「死ぬならうちの家に入ってからにしろ」 真冬の公園のベンチで、凍えていた14歳の俺に、見知らぬ年寄りがそう言った。親戚に追い出され、3日何も食べず、もう死のうと思っていた。そんな俺を、その夫婦は湯と飯で温めてくれた。名前も聞かず、事情も聞かず、ただ「金なんかいらん。まずあったまっていけ」と。…

「死ぬならうちの家に入ってからにしろ」 真冬の公園のベンチで、凍えていた14歳の俺に、見知らぬ年寄りがそう言った。親戚に追い出され、3日何も食べず、もう死のうと思っていた。そんな俺を、その夫婦は湯と飯で温めてくれた。名前も聞かず、事情も聞かず、ただ「金なんかいらん。まずあったまっていけ」と。...

「死ぬならうちの家に入ってからにしろ。」

真冬の公園のベンチで、俺はその声を聞いた。がっしりした体つきの年寄りが、作業着の上にヨレたドテラを羽織って、白い息を吐きながら俺の顔を覗き込んでいた。体からは、ほんのり薪の煙と湯の匂いがした。

俺は14歳だった。3日ほどまともに何も食べていなかった。指の感覚はとっくになくなっていて、まぶたを開けているのも辛かった。親戚の家を追い出されて、行く当てなんてどこにもなかった。誰にも必要とされていない。そう思いながら、俺はただ冷たいベンチの上で固まっていた。

だから、その年寄りが差し出してきた大きな手を、俺は最初うまく理解できなかった。世の中の大人はみんな、俺を気味悪がって遠ざけるものだと、そう思い込んでいたからだ。

けれど、その手は暖かかった。

凍えきった俺の腕を、そのゴツゴツした手がしっかりと掴んだ。何十年も家を沸かし続けてきた火のぬくもりが染み込んだ手だった。

この夜が、凍えきっていた俺の人生を丸ごと変えることになるとは、その時の俺はまだ知らなかった。

俺の名前は風リタ。34歳。株式会社ユモリの代表取締役をしている。戦闘や介護施設のために、できるだけ少ない燃料でお湯を沸かす。そういう急闘の仕組みを作る会社だ。おかげ様で、今では従業員が200人を超えて、年商は80億円になった。全国のあちこちの風呂屋や施設で、うちのが湯気を上げている。

子供の頃から、俺は少し変わっていた。一度目にした数字を、そっくりそのまま覚えていられた。店先の寝札も、電車の時刻表も、新聞に並んだ細かい数字も、目に入れば頭の中の写真みたいに残った。大人の会話の中の辻褄の合わないところにも、すぐ気づいた。便利といえば便利だが、そのせいで俺は大抵の大人から薄気味悪がられて育った。

そんな俺が、なぜ湯を沸かす仕事を選んだのか。それを話すには、あの真冬の夜から始めなければならない。俺が14歳で、たった1人になったあの冬の話だ。今の俺があるのは、あの夜俺を拾ってくれた2人の年寄りのおかげなのだから。

俺の両親は、変わり者の息子を、変わり者のまま丸ごと受け止めてくれる、そういう人たちだった。父は町の小さな会計事務所で働いていた。母は近所のスーパーでパートをしていた。裕福ではなかったが、俺は毎日そこそこ幸せだった。

俺の頭が少しばかり変わっていると分かったのは、小学校に上がる前だ。父が持ち帰った調簿を覗き込んで、そこに並んだ数字を俺が全部空で言ってみせた。父は目を丸くして、それから声を上げて笑った。

「大したもんだな。父さんの仕事よりよっぽど早いぞ。」

父は俺の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でた。俺はその手が好きだった。

けれど、学校ではそううまくはいかなかった。友達がまだ覚えていない服を、俺はとっくに全部言えた。先生が黒板に書いた計算の間違いを、俺は手を上げて指摘してしまった。悪気なんてなかった。ただ、間違いが目に見えていたから、そう言っただけだ。

けれど、先生は嫌な顔をした。クラスの子は俺を遠巻きにするようになった。

遠足のバスの中で、俺がすれ違った車のナンバーを全部覚えていると言ったら、隣の席の子は引きつった顔で黙り込んだ。それきり、その子は俺と口を聞かなくなった。

「気味が悪い。」「何を考えているかわからない。」

そういう言葉を、俺は何度も背中で聞いた。

こんなこともあった。近所の駄菓子屋で、おばあさんがお釣りを10円間違えて多く渡してきた。俺はそのままそれを指摘した。おばあさんは「ありがとう」とは言わなかった。ただ、うさん臭そうに俺を見て、それきり俺が店に行くと嫌な顔をするようになった。

俺はだんだん分かってきた。人は間違いを指摘されるのが嫌いなのだ。例えそれが正しくても。俺の目に見えているものは、大抵の人には見えない。そして、見えないものを見える俺は疎まれる。それがこの世の仕組みらしかった。

だから、俺は学校ではできるだけ口を噤むようになった。でも、時々我慢できずに口を出してしまう。その度に、俺はまた1人になった。

その度に、家に帰ると父が言ってくれた。

「いいか、リタ。お前は変なんかじゃない。人より少し見えるものが多いだけだ。」

父はよく俺の頭に手を乗せてそう言った。

「見えるものが多いってのはな、しんどいこともある。人が気づかんことに気づいちまうんだから。でもな、いつかきっとその目が誰かの役に立つ日が来る。父さんはそう信じてるよ。」

母は母で、俺が学校で嫌なことがあった日には、決まっていつもより具が多い味噌汁を出してくれた。

「難しいことは考えなくていいの。お腹があったかいと、心もあったかくなるんだから。それで大抵のことは何とかなるのよ。」

休みの日には、父がよく俺を駅まで連れて行ってくれた。ホームの端に並んで、通り過ぎる電車をただ2人で眺めるのだ。俺が時刻表の数字を空で言うと、父はいちいち大げさに関心してくれた。

「すごいなあ。父さんにはとても真似できん。リタのその頭は宝物だぞ。」

俺はその言葉がくすぐったくて、でもたまらなく嬉しかった。学校で疎まれた数字の力を、父は宝物と呼んでくれた。その一言があれば、俺は明日もまた学校に行けた。

母は、俺が寝る前に必ずその日に会ったことを聞いてくれた。嫌なことがあった日も、母に話すと不思議と軽くなった。

「大丈夫。あんたはあんたのままでいいの。無理にみんなと同じにならなくていいのよ。」

今思えば、俺の世界はあの小さな食卓の明かりの中で、ちゃんと完結していた。父と母がいれば、外で何を言われようと平気だった。

その世界が、音もなく消えたのは俺が14歳の冬だった。

父と母が乗った車が、居眠り運転のトラックに正面からぶつかった。2人とも、その日のうちに亡くなった。

あまりに突然で、俺は涙も出なかった。実感がまるでわかなかった。ついさっき「行ってきます」と手を振った2人が、もうこの世にいない。頭がいいはずの俺の脳みそが、その事実だけはどうしても受け付けなかった。

葬式の間、俺は一言も喋らなかった。ただ、父がくれた言葉を何度も頭の中で繰り返していた。その言葉だけが、俺をろくにこの世に繋ぎ止めていた。

住んでいた家は人手に渡ることになった。俺は自分の荷物をダンボール1つにまとめた。父の使っていた電卓と、母のエプロン。持っていきたいものはたくさんあったのに、俺が持っていけるのはそれくらいだった。

ガランとした家の中で、俺は初めて声を出さずに泣いた。これから俺は、たった1人で生きていかなければならない。14歳の俺には、その事実があまりにも重かった。

両親には、身寄りらしい身寄りがいなかった。ただ、母の妹夫婦がしぶしぶ俺を引き取ってくれることになった。

初めてその家の玄関をくぐった日のことを、俺は今でも覚えている。おばは俺の顔を見るなり、困ったような迷惑そうな表情を隠さなかった。おじは俺と目も合わせなかった。俺はその空気だけで全てを悟った。ここは俺のいていい場所ではない。俺は招かれざる客なのだと。

それでも、両親をなくしたばかりの俺には行くところなどどこにもなかった。俺は頭を下げて、その家に置いてもらうしかなかった。せめて迷惑をかけないように、目立たないように、俺は自分の気配をできるだけ消して暮らそうと心に決めた。

おばの家には、俺と同い年の従弟がいた。最初のうちは、おばもそれなりに気を使ってくれていたと思うけれど、それは長くは続かなかった。

きっかけは些細なことだった。ある晩、おじが今でお金の話をしていた。俺は隣の部屋でそれを聞くともなく聞いていた。2人の話す金額と、テーブルに広げられた通帳の数字が、どうしても頭の中で合わなかった。俺はつい口を挟んでしまった。

「おじさん、その計算5万合ってないよ。先月の分を2回足してるから。」

叔父の顔色がさっと変わった。しばらくして、それが叔父が家の金をこっそりごまかしていた分なのだと、俺にも分かった。分かってしまった。俺はただ目に入った数字を口にしただけだったけれど、それがいけなかった。

その日から、叔父夫婦の俺を見る目がはっきりと変わった。

「あの子、気味が悪いわ。人の家の金を勝手に覗いて。」「うちの子に悪い影響が出たらどうする?」

俺は覗いたわけではなかった。ただ目に入ったものが、そのまま頭に残っただけだけれど、そんな言い訳を聞いてくれる人は、あの家には1人もいなかった。

従弟のテストの点が下がると、俺のせいにされた。家の中の空気が悪くなると、俺がいるせいだと言われた。食事はいつからか、俺だけ時間をずらして1人で食べるようになった。俺は自分の部屋にこもって、できるだけ息を潜めて暮らすようになった。

父と母がいた頃のあの温かい食卓が、遠い昔のことのように思えた。それでも、俺はこの家に置いてもらうしかなかった。他に行くところなんてなかったからだ。

だから、俺は我慢した。どんなに冷たくされても、じっと俯いて耐えた。いつかまた、あの食卓みたいな場所がどこかにあるかもしれない。そんなあるかどうかも分からない望みだけを胸の隅にしまっていた。

けれど、俺のそういう態度が、かえって2人を苛立たせたのかもしれない。ある晩、おばが電話で誰かにこうこぼしているのが聞こえた。

「うちに変な子が来て、家の中がめちゃくちゃなの。」

それを聞いた時、俺ははっきりと悟った。ああ、俺はこの家では厄介者なんだ。いてはいけない人間なんだと。

そして、冬になった。その年で1番冷え込んだ夜のことだった。

俺は玄関の外に立たされた。理由はもう覚えていない。多分、大した理由なんてなかったのだと思う。従弟の何かのことで、また俺のせいにされた。それくらいのことだった。

「少し頭を冷やしてきなさい。」

そう言って、おばは玄関の鍵を閉めた。俺は薄い上着1枚で、凍える夜の町に放り出された。

1時間経っても、2時間経っても、扉は開かなかった。俺は玄関の前にしゃがみ込んで、じっと待っていた。指がかじかんで痛くなって、やがて痛みも感じなくなった。

そして、ようやく気づいた。ああ、この人たちは俺にいなくなって欲しいんだ。「頭を冷やせ」というのは、そういう意味だったんだ。開くのを待っている扉は、もう2度と開かないんだ。

俺は立ち上がった。当てなんてどこにもなかった。それでも、俺は歩き出すしかなかった。

どこをどう歩いたのか、よく覚えていない。気がつくと、俺は知らない町の小さな公園にいた。街灯の明かりだけが、ぼんやりと誰もいない砂場を照らしていた。冷たい風が吹く度に、体の芯まで凍えていくのが分かった。

現地に座り込むと、もう立ち上がる気力が残っていなかった。腹が減っていた。3日、ほとんど何も食べていなかった。冷えと空腹で、頭がだんだんぼんやりしてきた。数字を覚えることしか取り柄のない俺の脳みそが、少しずつ働かなくなっていくのが分かった。

父と母の顔が浮かんだ。あの温かい食卓が浮かんだ。もう、あそこには2度と戻れない。

一そこのまま眠ってしまえたら楽なのに。そんなことをぼんやり考えていた。まぶたが鉛みたいに重かった。眠ったら、多分もう目は覚めない。それがなんとなくわかった。

それでも、いいと思った。誰も助けてなんてくれない。親戚にも捨てられて、両親もいない。俺なんて、いてもいなくても同じなんだ。

チラチラと雪が降り始めていた。俺の膝の上に、白いものが静かに積もっていく。冷たいはずなのに、もう冷たさもよくわからなくなっていた。

ふと、父の声が聞こえた気がした。

「いつかその目が誰かの役に立つ日が来る。父さんはそう信じてるよ。」

嘘だと、俺は心の中で呟いた。俺の目なんて、誰の役にも立たなかった。この目のせいで、俺はどこにいても嫌われた。ごめん、父さん。俺、もう無理みたいだ。

そう思って、俺はそっと目を閉じた。

その時だった。

「死ぬならうちの家に入ってからにしろ。」

低い、ぶっきらぼうな声だった。目を開けると、がっしりした体つきの年寄りが俺の顔を覗き込んでいた。作業着の上にヨレたドテラを羽織って、白い息を吐いている。体から、薪の煙と湯の匂いがした。

「見たところ、3日は食ってないなあ。指もまともに動かんだろう。立てるか。」

俺は答えられなかった。声を出す力も残っていなかった。

すると、その人はふんと鼻を鳴らして、俺の腕を自分の肩に回した。そして、まるで米でも担ぐみたいに、俺を軽々と立たせた。

「歩けなきゃ、おぶってやる。遠慮するな。どうせ帰り道だ。」

その大きな肩を借りて、俺は1歩ずつ雪の道を歩いた。年寄りとは思えないほど、がっしりした温かい体だった。

なぜ、この人は俺を助けるんだろう?俺はぼんやりする頭で考えていた。俺みたいなどこの馬の骨とも知れない、薄気味悪い子供に。何か下心があるんじゃないか。この後に及んでも、俺はまだ大人を疑っていた。今まで、俺に手を差し伸べた大人なんて1人もいなかったからだ。

けれど、俺の肩を抱くその手には、下心なんてものはこれっぽっちも感じられなかった。ただ、目の前で凍えている子供がいるから、放っておけない。それだけの、真っすぐな温かさだった。

その人は、公園のすぐ近くで戦闘をやっていた。「亀の湯」という、古いのかかった小さな風呂屋だった。年季の入った木の建物で、屋根の上の煙突からは白い煙がまっすぐ夜空に立ちのぼっていた。俺はその煙をぼんやりと見上げた。なぜだか、その煙を見ているだけで少し体が温かくなる気がした。

中に入ると、ふんと石鹸の匂いがした。番台に、小柄なおばあさんが座っていた。親父さんの奥さん、つまりこの戦闘の女将さんだった。

「あらまあ、本当にどこの子だ?ひどい顔してるね。唇が真っ青じゃないか。」

女将さんは俺を見るなり、事情を聞くよりも先に立ち上がった。番台の奥から、使い込んだタオルを2枚、3枚と出してくる。

俺は身構えた。名前を聞かれる。どこから来たのか問いただされる。気味悪がられて、追い返される。今までずっとそうだったから。

けれど、そのどちらも起こらなかった。親父さんは俺を脱衣所まで連れて行くと、そっけなく言った。

「事情は知らん。聞かん。今はどうでもいい。とにかく、まず温まっていけ。」

俺は震える声で、それだけ言い返した。

「でも、俺、お金…財布なんて持っていなかった。1円も。」

すると、親父さんはめんどくさそうに顔をしかめて、こう言った。

「金なんかいらん。まず温まっていけ。」

それが、俺があの人から最初にもらった言葉だった。

言われるまま、俺は服を脱いで湯舟に体を沈めた。その瞬間のことを、俺は今でもよく覚えている。指の先から、足の裏から、じんじんと熱が体に戻ってくる。凍りついていた血が、もう一度流れ出すのが分かった。

あんまり気持ちが良くて、あんまり温かくて、俺は湯舟の中で声を上げて泣いた。出せなかった涙が、湯気の中でようやく溢れ出した。父と母が亡くなってから、俺は1度も泣けていなかった。あの温かい湯の中で、俺はやっと2人がいなくなったことを、体で泣くことができた。

どれくらいそうしていただろう。湯に浸かりながら、俺はぼんやりと天井の湯気を見上げていた。あの公園のベンチで、俺は確かに死のうとしていた。もう生きていても仕方がないと思っていた。それなのに、今俺はこうして温かい湯の中にいる。生きている。体の芯から、じんわりと命が戻ってくる。それが不思議で、ありがたくて、また涙が出た。

脱衣場の方から、親父さんのしわがれた声が聞こえた。

「おい、ボーズ、のぼせるなよ。ゆっくりあったまれ。上がったら飯があるからな。」

その声を聞いて、俺はもう少しだけ湯の中にいようと思った。この温かさから、まだ離れたくなかった。

風呂から上がると、脱衣場の隅に畳んだ服が置いてあった。親父さんの若い頃のものだという、少し大きめのセーターとズボンだった。それに袖を通すと、まだほのかに日向の匂いがした。

着替えて座敷に上がると、女将さんが湯気の立つご飯と味噌汁を出してくれた。

「さあ、食べな。うちにお腹が膨れれば、大抵のことはなんとかなるもんだよ。」

その味噌汁を、俺は忘れられない。具は豆腐とワカメの、何の変哲もない味噌汁だった。けれど、それは母が作ってくれた味噌汁と同じ匂いがした。

俺はまた泣いた。ご飯を口に運びながら、ボロボロ泣いた。女将さんは何も言わなかった。ただ、俺のそばに立って、ご飯のお代わりをよそってくれた。

俺は3杯食べた。それでも足りなくて、4杯目もよそってもらった。箸を持つ手が震えていた。涙で茶碗の中がよく見えなかった。それでも、俺は必死で食べた。

女将さんは、俺が食べるのをじっと見守っていた。時々、俺の背中をゆっくりとさすってくれた。何も言わなかった。ただ、そばにいてくれた。それだけで、俺は救われる気がした。

親父さんは、少し離れたところでタバコを吸いながら、そんな俺をチラチラと見ていた。そして、そっと呟いた。

「よく食うなあ。いい食いっぷりだ。」

それだけ言うと、親父さんはまた俺のために味噌汁をよそってくれた。4杯目のご飯に、女将さんは卵焼きと漬物を添えてくれた。

俺が食べるまで、2人はせかすでもなく、じっと待っていてくれた。不思議だった。この人たちは、俺に名前も聞かない。どこから来たのかも、なぜこんな夜に公園で凍えていたのかも、何1つ聞かない。ただ、家に入れて飯を食わせる。それだけを、当たり前のようにしてくれる。

俺はこれまで、大人というものは必ず見返りを求めるものだと思っていた。何かをしてもらったら、その分だけ何かを返さなければならない。返せない子供は厄介者だと、親戚の中で俺はそう学んだ。

けれど、この2人にはそういう気配がまるでなかった。俺から何かを取ろうという気が、これっぽっちもない。ただ、目の前の腹をすかせた子供に飯を食わせたい。冷え切った子供を温めたい。それだけだった。

その一言が、なぜだかたまらなく嬉しかった。「生きていていいんだ」と言われた気がした。この人たちは、俺が誰なのか、どこから来たのか、まだ何も知らない。それなのに、こんなに温かい。

俺はその夜、初めて人の優しさというものを、腹の底から信じてみたいと思った。

その夜、俺は亀の湯の2階の、物置きみたいな小さな部屋に止めてもらった。女将さんが押入れから古い布団を出して敷いてくれた。せんべいみたいに薄い布団だったが、足元には湯たんぽまで入れてくれた。ずっと張り詰めていた気持ちが、その温かさでふっと解けた。俺は布団に入ると、あっという間に眠りに落ちた。何日ぶりかの、深い眠りだった。

翌朝、目を覚ますと、下から湯を炊く音と味噌汁の匂いがした。俺はそっと2階から降りようとした。世話になった礼を言って、黙って出ていくつもりだった。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。俺みたいな子供を、いつまでも置いてくれる大人なんているはずがない。そう思っていたからだ。

玄関で靴を履いていると、後ろから声がした。

「おい、どこ行く気だ?」

振り返ると、親父さんが腕を組んで立っていた。

「お世話になりました。俺、もう行きます。」

「行くって、どう?」

俺は答えられなかった。行くところなんて、どこにもなかった。親父さんはしばらく俺の顔を見ていた。それから、大きなため息をついて、頭をガシガシと掻いた。

「あー、でもな。ネコにでも出ていくやつがあるか。まあ、待て。飯だけ食ってけ。話はそれからだ。」

俺はまた座敷にあげられて、味噌汁とご飯を食べさせられた。食べている間に、女将さんが俺の事情を少しずつ聞き出してくれた。両親が事故で亡くなったこと、親戚の家を出てきたこと。俺はポツポツと話した。自分でも不思議なくらい、この人たちには話せた。

女将さんは、俺の話を聞き終えるとしばらく黙っていた。それから、俺の手を両手で包み込むように握った。しわだらけの、けれど温かい手だった。

「あんたね、勘違いしちゃいけないよ。あんたは変なんかじゃないよ。ちょっと冷えすぎただけだよ。体もね、心もね。あったまれば、ちゃんと元に戻る。それだけのことさ。」

俺はその言葉を聞いた瞬間、うまく意識ができなくなった。「気味が悪い」「何を考えているかわからない」そう言われ続けてきた俺に、この人は「冷えすぎただけだ」と言った。「あったまれば元に戻る」と言った。まるで、俺が壊れてなんかいない、ごく当たり前の人間なんだと、そう言ってくれているみたいだった。

父と同じだった。かつて俺を丸ごと肯定してくれたのと、この人も同じ差し出しで俺を見てくれている。

その日から、俺は亀の湯に置いてもらうことになった。親父さんの名は大浦ゴン。女将さんは大浦梅と言った。近所の人はみんな、親しみを込めて「ゴンさん」「梅さん」と呼んでいた。俺も、いつの間にかそう呼ばせてもらうようになった。

ゴンさんは、俺に何も要求しなかった。ただ、俺の方から手伝わせてくれと頼んだ。ただで置いてもらうのは、どうしても落ち着かなかったからだ。

ゴンさんは、俺に湯の炊き方を教えてくれた。亀の湯は、今時珍しく薪と重油を使ってお湯を沸かしていた。薪のコパを湯に投げ込み、火加減を見ながら、大きな湯舟いっぱいのお湯をちょうどいい温度に保つ。それは、思っていたよりもずっと難しい仕事だった。

「火っつうのはな、生き物だ。機嫌がある。今日はよく燃える。今日はぐずる。そいつを見てやるのが、俺らの仕事だ。」

ゴンさんは口ではそっけないことを言いながら、俺に根気よく火のことを教えてくれた。薪の組み方、空気の送り方、湯の温度のほんのわずかな違い。俺がうまくできると、ゴンさんは何も言わずに、ただ小さく頷いた。その小さな頷きが、俺には何よりの褒め言葉だった。

失敗して、湯をぬるくしてしまった日もあった。そういう時も、ゴンさんは怒鳴らなかった。

「まあ、そういう日もある。火だって機嫌の悪い日はあらな。明日、またやりゃいい。」

その言葉に、俺はどれほど救われたか。親戚の家では、俺は少しの失敗でも責められた。息を潜めて、間違えないように、間違えないようにと、いつもビクビクしていた。けれど、ここでは間違えてもいい。明日、またやればいい。そう思えるだけで、俺の肩から重たいものがずっと降りていった。

ゴンさんは、俺の頭の力を面白がってくれた。俺が客の数を一目で数えて、売上をすぐに言い当てると、ゴンさんは関心して唸った。仕入れの相談まで、俺に持ちかけるようになった。

「お前がいると、便利で叶わん。」

「便利ってのは言い方が悪いな。頼りになるだ。」

「頼りになる。」

その言葉が、俺の胸に深く染みた。今まで、俺の頭は人を疎ましがらせるだけの厄介なものだった。それが、この人の前では「頼りになる」と言われる。俺は生まれて初めて、自分の力を人の役に立てる喜びを知った。

父が言っていた言葉が、少しずつ本当になっていく。俺はそのことが嬉しくてたまらなかった。

俺は火を見るのが好きになった。パチパチと燃える炎を見ていると、余計なことを考えずに済んだ。ただ、目の前の火のことだけを考えていればよかった。それがあの頃の俺には、何よりありがたかった。

番台を手伝っていて、俺は1つ気づいたことがあった。ゴンさんは、時々お金を取らずに人を風呂に入れていた。夜遅く、疲れきった顔で暖簾をくぐってくる若い労働者。着るものも満足にない小さな子供を連れた母親。そういう客が来ると、ゴンさんは番台でそっとこう言うのだ。

「今日は店じまいだ。気にせず入っていけ。」

店じまいなんてものは、本当はなかった。ただ、その人がお金を持っていないだけだった。ゴンさんはそういう時、決まってそうやって相手に恥をかかせないように、湯に入れてやっていた。

俺はそれを見て、胸が熱くなった。俺があの真冬の夜にしてもらったことは、特別なことではなかったのだ。この人は、いつもこうやって寒さに震える誰かに、黙って湯を差し出してきた。それが、ゴンさんという人だった。

仕事の合間に、ゴンさんは俺にいろんな話をした。自分が若い頃、この亀の湯を仙台から買ったこと。梅さんとは見合いで一緒になったこと。子供はとうとうできなかったこと。

「ああ、こういう商売をやってると、な。近所の子供がみんな、うちの子みたいなもんだ。それで十分だ。」

ゴンさんはそう言って、少し寂しそうに笑った。

梅さんは、いつも俺の腹を気にかけてくれた。三度の飯を、必ず腹いっぱい食べさせてくれた。少しでも痩せていると、心配して卵をつけてくれた。

「食べな、食べな。育ち盛りなんだから。あんたがここでいっぱい食べてくれるのが、私が一番嬉しいんだよ。」

亀の湯には、常連の客が何人もいた。近所の年寄りや、仕事帰りの職人たち。みんな、俺のことをすぐに覚えてくれた。番台の手伝いをしていると、常連のおじいさんが俺の頭をポンと叩いていった。

「ゴンさんとこの、新しい若い主か。しっかりやれよ。」

「ゴンさんとこの若い衆。」そう呼ばれるのが、俺はなんだか誇らしかった。

「はい、カザリタです。よろしくお願いします。」

そう頭を下げると、その客はカラカラと笑った。

「いいえ返事だ。ゴンさんも、いい後継ぎができたな。」

後継ぎ?その言葉に、俺はドキリとした。俺なんかが、この人たちの後継ぎだなんて。けれど、悪い気はしなかった。むしろ、胸の奥がじんわりと暖かくなった。ゴンさんは、その客とのやり取りを聞きながら、そっぽを向いていた。照れているのだと、俺には分かった。俺はだんだん、この人の照れ方が分かるようになっていた。

亀の湯にいると、不思議と俺は笑えるようになっていた。親戚の家では、俺は1度も笑わなかった。笑うことなんて忘れていた。けれど、ここでは違った。常連のおじいさんの下手な冗談に、思わず吹き出す。子供たちと湯舟で水鉄砲の取り合いをする。梅さんの作る卵焼きの焦げ具合をからかう。そんな些細なことで、俺は笑った。

ある日、梅さんがそんな俺を見て、しみじみと言った。

「あんた、来た時はね、能面みたいな顔をしてたんだよ。それが、こうやって笑うようになって。私はそれが本当に嬉しくてね。」

俺はそう言われて、初めて自分が笑っていることに気づいた。凍りついていた俺の心が、亀の湯の湯の中で少しずつ溶けていた。

夜、戦闘を閉めた後の2階の部屋。俺は梅さんが用意してくれた小さな座卓で、学校の教科書を広げた。梅さんがどこからか、俺のための古い参考書やノートをもらってきてくれたのだ。

「勉強はしときな。あんたの頭はもったいない。うんと勉強して、いつかあったかいみたいに、誰かを温められる人になりな。」

俺は頷いた。あの狭い座敷で、湯たんぽを抱えて過ごした夜のことを、俺は生涯忘れないだろう。下から、湯を炊く火の燃える音が聞こえてくる。その音を聞きながら、俺は初めてこの先の自分のことを、少しだけ考えられるようになっていた。

けれど、穏やかな日々は長くは続かなかった。最初の壁は、思いがけないところからやってきた。

ある日の夕方、亀の湯の前に見覚えのある車が止まった。叔父の車だった。俺は番台の影で、体が固まった。

叔父は暖簾をくぐるといきなり、ゴンさんに食ってかかった。

「うちの甥が世話になってるそうで。勝手に子供を預かって。あんた、誘拐だなんだと騒がれたら、どうするつもりだ?」

どうやら、俺がこの町の戦闘にいるらしいと、近所の噂で聞きつけたようだった。叔父の顔には、俺を心配する色なんてこれっぽっちもなかった。あるのは、世間体を気にする気持ちと、面倒を押し付けられるのではないかという不安だけだった。それが、俺には手に取るようにわかった。

ゴンさんは腕を組んだまま、静かに叔父を見ていた。

「かいねえ。凍えかけた子供を拾って、飯を食わせるのが誘拐か。」

「とにかく、うちの管理下にある子だ。返してもらう。」

その言葉に、俺の背筋が凍った。あの家に帰る。また、あの冷たい部屋に息を潜めて暮らす日々に。俺は思わず、梅さんの袖をキュッと掴んでいた。梅さんは、俺の手をそっと握り返した。

それから、番台を降りて叔父の前に立った。小柄な梅さんが、大きな叔父をまっすぐ見上げた。

「あのね、この子はね、あんたの管理下とやらの中で、真冬の夜に上着1枚で放り出されたんだよ。凍死してもおかしくなかった。それを、管理って言うのかい。」

叔父の顔が赤くなった。

「私らはね、この子を返さないなんて言ってないよ。ただね、この子が帰りたいと言うなら返す。帰りたくないと言うなら、ここに置く。決めるのは、あんたじゃない。この子だよ。」

そう言って、梅さんは俺の方を振り向いた。

「リタ。あんた、どうしたい?正直に言っていいんだよ。」

俺は震える声で、こう答えた。

「帰りたくないです。俺、ここにいたい。」

それが、あの家を出てから、俺が初めて口にした自分の本当の望みだった。

叔父はしばらく何か言いかけたが、結局、舌打ちをして帰って行った。

後で分かったことだが、ゴンさんはその足で役所や学校に相談に行き、俺が正式にこの町で暮らせるように、色々と手を尽くしてくれたらしい。俺の知らないところで、頭を下げて回ってくれていたのだ。不器用そうな人だったが、そういう時だけは驚くほど素早く動いてくれた。

おかげで、俺はこの町の中学に通うことになった。転校した先の担任は、中年の口数の少ない先生だった。俺が授業中に教科書の誤字を指摘しても、その先生だけは嫌な顔をしなかった。それどころか、放課後俺を職員室に呼んで、こう言ってくれた。

「君の頭は、正しく使えばたくさんの人を助けられる。だから、その力を人と張り合うためじゃなく、人を支えるために使いなさい。」

ゴンさんと同じことを言う人だった。俺の周りに、少しずつ俺を変わり物としてでなく、1人の人間として見てくれる大人が増えていった。この町でなら、俺は俺のままで生きていけるかもしれない。そんな小さな希望が、俺の中に芽生え始めていた。

けれど、壁はそれだけではなかった。その頃、亀の湯の経営は実はかなり苦しかった。近所に大きなスーパー戦闘ができて、客が年々減っていた。ゴンさんと梅さんは、俺には何も言わなかったけれど、俺には分かってしまった。番台の下に置かれた売上の数字が、目に入ってしまったからだ。

その数字は、正直で残酷だった。このままでは、亀の湯はあと2年も持たない。俺には、それがはっきりと見えた。

俺はいても立ってもいられなくなった。世話になっているこの場所が、俺のせいで余計に苦しくなるのは耐えられなかった。

ある夜、俺は思い切ってゴンさんに、売上帳を見せて欲しいと頼んだ。ゴンさんは渋い顔をしたが、俺の真剣な様子に、黙って帳面を差し出した。

俺はその数字を頭の中で組み替えていった。燃料代、水道代、人件費、売上。数字は、俺にとってどんな言葉よりも有便だった。

しばらくして、俺は顔を上げた。

「ゴンさん、この火の炊き方、変えられませんか?今、薪と重油を両方いっぺんに使ってる。でも、炊き始めと温度を保つ時とで使い分ければ、燃料代は多分3割は減らせます。あと、最後にお湯を落とす時間を今より少し早めれば、水道代も…」

俺は夢中で説明した。頭の中に見えている数字を、そのまま口にした。

ゴンさんは最初はポカンとしていたが、だんだん目つきが変わってきた。

「お前、それ本当か?」

「多分、試してみないと分からないけど、でも計算は合ってるはずです。」

ゴンさんは俺の顔をじっと見て、それからニヤリと笑った。

「面白い。やってみるか。」

その冬、亀の湯の燃料代は本当に3割近く減った。

俺はそれだけでは満足しなかった。釜から出ていく煙の熱が、もったいないと思ったのだ。あの熱を逃さずに水を温めるのに使えば、もっと燃料が減らせる。俺は廃材の板と古いドラム缶で、簡単な仕掛けをこしらえた。素人の手作りだったが、それでも効果はあった。

ゴンさんは、俺の作ったその味気ない仕掛けを、しげしげと眺めて唸った。

「お前、こんなもん、どこで覚えた?」

「覚えてないです。ただ、頭の中でこうすれば熱が戻るって、見えたから。」

「見えたか。大したもんだ。」

この時頭の中に描いた、その単純な仕掛け。それこそが、後に俺の会社の1番大事な技術の原型になった。全ては、この小さな湯場から始まっていたのだ。

売上が増えたわけではないけれど、出ていくお金が減れば、それはそのまま店の余裕になる。ゴンさんは感心しきりだった。

「たいしたもんだなあ。お前の頭は、金になるぞ。」

そう言って、ゴンさんは俺の頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。父がよくしてくれたのと同じ仕草だった。

「ああ、リタ。お前のその『見えるものが多い』ってやつはな、気味の悪いもんじゃない。人をあっためるために使えるもんなんだ。今、それが分かったろ。」

俺は火の前で、こくりと頷いた。父が言っていた「いつかその目が誰かの役に立つ」というあの言葉。それが、この戦闘で初めて本当になった気がした。

パチパチと燃える火の明かりが、俺の顔を赤く照らしていた。あの日のぬくもりを、俺はこの先何度も思い出すことになる。

それから、俺は亀の湯で4年を過ごした。中学を出て高校に上がっても、俺は亀の湯の2階に住み続けた。もう、誰も俺を追い出そうとするものはいなかった。ここが、俺の家になった。

火焚きの腕は、メキメキ上がった。火の機嫌を読むのも、湯加減を保つのも、ゴンさんが目をつぶっていても任せられるくらいになった。

「もう、お前に教えることはねえな。」

ゴンさんは時々そう言って、俺に火を任せて、自分は番台でうたた寝をするようになった。俺はそれが誇らしかった。この人に頼りにされている。その事実だけで、俺はいくらでも頑張れた。

俺の1日は決まっていた。朝は暗いうちに起きて、火に火を入れる。学校から帰ると、番台を手伝い、客の背中を流す。夜はゴンさんと湯を落とし、タイルを磨く。それから2階で勉強をする。忙しかったが、それは幸せな忙しさだった。

町の人も、俺たちのことをすっかり受け入れてくれていた。魚屋の親父は「売れ残りだ」と言って、こっそり魚を分けてくれた。八百屋のおばさんは、俺の顔を見ると「あんた、また背が伸びたね」と目を細めた。学校の帰りに、そういう人たちと何気ない言葉を交わす。それだけのことが、俺にはたまらなく嬉しかった。

親戚の家にいた頃、俺は透明人間だった。誰の目にも映っていなかった。それが、この町ではたくさんの人が俺を見てくれる。カザリタという1人の人間として、ちゃんと扱ってくれる。俺はこの町で、生まれて初めて自分の居場所というものを手に入れたのだ。

亀の湯には、1年の行事があった。1番忘れられないのは、冬至の柚子湯の夜だ。その日は、ゴンさんと近所の農家から山ほど柚子をもらってくる。それを、俺が大きな網の袋に詰めて湯舟に浮かべる。湯の中に、柚子の甘い匂いがいっぱいに広がる。

その夜だけは、亀の湯はいつになく賑わった。普段は来ない人たちも、柚子湯目当てに暖簾をくぐった。子供たちが湯舟で柚子を追いかけてはしゃぐ。年寄りたちが、ゆっくりと肩まで湯に浸かる。俺はその湯の向こうのみんなの緩んだ顔を、番台から眺めるのが好きだった。

ああ、俺は今、確かにここにいていいんだ。この温かい場所の一部になれているんだ。柚子湯の匂いを嗅ぐと、俺はいつもそう思えた。

そんな幸せな日々の中で、俺はゴンさんの体が少しずつ衰えていくのにも気づいていた。ある冬、ゴンさんが腰を痛めて動けなくなったことがあった。

「情けねえな。年は取りたくねえもんだ。」

そう言って布団の中で悔しがるゴンさんに、俺は言った。

「ゴンさん、任せてください。火のことも、店のことも、俺が全部やります。ゴンさんは、寝ててください。」

その冬、俺は学校に通いながら、1人で亀の湯を切り盛りした。朝は暗いうちに火を入れる。夜は遅くまで店を開ける。大変だったが、不思議と辛くはなかった。この店を守れることが、俺には嬉しかったのだ。

ゴンさんの腰が治った頃、ゴンさんはぽそりと言った。

「お前がいてくれて、助かった。お前はもう、立派な亀の湯の後継ぎだ。」

その言葉を、俺は宝物のように胸にしまった。

忘れられないことが、もう1つある。亀の湯に来て初めての、俺の誕生日のことだ。

俺は自分の誕生日なんて、もう何年も祝ってもらっていなかった。両親が亡くなってからは、なおさらだった。誕生日がいつなのかさえ、俺は口にしなかった。

それなのに、その日の夜2階に上がると、食卓の上にケーキが置いてあった。街のパン屋で売っている、小さなショートケーキだった。ろうそくが2本立っていた。

「お誕生日おめでとう。役所の書類で見ちゃったんだよ。教えてくれないんだもの。」

俺は言葉が出なかった。梅さんがマッチを擦って、ろうそくに火をつけた。ゆらゆらと揺れる、小さな炎。俺はその火をじっと見つめた。

「ほら、願い事があるんだろう。」

願い事。俺の願い事は、たった1つだった。この温かい場所が、ずっとなくなりませんように。この2人が、ずっと元気でいてくれますように。

俺は心の中でそう祈って、ろうそくの火を吹き消した。2人は拍手をしてくれた。たった3人の、ささやかな誕生日会。けれど、俺には世界で1番温かい誕生日だった。俺はこの日のことを、一生忘れない。

梅さんは相変わらず、俺の腹と俺の勉強を気にかけてくれた。俺が夜遅くまで机に向かっていると、決まってそっと夜食のおにぎりを置いて行ってくれた。

「無理はしなさんな。でもね、あんたが大きな夢を持ってくれるのは、私は本当に嬉しいんだよ。」

その頃、亀の湯には大きな危機が訪れていた。前にできたスーパー戦闘が、とうとう本気で客を奪い始めたのだ。サウナがあって、露天風呂があって、休憩所まである。あんな大きな施設に、うちみたいな古い戦闘が叶うはずもなかった。ある月など、1日の客が両手で数えられるほどしか来ない日もあった。

ゴンさんは口には出さなかったが、番台で腕を組んでいる時間が、目に見えて増えていた。

俺はどうにかしたかった。この場所を失いたくなかった。俺はこの町の人口や、戦闘に来る客の年齢を頭の中で組み立ててみた。すると、あることに気づいた。車で行けない、足の悪い年寄りがこの町にはたくさんいるのだ。その人たちにとって、歩いていける湯はなくてはならない場所だった。

「ゴンさん、うちは大きな風呂で勝負しなくていいんです。近所の年寄りの憩いの場になればいい。」

俺はいくつか提案した。決まった曜日に、常連の年寄りだけのゆっくり入れる時間を作ること。湯の横にお茶と腰かけを置いて、風呂上がりにみんなが世間話をできる場所にすること。どれも、金のかからないことばかりだった。

ゴンさんは、俺の話を黙って聞いていた。そして、ぽそりと言った。

「お前は、数字だけじゃなく、人の心まで見えるようになったなあ。」

その工夫のおかげで、亀の湯には少しずつ常連の年寄りが戻ってきた。賑わいとまではいかない。それでも、火を絶やさずに済むだけの客足には戻った。俺は心の底からほっとした。この場所を守れた。そのことが、何より嬉しかった。

夏には、こんなこともあった。町内の夏祭りの日、ゴンさんが湯の軒先で冷やしたラムネをただで配ろうと言い出した。祭りでほてった子供たちに飲ませてやるのだという。俺は井戸水にラムネの瓶をずらりと並べて冷やした。

夕方になると、浴衣を着た子供たちが次々と押し寄せてきた。

「おじいちゃん、本当にただ?」

「おお。その代わり、大きくなったら困ってる誰かに、なんか奢ってやれ。それでチャラだ。」

子供たちはきょとんとした顔で、それでも嬉しそうにラムネを飲み干していった。俺はその光景を、番台の横から眺めていた。ゴンさんは決して見返りを求めない。ただ、目の前の子供が笑ってくれれば、それでいい。そういう人だった。

梅さんは、そんな子供たちに水で絞ったタオルを配って歩いた。「汗を吹いておやり。」子供たちは、梅さんのことを「梅ばあちゃん」と呼んでまとわりついた。

その夜、祭りの後の静かな戦闘で、俺はゴンさんに聞いてみた。

「ゴンさん、どうしてそんなに人によくするんですか?うちだって、余裕ないのに。」

ゴンさんはしばらく黙って、湯舟を見ていた。それから、ぽつりと言った。

「昔な、俺もそうしてもらったんだ。腹を空かせて、凍えそうになってた時に、名前も知らねえ誰かに飯を食わせてもらった。だからな、俺はそれを次の誰かに渡してるだけだ。もらったもんは、返さなきゃな。」

俺はその言葉を、深く心に刻んだ。もらったものは、次の誰かに渡せばいい。ゴンさんのその飾らない生き方が、俺は好きだった。

俺には夢ができていた。それは、亀の湯の火の前で生まれた夢だった。この頃、日本中の戦闘が次々と姿を消していた。理由はいつも同じだった。客が減り、そして燃料代が払えなくなる。お湯を沸かすのに、あんまりお金がかかりすぎるのだ。

俺は思った。もし、もっと少ない燃料で同じ量のお湯が沸かせたら。もし、捨てているだけの煙の熱をもう一度お湯を温めるのに使えたら。そうすれば、亀の湯みたいな小さな風呂屋も、消えずに済むんじゃないか。

それは、俺にしか見えない夢だった。数字が見える俺だからこそ、描ける夢だった。

俺はその夢を、ゴンさんと梅さんに話した。2人は顔を見合わせて、それから笑った。

「湯を安く沸かす機械か。お前なら、作れるかもな。お前の頭は金になるし、それに、人をあたためる頭だからな。」

その言葉が、俺の背中を押した。その頃から、俺は夜、勉強の合間にノートの隅に火の絵を描くようになった。どこで熱が逃げているか、どうすればその熱をもう一度湯に戻せるか。頭の中の数字を、そのまま絵にしていった。まだ子供の落書きみたいなものだったけれど、俺にはそれがいつか形になる気がしていた。

ある日、梅さんがそのノートを覗き込んで、目を細めた。

「なんだか、難しそうな絵だね。でも、あんたの目、こういう時キラキラしてるよ。いい目だ。あんたのお父さんも、きっとその目を見たかったろうね。」

父のことを言われて、俺は少し鼻の奥がツンとした。父が宝物だと言ってくれたこの目。梅さんも、ゴンさんも、同じように言ってくれる。俺はもう、自分の目を気味の悪いものだとは思わなくなっていた。

高校3年の秋、俺は東京の大学に進むことを決めた。もっと勉強して、湯を沸かす技術を本気で学ぶためだった。学校の先生とゴンさんが、色々と走り回ってくれた。返さなくていい奨学金の制度や、いろんな支援の仕組みを探してくれた。おかげで、身寄りのない俺でも大学に行けることになった。

けれど、それはこの亀の湯を離れることを意味していた。合格の知らせが届いた夜、俺は素直に喜べなかった。夢に手が届く。それは嬉しかった。けれど、それはこの温かい場所と別れることでもあった。俺はこの4年で、初めて「家」というものを取り戻したのだ。それを手放して、また1人で知らない町へ行く。そう思うと、足がすくんだ。

その湯場で火を見ていると、ゴンさんが隣に腰を下ろした。しばらく2人で、黙って火を見ていた。

「行ってこい。」

ゴンさんは火を見たまま、ぽつりと言った。

「お前の夢は、このちっぽけな湯場じゃ収まらん。もっとでかい火を炊きに行け。俺らのことは、心配するな。」

「でも…」

「でも、じゃねえ、リタ。恩はな、返す相手を選ぶもんじゃねえ。お前がでかくなって、どこかの寒がってる誰かをあたためてやれ。これが、俺への1番の恩返しだ。」

俺は火の前で、何も言えずに頷いた。パチパチと火が燃えた。

旅立ちの前の夜、俺はなかなか眠れなかった。静かに布団を抜け出して、俺は湯場に降りた。もう火は落としてあるけれど、火はまだほんのり温かかった。俺はその温かい火に、そっと手を当てた。この火が、俺を生かしてくれた。凍えかけていた俺を、この湯が温めてくれた。ここで過ごした4年間が、あの真冬の夜からの俺の全てだった。

俺は暗い湯舟の縁に腰かけて、しばらく静かな戦闘を見つめていた。番台、下駄箱、すり減った洗い場のタイル。全部、目に焼きつけた。俺の頭は、この景色を1枚残らず覚えておける。だから、どこへ行っても、いつでもここへ帰ってこられる。そう思うと、少しだけ寂しさが和らいだ。けれど、それでも涙がこぼれた。明日から、俺はここにいない。そう思うと、たまらなく寂しかった。

気配に振り返ると、ゴンさんがくぐりに立っていた。何も言わず、俺の隣に腰を下ろした。2人でしばらく、黙って暗い湯舟を見ていた。

「静かになるな。うるさいのがいなくなって。」

そう言ったゴンさんの声は、少しも静かじゃなかった。俺は笑って、そしてまた泣いた。

ゴンさんはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

「よ、都会に出りゃ、いろんなやつがいる。お前を利用しようって、悪いやつも寄ってくるだろ。でもな、どんな時も、これだけは忘れるな。お前のその頭は、人をあっためるためにある。人を蹴落とすためじゃねえ。それだけ守ってりゃ、お前は大丈夫だ。」

その言葉を、俺は深く頷いて聞いた。後になって、俺が1番迷った時、1番心が冷えきった時、俺をもう一度正しい場所へ引き戻してくれたのは、この夜の言葉だった。

旅立ちの日が来た。3月の、まだ肌寒い朝だった。俺はあの日、ダンボール1つでこの町に流れついた。そして今、俺の荷物は大きな鞄1つに増えていた。中身のほとんどは、梅さんが持たせてくれた着替えと食べ物だった。

梅さんは朝から台所に立ちっぱなしだった。俺のために、逃げ切れるだけのおにぎりを握ってくれた。

「ほら、これ持っておいき。東京は物価が高いから。お腹が空いたらね、これを食べるんだよ。」

梅さんの手は、少し震えていた。俺はその手から、おにぎりの包みを受け取った。まだ、ほんのり温かかった。

その朝、俺は最後にもう1度、火に火を入れた。この4年間、毎朝そうしてきたように。パチパチと燃える火を見つめながら、俺は心の中でこの火に別れを告げた。ありがとう。お前のおかげで、俺は生き延びた。お前のおかげで、俺は夢を見つけた。

店の前では、常連の年寄りたちが何人も見送りに来てくれていた。町を出るという噂を聞きつけたのだ。

「頑張れよ。」「体に気をつけろ。」「この町のことは、忘れんな。」

みんな口にそう言ってくれた。俺は1人1人に頭を下げた。たった4年で、俺にはこんなにも温かい人たちができていた。

湯を出ると、煙突からいつものように白い煙がまっすぐ立ちのぼっていた。俺はその煙を目に焼きつけた。

ゴンさんと梅さんが、バス停まで送ってくれた。バスが来るまでの短い時間。俺はずっと言おうと思っていた言葉を、やっと口にした。

「ゴンさん、梅さん、俺、必ず戻ってきます。1人前になって、湯を安く沸かす技術を身につけて、そして今度は俺がこの亀の湯を守ります。だから、それまで元気でいてください。」

ゴンさんは、ふんと鼻を鳴らした。それから、俺の頭をあの大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。

「最後にもう1度言っとく。戻ってこなくていい。無理して戻ってくることはねえって言ってんだ。お前は、お前の道をまっすぐ行け。ただな…」

ゴンさんは、少し言葉に詰まった。ぶっきらぼうなその人が、初めて見せる顔だった。

「たまにでいい。元気でやってるかどうか、それだけ知らせてくれりゃ、それでいい。お前がどっかで笑って生きてる。それが分かりゃ、俺らはそれで十分なんだ。」

その時、俺は初めてゴンさんの目が赤くなっているのを見た。梅さんは、もう泣いていた。俺の両手を、あのしわだらけの温かい手で握って、何度も何度も頷いた。

「ちゃんとあったまって、こんなに立派になって。私はそれが嬉しくてね。嬉しくて、しょうがないんだよ。」

その時、ゴンさんがポケットから何かを取り出して、俺の手のひらに握らせた。古い木の下駄札だった。亀の湯の下駄箱の鍵代わりに使う、あの番号だ。俺がいつも使っていた木の札。随分使い込まれて、角が丸くなっていた。

「これ、持ってけ。」

「え、でも、これ店の大事な…」

「いいから、持ってけ。それは、お前の指定席の札だ。いつでも帰って来られるようにな。これを持っている限り、亀の湯はいつだってお前の家だ。忘れんな。」

俺はその小さな木の札を、両手で握りしめた。手のひらの中で、それはじんわりと温かい気がした。

「はい。忘れません。絶対に、忘れません。」

バスが来た。俺はステップに足をかけて、振り返った。小柄な2人が並んで、こっちを見ていた。

「行ってきます。」

それが、精一杯だった。バスが走り出す。窓の外で、ゴンさんと梅さんがいつまでも手を振っていた。小柄な2人が、だんだん小さくなっていく。それでも、2人は手を振り続けていた。バスが角を曲がって、2人の姿が見えなくなるまで、俺は窓に顔を押し付けていた。

4年前、俺はたった1人でこの町に流れついた。凍えかけて、誰にも必要とされていなかった。それが今、俺にはこんなにも別れが辛い人が2人もできた。手を振って見送ってくれる人がいる。それだけのことが、どれほど幸せなことか。あの2人が、俺に教えてくれたのだ。

角を曲がった後も、俺には2人の姿がはっきりと見えていた。俺の頭は、あの手を振る2人の姿を写真のように焼きつけていた。だから、俺はいつでも目を閉じれば、あの光景を思い出せる。そう、自分に言い聞かせた。

膝の上には、梅さんのおにぎりの包み。まだ温かかった。俺はそれを抱きしめて、声を殺して泣いた。

東京に着くまでの長い電車の中で、俺はそのおにぎりを1つ食べた。塩加減が少し濃いめの、大きなおにぎりだった。ほお張ると、また涙が溢れてきた。梅さんの手の味。これから、俺はこの味をしばらく味わえなくなる。そう思うと、一口ごとに喉の奥が熱くなった。

けれど、俺は前を向いていた。悲しみよりも、決意の方が大きかった。俺はあの2人に恥ずかしくない、立派な大人になるんだ。そして、必ず温かい湯を、この手でたくさんの人に届けるんだ。そのために、行くんだ。

東京での暮らしは、厳しかった。狭いアパートの一室で、俺はまた1人になった。夜、天井を見上げていると、亀の湯のあの湯気の匂いが恋しくてたまらなくなった。火の燃える音も、梅さんの「お帰り」の声も、ここにはない。

俺は何度も荷物の中からあの下駄札を取り出しては、握りしめた。その度に、ゴンさんの声が聞こえた気がした。「お前は、お前の道をまっすぐ行け。」

俺は歯を食いしばって、机に向かった。ここでくじけるわけにはいかない。あの2人が信じてくれたこの頭で、必ず何かを成し遂げて見せる。そう自分に言い聞かせて、俺は1日1日を乗り越えていった。

必ず戻ってくる。1人前になって。そして、今度は俺があの2人を守るんだ。あの朝、俺は心の底からそう誓っていた。

だが、この誓いを果たすまでに、俺がどれほど長い遠回りをすることになるか。そして、その遠回りの間に、何を失うことになるか。あの朝の俺には、まだ見えていなかった。

あの冬から20年が過ぎた。俺は東京の大学で必死に勉強した。熱を回収してもう1度お湯を温めるのに使う。その技術を、俺は寝る間も惜しんで磨いた。卒業して小さな会社に務め、やがて独立して自分の会社を起こした。株式会社ユモリ。「湯を守る」。そういう願いを込めた社名だった。

最初の数年は、地獄だった。誰も、何もない若造の作った機械など相手にしてくれなかった。何度も資金が尽きかけた。頭を下げても、鼻で笑われた。

1番応えたのは、裏切りだった。共同で会社を始めた大学時代の親友がいた。俺はそいつを心から信じていた。技術のことも、金のことも、何もかも打ち明けていた。ところが、そいつは俺の設計図をそっくり持って、大手の会社に移った。俺の技術は俺のものでなく、その会社のものとして世に出ることになりかけた。

裁判でなんとか取り返したが、俺の心はその時、決定的に冷えた。あんなに信じていた相手でさえ、平気で俺を裏切る。だったら、もう誰も信じない。信じなければ、裏切られることもない。俺はそう心に決めた。

あの頃、俺は思い知った。世の中は、優しさだけでできてはいないと。

それでも、俺は諦めなかった。俺の機械は、本物だったからだ。燃料を半分以下に抑えられる。その数字は、嘘をつかなかった。少しずつ、うちの機械を入れる戦闘が増えていった。戦闘だけではなかった。年寄りたちが毎日入る介護施設の大きな風呂。あそこも、湯を沸かすのに莫大な金がかかる。だから、うちの機械は全国のたくさんの介護施設にも入るようになっていた。

俺は知らず知らずのうちに、日本中のあちこちの湯を温め続ける仕事をしていたのだ。気がつけば、ユモリは従業員200人を超える会社になっていた。年商は80億円。俺は「成功者」と呼ばれるようになった。

大きな契約が決まった夜、俺は1人で高層ビルの社長室から、東京の夜景を見下ろしていた。足元に、無数の明かりが広がっている。俺はこの年で、大抵の人間が望んでも手に入らないものを手に入れた。金も、地位も、名誉も。

それなのに、俺の胸はあの真冬の公園と同じくらい、ガランと冷えていた。一緒に喜んでくれる人がいない。「よくやったな」と頭を撫でてくれる人がいない。あの亀の湯の狭い座敷で、3人で食べたショートケーキ。あの時の方が、この豪華な社長室よりずっと温かかった。

俺はそのことに気づかないふりをした。けれど、成功と引き換えに、俺はいつの間にか人を信じられなくなっていた。裏切られるのが怖かった。だから、誰もそばに寄せつけなかった。結婚もしなかった。友達もいなかった。会社では、社員から恐れられていた。「数字にしか興味のない冷たい社長」。そう影で言われているのを、俺は知っていた。

唯一、俺のそばにいてくれたのが専務の工藤だった。俺より10ほど年上のこの男だけは、俺の冷たさの奥にあるものを、なんとなく分かってくれていた。

ある日、新しく入った若い社員がミスをして、俺の前で震えていた。俺はいつものように冷たく、そのミスを指摘した。数字のどこが間違っているか。その社員は俯いて、唇を噛んでいた。

その俯いた横顔を見て、俺はふと胸を突かれた。それは、昔の俺自身の顔だった。疎まれて、責められて、じっと俯いていたあの頃の俺。

俺はいつの間にか、俺を追い詰めたあの叔父夫婦と同じ顔をするようになっていたのだ。「人を温めるために、この頭を使え。」ゴンさんはそう言ってくれたのに、俺は一体何をしているんだろう。

その夜、遅くまで会社に残っていた俺に、工藤がそっと声をかけてきた。

「社長、あなたは一体、何のためにこんなに走り続けてるんですか?もう、十分すぎるほど成功したのに。」

俺は答えられなかった。何のために?その問いの答えを、俺は本当は知っていた。亀の湯を守るためだ。あの2人に恩を返すためだ。俺はそのために、湯を沸かす会社を起こしたのだ。

それなのに、俺は亀の湯を出てから16年。ただの1度も、あの町に帰っていなかった。

なぜ、帰らなかったのか。最初の数年は、まだ繋がっていた。俺は正月になると、亀の湯に年賀状を出した。ゴンさんからは大抵返事はなかったが、たまに梅さんの丸い字で一言だけ書かれたはがきが届いた。「体に気をつけてね。」「ちゃんと食べてるかい?」その一言を、俺は何度も読み返した。

けれど、仕事が忙しくなると、年賀状を出すのも忘れるようになっていた。1度、出張の帰りにあの町の近くを通ったことがあった。あと少し足を伸ばせば、亀の湯に寄れる。そう思いながら、俺は結局まっすぐ東京へ帰った。「今の中途半端な自分では、まだ2人に会えない。もっと立派になってから。」そう、自分に言い訳をして。

忙しかったというのは、言い訳だ。本当は、怖かったのだと思う。立派になった自分を見せに行く。それは聞こえはいいけれど、心のどこかで俺は恐れていた。もし行って、2人に忘れられていたら。もし、あの温かさが俺の思い出の中だけの幻だったら。それを確かめるのが、怖かった。

だから、俺はいつも後回しにした。「来年こそ」「仕事が落ち着いたら」。そうやって、月日ばかりが過ぎてしまった。

その工藤の言葉が胸に刺さったまま、俺は眠れなかった。俺は寝室の机の1番奥の引き出しを開けた。そこには、16年間肌身離さず持っていた、あるものがしまってあった。古い木の下駄札だった。角が丸くすり減った、亀の湯の番号だ。旅立ちの朝、ゴンさんが俺の手に握らせてくれた、あの札だった。

「これを持っている限り、亀の湯はいつだってお前の家だ。忘れんな。」

ゴンさんのあの声が、耳の奥で蘇った。俺はその札を手のひらの上で、じっと見つめた。忘れていたのは、俺の方だった。あんなに大事なことを言ってもらったのに、俺はこの10年間、成功を追いかけることに夢中で、1番大事なあの人たちの家に帰ることを後回しにしてきた。

もういい。「仕事が落ち着いたら」じゃない。今だ。今行かなければ、俺は一生後悔する。その札を上着の内ポケットにしまうと、俺の心は久しぶりに、まっすぐあの町へ向かうと決まった。

翌朝、俺は工藤に告げた。

「工藤、少し休みをくれ。行かなきゃならない場所がある。ずっと後回しにしてきた場所だ。」

俺は車を走らせた。16年ぶりの、あの町へ。道はすっかり変わっていた。それでも、俺の頭はあの町の地図を1枚残らず覚えていた。

角を曲がる。もうすぐ、あの煙突が見えるはずだ。白い煙を吐く、あの煙突が。俺は期待に胸を膨らませていた。ゴンさん、梅さん、俺、戻ってきましたよ。約束、覚えてますか?もう、俺1人前ですよ。そう言って、2人を驚かせるんだ。あの味噌汁を、もう一度飲ませてもらうんだ。

角を曲がった。そして、俺は車を急ブレーキで止めた。

そこに、亀の湯はなかった。

建物は、跡形もなく消えていた。あるのは、雑草の生えたガランとした更地だけだった。あの暖簾も、番台も、湯舟も、何ひとつ残っていなかった。ただ、その一角にあの煙突の根元の部分だけが、ぽつんと折れた形で残っていた。もう2度と煙を吐くことのない、冷たい煙突だった。

俺は車を降りて、その更地の前に立ち尽くした。

「嘘だろ?」

声が震えた。遅かったのか?俺は…。

俺はその更地に、一歩足を踏み入れた。雑草を踏むと、かさかさと音がした。ここに番台があった。ここに下駄箱があった。ここに、あの大きな湯舟があった。俺の頭は、あの日の亀の湯を1枚残らず覚えている。だから、目を閉じれば湯気の立つ景色がはっきりと蘇る。けれど、目を開ければ、そこには冷たい更地が広がっているだけだった。

折れた煙突に、そっと手を当てた。ざらついた、冷たい感触。かつて白い煙を上げ続けた、あの煙突。もう2度と、火のぬくもりを宿すことはない。

俺はその場に立ち尽くした。長すぎた。俺が後回しにしてきた、その時間の重さが、目の前の更地の広さと同じだけ、俺にのしかかってきた。膝から、力が抜けそうだった。

どれくらい、その場に立っていただろう。背後から、遠慮がちな声がかかった。

「あの、もしかして、亀の湯を探していらしたんですか?」

振り返ると、おばさんらしき女性が立っていた。すぐ近くでクリーニング店を営んでいる、杉本さんという人だった。後で、名前を知った。

「はい。俺、昔この亀の湯に世話になったもので。」

そう言うと、杉本さんは目を見開いた。それから、俺の顔をまじまじと見て、口元を抑えた。

「もしかして、あなた、リタ君?ゴンさんとこにいた、あの頭のいい…」

「俺のこと、ご存知なんですか?」

「知るも何も、ゴンさんも梅さんも、あなたのこと。それはもう自慢してたよ。『東京で立派な会社をやってる子がいる』って。『あの子はうちの誇りだ』ってね。」

俺は言葉を失った。2人は、俺のことを忘れてなどいなかった。それどころか、ずっと俺のことを誇りに思ってくれていた。

けれど、次に杉本さんが口にした言葉は、俺をさらに打ちのめした。

「リタ君、あなた、知らないのね。ゴンさんね、3年前に亡くなったのよ。」

その言葉が、耳の奥でうわんと響いた。ゴンさんがいない。あのぶっきらぼうで温かいゴンさんが、もうこの世にいない。俺が後回しにしている。その間に、あの人は亡くなってしまった。

俺はその場にしゃがみ込みそうになるのを、必死でこらえた。あと3年。たった3年早ければ、俺はゴンさんに会えたのだ。「ありがとう」と言えたのだ。立派になった俺を見せることができたのだ。「約束したあの言葉、覚えてますか」と笑って言えたのだ。

それなのに、俺は間に合わなかった。「来年こそ」と後回しにしてきた。その1年1年が、こうして取り返しのつかない形で、俺の前に突きつけられた。金なら、いくらでもある。地位も、名誉もある。それなのに、俺は1番会いたかった人に、2度と会えない。この世のどんな数字を積み上げても、失った時間だけは取り戻せない。俺はそのことを、生まれて初めて思い知った。

杉本さんは、俺を近くの店の先に招き入れて、お茶を出してくれた。そして、ポツポツと話してくれた。

亀の湯は、ゴンさんが亡くなる少し前まで続いていた。客はうんと減っていた。経営は、とっくに苦しかった。それでも、ゴンさんと梅さんは湯を閉めなかった。

「あの2人はね、最後まで困った人を放っておけなかったの。お金のない子や、住む場所のない親子が来ると、ゴンさん、決まってただでお風呂に入れてあげてたのよ。あなたにしてあげたみたいにね。」

杉本さんは、湯のみを両手で包みながら、思い出すように言った。

「何年か前にもね、あったのよ。真冬の雪の夜に、母親と小さな女の子が湯の前で震えててね。お金がほとんどないみたいだった。ゴンさん、いつものように『まず入ってけ』って。梅さんは、その子にあったかいうどんを作ってあげて。あの親子、泣いてたわ。『こんなあったかい人たちが、まだいたんだ』って。」

「あの夫婦はね、自分たちの暮らしがどんなに苦しくなっても、湯だけは絶やさなかった。多分、あなたみたいな子がまた来た時のためにね。」

その言葉に、俺は俯いた。俺だけではなかったのだ。あの2人は、生きている間ずっと、寒さに震えるたくさんの子供たちに、黙って湯を差し出し続けていた。

杉本さんは、お茶を入れ直しながら続けた。

「ゴンさんね、亡くなる少し前まで、体が辛いはずなのに、毎日きちんと火に火を入れてたのよ。もう、お客さんなんて数えるほどしか来ないのに。それでも、あの人、湯だけは絶やさなかった。言ってたわ。『もし今夜、寒くて行く場のない子が通りかかったら、その子が家に入れるように。だから、火は消せないんだ』って。」

俺はその言葉に、胸を締めつけられた。ゴンさんは、最後の最後まで、あの真冬の夜の俺みたいな子供を待っていてくれたのだ。

「それとね、ゴンさん、いつも古い手帳を大事そうに持ってたの。何を書いてるのか聞いても、教えてくれなかったけど。あれ、どこに行ったのかしらね。梅さんが施設に持っていったのかもしれない。」

古い手帳。その言葉が、なぜだか俺の頭の隅に引っかかって、離れなかった。

そこへ、店の外から1人の男が入ってきた。作業着姿の、30代半ばくらいの体格のいい男だった。

「あら、浜口君。ちょうど良かった。」

浜口と呼ばれたその男は、俺を見ると首をかしげた。杉本さんが事情を話すと、浜口さんの表情が変わった。

「あんたが、リタさん。ゴンさんが、よく話してた。俺の兄貴みたいな人だ。」

浜口さんもまた、子供の頃あの夫婦に救われた1人だった。今は、この町で小さな工務店をやっているという。

「俺も、ガキの頃、親に置いて行かれて、行くとこなくて。そんな時、ゴンさんが『うちの湯で、あったまってけ』って、飯まで食わせてくれた。あの人らがいなかったら、俺は今ここにいない。」

浜口さんはそう言って、目をこすった。

「亀の湯が畳って決まった時、俺、なんとか続けられないかって、走り回ったんです。金を工面しようともした。でも、間に合わなかった。ゴンさんが、もう体が持たなくてね。結局、俺はあの人らに、何も返せなかった。」

浜口さんの声は、悔しさで震えていた。俺と同じだった。この人も、恩を返しきれないまま、あの場所を失ったのだ。

「更地になった時、俺、せめてあの煙突だけは残してくれって、頼み込んだんです。あれは、ゴンさんの生きた証だから。町のみんなの目印だったから。」

あの折れた煙突が、更地にポツンと残っていた理由を、俺はそこで知った。それは、浜口さんが必死で守った、ゴンさんの証だったのだ。

俺と浜口さんは、しばらく遠くに見えるその煙突を、黙って見つめていた。俺と浜口さんは初めて会ったのに、まるで昔から兄弟のような気がした。同じ人に、同じ湯で救われた。それが、俺たちを結びつけていた。

俺は2人に、1番聞きたかったことを聞いた。

「梅さんは…梅さんは、今、どこに?」

杉本さんと浜口さんが、顔を見合わせた。それから、杉本さんが静かに言った。

「梅さんはね、今、町外れの介護施設にいるの。ゴンさんが亡くなってから、気を落として。それで、少しずつ物忘れがひどくなって、認知症なの。もう、昔のことも、自分の子みたいに可愛がってたあなたのことも、ほとんど覚えてないって。」

俺は湯のみを握りしめた。梅さんは、生きている。けれど、その梅さんも、俺のことをもう覚えていないかもしれない。

それでも、それでも、会いたかった。生きているうちに、一目でいい。あの人に、会いたかった。

「その施設、教えてください。俺、梅さんに会いに行きます。」

浜口さんが、力強く頷いた。それから、少し言いにくそうに付け加えた。

「案内します。俺の車で。ただ、リタさん。1つだけ、覚悟をしといてください。この前、俺が会いに行った時も、梅さん『どちらさん?』って。あなたのことも、多分分からないと思います。」

「分かってます。それでも、いいんです。俺が会いたいんだ。この目で、あの人がちゃんと生きているのを、確かめたいんだ。」

浜口さんは、俺のその言葉に、静かに頷いた。

「行きましょう。」

浜口さんの車で、俺は町外れの介護施設に向かった。車の窓から、見慣れない景色が流れていく。けれど、俺の頭の中はあの更地の光景でいっぱいだった。ゴンさんは、もういない。梅さんは、俺を覚えていない。長い間後回しにしてきた報いを、俺は今、まとめて受けているようだった。

施設は、小高い丘の上に立っていた。「日向の里」という看板が出ていた。新しくて、清潔そうな大きな建物だった。

玄関で俺たちを出迎えてくれたのは、若い女性の職員だった。名札には「さ山」と書いてあった。梅さんの担当をしている、介護師だという。

「浜口さん、いつもありがとうございます。あら、そちらの方は?」

「こちら、リタさん。昔、亀の湯で梅さんに育てられた人で、今日は東京からわざわざ…」

さ山さんは、俺の顔を見て、パッと表情を明るくした。

「まあ、あなたがリタさん。梅さん、昔はよく『東京の立派な息子』の話をしていらしたんですよ。今は、あまり覚えていらっしゃらないんですけど。でも、来てくださって、嬉しいです。」

案内されて、俺は施設の廊下を歩いた。その時だった。俺の足が、ふと止まった。廊下の奥に、大きなガラス張りの浴室が見えた。立派な大浴場だった。年寄りたちが、何人も気持ち良さそうに使っている。その湯気の立ちのぼる様子を、俺はじっと見つめた。

「このお風呂、うちの自慢なんです。年寄りにとって、お風呂は何よりの楽しみですから。ここは、大きなお風呂を毎日いっぱいに沸かせるように、少し前に給湯の設備を新しいものに入れ替えたんですよ。」

「この設備、見せてもらえませんか?」

さ山さんは首をかしげたが、俺のただならぬ様子に、機械室へ案内してくれた。

機械室に入った瞬間、俺は息を飲んだ。そこにあったのは、俺の会社の釜だった。ユモリの給湯システム。俺が設計し、俺の会社が作った、あの機械。銀色の大きな装置の側面に、見慣れた社章のプレートが光っていた。

俺は、その場に立ち尽くした。俺の中の数字が、ぐるぐると回った。この施設は、いつの間にかユモリの機械を選んでくれていた。俺は、それを知らなかった。全国に何千といううちの機械がある。その1つ1つがどこに入っているかなんて、いちいち覚えていない。ましてや、この施設に梅さんがいることなど、想像もしていなかった。

けれど、事実はこうだった。梅さんが毎日使っているあの湯。あの温かい湯を温めていたのは、俺の機械だったのだ。

あの真冬の夜、凍えかけていた俺を温めてくれた亀の湯の湯。そのたった1杯の湯の恩を、俺は返せないまま20年を過ごしたと思っていた。けれど、違った。俺は知らないうちに、ずっとあの人に湯を返していた。俺が作った機械が、俺の代わりに、毎日毎日、梅さんの体を温め続けていたのだ。

俺があの夜もらった、あの湯を。

声が震えた。膝が崩れそうだった。俺はただ、何もない誰かのために湯を沸かす会社を作ったつもりでいた。それが、巡り巡って、俺を育ててくれたその人の元に届いていた。偶然と呼ぶには、あまりにできすぎていた。俺には、それがゴンさんと梅さんが、天国とこの世から、俺の手を引き合わせてくれたように思えてならなかった。

さ山さんが、そんな俺を心配そうに見ていた。俺は涙を拭って、事情を話した。俺がこの機械を作った会社の人間であること。そして、その原点が亀の湯にあること。

さ山さんは、話を聞き終えると、目をうるませて、こう言った。

「梅さん、いつも言ってました。『うちのリタは、湯を沸かす仕事をしてるんだって。日本中の寒がってる人を、あっためてるんだって。』その通りだったんですね。」

さ山さんは、そこで少し言葉を切って、俯いた。

「実は、私もなんです。」

「え?」

「私も、子供の頃、あの亀の湯に通ってたんです。うちは母子家庭で貧しくて、お風呂のないアパートで。お金のない月は、ゴンさんがいつもただで入れてくれてました。梅さんは、私におにぎりを握ってくれた。私が介護の仕事を選んだのも、あの2人みたいに、誰かを温められる人になりたかったからなんです。だから、梅さんがこの施設に来た時、私、運命だって思いました。今度は、私があの人を温める番だって。」

俺は、目の奥が熱くなった。ここにも、1人。あの2人に湯をもらった子がいた。そして、その子は今、あの2人の生き方をそのまま受け継いで、梅さんを支えていた。あの夫婦の巻いた種は、こんなところでも静かに花を咲かせていたのだ。

「あの、リタさん。1つ、お渡したいものがあるんです。梅さんが入所する時だけは、あって握りしめて、離さなかったものが。」

そう言って、さ山さんが持ってきたのは、1冊の古い手帳だった。表紙がすり切れて、ボロボロになっていた。ゴンさんがいつも大事そうに持っていたという、あの手帳。杉本さんが言ってた、あの手帳。

俺は震える手で、その手帳を開いた。中には、ゴンさんの下手くそな字で、こう書いてあった。

「寒そうな子を見つけたら、まず家に入れること。腹を空かせた子には、飯を出すこと。事情は聞くな。あったまってからだ。」

それは、ゴンさんが自分に言い聞かせるように書きつけた、生き方の覚え書きだった。何人もの子供たちを、どうやって救ってきたか。その証だった。

ページをめくっていく。俺の目が、あるページで止まった。そこには、こう書いてあった。

「あの14の子、リタ。いつかどこかで、元気で笑って生きていてくれたら、それでいい。それだけで、俺らは十分だ。」

俺の名前だった。ゴンさんは、俺の名前を忘れていなかった。亡くなるその日まで、この手帳に俺の名前を書きつけて、俺の無事を祈ってくれていた。

ページを、さらにめくった。そこには、俺の名前だけでなく、たくさんの子供の名前が書き連ねてあった。浜口。それから、さ山という名前もあった。俺の知らない名前も、いくつもあった。みんな、あの夫婦が家に入れ、飯を食わせ、そしてその後の無事を祈った子供たちだった。

名前の横には、ゴンさんの短い書き込みがあった。「この子は、笑うようになった。」「この子は、無事に就職したらしい。」「あの子は、どうしているか。」

1人、また1人と、あの夫婦は寒さに震える子を拾い上げ。そして、その1人1人を、こうして心に刻んでいた。

俺はそのたくさんの名前を、指でなぞった。俺は、あの2人にとって、大勢の中の1人だったのだ。そして、その1人1人が、あの2人にとって、かけがえのない我が子だったのだ。

そして、その俺の名前の書かれたページに、1枚の古い紙が大事そうに挟んであった。それを見た瞬間、俺は言葉を失った。

それは、俺が14歳の時に書いた、あの走り書きだった。亀の湯の燃料代を3割減らした、薪の使い分けの計算。そして、逃げていく煙の熱をもう1度湯に戻すための、あの仕掛けの絵。子供の拙い字と、下手な絵が、びっしりと並んでいた。

ゴンさんは、それを亡くなるその日まで、この手帳に挟んで、大事に取っておいてくれたのだ。

俺の全ての始まりが、そこにあった。ユモリという会社も、俺が設計した何千という機械も、梅さんを温め続けたあの施設の湯も、何もかもが、この1枚の子供の走り書きから始まっていた。そして、それを亡くなるその日まで大切に守り続けてくれたのが、ゴンさんだったのだ。

俺はその場で、全てが1本の線で繋がるのを感じた。あの真冬の夜、ゴンさんが俺に湯をくれた。梅さんが飯をくれた。2人は、俺の中にまだ生きていた。小さな才能の火を、消さずに守ってくれた。その火が大きくなって、ユモリという会社になった。そして、その会社の機械が、巡り巡って、今、梅さんを温めている。

恩は、まっすぐには返せなかった。けれど、俺の知らないうちに、ぐるりと大きな輪を描いて、ちゃんとあの人の元へ帰っていたのだ。ゴンさんは、俺がいつかそれに気づく日を待っていたのかもしれない。この手帳を、俺の手が開く日を。俺はそう思わずにはいられなかった。

俺はその手帳を胸に抱きしめた。声を上げて泣いた。子供みたいに、わあわあと泣いた。

「ゴンさん、あなたは、ずっと俺と一緒にいてくれたんですね。俺の知らないところで、ずっと俺の背中を押し続けてくれていたんですね。」

そばで、さ山さんも、浜口さんも、もらい泣きしていた。浜口さんが、俺の肩にそっと手を置いた。

「よかった。ちゃんと届いてたんですね。リタさんの恩返し。梅さんは、寂しくなんかなかった。知らないうちに、ずっとあんたの湯にあっためられていたんだ。ゴンさんだって、きっと天国で喜んでますよ。」

その言葉に、俺は頷くことしかできなかった。

俺は決めた。この手帳に書かれた、ゴンさんと梅さんの生き方を、俺が継ぐ。あの2人が、何もない子供たちにしてきたことを、今度は俺が続けていく。それが、2人へのたった1つの恩返しだと、俺は悟った。

俺はさ山さんに案内されて、梅さんの部屋へ向かった。手帳を胸に抱いたまま、廊下を歩く足が震えていた。会いたい。けれど、怖い。もし、忘れられていたら。あの温かい人が、俺を他人の目で見たら。俺は、それに耐えられるだろうか。

部屋のドアを開けた。

窓際のベッドに、小さなおばあさんが座っていた。梅さんだった。長い間は、あの小柄な人をさらに小さくしていた。髪はすっかり白くなり、やつれていたけれど、その穏やかな目元は、あの日俺の手を両手で握ってくれた、あの梅さんのままだった。

「梅さん。」

俺が声をかけると、梅さんはゆっくりとこちらを向いた。そして、にっこりと微笑んだ。

「あら、どちらさんですか?ご親切に、ありがとうございます。」

その丁寧な言葉が、俺の胸を貫いた。分かっていた。覚悟していた。それでも、実際に他人行儀にそう言われると、息が詰まりそうだった。浜口さんの言った通りだった。梅さんは、俺のことを覚えていない。あの亀の湯の4年間も。凍えていた俺を救ってくれたことも。おにぎりを握ってくれたことも。何もかも、あの人の中から消えてしまっていた。

俺はベッドのそばに、膝をついた。それでも、何か話しかけずにはいられなかった。

「梅さん、俺です。リタです。昔、亀の湯でお世話になった。覚えてませんか?火を炊いてた。あなたのご飯を、4杯も食べた。」

梅さんは、きょとんとした顔で俺を見ていた。何も思い出せないようだった。ただ、困ったように首をかしげるだけだった。

「ごめんなさいね。私、最近物忘れがひどくて。あなたみたいな立派な方に、お世話になったかしらねえ。」

俺はなんとか、梅さんの記憶をたぐり寄せようと、必死だった。

「亀の湯です。あの柚子湯の夜、俺、湯舟に柚子を浮かべたでしょう。冬至の日に、子供たちがはしゃいで。梅さん、『汗を吹いておやり』って、タオルを配って。俺の誕生日に、ショートケーキを買ってきてくれた。ろうそくを2本立てて。覚えてませんか?」

梅さんは、ただ優しく微笑むばかりだった。俺の言葉は、どれもあの人の中に届いていかない。まるで、湯が指の間からすり抜けていくように。俺は焦れば焦るほど、言葉が空回りするのを感じた。

ダメだった。俺は俯いた。もう、あの人の中に、俺はいないのだ。あんなに大切にしてもらったのに。あんなに温めてもらったのに。俺はあの人に、何ひとつ返せないまま。

その時、ふと俺はあの手帳の言葉を思い出した。「事情は聞くな。あったまってからだ。」そして、俺があの夜、あの人たちから最初にもらった、あの言葉を。

俺は顔を上げた。そして、梅さんのしわだらけの手を、あの日してもらったように、両手でそっと包んだ。その手は、冷たかった。俺はその冷たい手を握りしめて、あの日の言葉を口にした。

「梅さん、金なんかいらん。まず、あったまっていけ。」

その瞬間だった。きょとんとしていた梅さんの目が、大きく見開かれた。そして、その白く濁りかけた瞳に、みるみる涙が盛り上がっていった。

梅さんの唇が、震えた。

「その言葉…うちの人が、いつも言ってた。」

梅さんの手が、俺の手を握り返してきた。弱々しいけれど、確かな力で。

梅さんは、俺の顔を見つめた。昔の記憶の底を探るように。そして、ポロポロと涙をこぼしながら、梅さんは言った。

「あんた、あの時の子かい?」

「はい。」

「あの真冬の日に、うちの人が拾ってきた。ガリガリに痩せて、4杯もご飯を食べた、あのリタかい。」

「はい。はい。俺です。リタです。生きてます。ちゃんと生きて、戻ってきました。」

「生きててくれたんだね。」

梅さんは、俺の手を両手で握りしめて、声を上げて泣いた。

「よかった。ああ、よかった。あんたが元気で、それだけでいいんだよ。うちの人も、そう言ってた。『あの子が元気なら、それでいい』って。」

俺は、梅さんの小さな体を抱きしめた。もう、言葉にならなかった。ずっと言えなかった言葉を、俺はやっと口にした。

「梅さん、ありがとう。あの時、俺を助けてくれて。あったかい湯に入れてくれて。ご飯を食べさせてくれて。あなたたちがいなかったら、俺は今ここにいません。本当に、本当に、ありがとうございました。」

梅さんは、しばらく俺の顔を見つめていた。それから、ぽつりと、こう言った。

「うちの人がね、あんたが出てった後、寂しがってね。口には出さないけど、時々、ふっと『坊主は元気にしてるかな』って。」

梅さんは、ゴンさんの名前は出てこなかった。それでも、俺には分かった。あの無口なゴンさんが、俺のいなくなった湯場で、1人火を見ながら、俺のことを案じてくれていた。その姿が目に浮かんで、俺はまた涙がこぼれた。ゴンさんにも、会いたかった。「ありがとう」って、言いたかった。

「大丈夫。ちゃんと聞こえてるよ。あの人はね、いつだって、あんたの味方だったんだから。」

梅さんは、俺の背中を、あの人と同じように、ゆっくりとさすってくれた。

「よく頑張ったね。よくあったまったね。もう、大丈夫だよ。あんたは、もう大丈夫。」

戸口では、さ山さんが両手で口を抑えて泣いていた。浜口さんも、廊下の壁に寄りかかって、天井を見上げていた。目からこぼれるものを、こらえるように。

梅さんは、俺の顔を両手で挟んで、しげしげと見つめた。それから、くしゃりと笑った。

「大きくなったね。ちゃんとご飯食べてるかい?痩せてないかい?」

16年ぶりに会ったのに、梅さんの1番最初の心配は、やっぱり俺の腹のことだった。あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。俺は笑って、そして泣いた。

「食べてます。おかげ様で。梅さんに4杯もご飯を食べさせてもらったあの子は、もう、こんなに大きくなりました。」

「そうかい。そうか。よかった。」

俺は、あの古い手帳を、梅さんに見せた。ゴンさんの下手くそな字が並んだ、あの手帳。俺の名前が書かれた、あのページ。そして、長い間挟まれていた、俺の子供の頃の走り書き。

「これ、ゴンさんがずっと持っててくれたんです。俺のこと、忘れないでくれた。」

梅さんも、これを握りしめて、施設に来てくれたんですよね。梅さんは、しわだらけの指で、その手帳を撫でた。文字は、もう読めないのかもしれない。それでも、梅さんはその手帳が何より大切なものだと、分かっているようだった。

「うちの人がね、大事にしてたんだよ。これだけは、って。」

俺は、梅さんに話した。あの機械室で見つけた機械のこと。俺が湯を沸かす会社を作ったこと。そして、この施設の梅さんが毎日使っているあの湯を温めていたのが、俺の会社の機械だったこと。

梅さんは、きょとんとしながらも、俺の話を「うん、うん」と聞いてくれた。話を分かってはいないのだろう。それでも、最後に、こう言った。

「ああ、あんたは、私をずっとあっためてくれてたのかい?」

「はい。知らないうちにですけど。」

「そうかい。あの子が、私をあっためてくれたのかい。ありがとうね。ありがとうね。」

梅さんは、また涙をこぼした。けれど、その後、梅さんの目はゆっくりと、またあの遠い場所へ戻っていった。ふと、俺を見て、「どちらさん?」というような顔をした。さっき思い出したことも、もう薄れていくようだった。

それで、いいと、俺は思った。ほんのわずかな時間でも、梅さんは俺を思い出した。生きているうちに、言葉を交わすことができた。それだけで、俺は長い間の報われた気がした。

俺はしばらく、梅さんのそばにいた。梅さんはベッドに寄りかかって、こくりこくりとし始めた。その穏やかな顔を、俺は見つめた。この人の握ってくれたおにぎりで、俺は大きくなった。この人のかけてくれた言葉で、俺は生き直せた。返しても返しきれない恩が、この小さな体の中に詰まっている。

俺は静かに、梅さんの布団を直した。そして、心に決めた。もう2度と、この人を1人にしない。あの亀の湯をもう一度、この町に蘇らせる。あの2人が俺にしてくれたことを、今度は俺が続けていく。それが、俺にできるたった1つの恩返しだった。

窓の外には、いつの間にか雪が散らついていた。あの真冬の夜と同じ雪だった。けれど、あの日と違って、俺の心は少しも寒くなかった。梅さんの手の温かさが、20年前のあの湯の温かさと、全く同じだったからだ。

梅さんとの再会を果たして、俺は東京に戻った。けれど、俺の心はもう決まっていた。大金を梅さんに渡して、それで終わりにする。そんなことは、したくなかった。それは、ゴンさんと梅さんが俺にしてくれたことへの、答えにはならない。あの2人は、俺にお金をくれたわけではない。居場所をくれたのだ。あったかい湯と、あったかい飯と、そして「生きていていいんだ」という、あのまなざしを。

俺は専務の工藤を呼んで、話した。あの更地のこと。ゴンさんのこと。梅さんのこと。そして、あの手帳のことを。俺は初めて、工藤に自分の全てを打ち明けた。20年、誰にも話さなかった、俺の始まりの話を。

工藤は、黙って最後まで聞いてくれた。そして、聞き終えると、目を赤くして言った。

「社長。いえ、リタさん。あなたがなぜ、湯を沸かす会社をやっているのか。俺、今、やっと分かりました。やりましょう。何でも手伝います。会社を上げて。」

その工藤の言葉が、俺の固く閉ざしていた心を、ゆっくりと溶かしていった。長い間、俺は誰も信じてこなかった。裏切られるのが怖くて、人を遠ざけてきた。けれど、目の前のこの男は、俺の話を聞いて、我がことのように涙を流してくれている。

世の中は、優しさだけではできていない。それは、多分本当だ。けれど、優しさが全くないわけでもなかった。ゴンさんと梅さんがそうだったように。この工藤が、そうであるように。

俺は思い出していた。「人を温めるために、この頭を使え。」あの日、ゴンさんが言ってくれた言葉。俺はその言葉の半分しか、守れていなかった。湯は温めてきた。けれど、俺自身の心は、ずっと凍ったままだった。

もう、いい加減、俺も温まろう。そう思えた。

「工藤、ありがとう。お前を信じるよ。頼む。力を貸してくれ。」

そう口にした時、俺は本当に久しぶりに、人に心から頭を下げていた。

俺は、あの亀の湯の跡地を買い戻すことにした。そこにもう一度、亀の湯を建てる。ただの風呂屋ではない。子供食堂を合わせた戦闘にするのだ。お腹を空かせた子が、ご飯を食べられる場所。困った親子が、お金の心配をせずに湯に入れる日を作る。あの2人がしてくれたことを、そっくりそのまま続けられる場所にする。

浜口さんが、工務店を上げて力を貸してくれた。

「リタさん、この仕事だけは、何があっても俺にやらせてください。俺はあの人らに、何も返せなかった。せめて、あの人らの湯をもう一度この町に灯すのを、この手でやりたいんだ。」

浜口さんの目は、涙で光っていた。俺はその手を、固く握った。同じ湯で救われた2人の男が、今、あの2人の思いを継ぐために、手を取り合った。

けれど、話はそう簡単ではなかった。更地はすでに別の会社が買い取って、月極めの駐車場にする計画が進んでいた。俺はその会社に、何度も掛け合った。「金なら、いくらでも出す。だから、あの土地を譲って欲しい。」

相手は、軽い顔をした。年商80億の社長が、なぜこんな小さな土地にそこまでこだわるのか。俺は正直に話した。あの土地で、俺は命を救われたこと。あそこにもう一度、湯を建てたいこと。子供たちの居場所を作りたいこと。

最初は取り合ってくれなかったけれど、俺が諦めず通ううちに、少しずつ風向きが変わっていった。それを後押ししてくれたのが、町の人たちだった。話を聞きつけた杉本さんが、商店街を駆け回ってくれた。かつて亀の湯で湯をもらった人。ゴンさんに飯を食わせてもらった人。そういう人たちが、次々と名乗りを上げた。みんな、あの夫婦に返しきれない恩を抱えて、生きてきたのだ。

署名が集まった。「もう1度、亀の湯をこの町に。」そのみんなの声が、あの会社の社長の心を動かした。駐車場の会社の社長は、最後にはこう言って、土地を譲ってくれた。

「正直、金の話だと思いました。でも、違った。あんたも、この町の人たちも、金じゃない。もっと温かいものを、守ろうとしてる。そういうのに、水を差す気はありませんよ。」

こうして、俺はようやくあの大切な土地を取り戻すことができた。

1つだけ、俺がこだわったことがあった。あの折れた煙突を、壊さずに残すことだった。浜口さんが必死で守ってくれた、ゴンさんの生きた証。あれを、新しい亀の湯の真ん中に、モニュメントとして残す。そして、その隣に新しい煙突を立てる。古い煙突と新しい煙突が並んで、またこの町に白い煙を上げるのだ。

工事を急ぐ理由が、俺には1つあった。梅さんの体だった。この頃、梅さんの物忘れは少しずつ進んでいた。さ山さんからは、時々梅さんの様子を電話で知らせてもらっていた。食が細くなってきたこと。眠っている時間が増えてきたこと。

俺はその度に、いても立ってもいられなかった。梅さんが元気なうちに。せめて、まだ湯の匂いを嗅ぎ分けられるうちに。新しい亀の湯の湯を、あの人に見せたい。あの湯に、もう1度使ってもらいたい。それが間に合わなくなるのが、俺は何より怖かった。

俺は東京とあの町を、何度も往復した。会社の仕事の合間を縫って、現場に通った。浜口さんも、職人たちも、俺の気持ちを分かってくれていた。みんな、いつもより早く、そして丁寧に仕事を進めてくれた。1枚のタイルを貼るにも、みんながあの夫婦のことを思いながら、手を動かしていた。

工藤も、会社を上げて支えてくれた。「冷たい」と言われた俺の会社が、この時ばかりは1つになっていた。人を信じないと決めていた俺の周りに、いつの間にかこんなにもたくさんの温かい手が集まっていた。それも、みんなあの2人が俺に教えてくれた、優しさの巡りだった。

設計図を引きながら、俺は何度もあの手帳を開いた。「寒そうな子を見つけたら、まず家に入れること。腹をすかせた子には、飯を出すこと。」そのゴンさんの覚え書きを、俺は新しい亀の湯の1番見えるところに掲げようと決めた。あの2人の生き方が、この先もずっとこの場所に生き続けるように。

それから、2年が過ぎた。春の、よく晴れた日に、新しい亀の湯はうぶ声を上げた。古い煙突と新しい煙突が並んで、青い空に白い煙を上げていた。暖簾の向こうから、湯気と石鹸の匂いが溢れ出している。

夕方になると、下駄箱には大人の靴と子供の靴がいっぱいに並んだ。併設した子供食堂には、毎晩たくさんの子供が集まった。お腹を空かせた子も、家に帰りたくない子も、みんなあったかいご飯を食べて、あったかい湯に使って帰っていく。月に何度かは、どんな親子もお金のことを気にせず入れる日を作った。

番台の1番見えるところには、ゴンさんの手帳の言葉を映した木の札がかけてある。「寒そうな子を見つけたら、まず家に入れること。」

完成の日、俺は梅さんを招いた。車椅子に乗った梅さんは、さ山さんに付き添われてやってきた。新しい亀の湯の湯気の匂いを嗅いだその瞬間、梅さんの顔がふっとほころんだ。

「ああ、この匂い。うちの匂いだ。」

はっきりと覚えているわけではないのだろう。それでも、梅さんの体は、この湯気と石鹸の匂いをちゃんと覚えていた。あの人に染みついた、40年の亀の湯の匂いを。

梅さんは、俺の会社の機械で沸かした新しい亀の湯に、ゆっくりと使った。気持ちよさそうに、目を細めていた。

俺があの日、この人にもらった湯。それを、今、俺がこの人に返している。長い、長い遠回りの果てに、俺はやっとあの朝の誓いを果たすことができたのだ。

落成の日には、たくさんの人が集まってくれた。浜口さんは、自分の建てた新しい亀の湯を誇らしげに見上げていた。杉本さんは、目を真っ赤にして暖簾をくぐっていった。さ山さんも、非番の日に駆けつけてくれた。

そして、俺の知らない顔も、たくさんあった。かつてこの町の亀の湯で湯をもらい、飯を食べさせてもらった大勢の人たち。今は、立派な大人になった、あの夫婦の子供たちだった。みんな口々に、ゴンさんと梅さんの思い出を語り合っていた。

番台には、俺の宝物を飾った。あの下駄札だ。16年の間、俺をあの家と繋げてくれた木の札。俺はそれを、新しい下駄箱の1番上に、そっとかけた。これで、俺はいつでもここに帰って来られる。

梅さんは、あれから月に1度、さ山さんに付き添われて、新しい亀の湯に遊びに来るようになった。俺のことを覚えている日もあれば、覚えていない日もある。それでも、湯に浸かると、梅さんは決まって幸せそうに目を細めた。時々、昔の癖で番台に座ろうとして、みんなを笑わせた。

俺はその度に、梅さんの隣に座って、他愛のない話を聞いた。分かってもらえなくても、良かった。ただ、この人が温かい湯の中で笑っていてくれる。それだけで、俺の胸はいっぱいになった。

子供食堂の子供たちは、梅さんのことを「梅ばあちゃん」と呼んでなついた。梅さんは、その子たちに、たどたどしい手つきでおにぎりを握ってやった。あの、俺が夢中でほお張った、大きなおにぎりを。

あの夫婦の温かさは、こうして次の世代へと、静かに受け継がれていった。

会社も、変わった。俺はもう、人を疑うのをやめた。工藤や社員たちを、心から信じられるようになった。「冷たい社長」は、いなくなった。ユモリは今、全国の困っている戦闘や子供食堂に、格安で機械を入れる取り組みを始めている。あのたった1枚の走り書きから始まったものが、日本の誰かの湯を温め続けている。

先日、こんなことがあった。夕方の亀の湯に、1人の男の子が俯いて入ってきた。薄い上着1枚で、唇を青くして。

事情は、聞かなかった。俺はあの日してもらったように、その子に言った。

「金なんかいらん。まず、あったまっていけ。」

男の子は、びっくりした顔で俺を見上げた。それから、こくりと頷いて、湯に向かった。しばらくして、湯舟の方から、その子の泣き声が聞こえてきた。温かい湯に使って、張り詰めていたものが緩んだのだろう。俺には、その気持ちが痛いほど分かった。あの日、俺もあの湯舟で、同じように泣いたのだから。

俺はその子に、梅さんの言葉をそっくり送ってやりたいと思った。「あんたは、変なんかじゃないよ。ちょっと冷えすぎただけだよ。あったまれば、ちゃんと元に戻る。」あの言葉があの日、どれほど俺を救ったか。今度は、俺がこの子に同じものを渡す番だった。

やがて、湯から上がった男の子に、梅さん直伝の大盛りのご飯を出してやった。その子は目を真っ赤にしながら、それでも夢中でかき込んでいた。いい食いっぷりだった。

その姿に、俺はあの日のゴンさんの気持ちが、初めて分かった気がした。子供が腹いっぱい飯を食う。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいものなのかと。

その小さな背中を見送りながら、俺は番台でそっと呟いた。

「ゴンさん、梅さん、見ててくれよ。あの日、俺を温めてくれたように。今度は、俺がちゃんと誰かに渡してますよ。」

あの真冬の夜、俺は誰にも必要とされていないと思っていた。この世から消えてしまいたいと願っていた。そんな俺を、1杯の湯と1杯の飯が生かしてくれた。何もない夫婦の、見返りを求めない。ただ温かいだけの優しさが。

人は、1人では温まれない。誰かに温めてもらった記憶があるから、今度は自分が誰かを温められる。俺はあの2人から、それを教わった。

俺のできることは、もらった湯を次の誰かに手渡していくこと。ただ、それだけだ。それを絶やさない限り、あの2人はこの亀の湯の湯の中で、ずっと生き続ける。

新しい煙突から、白い煙がまっすぐ空へ立ちのぼっていた。あの日、俺が凍える公園から見上げた、あの煙と同じ煙だった。どんなに寒い冬にも、その煙の下には温かい湯が湧いている。それを絶やさないこと。それが、俺があの2人から受け継いだ、何より大切な宝物だった。

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