「石川君、お疲れ。今日付けで島流しだ」
部長の柏が、何の前触れもなくそう言い放った。
「は? 誰が窓際ですって?」
「窓際かどうかなんて、もうどうでもいいんだよ。君は今日付けで島流し。君の席は、この部署のどこにもないんだ」
俺は頭が真っ白になった。島流し? 左遷か、それとも別の部署への移動か。何の書面もなく、そんなことを告げられるなんて。
「あの、部長。私は一体どうすればいいんですか? 人事から何か書類が届くんですか?」
「書類が欲しいのかね?」
「当たり前でしょう。何の書面もなく島流しだなんて言われて、『はい、そうですか』と聞く人間がいると思いますか?」
「では、人事には私から手配しておこう。君の自宅に届くようにする。君は75億のプレゼン資料を私に送った後、直ちに自宅に帰りなさい」
「……じゃあ、やめますね」
俺の名前は石川学。新卒で大手メーカーに入社して3年目の25歳だ。営業部に所属している。元々フットワークが軽く、社交的な性格だから、営業職には違和感がない。むしろ毎日が新鮮で、新しいことを知るたびにワクワクしていた。
そんな俺が、なぜか頻繁に部長室に呼び出される。柏安典、45歳。インテリ風で自称エリートの男だ。ポマードで髪を撫でつけ、シワひとつないスーツに身を包み、糸のように細い切れ長の目が特徴的だ。営業部の先輩からは「柏には注意しろよ」とよく言われているが、具体的に何に気をつければいいのか、俺にはさっぱり分からない。
ある日、また部長室に呼び出された。
「君、最近調子がいいようじゃないか。何かあったのかね?」
成績がいいのに呼び出されることもあるのか、と俺は内心思った。
「ありがとうございます。おかげさまで、特に問題なくやっています」
すると柏は、俺の反論を待っていたかのように下唇を舐めた。
「うん。ならいいんだ。それから、若い営業社員は勘違いしてしまいがちなことがあってね。君にはその話をしておきたい」
何か重要な話かと思えば、交際費の使い方についてのレクチャーだった。
「大きな案件を取るためについ使いすぎてしまいがちなのが、若い社員の特徴だ」
は? 何を今更。交際費の使い方なんて、営業部に配属されたその日に経理から聞かされている。それに、俺はこれまで一度も交際費を使ったことがない。クライアントに奢るにしても、せいぜいカフェのコーヒーくらいだ。
「それでね、君には少し経費の不正利用の疑いがあるから、疑惑が晴れるまで外出禁止にするからね」
「え、外回りに出られないということですか?」
「そうだよ。経理によれば、数日もあれば調査が終わるということなので、別名が来るまで部署内で待機するように」
「冗談じゃないです!」
俺は思わず声を大きくした。
「それでは予定が狂ってしまいます。新規の飛び込みはしないにしても、アポのあるクライアントのところには行かせてください」
「うむ。部長である私の命令に逆らうというのかね?」
「いくら部長命令でも、聞き入れられないこともあります。クライアントは私との相談のために、多忙な中時間を割いてくださるんですよ」
だが、俺の必死の訴えは柏に届かなかった。
「とにかく、アポを取り消せば済むことだ」
柏は俺の言い分を一切聞き入れようとしない。俺はすごすごと部長室を後にし、自分のデスクに戻るなり盛大なため息をついた。
「石川、おはよう。どうしたんだ? 元気ないぞ」
隣の席の塚田が声をかけてきた。塚田は俺より3歳年上の、頼りになる兄貴分だ。
「先輩、聞いてくださいよ。俺、経費の不正利用の疑いをかけられてて」
柏に呼ばれていたことを話すと、塚田は「マジかよ」と声を詰まらせた。
「これでお前、そんなに交際費を使ってたのか?」
「してませんよ。ていうか、交際費って何ですかって感じです。俺、逆にコーヒー奢ったことしかないですよ」
「実はな、石川。俺もそれやられたことがあるんだ。気をつけろよ」
塚田がやられた時は、経理の調査で不正の根拠は見つからず、すぐに現場に戻れたという。だが、その調査で現場に出られない間に、20億もの案件を部長に奪われたのだという。
「なんてことだ」
俺は目を見開いた。俺は今、75億の案件を抱えている。そのことは部長も当然知っている。
ということは、経費の調査はただのこじつけで、本当の目的は75億の契約の横取りか。明日が75億の商談日で、今更変更もできない。それを知っていて、わざと経理がどうのこうのと言ってきたのかと思うと、心底腹立たしい。
「塚田さんは、その20億の商談、黙って部長に渡したんですか?」
「抗議はしたよ。おかしいってな。でも、俺の言い分に耳を貸す人じゃない」
「課長に間に入ってもらうっていうのはどうでしょう?」
「課長は部長に意見なんてできないんだ。俺も頼ったけど、全く頼りにならずに『ごめん』って謝られたよ」
俺は課長の席を見た。課長は黙々とパソコンと睨めっこしていて、俺がこんな目に遭っていることすら知らない様子だ。
「うーん、参りましたね。あ、経理に電話してみるのはどうでしょう?」
俺が経理に早く調査を終わらせてくださいと言ってみようかと言うと、塚田は「やめておけ」と返した。
「経理だって忙しい中調べてるんだ。対応には時間がかかるぞ。例の75億、他の日にリスケできないのか?」
「やれるだけやってみます」
俺は取引先に電話を入れ、明日のプレゼンを3日後に延期してもらえないかと持ちかけてみた。
「3日後ですか? では、社長の予定を確認してみますので、少々お待ちください」
横から塚田が「どうだ?」と聞いてきたので、俺は受話器を覆い「今確認中です」と答えた。
「石川様、お待たせいたしました。3日後の午前11時でしたら大丈夫だとのことです。変更しておきますね」
「はい、ありがとうございます。では、失礼いたします」
俺は静かに電話を切ると、小声で塚田にリスケできたと伝えた。
「いいか、石川。この話は俺以外の誰にも言うな。課長にも部長にもだ」
「それって、知られちゃうと契約取られちゃうからですか?」
「そうだよ。内密にしとけ。いいな」
俺は塚田に大きく頷いた。それにしても、部長が明日だと思っている75億のプレゼンの行方は、どうなってしまうのだろう。
その日の夕方、俺は再び部長室に呼び出された。なんと、経理からの調査結果がもう出たというのだ。
まあ、俺はほとんどクライアントと飲食をしないから、当然といえば当然だ。
「君の経費精算書には、何の疑いもなかったそうだ。よかったね」
「はい。では、明日から営業に出てよろしいですね」
そこで柏が下唇を舐めた。赤い舌がちらっと見えるのは、何とも不気味で見たくない。
「君、大きな商談があるよね」
「あ、はい。確か75億円の案件だったかな」
柏が目を細めて笑いを向けてきた。細い目なので、笑っているのか普通に開いているのか、とても分かりにくい。
「まあ、君、お疲れ。今日付けで島流しだ」
「は? 誰が窓際ですって?」
「窓際かどうかなんて、どうでもいいんだよ。君は今日付けで島流し。君の席は、この部署のどこにもないんだ」
俺は島流しの意味を考える。普通に考えれば、左遷もしくは移動ということになるのだろうか。
「あの、部長。私は一体どうすればいいのでしょうか? 人事から何かしらの書類が届くのでしょうか?」
「書類が欲しいのかね?」
「当たり前です。何の書面もなく島流しだなんて言われて、『はい、そうですか』と聞くものなんているはずがない」
「では、人事には私から手配しておこう。君の自宅に届くようにする。君は75億のプレゼン資料を私に送った後、直ちに自宅に帰りなさい」
「じゃあ、やめますね」
俺がふくれっ面で席に戻ると、ちょうど塚田が外回りから帰ってきた。
「塚田さん、お疲れ様です」
「おお、お疲れ。どうしたんだ、その顔は」
どうやら俺は、塚田が引くほどひどい顔色をしているようだ。
「島流しってどういう意味ですか?」
「は?」
「経費精算書は何の問題もなかったんです。そうしたら部長が、75億のプレゼン資料だけ送って帰れって」
すると塚田は自分のデスクを漁り、1本のUSBメモリを俺に差し出してきた。
「これに案件のプレゼン資料とか他のデータも全て移せ。そして共有ファイルサーバーに置いているデータを全部消すんだ」
俺は言われた通りにUSBメモリをパソコンに刺すと、データを全部移動させる。それからCドライブや共有サーバーに置いているファイルを全て削除した。
「終わったか。なら今日のところはもう帰れ。変な因縁はつけられたくないだろう」
俺はすぐ営業部を出て、自宅へと戻った。プレゼン資料だと思い込んでいる部長は、どうなってしまうのかと漠然と思った。
翌日、俺は「会社はもうやめたんだから」と思い、朝を決め込んでいた。すると8時50分に俺のスマホが鳴り出す。会社からの電話だが、無視することにした。しかし電話は1度止んでまた鳴り、止まることを知らない。俺はいい加減うるさくなってきた。
「何なんだよ、この鬼電。今更俺に何の用なんだ?」
俺は半ばイライラしながら電話に応じた。
「もしもし」
電話の向こうから、高圧的な声が聞こえる。柏だ。
「君、75億の資料をどこへやった? 君のパソコンを見ても、どこにもないんだ」
やっぱり75億の資料は手元に残っていなかったんだな、と俺は少し悲しくなった。あのプロジェクトのプレゼン資料を先方に送る時、柏にもコピーを送っているのだが、そのメールを探す力が欲しいのか、それともそこに資料があると分からないのか。
「とにかくだ。今から1時間以内に出社しろ。これは部長命令だ」
電話の向こうでまくし立てる柏に対し、俺は冷静だった。
「お言葉ですが、私は昨日付けで島流しになった身です。やめるとも言いました。もう部長の言うことには従いません」
「従うとしたら、島流し先の上司に従う」と言うと、「そんな上司はいない」という答えが返ってきた。
「どういうことですか?」
俺が怒りを含んだ声を出すと、相手はすっかり委縮した。
「実は昨日の夕方、岡田社長が俺の部屋にいらして、あの75億円の契約はどうなったかと問い合わせてきた」
「社長がですか?」
「だから今日は必ず成功させないと、私の首が危ないんだ。頼む。助けてくれ、石川君」
正直なところ、柏の首がどうなろうが俺の知ったことではない。だが、島流しの件についてもっと深く聞きたくもあるので、俺は会社へ行くことにした。
「よう、石川。部長の慌てっぷりにビビったか?」
塚田が目を丸くして俺に問いかけてきた。
「先輩、そんなんじゃないです。ただ、俺どうしても島流しの件が引っかかって」
塚田は「そうか」と短く言うと、部長室を指差した。俺は大きく頷いた。
「部長、失礼します。私の島流しの件についてお聞きしたくて出社しました」
「そんなことはどうでもいい。早く私に資料を渡すんだ」
「部長、お言葉ですが、私は以前部長にもプレゼン資料を添付した時のメールのコピーを送っています」
すると柏は「メールか」と言って、今度はメールを検索し始めた。
「あった、あったぞ」
しかし、メールに添付されている肝心のプレゼンファイルが開けない。なんと柏のパソコンには、プレゼン資料を開くためのソフトがインストールされていなかった。
「どういうことだ?」
「あの、部長。そういえばつい最近、前のパソコンが壊れたとかでパソコン変えていますよね。その時にインストールし忘れたんじゃないですか?」
その時である。
「失礼するよ、柏君」
穏やかな声で部長室に入室してきたのは、なんと社長の岡田だった。
俺はちょうどいいので、島流しの件を社長に問うことにした。
「私、石川学と申します。社長、私は75億円の契約を任されていたものですが、昨日付けで島流しとなりました。そこで疑問なのですが、島流しというのは具体的にどういうことなのでしょうか?」
岡田は俺の言葉を吟味しているのか、一瞬言葉を失い、やがて「誰にそんなことを言われたのかね?」と聞いてきた。
「柏部長です」
「え?」
柏にしてみれば必死だ。プレゼン資料が開けられないのだから、妙な汗もかいている。そんな時に島流しがどうのと言われても、対応できないだろう。
「柏君、どういうことかね?」
岡田が問いを放つと、柏はその場で背筋を伸ばした。
「ええっと、島流しというのはその、物の例えでして」
「何の例えだね?」
「とにかくもういい。君には75億の契約は任せられない」
社長曰く、島流しなんて風潮はこの会社にはなく、柏が独断で行ったことだろうとのことだ。
「君は何やら妙なことに巻き込まれているようだが、君が75億円の契約を担当していたのかね?」
「はい」
「では、君が引き続き担当しなさい。我が社にとっての一大プロジェクトだ。失敗など許されない」
「はあ。それは分かったんですが、結局私は今、どこの部署の所属なんでしょうか?」
そして俺は、柏の契約横取りを先読みし、昨日の段階で商談の日を3日後に設定したことを社長に暴露した。
「勝手なことをしてすみませんでした。でも、柏部長の手柄にされるのも嫌で。もちろん柏部長にそのことも伝えるつもりで出社したのですが、営業部に出社するのが果たして正しいのかどうか分からないんです。昨日やめるとも言いましたし」
「そうか。君には混乱を与えてしまって申し訳なかったね。元部長という立場に人事異動はないのだよ。だから君は営業部所属のままだ。退職届を出していないのなら、退職扱いにもしないよ」
「え、人事異動はないのですか?」
柏がはっとしてつぶやくと、岡田の怒声が響き渡った。
「いい加減にしないか、柏君。君は今日付けで更迭とする。人事から追って書面で通達するので、それまでは自宅謹慎としなさい。いいな」
柏は社長から怒鳴られると、「もうたくさんだ」と意味の分からないことを口走り、本当に帰宅していった。
がらんとした部長室内で、俺は社長と向き合った。
「あの、柏部長はこの件だけではなくて、数年前の20億の契約とかも横取りしてるんです。そういうのも調べて、合格にしてください。俺たち営業が汗水垂らして取ってきた案件を、ことごとく横からかっさらった罪、是非この機会に償ってもらおうじゃないですか」
「そうだったのか。知らなかったこととはいえ、君たちには不便をかけたね。もちろん会社としてしっかり調査した上で、彼の処遇を決めたいと思う」
これで過去に手柄を横取りされた先輩たちも、少しは報われるだろうと思うと、俺は少しだけいいことをしたような気がして、気分が良かった。
その日のうちに内部監査が入り、営業部の部長室には内部監査チームが立ち入ることとなった。内部監査チームによると、柏は営業社員の手柄横取りはもちろん、経費の不正利用もしていたことが明らかになった。
「俺たちのこと、あれだけ疑っておいて、自分は何してんだって感じですね」
「ああ、全くだよ。でもお前のおかげで、2年前の20億の件も評価してもらえた。ありがとうな」
金額にして約200億の手柄を横取りしていたのだから、柏のずる賢さには別の意味で感心してしまう。
そして俺はといえば、あの75億の契約を見事成立させ、社長に表彰されている。柏はといえば、横領まで発覚したとあって、さすがに在籍させ続けることもできず、懲戒解雇となった。
ちなみにあの時、柏がプレゼン資料を開けなかったのは、やはり柏のミスによるものだった。ITからパソコンの初期設定をしてもらう時に、インストールすべきソフトにチェックを入れるのだが、柏はプレゼン資料を開くソフトにチェックマークを入れていなかったのだ。なんともまあ、抜けたミスだった。
数ヶ月が経過した頃、俺はいつも通り営業で外回りをしていた。その時、雑踏の中に柏の姿を見た気がして、振り向いた。俺が見たのは、ダンボールを抱えてふらふらと歩く、帰る家のない人なのだが、まさか本当に柏なのだろうか。
俺は少し早足に歩いてその人物の前に出ると、小さく振り返った。
「あっ」
その人物はやはり柏だった。顔はやせて、髪はボサボサだが、細い目は健在で、柏だと教えてくれた。それにしても、こんなところでダンボールを抱えて歩いているということは、本当に帰る家をなくしてしまっているのだろうか。
俺は本人に話しかけて確かめようと思ったが、余計な情けをかけてすがられてしまうのが嫌で、見なかったことにした。
営業部としての数字の見直しがされてからは、中課長が部長へ昇格となり、塚田が課長職についた。中はかなりの営業センスを持っているし、塚田も兄貴分として申し分ない。俺は今の人事に満足しながら、日々の仕事に励んでいる。
そして俺は、なんと今度は120億というとてつもない案件を取り付けつつある。
「お前って本当にすごいのな。大丈夫か? 1人でできるか?」
「いえ、1人ではちょっと自信がないというか。課長のご指導を賜りたく存じます」
元気に言えば、塚田は満面の笑みで「頑張ろうな」と言ってくれた。中もそんな俺たちを温かく見守ってくれている。
俺はこの部署でもっともっと自分を磨いていくつもりだ。



