れる目だった。

俺には訳が分からなかった。何か変なことを言っただろうか。今ならわかる。あの瞬間、彼女の中で遠い記憶の扉が開きかけていたのだ。だが、この時の俺は何も知らずに、椀の蓋を開けていた。

それから、会話の風が変わった。綾乃さんがポツリポツリと質問をするようになったのだ。それも、さっきまでの尋問みたいな調子じゃない。何かを確かめるような、慎重な聞き方だった。「篠田さんは、ご家族は?」「いません。親は俺が9歳の時に事故で。育ててくれた祖母も、俺が18の年に亡くなりました。天涯孤独ってやつです。」綾乃さんの目がまた揺れた。「18の年。」「はい。それからは、まあ、その日暮らしで。日雇いをやったり、色々です。」「その日暮らし…」彼女は俺の言葉を、1つずつ胸の中の何かと突き合わせるように繰り返した。

トヨさんが「暗い話はこのくらいにして」と笑って、料理の話に変えた。焼き物が運ばれてきた。自分の分に箸をつける前に、無意識に手が動いていた。綾乃さんの前の皿を、彼女の利き手側に少しずらした。湯の立つ土瓶を、彼女の袖が触れない位置に遠ざけた。癖なのだ。現場で若い連中と飯を食う時、いつもやっていることだった。狭い休憩所で熱い汁物をひっくり返す奴が、年に何人もいるからだ。

綾乃さんは俺の手の動きをじっと見ていた。「あなた、今…」「あ、すみません。勝手に触って。」「ううん。違うの。そうじゃなくて…」彼女は何かを言いかけてやめた。その代わり、少し咳をした。慣れない緊張で喉が乾いていたんだろう。俺は水差しから新しい水を注いで、彼女の手元に置いた。綾乃さんはそのグラスを両手で包むように持って、長い間黙っていた。

やがて、顔を上げずに聞いてきた。「篠田さん。変なことを聞くけど、昔、どこかで人を助けたことはある?」心臓が1拍だけ跳ねた。脳裏をかすめたのは、冬の夜だ。煙と炎の唸りと、腕の中の小さな重さだ。考えを打ち消した。あの夜のことは、誰にも話したことがない。話すようなことでもない。人助けなんて言えるほど立派なもんじゃない。ただ体が動いただけの話だ。俺は笑ってごまかした。「そんな立派なことはしてませんよ。見ての通りのニートですから。」

綾乃さんは、俺の右腕の辺りをじっと見ていた。俺は無意識に袖口を引っ張って直した。長袖の袖のボタンを留めて、手首を隠す。これも長年の癖だった。火傷の跡は引き攣れて目立つから、人前では出さないことにしている。彼女の目が、その仕草を追った気がした。気のせいだと、その時は思った。

その時、場の空気を破るように電子音が鳴った。綾乃さんのバッグの中でスマホが震えていた。彼女は画面を見て眉を潜めた。「ごめんなさい。少し失礼します。」断って廊下に出ていった。障子越しに、押し殺した声が漏れ聞こえた。盗み聞きする気はなかったが、狭い個室だ。ひょんなことから耳に入ってしまった。「ですから、同じません。その件は、お受けするとは一言も…」「冴子さんとのことは、私は承知していません。」「会社のためと言われようと、私の人生です。」

戻ってきた綾乃さんの顔は硬かった。さっきまでの揺れる目が、また閉じてしまっていた。冴子さんが心配そうに娘を見た。「会社から?」「ええ、大した話じゃない。」「大した話じゃない」という声が、一番大した話だと言っていた。

綾乃さんはしばらく手元を見つめていた。それから、思い切ったように顔を上げて、頭を下げた。「篠田さん。正直に言います。私、今日のお見合い、お断りするつもりで来たんです。」「あの、お母さん、いいの?」「この方に失礼だから、ちゃんと言うの。」彼女はまっすぐ俺を見た。「今、会社の都合で、私に別の縁談が進められています。取引先の建設会社の方と。私はお断りしたい。でも、簡単には断れない事情がある。だから今日は…ごめんなさい。次の縁談に進む前に、1度だけ義理を果たすための席だったんです。誰が相手でも、お断りするつもりだった。」

部屋が静寂となった。自分で言いながら、彼女自身が一番傷ついているのが分かった。頬がこわばって、扇子を持つ指が白くなっていた。俺はなんだかおかしくなってしまった。「そうですか。実は俺も、断られるつもりで来ました。」「え?」「ニートですなんて答えたら、普通断られるでしょう。それで丸く収まると思ってたんです。だから、お互い様ですよ。気にしないでください。」

綾乃さんはポカンと俺を見た。それから、ふっと吹き出した。初めて見る笑顔だった。作り物じゃない、年相応の、少し困ったような笑顔だった。釣られて冴子さんも笑って、張り詰めていた部屋の空気がようやく緩んだ。トヨさんがここぞとばかりに口を挟んだ。「まあまあ、お断り同士なら気も楽やろ。ここの庭は紅葉が始まっとってな。綺麗なんよ。せっかくやから、2人で歩いといで。年寄りは茶でも飲んどるわ。」

綾乃さんは少し迷ってから、立ち上がった。

龍月の庭は思ったより広かった。小さな池があって、鯉が泳いでいた。もみじの先の方だけが赤く色づき始めていて、午後の日が水面に反射していた。綾乃さんは池の縁で足を止めて、鯉を眺めていた。「さっきは、ひどいことをたくさん言いました。住む世界が違うとか…ごめんなさい。」「事実ですから。」「事実でも、言っていいことと悪いことがあります。私、最低だった。」彼女は自分の言葉に小さくため息をついた。「偉そうに、お仕事くらい決めておくものだとか。私だって、父の会社にいるだけ。木崎の娘だから、広告の仕事をもらってるだけです。私自身の力で立ってるわけじゃない。」

「そんなことは…」「あるんです。縁談だって。そう。相手の方は、私を見てるんじゃない。木崎ホームズの娘という看板を見てるの。この前なんて、顔合わせの席で、うちの会社の取引先との繋がりを延々と聞かれました。私の話は、1つも聞かれなかった。」池の鯉がパシャリと跳ねた。「肩書きの呪いって、あるんですよ。篠田さんには分からないでしょうけど。ごめんなさい。今のも、嫌な言い方だった。」

「いえ。」綾乃さんは池の水面に目を落として、しばらく黙った。それから、独り言のように続けた。「今度の縁談のお相手はね、坂田建設さんの御曹司なんです。県内一番の建設会社。うちとは長年の取引があって、今度大きな事業もご一緒することになっていて。そういう会社の後継者の方。」「気が進まないと言ってましたね。」「1度だけ顔合わせの席がありました。その方、開口一番、何て言ったと思います?『木崎さんとこの土地の含み益って、実際どのくらいなのですか?』って。私の目も見ないで。」彼女は乾いた声で笑った。「断りたい。でも、専務が『会社のためだ』って。この提携がうまくいくかどうかは、両家の信頼関係次第だからって。父は『無理はしなくていい』と言ってくれます。でも、私、知ってるんです。父が夜中に1人で資金繰りの表とにらめっこしてるの。うちの会社は、1度潰れてます。父は、もう2度と社員さんを路頭に迷わせたくないんです。その材料に私がなれるなら…」

「それは…」違う、と言いかけて、俺は言葉を選び直した。ニートの俺に経営を語る資格はないことになっている。「それは、お父さんが一番望んでないことじゃないですか?」「分かってます。分かってるけど、他にどうしようもないことって、世の中にはあるんです。」

12歳で父の会社の倒産を経験した人の言葉だった。世の中にはどうしようもないことがある。それを、この人は肌で知っている。だからこそ、自分を差し出そうとしている。俺は彼女の横顔を見た。綺麗なだけの令嬢だと思っていた顔が、まるで違って見えた。この人は、檻の中でちゃんと戦っている。

「分かる」と喉まで出かかった。痛いほど分かる。俺は肩書きが透明になる呪いに。彼女は肩書きしか見られない呪いに。それぞれ閉じ込められている。檻の形が逆さまなだけで、中身は同じだ。だが、それを言うには、俺は嘘をつきすぎていた。ニートの俺に言える言葉じゃなかった。初めて、自分の嘘が重くなった。

「俺の話は、分かる気がします。俺も昔、人に囲まれてた時期が少しだけあって。金の話ばかりされました。俺の話は、誰も聞いてなかった。」「ニートなのに。」「ニートにも、色々あるんです。」綾乃さんは苦笑したが、それ以上は聞かなかった。代わりに、ぽつりと言った。「あなた、変な人ね。」その声は、さっきよりずっと柔らかかった。「ねえ、篠田さん。どうして今日の見合いを受けたの?ニートなのに、なんて言い方は、もうしません。」「ただ、あなた、結婚したい人には見えない。」

「ばあちゃんへの義理です。あの人は、俺の育ての親の親友で、俺にとってはたった1人残った身内みたいな人なんです。その人に『会うだけ会ってこい』と言われて。」「育ての親って?」「祖母です。両親の代わりに俺を育ててくれた人。その祖母が生きてる頃、よく言ってたそうです。俺に家族を持たせてやりたいって。ばあちゃん同士の約束みたいなもんですかね。俺は今日、その約束に付き合ってるんです。」

綾乃さんは俺の顔をじっと見た。「おばあ様、どんな方だった?」「小さくて、頑固で、働き者でした。内職の袋詰めで俺を食わせてくれて。手があったかい人でした。」「手?」「ええ。俺が落ち込んでると、何も言わずに手を握ってくれるんです。説教もなし。慰めもなし。ただ握るだけ。それで、大抵のことはどうにかなりました。」綾乃さんはふっと目を細めた。「いいな、それ。」

池の面を風が渡っていった。池を回って、綾乃さんとベンチに並んで座った。少し風が出て、もみじの葉が何枚か落ちた。沈黙は続いたが、嫌な沈黙じゃなかった。先に口を開いたのは綾乃さんだった。「篠田さんは、怖くないんですか?仕事がないって。その、明日のこととか。」「怖くないと言えば嘘になります。でも、1度全部なくしてるんで、慣れみたいなものはあります。」「全部?」「18の年に祖母が死んで、家もなくなって。守るものが何もないっていうのは、身軽なもんですよ。飯を食って、寝て、朝起きて、手を動かす。それだけで、人間は案外生きていけます。」

綾乃さんは自分の膝に目を落とした。長いまつ毛が影を作っていた。そして、静かに話し始めたのだ。「私の家ね。昔、1度潰れてるんです。今でこそ、木崎ホームズなんて名前で、社長令嬢なんて呼ばれてますけど。私が12歳の時、父の会社は1度潰してるの。前は小さな工務店でした。取引先の連鎖倒産に巻き込まれて、父は連帯保証も背負ってた。家も土地も、全部持っていかれました。」

思いがけない話だった。「父は債権者の対応で家に帰れなくなって、母と私は親戚の家を点々として、最後は誰も頼れなくなって、安い宿を渡り歩きました。素泊まりの古い宿です。母は夜も働きに出て、私は宿の部屋で1人で母の帰りを待ってた。」彼女は遠くの池を見ていた。「学校では、社長の娘だったのが夜逃げしたって噂されて。友達だと思ってた子たちは、潮が引くみたいにいなくなりました。人って、こんなに簡単に手のひらを返すんだって、12歳で知りました。」

「そうでしたか。」「だから、さっきあなたが言ったでしょ。何も持ってない時ほど、慌てても仕方ないって。あの言葉ね、昔、同じことを言ってくれた人がいたんです。」綾乃さんの声が、少しだけ震えた。「私が一番どん底だった時に、命を助けてくれた人。名前も知らない人です。その人が、私にそういう意味のことを言ってくれた。泣いてもいい、でも、慌てなくていいって。あの言葉がなかったら、今の私はいません。その人とは、今も会えていません。ずっと探してるんです。もう15年になります。」

15年。その数字が胸のどこかに引っかかった。だが、俺はまだ気づかなかった。彼女の言う「どん底」の中身を、俺は知らない。「命を助けられた」と言っても、病気か事故か、いくらでもある。まさか自分のことだとは思う方がどうかしている。大体、あの頃、貧しさを抱えた家の子なんて、あの界隈にはいくらでもいたのだ。「手がかりは、ないんですか?」「ほとんど。分かってるのは、当時まだ若い男の人だったこと。それだけです。名前も顔も、はっきり覚えてない。私、その時、意識がもうろうとしてて。覚えてるのは、声と手の感じ。」「声と手。」「ええ。低くて静かな声。それと、大きくてあったかい手。変でしょ。顔も知らない人を、声と手の記憶だけで探し続けてるなんて。友達には笑われました。初恋をこじらせてるだけだって。」綾乃さんは少し赤くなって、慌てて付け足した。「べ、別にそういうのじゃないんです。ただ、お礼が言いたいだけで。恩人なんです。ただの。」「分かってますよ。本当に、ただの恩人なんだから。」

真剣になるところがなんだか子供みたいで、俺は少し笑ってしまった。俺は当たり障りのないことしか言えなかった。「会えるといいですね、その人に。」「ええ。会えたら、伝えたいことが山ほどあるんです。でも、きっとその人は覚えてもいないと思う。そういう人なの。恩を着せない人。何もなかったみたいな顔をしていなくなっちゃう人。」彼女はそこで言葉を切って、俺の顔をじっと見た。何かを言いたそうで、言わない。そんな目だった。

「篠田さんは、その、もし明日、大金が手に入ったら、何に使います?」「何ですか?急に。」「いいから、例えばの話。」俺は少し考えた。「多分、今日と同じことをしますよ。飯を食って、寝て、朝起きて、手を動かす。金があってもなくても、やることは変わらないです。」「変わらない。」「ええ。金で変わるのは、周りの方です。自分まで変わったら、おしまいでしょ。」綾乃さんはふっと笑った。それから真顔になって、小さな声で言った。「やっぱり、あなた、あの人に似てる。」「え?」「うん。なんでもない。戻りましょうか。母たちが待ってるわ。」

立ち上がった彼女の後ろ姿は、来た時よりもずっと軽く見えた。

席に戻ると、トヨさんと冴子さんが揃ってニヤニヤしていた。年寄り2人は茶を飲みながら、障子の隙間から庭を見ていたらしい。悪趣味にもほどがある。それからの席は、見合いというより普通の食事会になった。綾乃さんはよく笑うようになっていた。俺の日雇い時代の失敗談には、声を上げて笑った。初めて任された現場で、養生シートと間違えてブルーシートの在庫を全部発注してしまい、現場がブルーシートの海になった話だ。「ダメ。想像したら、青一色の現場。」「監督には殴られるかと思いましたよ。結局、そのシート、3年かけて使い切りました。」

冴子さんも若い頃の話をしてくれた。ご主人との馴れ初めだ。大工の見習いだったご主人が、雨の日に冴子さんの傘を直してくれたのが始まりだという。「骨が折れた傘をね、その場で針金でちゃちゃっと。不器用な人が、手先だけは器用でね。」「冴子さんとこも、始まりは傘1本かな。」「ええなあ。」「うちの死んだ主なんか、始まりは借金の取り立てやで。」「トヨさん、それ、どういう話ですか?」「聞きたいか?」「なるで。」座は和やかな声で温まっていた。

綾乃さんは子供の頃の話もしてくれた。大工になりたくて父さんのカンナを持ち出して、廊下の柱を削って大目玉を食らった話。倒産の前の、まだ会社が小さな工務店だった頃の話だ。「木の匂いが好きだったんです。削りくずの匂い。父の作業着の匂い。今でも現場に行くと、思い出します。ああ、うちはこの匂いの会社なんだって。」その目は、会社の看板を語る目じゃなかった。家族を語る目だった。

デザートの水菓子が出た頃には、俺はほとんど忘れていた。自分が嘘つきのニートで、彼女が断るつもりで来た令嬢だということを。だから、その後に起きたことに、何の備えもなかったのだ。

食事の締めに、ほうじ茶が運ばれてきた。運んできたのは、さっきの若い仲居さんだった。女将さんが後ろに着いて、やり直しの機会をくれたんだろう。仲居さんは「今度こそ」という顔で、震える手で盆を運んできた。だが、緊張というのは皮肉なものだ。綾乃さんの手元に湯飲みを置こうとした瞬間、仲居さんの指が滑った。つい、茶の入った湯飲みが盆の上で倒れた。湯の立つ茶が、綾乃さんの手元めがけて流れた。

考えるより先に、体が動いた。俺は身を乗り出して、右腕を綾乃さんの手の前に差し入れた。熱い茶が俺の袖にかかった。じわりと熱が染みたが、幸い、跡になるほどの熱さではなかった。俺は倒れた湯飲みを起こして、息をついた。「危なかった。大丈夫ですか?木崎さん。」

返事がなかった。仲居さんが真っ青になって謝っている声も、女将さんが飛んでくる足音も、妙に遠かった。綾乃さんは、俺の右腕を見ていた。茶で濡れた袖口が、まくれ上がっていた。そこに、あの跡があった。手首の外側の、引き攣れた火傷の跡。ずっと長袖の下に隠し続けてきた跡が、露わになっていた。綾乃さんの顔から、見る間に血の気が引いた。「その傷…」

俺はとっさに袖を戻そうとした。だが、それより早く、綾乃さんの手が伸びた。細い指が、俺の手首を掴んだ。強い力だった。振りほどけば振りほどけたのに、俺は動けなかった。彼女の手が氷みたいに冷たくて、小さく震えていたからだ。「見せてください。」彼女は俺の袖口をそっとめくった。火傷の跡が、午後の光の下にさらされた。引き攣れた皮膚。あの冬の夜が、そこに刻まれている。綾乃さんはその傷を、食い入るように見つめた。それから、震える声で言った。「右の手首。同じ場所、同じ形。」「木崎さん?」「水荘。」

その一言で、俺の中の時間が止まった。「15年前の冬。下町の『水荘』っていう古い宿の火事。あなた、あの時の人ですよね。」言葉が出なかった。水荘。忘れるはずもない言葉だった。だが、その名前が、よりによって目の前の人の唇からこぼれ落ちるなんて。まさか。まさか、そんなことがあるのか。

あの夜の少女。煙の中でうずくまっていた、痩せた小さな女の子。布団ごと抱えた、あの軽さ。袖を握って離さなかった、小さな手。俺は目の前の綾乃さんを見た。27歳。15年前なら、12歳だ。父の会社が潰れて、母と安い宿を渡り歩いて。母は夜も働きに出ていて、宿の部屋で1人で母の帰りを待っていた。さっき彼女が話したことが、稲妻みたいに繋がった。

俺は何も言えなかった。その沈黙が、答えになってしまった。綾乃さんの目から涙が溢れた。ボロボロと、後から後からこぼれて落ちた。化粧が崩れるのも構わず、彼女は両手で口を抑えて嗚咽をこらえた。「やっぱり。やっぱり、あなただ。」

冴子さんが何事かと腰を浮かせた。「綾乃、どうしたの、あなた?」「お母さん、この人、この人なの?」綾乃さんは涙でぐしゃぐしゃの顔で母親を振り返った。「水荘の、あの火事を助けてくれた人。」冴子さんの顔色が変わった。彼女はゆっくりと俺を見て、それから俺の手首の跡を見た。口元に当てた手が震え始めた。「ああ…そんな…」冴子さんはその場で泣き崩れた。トヨさんだけが状況を飲み込めずに、オロオロしていた。当たり前だ。俺はトヨさんにも、あの夜のことを話したことがない。

綾乃さんは涙を拭おうともせずに、話し始めた。「12歳の冬でした。母は夜、お弁当工場で働いてて。私は水荘の2階の部屋で、1人で母を待ってました。眠っちゃってたんです。気がついたら、部屋の外が真っ白で。煙で、息ができなくて。」彼女の声は震えていたが、止まらなかった。15年分の言葉が、堰を切って溢れ出していた。「怖くて、動けなくて。押入れの前で、布団に顔を押し付けてうずくまってました。ああ、私、死ぬんだって思った。まだ12年しか生きてないのに。いいことなんて、何にもなかったのに。その時、声がしたんです。『どこだ?返事してくれ』って。」

あの夜の煙の匂いが蘇った。「襖が開いて、誰かが私を布団ごと抱き上げてくれました。すごい熱で、火が天井を這ってて。その人は、私を左腕に抱えて、右腕で火を遮りながら、階段を駆けてくれた。外に出た時、その人の右の手首、焼けてたんです。ひどいことになってた。なのに、その人、自分の腕なんか構いもしないで、私の手を両手で包んで言ったんです。」綾乃さんはそこで一度言葉をつまらせた。それでも言った。「『大丈夫。怖かったな。でも、もう1人じゃない』って。」

トヨさんがはっと俺を見た。「私、その言葉で生き返ったんです。会社が潰れてから、ずっと1人ぼっちだと思ってた。世界中の誰も、私たちのことなんか見てないと思ってた。でも、名前も知らないその人が、命がけで私を抱えて、あの言葉をくれた。救急車に載せられて、気がついたら、その人はいなくなってました。名乗りもしないで。」

彼女はバッグから、ハンカチに包んだ何かを取り出した。古い、色あせた新聞の切り抜きだった。何度も開いて、何度も畳んだんだろう。折り目が白く擦り切れていた。地方紙の小さな記事。「宿の火災、逃げ遅れた小学生の女児を通行人の男性が救出。男性は名乗らず立ち去る。」それだけの記事だ。「ずっと探してました。消防署にも聞きました。警察にも。目撃した人にも。それから、宿の女将さんには、お礼が言いたかったのに、火事の後、行方が分からなくなっていて、聞くこともできませんでした。分かったのは、若い男の人で、右手に大きな火傷を負ったはずだということだけ。」

「さっき、お庭で『覚えてるのは声と手だけ』と言いました。ごめんなさい。手がかりは、本当はもう1つあったんです。右手の火傷。でも、言えなかった。もし人違いだったらと思うと、怖くて。15年間、忘れた日はありません。どこかで元気でいてくれますようにって、毎晩祈ってた。手首の火傷、跡になっていないといいなって。痛かっただろうなって。」

俺は自分の手首を見た。この跡を、恥だと思ったことはない。だが、誇りに思ったこともなかった。ただの古傷だ。そう思って生きてきた。その古傷のために、毎晩祈ってくれていた人がいた。15年間も。喉の奥が熱くなった。「あなたが…」声がかれた。「あの時の、あの子。」綾乃さんは涙の溜まった目でまっすぐ俺を見て、頷いた。「はい。あの時の、泣いていた子供です。篠田さん。ずっと、ずっと言いたかったことがあるんです。」

彼女は姿勢を正して、畳に両手をついた。「あの日は、私を助けてくださって、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、私は今日まで生きてこられました。」畳につくほど深く頭を下げた。社長令嬢の綾乃さんじゃなかった。12歳のあの子が、15年かけてやっと恩人に追いついて、精一杯の礼を尽くしていた。

俺は何と言っていいかわからなかった。「頭をあげてください。俺は、大したことはしてません。ただ通りかかっただけです。助けられてよかった。それだけです。」綾乃さんは頭を上げて、泣き笑いの顔になった。「本当に、言うんですね、それ。」「え?」「そういう人だろうなって、思ってました。会えたら、絶対そんな風に言うんだろうなって。恩を着せない人。何もなかったみたいな顔する人。その通りすぎて、腹が立つくらい。」彼女は笑いながら泣いていた。それから、すっと息を吸って真顔になった。「篠田さん。私、さっきあなたにひどいことを言いました。仕事くらい決めておくものだとか、住む世界が違うとか。あの火事の後、私、誓ったんです。人を肩書きやお金で見る人間には、絶対にならないって。あの人は、私が誰かなんて聞かなかった。貧乏な宿の子供だから助けたんじゃない。ただ、助けてくれた。私もそういう人間になるんだって誓ったのに。」声がまた震えた。「いつの間にか、忘れてました。木崎の娘に戻って、いい暮らしをして、肩書きで人を図る人間になってた。今日のあなたへの態度が、その証拠です。一番なりたくなかった人間になってました。命の恩人の前で。最低です、私。」

彼女はもう1度深くお辞儀をした。「ごめんなさい。あなたのことを何も知らないで、最低なことを言いました。」「木崎さん、もう、言わせてください。言わないと、私、前に進めない。」部屋は静まり返っていた。冴子さんは泣きながら娘を見ていた。トヨさんはいつの間にか目頭を抑えていた。綾乃さんは顔を上げた。その目にもう迷いはなかった。「篠田さん。」「うん。」「あの日のお兄ちゃん。私、決めました。」彼女は大きく息を吸って言った。「今すぐ、結婚して。」

時間が止まった。冴子さんが「えっ」と声を漏らした。トヨさんは湯飲みを持ったまま固まっていた。廊下を下がりかけていた女将さんと仲居さんまで、障子の影で固まっているのが分かった。綾乃さん自身も、自分の口から飛び出した言葉に驚いたらしい。頬を赤くして、それでも引かなかった。彼女は畳に両手をついて、深く頭を下げたのだ。「失礼しました。言い直します。今すぐ、私と結婚してください。」

一番驚いていたのは、間違いなく俺だった。「結婚?」「はい。結婚です。今すぐ。」「いや、待ってください。俺はその、ニートで…」「関係ありません。」彼女はきっぱりと言い切った。「あなたがニートだからじゃない。お仕事があるとかないとか、そういう話でもない。私が世界で一番苦しかった時に、何も聞かないで命をかけて私を守ってくれた人だから。この15年、あなたのおかげで生きてこられたから。あの日、あなたが助けてくれたから、私は今ここにいるんです。だから、今度は私があなたの隣に立ちたい。何があっても、あなたのそばにいたい。お願いします。あなたじゃなきゃ、ダメなんです。」

まっすぐな目だった。嘘も計算も、何もない目だった。リサの目とは違う。金の匂いに寄ってくる目とは、まるで違う。この人は、ニートの篠田公平に人生をかけると言っている。胸の奥が震えた。嬉しかった。嬉しくて、苦しかった。なぜなら、俺はこの瞬間も、まだこの人に嘘をついているからだ。

綾乃さんは、ニートの俺を選んでくれた。肩書きなんかで人を見ないと誓って、その誓いの通りに、丸腰の俺を選んでくれた。それなのに、当の俺は丸腰のふりをした嘘つきだった。3つの会社と、900人の社員と、彼女の知らない顔を隠し持っている。このまま頷いたら、俺は彼女の一番綺麗な部分を、嘘の上に立たせることになる。それだけは、できなかった。

「木崎さん。ありがとうございます。本当に嬉しいです。こんなことを言ってもらえる日が来るなんて、思っても見なかった。」「じゃあ…」「でも、少しだけ時間をください。」綾乃さんの顔が曇った。「私じゃ、ダメですか?」「違う。そうじゃないんです。あなたは何も悪くない。ただ、俺の方に、ちゃんとしなきゃいけないことがある。それを済ませてから、きちんと返事をさせてください。逃げも隠れもしません。約束します。」

綾乃さんはしばらく俺の目を見ていた。それから、小さく頷いた。「わかりました。待ちます。15年待ったんだもの。少しくらい、平気です。」その言い方に、俺は参ってしまった。

気がつけば、日はとっぷりと暮れていた。帰り道、トヨさんと2人で夜道を歩いた。トヨさんはずっと黙っていた。駅の近くまで来て、ようやく口を開いた。「あんた、あの火事。なんで1度も言わんかったの?」「言うようなことじゃないと思ってたから。」「あんたって、ほんまに…」トヨさんはため息とも笑いともつかない息を吐いた。「ほんで、なんで嘘のこと言わんかったんや?会社のこと、あの場で言うたら、全部丸く収まったやろうに。」「分からなくなったんだ。」俺は正直に答えた。「あの人は、ニートの俺に結婚してくれと言った。ここに会社の話を出したら、あの人の気持ちに水を差すみたいな気がして。言うタイミングも、言い方も、分からなくなった。」

トヨさんは夜空を見上げた。「何やな、あんたらは。けどな、公平。1つだけ言うとくで。あの子の涙は、本物やったで。うちは60年、人の顔を見て商売してきたんや。あれは、嘘の泣き方やない。」分かってると、俺は思った。分かってるから、苦しいのだ。

夜のアパートに帰って、俺は電気もつけずにしばらく座り込んでいた。右手の跡に、そっと触れた。あの冬の夜が、こんな形で追いついてくるなんて。あの子があんなに綺麗になって、俺を探し続けてくれていたなんて。そして、俺はその子に嘘をついたまま、好きになられてしまったなんて。

物語はここから、思いもよらない方向に転がっていく。だが、この夜の俺は、ただ天井を見上げて、あの子の泣き顔を思い出していた。

それから、俺と綾乃さんの奇妙な時間が始まった。結婚の返事は保留のまま、俺たちは会うようになった。最初に連絡をくれたのは、綾乃さんの方だった。トヨさん経由で番号を聞いたらしい。見合いの3日後、スマホに短いメッセージが届いた。「返事は待ちます。でも、会うのは待ちません。今度の日曜、開いてますか?」押しの強さに、思わず笑ってしまった。

日曜、俺たちは下町の商店街を歩いた。彼女が「あなたの暮らしてる町が見たい」と言ったからだ。綾乃さんは楽しそうだった。コロッケ屋の前で足を止めて、1個90円のコロッケを1つだけ買って、半分に割って俺にくれた。揚げたてを頬張って、熱さに目を白黒させて、それでも「美味しい」と笑った。八百屋のおじさんに冷やかされて、耳まで赤くなった。川沿いの土手に並んで座って、夕日が沈むのをただ眺めた。「ねえ、篠田さん。私、今日みたいな日が、人生で一番贅沢だと思う。」「コロッケ1個で贅沢なら、安いもんですね。」「コロッケの話じゃありません。」彼女は膨れて、それから笑った。

デートというのは金がかかるものだと思っていたが、彼女と歩く時間に、金の出番はほとんどなかった。500円の定食を「うまい」と言い、100円の缶コーヒーを両手で包んで温まる人だった。育ちのいいお嬢さんの気まぐれというのとも違った。彼女は本当に、こういう時間に飢えていたのだ。

会うたびに、俺は彼女に惹かれていった。そして、会うたびに、胸の奥の嘘が重くなった。言おうと何度も思った。今日こそ言おう。実は俺はニートじゃない。会社をやってる。騙していて悪かった、と。だが、彼女が「ニートでも関係ない」と笑うたび、言葉は喉の奥に引っ込んだ。言えば、何かが変わってしまう気がした。この時間の何かが、壊れてしまう気がした。臆病といえばそれまでだ。俺は33年生きてきて、初めて、失うのが怖いものができてしまったのだ。

1月ほど経った頃、綾乃さんが言った。「父に、会ってほしいんです。」木崎家は、市の外れの高台にあった。立派な門構えの日本家だ。緊張しながら通された客間で、俺は木崎道夫社長と向き合った。58歳、日に焼けたがっしりした人だった。住宅会社の社長と言っても、根っこは現場の大工なんだろう。手を見れば分かる。ささくれだった、道具を握ってきた者の手だ。

道夫さんは俺の顔をじっと見た。見下されるのかと思った。だが、違った。彼の視線は、俺の右の手首に落ちた。その日は、隠さずに来ていた。綾乃さんに「もう隠さないで欲しい」と言われたからだ。道夫さんの目が、みるみる赤くなった。そして、この大きな体の社長は、畳に両手をついて、深く頭を下げたのだ。「娘を助けてくださった方に、お礼も言えないまま、15年が経ちました。あなたを探し出せなかったのは、私の一生の悔いでした。ありがとうございました。この通りです。」額が畳につきそうだった。

「社長、やめてください。頭をあげてください。」「いいや。言わせてもらう。あの頃の私は、最低の父親だった。会社を潰して、妻と娘を路頭に迷わせて。挙げ句の果てに、火事で娘を死なせかけた。私が守れなかった娘の命を、あなたが守ってくれた。この恩は、木崎道夫、死ぬまで忘れません。」

その夜、木崎家の食卓に、俺の席が用意された。冴子さんの手料理が並んだ。肉じゃがと、出し巻きと、具だくさんの豚汁。豪華なもてなし料理じゃない、普段の飯だった。それが、たまらなく嬉しかった。道夫さんは酒が入るとよく笑う人だった。工務店時代の失敗談を豪快に話し、綾乃さんの子供の頃の話を暴露しては、綾乃さんに睨まれていた。「父さん、その話は禁止って言ったでしょう。」「いいじゃないか。なあ、篠田君。こいつは小学生の頃な。大工になるって言って、私のカンナを勝手に持ち出して…」「お父さん!」笑い声の絶えない食卓だった。

天涯孤独になって15年。俺は家族の食卓というものを、ほとんど忘れかけていた。誰かの声を聞きながら食う飯が、こんなにうまいものだということも。だが、その温かさは、長くは続かなかった。

数日後の夜だった。アパートのドアがノックされた。開けると、値の張るスーツを着た、白髪混じりの男が立っていた。50代半ば。銀縁のメガネの奥の目が、値踏みするように俺と俺の部屋を眺め回した。「やあ、失礼。木崎ホームズ専務の同島と申します。」見合いの日、綾乃さんに電話をかけてきた男だ。

同島は、招いてもいないのに部屋に上がり込んで、万年床と裸電球を見て鼻で笑った。「なるほど。噂通りの暮らしっぷりだ。」「何のご用ですか?」「話が早くて助かる。単刀直入に言いましょう。お嬢さんから、手を引いていただきたい。」彼は封筒を出して、ちゃぶ台の上に置いた。厚みのある封筒だった。「300万あります。足りなければ、500万ではこの場で書きましょう。あなたのような身の上なら、悪い話ではないはずだ。」

俺は封筒を見た。それから、同島の顔を見た。「お引き取りください。」「強気ですな。では、あなた、お嬢さんをどうするおつもりか?無職の男が、社長令嬢と釣り合うとでも?」「釣り合いというのは、肩書きの話ですか?」「世間では、それを現実と呼ぶんですよ。」同島はメガネを押し上げた。「いいですか、篠田さん。木崎ホームズは、今、大事な時期でしてね。坂田建設さんとの提携に、会社の未来がかかっている。お嬢さんと坂田の御曹司の縁談は、その肝なんです。300人の社員の生活が、かかってるんですよ。それを、あなたはコロッケ1個のデートで壊すおつもりか?」

調べられている。俺は静かに怒りを覚えたが、顔には出さなかった。「縁談を決めるのは、綾乃さんです。俺でも、あなたでもない。」「話にならんな。」彼は封筒をしまって立ち上がった。ドアの前で振り返って、吐き捨てるように言った。「まあ、いい。あなたのような人は、時期に現実を知る。社長も『恩人だなんだ』と甘いことを言っていられるのは、今のうちだ。身の程というものを、考えることですな。」

ドアが閉まった。俺は1人、ちゃぶ台の前に座り込んだ。悔しさはなかった。あるのは、もっと厄介な問いだった。俺がここで「日向グループの篠田です」と名乗れば、同島は手のひらを返しただろう。180億の看板の前に、あの人は間違いなくひれ伏す。綾乃さんとの結婚にも、誰も文句を言わなくなる。だが、それでいいのか?肩書きで黙らせたら、俺も同島と同じ穴の狢じゃないのか。人を看板で測る世界に、膝を屈することにならないのか。綾乃さんは、ニートの俺に結婚してと言ってくれた。その気持ちに、看板を被せて上書きしていいのか?

答えの出ないまま、俺はサトルに電話をかけた。サトルは日向創建の社長だ。俺が21の頃、清掃の現場で出会った。当時のサトルは派遣切りにあって、ネットカフェで寝泊まりしていた。5歳上の、口の悪い、誰よりも義理堅い男だ。バケツとモップの時代から、ずっと一緒にやってきた。事情を話すと、サトルは電話の向こうでしばらく黙った。「お前らしいよ。本当。」「笑えよ。」「笑わねえよ。なあ、公平。俺は、お前が社名を『日向』にした時から、なんとなく察してたよ。お前には、何か大事な原点があるんだろうなって。詮索はしねえけどな。」

サトルは続けた。「1つだけ言わせろ。肩書きってのはな、鎧いなんだよ。鎧いを脱いで、素の自分で人と向き合うのは立派だ。お前のそういうとこ、俺は好きだよ。でもな、公平。守りたい人がいる時にまで、鎧いを置いていくのは、そりゃ潔さじゃねえ。ただの意地だ。」「意地か。」「そうだよ。お前の900人の社員はな、お前の看板で飯を食って、家族を養ってんだ。看板ってのは、そういうもんだ。汚いもんでも、恥ずかしいもんでもねえ。使いどころの問題だろ。」

その言葉は深く刺さった。だが、俺はまだ決めきれなかった。決めきれないまま、日々だけが過ぎていった。そして、事態の方が先に動いたのだ。

その前に、話しておきたい人たちがいる。この頃、俺は綾乃さんを、ある店に連れて行った。商店街の外れの、小さな定食屋だ。「はるや」という。「可愛いお店。篠田さんの行きつけ?」「まあ、そんなとこです。ちょっと、合わせたい人がいて。」引き戸を開けると、カウンターの奥から小柄なばあちゃんが顔を出した。はるさん、76歳になる。この店の主だ。はるさんは俺を見て破顔して、それから、俺の隣の綾乃さんを見た。その顔から、笑みがすっと消えた。はるさんは前掛けで手を拭きながら、ゆっくりカウンターを回って出てきた。綾乃さんの前に立って、じっと顔を見上げる。綾乃さんが戸惑って会釈した。はるさんの目に、涙が盛り上がった。「あんた、あんた、もしかして…水荘の、あの時のお嬢ちゃんかい?」綾乃さんが息を飲んだ。「どうして、それを?」「ああ。ああ。やっぱり。おかげがある。あの晩の、あの子だ。」はるさんは綾乃さんの手を取って、ボロボロ泣いた。はるさんこそ、水荘の女将さんだったのだ。

落ち着いてから、はるさんはポツリポツリと話してくれた。「あの火事はね、うちの古い配線が原因だったの。ぼや騒ぎなら前にもあってね。電気屋に見てもらわなきゃとは思ってたんだよ。でも、宿は貧乏でね。後回しにしちまった。そのせいで、あんたを死なせかけた。お母さんから預かってた、大事な娘さんを。私は、あの晩からずっと、あんたに謝りたかった。」「女将さん…」「宿は丸焼けでね。私は何もかもなくしたけど、そんなのは自業自得さ。ただ、あんたが煙を吸って運ばれていくのを見て、この子に何かあったら、私は生きていけないって思った。無事で良かった。こんなに綺麗になって。」

綾乃さんは首を横に振って、はるさんの手を握り返した。「私、女将さんのこと、覚えてます。お母さんが帰りが遅い夜、よく部屋にみかんを持ってきてくれました。あの宿、私、嫌いじゃなかった。女将さんがいたから。」「お嬢ちゃん…」2人はしばらく手を取り合って泣いていた。それから、はるさんは俺の方を見て、綾乃さんに言った。「この人にはね、私は2度助けられてるんだよ。」「はるさん、その話は…」「するよ。私は15年、誰かに話したくてしょうがなかったんだから。」はるさんは綾乃さんに向き直った。「1度目はあの晩さ。私が『2階に女の子がいる』って叫んだら、この人、何も言わずに火の中に飛び込んでいった。まだ18かそこらの、ひょろっとした兄ちゃんだったよ。あんたを抱えて出てきた時、右腕がひどい火傷でね。なのに、救急車にも乗らないで、いつの間にかいなくなってた。それから2、3日した朝だよ。焼け跡の前で呆然としていたら、あの兄ちゃんがまた来てね。黙って、片付けを手伝い始めたんだ。名前を聞いても、『近所の者です』としか言わない。」

綾乃さんが俺を見た。俺は目のやり場に困って、お茶を飲んだ。「2度目はね、それから10年も経った頃さ。私は宿をなくした後、弁当屋の住み込みやらなんやらで食いつないでてね。年も年だし、もう店なんて一生持てないと諦めてた。そしたら、ある日、この人がひょっこり訪ねてきたんだよ。大人になってたけど、すぐ分かったよ。名乗る代わりに、袖をまくって、右手の跡を見せてくれたからね。この人、なんて言ったと思う?『あの晩、あなたが叫んでくれたおかげで、俺はあの子を助けられた。あなたは命の恩人の恩人です』って。それでね、この店を持たせてくれたんだ。開店の金を、全部黙って。」

「え?」綾乃さんが目を見開いた。「開店のお金を、全部、篠田さんが?」ニートに、店を一軒持たせる金があるはずがない。綾乃さんの頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えるようだった。はるさんは俺の事情を知らないから、不思議そうにしている。「はるさん、その話は、また今度な。」「なんだい、照れちゃって。」綾乃さんはそれ以上は聞かなかった。だが、帰り道、川沿いを歩きながら、ぽつりと言った。「篠田さんって、不思議な人。ニートなのに、時々、ニートじゃない顔をする。」「どんな顔ですか、それは。」「うーん。大勢の人の暮らしを背負っている人の顔。」どきりとした。「冗談です。でもね、私、思うんです。あなたが本当は何者でも、私の気持ちは変わらない。だって、私、あなたの中身の方を先に好きになっちゃったから。15年前にね。」彼女は夕日に目を細めて笑った。その横顔に、俺はまた参ってしまった。

トヨさんの家にも、2人で行った。仏壇のばあちゃんの写真に、綾乃さんは長い間手を合わせてくれた。トヨさんは俺たちに茶を出しながら、しみじみと言った。「不思議な話やなあ。うちはただ、冴子さんに頼まれて、気心の知れた子を引き合わせただけや。あんたが綾乃さんの探しとった恩人やなんて、これっぽっちも知らんかったなあ。公平。これはもう、キヨちゃんの引き合わせやで。」トヨさんは仏壇の写真を見上げた。「キヨちゃんはなあ、死ぬ前の年やったか、うちに来たことがあるんや。『公平の手はあったかい。あの手を1人で終わらせるのは、もったいないよ』って。『トヨちゃん、あの子に、いつか家族を持たせてやってな』って。うちは、その約束を15年もかけて果たしたんやな。」

綾乃さんが、俺の右手をそっと両手で包んだ。「本当に、あったかい。」ばあちゃん。あんたの言った通りの人が、見つかったよ。俺は仏壇の写真に、心の中で報告した。写真のばあちゃんは、いつもの困ったような笑顔のままだった。

冴子さんとも、1度だけ2人で話す機会があった。木崎家に呼ばれた日、綾乃さんが席を外した時だ。冴子さんは俺に深々と頭を下げてから、静かに話し始めた。「あの夜のことを、私の口からもお話しさせてください。」冴子さんの声は細かった。「あの頃の私は、夜のお弁当工場で働いていました。娘を宿に残して。12歳の子を、夜1人にしてたんです。火事の知らせを聞いて駆けつけた時には、水荘は火の海でした。私、その場に崩れ落ちました。ああ、私は、貧乏で娘を殺したんだって。」彼女は膝の上で手を硬く握っていた。「その時です。人だかりの向こうに、娘が見えたんです。煤だらけの若い男の方の腕の中で、泣いていました。生きて、泣いていたんです。あなたの右の腕がひどく焼けているのも、見えました。それなのに、人をかき分けてたどり着いた時には、あなたはもういらっしゃらなかった。」

冴子さんは目元を抑えた。「あれから15年、主人と2人、ずっと言い続けてきました。恩人に会えたら、まずお礼を。それから、償いを。娘があなたを探し続けるのを、私たちは1度も止めませんでした。あの子の探求は、あなたに恩を返すための探求だったんですよ。」「償いなんて。俺は、勝手に飛び込んだだけです。どうか、そんな風に思わないでください。」「綾乃の言った通りね。」冴子さんは涙を拭いて笑った。「篠田さん。あの子ね、火事の後、変わったんです。人の痛みが分かる子になりました。学校で1人ぼっちの子がいると、放っておけない子に。でもね、木崎の暮らしに戻って、いつの間にか、少しずつあの頃の目を忘れていって。私、心配だったんです。あの見合いの日、あなたにひどい口を聞いた娘を見て、ああ、やっぱりって。でも、あなたに会って、あの子は戻ってきました。12歳の、あの優しい目に。あなたは、娘の命だけじゃなく、心まで、2度も助けてくださったんですね。」

返す言葉が見つからなかった。俺はただ頭を下げた。この人たちの想いの重さに、そうするしかなかった。

こうして、俺の周りはゆっくりと温かいもので満ちていった。だからこそだ。運命という奴は、人が一番大事なものを抱えた時を狙って、牙を向く。

11月の半ば、その電話は鳴った。夜の11時過ぎだった。画面には、綾乃さんの名前。出ると、彼女の声は震えていた。「篠田さん。ごめんなさい。こんな時間に。お父さんの会社が、大変なことになってるんです。」

翌日の昼、俺は綾乃さんと喫茶店で会った。一晩で、彼女はやつれていた。目の下に隈ができて、コーヒーには口もつけなかった。綾乃さんが話してくれた事情は、こうだった。

一端は、坂田建設だ。県内最大手の建設会社で、木崎ホームズとは長年の付き合いだった。資材の共同仕入れと、「青花台」という大型分譲プロジェクトの共同事業。木崎ホームズの屋台骨は、この2本で支えられていた。その坂田建設が、突然、提携の打ち切りを通告してきたのだ。資材の供給は来月で停止、青花台からは撤退し、共同事業の契約に基づく違約金を請求する、という内容だった。

「理由は、はっきりしてます。私が、坂田さんとの縁談を正式にお断りしたから。縁談を断ったから、取引ごと切る。向こうの御曹司の坂田颯斗さんという方は、昔からそういう人なんです。プライドの塊で。『社長に恥をかかされた』って、周りに言い回ってるんです。それで、先方の会社が態度を硬化させて。それだけじゃない。」彼女は唇を噛んだ。「おかしいんです。坂田さんの動きが、うちの内情を知りすぎてる。どの現場の資材がいつ切れるか、どの支払いがいつ来るか。全部分かってるみたいに、一番痛いところばかりついてくる。それに、銀行まで。銀行は、うちのメインバンクです。青花台の追加融資の話が進んでたはずなんです。それが、急に白紙になりました。誰かが、悪い噂を流してるとしか思えない。『木崎は危ない』って。」

「資材が止まれば、建てかけの家が完成しない。完成しなければ、引き渡しの入金がない。入金がなければ、月末の支払いが焦げる。融資が止まれば、それを埋める手がない。住宅会社の資金繰りは、ドミノ倒しだ。1つ倒れれば、全部倒れる。経理の子が、こっそり教えてくれました。このままだと、年を越せないかもしれないって。お父さん、ここ数日、家に帰ってきません。会社に泊まり込んでます。お母さんは何も言わないけど、夜中に台所で1人で座り込んでて。」彼女の手が、テーブルの上で震えていた。「怖いんです、私。あの頃と同じ匂いがする。12歳の時と同じ。電話が鳴るたびに、お父さんの顔色が変わって。家の中が、しんとして。ある日、突然、全部なくなるの。家も、学校も、友達も。また、あれが来るかと思ったら、怖くて、怖くて。」

「綾乃さん。社員のみんなには、家族があるんです。300人の。私、営業だから、知ってるんです。去年、子供が生まれた人が何人いるか。家を建てたばかりの人が、何人いるか。どうしよう。どうしたらいいの?」

俺はテーブル越しに、彼女の手を取った。氷みたいに冷たかった。あの夜の電柱の下で震えていた、あの小さな手と同じだった。「大丈夫。怖かったな。でも、もう1人じゃない。」綾乃さんが、はっと顔を上げた。あの夜と同じ言葉。今度は、意識して言った。12歳の彼女を支えた言葉が、27歳の彼女にも届くように。彼女の目から、涙がこぼれた。「ずるい。その言葉、ずるいです。」「綾乃さん。1つだけ、約束してください。何があっても、1人で抱え込まないこと。大丈夫。悪いようにはならない。俺がさせない。」「ニートさんが、どうやって…」涙のまま、彼女は少し笑った。冗談にして、自分を保とうとしたんだろう。俺は笑わなかった。「そのことなんですが、近いうちに、ちゃんと話します。俺の話を。だから、今日はこれだけ覚えて帰ってください。あなたの後ろには、もう俺がいる。12歳のあの夜とは、違う。」綾乃さんは俺の顔をじっと見て、頷いた。

彼女と別れたその足で、俺は決めていた。迷いは消えていた。あれほどこねくり回した理屈が、彼女の震える手1つで、綺麗に吹き飛んでいた。鎧いだの、意地だの、どうでもいい。好きな人の家族が、潰されようとしている。あの冬の夜、俺に生きる意味をくれた女の子が、また同じ地獄に落とされようとしている。今の俺には、それを止める力がある。なら、使う。全部使う。それだけの話だった。

夜、サトルのマンションに押しかけた。ドアを開けたサトルに、俺は言った。「サトル。鎧い、着るわ。」サトルは一瞬、呆然として、それからにやりと笑った。「よし、来た。上がれ。飯、まだだろう。」

サトルの部屋のテーブルに、俺たちは資料を広げた。ここで改めて話しておこう。俺が15年かけて気づいてきたものの話だ。

株式会社日向創建。通称「日向創建」。ビルの清掃と設備管理の会社だ。社員412人。県内の重立ったオフィスビルと商業施設の管理を受注している。社長はサトル。日向防災設備。古い建物の電気配線の点検と防災改修の専門。社員187人。俺が27の時、独力で作った会社だ。水荘の火事の原因が古い配線の老朽化だったと知ってから、俺はこの分野に金と人を注ぎ込んできた。今では県内市町の設備点検を任される。この分野では県内1の会社になった。日向住宅サービス。リフォームと資材調達の会社。社員324人。工務店への資材供給網を持っている。グループ3社、社員923人、年商180億。無借金経営。それが、ニートの篠田公平の、もう1つの顔だ。

「で、どう動く?」「3つだ。まず資材。木崎ホームズが坂田から止められる資材を、うちの調達網で全部埋める。数量と納期を洗ってくれ。次に金。うちから木崎ホームズに出資する。第三者割当増資の引き受け。青花台を完成させるまでの運転資金も含めて、必要な額を全部。」「全部って、お前?まあいい。うちの財務なら、屁でもねえな。3つ目は?」「同島だ。」俺は、見合いの日からずっと引っかかっていたことを話した。「坂田建設の攻め方は、内情を知る者の攻め方だ。資材の切れ目、支払いの日付、銀行の融資判断。外からは見えない急所を、正確についてくる。内者がいる。そして、綾乃さんの縁談を強引に進め、破談の責任を彼女に着せ、危機を煽って、坂田の資本受け入れに誘導しようとしている男。どう考えても、答えは1つしかなかった。」「同島、銀行出身だったな。調べさせよう。うちの顧問に、元捜査畑のプロがいる。」

サトルは電話を2本かけて、それから俺に向き直った。「なあ、公平。1つ聞いていいか?その令嬢さんには、もう話したのか、お前のこと?」「いや、まだだ。」「おいおい。」「順番を決めてるんだ。まず、木崎の社長に話す。会社を助けるってのは、綺麗事じゃない。金と経営の話だ。それを娘への気持ちと混ぜたら、社長に断る自由がなくなる。筋だけは通したい。」サトルはため息をついて、それから笑った。「不器用な男だよ、お前は。出会った頃から、何も変わってねえ。」

3日後、調査の中間報告が届いた。予想は、最悪の形で当たっていた。同島は半年前から、坂田建設の専務と料亭で繰り返し会っていた。木崎ホームズの内部資料、資金繰り表、台帳の減価資料、顧客名簿までが、坂田側に渡った形跡があった。見返りを伺わせる金の流れの痕跡も、3度分。そして、決定的なのは、同島が役員会に諮る準備を進めている「再建案」だった。坂田建設による資本参加。実質は乗っ取りだ。木崎ホームズは坂田の子会社になり、道夫さんは会長職に祭り上げられて退任。数年で吸収されて、会社の名前ごと消える筋書きだった。その見返りに、同島は新会社の社長の椅子を約束されているらしい。自分で会社を火事にして、火事場泥棒をやる気なのだ。

俺は資料を閉じて、深く息を吐いた。「胸くそ悪い話だ。」「で、いつ?」「役員会が、来週の月曜にある。同島はそこで再建案を通す気だ。」「その席に、乗り込む。」

土曜の夜、俺は木崎家を訪ねた。道夫さんはげっそりと痩せていた。それでも、俺の前では背筋を伸ばして、笑顔まで作ってみせた。「篠田君か。すまんな。バタバタしていて。綾乃から聞いとるかもしれんが、まあ、大人の世界には色々あってな。心配せんでいい。心配せんでいい。」この期に及んで、この人はニートの俺に恥をかかせまいとしているのだ。俺は座布団を外して、頭を下げた。「社長。今夜は、お願いがあってきました。月曜の役員会に、私を同席させてください。」「役員会に?なんでまた。」「その席で、お話ししたいことがあります。木崎ホームズを助ける手立ての話です。それと、もう1つ。私が綾乃さんとご家族に、つき続けていた嘘の話です。」

道夫さんの目が鋭くなった。経営者の目だった。彼はしばらく黙って俺を見据えて、それから静かに言った。「嘘と言ったな。それは、聞き捨てならん。」「はい。」「君は、うちの娘を騙しとったのか?」「騙してました。名乗るべきものを、名乗らずにいました。ですが、誓って言います。綾乃さんへの気持ちに、嘘は1つもありません。全部お話しします。その上で、殴るなり、出入り禁止にするなり、好きにしてください。ただ、会社を助ける話だけは、それとは別に聞いてください。300人の社員さんに、罪はありませんから。」

長い、長い沈黙だった。やがて、道夫さんは腕組みを解いた。「わかった。月曜、9時だ。来なさい。」そして、ふっと口元を緩めた。「綾乃がね、わしは君がどこの誰でも、もう驚かんぞ。娘の命の恩人が、15年後に見合いの席に座っとった時点で、わしの人生の驚きは使い果たしとる。」この人には、敵わない。俺はもう一度、深く頭を下げた。

月曜の朝。木崎ホームズ本社。3階の会議室には、重い空気が満ちていた。長机に役員が8人。道夫さんは議長席に。そして、この日はオブザーバーとして、異例の顔ぶれが並んでいた。坂田建設の坂田合造社長と、息子の専務。それに、共和銀行の小柳支店長だ。同島が再建案の関係者として呼んだのだという。外堀を埋めて、その場で決めさせる腹だ。

俺は約束通り9時前に受付に着いた。だが、会議室に案内される前に、廊下で同島に捕まった。「あなた。どの面下げてきたんです?ここは、会社の正式な会議の場だ。」「不審者は、わしが呼んだ。」背後から、道夫さんの声がした。「篠田君は、わしの招きで同席してもらう。文句があるか、同島。」同島はメガネの奥の目を細めたが、社長にそう言われては引き下がるしかない。俺は会議室の真ん中にパイプ椅子を置いて、座った。

綾乃さんも、後方の担当として壁際の席にいた。俺を見て、目を丸くしていた。彼女には、この日のことを何も話していなかった。驚かせることになるのは分かっていたが、こればかりは段取りを踏むわけにいかなかった。

会議が始まった。口を切ったのは、同島だった。彼は立ち上がり、手元の資料を配りながら、流暢に語った。「ご存知の通り、当社の資金繰りは危機的状況にあります。坂田建設さんとの取引停止、青花台の停滞、融資の白紙化。このままでは、年内に手形の決済が不能になります。そこで、本日は唯一の再建案を御提案したい。坂田建設さんによる資本参加です。」スクリーンに、例の筋書きが映し出された。坂田建設が株式の過半数を取得。経営体制の刷新。道夫さんは代表権のない会長へ。役員たちが俯いた。誰の目にも、それが乗っ取りだと分かっていた。分かっていて、誰も声を上げられない。金の流れを絶たれた会社とは、そういうものだ。「なお、坂田さんサイドのご意向としては、両家の信頼関係の再構築、すなわち、お嬢様と颯斗様のご縁談の再開も、条件の1つと伺っております。」

綾乃さんが立ち上がった。「専務。それは、経営の議題ではありません。私は何度も申し上げます。あの縁談は、お受けしません。」颯斗が鼻で笑った。若くして専務の椅子に座る男は、椅子の背にもたれたまま、綾乃さんを眺め回した。「強気だね、綾乃さん。でもさ、その意地っ張りのせいで、会社がこうなってるって、自覚ある?300人の社員より、あの噂のヒモ男が大事なんだ。」会議室がざわついた。「知ってます?皆さん。お嬢さんの新しいお相手、無職なんですよ。無職。風呂なしアパート住まいの、裸電球のニート。木崎ホームズのお嬢様がですよ。笑っちゃうでしょう。」

「あなたに、あの人の何が分かるの?」「分かるよ。金目当てだろ、どうせ。」そこではたと、颯斗は最前列の俺に気づいた。「あれ?誰かと思えば、ご本人じゃないですか。へえ、来てたんだ。ちょうどいいや。皆さんに紹介しますよ。こちら、噂のニートさんです。」嘲笑が会議室に薄く広がった。同島も口元で笑っていた。道夫さんが机を叩こうとしたのを、俺は目で制した。そして、立ち上がった。「ご紹介に預かりました、篠田公平です。ご指摘の通り、風呂なしアパートに住んでおります。」「開き直りかよ。」「本日は、木崎ホームズさんの再建について、同島専務の案とは別の選択肢を、皆さんにお諮りしたく参りました。」

「篠田さん、ここはどこだと思って…」その時だった。ガタリと椅子の鳴る音がした。共和銀行の小柳支店長が、立ち上がっていた。真っ青な顔で、俺を凝視していた。「し、篠田…代表?」会議室の空気が変わった。「日向グループの、篠田公平代表でいらっしゃいますよね。私、共和銀行の小柳です。本店の法人部に勤めておりました頃、御社の担当をさせていただいて。ええ、1度だけ、ご挨拶だけ…」

場の全員が固まった。颯斗の笑いが、顔に張り付いたまま凍った。同島のメガネが、ずり落ちかけた。坂田合造社長が、ゆっくりと身を乗り出した。「日向?日向と言うと、あの日向か?ビルメンテナンスと防災設備の。うちが防災部門の代理店契約を頼んで、5年も断られ続けとる、あの日向グループの?」「作用です。坂田社長。日向グループは、3社、社員900名超。年商は180億を超えます。県内、無借金経営では、間違いなく筆頭の企業グループです。ただ、代表の篠田さんは、一切表に出られない方で。私も、お顔を存じ上げている数少ない人間でして。」ざわめきが、波のように広がった。

俺は、綾乃さんを見た。彼女は壁際の席で、両手で口を覆っていた。大きく見開かれた目が、俺を見ていた。驚きと混乱と。それから、ゆっくりと、何かに気づいていく目だった。ごめん、と俺は心の中で言った。この場で明かすことを、許してほしい。「小柳支店長、お久しぶりです。皆さん、改めまして。日向グループ代表の篠田公平と申します。職業を偽っていたことを、まずこの場をお借りして、お詫びします。」俺は頭を下げた。それから、サトルが徹夜でまとめてくれた資料を、役員たちに配った。「お手元の資料が、当グループからのご提案です。第1に、坂田建設さんの撤退で停止する資材の全量を、日向住宅サービスの調達網から供給します。価格は現行契約と同条件。納期は、来月の頭から間に合わせます。」資料をめくる音が、次々になった。「第2に、当社は木崎ホームズさんの第三者割当増資を引き受けます。青花台の完成と、完工後の運転資金に必要な額を、全額。ただし、株式の取得は3割まで。経営権は譲りません。木崎ホームズは、木崎の看板のまま残っていただく。それが、条件です。」

役員の1人が、かれた声をあげた。「そんな…条件があるわけが…御社に、何の得があるんですか?」「得なら、あります。」俺は言った。「青花台を、日向防災設備との共同で、県内初の防災住宅の町にしたい。古い配線で火事を出さない家。逃げ遅れを出さない町。うちはこの6年、その技術に金も人も注いできましたが、住宅そのものを建てる腕がない。木崎ホームズさんの腕と、うちの技術。これは慈善事業じゃありません。事業提案です。」

「ま、待て、待ってください。」同島が声を裏返らせた。「社長、騙されてはいけません。どこの馬の骨とも知れん男の、口約束ですぞ。坂田さんとの案は、すでに詰まった話で…」「詰まった話ですか?」俺はもう一部の資料を、道夫さんの前に置いた。「では、こちらも詰まった話をしましょう。同島。あなたが半年間、坂田建設の専務と重ねてきた会合の記録です。当社の顧問弁護士と調査会社がまとめました。木崎ホームズの資金繰り表、台帳の減価資料、顧客名簿。社外秘の資料が坂田側に渡った経路と、あなたの親族名義の口座に振り込まれた、3度の金の記録も、添えてあります。」

会議室が凍りついた。同島の顔から、表情が抜け落ちた。「な、なんだそれは。言いがかりだ。捏造だ。」「捏造かどうかは、そこにおられる坂田社長が、一番よくご存知のはずです。」全員の視線が、坂田合造に集まった。合造は資料を手に取り、老眼鏡をかけて、しばらく黙読していた。やがて、深い、深いため息をついた。「うちの専務が、独断でやったことだとは言わん。わしの監督不届きだ。」「社長!」「同島さん。あんたが持ち込んだ話に、わしは乗った。木崎さんの娘の縁談話も、資本参加の筋書きも、全部あんたの絵だ。わしも、焼きが回った。恥を知るべきは、こっちだった。」

合造社長は立ち上がり、道夫さんに向かって頭を下げた。「木崎さん。この度のことは、全面的に詫びる。提携打ち切りは撤回する。違約金の請求も取り下げる。その上で、わしはこの場を去るのが筋やろう。颯斗。」「お、親父。俺まで…」「『盾』と言うとるのが、わからんか。」合造は息子の襟首を掴むようにして、立たせた。そして、颯斗は俺の前で足を止めた。「篠田さん、ゆうたか。あんた、ようできた芝居やったな。無職のふりして、人の心の中を見とったんか。」「芝居のつもりは、ありませんでした。ただ、肩書きを外した俺を見てくれる人に、会いたかっただけです。」「耳が痛いわ。肩書きで人を測っとったんは、うちの息子と、わしの方やった。」

親子が出ていき、同島が力なく崩れ落ち、会議室は嵐の後のようになった。道夫さんが、静かに宣言した。「同島専務の件は、監査と顧問弁護士を交えて、改めて諮る。篠田さんのご提案は、わしは受けたいと思う。異議のあるものは?」誰も手をあげなかった。役員たちの顔に、血の気が戻っていた。年を越せる。社員を守れる。その安堵が、部屋中に広がっていた。道夫さんは深く息をついた。それから、俺を見て、皆の前で深々と頭を下げた。「篠田さん。会社を、社員を救っていただいた。それに、皆も聞いてくれ。実はこの人はな、15年前の火事から、わしの娘の命を救ってくれた恩人でもあるんだ。名乗りもせず、礼も受け取らず、15年も黙っとった。娘を助けてくださった方に、わしはようやく人前で礼が言えた。ありがとうございました。」役員たちがどよめいた。俺は慌てて礼を返した。「頭をあげてください、社長。礼を言われるほどのことは、していません。」壁際で、綾乃さんが泣き笑いの顔になった。「ほら、また言った。」会議室に、柔らかい笑いが広がった。

だが、俺の話はまだ終わっていなかった。一番大事な話が、残っていた。「最後に、1つだけ。仕事の話ではないことを、この場で言わせてください。本当は2人きりの時に言うべきことですが、俺はこの部屋で『嘘つきのニート』として紹介されました。だから、訂正もこの部屋でさせてください。」俺は綾乃さんの方を向いた。「俺の会社の名前は、『日向』と言います。綾乃さん。あなたは、この名前の由来を知らない。誰も知りません。これだけは、誰にも話さずに来たからです。」綾乃さんが、瞬きを止めた。「15年前のあの夜。火の中から連れ出した女の子を、俺は電柱の下に下ろしました。その子は、救急車に乗せられる時、もがきながら、俺に言ったんです。」喉の奥が熱くなった。それでも、言った。「『お兄ちゃんの手、あったかい。お日様みたいだね』って。」

綾乃さんの目から、涙が一筋こぼれた。「あの頃の俺は、天涯孤独のどん底で、自分が生きてる意味なんか、1つも見つけられずにいました。その俺に、あの一言が、生きる理由をくれたんです。この手は、人のために使える。そう思えたから、俺は今日まで働いてこられた。会社を作る時、名前は迷いませんでした。日向。あなたがくれた言葉です。」綾乃さんは両手で顔を覆った。指の隙間から、嗚咽が漏れた。「綾乃さん。あなたは、ずっと『命を助けられたお礼を言いたかった』と言ってくれました。でも、それは逆なんです。助けられたのは、俺の方だった。あなたの一言が、俺の15年を作ってくれた。俺の会社も、923人の社員の暮らしも、元をたどれば、全部、12歳のあなたの一言から始まってるんです。」

会議室は静まり返っていた。泣いていたのは、綾乃さんだけじゃなかった。年配の役員がメガネを外して、目頭を抑えていた。小柳支店長は、天井を仰いでいた。「あの見合いの日、あなたは言ってくれました。『私が一番苦しかった時、何も聞かないで命を守ってくれた人だから、隣に立ちたい』と。今度は、俺の番です。」俺はまっすぐ彼女を見た。「木崎綾乃さん。あなたが一番苦しかった時も、これから先のどんな時も、この手はあなたのために使うと約束します。俺と、結婚してください。」

綾乃さんは顔を上げた。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、それでもまっすぐ俺を見て、彼女はあの日と同じ言葉を言った。「はい。今すぐ。」会議室が、拍手に包まれた。誰が始めたのかわからない。気がつけば、役員も、小柳支店長も、廊下から覗いていた社員たちまで、みんな立ち上がって手を叩いていた。道夫さんは、握った拳を目に押し当てていた。案と一緒に娘の結婚まで満場一致で可決された役員会など、後にも先にも、あの日だけだと思う。

役員会の後、俺と綾乃さんは会社の屋上に逃げ出した。11月の風は冷たかったが、空は抜けるように晴れていた。眼下に、俺たちの町が広がっていた。綾乃さんはフェンスに寄りかかって、まだ目を赤くしていた。「日向グループ代表。」「はい。」「社員923人。」「はい。」「年商180億。」「はい。」「風呂なしアパート在住。」「それは、その…家賃がもったいなくて。」綾乃さんはプッと吹き出した。それから、笑いながら怒った。「もう、ずるい。ずるいですよ。あなた、どこまでずるいの?ニートだって嘘ついて、私に散々ひどいこと言わせて。あんな、あんな席で、社名の由来なんて聞かされたら、私も…」「すみません。騙すつもりじゃ…あ、いや、騙してました。すみません。」「怒ってるんじゃないんです。」彼女は首を横に振った。「嬉しかったんです。私の言葉が、あなたのどこかに残ってたなんて。私、あの夜のこと、助けられたことしか覚えてなくて。自分が何を言ったかなんて、全然覚えてないの。私みたいな子供の一言が、誰かの15年を支えてたなんて。そんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか。」

夕方の風が、彼女の髪を揺らした。「ねえ、篠田さん。1つだけ、確認させてください。あなたが日向の代表だって知らないまま、私に結婚してって言いました。あれ、取り消しませんから。私が好きになったのは、コロッケを半分こしてくれる、あなたです。会社は、おまけ。」「923人が、おまけですか?」「おまけです。断然、おまけ。」彼女はきっぱり言い切って、それから、俺の右手を取った。手首の跡の上に、そっと自分の手のひらを重ねた。「この跡ごと、あなたの15年ごと、全部もらいます。私にください。」「はい。もらってください。」

それが、俺たちの婚約だった。指輪もなければ、夜景のレストランもない。会社の屋上で、ビル風に吹かれながらの婚約だった。だが、俺は世界中のどんな婚約より、上等だったと思っている。

結婚式は、翌年の4月に決まった。それまでの日々は、目まぐるしく過ぎた。木崎ホームズと日向グループの提携は、正式に契約が結ばれた。資材は予定通り供給が始まり、止まりかけていた青花台の現場に、職人たちの音が戻った。同島は臨時株主総会で解任され、背任と横領について、しかるべき手続きが進められた。会社を売った男の末路について、これ以上話すことはない。

坂田建設からは、後日、正式な詫び状が届いた。合造社長は約束通り違約金の請求を取り下げ、それどころか、青花台の防災住宅の話を聞きつけて、「うちも1枚噛ませてくれませんか」と頭を下げてきた。道夫さんは苦笑いしながら、握手に応じた。憎み合って得るものは、この業界には1つもない。それが、2人の経営者の結論だった。颯斗は、父親の命令で現場の見習いからやり直しているらしい。ヘルメット姿で生コンを運ぶ御曹司の写真が、業界の語り草になったと聞いた。

俺はといえば、人生で初めて、少しだけ表に出た。提携の記者会見で、壇上に座ったのだ。これまで一切顔を出さなかった日向の代表が現れたというので、地方紙の経済面が騒がしくなった。会見で、記者に聞かれた。「社名の『日向』の由来を、教えてください。」俺は少し考えて、答えた。「秘密です。ただ、由来をくれた人と、春に結婚します。」会場がドッと湧いた。翌日の新聞の見出しは、経済面らしからぬ、温かいものになっていた。

そして、4月。桜の散り際の日曜日に、俺たちは式を挙げた。場所は、町の小さな式場だ。派手なことは、2人ともやめようと決めていた。呼んだのは、本当に世話になった人たちだけ。木崎の親族と会社の人たち。うちの会社の古株たち。商店街の顔馴染み。トヨさんは朝から着物で来て、ずっと泣いていた。胸には、ばあちゃんの写真を抱いていた。「キヨちゃん、見とるか?あんたの公平が、今日、家族を持つんやで。あんたとの約束、うちはちゃんと果たしたで。」はるさんは「はるや」を1日休んで来てくれた。はるさんの姿を見つけた綾乃さんが駆け寄って、2人でまた泣いていた。式の間中、はるさんは前掛けじゃなく、ハンカチを握りしめていた。

式の前の控室で、俺は冴子さんに呼ばれた。冴子さんは小さな包みを差し出した。開けると、白いポケットチーフだった。隅に、小さな刺繍がある。太陽の刺繍だった。「綾乃とね、2人で選んだんです。お日様の模様。あの子ったら、刺繍だけは私にやらせるんですよ。自分は不器用だからって。」「一生、大事にします。」「綾乃を、よろしくお願いしますね。お兄ちゃん。」最後の一言は、いたずらっぽい小声だった。俺は胸のポケットに、そのチーフを挿した。

チャペルの扉が開いて、道夫さんに手を引かれた綾乃さんが入ってきた時のことを、俺は一生忘れない。白いドレスの彼女は、眩しくて直視できないくらいだった。道夫さんは俺の前で足を止めて、娘の手を俺の手に渡した。何か言おうとして、言葉にならず、ただ深く頷いた。俺も頷き返した。男同士、それで全部通じた。

誓いの場面で、綾乃さんは用意された言葉の後に、小さな声で付け足した。「15年前から、あなたのことが好きでした。世界で一番遅い初恋です。一瞬かけて、追いつきます。」指輪の交換の時、彼女は俺の左手に指輪をはめた後、右の手首の跡に、そっと唇を寄せた。3列目から、すすり泣きが聞こえた。

その後の披露宴で、サトルはスピーチに立った。俺の下積み時代の失敗談を暴露して会場を沸かせた後、最後だけ真顔になっていった。「公平。バケツとモップから始めて、お前はよくここまで来た。でもな、お前の一番の出世は、会社じゃねえ。今日、隣にいる人だ。幸せになれよ、相棒。」

俺は、天井の向こうのばあちゃんに、心の中で報告した。ばあちゃん。あんたの言った通りだったよ。この手は、人のために使ってきた。そうしたら、いつの間にか、この手を握ってくれる人ができたよ。

あれから2年が経った。青花台の町は、去年の秋に完成した。木崎ホームズと日向の合弁ブランド。その名も「日向の家」。古い配線も、剥き出しのストーブもない。火事に強い家が112戸。中央の公園には、日時計を模した小さな時計台が立っている。分譲は抽選になるほどの人気だった。入居した家族から届いた年賀状が、木崎ホームズの広報室の壁に、今も貼ってある。

町開きの日、俺と綾乃は、出来上がったばかりの町を2人で歩いた。新しい家の間を、引っ越してきたばかりの子供たちが駆け回っていた。どの家の軒下にも、消火器と避難はしごの収納が、さりげなく添えつけてある。設計会議で、俺が一番こだわった部分だ。時計台の前で、綾乃が足を止めた。「公平さん。この町ね、消防署の人に言われたんですって。『ここまでやってる分譲地は、県内で初めてです』って。」「やりすぎだって、設計士には怒られたけどな。」「やりすぎで、いいんです。」彼女は時計台を見上げた。「この町では、きっと、12歳の女の子が煙の中で震えなくて済む。それって、あの夜のあなたが、ここまで届いたってことでしょう。やりすぎなもんですか?」

夕方のチャイムが鳴って、子供たちが家へと散っていった。どの窓にも、明かりが灯り始めた。綾乃は、その明かりをいつまでも眺めていた。

道夫さんは相変わらず現場に出ては、若い大工に混じってカンナをかけている。月に1度、俺と将棋を指すのが習慣になった。俺が勝つと機嫌が悪くなるので、勝率は5分に調整している。義理の息子というのも、なかなか気を使う職業だ。冴子さんとトヨさんは、すっかり茶飲み友達になって、しょっちゅう2人ではるやに現れる。はるさんの店は、うちの社員の間で「本社より大事な拠点」と呼ばれていて、昼時はいつも満員だ。サトルは去年、日向グループの副代表になった。相変わらず口は悪いが、うちの披露宴の後に、柄にもなく涙ぐんでいたことを、俺は一生ネタにからかうつもりでいる。

俺と綾乃は、あの風呂なしアパートを引き払って、下町の小さな一軒家に住んでいる。綾乃は木崎ホームズの営業を続けながら、防災住宅の勉強を始めた。夕飯の席で、避難経路の話や避難訓練の話を、目を輝かせてする。社長令嬢の面影は、もうどこにもない。コロッケを半分こしたあの日のままの人が、毎晩、隣で笑っている。

今年の春には、2人でばあちゃんの墓参りに行った。綾乃は墓石の前にしゃがんで、長い間手を合わせていた。何を話してるんだと聞いたら、彼女は笑って教えてくれなかった。帰り道になって、ようやく白状した。「お礼を言ってたの。『あなたの手を、あったかく育ててくれて、ありがとうございます』って。それから、報告。『おばあちゃんの口癖、今はうちの口癖です』って。」うちの家の間に、そんなことになったのか。だが、悪い気はしなかった。ばあちゃんも、きっと墓の下で、困ったように笑っているだろう。

ある夜のことだ。縁側で2人で月を見ていた。綾乃がふと、俺の右手を取った。手首の跡を、指先でなぞる。もう何百回も、そうしてきたように。「ねえ、公平さん。今でも時々、考えるんです。もし、あの夜、あなたが通りかからなかったら。もし、あなたが火の中に入るのをためらってたら。この跡、痛かったよね。15年もずっと隠して。私のせいで。」「綾乃。」俺は彼女の手を握り返した。「前にも言ったけど、もう1度だけ言っとく。俺は、君を助けたことを、1度も後悔していない。この跡は、俺の人生で一番上等な勲章だ。これがあったから、君は俺を見つけてくれたんだしな。」

綾乃は月を見上げて、少し黙っていた。それから、俺の肩に頭を預けて言った。「私はね、あなたに出会えた人生で、良かった。それだけで、十分だった。」夜風が、庭の若い桜の木を揺らした。式の記念に植えた木だ。花が咲くのは、まだ先になる。綾乃は俺の手を、自分のお腹にそっと導いた。「ねえ。来年の春には、この家、もう1人増えるから。この子にも、教えてあげてね。お父さんの手が、どうしてこんなにあったかいのか。」

俺は言葉に詰まって、ただ頷いた。ばあちゃんの声が、耳の奥で蘇った。「公平の手は、あったかいね。この手は、人のために使うんだよ。」ばあちゃん。この手の使い道が、また増えるよ。今度は、守る番だ。この人と、この子と、この手の届く限りの人たちを。「お日様みたいだ」と言ってくれた、あの言葉に、恥じないように。月が、静かに俺たちを照らしていた。それは、あの夜も空のどこかにあったはずの月だった。だが、今夜の月は、どこまでも優しかった。

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