妻が泣き崩れて帰宅したのは、出発からわずか30分後のことだった。高級ホテルの最上階で開かれた忘年会。豪華な宴の席で彼女を待っていたのは、「無能社員の席」と刻まれた席札だった。
「私はこの仕事に魂を注いできた。毎日一生懸命、心を込めてやってきたのに……それなのに、みんなの前でこんなひどいことを」
声を震わせる妻の肩が細かく揺れ、化粧が崩れた頬を涙が伝う。たった一枚の紙切れで、彼女の人生そのもの、その誇りが粉々に砕かれようとしていた。
俺の頭がすっと冷えていくのを感じた。怒りが込み上げてくる。覚悟しておけよ。妻を追い詰めた男を、このままにしておくわけにはいかない。震える指が電話を掴む。そして、妻を追い詰めたあの男は、自分の行いを深く後悔することになるのだった。
俺の名前は山田慎司。思えばあの頃までは、何不自由ない生活を送っていた。朝は母さんの手作り弁当を持って学校に行き、放課後は友達と遊んで、夜は家族3人で晩御飯を食べる。そんな当たり前の日々がずっと続くと思っていた。
学校の成績は常に上位。特に数学と物理は得意で、担任からは「山田は頭の回転が違う」なんて言われていた。テストの点数を見て母さんが嬉しそうな顔をするのが何より好きだった。父さんも「信じるなら将来は好きな道に進めるよ」って、よく俺の頭を撫でてくれた。休みの日には父さんと野球をしたり、家族で近所の定食屋に行ったり、年に一度の贅沢を楽しみにしていた。母さんは食堂で働きながらもいつも笑顔を絶やさなかった。父さんは町場で働いていて、給料は安かったけど、俺たちは幸せだった。
だが、その平穏は突然崩れ去った。父さんの友人が経営していた会社が倒産し、父さんが連帯保証人になっていたことで、何千万という借金が俺たちに振りかかってきた。しかも父さんはその重圧に耐えきれなかったのか、ある日突然姿を消した。借金は全て母さんが背負うことになった。
制服は古びて、靴も穴が開いても買い換えられない。髪を切る金もなくて、高校の規定ギリギリまで伸ばしっぱなし。そんな俺を、それまで「頭いいよね」って言ってた連中が急に避け始めた。
「山田ってちょっと変わったよね」
「あいつの家、借金まみれなんだって」
「親が保証人で全部持ってかれたらしいよ」
「ボロボロの制服着て、恥ずかしくないのかな?」
陰口なんて、聞こえるように言ってやがる。手のひら返しもここまでとは。成績が良かった時は「山田君すごいね」って取り巻いてた女子連中も、今じゃ目を合わせようともしない。
俺だってこんな生活がいいわけじゃない。朝飯抜きで学校に来て、昼飯もパン一つ。それすら明日から無理だ。今月の生活費がもう底をついている。母さんは毎晩、借金の電話に追われ、泣きながら謝り続けている。そんな母さんを見ていられなくて、俺は高校を中退することを決めた。
そして入社して半年。俺は言われるがまま、加工された金属片をただ無心に削り、真っ黒になった作業場をひたすら清掃する日々を送っていた。
「はあ……」
俺は今、底辺コース真っしぐらで、もう誰からも相手にされず、影の薄い人生を歩んでいくんだと思っていた。いつもふてくされているような表情ばかりをしていたからか、同僚は愚か、先輩たちからも冷ややかな目で見られ、話しかけてくる奴は皆無と言ってよかった。このまま年齢だけを重ねていくだけのつまらない人生で、俺の一生は終わるんだろうな。
だが、ある人との出会いによって、俺の人生に一筋の光がもたらされることとなった。
「お前、今日から佐藤さんの下につけ」
「えっと、なぜ俺が?」
「佐藤さんたっての希望だ」
突然工場長にそう言われ、俺は半信半疑のまま言われた作業場へと向かった。
「あの、工場長から言われてきたんですけど」
「お入れ」
その言葉に俺が扉を開けると、佐藤さんが一心に道具を磨いているのが目に飛び込んできた。佐藤さんはここに務めて40年のベテラン職人の一人で、工場長のみならず、いくつかの取引先からも絶大なる信頼を誇っている。
「今日から俺が、お前に色々教えてやる」
小柄で、かつ長年機械油にまみれていたこともあってか、浅黒い肌と、しわの深いまぶたと唇が印象的で、見るからに頑固そうな親父といういでたち。口数も少なく、何を考えているのかが分からず、俺は戸惑った。どうして佐藤さんが俺の名前を出してきたのだろう。
「お前、この部品を削ってみろ」
そう言って差し出してきたのは、俺がいつも削っているネジだった。俺はぶっきらぼうに返事をしながら、旋盤の前に立った。先輩から教わった通りにネジの溝に刃を当てる。耳障りな音が響き渡り、俺は思わず顔をしかめた。
「貸してみろ」
俺が無言でネジを渡すと、佐藤さんが鋭い目つきでそれを覗き込むように見た。そうして彼は一言だけ、つぶやくように言う。
「製品を粗末にする者に、物を作る資格はない」
「はあ」
俺は生意気な態度で開き直った。だが、そんなことにはお構いなしに、
「今から作業場に来い」
「え?」
断る隙間も与えられず、俺は言われるがままついていく。
「いいか? 俺の手元をよく見るんだ」
そう言って佐藤さんは、長年使い込まれてきた丸みを帯びた指先で一つの部品を取る。
「これはな、航空機のエンジンの一部に使われているんだ」
そう言ってスイッチを入れ、旋盤に部品を固定していく。手元を見る目つきは、まさに職人そのものといった感じである。
「山田、よく見てみろ」
そう言って佐藤さんはネジを逆にしたり回したりしながら説明をしていく。
「0. 01ミリの誤差も認められない。この部品が一つでも不良品だったら、数百人の命が危ない。そのために必要なのは、数学や物理の知識、そして長年の経験と勘だ」
俺は黙って部品を見つめる。確かに表面は鏡のように輝いていて、まるで芸術品のようである。
「君は数学が得意だったろ。なら、この角度を計算してみろ」
突然の無茶ぶりに戸惑いつつも、俺は張ってある図面を見て、答えとなる数字を導き出す。
「正解だ。でも、それはあくまでも数字でしかないんだ」
それからというもの、マンツーマンで金属の性質、刃の選択、削る角度の決め方、細かい調整など、念入りに叩き込まれていた。初めから佐藤さんの手付きを見ていると、何も考えずに作業をこなしているように思えるが、手の感覚や指先の力加減で調整が施されていく。思わず引き込まれてしまい、気がつくともう昼時に近くなっていた。
「明日から朝一番で来い。特訓だ」
翌日から佐藤さんとの特訓が始まった。最初の課題は、ネジを削り出すことである。
「刃の角度が0. 1度違うだけで、表面の質が変わる。感じろ」
佐藤さんが旋盤を操る様は、まるで楽器を演奏するような繊細さである。
「とりあえずやってみろ」
最初の一週間は失敗の連続だった。少しでも力を緩めると削りすぎてしまうし、逆に固く持ってしまうと力が思うように入ってくれない。自分で手応えを掴まないと気が済まない俺は、工場の仕事が終わってからも一人黙々と旋盤を回し、あくる日もあくる日も金属を削り続けた。
「だめだ。こっちは少し溝が深すぎる」
「ああ、もうちょっとだったのに」
どうしてこんなにうまくいかないのかと、ぶつぶつ独り言を言いながら、佐藤さんからのアドバイスを脳内でリフレインさせる。あの時はよく投げ出さなかったものだと、自分でも驚くぐらいだ。
そんな生活が2週間も続いていた、ある日のことだった。
「よくできてるじゃねえか」
俺の横に積み上がった大量の失敗品をつまみ上げながら、佐藤さんは初めて俺に笑顔を見せてくれた。俺は涙が出るほど嬉しかったが、それをこらえようと、あえて何でもないように。
「でも、佐藤さんにはまだまだ叶わないです」
「当たり前だ。俺とお前なんぞ、比べる次元じゃない」
口調こそきついものの、目の奥は優しさで溢れている。
「あのな、佐藤さんはなんで俺のことを……」
続きを遮るように、佐藤さんは言う。
「お前によく似た孫がな。そいつも家庭環境のせいで、自分の人生を諦めようとしていた。父親が事故で倒れて家計が傾いたんだ。大学進学の夢も諦めかけていた。だが、そいつは工場で働きながら、夜は一生懸命に勉強して大学に通った。佐藤さん、与えられた環境で頑張ることができる奴は、自分の人生を自分で歩いていける奴だ。そいつもお前も、間違いなくそれができると確信した。そして、その通りになった」
「佐藤さん……」
俺の胸にその言葉がじんわりと広がっていく。
「佐藤さん、俺もっと知りたいです。佐藤さんのような職人になりたいんです」
真剣に工場の仕事に向き合ったからこそ、本心から湧き出た言葉だった。目の前にいる師匠は、静かに微笑んだ。
「やっと目覚めたか」
この日は今でも忘れることができない。それからの俺は、一つ一つの仕事に真剣に取り組むようになった。誰よりも早く工場に行き、玄関からトイレまでを丁寧に掃除する。誰もやりたがらない雑用仕事を積極的に引き受け、仕事が終わればそのまま居残り、佐藤さんの元で道具の扱い方や作業の一つ一つを手取り足取り指導してくれた。
「山田、お前はもう少し人に歩み寄ることをした方がいい。そうすれば、自分一人で抱え込まなくていい」
その言葉はまるで温かいスープのように心に染みていった。少しずつ周囲とも打ち解けられるようになっていき、先輩からどんな理不尽な扱いを受けても腐ることはせず、人が嫌がる仕事を積極的に引き受けていくうちに、工場長も俺のことを信頼してくれるようになり、重要な作業を任されることも増えていった。すると不思議なことに、今まで当たり前に起こっていた不良品の頻発も減っていき、取引先からのクレームもなくなり、「製品の質が良くなった」と評価してくれたことがきっかけとなって、新たな取引先からの受注も決まった。
「お前はいい師匠を持ったな」
その年の忘年会で、俺は初めて工場長から頑張りを認めてもらった時、俺は初めて工場に居場所ができたと思えた。父の借金も、母と二人三脚で少しずつ返済できるようになっていた。休日返上で働いた残業代を全て返済に回し、毎月コツコツと。最初は気が遠くなるような額も、3年かけてようやく半分まで減らすことができた。
「信じられない。こんなに働いてくれて」
母は涙を流しながら、毎月の返済予定表に印をつけていく。借金取りの脅迫めいた取り立ても、ようやく収まってきた。工場でも認められ、家計も少しずつ安定してきて、母の肩からも重荷が取れていくのを感じた。夜遅くまで食堂で働いていた母も、最近は定時で帰れるようになった。久しぶりに母の手作り晩御飯を、ゆっくり2人で食べられるようになった。
「ごめんね、シンジ。お母さんのせいで学校も……」
「母さんの責任じゃないよ。それに、俺は今の生活に誇りを持ってる」
逃げ出した父への怒りは今でも消えないが、それでも前を向いて生きていける自信が持てるようになった。心配ばかりかけてきた両親に、やっと親孝行らしいことができる。そう実感できた瞬間だった。
働き始めて7年目に入り、重要な作業を任せてもらえることも増え、後輩へ教える機会も多くなってきた。これからの人生、佐藤さんのように技術を磨き、職人として生きることも考えた。だがその一方で、そうではない生き方もあるのではないかと試行するようにもなったのだ。新聞で目にする廃業する町工場の記事。どんなに優れた職人が揃っていても、経営が立ち行かなくなれば、技術も人も失われていく。佐藤さんから受け継いだ技術は、後世に残していくべき価値があるはずなのに。
「経営についてもっと知りたい」
その思いは日に日に膨らんでいった。俺は自分の決意を佐藤さんに伝えることにした。すると、怖ったような表情をふんわりと崩しながら、
「そうか、分かった。お前がそこまで考えたことなら、存分にやればいい。ただし……」
そう言って佐藤さんは俺の肩に手を置いた。
「金に目がくらむようなことはするなよ。金は価値を正しく評価するための物差しに過ぎないんだ」
こうして俺はこの言葉を胸に、経営と投資にのめり込んでいった。
「山田、最近はどうだ?」
ある日、佐藤さんからそう尋ねられ、俺は箸を持った手を下に置いた。
「ありがたいことに損害はそこまで出てないですけど、海外の経済動向が気になりますね」
「お前はこの先もずっと株取引だけで人生を終えるのか?」
「え? それはどういう……」
「昔に比べてお前は随分と変わった。もちろんいい意味でな。社会のことをもっと知りたいと積極的に勉強する姿勢には、俺さえも頭が下がる思いだ。だからこそ……」
佐藤さんの目はいつにも増して真剣だった。
「その知識と目を、誰かを救うために生かしてほしい」
「佐藤さん……」
この言葉が、後の匠創生キャピタル設立の原点となったのだった。ものづくりの価値を理解し、その未来に投資する。佐藤さんから学んだ匠の心を新しい形で実現できるのかと思うと、俺は心からワクワクした。
「どんなに成功しても、初心を忘れるなよ」
今では誰もが知っている有名企業と対等に渡り合うたびに、俺は佐藤さんからのこの言葉を思い出すのだった。
そうして今、俺は東京一等地のオフィスビルの最上階から夕日を眺めている。匠創生キャピタルを設立して早や7年。3人から始まったこの投資ファンド会社も、今や従業員は100人を超える勢いだ。
「社長、新しい投資案件の資料です」
机の上に置かれた書類を見ながら、俺が常に考えるのは数字の向こうにある技術。その技術を支える職人たちのことである。
「よし、この案件は俺が直接工場に行って確認してくる」
今では社長として投資先の会社の重役と会うことが増えたが、時間があればできるだけ現場に足を運ぶようにしている。今にも潰れそうな町工場に名を賭けていいのかと、社員からため息の声も上がったが、現場を知っているが故の直感を信じ続け、見事町工場を再生させ、業界では「町工場の救世主」と呼ばれるようになった。こうして運用資産額が少しずつ伸びていき、今では大手投資ファンドに並んで注目のファンドとして紹介されることも増えた。
そんな俺の会社に、未知なる分野からの依頼が舞い込んできたのは、冬の厳しい寒さがようやく落ち着いた頃のことだった。
「是非とも、新しい介護ロボットの導入検討をするべく、お力添えをいただきたいのですが」
俺は早速、県外にある介護施設を訪れることになった。今日は施設の希望で、介護ロボットを開発しているという有名機械メーカーであるイナシスの女性社員と顔を合わせることになっている。その社員は若いながら、イナシスのシステム研究部において最先端のロボット開発を手掛けているという切れ者らしい。
「失礼します」
会議室のドアが開き、すらりと背丈の高い女性が入ってきた。髪を一つに束ね、薄化粧ながらも美人であることが一目で分かる。すっきりした顔立ちの女性で、思わず背筋が伸びた。
「イナシスの工藤り子です。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
凛とした佇まいに、俺も釣られて頭を下げた。
「匠創生キャピタルの山田です。今日はよろしくお願いします」
「山田さん、早速なんですが」
そう言って工藤さんはタブレットを取り出しながら説明を始めた。
「我々が開発している介護ロボットの特徴は、限りなく人間の動きに近づけています」
「人間の動きですか?」
「ええ、ちょっと分かりづらいと思うので、これを見ながら説明しますね。要は、介護の名手と呼ばれる人々の動きをデータ化し、そのソフトを全てこのロボットに組み込んでいます。介護される側に合わせた動きを一つ一つ解析して、ロボットに実装するんです」
その言葉に俺は思わず前のめりになった。
「なるほど。確かに人材不足が叫ばれる介護業界においては、大革命とも言えますね」
工藤さんの目が輝いた。
「その通りです。一人では無理なんです。だからこそ、今経験を重ねた人々の繊細な技術を通して、そういう人たちを支えていく。それが私たちのテーマなんです」
そこから俺たちの話は白熱し、技術面からはたまた未来の展望まで、話がどんどん繰り広げられていった。こんな人と一緒に仕事ができるなんて、光栄だな。
施設見学を終え、休憩室に戻ってきた俺たちは、ベンチに座って缶コーヒーを飲みながら今日のことを振り返る。り子さんはロボットの動きを身振り手振りを交えて説明してくれた。まるで介護される人のことを家族のように思っているような、そんな優しさが伝わってきた。
「ああ、これ差し入れです」
廊下で自販機を見かけた時に買っておいたコーヒーを彼女に差し出す。
「ありがとうございます。でも、山田さんって思っていた人と違いますね」
「え」
突然の言葉に、飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになってしまった。慌てて口を手で抑える。
「あ、すみません。悪い意味じゃないんです。私、投資ファンドってガツガツした、黒いスーツのおじさんがやっているイメージがあったんですけど、意外と素朴で……」
そう言って彼女の方が、心なしか赤く染まっている。
「あ、まあ確かに投資ファンドって言葉自体もあまり馴染みがないですからね。この仕事をよく理解されていないことは、重々承知ですから」
そう言って俺は苦笑いでごまかしつつ、話題を変えようと話を続けた。
「あの、介護ロボットに興味を持ったのは、何か理由があるんですか?」
すると彼女は缶コーヒーを握っている両手を膝の上に置き、語り出す。
「私の祖母が、私が高校生の頃に亡くなってしまったんですが、亡くなる少し前まで介護施設でお世話になってました。その時に何度も祖母の介助をしてくれている職員さんのお仕事を見て、なんだか大変そうに思えて。介護ロボットのことを知ったのは大学時代のこと。高度な技術を学ぶ傍ら、介護ロボットの開発をしている企業に何度も足を運び、その度に感銘を受けた。技術で人を支えたい。私の研究の原点はそこにあるんです」
そう語るり子さんに、俺は釘付けとなる。
「山田さんは、町工場出身なんですよね」
「はい。初めのうちは大変で……」
そこから俺は、学生時代から始まり工場勤務時代のことを思うがままに喋っていた。
「山田さんみたいな人でも、ご苦労があったんですね」
彼女がしみじみと言う。
「この仕事をしている以上は、苦労の連続ですよ」
俺は苦笑しながらコーヒーを一口飲んだ。
「今日はありがとうございました。また会えたら嬉しいです」
帰り際の工藤さんからの一言が、いつまでも脳裏から離れなかった。それからも連絡を取り合っては、彼女の研究室を訪れる頻度も増え、その度に会話をするのが唯一の楽しみになっていた。
「工藤さん、いつもありがとうございます」
「山田さん、今日は調子どう?」
差し入れの入った手提げを渡しながら、俺は奥にいるロボットに目をやった。今は最終テストに向けた調整を行っているのだという。
「あんまり邪魔はできないね。様子だけ見たら失礼します」
そう言って荷物を持ち直していると、
「あの、山田さん」
ん? 見ると工藤さんがもじもじしている。
「どうしたの?」
俺は他の社員の迷惑にならないように、彼女のそばに寄った。
「今夜、時間ありませんか?」
「え?」
思わぬ展開に、俺は柄にもなく照れてしまった。彼女は周囲を見渡しながら、耳元でささやく。
「もし嫌でなければ、2人きりでお話したいなって」
「いや、別に嫌じゃないですよ。工藤さん」
「り子でいいです」
思わず見つめ合った。
「り子さんは、好きな食べ物とかありますか?」
唐突な質問に一瞬面食らったような顔をしたり子さんだったが、緊張で固くなっている俺の顔を見るなり、吹き出すように笑った。
「何かおかしいこと言いましたっけ?」
「ごめんなさい。山田さんは仕事ではあんなにハキハキとしているのに、そうじゃない時って、ものすごく純粋な感じなんですね」
「すみません。こういうの慣れていなくて。でも、嬉しいです。ちゃんと距離感を大切にしてくれようとするところが」
そう話すり子さんの姿に、俺は改めて彼女への思いを認識した。俺たちは仕事以外でも会うことが増えていき、恋人関係になるのに時間はかからなかった。そして俺たちは結婚し、新しい家族となった。
それから1年の月日が経ち、娘のゆいが生まれて半年が経ち、今日は初めての保育園入園日を迎えた。り子は少しでも早く仕事に復帰したいと育休中に保育園を探し、ようやく近所の認証保育園の入園が叶ったのだ。当然、保育園に預けながらの仕事は想像以上に大変だったが、2人して仕事の調整をしながら送り迎えやゆいの世話を分担して行った。俺に一切の弱音を吐かず、家に帰れば常に笑顔で出迎えてくれるり子の強さは美しかった。
だが、俺の知らないところで、り子の苦悩は始まっていたのだ。
「山田さん、このプロジェクトは白紙で」
中村部長の言葉に、会議室の空気が凍りついた。り子は慌てて言葉を補足した。
「ですが部長、実証実験でも高い評価を得ていますし、上層部からも了承を得ております」
「ふん、お前何を言ってるんだよ」
中村部長は鼻で笑うように言い放った。新しく部長になった中村誠一郎は、キャリア30年のシステム開発畑から部長へと成り上がった切れ者として、社内ではその存在が知られていた。
「この企画書、昨日の会議前に慌てて書いたのか?」
中村部長は資料をパラパラとめくりながら、冷ややかな目を向けた。
「いいえ、何度も推敲を重ねて……」
「じゃあ、なぜコスト計算の詳細が甘いんだ? 市場分析も表面的すぎる」
り子が反論しようとすると、中村部長は手で制した。
「それに、先週も保育園の都合で会議を抜けただろう。そんな片手間な仕事で、こんな重要なプロジェクトが通ると思ってるのか」
休憩室でも、中村部長からの嫌み発言は続いた。
「おや、また保育園からお呼び出しかな」
スマホを片手にしたり子に、彼はわざと大きく声をかけた。嫌がらせをしている社員たちは、耳元でひそひそ何かを呟いている。それを満足そうに見ながら、彼は言う。
「子育ては大変だよね。仕事に集中できないのって、ストレスでしょ」
り子は背中を丸めながら、その場を後にするのだった。そしてとうとう、り子はある日の会議で追い詰められることになる。
それは、り子が中心に介護ロボット実用化に向けた、あのプロジェクトのプレゼンのことだった。コツコツと数年にわたって介護現場での詳細な実証実験施設とAI技術の最新を地道に積み上げていき、一緒にやってきた仲間からも十分な理解は得られていた。だが、り子からの発表が終わった瞬間、中村部長はあからさまに大きなため息をつき、腕をテーブルについた。
「あの、山田さん、それ前にも言ってなかった?」
「はい。介護現場からのヒアリングを重ね、AIと人の関わり方を……」
「またその『人の関わり』。その文言、好きだよね」
会議室にいた誰もがり子へ同情的な目を向けていたが、中村部長の突き放したような物言いは止まらない。
「子育て中の人に、こんな大きなプロジェクトは重かったんじゃないのかな」
その言葉に、り子の顔はこわばった。
「確かに、ご迷惑をおかけすることは多々ありました。ですが、その間もメンバーと連携を取りながら準備を……」
「迷惑かけてるって自覚あるんじゃん。ああ、仕事を半端にやってる人にプロジェクトを任せらんねえよな。このプロジェクト自体、見直した方がいいんじゃないか」
中村部長は資料を机に投げ出すように置いた。会議室内の空気が一気に重くなる。り子は唇を噛みしめ、何も言えなくなった。会社に復帰して3ヶ月が経つものの、自分の中では中途半端な感覚がずっと残っていた。仲間たちに遅れを取ることがないようにという焦りで、思うように研究が進まないこともある。それでもどうにかして仕事と育児の両立を図りながら、り子なりの働き方を求めていたことに対して、中村部長のあまりにも無神経な言葉は、刃のように刺さりまくった。
「中村部長」
り子は強い声を一生懸命に抑えながら話し始めた。
「このプロジェクトには、現場の声が必要不可欠なんです。もし私が……」
「はいはい。もう何回、何十回と聞き飽きました」
中村部長は露骨に嫌そうな表情で資料に目を落とす。
「介護ロボットは、介護業界の方たちにとって希望の光なんです。どうしても実用化にこぎつけたい。だから、せめてこの中のメンバーを責任者にして、再度……」
「おいおい、何言ってんだよ」
中村部長が目線だけをこちらに向ける。
「あなたは今までの輝かしい実績があるからと、少々のわがままが通ってきたのかもしれないが、私には通用しないよ。来週までに、介護ロボット以外の新企画を出してください」
そう一方的に言い放ち、会議室を後にした。
「山田さん……」
同僚たちが心配そうに声をかけた。しかし、り子はかすかに首を横に振りながら、
「大丈夫です。皆さん、引き続きよろしくお願いします」
悔しさをこらえながら、り子は会議室を出ようとした。
「ああ、山田さん。あなたに言い忘れていたことがあったよ」
中村部長がニヤニヤしながら会議室に戻ってきた。
「復職されてから、随分残業が増えましたね。お子さんも小さいというのに、ご主人は何も言わないんですか?」
「家族は、私の仕事を応援してくれています」
「ほ、そりゃ良かったですね。理解があって」
残業になるのは、中村部長からの度重なる雑務を投げられ、自分の仕事を後回しにせざるを得ないからである。その本人から嫌みをぶつけられ、思わずり子は顔を歪ませた。
「ご家族がかわいそうだな。こんなわがままな人に振り回されて」
「想像だけで言うのはやめてください」
だが、彼はとんでもないことを言ってきた。
「もしこの会社で働き続けたいのなら、時短という選択肢があるんですよ。その場合は……」
薄笑いを浮かべながら、り子の耳元に顔を近づけてこうささやいてきた。
「明日から、あなたの席を開発室から総務の隅に移動してもらいます。そこなら、子育てしながらでも仕事ができるでしょ」
「え、でも、私は……」
「私が戻ってきたのは、あなたにそれを伝えるためだ。とりあえず、詳細は書類を渡すので」
そう言って中村部長は、勝ち誇ったような表情で会議室を後にした。さっきまで同情的だった視線はなく、一緒にやってきたメンバーたちも、彼女を避けるように会議室を出ていってしまった。
その夜。
「ただいま」
声を震わせながら帰宅したり子は、眠っているゆいに触れながら、細かく泣いていた。たまらず俺は後ろからそっとり子を抱きしめた。
「ごめんなさい。何もかも中途半端にして、結局今までやってきたことが水の泡になってしまって」
そう言って泣きじゃくる彼女の背中を、俺はひたすらさすり続けることしかできなかった。
そうしてあっという間に寒い季節が訪れ、一年で一番忙しい師走に突入した。思いもよらない部署移動。それはり子にとって、まるで左遷のように感じられた。最初の数日は机に向かいながら、開発室での日々を思い出しては胸が締めつけられる思いだった。
ところが、総務課の人はり子の予想をはるかに超えて温かかった。
「山田さん、お茶でも飲みましょう」
「あら、ゆいちゃんの写真、可愛い」
「私も子育て中なのよ。大変だけど、ここの人たちに支えられてるわ」
誰もが自然に声をかけてくれて、時には育児の相談に乗ってくれる。中村部長の冷たい視線に怯えることもない。
「山田さん、もうすぐ忘年会よ。今年は最上階のホテルなんだって」
「そうなのね」
「一緒に行きましょうよ。あんな部長のこと、忘れちゃいましょう。私たちがついてるから」
「そうね。たまには羽を伸ばして、思いっきり楽しみましょう」
先輩たちが優しく声をかけてくれる。り子は控えめに微笑んで頷いた。開発室での辛い記憶が、少しずつ薄れていくのを感じていた。
「楽しみだな」
り子は控えめに化粧をし、久しぶりの外出に心を踊らせている。
「ママ、綺麗だね」
ゆいは母親のことをお姫様を見るように目を輝かせながら、ぴょんぴょんと跳ねている。俺は身支度をする背中に優しく声をかけた。
「今夜は存分に楽しんでおいで。でも、飲みすぎないようにね」
「分かってるわ」
そう微笑むり子を見て、俺は不意にときめきを覚えた。久しぶりに、あんな無邪気に笑うり子を見たかもしれない。
「じゃあ、行ってくるわね」
そうして笑顔で玄関を出たのだが、そのわずか30分後のことだった。
「ただいま」
「どうしたんだ?」
思わず駆け寄ると、り子は俺にしがみつき、声を抑えながら泣き始めた。
「私の席札に……これが……もう私、耐えられない」
その場にへたり込むり子は、今し方起こったというひどすぎる出来事を語り出した。
高級ホテルの最上階、大都会の夜景が一望できる会場。クリスマスシーズンを控え、天井から吊された大きなシャンデリアが温かな光を放ち、純白のテーブルクロスの上にはすでに料理が並べられている。普段はスーツ姿の社員たちも、この日ばかりは華やかな装いで、三々五々会場に集まってきていた。女性社員たちは普段より念入りにお化粧をし、男性社員たちもネクタイを締め直して、年に一度の忘年会に挑む表情には期待が浮かんでいる。
り子は少し遅れての到着だった。エレベーターを降り、会場に向かう廊下を歩きながら、鏡に映る自分の姿を確認する。パステルカラーのワンピース姿は、普段の研究室での作業着とは違う華やかな雰囲気を醸し出していた。
「すみません、遅くなって」
「あれ?」
会場の扉を開けた瞬間、り子は異様な空気を察した。周囲の社員たちの視線が一斉に自分に向けられる。その目には、同情とも困惑ともつかない感情が浮かんでいた。こちらに向けてくる気まずそうな視線を不思議に思いながら、あらかじめ決まっているという自分の席を一生懸命に探す。
「あった」
「え、何これ?」
見ると、名前の下に「無能社員の席」と書かれている。
「山田さんの席はそこだよ」
中村部長の声が横から聞こえたが、上司の顔を見ることはできなかった。
「ほら、そこだよ。君にぴったりの札を、わざわざ用意してあげたんだ」
彼の口調に、意地悪な笑みが含まれているのが分かる。
「ああ、字読めないのかな? 君の夢物語みたいなアイデアと同じで、現実が見えてないのかもね」
り子は一生懸命唇を噛み、涙をこらえるために爪が手に食い込むほど強く握りしめた。
「あの、席札は一体どういう意味で?」
「その通りに決まってるだろ」
「え?」
中村部長の周りにいる取り巻きの社員たちが、一緒になって意地悪そうな目でこちらを見ている。
「ろくに仕事もせず、給料だけもらってる無能に何ができるんだよ。部署移動になっただけでも、ありがたいと思え」
その時、り子の中で何かが切れた。怒りが波のように押し寄せる。
「違います」
り子の声が宴会場に響き渡った。
「私の提案は夢物語じゃありません。実際に職人さんと話し合って……」
「うるさい」
中村部長の怒鳴り声が、り子の言葉を遮った。会場の空気は明らかに凍りついている。11年間続けてきた全てが、たった一枚の紙切れで粉々に砕かれたような気がした。もうこれ以上この場にはいたくないと、会場を抜け出し、気がつくと我が家の前に佇んでいた。
「私、もう無理かも」
「まずは上がろう。寒いぞ」
俺はり子の両肩を抱き抱えるように立たせ、リビングまで導く。ソファーに座ったり子は、しばらく下を向いたまま黙っていた。その手には、あの席札が握りしめられている。り子が途切れ途切れの声で、一気に吐き出した。
「11年? 11年間、私はずっと信念を持ってこの仕事をしてきた。そりゃ辛いこともたくさんあったけど、仲間たちと共鳴しながら、新しいアイデアがひらめく度にそれを形にしていくことが、楽しくて仕方なかった。でも、今は……」
り子は顔を覆い、声をつまらせた。
「今は怖いの。アイデアがひらめいても、会議で発言するのが怖くてたまらない。またあいつが何か言ってくるんじゃないかと思うと」
俺は黙ってり子の言葉を聞いていた。
「あいつ、中村が来てから、私のアイデアは全部却下してくるの。AIと職人の技術をどうやっても非効率的だって。でも、私は信じてる。人のぬくもりと技術が融合してこそ、本当の意味での介護支援になるって」
彼女は何度も右手の中の札を握りしめる。
「馬鹿にされるのは慣れてる。でも、でも今日は違った。みんなの前で、こんな形で……」
り子の言葉が途切れ、隠していた涙が溢れてきた。
「もう、私には何もできないのかな?」
「もういい」
俺は静かに、強く言い切った。
「もう何も言わなくていい。辛かったな」
そうして俺は、り子を優しく抱き寄せた。
「り子はいつも仕事をしながら、家のこともちゃんとやってくれるし、ゆいのこともちゃんと見てくれてるだろう。それだけで十分すぎるよ。よく頑張った」
誰よりも頑張り屋の彼女を、ここまでズタズタに傷つけるとは。俺は決着をつけることに決めた。俺は携帯電話を掴み、とある人物に電話をかけた。
「社長、明日の朝一番、中村部長の件で話があります」
短い沈黙の後、社長の緊張した声が帰ってきた。
「承知しました。8時に私の執務室でお待ちしております」
受話器を置きながら、俺は静かに、しかし強く拳を握りしめた。り子を追い詰めたあの男は、自分の行いを深く後悔することになるだろう。
俺は8時前、イナシス本社50階の社長室を訪れていた。普段は秘書を通さないと入れない社長室だが、今日は特別だ。ソファーセットに腰かけた俺の横で、社長は時折り目配せをしながら黙って時計を見つめている。あと5分。その時、ノックの音が響いた。
「失礼します」
中村部長が紅茶の入った湯呑みを片手に、悠然と入ってきた。俺のことには全く気づいていない様子で、高級スーツの襟を直しながら社長に向き直る。
「おはようございます、社長。昨日の忘年会は大変盛況でしたね。特に私が用意した札のサプライズは、みんなも気に入っていたようで」
得意げな表情で話し始めた中村は、ようやく俺の存在に気がついた。明らかに困惑した表情を浮かべている。
「あの、この方は……」
「山田と申します。山田り子の夫です」
俺の言葉に、中村の表情が一瞬固まった。だが、すぐに軽蔑的な笑みを浮かべた。
「ああ、山田の旦那様ですか。奥様のことで何かご不満でも? まさか、我が社の人事に口を出すつもりじゃないでしょうね。言っておきますけど、育児と仕事の両立もままならない社員の面倒まで見させられて、こっちは迷惑しているんですよ」
中村の言葉の一つ一つが、俺の中で怒りを膨らませていく。り子がどれだけ一生懸命に仕事と育児の両立を頑張ってきたか。あの忘年会の席札のことを思い出すと、拳が震えるのを感じた。しかし、俺は表情を変えずにゆっくりと名刺を取り出した。
「匠創生キャピタル代表取締役社長、山田慎司です」
その瞬間、中村の尊大な態度が氷のように崩れ落ちた。業界で「町工場の救世主」と呼ばれる存在。製造業に特化した投資ファンドのトップが目の前にいることを理解したのだ。
「まさか、あなたが……」
先ほどまで人を見下すような高圧的な態度は消え、中村は椅子に座り込むように崩れ落ちた。こちらを見る目には、明らかな恐怖の色が浮かんでいる。
「中村部長」
俺は静かに口を開いた。
「本日付けで、あなたは部長職を解任します」
「な、何の権限があって?」
「我が社は、御社の筆頭株主です。出資比率15%。メインバンクを上回る最大の株主として、私には権限があります」
「そうか」
中村は苦い表情を浮かべた。
「なるほど。そういうことですか。工藤……いや、山田り子の旦那様だから、ひいきしているんですね。どうせ家では毎晩あの札のことでぐちぐち言われて、かわいそうに。奥様の機嫌を取るために、わざわざ会社まで出向いて来られたんでしょう。所詮、会社の人事に首を突っ込んでくる投資家なんて、ただの外野でしかない。何が町工場の救世主ですか。聞いて呆れますね」
「違います」
俺は強く否定した。
「私が御社に投資を決めたのは、人とテクノロジーの融合という理念に深く共感したからです。職人の技を生かし、それを未来へつないでいく。それが御社の理念のはずでした」
「理念? 笑わせないでください」
中村は声を荒げた。
「あなたの妻は、AIだAIだと騒いで、職人の仕事を奪おうとしている。それのどこが理念に沿っているんですか?」
「本当にそうですか?」
俺は冷静に問い返した。
「妻の設計図を見たことがありますか? あの介護ロボットは、熟練した職人の技がないと動かせないんです。全ては職人ありきで設計されている」
「そんなはずが……」
「先週、私は工場に足を運びました。職人たちに妻の設計を見てもらいました。すると、彼らは口ぐちに言いました。『これなら俺たちの技術が生きる。次世代に技を伝えるいいチャンスになる』と」
中村の顔が青ざめていく。
「現場を知らない者が……いや、現場を見ようともしない者が、何を理解できるというんです。妻は毎週のように現場に足を運び、職人たちの声に耳を傾けてきた。一方のあなたは、机上の空論で人を追い詰めることしかしていない」
「嘘だ。そんなの全部嘘に決まってるだろう」
中村は突然大声で叫び出した。椅子から立ち上がり、両手を振り回しながら取り乱している。
「最初はみんなそうやって甘い言葉を並べるんです。AIと職人の技を生かす? 笑わせないでください。私は見てきたんです。この目で見てきた。AIの導入で職を失った職人たちを。『あなたの技術は大切です。一緒に新しい時代を作りましょう』って。そうやって誘い込んで、結局は使い捨てにされるんです。私は、私はそんな現場を何度も見てきた。大勢の職人たちが路頭に迷うのを」
「中村君、もうやめなさい」
社長が中村をいさめようとした、その時、ゆっくりとドアが開く音が響いた。
「失礼します」
一人の老人が入ってきた。小柄な体格に、長年の工場勤めで浅黒く鍛えられた肌。俺の人生を変えてくれた恩師、佐藤さんだった。
「佐藤さん、ご足労いただき申し訳ありません」
俺は深々と頭を下げた。
「職人の代表として、私が工場時代にお世話になった恩師に来ていただきました」
中村は凍りついたように、佐藤さんを見つめていた。声が震えている。
「じ、じいちゃん……」
「ああ、誠一郎、久しぶりだな」
佐藤さんは穏やかな笑みを浮かべながら、孫である中村に近づいていく。まるで工場で俺を指導してくれた時のような、温かな眼差しだった。
「誠一郎。お前の気持ちは痛いほど分かる。職人の技を守りたい。俺たちの世界を守りたい。そう思ってくれたんだよな」
中村は俯いたまま、小さく頷いた。
「お前は昔から、俺たち職人の仕事を誇りに思ってくれていた。工場に来るたびに目を輝かせて、俺の仕事を見ていたじゃないか」
佐藤さんは孫の肩に手を置いた。その手には、長年の職人生活で刻まれた無数の傷跡がある。
「だからこそ、AIに仕事を奪われるんじゃないか。職人の居場所がなくなるんじゃないかって、怖かったんだろう。俺たちの技術が消えていくのを黙って見ているのが、辛かったんだな」
中村の肩が小刻みに震え始める。
「けどな、誠一郎。守り方を間違えちまった。人を追い詰めて、傷つけて。それで何が守れるんだ?」
佐藤さんの声は優しいが、芯の通った強さがある。
「山田さん、り子さんの設計図を見せてもらった。あれは違う。あれは職人の技を消すんじゃない。むしろ、俺たちの技を次の世代に伝えていく新しい形なんだ」
「でも、おじいちゃん……」
「お前、覚えているか? 工場で働きながら大学に通っていた時、よく言ってただろう。『新しい時代に合わせて、職人の技を活かす方法を見つけたい』って」
中村の目に、かすかに涙が光る。
「その思いは正しかった。だが、守ろうとする肝心なものを見失っちまった。職人の誇りは、人を傷つけることじゃない。より良いものを作ろうとする心にあるんだ」
佐藤さんは中村の顔をじっと見つめた。
「お前の中にある職人を思う気持ち、それは俺たち職人の誇りに尽きる。だがな、その思いは人を傷つけるんじゃなく、次の世代につないでいかなきゃならないんだ」
静かな佐藤さんの言葉が、重みを持って部屋中に響いていく。それは俺が工場で教わった時と同じ、温かくしかし揺るぎない説得力を持っていた。
俺は一歩前に出て、静かにしかし確信を持って語り始めた。
「中村部長、り子の設計図を見てもらえば分かります。あの介護ロボットは、職人の技なしには決して作れないんです」
中村が顔を上げる。
「機械の精密な部品の一つ一つに、職人技が必要不可欠なんです。0.

1ミリの誤差も許されない。それほどまでに繊細な技術が要求される。だからこそ、り子は足しげく工場に通い、職人さんたちの意見を聞いて回った」
俺は佐藤さんの方を見合ってから続けた。
「でも、あなたは何も見ようとしませんでした。AIは職人の仕事を奪うと決めつけて、り子の話を一度も最後まで聞こうとしなかった。り子はそんなこと、初めから考えていなかったんです」
中村の表情が揺らぐ。
「むしろ、あなたのその決めつける態度こそが、職人さんたちの仕事を脅かしかねない。新しい技術と職人の技が共存できる未来を、あなたは自ら閉ざしていたんです」
「私が……私が、職人の仕事を……」
中村の膝から力が抜け、その場にへたり込むように座り込んだ。両手で顔を覆い、肩が小刻みに震えている。
「違う。全部、違った。私は守ろうとして、守ろうとして……」
涙声混じりの言葉が、静まり返った社長室に響いていた。佐藤さんは床に座り込んだ中村の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
「山田君、許してやってくれないか?」
佐藤さんは俺を見上げた。
「君に話したことがあるだろう。昔、家庭環境で苦労しながらも、一生懸命に働いてきた若者の話を」
「はい」
俺は思い出した。佐藤さんが工場で、その人の話をよくしていたこと。
「それが、この誠一郎なんだ」
佐藤さんは孫の背中を優しく撫でながら続けた。
「父親が事故で倒れて、家計が傾いた。大学進学の夢も諦めかけていた。だが、そいつは工場で働きながら、夜は一生懸命に勉強して大学に通った」
中村は顔を上げ、祖父を見つめた。その目には涙が溢れていた。
「誰よりも早く工場に来て、床を磨いて。誰もやりたがらない仕事を率先してこなして。私が体を壊した時なんか、休学までして工場を支えてくれた。誰よりも職人を思い、誰よりも現場を大切にしていた」
佐藤さんは私の方を向いた。
「だからこそ、AIに職人の仕事が奪われるという恐れが、あいつの心を曇らせてしまったんだ。守ろうとする気持ちが強すぎて、新しい可能性に目を閉ざしてしまった」
俺は中村の姿に、かつての自分を重ねていた。一生懸命に這い上がろうとする姿。ただ、その思いの向け方を間違えてしまっただけなのだ。
俺は部屋の窓際まで歩き、夜景を見つめながら話し始めた。
「中村さん、匠創生キャピタルの関連会社に、ものづくり研修センターという施設があります」
中村が静かに顔を上げる。
「そこは、AIと職人技術の融合を目指す施設です。ベテラン職人から若手技術者まで、様々な立場の人が集まって、これからのものづくりのあり方を模索している」
俺は中村の方に向き直った。
「あなたの経験が必要です。工場で培った技術。現場を知る者としての視点。そして、経営の知識。これら全てを生かして、新しい時代の職人育成に携わってもらえませんか?」
中村は大きく目を見開いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「私に、そんな資格が……」
「ありますよ」
俺は頷いた。
「佐藤さんが言った通り、あなたは誰よりも職人を思い、誰よりも現場を大切にしてきた。その思いを正しい方向に向ければいい。り子のような技術者と、職人の懸け橋になってほしいんです」
中村は長い沈黙の後、深々と頭を下げた。
「お願いします」
その声は小さかったが、確かな決意が感じられた。佐藤さんの顔に、安堵の笑みが浮かぶ。中村の新たな挑戦が、ここから始まろうとしていた。
あの騒動から1年が経っていた。業界誌「日本製造業新聞」の表紙を飾ったのは、り子が開発したAI介護ロボットだった。「AI×職人、新時代の幕開け」。そんなタイトルと共に、最新介護ロボットAIが高齢女性に寄り添っている写真がデカデカと載っている。
「すごいな、り子」
そうつぶやきながら、俺は熱心に内容を読んでいる。記事は10ページにも及び、り子たちの開発したシステムを絶賛していた。また、毎年行われている展示会では、イナシスのブースに業界関係者が群がっていた。彼女は落ち着いた様子でシステムの説明をしている。その姿は、あの忘年会で泣きながら帰ってきた彼女とは別人だ。
こうして介護ロボットを導入したいと取引を希望する事業者は後を絶たず、イナシスは連日嬉しい悲鳴を上げている。彼女の元には新システム導入の問い合わせや新たな開発プロジェクトの話が押し寄せ、連日その対応に追われている。
そして、中村もまた、ものづくり研修センターで新たな一歩を踏み出していた。
「中村さん、この部品の加工方法について教えていただけますか?」
「ああ、なら職人さんと一緒に確認してみようか」
かつての高圧的な態度は影を潜め、現場の職人たちと若手エンジニアの間に立って、両者の懸け橋となっている。AIと職人技の融合に取り組む研修センターで、中村は持ち前の知識と経験を存分に生かしていた。
「中村先生のおかげで、職人さんの技術がよく理解できるようになりました」
研修生たちからの信頼も厚い。時にはり子も講師として招かれ、AIと人の融合について熱く語り合う姿も見られるようになった。
そして、ある日の夜。俺はり子と2人、自宅のベランダで夜空を見上げていた。ゆいはすでに寝室で静かな寝息を立てている。
「ねえ、覚えてる?」
り子が小さな声で切り出した。
「あの忘年会の夜のこと」
「ああ」
俺はり子の肩を抱き寄せた。
「あの時は、本当にもうダメだって思った。でも、あなたが支えてくれた」
り子は俺の胸に顔を埋めるように寄り添ってきた。
「一緒に泣いてくれて、怒ってくれて、私の夢を笑わなかった」
「当たり前だろ」
俺はり子の髪を優しく撫でながら言った。
「俺だってそうだったんだから。工場で働いていた時、誰も見向きもしなかった時、佐藤さんが手を差し伸べてくれた。人を信じることの大切さを、俺は佐藤さんから学んだんだ」
「私たち、似てるのかもね」
り子が微笑む。
「挫折して、誰かに救われて。そして、今、誰かの役に立とうとしている」
「ああ、そうかもな」
街の明かりがきらめく夜景を見ながら、俺たちは静かに寄り添っていた。やがて、り子が決意を込めた声で言う。
「私ね、これからも頑張るの。介護の現場で働く人たちの力になれるように。職人さんたちの技術が生きる場所を作れるように」
「ああ、俺も投資家として、そんなり子の夢を全力で支えていくよ」
「ありがとう」
り子の目に、小さな光が光った。
「私、幸せ者だよね。夢を持てる仕事があって、それを理解してくれる人がいて」
ふと、寝室からゆいの寝返りを打つ音が聞こえた。俺たちは顔を見合わせて、思わず笑みがこぼれる。
「そうだな。俺たちは確かに幸せ者だ」
夜風が2人の髪をそっと撫でていく。り子のぬくもりを感じながら、俺は心の中で呟いた。人は誰でも挫折することがある。でも、諦めなければ必ず道は開ける。そして、その道を照らしてくれるのは、いつだってそばにいる大切な人たちなのだと。
「よし、明日も頑張ろう」
「うん」
互いの手を強く握り合い、俺たちは新しい朝を待つ夜空を見上げていた。明日はきっと、また新しい挑戦が待っている。でも、もう怖くない。なぜなら、俺たちには確かな絆があるのだから。


