夜勤明けの朝10時。鍵を回して玄関を開けると、そこに私のダンボールが3つ積まれていた。洋服、化粧品、本、通勤用の鞄、夜勤に持っていく水筒まで、全部押し込んであった。
「ここは母さんの家だ。嫌なら出てけ」
廊下の奥から義母が出てきて、笑いながら言った。「嫁に居場所なんてないわ」
夫の翔太は玄関を塞いだまま動かない。私が泣くか怒鳴るか謝るか、そのどれかだと決めてかかっている顔だった。
私はどれもしなかった。
「わかりました」
そう答えて、一番上の箱を抱えた。
「え、本当に出てくの?」
夫の声がうろたえる。出てけと言ったのはそちらだ。
門を出て坂を降りた。二人は夕方になれば私が戻ると思っている。その見込みがどこで外れたのか。これはその話だ。
私は渡さや。35歳。青葉中央病院の病棟で働く看護師だ。勤務は13年になる。二交代の夜勤が月に4回か5回あって、前の日の夕方に病院へ入り、翌朝の9時過ぎに申し送りを終えて出てくる。家までは自転車で15分。玄関を開けるのはいつも10時前後になる。
旧姓は原田だ。27歳で翔太と結婚して渡になった。結婚した年に母方の祖母が亡くなった。祖母は駅の南側で古いアパートを一棟持っていて、それが私に渡った。藤田という名前だけが立派な木造の建物だ。家賃は管理会社を通して月に32万入ってくる。現金もいくらか一緒に来たが、相続税と屋根の吹き替えで随分減った。
独身の頃から給料の半分は手をつけないことにしていた。夜勤の手当ては全部そこへ回した。使わなかったのではなく、使う先を決めていなかった。それだけのことだ。その積み立てを7年前に一度だけ大きく崩した。
7年前の4月、義父の構造が倒れた。夫の実家は坂の途中の古い一軒家だった。義父はそこで30年暮らしていた。建てた時の住宅ローンがまだ1150万円残っていて、二階の北側の部屋は雨漏りが始まっていた。そこへ入院と治療の費用が重なった。
義父は病室ではっきりと言った。「この家を維持するのはもう厳しい。売って二人でアパートに移る」
義父はそう決めていた。筋の通らないことを嫌う人だった。それを義母のたき子が泣いて止めた。「私は絶対にここを離れたくない」
その一言で話は止まった。売れば金は片付くが、義母は動かない。義父は黙って天井を見ていた。
「それなら私が買い取ります」
言ったのは私だった。自分でも後から何度か考えた。あの時黙っていれば、私の7年は丸ごと別のものになっていた。ただ、あの病室で泣いている人を放って帰れなかった。
翔太には決めてから話した。
「え、買うの?お前が?」
「うん。お父さんに話してある」
翔太はテレビの画面を見たままだった。「ふうん。まあいいんじゃない?」
それだけだった。3200万円の買い物について夫が言ったのはそれだけだ。反対もしなかったし、一緒に来るとも言わなかった。あの時の私は、任せてもらえたのだと思うことにした。
話はそこから早かった。不動産会社に間に入ってもらい、近くで売れた家の値段を並べて3200万円という価格を決めた。安くもなく高くもない。義父が身内だからと負けるなと言い、私は言われた通りにした。
頭金は1400万円。独身の頃から積み立てていた自分名義の口座から振り込んだ。足りない1800万円は住宅ローンを組んだ。25年で、引き落としは月に6万8000円。引き落としの口座も同じ、私の名義のものにした。だから翔太はその6万8000円がどこから出ているのかを7年間一度も見ていない。
契約の日には司法書士の立花裕子さんが立ち合った。義父母が売主で私が買主。土地も建物も所有権は私一人に移った。書類の名前の欄は全部渡さやになった。判を押し終えた後、義父が茶封筒を一つ私に差し出した。
「これはあんたが持っていなさい」
「何ですか?」
私が聞くと、義父は封筒を膝の上で押し出した。「困った時に開けなさい」
それだけだった。中身は2枚あって、1枚は3人で署名した覚え書きだった。もう1枚は封がしてあって、表に義父の字で「困った時に」とだけ書いてあった。私は覚え書きに目を通したと言っても、印刷された行を上からなぞっただけだ。一番下に義父の手書きで何かあったのは覚えているが、署名欄への書き添えだと思って字までは読まなかった。封のしてある方はそのままにした。困っていなかったからだ。
その春から私たちはその家に移った。義父の療養を支えるための4人暮らしが始まった。義父がいた2年半は静かだった。夜勤明けに帰ると、義父は縁側から声をかけてきた。「一晩中働いたんだろう。今日は何もしなくていい。寝なさい」
台所に立とうとすると、手で追い払うようにして寝室を指した。義母もその横で「そうね」と言っていた。言葉は義父の受け売りだったが、それでも刺さるものはなかった。
5年前の10月29日、義父がなくなった。享年64だった。葬儀の帰り道、義母は喪服のまま助手席で窓の外を見ていた。翔太が運転していた。私は後ろの席にいた。家に着いて私が茶を入れて出すと、義母は湯飲みを持ったまま言った。「これでこの家もやっと落ち着くわね」
落ち着くという言葉の意味がその時は分からなかった。分かったのは翌日だった。朝目が覚めて自分の部屋の襖を開けたら、机の上が片付いていた。読みかけの本も、充電していた携帯も、書きかけの手帳も紙袋にまとめて畳の隅に置かれている。
「ここ風通しが悪いのよ。しばらく私が使うから」
義母は箒を持ったままこちらを見もせずに言った。私は台所にいた翔太に言った。「私の部屋のものをお母さんが出したみたい」
翔太は牛乳を飲みながら答えた。「いいだろ、別に。名義がどうこう言うなよ。家族だろ」
名義がどうこう?私はその言い方をその後5年間、数えきれないほど聞くことになる。
その週の終わりに、冷蔵庫の脇に貼ってある勤務表を義母が指で弾いた。「これ夜の欄が4つもあるじゃないの」
「今月は夜勤が4回です」
義母は勤務表を剥がして張り直した。夜の欄の4つに赤い印がついていた。「夜遊びみたいな時間に働いて、昼間は寝てるんでしょう。世間ではそういうのをな、何て言うか知ってる?」
私は手術室から上がってきた患者さんの話をしようとしてやめた。義父がなくなって1週間だった。喪を務めたばかりの人とそこで言い合う気になれなかった。
翔太は寝っ転がったまま携帯を見ていた。「母さんに家事させるくらいなら、お前が帰ってからやればいいだろう」
帰ってからというのは、一晩中働いて帰ってからという意味だ。私は返事をせずに紙袋の中の手帳を取り出した。その日の勤務時間を書いて閉じた。記録癖は看護師の職業病のようなものだ。何時に何をしたか、誰が何と言ったか。記録は残しておくもので、覚えておくものではない。その手帳は鞄の内ポケットに入れたまま、どこへでも持って歩いた。
義父がなくなってからの半年で、家の中の物の位置がすっかり入れ替わった。最初は縁側だった。義父が座っていた座椅子がなくなり、代わりに義母の座布団と裁縫箱が置かれた。次に廊下の棚が空になり、義母の趣味の布地が積まれた。私と翔太が使っていた和室は、いつの間にか物置きと呼ばれるようになった。私のものはその度に紙袋にまとまった。
「捨ててないわよ。まとめてあるだけ」
義母はそう言った。まとめるという言葉をその頃から疑うようになった。半年で3回。私のものは場所を変えた。4年前の冬、4回目に紙袋を渡された時、私は職場のロッカーに大きめの手提げを一つ入れた。祖母の形見の指輪、祖母から引き継いだアパートの権利の書類、銀行の届出印、そして義父から預かった茶封筒。家に置いておけないものは家の外に置いた。それだけのことだった。
何をそこへ入れて、何を部屋に残したのか。私は後になってそれを思い出せずに困ることになる。
嫌がらせと呼ぶには、義母のやり方は静かだった。声を荒げるわけでもない。ただ私の生活が占める面積が月ごとに削られていった。夜勤明けの日が一番応えた。朝10時に帰ってシャワーを浴びて11時には布団に入る。次の夜勤に体を持たせるには、そこで4時間眠るしかない。その時間に義母は掃除機をかけた。
「昼間に掃除しないでいつするのよ」
襖の向こうで同じ場所を何度も往復する音がした。30分ほど続いて止まる。私が起きて廊下に出ると、掃除機は縁側の真ん中に置きっぱなしになっていた。「起きたならついでにかけといて」
そういう日が月に何度かあった。勤務表も見られていた。冷蔵庫の脇に貼ってあるから見えるのは当たり前だ。問題はそこから予定が組まれることだった。
「明後日の午後、水道屋さんが来るから」
「私、明けで寝てます」
義母は手帳も見ずに答えた。「起きてればいいでしょう。人が来るのに嫁が寝てる家なんて聞いたことないわ」
水道屋を呼んだのは義母だった。台所の蛇口の付け根から水がにじむようになっていた。修理の代金は私が払った。そこは私も分かっている。家の直す金を出すのは所有者の私で、それは当たり前のことだ。固定資産税も火災保険も屋根の点検も私の口座から出ている。固定資産税というのは家と土地の持ち主に毎年かかる税金のことだ。持ち主が私なのだから私に来る。恩に着せるつもりはない。
ただ、その水道屋が帰った後、隣の家の奥さんに義母が言っているのが聞こえた。「うちも古いからあちこち直してるのよ。お金がかかって仕方ないわ」
うち、と義母は言った。かかっている、とも言った。
向かいの藤井く子さんはこの町内に30年住んでいる。義母より一つ上で、義父とも古い付き合いだった。ある日、漬物を渡しに来た藤井さんが玄関先で言いかけて止めた。「さやさん、あなた、その…」
藤井さんは階段の角を指でなぞった。「いいえ、なんでもないの」
藤井さんは会釈をして帰って行った。何かを言おうとして飲み込んだ人の背中だった。
その頃、庭の隅のサザンカが枯れた。義父が鉢から地面に下ろして10年育てた木だった。葉が落ちているのに気づいて水をやろうとしたら、根元の土が掘り返されていた。
「邪魔だったのよ。物置の影になるでしょ」
義母は洗濯物を干しながら言った。
「あれ?お父さんが?」
「お父さんはもういないの?」
その言い方があまりに軽くて、私は物置を見上げたまま動けなかった。仏壇の水も、私が替えなければ濁ったままだった。花が枯れていても義母は気にしなかった。線香立ての灰は古いまま固まっていた。
翔太に話したことはある。何度かではなく、正確には7回。手帳に書いてあるから分かる。
「気にしすぎだって。お母さんがお父さんの気を抜いたの」
翔太は靴下を脱ぎながら鼻で笑った。「聞く耳持たないだろ。母さんも一人になって寂しいんだよ」
「ここ、私の家なんだけど」
翔太は携帯から目を上げて笑った。「またそれ?名義がどうこう言うなよ。家族なんだから誰の名前でも一緒だろ」
一緒ではない。一緒でないことは二人とも知っていた。知っていて軽く見ていた。それが分かっていたから、私はその度に口を閉じた。義父に頼まれたわけではない。ただあの病室で「私が買い取ります」と言ったのは私だ。言った人間が先に音を上げるわけにいかなかった。
3年前の正月にはこんなこともあった。義父の親戚が6人集まって縁側で酒を飲んでいた。私は台所で煮物を温め直していた。義母の声が襖越しに聞こえた。「うちの嫁はね、夜の仕事なの」
座がどっと笑った。義母は続けた。「看護師なんて病院にいるだけでしょう。座って見てるだけで手当てがつくんだから、いい商売よね」
私は鍋の火を止めた。その日の夜勤で受け持っていた患者さんは朝の4時に急変して、私は当直と一緒に走った。座って見ていた時間は1分もない。けれど、そこで襖を開けて言い返したら、笑っていた6人には「嫁が正月から怒鳴った」という話だけが残る。私は煮物を器に移して笑って運んだ。運びながら翔太の顔を見た。翔太は親戚と一緒に笑っていた。母親を止めもしなかったし、私と目も合わせなかった。
その頃から私は記録を書くようになった。何時から何時まで働いたか、どの日に誰が来たか、何を言われたか。家計簿の余白に、一つずつ日付を頭につけて書いた。看護師の癖だ。書いておけば覚えていなくていい。
翔太は一度その手帳を見て言った。「何それ?」
「家計簿」
「そう」
翔太は表紙をめくらずに戻した。「几帳面だよな、お前は」
当たり前だ。私は「そうね」と答えた。その手帳には7年前の4月の欄に、司法書士の立花さんの事務所の名前と判を押した時刻が書いてある。3200万円という数字も、頭金と借入れの内訳もそこにある。翔太はそのページを開かなかった。開けば、月々6万8000円がどこから引かれているかも書いてあった。興味がなかったのだと思う。自分の家だと思っている場所の値段を、人は調べない。私はこの家の名義の持ち主で、この家で一番物を置く場所がなかった。
家では削られるばかりだったが、病院では違った。外科病棟の看護師長は大久保リツ子さんという48歳の人だ。私が新人で入った頃からいる。手が早くて口も早い。新人が泣いていると、泣き終わるまで黙って隣に立っている人でもある。
9月、私は日勤帯のリーダーを任された。玄関にダンボールが積まれる1か月前のことだ。朝の申し送りから当直の調整、術後の患者さんの受け持ちの割り振りまで、病棟の一日を回す役だ。それまでも代わりに入ったことはあったが、勤務表の欄に正式に名前が載ったのはその月からだった。
「渡さんの13年はちゃんと積み上がってるからね」
休憩室で大久保師長が紙コップの茶を出しながら言った。「私、容量は良くないので」
「容量がいい人は記録を書かないの。あなたの記録が一番読みやすい」
褒められ慣れていないので返す言葉が出なかった。私はコップを両手で持って笑った。
その週、手術が3件続いた日があった。夕方の入院が2人重なって病棟の空きベッドが足りなくなった。私は他の病棟へ頭を下げに行き、当直の予定が早まりそうな患者さんの家族に電話をかけ、夜勤の看護師に引き継ぐ表を作り直した。帰りは師長が更衣室まで来て言った。「今日よく回したね」
「ギリギリでした」
師長はロッカーの扉に肩を預けた。「ギリギリで回せる人が病棟を持つ。あなた、そろそろ自分の生活も回しなさいよ」
自分の生活。私は自分の部屋が物置きと呼ばれていることをこの人に言っていなかった。言えばこの人は本気で怒る。怒らせてから私が家に帰るのだ。師長は自分の分の茶を啜ってから窓の外を指した。丘の上に造成中の土地が見えていた。
「ねえ、あなた、いつか自分の家を持つならどこがいい?」
「え?」
師長は紙コップで丘の方を指した。「あそこ、桜台の上の方。あの分譲地、病院から車で10分なのよ」
「師長、買うんですか?」
師長は紙コップを潰してゴミ箱に落とした。「まさか。娘の学費で終わりよ」
師長は笑って、それから真顔になった。「あなた、夜勤明けにちゃんと寝てる?顔色が半年前と違う」
半年前と違う。私はその言い方について、家に帰ってからも考えていた。家に帰る道すがら、私は桜台の分譲地の方を見上げた。造成の白い土が夕方の光で赤く見えた。自分の家、考えたこともなかった。私はすでに家を一つ持っていて、その家の和室で寝ている。持っているのに自分の家だと思えない。それがどういうことなのか、その時はまだ言葉にできなかった。
9月の彼岸に、義父の弟の吉尾夫さんが来た。66歳になる人で、義父と同じで背が低く、義父と違って口が悪い。線香を上げて手を合わせた後、仏壇の前で振り返った。
「たき子さん、花が枯れとるが」
「あら、そうかしら」
義母は座布団を出しながら答えた。吉尾夫さんが来ると分かっていた日から、義母は別人になる。「さやさん、悪いね。いつも世話をかけて」
「いいえ、私は何も」
吉尾さんは湯飲みを置いて私の方へ体を向けた。「あんたは働きすぎだ。夜勤なんて体に悪い。たき子さん、あんまり嫁に無理をさせるなよ」
「してませんよ。この子、寝てばっかりだもの」
義母は笑った。吉尾さんも笑った。私も笑った。3人で笑って、それで場は終わった。その日の義母は、お茶を入れるのも菓子を出すのも自分でやった。私が台所へ立とうとすると、それを引いて座らせた。「あなたは座ってなさい。お客さんなんだから」
お客さん。自分の家で私はお客さんになった。
吉尾さんは帰り際、玄関で靴を履きながら言った。「兄貴はな、あんたに感謝しとったよ」
「感謝ですか?」
吉尾さんは靴べらを壁に戻した。「病院で会うたびに言うとった。さやさんがおらんかったら、この家はとっくに人手に渡っとったって」
その通りだった。ただ、人手に渡らなかったこの家に、私のものを置く場所はない。それを言うわけにいかなくて、私は頭を下げた。
「れとな」
吉尾さんは片方の靴を履いたままこちらを向いた。「家のことは兄貴が全部きちんとしたはずだ。あの人は口約束が大嫌いな人だったからな」
「はい」
吉尾さんは指で四角を描いた。「紙にしたと言うとった。わしは中身は知らんが」
紙。私はその言葉で、ロッカーの手提げの中の茶封筒を思い出した。7年前のあの日、判を押した義父は疲れた顔で座り直してから封筒を出した。あの時、義母は隣の部屋にいた。呼ばれても出てこなかった。今にして思えば、義父はわざと義母のいない場で私に渡したのだ。その時はそこまで考えなかった。売買が終わって、私はただ安心していた。この家はもう誰にも取り上げられないと。
覚え書きなら7年前に一度だけ広げている。義父母がこの家に無償で住み続けること。私が所有者であること。3人の名前と判が並んでいたのを覚えている。ただ、判を押し終えた直後の頭で、印刷された行に目を走らせただけだった。封のしてあるもう1枚は開けていない。困っていなかったからだ。そう、自分に言い聞かせて、私は吉尾夫さんの背中を見送った。
その夜、義母は上機嫌だった。台所で洗い物をしている私の背中に声をかけてきた。「吉尾さん、あなたのこと褒めてたわね」
「はい」
義母は茶碗を布巾で拭きながら続けた。「あの人、外面がいいのよ。間に受けない方がいいわ」
褒めていたのは吉尾夫さんで、間に受けるなというのは義母だ。どちらの言葉を信じるかはもう決めていた。
その日の夕方の話に戻る。門のところで吉尾夫さんがもう一度振り返った。「たき子さんな。この家のことをどう言うとるか、あんた知っとるか?」
「いいえ」
吉尾さんは門柱に手をついて、その手を下ろした。「いや、年寄りの話だ。忘れてくれ」
その一言の意味は1か月後に分かる。
10月16日木曜日。私はその日夕方から夜勤だった。4時半に病棟に入って、翌朝の9時過ぎに出る勤務だ。昼過ぎに洗濯物を取り込んでいると、義母が縁側から声をかけてきた。「明日の朝ね、親戚が来るから料理をよろしく」
「明日の朝ですか?」
義母は縁側の柱に手をかけたまま続けた。「10時には見えるって。吉尾夫さんの奥さんとの方が2人」
私は洗濯物を抱えたまま振り返った。「明日は夜勤明けです。9時まで病院にいますので、無理です」
義母の眉が上がった。「夜勤なんて変わってもらえばいいでしょう」
「勤務表は先月に決まってます。代わりの人を今から探すことはできません」
義母は縁側の窓を閉めた。「家族より仕事が大事なの?」
その言い方はもう何度も聞いていた。返しても意味がないと知っていたので、私は洗濯物を畳みに部屋へ入った。
夕方、支度をしていると翔太が帰ってきた。玄関で義母が先に言いつけていた。「翔太、明日の朝だけだろ。たまには母さんの頼みを聞いてやれよ」
「明日は夜勤明けなの」
翔太は鞄を玄関に放った。「だから帰ってからやればいいじゃん」
「帰って来るのが10時なの。お客さんが来るのと同じ時間よ」
翔太は上着を脱ぎながら面倒そうに息を吐いた。「なんでそんなヘリクツ言うのかな?」
ヘリクツ。私は自転車の鍵を持って玄関を出た。背中で義母の声がした。「いいのよ、翔太。あの子がいなくても私が朝から作るから。この家のことは私がやるの」
この家のことは私がやる。義母はその言い方をよく使った。誰も頼んでいないのに自分で引き受けて、後から恩に着せる。自転車をこぎながら、私は翌朝の段取りを考えていた。9時に上がって10時に帰って、それから台所に立てば11時には形になる。眠るのはその後でいい。そこまで考えてから、自分でおかしくなった。無理だと断った人間が、帰り道で作る段取りをしている。ずっとそうやってきた。断って断りきれずに、結局はやる。義母はそれを知っている。だから頼むというより置いていくのだ。
病棟等の駐輪場に自転車を止めながら、私は一つだけ決めた。翌朝は作らない。帰ったら風呂に入って寝る。親戚が来ていても寝る。誰かに何か言われたら、その時考える。それくらいのことを決めるのに7年かかった。
その夜の病棟は忙しかった。夜の10時に救急から1人上がってきて、日付が変わる頃に術後の患者さんの熱が上がった。血圧と脈と酸素の値を測って、傷と尿の状態を確かめてから当直の先生に電話をする。数値を順番に伝えて指示をもらって点滴を落とし、それから氷枕を変える。3時に別の患者さんが転倒しかけ、朝方には当直の準備が2人分あった。座って見ている時間などない。義母にそう言ったところで伝わった試しがない。
明け方の4時、廊下の端で受け持ちの患者さんの奥さんに会った。手術を受けて3日経った人で、痛みが強くて眠れずにいた。奥さんは付き添いの椅子で泣いていた。「もう治らないんじゃないかと思って」
「昨日より熱が下がってます。痛みも、明日には薬を減らせるはずです」
私は記録の数字を一つずつ見せた。奥さんは頷いて、それから笑った。夜勤というのはそういう仕事だ。夜の3時に泣いている人に、前の日の数字を見せる。それを夜遊びと呼ばれるのは、正直に言えば悔しい。悔しいと思うのをやめたのは2年ほど前だ。悔しがっても、その人の言い方は変わらない。
朝の8時半から申し送りをして記録を閉じて、9時15分に更衣室に入った。病院を出たのは9時40分だった。自転車で坂を上がって家の前に着いたのが10時ちょうど。門の内側に見覚えのない軽自動車が止まっていた。親戚の車だろうと思った。玄関の前で私は一度深呼吸をした。料理を作らなかったことを責められる。そう身構まえていた。身構まえる先を間違えていた。
鍵を回した。玄関のたたきに私のダンボールが3つ積まれていた。洋服、化粧品、本、通勤に使っている鞄、夜勤の日に持っていく水筒まで、口を上にして押し込んであった。上の箱には私の下着が入っていた。畳もせずに手でまとめて押し込んだままだった。
足が止まった。頭の中で患者さんの申し送りの続きがまだ回っていた。それが止まるまでに多分5秒かかった。
「ここは母さんの家だ。嫌なら出てけ」
廊下の奥から翔太が出てきた。休みではない。営業の直行の日で、昼前に出ればいい日だと前の週に聞いていた。その後ろから義母が出てくる。
「文句あるなら今すぐ出てって」
義母は笑っていた。「嫁に居場所なんてないわ」
私は箱を見た。それから2人を見た。
「これ、誰がやったんですか?」
「私よ」
義母はあっさり答えた。「この部屋、日当たりがいいのよね。前から決まってたのよ」
前から。その言い方が耳の奥に残った。決まってたというのは、あなたには物置きで十分でしょう。荷物なんてそれだけしかないんだから。義母はダンボールの一つを軽く蹴った。中で水筒が転がる音がした。
翔太は玄関を塞いだまま動かない。私が泣くか怒鳴るか、そのどれかだと決めてかかっている顔だった。詰まっていた言葉が喉の下まで来ていた。名義のこと、固定資産税のこと、修理代のこと、あの日の病室で私が「買い取ります」と言ったこと。義父が縁側から「寝なさい」と言ってくれたこと。抜かれたサザンカ。明けの昼の掃除機の音。勤務表の夜の欄についた赤い印。正月に襖の向こうで起きた笑い声。全部言えば言えた。言ったところで、この2人には届かない。届かない相手に説明する時間はもう十分に使った。
だから私はどれもしなかった。
「わかりました」
そう答えて、一番上の箱を抱えた。
翔太の顔が変わった。「え、本当に出てくの?」
私は箱の底を抱え直した。「出てけって言われましたよね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
私は箱を抱えたまま翔太の目を見た。「どういう意味ですか?」
翔太は答えなかった。義母が横から口を出した。「行くところなんてないでしょう。頭が冷えたら戻ってらっしゃい」
私は箱を3つ、2回に分けて外へ運んだ。2人とも手伝わなかった。当たり前だ。運ばせるために出したのだから。2つ目を門の外へ置いた時、軽自動車の隣にもう1台止まった。吉尾さんの奥さんのさえさんと、当園の宮下みおさんと宮下さんの義理の妹が降りてきた。さえさんは門の前に積まれたダンボールと、その横に立っている私を見比べた。
「さやさん。あら、これどうしたの?」
玄関から義母が飛び出してきた。早かった。「いらっしゃい。この子ね、今日お仕事なのよね」
私は返事をしなかった。ダンボールを運んでいる人間が仕事に出るところだと、その場の誰も思わない。さえさんは口を開きかけて、義母に背中を押されて中へ入っていった。宮下さんたちが振り返りながら続いた。玄関が閉まると、家の中から笑い声が起きた。私はその笑い声を門の外で聞いていた。
最後の箱を持った時、義母が言った。「あら、この家に何か忘れ物してない?」
「していません」
そう答えた。大事なものは4年前の冬にこの家の外へ出したはずだった。門を閉める時、縁側の窓に義母の顔が見えた。もう笑っていた。親戚が来るまであと数分だった。
私は坂を降りた。夜勤明けの体で、10月の朝の日差しがやけに白かった。途中の自動販売機の前で立ち止まって、温かいお茶を買った。ベンチに座って手帳を出した。
「10月17日金曜 10時 玄関に私物のダンボール3箱 義母と夫の発言」
ペンを持つ手が少し震えていた。怒りなのか、夜勤明けの疲れなのか、自分でも分からなかった。書いてしまえば震えは止まった。書き終えてから、私は自分の頭の中を順番に並べた。その日のうちに寝る場所を決める。次の勤務は日曜の日勤。土曜は休み。銀行と法務局は平日でないと開かない。手元にある紙は何と何か。
坂の下から見上げると、屋根の瓦が朝日で光っていた。7年前、私が3200万円を払った屋根だった。その日から、私はあの家で一晩も眠っていない。
その日は病院の前のビジネスホテルに入った。坂を降りて10分の場所で、当直明けの先生がたまに使う宿だ。フロントで日中だけの休憩の部屋があるかを聞いたら、そのまま泊まれると言われた。ダンボールを3つ、台車で運んでもらった。部屋に入ってカーテンを閉めてシャワーを浴びて、11時に布団に入った。目が覚めたのは午後4時だった。
起きて最初にしたのは水を飲むことだった。次にしたのは机の上に紙を並べることだった。持って出られた紙は多くない。家計簿にしている手帳、財布の中の保険証と診察券、それと携帯だ。携帯で銀行の画面を開いた。住宅ローンの残りは1390万円だった。7年で410万円返した計算になる。引き落としは毎月27日で、7年間一度も遅れていない。火災保険の証券は保険会社のアプリで見られた。契約者は私。建物の所有者も私。
半年前のメールも残っていた。朝日大不動産の桑原さんという人からのものだ。春に一度、興味本位で査定を頼んだことがあった。帰ってきた金額は5500万円前後で、文面の最後にこう書いてあった。「駅から徒歩8分でこの広さの土地は、今この地域では出ません。売る気がおありでしたら、いつでもご相談ください」
売る気があったわけではない。ただ、あの家がいくらなのかを知っておきたかった。義母が「うちも古いから」という度に、うちとは何なのかを考えていた。紙を並べ終えて、私は椅子の背に凭れた。出ていけと言われた。だから出た。ここまでは向こうの言う通りにしている。問題はこの先だ。あの家は私の名前で、私の払っている家で、私が住んでいない家になる。
そこまで考えて、携帯が鳴った。翔太だった。
「もう気は済んだ」
声は明るかった。
「何がですか?」
「だから、朝のあれ。母さんも言いすぎたって言ってるから」
私は水を一口飲んだ。「言いすぎたと言ったんですか?」
「お母さんが…」
翔太は黙り込んだ。「まあ、そういう感じのことは言っていない」
のだ。私は窓の外を見た。「今日はホテルに泊まります」
翔太の声が裏返った。「はあ?金の無駄だろう」
「そうですね」
向こうでテレビの音がしていた。「戻って来いよ。母さんに一言謝れば済む話だろ」
私が謝る話だったのか。そこがずれていることを説明する気はもうなかった。
翌日の土曜も私はホテルにいた。役所も銀行の窓口も法務局も、平日でなければ開かない。動けない日は動かないことにした。日曜は日勤だった。更衣室で着替えていると、大久保師長が入ってきた。私の顔を見て、ロッカーの扉を閉める手を止めた。
「あなた、どこかで寝てないでしょう」
「寝てます。ホテルで」
師長の手が止まった。「ホテル」
師長は椅子を引いて私の前に座った。私は事情を話した。ダンボールのことも玄関のことも、これまでのことも順番に話した。
「それ、追い出されたっていうのよ」
「はい」
師長は声を落とした。「ねえ、あなたの名義なのよね」
「そうです」
「なるほどね」
師長は何かを言いかけてやめた。それから立ち上がって、更衣室の壁の掲示を指した。市の無料法律相談の案内が貼ってあった。「水曜にやってるの。あなたの高給、水曜だったでしょう」
「はい」
師長は掲示の端を指の腹で抑えた。「一人で考えないこと。今のあなたは、患者さんが夜中に一人で考え込んでる状態と同じよ」
その言い方が的確だったので、私は笑ってしまった。笑ってから、少し泣きそうになった。師長は病棟の事務の人に頼んで、系列のウィークリーマンションの空きを調べてくれた。月曜からそこへ移った。台所と洗濯機のある6畳ほどの部屋だった。ダンボールを開けて、洋服をハンガーにかけた。ウィークリーマンションの窓からは駐車場と、その向こうの中学校のグラウンドが見えた。夕方になると部活の声が聞こえた。
洗濯機を回しながら、私は自分の生活の小ささに驚いていた。鍋が1つ、皿が2枚、着替えが4日分。それで足りてしまう。あの家に、私はどこにも自分の場所を持っていなかった。なかったのに、出る時はダンボール3つで済んだ。
その間にも翔太からの連絡は続いた。内容が日ごとに変わっていった。最初は「謝れば済む」だった。次の日は「いつまで拗ねてるんだ」になった。その次の日にはこうなった。「もう夜勤やめろよ。日勤だけにすれば、母さんも文句言わないだろう」
私は返信の前にその文を3回読んだ。玄関に荷物を出したのは向こうで、出ていけと言ったのも向こうだ。それなのに条件を出してきている。まるで私が戻りたがっていて、その許可を出す側にいるかのように。「部屋は母さんが使うから、それは諦めてくれ。物置きでいいだろ。寝るだけなんだから」
文字を打つ指が止まった。物置きでいいだろ、と夫が書いた。私が3200万円で買った家の中の和室について。私は返事を書かなかった。代わりに手帳を開いて、この1週間のやり取りを日付順に移した。何時に誰が何と言ったか。看護記録と同じ書き方をした。感情は書かない。事実だけ書く。後から読み返すのは自分ではないかもしれないと思いながら書いた。その相手が誰になるのかはまだ思いつかなかった。ただ、書いておけば私が忘れても、紙が覚えている。
その夜、義母からも電話が来た。義母が私の携帯にかけてくるのは滅多にないことだった。
「あなた、今月の生活費はどうするの?」
前置きは何もなかった。
「生活費ですか?」
「食費と光熱費をいつも25日に置いていくでしょう」
私は流し台に手をついた。「私は今、そこに住んでいません」
「住む住まないの話じゃないの。家族なんだから」
私は台所の壁を見ていた。義母には年金がある。義父がなくなってから、遺族の分と合わせて月に11万円ほど入っているはずだ。義母がその金を何に使っているのか、私は7年間一度も見たことがない。生活費として私が置いてきたのは月に8万円だった。食費も電気もガスも水道もそこから出ていた。固定資産税と保険と修理代はそれとは別に私の口座から出ている。義母の口から「お金がない」という言葉はこの7年で数えきれないほど聞いた。ないのだろうか。それとも出す気がないのだろうか。考えてみれば、義母が財布を出すところを見たことがない。町内会費も法事の会費も私が立て替えて、そのままになっていた。金額にすれば大した額ではない。ただ、額の問題ではないのだと、その時初めて思った。
「お母さん、年金は毎月いくら入っていますか?」
電話の向こうで音が消えた。「なんでそんなこと聞くの?」
声の高さが変わっていた。
「聞いてはいけませんか?」
「失礼な子」
電話は切れた。切れてから、私は手帳にその日の時刻とやり取りの中身を書いた。そこまで書いて、私は一つ数え直した。買い取った春からこの10月までに、あの家に入れた金がいくらになるのかを。生活費が月に8万円、丸7年で672万円。住宅ローンの返済が月に6万8000円、7年で571万円あまり。固定資産税と保険と修理代を足せば、そこにさらに200万円ほど乗る。合わせて1400万円を超えていた。その家で私に与えられていた場所は和室半分で、しかもそこは物置きと呼ばれていた。数字にすると、腹が立つより先に体の力が抜けた。
火曜の夜、私の方から翔太に電話をかけた。「離婚します」
翔太が息を止めるのが分かった。「は?」
「それと、離婚もお願いします」
翔太は笑った。本当に笑ったのだ。「お前、疲れてるんだよ。寝ろよ」
笑いながら言われた。
「寝てます。しっかり寝てから言ってます」
「どうせすぐ帰ってくるだろう」
そう言って翔太は切った。看護師を13年やってきた。記録を残すことだけは誰よりも慣れている。
10月22日の水曜は高給だった。私は電車と徒歩で40分かけて法務局へ行った。窓口で申請書を書いて、番号を呼ばれるのを待った。渡された紙は登記事項証明書という、土地と建物の履歴が書かれた書類だ。誰から誰へ、いつ移ったか。それが順番に記載されている。この紙は持ち主でなくても誰でも取れる。手数料さえ払えば、隣の家のものでも取れる。窓口の人がそう教えてくれた。つまり、翔太も義母も、7年のうちのどの日でもこの紙を見ることができた。見なかっただけだ。
所有者の欄には私の名前が一つだけあった。渡さや。住所も私のもの。移転の日付は7年前の4月10日。原因の欄には「売買」とあった。分かっていたことだ。それでも紙で見ると違った。私はそれを鞄に入れて、市の相談窓口の場所を確かめてから帰った。無料の法律相談は水曜の午後で、2週間先まで枠が埋まっていた。11月5日の予約を取った。市役所の1階の長椅子で、その後30分ほど座っていた。
翌日の木曜、翔太と会った。向こうから一度話そうと言ってきた。指定されたのは駅前の喫茶店だった。私は勤務の前の時間に合わせて2時間だけ空けた。翔太は先に来ていた。私が座ると、水を一口飲んでから切り出した。「母さんもさ、悪かったって言ってるよ」
おしぼりで手を拭きながらだった。
「そうですか」
翔太は椅子の背に腕をかけた。「だからもう帰って来いよ」
「お母さんは何て言っていましたか?」
「だから、悪かったって」
「言葉で言うと、どう言っていましたか?」
翔太はコップの底を回した。「言いすぎたかもね、て」
私は繰り返した。「かもね」
「同じだろ、そんなの」
同じではない。私は鞄からノートを出して日付を書いた。
「何それ?」
「記録です」
翔太が身を乗り出した。「記録って何の?」
「今日の話です」
翔太の顔が険しくなった。「そういうのやめろよ。夫婦の話だろ?」
「夫婦の話だから残します」
私は続けて聞いた。「あの朝、荷物を詰めたのはお母さんだと聞きました。あなたはどこにいましたか?」
「家にいたよ」
声が小さくなった。
「見ていたんですね」
翔太は窓の方を向いた。「見てたけど、俺がやったわけじゃない」
「止めましたか?」
翔太は答えなかった。そこで一つ、話が動いた。翔太が咳払いをしてこう言ったのだ。「大体、母さんはずっと前からあの部屋を使いたがってたんだよ。お前が意地張るからこんなことになってんの」
ずっと前から。玄関でリボンが言ったのと同じ言い方だった。前から決まってた。
「ずっと前というのは、いつからですか?」
「知らねえよ。そんなの覚えてるかよ」
覚えていないのではなく、言えないのだ。その時はそう思っただけだった。翔太は最後に伝票を私の方へ滑らせて帰っていった。「金は持ってるんだろ。お前の方が稼いでるんだから」
その言い方をされたのはその時が最初ではなかった。
翌日の金曜、私は朝日大不動産へ行った。半年前に査定をしてくれた桑原徹さんという、45歳の営業だった。名刺を出して、春のメールの控えを出して、それから登記事項証明書を出した。桑原さんは書類を確かめて私の顔を見た。「所有者はご本人ですね。確認させていただきました」
「はい」
桑原さんは書類を揃えて返してきた。「今のご相談は売却ということでよろしいですか?」
「その前に、いくつか教えてください」
私は聞いた。今この家がいくらで売れるのか。住宅ローンが残っていても売れるのか。売った金でローンは片付くのか。それから、住んでいる人がいる家は売れるのか。桑原さんは最後の質問のところではっきり言った。「正直に申し上げます。居住中のままだと、買う側は不安があります。引き渡しの日に本当に空いているのか、確約がないと動けません」
「では、どうすれば」
桑原さんは指を2本立てた。「引き渡しまでに明け渡していただく約束を契約に入れます。その約束が守れる見込みがあるかどうかは、売主さんの方で整えていただくことになります」
整える。その言葉が耳に残った。査定の金額は春よりわずかに上がっていた。駅前の再開発の話が動いたせいだという。5700万円前後。仮に少し下げても5500万円は割らないと思います。私はもう一つだけ聞いた。「主人の同意は要りますか?」
「土地のご名義がご本人お一人でしたら、ご主人の同意書は要りません。ただ」
桑原さんは言葉を選んだ。「住んでいらっしゃる方がいる以上、話がついていることが前提になります。そこが整わないまま売り出すのは、私はお勧めしません」
ローンの残りは1390万円だ。売れば片付く。私はそこまで聞いて、返事をせずに帰った。決めるのはまだ先だと思っていた。
その日の夕方、登録のない番号から電話が来た。市内のリフォームの会社だった。「渡さや様のお電話でよろしいでしょうか?桜坂の渡様のお宅のことで、確認をさせていただきたく」
私は道の端に寄って耳を抑えた。「はい。何でしょうか?」
若い男の人の声だった。「1階の和室を洋室に改めるお見積もりの件です。取り付けのご確認をと思いまして」
「見積もりですか?」
「はい。3週間前にお伺いして、寸法を測らせていただいております。お申し込みは同じご住所の渡木たき子様のお名前でしたが、書類の所有者の欄が渡さや様になっておりましたので、着工の前に一度ご本人様にと」
足の裏が冷たくなった。道を歩く人の音が急に遠くなった。
「その見積もりは、いつの日付ですか?」
「9月の26日です」
9月26日。私がダンボールを渡されたのは10月17日だ。3週間、私はあの家で普通に暮らしていた。夜勤に行き、明けに寝て、掃除機の音で起きて、勤務表を見られていた。その間、私の部屋の寸法はもう測られていた。
「その中身を詳しく教えていただけますか?」
「押入れを撤去して、床を張り替えて、掃き出し窓を大きくする内容です。お母様は日当たりのいい部屋にしたいとおっしゃっていました」
日当たりがいいのよね。玄関で聞いた言葉がそのまま帰ってきた。私は礼を言って、着工しないで欲しいと伝えた。所有者としての意思だと言うと、担当の人は「承知しました」と答えた。それから一つ頼んだ。「そのお見積もりの控えを、私宛てに送っていただけますか?」
「はい。所有者様でしたらお出しできます」
3日後、封筒が届いた。中には見積もり書の写しが1枚。日付は9月26日。申し込み者の欄に義母の名前があり、備考の欄にはこう書いてあった。「現在の使用者の私物を移動の上、着工」
私物。名前ではなく、そう書かれていた。この1枚はそのままウィークリーマンションの机の引き出しにしまった。使うつもりがあったわけではない。ただ、看護師は捨てない。後で意味が変わる紙がどれなのか分からないからだ。
そしてこの紙にはもう一つ意味があった。9月26日に寸法を測った人がいるということは、その日、家に人を上げた者がいるということだ。義母は在宅で、翔太は仕事だった。つまり、業者を家に上げたのは義母だ。翔太は喫茶店で「ずっと前からあの部屋を使いたがってた」と言った。知っていたのだ。知っていて、私に何も言わなかった。
見積もり書の控えをもう一度読み返して、私はしばらく手が動かせなかった。台所の蛇口も屋根の点検も、金を出してきたのは所有者の私だ。腹が立ったのはそこではない。私の部屋を、私に一言もなく別の部屋に変える見積もりが、私の名前で出ていたことだ。あの朝の10時はたまたまその時間だったのではない。私が帰ってくる時間だった。
中が開けると、家という言葉が腸内を回り始めた。最初に教えてくれたのは向かいの藤井く子さんだった。私の携帯にかけてきたのだ。番号は前の年の防災訓練の名簿で交換していた。
「さやさん、お忙しかったらごめんなさいね」
私は洗い物の手を止めた。「いいえ。どうかしましたか?」
「たき子さんがね、お嫁さんが家出したって言って回っているの」
私は部屋の窓を開けた。冷たい風が入った。「家出ですか?」
「そう。仕事のことで叱ったら出て行ったって。夕べ、組長さんのところにも寄っていたわ」
風が入ってカーテンが膨らんだ。「藤井さん、あの朝、うちの門の前にダンボールが積んであったのを見ましたか?」
藤井さんは少し黙った。「見ました。さえさんも見たと言ってたわ」
「そうですか」
藤井さんは声を落とした。「さやさん、私ね、前から言おうと思っていたことがあるの。でも今は言わない。あなたが落ち着いてからにする」
その言い方は彼岸の日の吉尾夫さんとよく似ていた。この町には、私に言いたくて言えずにいる人が2人いる。
その日の夜、さえさんからも電話が来た。吉尾さんの奥さんだ。「さやさん、あの日のこと、まだ気になっててね」
「はい」
さえさんは障子の向こうで座り直したようだった。「たき子さんね、あなたお仕事だって言ったのよ。玄関先で」
「聞きました」
さえさんは声を潜めた。「でも今は家出したって言ってるの。私、どっちなのって聞いたのよ。そしたら」
さえさんは言いにくそうにした。「そしたら、両方だって」
両方。私は思わず笑ってしまった。仕事に出た人間が家出をする。そういうことになっているらしい。「あのね、私は見たものしか言わないから。あなたの荷物が門の外にあったのは見たわ。それだけは誰に聞かれても言う」
その一言で、私はこの人が味方だと分かった。
その週の後半、病棟に電話が入った。受けたのは事務のクラークさんだった。内線で私を呼ぶ声がして、詰所へ戻ると、受話器を持ったまま困った顔をしていた。「渡さん、ご主人からです。急ぎだそうです」
私は受話器を受け取らなかった。代わりに大久保師長が出た。「はい、外科病棟です。渡中です。はい。急用ではないですね。では、お切りください」
師長は受話器を置いて私を見た。「急ぎって、何だったと思う?」
「検討がつきません」
師長は鼻から息を出した。「帰って来いって話よ。3分で切れる話を、わざわざ職場にかけてくるの」
師長は詰所のカウンターを指で叩いた。「次からは私が出るから、あなたは出なくていい」
その夜、私はダンボールを開けた。洋服をかけて、化粧品を洗面所に並べて、本を積んだ。3つ目の箱の底に通勤用の鞄と夜勤の水筒があった。そこで手が止まった。
茶封筒がない。
義父から預かったあの封筒だ。中身は2枚。覚え書きと、封をしたままの手紙。私はもう一度、3つの箱を全部出した。服のポケットも、鞄の中も、本の間も見た。ない。
4年前の冬、私は職場のロッカーへ手提げを一つ入れている。祖母の形見の指輪と、祖母から引き継いだアパートの権利の書類と、銀行の届出印。その手提げに封筒も入れたはずだった。はずだった、というのが問題だった。あの時、私は義母に紙袋を渡された直後で、頭が回っていなかった。覚え書きだけを入れて、封のしてある手紙は机の引き出しに戻したかもしれない。あるいは両方入れたのかもしれない。思い出せない。
思い出せないまま、私は最悪の方を考えた。もし引き出しに残っていたなら、義母はそれを見ている。私の部屋のものを紙袋にまとめる人だ。引き出しを開けないはずがない。封を切っただろうか。義父の字で「困った時に」と書いてある封筒があって、あの人が開けずにいられるだろうか。
その晩はなかなか眠れなかった。翌朝は日勤で6時に起きなければならなかったのに、2時過ぎまで天井を見ていた。
翌日、翔太から折り返しの電話が来た。仕事帰りらしく、駅の音が混じっていた。「なんで職場の人が出るんだよ」
「勤務中でしたので」
翔太は改札の音の中で声を張った。「いつ帰ってくるんだ?」
「帰りません」
翔太が笑った。この1週間、私は何度この笑い声を聞いただろう。「意地は張るなって。母さんも、お前が謝れば許すって言ってるから」
「お母さんが許すんですか?何をですか?」
翔太の声が尖った。「そういう揚げ足取りやめろよ」
「翔太さん」
私は名前を呼んだ。結婚してから、名前で呼ぶことは減っていた。「私、離婚したいと言いました。それと、家のことも整理します」
向こうの音が止まった。「家?」
「はい」
翔太は同じ言葉を2度言った。「家って何だよ」
「整理します」
私が黙っていると、翔太が続けた。「だから、何を?」
私は言わなかった。売るとも、通知を出すとも、弁護士に相談するとも言わなかった。言えば義母は動く。動いてから困るのは、あの家に住んでいる2人の方だ。翔太は咳払いをした。「もういいよ。頭冷やせ」
電話が切れた。その後、義母から留守番電話が入っていた。後で聞き返すと、こう言っていた。「あのね、あなた。私は別に、出ていけなんて本気で言ったわけじゃないのよ。荷物だって、ちょっと動かしただけでしょう。それを大げさにして、近所に恥をかかせて。あなた、そういうところが可愛くないのよ」
ちょっと動かしただけ。3つの箱に詰めて玄関に出すことが、この人にはそういう言い方になる。留守番電話はそのまま残した。消さなかった。消さなかった理由は、後になって自分でも分かった。私はこの頃から、いつか誰かに説明する日が来ると思っていたのだ。説明する相手が誰なのかはまだ見えていなかった。義父の弟か、弁護士か、それとも裁判所の人か。ただ一つだけ決めていた。私の側から嘘はつかない。書いたものと残っているものだけで話す。看護記録と同じだ。憶測を書けば、後で自分の首が締まる。
その頃、翔太の職場のことも耳に入ってきた。私の同期の夫が、翔太と同じ建物に入っている会社にいる。同期が食堂で聞いた話では、翔太は昼休みに何度も外へ出て電話をしていたという。出ていけと言ったのは向こうだ。その向こうが、今電話をかけ回っている。
それから数日、私は普通に働いた。日勤、日勤、夜勤、明け、高給。勤務表の通りに動いて、記録を書いて、患者さんの家族に説明をした。病棟にいる間は家のことを考えなかった。考えないでいられる場所があるのはありがたいことだった。
その間に私は本を2冊買った。1冊は不動産の売り方の本で、もう1冊は離婚の手続きの本だった。夜勤明けの午後、ウィークリーマンションの小さな机で付箋を張りながら読んだ。分からない言葉が多かった。抵当権、媒介契約、内容証明。仕事で使う言葉なら何年も前から知っているのに、家のことになると新人と同じだった。抵当権というのは住宅ローンの担保として家につけられている権利のことだ。媒介契約は売却を一社だけに任せる契約。内容証明は、出した手紙の中身と日付を郵便局が証明してくれる制度だという。どれも調べれば短い説明で足りた。知らずにいたのは、知らなくていい暮らしをしてきたからではない。知る側に回る日が来るとは思っていなかっただけだ。
分からないなら聞くしかない。私は桑原さんにメールを書いた。もし売ると決めた場合、何をどの順番でしなければならないのか。住んでいる人がいる場合、その順番はどう変わるのか。返事は次の日の朝に来た。売る前に決めることが3つあると書いてあった。いつまでに引き渡すか。住んでいる人にいつ伝えるか。そして、伝えた後で揉めた時に、誰に間に入ってもらうか。最後の1行はこうだった。「不動産屋にできるのは売ることだけです。ご家族のことは、弁護士の先生にご相談ください」
高給の前の晩に、私はノートを開いてこれからのことを箇条書きだけ書いた。一つ、住むところを決める。二つ、あの家をどうするかを決める。三つ、二つ目を決める前に、話を聞ける人に会う。
翔太と義母はその頃何をしていたか、後で吉尾夫さんから聞いた。2人は私が謝りに来る日を待っていたのだそうだ。夕飯の支度をしながら義母は「あの子は行くところがないから」と言い、翔太は「来週には戻る」と言っていたという。この家は誰のものか。その問いだけはまだ口に出していなかった。そして私の方にも、口に出せずにいることが一つあった。あの茶封筒の中身は、義母がもう読んでしまったのではないか。職場のロッカーを開ければあるかないかは分かる。分かってしまうのが怖くて、私はその週も開けに行かなかった。
10月29日は義父の命日だった。5年前のその日、義父は病院で亡くなった。私は夜勤の入りだった。大久保師長に頼んで変わってもらい、最後に間に合った。手を握った時、義父はもう声が出なかったが、目だけははっきりしていた。5年目の命日は高給だったので、私は朝から小戦寺へ行った。渡の墓は、墓地の裏の斜面の中ほどにある。桶に水を汲んで階段を登った。墓の前に先客がいた。吉尾さんだった。
「ご無沙汰しています」
吉尾さんは私の手にある桶を見て、それから墓石の方へ顎をしゃくった。「たき子さんは来ていないんですか?」
吉尾さんは腕時計を見た。「来とらん。電話しても出ん」
私は水を注いで線香に火をつけた。2人で手を合わせた。立ち上がってから、吉尾さんが聞いてきた。「あんた、家におらんそうだな」
「はい」
吉尾さんは桶の縁を握ったままだった。「家出したと聞いたが」
「違います」
私は事実だけを短く言った。夜勤明けに帰ったら荷物が玄関に出ていたこと。出ていけと言われたこと。「わかりました」と答えて出たこと。吉尾夫さんの眉が寄っていった。
「荷物を玄関にか」
「はい。3箱です」
吉尾さんの声が低くなった。「翔太は何をしとった?」
「見ていました」
吉尾さんは墓石の横の石に腰を下ろした。しばらく何も言わなかった。「たき子さんはな、わしにはこう言うとった。息子夫婦に家を譲ったから、今は自分が世話になっとるんだと」
「譲ったですか?」
吉尾さんは石の上で膝を組み直した。「そう言うとった。だから、嫁が出ていくのは筋が通らんと」
私は鞄の中の登記事項証明書のことを考えた。出せば1分で終わる話だった。出さなかった。この人は義父の弟だ。義父が亡くなって5年。この人は義母の言うことを信じて、それでも私に頭を下げてきた。その人に紙を突きつけて顔を潰させたくなかった。
「吉尾さん、あの家の名義は7年前から変わっています」
「変わっとる」
吉尾さんが繰り返した。
「はい。それだけ覚えておいてください」
吉尾さんは私の顔を見て、それから頷いた。「兄貴は紙にしたと言うとったな」
「はい」
吉尾さんは立ち上がって、膝の埃を払うような手つきをした。「あんた、その紙は持っとるのか?」
「持っています。今は職場に置いてあります」
言いながら、自分でも半分は嘘だと思った。持っているはずだが、確かめていない。確かめるのが怖かった。
帰り道、坂の途中で吉尾夫さんが立ち止まった。「わしはな、兄貴に一度だけ怒鳴られたことがある」
「お父さんにですか?」
吉尾さんは自分の胸を親指で指した。「若い頃に金のことでな。兄貴は言うた。金の話を曖昧にする人間は、人も曖昧にすると」
その言葉は義父が言いそうな言葉だった。「あんた、あの家に3200万払うたそうだな」
「はい」
吉尾さんは前を向いたまま続けた。「兄貴から聞いた。あんたが値切らんかったこともな」
私は返事に困った。吉尾さんは坂の下を見ていた。「たき子さんはな、あの頃随分いろんな人に電話をかけとったよ」
「電話ですか?」
吉尾さんは口を結んで手を振った。「いや、今日はやめとこう。明日だ」
この人はまた何かを飲み込んだ。
2日後の10月31日金曜、私は朝日大不動産で媒介契約という書類に判をした。売却を一社に任せる契約で、期間は3か月だと説明された。桑原さんが手続きの紙を揃えながら言った。「売り出しの価格は5780万円から始めます。反響を見て下げていきます」
「はい」
「内見のご案内は私からご連絡してからにします。勝手に人を連れていくことはしません」
「お願いします」
桑原さんはペンを置いてこちらを見た。「渡さん、ご家族にはいつお話になりますか?」
私は答えを用意していなかった。「順番を教えてください」
「私の口から言えるのは売買のことだけです。ただ、経験から申し上げると、先に伝えた方がいい場合と、専門家を通して伝えた方がいい場合があります」
「どちらだと思われますか?」
「玄関にお荷物を出されたのでしたら、後者です」
その日の帰り、私は市の相談窓口に電話をして、水曜の予約を確かめた。売ると決めたわけではないと自分に言い聞かせていた。売る準備を始めただけ。けれど、判を押した紙の重さは知っている。看護師は同意書を扱う仕事だ。紙に名前を書くというのは、そこから先へ進むということだった。
その晩、私はウィークリーマンションの窓から外を見ていた。中学校のグラウンドの照明が消えて、駐車場の車が1台ずつ帰っていった。7年前、私はこの家はもう誰にも取り上げられないと思って安心した。取り上げられはしなかった。ただ、私の居場所だけが年ごとに削られていった。
11月5日の水曜、市役所の3階の小さな部屋で、藤沢直という弁護士に会った。50歳で、机の上に何も置かない人だった。私は手帳とリフォームの見積もり書の写しと登記事項証明書を並べた。留守番電話も聞いてもらった。藤沢先生は一通り聞いてから、前置きをした。「一般論としてお話しします。ここで私が申し上げることは、結果をお約束するものではありません」
「はい」
「まず、家の名義がご相談者お一人であることは書類で確認できました。所有者は売ることができます。ご主人の同意書は要りません」
「はい」
「次に、お母様がその家に住んでいる関係は、法律で使用貸借と呼びます。無償で貸している状態のことです」
使用貸借。私はノートに書いた。「賃料をもらっていないので、借地借家法の強い保護は及びません。ただし」
藤沢先生は指を1本立てた。「長期間の方が長く住んでいる場合、明日出ていってくださいと言って、その日に出せるものではありません。争いになれば、事情が細かく見られます」
「では、どうすれば」
「順番を踏みます。書面で使用の関係を終わらせることをお伝えして、相当な退去の期間を設けます。応じていただけない場合に、次の手続きへ進みます」
「相当というのは」
「一概には言えません。事情や居住の年数によります。今回でしたら、3か月から4か月を提案して、そこから話し合うのが現実的だと思います」
私は書きながら、肩の力が抜けるのを感じた。この人は「必ず出せる」とは言わない。言わない人の方が信用できる。
「もう一つよろしいですか?」
「はい」
「結婚の時に、この家は半分になりますか?」
藤沢先生はわずかに首を傾げた。「結婚前のご自身の貯蓄や相続で得たお金から出した部分は、ご自身のものとして扱われるのが原則です。ただ、婚姻中に返済した分については、争いになり得ます」
「なり得る」
「はい。ですから、記録を残して順番を踏むんです。感情で追い出すのではなく」
その言い方をノートの隅に書き写した。
1週間後の11月12日、水曜、藤沢先生の名前で義母宛ての書面が家に届いた。中身は3つだ。この家の所有者が誰であること。使用の関係を終わらせること。そして、2月末までに退去をお願いしたいこと。翔太には、別居と離婚の話し合いを申し入れる文書が行った。
書面を出す前の日、藤沢先生は私に確かめた。「この書面を出せば、あちらは動きます。怒鳴られるかもしれません。職場に来るかもしれません。それでも進めますか?」
「進めます」
「理由を教えてください。感情ではなく、言葉で」
私は少し考えた。「あの家は私の名前で、私の払っている家です。そこに私の居場所がないなら、持っている意味がありません」
藤沢先生は頷いて、書面に判を押した。「では、順番を踏みましょう」
その夜、吉尾さんから電話がかかってきた。受話器の向こうで一度だけ黙ってから、こう言った。「兄貴は何て言うとった?封筒を渡された時のことだ」
「困った時に開けなさい、とだけ」
吉尾夫さんは「そうか」と言って、それきり黙った。
書面が届いてからの3日間で、私の携帯には47件の着信が入った。数えたのは後で藤沢先生に渡すためだ。翔太から30件、義母から17件。出たのは最初の1回だけだった。
「お前、何やってんの?」
翔太の第一声はそれだった。
「弁護士から書面が行ったと思います」
向こうで椅子を引く音がした。「母さん、泣いてるぞ」
「そうですか」
翔太は電話の向こうで立ち止まったようだった。「そうですかって。お前」
「今後のご連絡は、藤沢先生を通してお願いします」
翔太の声が急に低くなった。「なんで他人を入れるんだよ。夫婦の話だろう」
夫婦の話。玄関に荷物を出した時は、母親と2人で決めていた。私は電話を切って、着信の履歴を1件ずつ写真に撮った。
翌日の木曜、翔太が病院の受付まで来たらしい。らしいというのは、私が夜勤明けで帰った後だったからだ。受付の人が事務に伝えて、事務が大久保師長に伝えて、師長が私に伝えてきた。「面会の申し出は断ったって。ご主人、待合いで30分座ってたそうよ」
「すみません」
師長はカルテを棚に戻した。「あなたが謝ることじゃない。でもね、渡さん」
師長は珍しく言葉を選んだ。「職場に来るというのは、あなたの仕事を人質にするということなの。それをする人だと覚えておきなさい」
その2日後だった。義母が親族を集めた。11月15日土曜日。渡の家に親族が集まることになった。名目は義父の5年の法要の相談だが、集められた理由は別だと誰もが分かっていた。呼び出したのは義母だった。私の携帯にではなく、吉尾夫さんを通して伝えてきた。
「わしも行く。あんた一人にはさせん」
吉尾夫さんはそう言ってくれた。私は行くことにした。書面を出した後で顔を出さないのは、逃げたことになる。
午後2時、私は門の前に立った。29日ぶりだった。門柱の郵便受けに、私宛ての封筒が突っ込んだままになっていた。抜いて鞄に入れた。玄関は開いていた。土間で靴を脱いだが、家には上がらなかった。上がらない方がいいと藤沢先生に言われていた。
座敷には6人いた。義母、翔太、吉尾さんとさえさん。それに当園の宮下みおさんと宮下さんの義理の妹。あの朝、門の前で私とダンボールを見た人たちだ。宮下さんは72歳で、義父の従弟に当たる。
「あら、来たの?」
義母が湯飲みを置いていった。声は明るかった。
「お邪魔します」
他人の家に来る時はそういうものよね。座が静かになった。さえさんが前を向いた。私は縁側の外に座った。義母は座布団の上で背筋を伸ばして、みんなの方を見回した。「皆さん、聞いてちょうだい。この子ね、弁護士なんて使ってきたのよ」
宮下さんが小さく声を上げた。「弁護士さん」
「そう。家を出ていけって。この私に。何十年ここに住んでると思ってるの?」
義母は畳を平手で叩いた。「ここは私の家よ」
私は黙っていた。翔太が横から言葉をついだ。「母さんの言う通りだよ。さや、お前やりすぎだって」
やりすぎ。翔太は膝の上で拳を握った。「実家に弁護士から手紙を送り付けるとか、普通しないだろう」
「実家ですか?」
翔太の頬が動いた。答えなかった。そこで吉尾さんが茶碗を置いた。音が高くなった。「たき子さん、一つ聞かせてくれ」
「なによ、吉尾さん」
吉尾さんは義母の方へ体ごと向いた。「兄貴はな、7年前にこの家を売った。売った相手は誰だ?」
座の音が消えた。義母は湯飲みを持ち上げてゆっくり飲んだ。「お金を出してもらっただけでしょう」
「金を出して名前が移っとったら、それが売買だ」
義母は手のひらを振った。「そんな細かい話、どうだっていいのよ」
義母は笑って、私の方へ顎を向けた。「大体ね、この子はお金を出したのが偉いと思ってるの。でもね、この家を守ってきたのは私。掃除も庭もご近所付き合いも、全部私。あなた、何かした?」
私は答えた。「固定資産税と保険と修理の代金を払ってきました」
「お金の話ばっかり」
私は膝の上で手を重ねた。「はい。お金の話です」
義母は鼻で笑った。それから、その言葉を言った。「嫁に居場所なんてないわ」
座敷の空気が止まった。「この家に、あなたの居場所なんて最初からないの。息子の嫁っていうのはね、そういうものなのよ」
さえさんが「たき子さん」と止めようとした。義母は止まらなかった。「あなたね、夜の仕事をして昼間に寝て、家のことは何もしないで、それで奥さんの顔をしてきたのよ。近所の人だって、みんな知ってるわ」
みんな知ってる。その言い方が、詰まっていた何かに触れた。私は座敷を見た。宮下さんと義理の妹が目を伏せた。さえさんは湯飲みを持ったまま止まっていた。この人たちは、何を聞かされてきたのだろう。夜勤明けに眠るのは怠けているからだと聞かされ、家事をしないのは嫁が冷たいからだと聞かされ、家の修理は義母が苦労して工面していると聞かされてきたのだ。7年かけて作られた話の中に、私はいた。私が働いている間に、その話は町内を回っていた。
「お母さん」
私はそこで口を開いた。「私が夜勤の日、何時に家を出て何時に帰るか、ご存知ですか?」
義母は湯飲みを畳に置いた。「知らないわよ、そんなこと」
「勤務表に赤い印をつけていらっしゃいましたよね」
義母の目が泳いだ。それは一瞬だった。すぐに顎が上がった。「見たら悪いの?この家の張り紙でしょう」
この家の張り紙。冷蔵庫は7年前に私が買ったものだ。そこまでは言わなかった。私は鞄から封筒を出した。藤沢先生の名前で出した書面の写しだ。それを畳の上に置いて、指で少しだけ前へ滑らせた。「これは先週お送りしたものと同じ内容です」
「読んでないわよ、そんなもの」
義母は封筒に触れもしなかった。
「読んでいただかなくても構いません。ただ、この場に置いて行きます」
私は座敷の6人を順に見た。「家と土地の名義は7年前から私です。お父さんから正式に変えました。司法書士の先生が入っています」
宮下さんがさえさんの袖を引いた。さえさんが小さく頷いた。「2月の末までに退去のお願いをしています。それまでの生活のことでも、こちらでも考えます」
「出ていくわけないでしょう」
義母の声が高くなった。「私はここで死ぬの。あんたに何が分かるのよ」
翔太が立ち上がった。「おい、いい加減にしろよ。母さんが泣いてるだろう」
泣いてはいなかった。目は乾いていた。さえさんが立ち上がって、義母の背中に手を置いた。「たき子さん、さやさんの荷物、私は見たのよ。門の外に出てたわ」
座の音が消えた。
「あれはね」
義母が言いかけた。「片付けただけよ。あの子のものが多いから」
「箱3つよ」
さえさんの声は静かだったが、はっきりしていた。「片付けたものを門の外に出す家が、どこにあるの?」
義母は答えなかった。翔太も答えなかった。私は立ち上がって、土間で靴を履いた。その背中に義母が言った。「あんたなんか、この家に1円も入れてないくせに」
1円も入れていない。7年で1400万円を超えている。数字は手帳にある。ここで言い返せば、この座敷では言い争いになるだけだ。私は振り返らずに門を出た。背中で翔太の声がした。「行けよ。どうせすぐ戻ってくるんだから」
どうせすぐ戻ってくる。その言葉をこの1か月で何度聞いただろう。戻ってくると信じられる根拠があの2人には一つもない。それでも信じていられるのは、私がずっとそうしてきたからだ。断って断りきれずに、結局はやる。その7年を自分で終わらせるところだった。
坂を下り切ったところで、後ろから足音がした。吉尾さんだった。息を切らして追いかけてきていた。
「さやさん」
「はい」
吉尾さんは膝に手をついて顔を上げた。「わしはあんたに謝らにゃいかん。5年、何も見とらんかった」
「いいえ」
吉尾さんは首の後ろに手を当てた。「それとな」
吉尾さんは息を整えて、まっすぐ私を見た。「たき子さんが7年前に何をしとったか、あんた知らんだろう」
親族の集まりの翌日、翔太から電話が来た。藤沢先生を通してくださいと言ってあったが、そんなものは通じなかった。私は録音のボタンを押してから出た。
「なあ、売るってどういうことだよ」
「書面に書いてある通りです」
翔太は咳払いをした。「勝手に人の実家を売るなよ」
人の実家。私はその言い方についてしばらく考えた。「翔太さん、登記を見たことはありますか?」
「登記?」
翔太は本当に知らないような聞き返し方をした。
「土地と建物の持ち主が書いてある紙です。法務局で誰でも取れます」
「そんなもん、見るかよ」
私はもう一度言った。「見れば分かります。7年前から、土地も建物も持ち主は私です」
翔太は黙った。それから声の調子を変えた。「でも、元々は親父と母さんの家だろう」
「お父さんから私が正式に買いました。司法書士の先生が入って、3200万円をお支払いしています」
翔太は言い返した。「金は出したかもしれないけどさ」
「かもしれないではありません。出しました」
少しの間があった。「夫婦の金だろう」
それそこだ。私はノートを開いて、書いてある数字を読み上げた。読み上げながら、7年前の4月10日のことを思い出していた。司法書士の立花さんの事務所で、私は判を押した。義父が横で「ありがとう」と言って、義母は隣の部屋にいた。呼んでも出てこなかった。あの日、翔太は仕事だった。来られなかったのではない。来なかったのだ。私が「休みを合わせようか」と聞いたら、こう言った。「俺が言っても意味ないだろ。金出すのお前なんだから」
金を出すのはお前。あの日そう言った人が、7年後に半分だと言っている。
「頭金は1400万円。私が独身の時から積み立てていたお金です。口座も私の名義です」
「知らねえよ、そんなの」
私は次の行へ指を移した。「住宅ローンは1800万円。引き落としは私の口座から毎月6万8000円。7年間、一度も遅れていません」
「だから、それは家族のために」
「あなたの口座から引かれたことは、一度もありません」
電話の向こうで、誰かが何か言っていた。義母の声だった。「母さんも言ってるけど、離婚するなら財産は半分だろ。家だって半分は俺のだよ」
私は藤沢先生に聞いたことをそのまま伝えた。「結婚する前の私の貯金や相続で受け取ったお金から出した部分は、私のものとして扱われるのが原則だそうです」
翔太の声が食いついた。「原則って何だよ」
「結婚してから返した分については、争いになり得ると言われました」
「ほら見ろ」
「ですから、記録を残して順番を踏みます」
翔太が黙った。私は続けた。「争いになったら、あなたは何を出しますか?私は手帳と通帳の記録と登記の写しを出します」
返事はなかった。「あなたが出すものはありますか?」
電話が切れた。切れた後、私は録音を止めて日付を書いた。言い負かしたかったわけではない。ただ、この人と暮らした年月で、私は一度も数字で話をしてもらえなかった。「名義がどうこう」「家族なんだから」「細かいことを言うな」。全部、数字を避ける言い方だった。避けていた人が、離婚と聞いた途端に「半分だ」という。その軽さだけは、どうしても飲み込めなかった。
その夜のことは、後から吉尾夫さんに聞いた。吉尾夫さんは書面が届いた日から毎晩あの家に寄っていたのだそうだ。義母を一人にすると何をするか分からないと思ったからだと言っていた。その晩、義母が翔太に詰め寄った。「あんた、私の老後はどうなるの?」
「どうなるって?そんなの俺が知るかよ」
「あんたの嫁でしょう。あんたが言えば戻るわよ」
「戻らねえよ。弁護士まで立ててんだぞ」
「だから、あんたが謝りに行きなさいよ。土下座でも何でもして」
そこで翔太が切れたのだという。「なんで俺が土下座すんだよ。荷物出したのは母さんだろ?」
「あんたも賛成したじゃないの?」
「賛成なんかしてねえ」
「したわよ。日当たりのいい部屋、さんが使えばって言ったのはあんたよ」
言った。言わない。の話が30分続いた。吉尾夫さんは茶を飲みながら聞いていたという。最後に翔太がこう言った。「大体、母さんも金出せよ。年金あるだろ」
その一言で義母が黙った。「毎月いくら入ってんだよ」
「そんなこと、あんたに関係ないでしょ」
「関係あるだろう。家賃払わなきゃいけなくなるんだから」
そこへ吉尾さんが口を挟んだ。「たき子さん、兄貴が亡くなった時、あんたの手元にいくら残ったか、わしは知っとるよ」
座が静かになった。吉尾さんは義父の遺産の話し合いに、弟として立ち合っている。義父の預金と保険から、義母の手元に600万円ほどが渡ったのを見ている。「600万はあんたの金だ。誰も取らん。ただな」
吉尾さんは湯飲みを置いた。「その金があって、なんでさやさんに生活費まで出させとった」
義母は答えなかった。翔太が母の顔を見た。「600万?母さん、そんなに持ってんの?」
「私のお金よ」
「じゃあ、なんでいつも金がないって言ってたんだよ」
その質問に義母は答えなかった。代わりにこう言ったのだそうだ。「私のお金は私の老後のためのものよ。この家の生活費は、この家に住んでる人が出すものでしょう」
「じゃあ、母さんはこの家に住んでないのかよ」
翔太がそう言い返して、義母がまた黙った。吉尾さんはその時初めて、義母が本当に困った顔をしたと言っていた。
私はその話を電話で聞いていた。義母は「お金がない」と何度も言っていた。町内会費も法事の会費も私が立て替えた。生活費は月に8万円、私が置いてきた。年金は毎月11万円入っていた。手元には600万円あった。ないのではなかった。出す気がなかったのだ。私は自分の手帳をめくって、これまでの生活費を数え直した。月に8万で7年。672万円だ。義母の手元にある600万円と、ほとんど同じ額だった。つまり、義母が貯めていられた分だけ、私が出していた。そういう計算になる。腹が立つより先に、7年前の病室が浮かんだ。あの時、義母は「絶対にここを離れたくない」と泣いた。あの涙を、この時はまだ本物だと思っていた。それだけならまだ分かる。分からないのは、その人が「私を1円も入れていない」と言ったことだった。
電話の最後に、吉尾さんが言った。「さやさん、あの家のことを兄貴が紙にしたと言うたな」
「はい」
「あれをな、たき子さんも一部持っとるはずだ」
「持っているというのは」
「3人で判を押したなら、3部作る。兄貴はそういう人だ」
「お母さんは読んでいるでしょうか?」
「読んどらんな」
吉尾さんは断言した。「あの人はな、紙を読まん。読まん代わりに、都合よく覚えるんだ」
私は受話器を持ったまま天井を見た。義母は持っている。持っていて、読んでいない。あるいは読んで忘れている。そして、私は自分の一通がどこにあるかを、まだ確かめていなかった。
次の日から、翔太の連絡の中身が変わった。「売るな」から「いくらで売るのか」に変わった。その次には「売った金はどうなるのか」になった。最後にはこうなった。「なあ、あの家、俺に名義変えてくれないか?」
私はまだ答えなかった。答える前に、確かめなければならないものが一つあった。翔太の声から余裕が抜けていた。義母は黙り始めたけれど、この時点ではまだ何も終わっていない。終わっていないどころか、一番大事な1枚をまだ読んでいなかった。
確かめなければならないものというのは、あの茶封筒だった。11月19日の水曜、私は高給だったが病院へ行った。更衣室のロッカーを開けるためだけに行った。自分のロッカーの下の段に、布の手提げが入っている。4年前の冬に入れたきり、ほとんど触っていなかった。その冬というのは、義母が4回目に私の私物を紙袋にまとめた時期だ。あの人が私の部屋を勝手に開けるようになったのが、その前の年からだった。だから、私は家に置けないものをここへ移した。
手提げを出して床に置いた。中には、祖母の形見の指輪の箱、祖母から引き継いだアパートの権利の書類、銀行の届出印。それと、封筒。茶封筒があった。そこにあったのだ。義母が抜いたのでも、ダンボールに紛れたのでもない。私が自分で4年前にここへ入れていた。
私はロッカーの前に座り込んだまま、封筒を膝に乗せていた。この1か月、私はこれを義母に読まれたかもしれないと思って過ごしていた。更衣室には誰もいなかった。ロッカーの扉が半分開いたままで、鏡に自分の顔が映っていた。夜勤明けでもないのに、ひどい顔をしていた。1か月、私は何と戦っていたのだろう。玄関のダンボールとも、義母とも戦っていたが、一番長く戦っていたのは自分の記憶の曖昧さだった。書いておけば覚えていなくていい。私はそう言って何冊もの手帳をつけてきた。その私が、一番大事な一つだけを書いていなかった。封筒をどこに入れたか。それだけは、どこにも書いていなかった。思い出せないというのはこういうことだ。人の記憶は、疲れている時に作ったものほど残らない。
封筒の口を開けた。中身は2枚だった。1枚目は覚え書きだった。7年前に一度広げている。今度は広げずに、覚えている中身を頭の中でなぞった。この土地と建物は渡木さやの所有であること。渡と渡子は無償でこの家に住まわせてもらうこと。日付と3人の署名と判。立ち合い人の欄に立花裕子さんの名前。私は当時、この紙をありがたいと思わなかった。むしろ寂しかった。家族なのに、こんな紙を作るのかと。今になって、義父の考えが分かる。この人は口約束が大嫌いな人だった。
2枚目が、封をしたままの手紙だ。表に「困った時に」と書いてある。義父の字だ。裏には何もない。糊で止めてあって、その上から一本線が引いてある。開けたかどうかが分かるようにしてあった。線は切れていなかった。線が切れていないということは、7年間誰もこれを開けていないということだ。義母でもなく、翔太でもなく、私でもない。義父が糊をつけて線を引いた。そのままの形で、ここにある。
私は封筒を鞄に入れて、ロッカーを閉めた。その場では開けなかった。開けるなら、一人で泣かなくていい場所で開けたかった。病院を出てから、私は駅前の喫茶店に入って、電話を1本かけた。立花裕子さんの事務所は、駅の反対側にまだあった。7年ぶりだったが、名前を言うと覚えていてくれた。
「渡さん、桜坂のお宅の」
「はい。ご無沙汰しています」
立花さんは書類をめくる音をさせた。「お父様のこと、ご愁傷でした。お葬式には伺えず」
「いいえ」
私は事情を話した。玄関のこと、書面のこと、売却を考えていること。立花さんは静かに聞いていた。聞き終わってから、こう言った。「覚え書きはお手元にありますか?」
「あります。今、鞄に」
立花さんの声が事務的なものに戻った。「3作りました。お父様とお母様と、渡さやさんに1通ずつです」
「やはり、お母さんもお持ちなんですね」
私は声を落とした。
「お渡ししました。ご本人が受け取りの欄に判を押していらっしゃいます」
私はテーブルの上の封筒を見た。「立花さん、この覚え書きには『住ませてもらう』としか書いていないように思うのですが」
電話の向こうで間があった。「お手元のものは、何行ですか?」
私は封筒から覚え書きを出して数えた。「本文は5行です」
「5行です。そうです。5行目を読んでいただけますか?」
私は読んだ。5行目には、他の4行とは字の大きさが違う一文があった。印刷ではなく、手書きだった。義父の字だ。
「これは…」
声が出た。
「その一文は、契約の日にお父様がご自分で書かれたものです。私が止めました。こういうものは後で揉めますから、と」
「止めた」
私は繰り返した。
「はい。でも、お父様はこうおっしゃいました」
立花さんはその言葉をはっきり覚えていた。「揉めるとしたら、揉める理由があるからだ、と」
私は5行目をもう一度見た。何度読んでも、同じことが書いてあった。その一文をここに書き写す気には、まだなれなかった。書き写す前に、これを読める人に見せなければならないと思った。私は覚え書きを封筒に戻して、口を折った。指が冷たくなっていた。
「立花さん、この一文は法律の上で意味を持ちますか?」
「私は意味を持たせるつもりで書いていただきました。ただ、最終的にどう扱われるかは、私の口からは申し上げられません。弁護士の先生にご覧いただいてください」
「はい」
私はノートに要点を書いた。「渡さん」
立花さんの声の調子が変わった。「お父様はあの日、もう一つ何かをお渡しになりませんでしたか?」
「渡されました。封をした手紙です」
向こうで息を吸う音がした。「まだお読みでない」
「読んでいません」
立花さんは黙った。「そうですか」
立花さんはそれ以上は何も言わなかった。ただ、最後にこう付け足した。「お読みになるなら、お一人の時になさってください」
私はもう一つだけ聞いた。「立花さん、7年前、お母さんはあの契約に反対していませんでしたか?」
今度の間はさっきよりも長かった。「私の口から申し上げていいことと、いけないことがあります」
「はい」
「ただ、これだけは申し上げます。お父様はあの契約をとても急いでいらっしゃいました」
「急いで」
「はい。ご入院の前に済ませたい、と。理由は、ご本人がお手紙に書いていらっしゃると思います」
私は封筒に手を置いた。厚みはほとんどない。紙1枚か2枚だ。
「読みます」
「はい。今日はありがとうございました」
「渡さん、一つだけ」
立花さんは最後に言った。「私は仕事柄、色々なご家族を見ます。ご自分の住む家を身内から買われる方は、多くありません。しかも、値切らずに」
「お父さんに『値切るな』と言われたので」
「そうではなく」
立花さんの声が少し柔らかくなった。「あなたが値切らなかったんです」
私は礼を言って、電話を切った。喫茶店の窓の外を、下校の子供たちが通っていった。私は冷めたコーヒーを飲んで、鞄の中の封筒に手を当てた。7年前のあの日、義父はもう1枚を書いていた。私はその1枚を読んでいなかった。
11月21日の金曜、私は藤沢先生の事務所へ行った。市役所の相談ではなく、正式に依頼をした後だった。事務所は駅前の雑居ビルの3階にあって、机の上には相変わらず何も置いていなかった。私は封筒を出して、覚え書きを広げた。藤沢先生はメガネをかけて、上から順に読んだ。1行目、2行目、3行目、4行目、5行目のところで指が止まった。
そこにはこう書いてあった。「たき子がさやさんに無礼を書き、この家を自分のものとして扱った時は、この約束は終わる」
印刷ではない。義父の字だ。他の行より大きくて、最後の「終わる」の字が紙の端に寄っていた。書き足したから、場所が足りなかったのだ。約束というのは、義父母がこの家に無償で住み続けて良いという、前の行までのことだ。それが終わると、義父は書いていた。
藤沢先生はメガネを外した。「これは、お父様が」
私は頷いた。「その日に、ご自分で書き足したそうです。立ち合いの司法書士、立花さんが止めたけれど、書いたと。3人の判は4行目の下に押してあります。書き足した後の余白にも、もう一度」
藤沢先生はもう一度メガネをかけて、判の位置を確かめた。「お母様も同じものをお持ちなんですね」
「受け取りの欄に判を押していると聞きました」
先生は椅子の背に凭れた。「渡さん、まず期待しすぎないでいただきたいので、順番に申し上げます」
「はい」
先生は指を立てた。「この一文があるから、明日お母様を退去させられる。ということにはなりません」
「はい」
「ただ」
先生は指で5行目をなぞった。「無償で住んでいただく約束が、どういう前提で成り立っていたのか。それを書面で示すことができます。争いになった時に、事情として大きく見られる可能性はあります」
「可能性?」
私は繰り返した。
「そうです。私は『必ず』とは申し上げません」
分かっていた。この人は「必ず」と言わない人だ。「反対に、お母様の側から言えることもあります。40年近く住んでいること、ご高齢であること、転居先の当てがないこと。その辺りは必ず出てきます」
「出てきたら、どうなりますか?」
「猶予を伸ばす話になります。3か月が4か月になり、5か月になるかもしれません」
「伸びるのは構いません」
私は自分でも意外なほど、すんなりそう言えた。「私は追い出したいのではありません。あの家を持ち続ける理由が、もうないだけです」
先生はペンを置いて、私の顔を見た。「今のお言葉は書面にかけます。感情ではなく、理由になっていますから」
「もう一つ。これは弁護士としてではなく、人として申し上げます」
先生は5行目を見たままだった。「お父様は、こうなることを知っていたんですね」
私は答えられなかった。知っていた。7年前、義父はもう知っていた。私が夜勤明けに玄関でダンボールを見ることまでは知らなくても、そういう日が来ることは知っていた。
「先生、もう1枚あります」
私は封筒からもう一つを出した。封のしてある手紙だ。糊の上の線は切れていない。
「開けてもよろしいですか?」
「もちろんです。あなた宛てのものですから」
私は鞄からハサミを出さなかった。指で端を破った。義父の引いた線を切りたくなかった。中には便箋が2枚。義父の字だった。震えている。入院の前に書いたのだと、字の乱れで分かった。声に出して読んだ。読まないと、目が滑って進まなかった。
「さやさんへ。この手紙を読むということは、あんたが困っているということだと思います。まず謝ります」
そこで一度息をついた。「この家を売ろうと言ったのはわしです。たき子が泣いて反対して、あんたが買ってくれました。あの日から、わしはずっと言えずにいたことがあります。たき子はこの家を離れたくないと言いましたが、あれは本当ではありません」
手が止まった。「わしが入院する少し前に、たき子は不動産屋を3件回っています。わしに黙って、この家をいくらで売れるか聞いて回っていました。わしはそのうちの一件に古い付き合いの者がいて、そこから聞きました。たき子が欲しかったのはこの家ではなく、この家の金です。家を売って駅前の新しい部屋に移って、残りは手元に置くつもりでした。わしが死んだ後の話として、そうしていたそうです。わしはそれを知って決めました。この家は、金に変えられない形にしておかなければいけないと」
便箋の1枚目が終わった。私は2枚目をめくった。めくる前に、瓶を持つ指に力が入った。7年前の病室で、義父は「この家を維持するのはもう厳しい」と言った。あの言い方は、家の話をしているようで、家の話ではなかったのだ。維持できないのは家ではない。維持できないのは、たき子とのこの暮らしの方だった。その判断を、義父はたった1人でしていた。40年連れ添った自分の妻について、誰にも相談せずに決めていた。
「さやさん、あんたに買ってもらったのは、あんたが金持ちだからではありません。あんたが値切らなかったからです。値切らないというのは、相手の顔を立てるということです。たき子はあんたのその性格をよく知っています。だから、あんたに甘えます。わしが死んだら、多分もっと甘えます。覚え書きに一文足しました。司法書士さんには嫌がられましたが、書きました。たき子があんたに無礼を書いた時は、あの約束は終わりです。遠慮することはありません。あんたはこの家の持ち主です。持ち主が自分の家で小さくなる必要はありません。わしはたき子を悪く言いたいのではありません。あれはああいう人で、わしが40年直せなかったのだから、あんたに直せるはずがない。だから、直そうとせずに離れなさい」
最後の行はこうだった。「さやさん、この家はいつでも売っていい。わしはそれで構いません。あんたが夜勤明けに安心して眠れる家に住みなさい」
読み終わって、私は便箋を膝の上に置いた。事務所の中は静かだった。壁の時計の音がしていた。7年前、私はこの家はもう誰にも取り上げられないと思って安心した。違った。義父が守ろうとしたのは、家ではない。私だった。
藤沢先生が湯飲みを私の前に置いた。「渡さん」
「はい」
先生は自分の湯飲みには手をつけなかった。「これは、勝つための紙ではありませんね」
先生は便箋の方を見た。「お父様があなたに謝るために書いた紙です」
私は頷いた。頷いてから、涙が落ちた。この件で泣いたのは、その時だけだった。泣き終わってから、私は先生に聞いた。「先生、この手紙は証拠になりますか?」
「なりません。個人の手紙ですから、そのままでは使えません」
私は膝の上で手を組んだ。「そうですか」
先生は言葉を続けた。「ただ、覚え書きの5行目は別です。あれは3人が署名した書面の一部です」
先生は書類を揃えた。「予定通り進めましょう。2月末の退去のお願いは、そのまま生かします。年内に買主が決まれば、その後の話し合いも早くなります」
「はい」
「お母様に、この5行目のことをお伝えしますか?」
私はしばらく考えた。「伝えてください。あの人は、自分の分の覚え書きを読んでいないと思います」
「分かりました。書面でお送りします」
事務所を出る前に、私は一つ決めた。売る。それまで私は、売る準備をしていただけだった。査定を取り、媒介の契約を結び、書面を出した。それでも心のどこかで、2人が謝ってくれれば話は変わると思っていた。その気持ちが、5行目と手紙で消えた。義父が守ろうとしたのは家ではなく私で、その私がその家に潰されかけていた。持ち続ける理由がない。
桑原さんに電話をした。「桑原さん、値段を下げてください。年内に決めたいんです」
「決心なさいましたね」
「はい」
「では、5680万円まで一度下げましょう。来週の土日に、内見を2件入れられます」
事務所を出ると、外はもう暗かった。私は駅の階段の途中で立ち止まって、鞄の中の便箋にもう一度手を当てた。安心して眠れる家に住みなさい。7年前に書かれたその一文が、その日、私の予定を全部書き換えた。
藤沢先生からの2通目の書面は、11月26日の水曜に届いた。中身は短い。覚え書きの5行目を写して、その1行を含む書面が3通作られていること。義母もその一通を受け取っていること。それだけが書いてあった。
その日の夕方、義母は吉尾夫さんに電話をかけた。「吉尾さん、うちの人が変な紙を作ってたって、本当なの?」
吉尾さんは受話器を持ったまま笑ったそうだ。「あんた、自分の判が押してある紙だろう。押した覚えはあるだろうが」
「そんな昔のこと、覚えてないわよ」
吉尾さんは受話器を持ち直した。「読まんかったのか」
「読んだわよ。読んだけど、そんなこと書いてなかったわ」
「書いてある。しかも、書き足した5行目の下の余白にも、あんたの判が押してある」
その夜、吉尾さんは家へ行った。私は言っていない。後で聞いた話だ。座敷で、義母は自分の分の覚え書きを出してきたという。仏壇の引き出しにしまってあったそうだ。吉尾夫さんは老眼鏡をかけて、5行目を声に出して読んだ。「たき子がさやさんに無礼を書き、この家を自分のものとして扱った時は、この約束は終わる」
義母は最後まで聞いてから、こう言った。「そんなの、あの人が勝手に書いたんでしょう」
「勝手にかけん。あんたも判を押しとる」
義母は紙の端を指で抑えた。「押せって言われたから押しただけよ」
「中身を読まずにか」
義母は答えなかった。翔太が横で紙を覗き込んだという。「母さん、これ、親父の字だよね」
「そうよ」
翔太は紙を裏返して、また表に戻した。「なんで親父、こんなこと書いたの?」
その質問に義母は答えなかった。答えの半分は義父の手紙で知っていた。残りの半分は、その週の終わりに分かった。その前にもう一つ動きがあった。藤沢先生が司法書士の立花さんに、当時の経緯を書面で出してもらったのだ。立花さんが書いたのは箇条書きだけだった。7年前の4月10日に所有権の移転登記を行ったこと。同日、3通の覚え書きを作成し、当事者3名の署名と押印を得たこと。5行目の一文は、渡構造士が実費で追記したものであること。評価は一つも書いていない。事実だけの書面だった。「感情ではなく、当時の手続きを第三者が記録した書面です。こういう資料は大きな意味があります」
藤沢先生はそう言った。
土曜の午後、私は朝日大不動産で内見の立ち合いをした。立ち合いと言っても、家には入らない。私は事務所で待って、案内は桑原さんがした。義母には藤沢先生から日を通知してもらってある。桑原さんが戻ってきて言った。「お母様は、ずっと縁側にいらっしゃいました」
「何か言われましたか?」
桑原さんは鞄を椅子に置いた。「お客様には何も。私には、『ここは自分の家だから、よろしく』と」
その日、義母は内見の客に茶を出したそうだ。まるで自分が売り主のように。買主の候補は2組で、どちらも家族連れだった。案内が終わった後、桑原さんが茶を出してくれて、それから言いにくそうにした。「渡さん、一つお伝えしておくべきことがあります」
「はい」
桑原さんは湯飲みを両手で包んだ。「実は、今年の9月にお母様が当社にいらっしゃっています」
私は湯飲みを置いた。「お母さんがですか?」
「はい。桜坂の家がいくらで売れるか知りたいと。ご本人は所有者だとおっしゃっていました」
「所有者?」
「ええ。ですが、うちには春に渡木さや様のご依頼で査定した記録があります。所有者のお名前が違いますので、正式な査定書はお出ししていません」
「何とおっしゃっていましたか?」
「息子に譲るつもりだと」
「ご所有者様であるお客様には、お伝えしておくべきだと思いました」
桑原さんは言葉を選んだ。嫁が出ていけば、この家は自分たちのものになる。そういうことを、9月に。リフォームの見積もりを取ったのと同じ月だ。私の部屋の寸法を測らせて、私の名前で見積もりを出させて、その同じ月に家の値段を聞きに入っていた。7年前と同じだ。親族の集まりの帰り道に、吉尾夫さんが言いかけたのはこのことだったのだ。義父が入院する少し前、義母は不動産屋を3件回った。夫に黙って、家の値段を聞いて回った。義父はそれを知って、家を私に売った。そして7年後、同じ人が同じことをしている。違うのは、今度は止める人がいないことだった。義父はもういない。だから、義母は次に邪魔なものを片付けようとした。それが、玄関のダンボールだった。
その日の夜、藤井く子さんから電話が来た。前に「今は言わない」と言った人だ。「さやさん、今なら言ってもいいかしら」
「はい」
「たき子さんね、ずっと前からあなたのことを近所で話してたのよ」
「聞いています」
「聞いてるのは多分半分よ」
藤井さんは一つずつ話してくれた。夜遊びみたいな時間の仕事をしている。昼まで寝ている。家のことは何もしない。週末にご飯も作らない。それだけならまだ悪口だ。問題はその先だった。「あの家はね、たき子さんが息子さんに残すんだって言ってたの。ずっと前から。残す。そう、嫁は他人だから、いずれ出て行ってもらうって。組長さんの奥さんにも、同じことを言ってたわ」
私はカレンダーを見た。残すというためには、自分のものでなければならない。義母は近所に対して、この家が自分のものだという前提で話し続けていた。だから、あの朝あの人は本気だったのだ。嘘をついていたのではない。自分の話を、自分で信じきっていた。
「藤井さん、どうして今まで私に言わなかったんですか?」
「言えば、あなたあの家で暮らせなくなるでしょう」
藤井さんの声は静かだった。「言わない方が優しいと思ってたの。でも、違ったわね。ごめんなさい」
「いいえ」
「あの朝ね、私、門の前のあなたを見てたのよ。箱を持って坂を降りていくの。追いかければよかった」
私はしばらく何も言えなかった。言えば、あの家で暮らせなくなる。藤井さんはそう言った。その通りだった。もし3年前にこの話を聞いていたら、私は義母と正面からぶつかっていた。ぶつかって、負けていただろう。あの頃の私は、義父への恩と、7年前に自分で言った言葉に縛られていた。「私が買い取ります」。あの一言が、私をあの家に留めた。留まったこと自体は、間違いではなかったと思う。義父の最後の2年半は、あの家で過ぎた。縁側から「寝なさい」と言ってくれた人は、住み慣れた家で最後の日々を過ごせた。間違いだったのは、義父がなくなった後も、同じ場所にい続けたことだ。
私はずっと一人だと思っていた。実際には、言えずにいた人が2人いた。藤井さんと吉尾さんだ。言えずにいた理由は、2人とも同じだった。私があの家で暮らしていけなくなるからだ。つまり、この町の人たちは、あの家が私にとってどういう場所なのか、私が思っていたよりずっと正確に見ていた人たちだった。
翌日、私は翔太に一度だけ電話をかけた。売却の話ではない。確かめたいことが一つあった。「翔太さん、お母さんがこの家を売って現金にしようとしていたことは、ご存知でしたか?」
「は?売りたがってたのはお前だろ?」
「7年前です。お父さんが入院する前」
向こうが黙った。「何の話だよ」
「知らなかったんですね」
「知るわけないだろう。そんな昔の」
本当に何も聞かされていなかったのだ。翔太は母親の味方をしてきたが、母親の考えを一度も聞いたことがなかった。ただ、母親の言うことを繰り返していただけだった。それは、私が7年間「名義がどうこう言うな」と言われ続けたのと、全く同じことだった。翔太は考えたことがない。母が言うから正しい。妻が言うから細かい。それだけで、長い年月が過ぎた。
「翔太さん、あなたはこの家がいくらだったか知っていますか?」
「3000いくらだろう?」
「3200万円です」
「だから、なんだよ」
「何でもありません。ありがとうございました」
私は電話を切った。
翌日、藤沢先生から連絡が来た。「お母様の側から、退去の期限を伸ばして欲しいという申し出がありました」
「どのくらいですか?」
「3月末まで、と」
「退去のお願いは2月末です。そこは動かせません。そうお伝えしました」
「すると、次にこうおっしゃったそうです」
先生は口ごもった。「息子に家を買わせるから、売るのをやめてほしい、と」
翔太に5000万円を超える家を買う金はない。義母もそれは知っているはずだった。それでも言うのだ。言えばなんとかなると思っている。7年間、それで通ってきたからだ。私は電話口で答えた。「買っていただけるなら、考えます。金額は、売り出しと同じで結構です。値引きはしません」
先生は「承知しました」と言って、その通りに伝えた。返事はその日のうちに来た。「無理に決まってるだろ」という一言だけだった。私を玄関から出したあの朝は、思いつきではなかった。7年前から続いていた話の途中の1日でしかなかった。
12月13日の土曜、売買契約を結んだ。買主は、小学生の子供が2人いる40代の夫婦だった。駅から近くが良く、庭に木が植えられるところを探していたという。成約の価格は5630万円。引き渡しは2月27日と決まった。契約の席で、買主のご主人が私に聞いた。「今、お住まいの方がいらっしゃるんですよね」
「はい。義理の母です。引き渡しまでに退去していただきます」
ご主人は奥さんと目を合わせた。「大丈夫ですか?」
私は答える前に桑原さんを見た。桑原さんが引き取ってくれた。「弁護士の先生が入っておられます。手続きは順番通りに進んでいます」
それが一番正確な答えだった。売買代金から住宅ローンの残り1390万円を返して抵当権を外す。仲介の手数料などで240万円が出る。私の手元に残るのは4000万円だ。3200万円で買った家が4000万円になって戻ってくる。得をしたとは思わなかった。私があの家に入れた金は、生活費と返済と税金と修理代を足せば1400万円を超える。差し引きすれば、増えたのは家の値段の方だけだ。数字はそういう意味では嘘をつかない。
年が開けて1月16日の金曜、藤沢先生の事務所で話し合いの場が持たれた。出席したのは私と藤沢先生。向こうは翔太と義母。それに吉尾夫さんが立ち合いで入った。義母はその日、一番いい服を着てきた。
「私は出ていかないわよ」
座って最初の一言がそれだった。藤沢先生は静かに書類を配った。「本日は退去の件と、その後の生活のご相談です。まず、確認させていただきます」
先生は覚え書きを机の中央に置いた。「この書面の5行目をお読みになりましたか?」
義母は目を落として、すぐに上げた。「読みました。でも、あの人が勝手に書いたんです」
「判はご本人のものですね」
義母は膝の上でハンカチを握った。「押しただけです」
「では、7年前のご記憶を伺います。この家をご主人が売られた時、代金はどなたに入りましたか?」
義母が黙った。「3200万円は、お2人の口座に入っています。そのうち1150万円で当時の住宅ローンを完済されています。残りは、ご主人の治療と介護に使われました」
先生は淡々と続けた。「つまり、この家はすでに一度お金に変わっています。変わったお金で、お2人の借金が片付き、ご主人の治療ができました」
義母は答えなかった。「その上で、無償で住み続けていただいてきました。7年です」
そこで翔太が口を挟んだ。「じゃあ、やっぱり俺に名義を移してくれよ」
「この前は金の話しかしなかっただろう。なぜですか?」
私が聞いた。
「俺の実家だから」
翔太は私を見ずに言った。私は翔太の方を向いて、前と同じ答えを返した。「買っていただけるなら、考えます」
「はあ」
「5630万円です。すでに買主の方と契約を結んでいますので、それを解約する日が戻ります」
翔太が黙った。藤沢先生が付け足した。「解約となれば、買主様への違約金が発生します。今からですと、およそ500万円です」
「そんな金、あるわけないだろう」
「はい。ですから、この話はここまでです」
その言い方には皮肉が一つも入っていなかった。だからこそ、聞いた。義母が身を乗り出した。「あんたね、私を追い出して平気なの?この年で、どこへ行けって言うの?」
私は義母の言葉を短く言い直した。「追い出すなんてひどい、ということですか?」
「そうよ」
私は膝の上のノートを閉じた。「お母さん、私を追い出したのは、どなたでしたっけ?」
義母の口が止まった。「10月17日の朝10時です。夜勤明けで帰ったら、私の荷物が玄関に出ていました。ダンボール3箱です。洋服も本も水筒も入っていました。それは、出ていけと言われました。嫁に居場所なんてない、とも言われました」
座敷ではない。事務所の白い部屋だ。義母の声だけがよく響いた。「あれは、ちょっと動かしただけよ」
「箱に詰めて玄関に出すことが、動かしただけになるんですね」
義母は答えなかった。私は続けた。この一言だけは、7年分の返事として言うと決めていた。「居場所というのは、お母さんにいただくものだと思っていました」
義母の目が動いた。「置かせてもらって、置いてもらった場所で、小さくなっていました。でも、違いました」
私は覚え書きの5行目を指した。「あの家は、最初から私の場所でした。誰も、何も言わなかった」
翔太は机の木目を見ていた。最初に動いたのは吉尾夫さんだった。椅子を鳴らして立ち上がり、義母の方へ体を向けた。「たき子さん、もうやめろ」
「吉尾さん」
「兄貴の字を読んだろう。あの人が、あんたのことを何と書いたか」
「私は何も悪いことなんて」
「わしも同じだ。5年、何も見とらんかった」
吉尾さんは頭を下げた。義母ではなく、私に。「さやさん、すまなかった」
義母が吉尾さんの袖を掴んだ。掴んで、離した。それきり、何も言わなくなった。義母がその後言った言葉は、今でも覚えている。「あの家を売らなければ、こんなことにはならなかったのよ」
藤沢先生が何か言おうとした。私が手で止めた。「そうでしょうか」
「そうよ。あんたが売るなんて言い出すから」
「お母さん、私が売ると言ったのは11月です」
私は手帳を開いた。「日付は全部そこにある。荷物を玄関に出されたのは10月17日です。『文句があるなら今すぐ出ていけ』と言われたのも、その日です。それは、私はそう言われたので、出ただけです」
義母の唇が動いた。声は出なかった。長い間、私はこの人の言葉に返事をしてこなかった。返事をしなかったから、この人は自分の言葉が何をしたのかを、一度も見ずに済んだ。その日は、済ませることができなかった。
そこから先は、手続きの話になった。藤沢先生が住まいの候補を3つ出した。同じ町内の2階建てのアパート、駅の反対側のマンション、バス通り沿いの1階の賃貸。どれも今の家より狭い。「引っ越しの費用について、こちらから提案があります」
先生が私を見た。私は頷いて、義母の方へ向き直った。「30万円までは、私が出します」
義母が鼻で笑った。「たったそれだけ」
「はい。それだけです」
私は義母の顔を見て言った。「お母さんの老後のお金は、お母さんがお持ちです。私が出すのは、引っ越しの分だけです」
義母は何も言い返さなかった。翔太が、母親の顔を見ずに小さく言った。「その30万は、もらっとくよ」
退去の日は2月25日に決まった。引き渡しの2日前だ。2月25日、私はその場に行かなかった。行く必要がなかった。藤沢先生と桑原さんが立ち合い、業者が荷物を運び、鍵が返された。空になった家の写真が、その日の夕方に届いた。畳の上に何もない部屋が並んでいた。和室の写真もあった。物置きと呼ばれていた部屋だ。その写真を一度だけ見て、私は画面を閉じた。
2月27日の金曜、決済の日。銀行の一室で、買主の方と並んで座った。司法書士が書類を確かめ、ローンが一括で返され、抵当権が外れた。私の名前が登記から消えて、買主の名前が入った。桑原さんが「おめでとうございます」と言い、私は「ありがとうございました」と答えた。買主の奥さんが鍵を受け取りながら、私に聞いた。「あの庭の隅に、木を抜いた跡がありましたよね」
「はい。サザンカか何かでしょうか」
「根が少し残っていて。お父さんが育てていたサザンカです」
奥さんは考えてから言った。「同じものを植えてもいいですか?」
私は返事するのに時間がかかった。「是非」
その一言で、その家のことは終わりでいいと思えた。
帰りに、私はもう一つ手続きをした。祖母から引き継いだアパートの藤田荘を、売りに出すことにしたのだ。築40年を超えていて、屋根も外壁も直す時期に来ていた。家賃で持ち続けることはできたが、私はそれをやめた。理由は2つある。夜勤をしながら建物を2つ抱えるのは無理だということ。もう一つは、祖母が私に残したのは建物ではなく、選べる余地の方だったと思ったことだ。桑原さんに相談すると、こう言われた。「今の相場なら7000万円前後で動きます。ただ、売った値段から買った時の値段を引いた儲けには、譲渡所得税という税金がかかります。祖母様からお引き継ぎになった建物ですので、それがいくらになるかは私の口からは申し上げられません。付き合いのある税理士の先生をご紹介します」
「それだけ動くなら」
私が言うと、桑原さんは頷いた。「ご自分の家は、ご自分の名前で買いましょう」
後日、紹介された税理士の先生に、祖母からの相続の経緯と手元の書類を見てもらった。仲介の手数料と登記の費用。それに譲渡の税金を引いて、手元に残るのは6200万円ほどだという計算だった。自分の名前で買う。7年前にも、私は同じことをした。違うのは、今度は誰かの家を買い取るのではないことだった。
決済を終えたその日の帰り、廊下で義母と会った。翔太が義母を連れて、口座の住所変更に来ていたらしい。翔太は手続きの控えの入った書類袋を抱えていた。すれ違う時に、義母が立ち止まった。
「さやさん」
名前を呼ばれた。7年で初めてだった。「私が悪かったなんて、思ってないから」
「はい」
「思ってないけど」
義母はそこで言葉を切って、廊下の先を見た。「あんた、あの家で一度も文句を言わなかったわね」
私は答えなかった。言わなかったのではない。言っても届かなかっただけだ。義母は「じゃあ」と言って、翔太と歩いていった。その背中は、思っていたよりずっと小さかった。
外へ出ると、春の風が冷たかった。吉尾さんが銀行の前で待っていた。私が出てくるまで、ずっと立って待っていたらしい。
「終わったか?」
「終わりました」
「そうか」
吉尾さんはそれだけ言って、コートの襟を直した。「兄貴の墓に、報告をしておく」
「私も行きます」
「いや」
吉尾さんは首を振った。「あんたはもう、渡の墓に線香を立てんでいい。兄貴も、そう思っとる」
私は頭を下げた。深く下げた。その日から、私は渡の家の人間ではなくなる準備を始めた。苗字が変わるより先に、荷物の置き場所の方が変わった。自分のものを、自分の決めた場所に置ける暮らしが、7年ぶりに戻ってこようとしていた。
離婚が成立したのは3月の下旬だった。財産については、婚前の貯蓄や相続財産と、結婚後に形成した財産を分けて整理し、双方が合意した。土下座も慰謝料の取り立てもなく、終わった。私は旧姓の原田に戻った。名札を作り直した日、大久保師長が「原田さん」と呼び、2人で笑った。
元夫と元義母は、駅の反対側のアパートへ移った。家賃11万5000円、管理費8000円の2部屋だ。そこから2人は、住む金を自分で払い始めた。2か月ほどして、吉尾夫さんから電話が来た。「たき子さんが、狭い狭い言うとる」
「そうですか」
吉尾さんは笑いを含んだ声だった。「翔太は、『俺の給料じゃこれが限界だ』となっとった。2人で光熱費の払い方で揉めとるらしい」
7年間、あの家の住まいの費用はほとんど私が出していた。2人はそれを当たり前の背景だと思っていたのだろう。私は何もしていない。ただ、いなくなっただけだ。
元義母は、近所付き合いも変わった。前の町内では自分の家の話ばかりしていたのに、新しい場所では誰とも話さないという。「話す材料がなくなったんだ」と、吉尾さんは言った。あの人の話は、いつもあの家が土台だった。
夏の初めに、藤井く子さんからはがきが来た。はがきにはこうあった。「向いの家に小さい子が2人来ました。庭に木が植わりました。あなたが元気でいるといいです」
移った先の住所は、藤井さんにだけ知らせてあった。私はそのはがきを、靴箱の上に立てておいた。
6月に、元夫から連絡が来た。5月に私が家を買ったことを、共通の知人から聞いたらしい。「母とは別に住むから、やり直せないかな」
「無理です」
元夫が黙った。「そういう問題じゃなくてさ」
「私にとっては、そういう問題です」
私は言った。「私の家で、私に出ていけと言った人とは、暮らせません」
それきり、連絡は来ていない。
その家へ移ったのは、5月の連休明けだった。病院から車で10分の、桜台の高台にある。部屋が4つあり、機械の警備が入っている。値段は2億円。現金で買ったわけではない。積み立てと運用が4400万円。祖母の相続の残りが2300万円。あの家の売却で4000万円。藤田荘の売却で6200万円。合わせて1億6900万円になった。そのうち1億500万円を頭金に入れた。800万円は諸費用に、600万円は手元に残した。足りない4500万円は住宅ローンを組んだ。35年で、月々の返済は13万3000円だ。
13年働いて、独身の頃から給料の半分に手をつけずに来た。祖母が残してくれたものも、暮らしのために崩したことはなかった。それが全部だ。豪邸に住みたかったわけではない。夜勤明けに帰って、誰にも何も言われずに眠れる家が欲しかった。
転職はしなかった。同じ病棟で、同じように夜勤に入っている。勤務表の夜の欄に、赤い印をつける人はいない。去年の秋、大久保師長が休憩室で言った。「桜台の上でしょ?私、あそこがいいって言ったのよね」
「言いました」
師長は紙コップを持ち上げた。「見る目があるわ、私」
師長が笑い、私も笑った。あの人が「一人で考えないこと」と言ってくれなければ、私は今も坂の上の家で、掃除機の音を聞きながら目を閉じていたと思う。
引っ越した翌年の10月。その日も夜勤明けだった。9時過ぎに申し送りを終えて、更衣室で着替えて、車で坂を上がった。玄関を開けたのは朝10時ちょうどだった。静かなリビングに、朝の光が入っている。読みかけの本は、私が置いた場所にある。鞄も水筒も化粧品も、全部私が置いた場所にある。誰も玄関に立っていない。誰も、私が帰る時間を数えていない。
私は靴を脱いで、カーテンを引いて、布団に入った。4時間、誰にも起こされずに眠った。起きたら2時過ぎで、洗濯機を回して、庭に出た。去年の秋に植えたサザンカが、まだ小さいままそこにある。買主の奥さんが同じ木を植えると言ったのを聞いて、私も1本買った。義父が育てたものと同じ種類だ。花が咲くのは、あと2年か3年先だろう。咲く日も、私はこの家にいる。
あの日、私は自分の荷物を玄関に出されました。でも、追い出されたとは思っていません。もういらない場所から出るきっかけをもらっただけです。義父が7年前に書いてくれた手紙は、今も手元にあります。あの家では、私が一番物を置く場所を持っていませんでした。今は、家中のどこにでも置けます。そして、義母が息子に残すと言い続けたあの家は、私の名前で、予定通り売れました。



