「マリエさん、集吾が明日から出張でしょ。りんちゃんを連れて実家に帰りなさい。理由はいいから。」
ぶっきらぼうな口調で一方的に要求を突きつけてくる義母。私が返事をする前に電話は切られた。
しばらくの間、手に持ったスマホを見つめる。いつもと様子が違う気がする。いつもの義母なら、もっともらしい理由を並べて私たちを実家に送り出すはずだ。わざわざ言い訳を考えて怪しまれないようにしている。けれど今回は特に理由を言わずに電話を切った。まるで何かに焦っているようだ。
「ねえ、確かめようよ。ママの実家に帰るふりをして、おばあちゃんがうちで何をしてるか調べるの。」
娘のりんの提案に、私はすぐには答えられず口を閉ざす。義母に逆らえばまずいことが起きるかもしれない。長年、そういう恐れを胸に溜め込んできたのだ。
「やってみよう。」
しかし、娘の勇気に背中を押され、私は義母に立ち向かう決意をする。そして発覚したのは、恐ろしい事実だった。
私の名前は伊藤マリエ。46歳の専業主婦だ。昔から勉強は得意で、大学卒業後は大手企業に就職。人事でバリバリ働いていた。自分で言うのもなんだが、仕事はできる方だったので、社内でも評価は高かったと思う。
「知ってる?うちの会社、かなり昔に暴力事件があったらしいわよ。不採用にした人が逆恨みして、当時の人事部長に手をあげたんですって。怖いわ。でも暴力に訴えるなんて、ありえないわね。」
「はい、はい。おしゃべりはそのくらいにしてね。今日は忙しいから、口より手を動かしなさい。」
休憩室でおしゃべりに興じていた女性社員たちに声をかける。彼女たちは当時30歳だった私より2歳年下だ。あまり年齢は離れていないが、私の役職は人事部の課長補佐。仕事ぶりが評価され、私は若くして出世コースに乗っていた。
「もう、マリエさん、そんな硬いこと言わないでくださいよ。これ、最近流行りらしいですよ。私の彼も好きなんです。」
「あら、美味しそうね。いただくわ。」
「え、お菓子で上司を懐柔しないの?」
少し怒った顔を見せると、部下たちは笑いながら休憩室を後にする。軽口を叩けるくらい、職場の人たちとは仲が良かった。私の毎日は充実しているけれど、どこかで寂しさを感じていたのだ。
仕事は楽しいけど、私、一生一人なのかしら。
先ほど部下の女性は楽しそうに彼氏のことを話していた。正直、とても羨ましい。教育熱心な両親の元に生まれたため、小さい頃からずっと勉強漬けだった。学生時代は自分の成績しか興味がなく、誰とも付き合わずに日々を送る。そして気づいたら、交際経験ゼロで27歳の誕生日を迎えたのだ。
まあ、私みたいな地味女を好きになってくれる人なんていないわよね。
当時、私はすでに結婚を諦めていた。仕事が楽しければ別にいい。心の底からそう思っていたのだ。
そんな私にも、運命の出会いが訪れる。
「落としましたよ。」
会社のエントランスを歩いていた際のこと。前を歩く男性のポケットから財布が落ちた。慌てて声をかけると、男性が振り向く。
「あ、すみません。ありがとうございます。」
そう言いながら笑った彼に、私は一目惚れした。特別イケメンというわけではないけれど、笑顔がとても可愛らしかった。
男性の名前は伊藤集吾。うちの会社に商談に来ていた大手メーカーの営業だ。私は商談の担当者に頼み込み、飲み会を開催してもらう。そこに参加し、彼の連絡先を手に入れた。自分でも驚くほどの積極性だ。
飲み会の後はじわじわと距離を詰めていき、出会って半年ほどで集吾から告白された。もちろん返事はイエス。そして33歳になった時に彼と結婚。私は結婚後も仕事を続けるつもりだったが、予想外の人から待ったがかかる。
「マリエさん、仕事をやめて家に入ってくれないかしら?稼ぎは集吾だけでも十分でしょ。」
結婚式を挙げた後、義実家にお邪魔した私にそう言ってきたのは義母だ。突然のお願いに私も思わず驚き、目を合わせる。
「母さん、俺はマリエが職場でなくてはならない人だって知ってる。結婚後も仕事を続けてもらうつもりで彼女と夫婦になったんだよ。」
集吾はとても仕事ができる人だ。私と同じく出世コースに乗っている。そんな人に仕事ぶりを認めてもらえるのは、とても嬉しいことだ。
しかし義母は眉を寄せ、困ったようにため息をつく。
「私も昔はマリエさんみたいにバリバリ働いていたわ。でも仕事にかまけてばかりで家庭を顧みなかった。私がもっとお父さんを支えていれば、あの人は長生きしていたかもしれない。」
集吾の父親は私と出会う前に亡くなっている。義母は今、一人きりで義実家に住んでいた。
「あなたたち、子供も考えているんでしょ?母親が家にいないのって、寂しいことだと思うわ。」
彼女は自分の経験から、私に後悔してほしくないと考えているのだ。家族思いでとても優しい人だと思う。そんな人の意見を軽視するわけにはいかなかった。
「そうですね。一度、彼としっかり話し合ってみます。」
「それがいいわ。」
義実家から帰宅後、私はリビングで集吾と相談する。私たちの家は義実家から車で30分ほどの、お互いの会社に近いところにある賃貸マンションだ。
「母さんはああ言ってたけど、俺は子供時代、別に寂しいとは思わなかったよ。母さんは教育熱心というか、あれ命令してくる人で、色々口うるさかった。だから俺はむしろ一人の時の方が気楽だったね。」
「お母さんはあなたのためを思って言ってたのよ。それに一理あると思うわ。子供が欲しいなら、仕事との両立は難しいし。」
私は少し考え、小さく息を吐いた。
「私、仕事が好きよ。今よりも昇進したいと思ってる。でも、あなたと結婚する時に仕事に関して諦めをつけたのよ。どちらかを優先しなきゃならないなら、私は家族を取るつもりでいる。」
職場で成果を出すことだけが私のやりがいだったけれど、今は違う。私を認めてくれる人が目の前にいるのだ。
「今すぐってわけじゃないわ。妊娠したら仕事はやめる。それでどう?」
集吾は腕を組んで悩んでいる様子だったが、最終的には頷いてくれた。
「君がそれでいいなら、俺に止める権利はない。念のために聞くけど、無理はしてないよね。」
「ええ、全然。素直な気持ちで話してるわ。」
「そっか。分かった。もし子供ができて退職しても、お金の心配は一切しなくていいからね。これでも俺、同期の中で一番稼いでいるし、貯金もそれなりにあるからさ。」
頼もしいことを言う集吾に、私は笑顔を向ける。彼と結婚してよかった。この時は心の底からそう思っていたのだ。
36歳になったある日、私の妊娠が発覚した。喜びもあったが、寂しさも感じる。子育てと仕事の両立は難しいため、職場を去る決意をしなければならなかった。
「マリエさん、本当にやめちゃうんですか?寂しいですよ。」
「ありがとうね。でも、もう決めたことだから。」
惜しまれつつ私は退職。送別会には他の部署の人たちも参加してくれた。短い時間だったが、この会社で働けて良かったと思う。
お腹の子供はすくすくと成長。予定日ぴったりに生まれたのは、可愛らしい女の子だ。
「あなたの名前はりんよ。これからよろしくな、りん。」
彼女の顔を見た瞬間、私はこの子に会うために生きてきたのだと思った。子育ては大変だったけれど、とてもやりがいがある。
「マリエさん、大変じゃない?」
ある日、我が家に遊びに来た義母が苦笑いを浮かべながら問いかけてきた。私の腕の中には、先ほどまで大泣きしていたりんが眠っている。
「いえ、それほどでも。働いていた時も同じくらい大変でしたし、まあ、子育ては休む暇がないですけどね。」
次の瞬間、義母の表情から感情が消えた。
「ええ、そうなの?そういえばあなた、務めていたっけ?」
「ええ、一応。楽しい職場でしたよ。」
「ふん。そんな楽しい職場なら、働き続けてればよかったのに。やめちゃって残念ね。」
義母の物言いに、少し引っかかるものを感じる。仕事をやめてほしいと言い出したのは義母だ。それなのに、なぜ嫌味のようなことを言うのだろう。
「ん?」
りんが再び泣き出し、私は我に返る。
「よしよし。泣かないの?ほら、りんちゃん、お人形よ。」
義母がりんに優しい表情を向けた。先ほどの無表情とは全く違う。孫娘が可愛くて仕方ないという感情がにじみ出ていた。
嫌味に聞こえたのはきっと気のせいだと、私は心の中で通訳。こんなに優しい人が嫌なことを言うはずがない。当時の私は子育てで忙しく、義母に対して抱いた違和感を深く考える余裕もなかった。
ところが、違和感は日々大きくなっていく。義母は時々、私を値踏みするような目で見ているのだ。
「仕事で忙しかったから、家事とかあまり分からないのかしら。」
私が家事でミスをすると、義母は笑いながらそんなことを言う。冗談という口だが、彼女の目には私を見下す感情が含まれていた。
どんどん大きくなっていく違和感をよそに、りんはすくすくと成長していく。そして彼女が小学1年生になった春、私は仕事に復帰することを決めた。元いた職場でパートを募集していたのだ。かつて知ったる職場ということもあり、応募するとすぐ連絡が来た。
「マリエさんなら採用試験は全部パスで即採用ですよ、と言いたいところなんですけど、一応試験は受けてもらえますね。」
当時私の部下だった女性は、立派な社員に成長したらしい。こうして私は元の会社に戻り、パートとして社会復帰を果たすことになった。集吾は私の採用報告に大喜び。
「ママ、お仕事決まったの?良かったね。」
まだ小さいりんも、ニコニコと笑いながら祝ってくれた。義母には採用が決まった後、義実家へ行った際に直接報告する。すると、予想外の反応が帰ってきた。
「え、あなた、あの会社でまた働くの?」
最初はとても驚いた様子だったが、私がパートで復帰だと伝えたところ、口の端を歪ませる。
「へえ、パートね。まあ、一度仕事をやめたら正社員は無理だし、ちょうどいいんじゃない?」
嫌味と取れるような発言だったけれど、引っかかったのは私だけ。集吾は特に何も思わなかったらしい。
「そういえば、うちの会社の近くに美味しいパン屋さんができたんだよ。今度買ってくるね。」
「あら、ありがとうね。楽しみにしてるわ。」
義母を問い詰める間もなく、話題が切り替わる。それ以上は何も言えず、私は曖昧な笑顔を浮かべた。
その後も、義母に対する違和感はさらに大きくなっていく。りんが小学生になった直後、集吾の出張が一気に増えた。
「昇進のために必要なんだ、マリエ。負担かけて悪いね。」
「いいのよ、気にしないで。」
本音を言うと、集吾がいない分、私の負担が増える。いつも彼と家事や子育てを分担してやっているのだ。けれど出張なら仕方ない。
我が家にいない時間が増えていくとなぜか、義母が頻繁に連絡をよすようになった。
「一人で大丈夫なの?」
「ご心配ありがとうございます。なんとかやってますよ。」
「そうは言ってもね。週末だけでもそっちに行くわ。」
結婚当初なら、義母は私のことを心配してくれていると思っただろう。ところが今は違う。時が経つにつれ、義母の嫌みが悪化していったのだ。今でははっきり、嫁いびりを受けていると言えるレベルになっていた。
義母は我が家に来ると、りんがいないところで私に嫌味を投げつけてくる。
「この程度もできないの?集吾は相手を間違えたわね。」
しかし、りんの前では優しい祖母だ。彼女に嫌われたくないのだろう。義母がいる時は、なるべくりんのそばにいるのが私の唯一の対抗手段だ。
頻繁な訪問に悩んでいると、義母はこんなことを言い始める。
「集吾は出張であなたもパートは休みでしょ?実家に帰ったらどう?あなたたちがいない間に、私が家の掃除をやっておいてあげるわ。」
義母の申し出は、正直とてもありがたい。最近は仕事や家事育児で自由な時間がなかったため、なかなか実家に帰れなかったのだ。さらに義母は私にあれこれ文句を言えるくらい、家事を得意としている。義母に掃除してもらえば、忙しくて後回しにしていた我が家も綺麗になるだろう。
「じゃあ、よろしくお願いします。」
鍵を渡し、私はりんと共に実家へ戻る。何の気兼ねもなくのびのびと過ごせたおかげで、帰る頃には身も心もすっかり回復できた。
ところが、自宅に戻った瞬間、強烈な違和感が私を襲う。
「あら、ちょっと汚れてる。」
義母は掃除すると言っていたが、綺麗になっているようには見えない。むしろ集吾の部屋を中心に、少し汚れていた。
「本当に来たのかしら。」
家の中の空気は淀んでいる。本当に義母は我が家に来たのだろうか。
「忙しかったんでしょうね。」
疑問を抱くも、自分にそう言い聞かせ、窓を開ける。
「さて、掃除しないと。」
「私も手伝う。」
「ありがとう。助かるわ。」
その後はりんと協力して、家中ピカピカにした。実家で回復したはずの体に、疲れを感じる。人任せは良くないなと反省しながら、小さくため息をついた。
義母の嫌みはこの頃から少しずつ変化していく。私のためを思って言っているという口で、私のやることなすこと全てに文句をつけてきた。
「マリエさん、その服、ちょっと派手じゃない?」
「え、そうですかね。」
「自分で気づいてないの?隣を歩く集吾がかわいそうよ。もう少し見た目に気を使ったらどう?あなたも恥ずかしい思いをするわよ。」
その時私が着ていたのは、ごく一般的な柄で形も奇抜ではない。どちらかと言うと個性のない洋服だけれど、義母はネチネチと文句を言ってくる。
「ただいま。何の話してたの?」
りんを連れて買い物に出かけていた集吾が帰宅した。すると義母は険しい顔から一転、穏やかな笑顔を浮かべる。
「今日のマリエさんの洋服、素敵ねって言ってたの。どこで買ったのかしら?」
「え?それ、近所のショッピングモールに入ってるファストファッションだよ。」
「あら、そうなの。着てる人がいいと、服もおしゃれに見えるのね。」
先ほどとは打って変わり、私を褒める。あまりにも見事な変わり身の速さに、集吾は何も気づいていないようだ。
何度か彼に相談しようかと考えたことがあるけれど、結局私は口を閉ざす方を選んだ。私の気にしすぎかもしれないし、集吾は以前より忙しくなってるから、彼には仕事に集中してほしいもの。
最近、集吾は以前にも増して出張が増えている。一ヶ月の間で家にいる日の方が少ないくらいだ。彼によると、現在は昇進がかかっている大切な時期らしい。そんな集吾に、義母の件で余計な心配をかけさせたくなかった。黙って一人で耐えるのが最も賢い選択だと、自分に言い聞かせる。とはいえ、誰にも相談できず、精神的な疲労は蓄積していくばかりだ。
「ただいま。」
パートから帰宅し、玄関先で小さくつく。すると、りんがひょっこりと姿を表した。
「ママ、お帰り。」
「あら、帰ってたのね。」
りんは今年から小学4年生だ。少しお姉さんになり、周りをよく見るようになったらしい。私の顔をじっと観察し、心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫?ママ?なんか疲れてるみたいだけど。」
鋭い指摘に驚きつつ、私は笑顔を作る。
「大丈夫よ。なんともないわ。」
「おばあちゃんのことで悩んでるの。」
これにはさすがに驚き、言葉を失ってしまった。どうやらりんは、私が思っている以上に賢いらしい。
「ママに変なこと言ってるでしょ?私、知ってるんだから。それに、おばあちゃん、なんか変だよ。パパが出張に行くとうちに来て、私たちを追い出すし。何してるのかな?」
りんの言う通り、義母は最近、集吾が出張に出かけると頻繁に我が家を訪れる。そして毎回、私たちを実家に返すのだ。
「こらこら。おばあちゃんをそんな風に言っちゃだめよ。」
なるべく穏やかな声を意識して、りんに言い含めた。義母は私に対して嫁いびりをしている。結婚直後に抱いた好印象はとっくになくなり、今ではすっかり苦手な人になっていたけれど、りんには嫌い合ってほしくはない。できれば仲良くしてもらいたいと思っている。
「お腹空いたでしょ。おやつ食べる?」
「うん。」
話題をそらすと、りんはパッと明るい笑顔を浮かべた。走り去る背中を見ながら、頭の片隅で考える。
幼い子供も気づくくらい、義母の嫁いびりはひどいものになっている。それに、集吾が出張の時に私たちを家から追い出すのも妙だ。一体何が目的なのか。本人に聞こうとは思わない。はぐらかされるか、怒られるかのどちらかだろう。なるべく義母を刺激せず日々を送るのが、心の負担を少なくする最善策だ。
脳裏に浮かんだ疑問を振り払い、私はりんの後を追った。
子供の成長というのは、目を見張るほど早い。りんはあっという間に大きくなり、地元の公立中学に進学。この頃になると、集吾の出張の時に実家へ帰らせられるのは恒例となっていた。
「近所で工事があってうるさいから、あなたの家を使わせてちょうだい。あなたたちは実家に帰ってね。」
義母は毎回、もっともらしい口で我が家を訪れる。あまりにも頻度が高いので、彼女がどんな言い訳を使っても違和感は拭えない。しかし、余計な諍いを避けたい私は、義母に理由を尋ねることはしなかった。
それに、実家に頻繁に顔を出せるのは正直ありがたい。りんが中学に上がる直前、実の母が体調を崩して入院したのだ。今は回復して退院したが、まだ普段通りの生活を送るのは難しいらしい。義母のおかげでちょくちょく実家に帰り、両親の身の回りのことを手伝えるので、結果オーライなのだ。
ある日のこと、いつものように集吾の出張があり、私はりんを連れて実家へ戻る。帰宅する日の朝、我が家にいる義母から電話がかかってきた。
「足をくじいちゃって、歩くのが難しいの。マリエさん、家まで送ってちょうだい。」
「分かりました。」
今日は自宅へ戻るだけで、他に用事はない。自宅に到着した後、りんに留守番を任せ、すぐ義母を義実家へ送り届けた。
「あれ?マリエさん、こんにちは。久しぶりじゃない?元気にしてた?」
「ああ、こんにちは。ご無沙汰してます。」
笑顔で近づいてきたのは、義実家の隣に住んでいる女性だ。義母と同じくらいの年齢で、昔から交流がある。気さくな人で、私を見かけると声をかけてくれるのだ。
「今日はどうしたの?」
「お母さんを家に送りに来たんです。近所で工事があってうるさいからと、週末だけ我が家に泊まったんですよ。」
「え、ここら辺で工事なんてなかったわよ。」
女性の言葉に、私は眉を寄せる。同時に、やはり嘘かと納得している自分もいた。
「そうですか。お母さんの勘違いですかね。」
「そうかもね。そういえば、あなたのお母さん、よくお出かけしてるみたいだけど、習い事でも始めたのかしら。」
「いえ、聞いてませんが。」
義母は週に2、3日だけスーパーのパートに出ている。そのことだろうかと考えるが、彼女は随分前から仕事はしていた。女性が今更話題に出すのは不自然だろう。
「お母さんとは離れて暮らしてるので、どういう生活を送ってらっしゃるのか分からないんです。」
「まあ、うちにはよく来てますけど。」
「偉いわね、マリエさん。義理の母親の面倒を見てあげるなんて。」
「いえ、そんなことは。」
その後は他愛もない話をして、女性と別れた。自宅へ車を走らせながら、先ほどの会話を思い返す。義母は嘘までついて、なぜ我が家に来たがるのだろう。それに、頻繁にどこかへ出かけているのか。義母とは長い付き合いだが、謎が増える一方だ。気になるけれど、本人に問いただすのは気が引ける。結局、いつも通り沈黙を選ぶしかなかった。
秋も深まった10月のある日のこと。今月は珍しく集吾の出張がなく、我が家でのんびり過ごす時間が多かった。
「時間もあるし、棚の掃除をしようかな。」
リビングの隅に、集吾が私物を置いている棚がある。彼が出張中はほこりがつもらないよう外側だけ掃除していたが、中はそのままだった。
雑巾を片手に、集吾は黙々と棚の中を綺麗にしていく。
「あれ?おかしいな。」
しばらくすると、彼が困ったような声をあげた。
「マリエ、時計知らない?」
「時計?知らないけど、どうしたの?」
「一個なくなってるんだよ。」
私はぎくりとしながら棚へ近づく。集吾が持っている時計はいずれも高級品。本当に亡くなっていたら一大事だ。
「うん。数も減ってる気がする。」
「も、もしかして泥棒が入ったとか?誰か入り込んだ形跡はないよね。」
「それに、盗みに入るなら近所にもっといい家があるじゃん。」
りんが小学校5年生の時、私たちは念願のマイホームを購入した。住宅街で、近所には高級な家もいくつか。一方、我が家は建売りの地味な見た目だ。泥棒がわざわざ狙うような家ではない。
「俺の勘違いかな?」
「高級時計がなくなってるのに、勘違いってことはないんじゃない。」
「俺、最近忙しくてぼーっとしがちだったし、忘れ物も多かっただろ。時計もどこかに忘れてきたのかも。」
確かに最近の集吾は多忙を極めていた。今月出張がないのも、会社が彼を気遣っての対応らしい。けれど、高価な時計をどこかに忘れるほど、彼はぼんやりしていただろうか。
「また買えばいいよ。」
そう言って彼は掃除を再開する。すでに気にしていない様子だが、私の心には小さな棘が刺さり、いつまでも残っていた。
10月の半ばの週末。集吾のスマホに義母から電話がかかってきた。
「集吾、今月は出張がないんですって。久々にゆっくり顔を見たいから、遊びに行ってもいいかしら。」
彼が私をちらりと見たので、頷いて返す。本当は気が進まないけれど、断るわけにはいかない。ほどなくして、義母が我が家にやってきた。
「あなた、来週誕生日でしょ?ちょっと早いけど、プレゼントを持ってきたの。」
差し出したのは、綺麗にラッピングされた紙袋。集吾は笑顔を浮かべ、プレゼントを受け取った。
「あ、セーターだ。」
紙袋から出てきたのは、集吾が好きな緑色のセーター。喜ぶ彼を見て、義母はニコニコと嬉しそうな顔をしている。
「それ、私の手編みよ。これから寒くなるし、ぜひ使ってちょうだい。」
「そうなの?すごいね、母さん。編み物なんてやってたんだ。売り物みたいだね。」
盛り上がる家族をよそに、私はその場で固まっていた。義母がトイレに立つと、私はこっそり後を追って廊下に出る。二人きりになったタイミングで、義母に声をかけた。
「お母さん、ちょっといいですか?」
「あら、何かしら。」
「あのセーター、私が作ったものですよね。」
私が義母を見る目は、疑惑の感情で満ちているだろう。集吾が喜んで受け取ったセーターは、間違いなく私が作ったものだ。先月完成させて、実家に置いていたはず。先ほどトイレに立つふりをして、置いてあった場所を確認したところ、セーターはなくなっていた。
セーターが完成した直後、集吾は出張に出かけ、私たちはいつも通り実家へ向かった。その際、義母が盗んだに違いない。確信を持って、私は義母に問いかけた。
しかし、彼女はあっけらかんとこう返す。
「あら、あなたもセーターを作ってたの?偶然ねえ。あんなの、よくあるデザインと色じゃない。たまたま似てたからって、変なこと言わないでよ。」
悪びれた様子のない義母を見た瞬間、私の中で怒りが湧いてきた。あのセーターを完成させるために、どれだけ苦労したと思っているのか。何度も諦めそうになったが、集吾の喜ぶ顔が見たくて頑張って作り上げたのだ。その努力を横取りし、平然と嘘をつくとは。
今まで私は義母にいびられても怒らなかった。私が我慢すれば丸く収まるだろうと、口を閉じていたのだ。しかし、今回ばかりは我慢できそうもない。私が反論しようとした次の瞬間。
「あれ?二人して廊下に立って、どうしたの?」
集吾がひょっこりと姿を表した。口から飛び出しかけた言葉は行き場を失う。私は意味もなくパクパクと唇を動かす。その隙に、義母が嘘を重ねた。
「マリエさん、私があなたにあげたセーターと似たようなものを作ってたんですって。でも、なくしちゃって。私がプレゼントしたもの、自分が作ったものと勘違いして混乱してたのよ。」
「う、そうなの?」
集吾が心配そうにこちらを見る。突然の出来事に、私は何も言えなかった。
「デザインが被るなんて、よくあることよ。勘違いしても仕方ないわね。」
「そうだね。あのセーターは色々な服に合わせやすそうなシンプルなデザインだし。」
集吾は一切の疑問もなく、義母の言葉を頭から信じたようだ。こうなったら何を言っても無駄だ。私が作ったセーターだが、それを証明するものは何もない。
「お茶を入れ直すわね。」
小さくつくのが精一杯だった。リビングに戻りながら、私は自分の心が深く傷ついていることに気づく。集吾が義母の言うことを信じたのもショックだ。それ以上に、頑張って作ったセーターを彼に渡せなかった事実が辛い。
私はしばらく落ち込んだ状態で過ごした。
「ママ、どうしたの?」
義母が帰宅し、集吾はお風呂へ向かう。二人になったリビングで、りんが静かに問いかけてきた。ソファーに腰掛けている私の隣に来て、じっとこちらを見つめる。
「ううん。何でもないよ。」
まだ小学生のりんに心配をかけるわけにはいかない。無理やり笑顔を作る。すると、りんは黙って隣に座り、静かな声でこう言った。
「ママ、私、ちゃんと覚えてるよ。ママが作ったあのセーター、すごく綺麗だった。え?おばあちゃんがパパに渡したの、見覚えがあると思ったんだ。あれ、ママが作ったやつだよね。おばあちゃんがママから盗んだんだ。」
りんは私が思っているより、周りをよく見ているようだ。けれど、違うと否定すべきだろう。自分の祖母が泥棒だと知ったら、りんが傷つくかもしれない。しかし、うまく言葉が出てこなかった。
「まあまあ、大丈夫だよ。私はママの味方だから。」
りんがそっと手を握ってくる。小さい温かい手だ。賢いこの子に下手な嘘をつくのは逆効果だろう。真実を隠さずに接するべきだと判断した私は、ゆっくりと口を開く。
「りん、ありがとね。それと、ごめんなさい。あなたのおばあちゃんがそんな変なことをしてるって知って、嫌な気持ちになったでしょ。」
「まあ、正直いい気分じゃないよ。でも、前からママに対するおばあちゃんの態度は気になるところがあったんだ。」
りんが今よりも小さい時にも、彼女は嫁いびりに気づき、私に問いかけてきた。あの時は否定したが、りんは私の嘘をちゃんと見抜いていたのだ。
「私はパパの前ではママと仲が良さそうに見せてるけどさ、ママと二人きりになると嫌なこと言ってるじゃん。私、なんとか聞いたことがあるんだ。」
「そ、そうだったの?」
「うん。りん、おばあちゃんをよく見てればなんとなく分かるよ。パパは鈍いから気づいてないけど。」
集吾に問題があるというより、りんの観察力が鋭いのだろう。我が子ながらすごいなと、心の中で感心する。
「ごめんね、りん。ママ、りんに隠し事してた。」
「ママが謝ることじゃないよ。悪いのはおばあちゃんだから。」
そう言って、りんは私の肩にそっと頭を寄せた。
「ママは私が守ってあげるからね。」
りんの頭を撫でながら、泣きそうになるのをこらえる。いつの間に体も心も大きくなったのだろう。ずっと彼女の横で成長を見守ってきたはずなのに、全く分からなかった。一方で、伝わってくる体温は高く、まだ子供なのだと気づく。
りんのぬくもりを感じながら、少しだけ涙を流した。今日だけは我慢せず泣いていい。翌朝になれば、また普通の顔をして過ごさなければならないからだ。義母のせいで心はあちこち傷だらけになっているけれど、りんがいれば耐えられると、この時の私は思っていた。
数日後、義母が再び我が家へ訪れた。私のセーターを盗んで我が物顔でプレゼントしたことなど、すっかり忘れているようだ。
「こんにちは、マリエさん。開けてくれる?」
インターホン越しに笑顔の義母を確認した瞬間、私の体に緊張が走る。同時に、心の中で怒りの炎が上がるのを感じた。今まで義母に対してこのような激しい感情を抱いたことはない。私の中で何かが変わっているのだろうか。
「近所の方からのお土産を持ってきてあげようと思ってね。」
玄関を開けると、明るい声が耳に届いた。私の心の中なんて知るよしもない義母が、柔らかな表情で紙袋を差し出してくる。
「ありがとうございます。どうぞ、入ってください。」
ここで追い返すのは大人げないと考え、家の中へ通す。
「お邪魔するわね。こんにちは、りんちゃん。」
「いらっしゃい、おばあちゃん。」
今日は休日で、二人とも在宅でのんびり過ごしていた。りんは穏やかな顔で義母を出迎える。嫁いびりの件は知っているが、下手に態度に出すと問題がこじれると分かっているのだろう。りんに気を使わせて申し訳ないと思いつつ、リビングの扉を閉めた。
ソファーに腰を下ろした義母は、紙袋の中からお土産を出す。出てきたのは、地元の菓子店が作る銘菓だった。集吾の好物だ。
「ああ、嬉しいな。これ、集吾の分ね。で、りんちゃんの分はこれね。それと、あら、嫌だわ。ごめんなさい、マリエさん。あなたの分、忘れちゃったみたい。」
義母は口元に手を当て、いかにも申し訳なさそうに首をすくめる。私は口の端を持ち上げ、笑みの形を作った。
「いえ、お構いなく。集吾とりんの分だけで十分ですよ。」
「そう言ってくれると助かるわ。本当にうっかりしてるわね、私ってば。」
謝罪しているが、これは義母の嫌がらせだろう。悪気はないという風を装った嫁いびりが得意なのだ。うっかりという言葉で包んでしまえば、本人を責めることはできない。
「お茶でも入れましょうか。」
「ありがとう。いただくわ。」
そう言いながら、義母は紙袋の中からお菓子を一つ取り出した。自分の分は持ってきたのに、私の分だけ忘れることはありえないだろう。しかし、私は何も言わない。りんは思わずといった様子で眉を寄せている。
キッチンに立ち、静かに息を吐いた。お茶を入れ、三人のところへ持っていくと、楽しそうに雑談をしている。
「最近、仕事はどうなの?」
「まあまあ、忙しいよ。最近は出張が少なかったけど、近いうちにまた増えるだろうって上司に言われたんだ。」
「あら、それは大変ね。」
りんの隣に座り、適当に会話に参加した。
「ママ、これ、私はいいから、りんが食べなさい。」
義母が持ってきたお菓子を、りんが差し出してくる。すると、彼女は包装を取り、中身を二等分した。
「半分こしよう。」
「まあ、優しいのね、りんちゃんは。」
義母は穏やかな声だが、目の奥は笑っていない。嫁いびりが失敗したのが悔しいようだ。しかし、すぐ気を取り直すと、集吾との会話を再開させる。雑談の流れが変わったのは、少し経ってからだ。
「授業で社会の仕組みについて学んでるんだ。この前は商社について教えてもらったよ。商社って、別の会社が作ったものをみんなに売るのが仕事なんだよね。」
「そうそう。世の中には色々な会社があるんだよ。」
「そういえば、ママがパートで働いてるのも商社だったっけ?昔は正社員だったんでしょ?」
その瞬間、義母の顔が曇る。一瞬の出来事だったけれど、私は見逃さない。
「すっごい大きい会社だよね。」
「ああ、ママはとても仕事ができる人でね。今はパートだけど、会社ではみんなから頼りにされてるんだぞ。」
「すごい。」
りんがキラキラした目をこちらに向けてくる。集吾も嬉しそうな表情だ。一方、義母は口角を下げ、醒めた目をしている。
「ママ、かっこいいね。」
「まあ、最近は業績が悪化してるらしいじゃない。今後はどうなるのかしらね。」
「そうなんですか。お母さん、詳しいですね。」
私の返答に、義母はわずかに目を見開く。彼女は私がりんや集吾から褒められている状況が気に入らなかったのだろう。だから、わずかに棘を含んだ言葉を口にした。
しかし、私が気になったのは義母の嫌みではなく、商社の業績についてだ。義母はなぜ私の務め先の詳細を知っているのか。嫁いびりをするくらい嫌いな相手の会社について、わざわざ詳しく調べるだろうか。
「たまたま新聞で目にしたのよ。そういえば、昔も母さんはバリバリ働いてたよね。キャリアウーマンって、今より珍しい時代だったんじゃない?」
「うん。おばあちゃんもすごいね。」
自分に称賛が集まり始め、義母の機嫌は一気に回復した。
「そうなの?集吾の言う通りよ。昔は働く女性に対する偏見がすごくて、色々大変だったわ。」
「え、どうして?」
「それはね…」
義母は機嫌よく話し続けている。私は笑顔を保ちながら、先ほど浮かんだ疑問を心の片隅にしまい込んだ。
義母はしばらく滞在し、夕方になる前に帰宅した。玄関を閉めた後、私はキッチンに立ち、お茶やお菓子を置いたお皿を洗い始めた。
「ママ、手伝うよ。」
「ありがとう。」
りんが隣に立ち、食器を拭いていく。彼女は高学年になってから、進んで私の手伝いをするようになった。今では集吾より家事ができるくらいだ。
「お菓子を忘れたのって、わざとだよね。」
りんの目は真剣だった。わずかに怒りの感情もはらんでいる。
「多分ね。でも、あの程度のことなら、全然気にならないわ。」
「無理しないでね、ママ。」
りんはそれだけ言うと、ニコリと笑顔を浮かべた。
「明日ね、家庭科の授業でクッキー作るんだ。うまく作れたら持ち帰って、ママにも食べさせてあげるね。」
「そうなの。楽しみだわ。クッキーに合いそうな美味しい紅茶があるのよ。」
「私もそれ飲みたい。」
穏やかな時間が流れる。りんのおかげで、義母のくだらない嫁いびりのことはすっかり忘れてしまった。
一ヶ月後、少し前に言っていた通り、集吾の出張が再び増え始めた。明日からは一週間の長期出張が始まる。新幹線で三時間ほどかかる遠い場所へ行くらしい。
夜、夕飯の後片付けをしていると、義母から電話がかかってきた。
「もしもし。」
胸の奥に、嫌な予感が湧いてくる。このタイミングで連絡をしてくるなら、用事は一つしかないだろう。
「マリエさん、集吾が明日から出張でしょ?りんちゃんを連れて実家に帰りなさい。理由はいいから。」
ぶっきらぼうな口調で一方的に要求を突きつけてくる。私が返事をする前に、電話は切れた。
しばらくの間、手に持ったスマホを見つめる。いつもと様子が違う気がする。いつもの義母なら、もっともらしい理由を並べて私たちを実家へ送り出すはずだ。わざわざ言い訳を考えて、怪しまれないようにしている。けれど今回は特に理由を言わずに電話を切った。まるで何かに焦っているようだ。
「まあまあ、誰から?」
ちょうど風呂上がりのりんが、リビングに入ってきた。タオルで髪を拭きながら、私の顔を見て足を止める。
「おばあちゃんからよ。またうちに泊まりたいんですって。でも、何かおかしいのよね。私の気にしすぎかもしれないけど。」
「おかしいって、何が?」
私は電話の内容をそのまま伝えた。りんは黙って聞いた後、少しの間考える顔をした。
「確かにちょっと変だよね。りんも思う。一体どうしたのかしら?」
すると、りんがこんな提案をしてきた。
「ねえ、確かめようよ。ママの実家に帰るふりをして、おばあちゃんがうちで何をしてるか調べるの。」
「え?」
妙案ではあるが、私はすぐには答えられず口を閉ざす。義母に逆らえばまずいことが起きるかもしれない。長年、そういう恐れを胸に溜め込んできたのだ。
ところが、今回の電話は何か引っかかるものを感じる。あからさまに怪しいわけではないけれど、私の勘がおかしいと言っていた。
「やってみよう。」
頷いて返すと、りんがパッと明るい表情を浮かべる。
「私、ずっと気になってたんだよね。おばあちゃん、何をやってるのかなって。私たちに見られちゃまずいから、私たちを追い出すんでしょ。」
「普通に考えれば、そうよね。」
私もずっと疑問には思っていたけれど、義母を追求しようという気持ちは今までなかったのだ。波風を立てたくなかったというのも理由の一つだが、事実を明らかにして向き合うのが怖かったのかもしれない。でも、りんのおかげで事態が大きく動こうとしている。もう逃げない。小さく息をついて気合を入れると、りんと顔を見合わせ、笑顔を作った。
翌朝、集吾を見送った後、私とりんは旅行バッグを玄関先に並べた。今から私の実家に帰りますよというアピールだ。義母に怪しまれないように、しっかり見せておく必要がある。
「お邪魔するわね。」
約束の時間ぴったりに、義母が姿を表した。
「じゃあね、おばあちゃん。家のこと、よろしくお願いします。」
「はい、はい。分かってるわよ。」
何気ない言葉を交わすと、私とりんは揃って玄関から出ていく。私の車に乗り込み、自宅から少し離れた喫茶店へ向かった。店に入り、コーヒーを頼む。りんはオレンジジュースを美味しそうに飲んでいるが、私はあまり味が分からなかった。この後に起こることを考え、かなり緊張しているらしい。
「ママ、大丈夫だよ。」
りんが静かな声で語りかけてくる。楽観的な気持ちから出た言葉ではないと、彼女の目から伝わってきた。いい年をした大人なのに、まだ小さなりんに励ましてもらってばかりで情けない。頼れる母親としての一面を見せなければ。
「ありがとう。」
口の端を持ち上げ、笑って見せる。不思議と明るい気持ちになった。絶対に成功させる。心の中で決意を固めると、りんと共に店から出た。
「りん、徒歩で帰ろう。車の音がしたらバレるかもしれないわ。」
「そうだね。」
私たちは自宅へ向かって歩く。平日の住宅街の昼間は、とても静かだ。私とりんの足音だけが、乾いたアスファルトに響いた。玄関ドアの前に立った時、心臓が少し早く打っているのに気づく。思ったほど緊張はしていないようだ。深く息を吸い、吐き出す。それだけで鼓動は落ち着き、視界がクリアになった。
玄関に耳をそっと当てる。声が聞こえた。義母と、別の女性の声だ。玄関から離れた場所にいると判断した私は、鍵をそっと開ける。音は一切出なかった。忍び足で家の中に入る。
二人はリビングにいるらしい。楽しそうに何かを話してる様子が伝わってきた。誰かを招くという話は聞いていない。そもそもここは義実家ではなく、私の家だ。許可なく他人を家に上げた非常識さと、知らない女性が家にいるという不気味さに、背筋がぞっとする。
りんと目を合わせ、無言で頷き合った。靴を脱ぎ、音を立てないよう廊下を進む。
「それにしても、お嫁さんは本当に趣味が悪いわね。見てよ、このソファ。普通は選ばないわよ。」
「そうでしょ。息子や孫は気にならないみたいだけど、私、ずっとこのソファが嫌いだったのよね。私はあなたみたいに趣味のいい人間には、この悪趣味なソファは与えられないわね。」
一瞬、心臓が大きく跳ねた。二人が罵倒している相手は、私だ。ただバカにされてショックを受けたわけではない。突然自分の話題が出たため、侵入したのがバレたのかと思ったのだ。
「マス子さん、大手を務めて優しい人なのに、あんなお嫁さんに引っかかって気の毒ね。あなたも大変でしょう。」
「全くよ。あんな女のどこがいいのか、私には全然わからないわ。ま、孫娘は可愛いけどね。息子の遺伝子が半分入ってるから。」
私にとっては聞き慣れた嫁いびりだが、りんはここまで直接的な罵倒を聞くのは初めてだった。傷ついていないか気になり、彼女にちらりと目をやる。
りんは顔を真っ赤にして、怒りの感情を爆発させないようにこらえていた。私と目が合うと、口をパクパクさせ、何かを伝えようとする。
「スマホで録音しよう。」
そう言いたいのだと分かると、すぐ鞄からスマホを取り出し、録音アプリを立ち上げた。
「まあ、もう少しでうまくいくわ。それまでの辛抱よ。」
義母の発言に、私は眉を寄せる。悪意に満ちた声だ。一体何がうまくいくというのだろう。詳細は分からないけれど、あまりいい予感はしない。しばらく録音を続けていると、二人の話は別の方向へ流れ始めた。
りんに目で合図をして、ゆっくりと息を吸った。
「すみません。お母さん、お邪魔しますね。」
扉の向こうから、ガタガタと物音が聞こえる。かなり慌てているようだ。気づかないふりをして、リビングの扉を開ける。
「え、いつ帰ってきたの?」
「ついさっきです。忘れ物がありまして。えっと、そちらはどなたですか?私の家で何を?」
視線を向けると、見知らぬ女性がオロオロとした様子で、義母と私を交互に見ていた。義母と同じくらいの年齢だろうか。
「ごめんなさいね。勝手にお邪魔して。あなたのお母さんに呼ばれたの。」
「そうなんですか。お母さん、どなたか招くなら、事前に言ってくださいね。ここは私たちの家なので。」
私はハキハキとした口調で言い放つ。普段の義母なら、こんな私の態度に腹を立て、嫌味たっぷりに返してくるだろう。しかし、予想もしなかった私の登場に、義母は形相を崩したままだ。
「ごめんなさいね。次からは気をつけるわ。ああ、用事があるのを忘れてたわ。帰らないと。」
「もう帰るんですか?私たちの留守中、この家に滞在するのでは?」
「だから、用事があるって言ってるでしょ?私は自分の家で過ごすから。」
逆切れで返しつつ、義母は女性を連れて我が家を後にした。私とりんはその場から動かず、二人の背中を見送る。玄関のドアが閉まる音が聞こえ、我が家に静寂が訪れた。
「ママ、全部録音できてる?」
「ええ。ばっちりよ。」
スマホの画面をりんに向ける。
「やったね。大成功。」
ピースサインをするりんに、私は笑顔を返した。
その日の夜、私とりんは実家に戻らず、自宅のテーブルに座り、向かい合って話をしていた。テーブルにはノートが広げられている。彼女が半年前から書き始めたというメモだ。義母が我が家に来た日付や発言、りんがしたことが細かく記されていた。
「これ、使えるかな?」
「もちろんよ。すごく助かるわ。ありがとう。」
りんにお礼を言い、スマホの画面を見る。昼間に使った録音アプリの画面が表示されていた。
「まあ、もう少しでうまくいくわ。それまでの辛抱よ。」
義母の発言には続きがある。スマホには、その部分もばっちり記録されていた。義母は恐ろしい計画を立てていたのだ。それを聞いた瞬間、背筋が凍った。しかし同時に、絶対に阻止しなければと固く誓う。
今まで私は義母の言動に対して、黙って耐えることしかしてこなかった。波風を立てることを恐れ、集吾に心配をかけまいとして、ただ時間をやり過ごしてきたのだけれど、もう違う。
「りん、ありがとう。ママと一緒に戦ってくれる?」
りんは少しだけ目を細め、それから力強く頷く。
「もちろんだよ。」
この夜、初めて私は戦うことを選択した。
一週間後、集吾が出張から帰ってきた。
「ただいま。」
夜、玄関を開けた彼の顔は、いつもより少し疲れて見える。長い出張だったから当然だ。それでも愚痴を言わず、穏やかな笑顔を見せる。
「お帰り。お疲れ様。」
私は優しい声で彼を出迎え、普段通りに夕食を出した。
「パパ、お疲れ様。」
「ありがとな、りん。」
三人で普段通りに食卓を囲む。りんもいつもと変わらない様子で、学校の話をしていた。
「え、今日の給食はカレーだったんだ。りんの学校はパパの母校だけど、あそこのカレーって美味しいよね。給食を作ってくれてるおばちゃんに聞いたら、隠し味を使ってるんだって。でも、何を入れてるか教えてくれないんだよね。」
りんのよく動く口を見ながら、私は頭の片隅で別のことを考えている。食事が終わったら、彼に話さなければならない。義母を騙して自宅に忍び込んだ時よりも緊張する。彼に嫌われたらどうしよう。もし私の言葉を信じてくれなかったら。不安が次々と胸の中に湧いてくるけれど、もう迷っている暇はないのだ。私はこの問題に向き合うと決めた。今更逃げるなんて選択はない。
夕食を終え、食器を流し台に片付ける。食後のお茶をテーブルに置きながら、私は集吾に少し話があると告げた。
「分かった。」
彼は最初首をかしげていたが、私の顔を見て表情を引き締める。ただの雑談ではないと悟ったらしい。三人揃ってテーブルに座る。少し悩んだけれど、りんも同席させることにした。彼女も私と一緒に戦うと決めたのだ。子供だからと言って遠慮するのは、りんに対して失礼だろう。
「少し長くなるけど、最後まで聞いてくれる?」
「ああ、もちろん。俺のことは気にしないで大丈夫だから。」
優しい人だ。できれば彼には味方になってほしい。淡い期待を胸に、私は大きく息を吸い込んだ。そして、集吾の目をまっすぐ見ながら話し始める。なるべく感情的にならないよう心がけた。怒ったり泣きながら話すと、本当に伝えたいことが彼に届かなくなってしまう。感情に振り回された会話は、どうしても細部が抜け落ちる。それに、受け取る側も冷静に聞けなくなるのだ。だから、淡々と時系列を追って話すことにした。
「集吾、ずっとお母さんから嫁いびりをされてたの。自覚したのは、りんが生まれた直後ね。」
十年前ほどのことを思い出しながら、口を動かす。集吾とりんがいないところで何を言われたか。さらに、集吾が出張に出るたびに、もっともらしい言い訳をつけて我が家へ来ることも明かした。
「え、母さんって、そんなに頻繁に家に来てたの?知らなかった。本人も何も言ってなかったし。」
我が家を訪れていたのは知っていたが、そこまでの頻度とは思わなかったらしい。集吾は軽く目を見開き、腕を組む。何のために来ていたのかと考えているのだろう。私はさらに話を続ける。
「この前の誕生日にお母さんが渡したセーターなんだけど、あれ、私が作ったものよ。苦労して編んだものだし、見間違えるはずがないわ。」
「私もママがあのセーターを編んでたのを知ってる。近くで見せてもらいながら、編み方を教えてもらったし。」
私だけの証言では足りなかったかもしれない。りんのおかげで、集吾はしっかり耳を傾けてくれた。
「私が頑張って作ったものなのに、お母さんの手柄にされて、すごく悲しかった。」
今までは感情を抑えていたが、この件だけは我慢できない。目に涙が滲み、慌てて袖で拭った。
「私が作ったセーターは、自分の部屋に置いてあったんだけど、亡くなってたわ。プレゼントとして渡す前、お母さんが我が家に来てた。多分、その時に持ち出したんだと思う。」
再び冷静さを保ち、話を続ける。集吾の表情はどんどん険しくなっていった。彼の様子を見ながら、頭の片隅で考える。セーターを奪われたあの日の夜、りんが寄り添ってくれなければ、私は壊れていたかもしれない。
「決定的なことが起こったのは、あなたの出張中よ。前日にお母さんから電話がかかってきたんだけど、いつもと違う焦った口調で、理由はいいから実家に帰れと言われたの。私の提案で、出かけるふりをしてこっそり戻ってきたんだ。」
「それで、何があったんだ?」
私とりんは顔を見合わせる。お互いに小さく頷くと、集吾の方に視線を戻した。
「家の中にお母さんがいた。知らない女性と一緒にね。」
「なんだと?」
「事前に連絡はなかったわ。無断で知らない人を我が家に上げてたの。」
集吾の表情が固まる。私は彼の驚いた顔を見ながら、内心で胸を撫で下ろした。いくら家族とはいえ、自分が不在の間に自宅に知らない人を招くのは、やはり非常識だ。もし集吾が気にしない人だったら、話がややこしくなっていただろう。義母と違い、常識を持っている人で良かったと安心した。
「その時の会話、録音してるよ。りんの提案のおかげで、今回あなたに話そうと決意できたの。再生するわね。」
リビングに音声が流れ始めた。義母の声と、勝手に我が家に上がり込んだ女性の声だ。私への罵倒の部分で、集吾が目をカッと見開いた。彼の目には、激しい怒りが滲んでいる。先ほどまで説明していた嫁いびりに関して、これで私が嘘を言っていないと証明できた。
しかし、重要なのはそこではない。
「まあ、もう少しでうまくいくわ。それまでの辛抱よ。」
続けて聞こえてきた義母の言葉に、集吾は驚きの表情を浮かべる。そして、片手で口を押さえた。録音が終わった後、しばらく沈黙が続く。誰も口を開かなかった。
「ごめん。」
静寂を破ったのは、集吾だ。声が少し枯れている。
「色々思うところはあるけど、まず最初に言わなきゃいけないのは、君への謝罪だ。」
「え?」
この返事は予想外だ。義母の恐ろしい計画についての話題になると思っていたので、拍子抜けした気持ちで彼の顔をまじまじと見た。
「実は俺、心のどこかで気づいてたんだ。マリエと母さんの間に、何かあるってことに。確証はなかった。でも、母さんと会った後の君が、どこか押し込んでいるように見える時があって。」
集吾の声が小さくなり、うつむきながら視線を落とす。
「何度かマリエに何かあったのかと聞いたことがある。でも、何でもないと言われて、俺は君の言葉に甘えていたんだ。」
私は戸惑いながら、彼の話を聞いていた。謝罪を求めて話したわけではない。ただ、全てを知ってもらいたかっただけだ。一緒に考えて、できれば味方になってほしい。そんな思いで場を設けたが、予想外の収穫があったようだ。
「誕生日プレゼントの件も、変だと思ってたんだ。でも、深く追求できなかった。仕事が忙しいのを言い訳にして、見ようとしなかったんだよ。」
「あなたの仕事が忙しかったのは事実だし、言い訳にしたとも思ってない。」
無意識のうちに、口が動いていた。集吾はゆっくりとテーブルに向けていた顔を上げる。
「私にも責任があるわ。仕事が忙しいあなたに心配をかけたくなかったの。でも、結果的にこんな大問題になってしまった。」
「そんなことない。マリエは十分頑張った。俺が情けなかっただけだ。」
「まあまあ、もういいじゃん。」
謝罪合戦になりかけた瞬間、りんの明るい声が割り込んだ。
「喧嘩売ってることで。」
「あれ?これって喧嘩なのかな?」
りんが首をかしげながらつくと、集吾が小さく吹き出す。私も釣られて笑ってしまった。張り詰めていた空気が、ほんの少しほぐれる。りんのおかげで場が和んだ。深刻な空気が一掃され、明るい気持ちだけが残る。
「あなたも、私と一緒に戦ってくれる?」
「もちろん。というか、こんな話を聞いた後じゃ、逃げることなんてできない。これは俺たち家族の問題だ。」
人は安心しすぎると、涙が出るらしい。頬を伝う涙に気づき、慌てて近くにあったティッシュ箱を手に取る。りんと集吾は、静かに私を見守っていた。
「でも、ことは思ったより深刻そうだ。俺が全部解決するよ。マリエとりんは、何もしなくていいから。」
集吾がテーブルに手をつき、真剣な顔で言う。とても頼もしい言葉だ。集吾が私たちを守ろうとしてくれる気持ちは嬉しい。しかし、私は首を横に振った。
「一緒に解決したいわ。私も当事者だからね。」
「でも、母さんと直接やり合うことになるぞ。辛くないか?」
「私、ずっと逃げてばかりだった。お母さんと向き合わなかったのも、こんなことになった原因よ。今度は逃げずに、ちゃんと戦いたいの。」
これは心からの本音だ。何年もの間、私は義母から目をそらしていた。目の前の平和な日々を守るために、沈黙を選んだのだ。その選択が間違いだったとは思わない。当時の私にできる精一杯のことだった。でも、今は違う。りんの協力があって、集吾が隣に立ってくれている。今こそ正面から向き合う時だと思った。
集吾は私の目をじっと見つめている。何かを確かめるような真剣な目だ。しばらくすると、集吾はゆっくり頷いた。
「私も一緒に戦うよ。」
「いや、さすがにりんは…」
「真剣に考えたのは、りんの提案よ。この子は私たちが思っているより強い子だわ。りんは私を守りたいという気持ちで、できることを探し続けている。そんな娘に対して、子供だからと引き下がれという方が難しい。」
集吾はしばらく考える様子を見せたが、最終的には了承した。
「分かった。家族の問題だと言ったのは俺だしな。よし、三人で向き合う。」
「ありがとう、パパ。」
「りん、頼りにしてるからな。でも、絶対に無理をするんじゃないよ。パパとの約束だ。いいね。」
二人が指切りをする姿を、温かい気持ちで見守る。私の自慢の家族だ。みんなでいれば、どんな問題にも立ち向かえるだろう。
その日の夜、私は久しぶりにゆっくりと休むことができた。布団の中で目を閉じると、力が抜けていくのを感じる。体の中に溜まっていた悪いものが、少しずつ溶け出していくような感覚だ。ずっと一人で抱え込んでいたものを、三等分にできた。体も心もとても軽い。
「きっとうまくいくわ。」
私のつぶやきは、夜の静寂に溶けて消えていった。
五日後の週末。私たちは義実家へ向かうため、集吾の運転で車を走らせていた。集吾は事前に、出張のお土産を渡したいと義母に電話をしている。けれど、これは怪しまれないようにするための嘘だ。集吾の手にはお土産はない。近くのコインパーキングに車を止め、義実家へ歩いていく。
チャイムを押すと、義母が出てきた。
「よく来たわね。さあ、上がってちょうだい。」
彼女はいつものように穏やかな表情で出迎える。しかし、私たちはすでに知っていた。義母の笑顔の裏に、恐ろしい本性が隠されていること。
「お邪魔します。」
義実家のリビングに通される。何度も訪れている見慣れた場所だが、昨日までとは全く別の場所のように感じた。私はりんと並んで椅子に腰を下ろす。集吾は私たちの横に椅子を移動させ、三人で並んで座った。いつもなら義母の隣が彼の定位置だ。義母が首をかしげて、集吾を見ている。
「母さん、話したいことがあるんだ。」
「何?急に改まって。」
義母は向き合った私たちの顔を順番に見て、言葉を飲み込む。何かを察したのだろう。笑おうと引き上げかけた口元は、中途半端な形で止まった。
「ちょっと、どうしたのよ。なんだか様子がおかしいわよ。」
義母の声は平静を装っているが、目はキョロキョロと動いている。私はその様子を静かに観察していた。
「単刀直入に聞くけど、俺が出張の時に家に来てただろ。なんで俺に何も言わなかったんだ?」
「え?そ、そんなことないわよ。たまに掃除を手伝いに行ったくらいで。」
「マリエに嫌なことを言ってただろう。」
次の瞬間、空気が凍る。義母が大きく目を見開き、私の方を見た。集吾に何を言ったのかと、彼女の目が語っていた。
「な、何かの間違いよ。私はマリエさんと仲良くしたいと思ってるし。嫌なことなんて、一度も言ったことないわ。ねえ、マリエさん。」
義母が笑顔を作り、私に向ける。表面上はいつもの姿だ。りんや集吾がいる時だけ見せる、穏やかで優しそうな顔。けれど、声がわずかに震えている。
ここで、りんが動いた。鞄からノートを取り出し、テーブルに置いたのだ。義母の目がノートに向く。取り繕った笑顔は、徐々に崩れていった。
「これ、私が書いたやつだよ。おばあちゃんがうちに来た日付を記録してる。こっそり隠れて聞いた、ママに言った嫌なことも、全部メモしてあるよ。」
義母は驚いた様子で、りんとノートを交互に見る。自分が可愛がっている孫娘に裏切られる形となり、衝撃を受けているようだ。口をパクパクと動かしているが、反論は出てこない。いつも私にしているように、強い言葉で孫娘の発言を否定することはできないのだろう。
「これはしまっておくね。」
りんがノートを閉じたのを見て、今度は集吾が口を開いた。
「母さん、嘘はもうたくさんだ。マリエを傷つける言動はやめてほしい。」
「りんちゃんの勘違いじゃないの?」
「じゃあ、俺の許可なく勝手に家に上がり込んでた件は?」
どうやら自分が不利だと悟ったらしい。義母は大きな声で威圧するように、私たちに向かってこう言い放った。
「息子の家に、私が入って何が悪いのよ。」
感情に任せた言葉だと分かる。今この場で冷静さを保てなければ、さらなる不利を招くことになるだろう。義母自身もそれを感じているのか、言い終わった後に気まずそうに視線を落とす。
一方、集吾は少しもひるまず、落ち着いた様子で続けた。
「俺の家は、マリエの家でもある。マリエが嫌がることを続けるなら、俺はマリエの味方をするよ。」
大きな声ではなかったけれど、意思の強さが伝わってくる。義母の表情が歪んだ。最愛の息子の反抗は、彼女にとってかなりのショックだったらしい。指先から始まった震えは、やがて全身に伝わった。
長い沈黙の後、義母が私に視線を向ける。目は血走り、私に対する憎しみで満ちていた。
「この女に、何を吹き込まれたの?」
激しい怒りを感じる、恐ろしい声だ。初めて向けられる剥き出しの敵意に、私は体を固くする。隣に座っているりんが、私の手をぎゅっと握りしめた。
「何も吹き込まれていない。今、俺がここにいるのは、自分自身で考えて判断したことだ。」
「違う。あなたは洗脳されてるのよ。絶対にそうだわ。そもそも、私はずっとこの女が気に入らなかった。」
「どうしてなんだ。理由を教えてくれ。」
集吾は冷静に問いかける。義母は一瞬、言葉に詰まった。視線があちこちに泳いでいる。彼女にとって、あまり出したくない理由なのだろう。けれど、一度口に出した以上、ごまかすことはできない。しばらくして、絞り出すように話し始めた。
「この女みたいな人間は、仕事ができると思って偉そうにするのよ。私、知ってるんだから。あの会社の人間が、周りをどういう目で見ているか。他の連中は無能だと思って、見下してるのよ。」
そのセリフを聞いた瞬間、私の脳裏に少し前の義母との会話がよぎる。りんが商社の話を持ち出した時、義母の表情が一瞬曇った時だ。ずっと心の片隅に引っかかっていた違和感が、今ここで形を持ち始める。集吾の表情も変わっていた。何かを思い出しているような顔だ。遠い記憶を引き出そうとするように、視線がわずかに宙を泳いだ。
「母さん、昔、そんな話をしてたな。」
「な、何のこと?」
「俺が小さい頃、母さんが言ってたんだ。大手商社に就職したかったけど、採用試験で落とされたって。ずっとあの会社で働くのが夢だったのに、すごく残念だった。そう言ってただろう。」
義母の体が大きく揺れる。集吾がこの話を覚えているとは思っていなかったのだろう。私は横目でりんを見る。子供というのは、大人が思う以上に頭がいい。小さい頃から成績優秀だった集吾なら、昔のことも鮮明に覚えていておかしくない。
「マリエが気に入らないのは、それだけの理由なのか。彼女は関係ないじゃないか。」
義母は唇を引き結んだ。再びリビングに沈黙が落ちる。窓の外で鳥が鳴く声がした。それ以外は、何も聞こえない。義母は視線をテーブルに落としたまま、長い間黙っていた。
集吾と顔を見合わせる。義母が黙ったままなら、こちらで勝手に話を進めるしかない。しかし、私が口を開く前に、義母がゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。
「無関係なんかじゃないわ。あなたの勤務会社なのよ。私を採用しなかったのは。」
リビングに、義母の叫び声が響いた。私は息を飲む。そういうことだったのか。義母はなぜか私の勤め先の状況に詳しかった。近年の会社なら、納得できる。義母はずっと、私の勤め先を恨んでいたのだ。
「若い頃、私はあの会社に入りたかった。でも、落とされた。私は仕事ができる優秀な人間よ。なんであんたは採用されたのよ。意味が分からないわ。」
そう言いながら、義母はバンとテーブルを叩く。
「どうしても諦めきれなくて、面接の担当者と直接話をしようとしたわ。会社には簡単に入り込めた。当時は警備が雑だったからね。でも、相手が馬鹿にしたような物言いをして、それで…」
彼女は途中で言葉を切る。リビングの空気が、ピンと張り詰めた。義母の昔話を聞きながら、私はかつて職場で耳にした噂を思い出していた。
「知ってる?うちの会社、かなり昔に暴力事件があったらしいわよ。不採用にした人が逆恨みして、当時の人事部長に手をあげたんですって。怖いわ。でも、暴力に訴えるなんて、ありえないわね。」
あれは会社の休憩室で聞いた話だったか。今から十年以上も昔の話だ。もしかして、と思い、義母に問いかける。
「お母さん、人事部長に手をあげましたね。」
証拠はない。しかし、確信を持って私は言い放った。義母が驚いた顔で私を見る。
「な、なんで知ってるのよ。」
「一部の社員の間で、噂になってたんです。」
「手を上げた後、どうなったんだ?こうなったら、下手にごまかす方がマイナスだぞ。母さん、全部素直に話してくれ。」
苦しそうな表情をしながら、義母は口を開いた。
「警察に通報されたけど、示談になったわ。罰金はつかなかった。でも、示談金で貯金がなくなって、その頃付き合っていた人にも捨てられた。」
彼女の当時の婚約者は、裕福な家の出身だったらしい。しかし、暴力事件が起こった後、婚約を破棄した。その後、義母は亡くなった義父と結婚したのだという。
不採用になったのは、何十年も前のことだ。けれど、義母はその出来事を胸の奥に抱えたまま、今日までずっと生きてきた。過去の記憶は風化するどころか、今も恨みとなって彼女の中に残っている。それが、私への嫁いびりにつながったのだ。
同情すべき点もある。私も就活の際、本命の会社から不採用の通知が届き、かなり落ち込んだ。正直に言うと、少しだけ恨みの気持ちも抱いた。しかし、本命の会社に働いている人に対して、害を与えたいとは思わない。
「何してんだよ、母さん。」
怒りと呆れが混じった声が聞こえる。集吾は無表情で義母を見つめていた。
「あ、あなたには分からないわ。あの会社に落とされて、私の人生は狂ったのよ。家柄のいい人と結婚して、幸せ満点な日々を送るはずだったのに。」
義母の目は不気味に輝いている。完全に我を忘れていた。勢いのまま、義母は言ってはならないことを口にする。
「本当は、あんな冴えない男と結婚なんかしたくなかったわ。」
義母が指さしたのは、リビングの隅にある小さな仏壇。そこには義父の写真と遺影が飾られている。亡くなる一年前、家族で出かけた旅行先で撮影した写真だと、以前集吾から聞いたことがあった。小さな額縁の中の義父は、とても幸せそうな顔をしている。
義母の言葉がリビングに落ちた瞬間、集吾の体が強張った。彼の横顔を見ると、表情が徐々に変わっていく。怒りと悲しみが混じり合い、それでも懸命に抑えようとしていた。唇がわずかに震えている。
「今、なんて言った?」
今まで聞いたことのない、重々しい口調だ。静かだが、穏やかではない。義母は集吾の異変に気づいていないらしい。先ほどと同じように、反響で叫んだ。
「本当はお父さんと結婚したくなかったって言ったの。あなたへの愛情は本物よ。でも、お父さんとの結婚は妥協だったわ。」
「母さん。」
集吾は血を吐くような声をあげる。ようやく彼の様子に気づいたらしい。義母はそこでようやく黙った。
「父さんは俺に言ってたよ。母さんは世界で一番大切な存在だって。」
義母の目が、驚愕に見開かれる。
「父さんが亡くなる前の日も、俺に言ってたんだ。母さんをよろしくなって。父さんの最後の言葉だった。」
集吾の瞳が、わずかに揺れた。私も胸が締めつけられる。義父の亡くなる間際の話は、初めて聞いた。ずっと彼は心の中の大切な場所にしまっていたのだ。それが今、義母の無慈悲な言葉によって傷つけられた。
私は何も言えない。慰めの言葉をかけたり、手を伸ばすこともできず、ただじっとしていた。集吾と義母の間にある時間の中に、私が入り込む余地はないと理解していたからだ。
「父さんを馬鹿にするな。」
はっきりとした言葉だった。義母はうつむき、口を閉ざしている。額縁の中の義父は、相変わらず穏やかに笑っている。その表情が、今はどこか切なく見えた。
私は静かに義母を観察していた。怒りや困惑が見て取れるが、長年抱えてきたものを打ち明けた解放感のようなものも感じる。今、彼女が何を考えているのか、私には分からなかった。しかし、確かなことが一つだけある。まだ終わっていないということだ。
りんと忍び込んで記録した録音には、続きがある。本題は、ここからなのだ。
「お母さん、あなたに聞きたいことがあります。」
鞄からスマホを取り出し、録音アプリを起動させる。テーブルに置くと、疲れた表情の義母がスマホに視線を向けた。
「この録音は、どういう意味ですか?」
先日の録音を再生する。義母と、見知らぬ女性との会話だ。すると、義母の顔色が一気に変わった。血の気が引き、口元がわずかに動いている。
「まあ、もう少しでうまくいくわ。それまでの辛抱よ。」
「お聞きしたいのは、この後の発言についてです。」
停止ボタンを押す。義母の様子を見ると、まるでそこだけ時間が止まっているように、ガタガタと激しく震えていた。先ほどまでは指先を動かすのも辛いといった様子だったけれど、もはや疲れを感じている余裕もないらしい。
「や、やめて。」
弱々しい声が耳に届いたが、聞こえなかったふりをして、再度再生ボタンを押した。
「シ子さん、自分から離婚を切り出してくれるといいわね。」
「大丈夫よ。ちゃんと仕掛けてるから。きっともうすぐ、あの二人は別れるわ。」
義母と女性の、悪意に満ちた笑い声がリビングに響き渡る。
「具体的には、どんなことをしたの?」
「集吾の洋服をわざと汚したり、私物にしてるものを少しずつなくしたのよ。部屋も、あいつが片付けてないように散らかしてるわ。ちゃんと部屋を綺麗にしてないから、汚れたり物がなくなるんだって、不満を持つはずよ。」
録音が流れる間、全員が口を閉ざしていた。集吾は手を固く握りしめ、テーブルに視線を落としている。りんは表情を一切変えず、スマホを見ていた。義母は、滝のような涙を流している。
三人の様子を見ながら、私は亡くなった集吾の時計のことを思い出した。
「俺、最近忙しくてぼーっとしがちだったし、忘れ物も多かっただろ。時計もどこかに忘れてきたのかも。」
彼がそう言った時、私の心には違和感という小さな棘が刺さっていた。今までずっと残っていたその棘が、ゆっくりと外れる。犯人は義母だった。集吾が私のせいだと思い込むように仕向けるため、義母が全て仕組んでいたのだ。彼の不満をじわじわと積み上げ、やがて集吾自身の口から離婚したいと言わせる。そういう計画だったのだ。
「そんな回りくどい手を使うんじゃなくて、もっと派手にやれば。」
「それはだめよ。あまり目立つようなことをすると、私が疑われるでしょ。あの女、妙なところで勘が鋭いのよね。集吾が昔からぼんやりしてる子だから、簡単に騙せるとは思うけど。」
馬鹿にしたような義母の声に、集吾がわずかに眉を寄せる。確かに彼は少しのんびり屋なところがあるが、私より頭がいいし、やると決めたら行動が早い。義母に見下されるような人ではないのだ。
「まあ、私がもっとあの女をいびって、離婚するように仕向けてもいいんだけど。」
録音の中の義母の声が、ワントーン低くなる。底意地の悪さがにじみ出ている。あまりにも耳障りなものだった。
「あの女には、身の程知らずの生意気な夢だと思い知らせるのよ。自分が愛した夫から離婚を切り出されて、再起不能になるまで傷つけばいい。私に疑いの目が向かない上に、あいつを懲らしめる一石二鳥の方法なのよ。」
「なるほどね。裕子さんって、本当に頭がいいわ。」
「それほどでも。」
音声だけなので顔は見えないが、おそらくこの時の義母は鼻高々で胸を張っていただろう。しかし、口にしている内容は最低だ。
「それにしても、あの子、結構稼いでるみたいね。適当に盗んだ時計を売ったんだけど、思ったより高く売れたわ。そのお金で、このブランドバッグを買ったのよ。」
「あら、素敵じゃない。」
「また適当に盗み出して売るつもりよ。私の奢りで、美味しいものでも食べに行きましょう。」
何が楽しいのか、二人の笑い声が響き渡る。義母は集吾を大切にしていると思っていたけれど、彼女は息子より自分の欲を優先させたのだ。
「最低だな。」
集吾は鋭い目を義母に向ける。盗んだものが高価だからという理由ではない。身の丈に合わない望みを叶えるためなら何でもする。そんな義母の浅ましさに、集吾は心の底から呆れているのだ。
「もしかして、そこに置いてあるバッグが、パパの時計を売って買ったやつ?」
りんが、リビングの隅に置いてある鞄を指さす。私はあまり詳しくないが、りんは最近の女の子といった感じで、おしゃれに関する情報やブランドをよく知っている。
「私の友達のママが持ってたのと同じだと思う。数量限定のバッグで、めっちゃ高いって友達が教えてくれたんだ。おばあちゃんって、パートだし。あんな高いバッグ、買えるはずないよ。」
「じ、違うわ。あれは年金で買ったやつで…」
「うん。おかしいな。おばあちゃんは年金の受給を70歳からにしているって言ってたよな。」
その場しのぎの嘘は逆効果だ。義母も理解しているだろう。けれど、追い詰められた状況の中、深く考えて発言することは難しいに違いない。
「録音の音声は、まだ続きがありますよ。」
りんが口を開いたので、停止ボタンを押しているが、あと数分だけ記録が残っている。集吾とりんは私の方を見て、小さく頷くと口を閉ざした。静かになったのを確認して、再生ボタンを押す。おそらく、ここからの会話が義母が最も聞かれたくない部分だろう。
「じゃあ、計画通り二人が離婚したら、うちの娘をよろしくね。」
「え、もちろん。あの子はとてもいい子よ。マリエさんと違ってね。」
義母のまとう空気が冷たくなるのを感じた。顔色は青を通り越して、白に変わっている。日頃とはまさにこのことよ。私は憎い嫁と縁を切ることができて、仲のいい親友の娘と息子を結婚させられるんだもの。
「うちの娘には話をしてあるわ。あの子は乗り気だけど。集吾さんはどうかしら?」
「大丈夫よ。私が説得するから。あの子は、私の言うことを素直に聞くの。」
確かに集吾は義母に対して従順だ。セーターの件も、違和感を抱きつつ義母の発言を信じていた。しかし、母親が決めた相手と再婚を進められて、素直に受け入れるだろうか。
「りんちゃんも、あの子が新しい母親になれば幸せになれるわ。マリエさんよりずっとね。」
録音はこれで終わりだ。この後、私とりんは義母たちのいるリビングに入っていく。スピーカーから流れていた音声が止まり、リビングに静寂が戻ってきた。けれど、先ほどまでのものとは質が違う。重く粘っこく、部屋全体に張り付いてくるような空気だ。
りんと隠れながら二人の会話を耳にした時、怒りよりも先に、底冷えするような感覚があった。自分がこれほど計算された悪意の中に置かれていたという事実を、頭が処理しきれなかったのだ。今も完全に飲み込めているかどうかは分からない。ただ、りんの提案のおかげで、集吾の前で証拠として示すことができた。もし録音していなかったら、義母の計画を止めるのは難しかっただろう。
集吾がゆっくりと立ち上がった。静かなリビングに、椅子を引く音が響く。何をするのだろうと、私は集吾を見上げた。彼の顔は、今まで見たことがないほど怒りに満ちている。それでも、声を荒げないのが集吾という人間だ。怒りが大きければ大きいほど、冷静になれる。長い結婚生活の中で、私はそれを知っていた。
「俺には、マリエだけだ。離婚なんて、絶対にしない。俺の人生を、勝手に決めるな。」
「集吾、聞いてちょうだい。私はあなたのことを思って、自分にできることをやっていたの。あなたは、この女に騙されているのよ。」
義母が勢いよく私を指さす。私は集吾を騙したことなど、一度もない。彼に対しては、いつも誠実な態度で向き合ってきたと自負している。
「家事も子育てもろくにできない上に、義理の母親である私を敬わない。ちょっと仕事ができるくらいで、あとは何の取り柄もない女よ。」
下手に途中で口を挟むと、義母はますますヒートアップするに違いない。そう判断したため、私はずっと黙ったままでいた。しかし、言いたいことはこの短時間で山のように積み重なっている。私は今まで、家事も育児も全力で取り組んできた。これに関しては、自信を持って言い切れる。仕事で忙しい集吾が、せめて家ではリラックスして過ごせるよう、快適に家の中を整えていた。誰よりも可愛いりんが不自由しないよう、自分にできることは全力で取り組んでいたのだ。時には頑張りすぎて疲れる日もあったが、弱音を吐いたことはない。大切な二人のために、家事と子育ては決して手を抜きたくなかったからだ。
りんと集吾も、私のそういった努力を知っている。だから、義母の発言には二人とも鬼のような形相になっていた。
「私はいつも、あなたのためを思っているわ。最愛の息子に幸せになってほしいと思ってる。今回の件もそうよ。一生懸命考えて、この方法しかないと思ったの。」
義母は集吾とりんの怒りに気づかず、必死になって言い訳をしている。しかし、集吾は首を横に振って拒絶した。今にも怒りが爆発しそうだが、なんとか抑えているのが伝わってくる。
「俺のためを思ってくれてるのか?なら、俺の気持ちを聞いてからにしてくれ。俺はマリエだけを愛してるって、何年も近くで見てきたはずだろ。」
「それは、あなたがやっぱりマリエさんに騙されてるわ。家事も子育てもできない無能な女よ。愛する価値なんてない。」
「母さんは、今まで彼女の何を見てきたんだ。その目は節穴か。はっきり言わせてもらうけど、家事と子育ては、母さんよりしっかりやってるよ。」
実の息子からの衝撃的な発言に、義母はぎょっとした顔になった。
「俺が小さい頃、仕事ばかりで家にいなかっただろう。おかげで家事スキルは身についたけどさ。家事と子育てをしてこなかったのは、母さんの方じゃないか。他人をとやかく言える立場ではないだろう。」
「わ、私はちゃんとやって…」
「ママは、忙しくても私のために時間を作ってくれるよ。いつも美味しいご飯を作ってくれる。家も毎日ピカピカだし、私の友達も、りんちゃんのママが羨ましいって言ってるくらいだよ。」
私をかばう二人の言葉に、思わず泣きそうになる。毎日必死になって頑張っている私のことを、集吾とりんはちゃんと見ていたのだ。こんなに一番大切な家族に努力を認めてもらえて、心の底から嬉しい。目に浮かんだのは、喜びの涙だ。
しかし、今は泣いている場合ではない。まぶたをぎゅっと閉じ、涙を引っ込める。義母に視線を移すと、口を開きかけていたものの、結局閉じていた。何を言っても倍になって反論されると察したのだろう。義母は力なく視線をテーブルに落とした。
「それと、母さんは『謝ってない』とか言ってたけど、そんなことない。旅行に行くと、マリエは母さんのお土産を忘れずに買っていた。きちんと好みを把握して、喜びそうなものを選んでくれたよ。」
「おばあちゃんが風邪を引いた時、看病してたよね。病院にも連れて行ってあげたじゃん。ママはちゃんとおばあちゃんを大事にしてたよ。」
「そんなマリエを拒絶したのは、母さんの方だ。今まで俺に隠れて、こそこそ嫁いびりしてたんだろ。マリエは何も悪いことをしてないのに。」
義母の様子をこっそり見る。彼女は膝の上に置いた手を、真っ白になるほど強く握りしめていた。
「あとさ、母さんが再婚相手にと考えていたその人のこと、俺は知ってるよ。学生時代から付き合いがあるあの人だろ。何度も会ってるし。声だけで分かったよ。」
「そ、そうなの?じゃあ、あの子がどれだけいいか分かるわよね。マリエさんなんかより、よほど素敵な女性よ。あ、ちょっと年は言ってるけど、そんなの気にならないくらい素晴らしい相手だから。」
義母の顔に驚きが広がるのと同時に、希望の光が宿る。反撃の糸口を見つけたと、本人は思っているのだろう。しかし、集吾は心底嫌そうな顔でこう続けた。
「大人になってから、あの人の娘に会ったことがある。彼女、高校出てからずっと無職だろ。仕事もできないから、自分の身の回りのことは母親任せだって言ってた。そういう人と、俺を再婚させようとしてたのか。」
「え、それ本当?」
「家事はともかく、ずっと無職って、今までどうやって暮らしてきたの?親のすねかじりってやつ。」
りんが思わずといった様子で口を開く。彼女の顔は、嫌悪感に満ちていた。
「そ、そんなひどいこと言わないで。あの子は性格がいい子よ。仕事してなくても、別に問題はないわ。マリエさんみたいに生意気な女より、無職の方がよほどましよ。」
義母が親友の娘を気に入った理由を、なんとなく察する。ずっと義母は、私の勤め先に対してコンプレックスを持っていた。無職の親友の娘なら、プライドを傷つけられる恐れもなく、支配することができる。そういう打算もあり、再婚相手に選んだのだろう。
「いや、性格の問題じゃないだろう。仕事も家事もできないような無責任な人間に、誰かの母親になる資格はない。自分の面倒もちゃんと見れないのに、りんを育てるなんて不可能だろ。」
集吾の反論に、私は頷いて返す。次の瞬間、りんが椅子から立ち上がった。りんの顔は怒りに染まっている。普段は笑っていることが多いので、かなり珍しい表情だ。
「そんな人が、私のお母さんになるなんて絶対に嫌。おばあちゃん、何考えてるの?頭おかしいよ。」
りんが声を荒げた。義母が驚いたように目を見開く。可愛がっていた孫娘から、こんな厳しい言葉を向けられるとは思っていなかったのだろう。
りんは義母を嫌っていなかったのだ。私に対する言動に不満を抱きつつも、自分を可愛がってくれる彼女に一定の好感を抱いていた。もし私が嫁いびりを受けていると知らなければ、りんは義母の側に座っていたかもしれない。しかし、義母はりんの信頼を裏切った。今、りんの目は自分の祖母に対する不信感で満ちている。
「り、りんちゃん、お願い。おばあちゃんの話を聞いて。この子のことをもっとよく知れば、きっとりんちゃんも好きになってくれるはずよ。」
「私、何があってもママ以外の人は認めない。それに、おばあちゃんは卑怯な手で私たちを騙そうとしたよね。そんな人の言うことなんて、聞きたくない。」
義母の顔に、絶望の感情が広がっていく。彼女とりんは、お互い好き同士で、家族としていい関係を築いていたはずだけれど、他でもない義母本人が、りんとの絆を壊した。簡単に修復できるものではない。いや、おそらく二度と元の関係には戻れないだろう。
「母さん、この件で訴えてもいいんだぞ。」
続けて、集吾がスマホを取り出した。義母への制裁は、まだ終わらない。画面を操作しながら、彼は静かに告げる。
「俺の大学時代の友人に、弁護士がいるんだ。今からそいつに電話するぞ。いいな。」
「ちょ、ちょっと待って。」
義母が勢いよく立ち上がった。先ほどまでは狂ったように自分の主張を繰り返していたが、弁護士という単語に、少しだけ正気に戻った様子だ。
「訴えるなんて、大げさよ。そんなにあの子との結婚が嫌なら、私のお友達には申し訳ないけど、なかったことにしましょう。だから、弁護士を呼ぶのだけは、今回だけは…」
「それって、どういう意味だ?」
集吾が眉を上げる。彼の鋭い指摘に、義母がはっとした表情になった。自分が無意識のうちに何を言ったか、ようやく気づいたらしい。
「いや、ほら、人生って何が起こるか分からないじゃない。もしかしたら、あなたがマリエさんに愛想を尽かす日が来るかもしれないし。」
そうなってほしいという願望が込められた声だ。まだ私を切り捨てることを諦めていないらしい。我ながら、よくここまで嫌われたなと思う。私はただ、彼女が入りたがった会社で働いていただけだ。どうしても好きになれない相手というのはいる。私も仕事の付き合いで、仕方なく付き合っている人がいるので、嫌になる気持ちは理解できた。けれど、相手を無理やり同調させようという考えは一切ない。嫌いなら、適度な距離を保ってうまく付き合えばいいだけだ。義母はそれができなかった。自分の気持ちをコントロールできず、暴走した。身勝手な振る舞いのツケが、今下りようとしている。
「『今回』って言ったけど、そういう機会自体が、もう二度と訪れないんだよ。」
「え?ど、どういうこと?」
集吾が冷たい目を義母に向けた。
「俺に訴えられたくなかったら、今後一切、マリエとりんに関わるな。」
義母の顔は、どんどん歪んでいく。怒りや悲しみではない。恐怖に近い感情が浮かんでいる。
「ま、マリエさんはともかく、りんちゃんと一生会えないの?」
「そうだ。りんが望んでいないのに、自分の欲望で俺たちの大切な娘の人生を無理やり変えようとしたんだぞ。そんな人間に、りんを関わらせたくない。」
「いや、そんなの嫌よ。りんちゃんは、私の大切な孫なの。」
その言葉を聞いた時、私は奇妙な感覚を覚えた。この人は、自分が何をしてきたか理解しているのだろうか。本当にりんを大切に思うのであれば、なぜ母親である私をいびることができたのか。りんへの愛情と私への敵意は、彼女の中でどうやって共存していたのか。考えても、よく分からない。同時に、激しい怒りを覚えた。
「この大切な孫が嫌がってるのに、どうして自分のやりたいことを貫き通そうとするんですか?あなたの行動が、りんを傷つけている。気づいていないんですか?」
私も立ち上がり、義母をまっすぐ見つめる。今までの義母なら、即座に反論していただろう。嫁のくせに生意気なことを言うなと、声を荒げていたに違いない。しかし、今の義母は反論しない。完全に不利な状態だ。気まずさを感じたのか、目をそらす。
「おばあちゃん、自分のことばかりだね。本当は、私たちのことなんてどうでもいいと思ってるんでしょう。」
りんの声は静かだった。その静けさが却って言葉に重みを与え、義母の心に深く刺さったようだ。彼女は慌てて見る。
「ち、違うわ。おばあちゃんは、あなたとパパのことを何よりも大事に思っている。」
「嘘だね。私、おばあちゃんのせいで悲しい気持ちになってるもん。」
「俺もだ。母さんは、結局自分が一番可愛いんだよ。他の誰を傷つけても、自分を大切にしたい。それが母さんの本性だ。」
自分の家族に向けるには厳しすぎる言葉だと思うけれど、義母には相応だろう。彼女は、集吾とりんに見捨てられても仕方ないことをしたのだ。
「そんな…ごめんなさい。あなたたちを悲しませるつもりはなかったの。ただ、みんなで一緒に幸せになりたかっただけ。」
「その幸せの中に、マリエは含まれていないだろう。なら、俺やりんにとっては不幸だな。」
即座に返された容赦ない反論に、義母は黙り込んでしまう。
「ねえ、ママには謝らないの?今まで散々ひどいことしておいて。最低だね、おばあちゃん。」
義母はりんの言葉を受けて、しばらく固まっていた。長年嫌ってきた相手に、今更頭を下げるなど、義母のプライドが許さないのだろう。瞳がゆらゆらと揺れている。かなり迷っている様子だったが、観念したのか、ゆっくりと私の方を向いた。
「ま、マリエさん。ごめんなさい。今まで悪かったわね。心の底から反省してるわ。二度とこんなことはしないと、約束するから。」
義母が頭を下げる。初めての謝罪だ。白髪が混じった義母の頭を、私はまっすぐに見た。長い付き合いだ。集吾と結婚してからの年月を合わせれば、もう二十年近くになる。彼女がどういう人か、もう十分に知っていた。この謝罪は、本心からのものではない。りんに促され、集吾に呆れられ、仕方なく口にした言葉だ。
こっそりため息をつく。心からの謝罪ではないと知った上で、受け入れることもできた。今までのように、これ以上波風を立てず、円満に収める道を選ぶ。私はずっとそうしてきた。しかし、今日ここにいる私は、過去の情けない自分とは違う。この関係に終止符を打つと、固く誓ったのだ。
嫁いびりをされた仕返しが目的ではない。私は大切な家族を守るために、義母に罰を与えるのだ。
「お母さん。」
静かに口を開く。声は思ったより落ち着いていた。場所を震えてしまうかもと危惧していたけれど、自分でも驚くほど冷静に聞こえる。
「私は、あなたの謝罪を受け入れることはできません。」
義母は目を見開く。まさか私に拒絶されるとは思っていなかったのだろう。プライドを捨てて頭を下げれば、丸く収まる。そんな彼女の読みは、今この瞬間、私の手によって壊されたのだ。
「集吾の言った通り、私と娘は、二度とあなたと関わりません。あなたの葬式にも行きませんので、そのつもりでお願いします。」
義母の表情が、完全に崩れる。眉と目尻は下がっているのに、口の端はひくついて釣り上がっていた。顔面は汗でびっしょりで、脱水になるのではと不安になるくらいだ。体は小刻みに震えている。
「な、なんでよ。謝ってるのに。」
「世の中には、謝ったところでどうしようもないことがあるんです。私とあなたの関係みたいに。」
小さく息を吐く。もし義母がもっと早いタイミングで謝っていたら、私は彼女を許したかもしれない。母さんは、もう長い間、私にして嫌なことをしてきました。頭を下げて二度としませんと言われても、信じることなんてできません。あなたは時間をかけて、自分の信頼を自分で壊してきたんですよ。一度壊れた信頼は、簡単に直せないのだ。厳しい現実を、義母に突きつける。
「じゃあ、私はどうすればいいのよ。」
悲鳴に近い叫び声をあげて、義母は私に飛びかかろうとした。とっさに避ける。義母はよろめきながら床に転がったが、誰も助けの手を伸ばそうとしなかった。
「あなたにできることは、私たちの選択を黙って受け入れることだけです。」
「マリエの言う通りだ。ただ、俺だけは母さんと関わりを持つ。完全に関係を断ったら、何をするか分からないしな。でも、接触は最低限だし、できれば俺は母さんと縁を切りたいと思っている。」
厳しい決断を、集吾と共に丁寧に告げる。怒りをぶつけているわけではない。ただ、決めたことを伝えているだけだ。今、私の胸に宿っているのは、静かな決意だけ。集吾とりんと一緒に、幸せな未来を勝ち取る。そのために、義母に向き合わなければならなかった。
「お願いよ。そんなこと言わないで。今まで通り、仲良くしましょうよ。」
「無理だ。でも、最低限の面倒は見る。介護が必要になったら、施設に入れてやるし、葬儀もちゃんとやってやるよ。」
「りんちゃんには…ねえ、りんちゃん、あなたからも何か言ってよ。」
義母がりんにすがるような目を向ける。さすがのりんも、困惑している様子だ。しかし、迷った後、静かに首を横に振る。
「自分がしたことの結果だよ、おばあちゃん。私は助けない。今日で、おばあちゃんとはお別れだから。」
次の瞬間、義母が完全に壊れた。床に手をついて、意味をなさない叫び声をあげている。やがて、血走った目で私たちを睨みつけると、ゆっくりと立ち上がった。口からは、短い呼吸が漏れている。
「全部、お前のせいだ。お前が嫁に来たせいで、私の人生はめちゃくちゃよ。どう責任取ってくれるの?絶対に許さないから。」
ようやくちゃんとした言葉を発したと思ったら、それは私に対する恨みに満ちていた。義母は余裕がなくなると、感情が制御できなくなる。悪意だけで満たされた義母の腕が、私に向かってまっすぐ伸ばされた。
その瞬間、思い出したのは人事部長に対して手をあげた件だ。同じことを、私にしようとしているのだろう。しかし、義母の目論見は叶わない。集吾が、私とりんの前に静かに体を割り込ませる。義母と私たちの間に立った彼の背中は、広く頼もしかった。
「母さん、もうやめろ。それ以上何かするつもりなら、本気で弁護士を挟むことになるぞ。俺とも、一生会えなくなる。それでもいいのか?」
集吾の声は落ち着いているけれど、反論を許さない響きがある。
「俺は、本気だぞ。」
義母の体が、びくりと跳ねる。集吾を見つめている目が、恐怖の感情に染まった。
「え、いや、それだけはやめて。」
「なら、俺の言うことに従え。マリエに手を出すな。」
私は背中しか見せないけれど、おそらく彼は今、心の底から怒っている。蛇に睨まれたカエルのように、義母は体を固くしていた。
「う…」
義母は再び床に座り込む。涙と共に、鼻水も流れたようだ。リビングに、今日何度目かの沈黙が落ちた。しかし、今度の静寂は長くは続かない。私は集吾の背中に、そっと手を置いた。
「集吾、帰りましょう。話したいことは、全部伝えたわ。」
「そうだな。ああ、最後に一つだけ。母さんが盗んで売った時計に関しては、不問にしてあげるよ。訴えるのも面倒だし、これ以上関わりたくないからね。」
義母はうつむいたまま、何の反応も示さない。りんの手を握り、リビングを出ていく。義母の鳴き声が耳に届いたけれど、私たちは無視した。玄関へ向かう自分の足音が、夜闇に響いて聞こえる。私は振り向くことなく、前だけを見ていた。
思い出すのは、この家で過ごした記憶だ。最初に訪れた時、義母は笑顔で出迎えてくれた。あの時の義母の笑顔は、嘘ではなかったはずだ。りんが生まれて初めて義実家に連れてきた時も、義母は嬉しそうな表情で、愛おしそうに孫娘を抱き抱えていた。彼女の目には、疑いのない愛情が宿っていて、私の心が温かい感情で満たされたのを覚えている。
思い出に浮かぶのは、美化された記憶ではない。全て、本当に起こったことだ。義母が私に対してどんな感情を抱いていたにせよ、幸せだった時間は記憶の中に残っている。しかし、全て過去の話だ。義母は私への嫁いびりと、集吾への裏切りを積み重ねて、今日という日にたどり着いたのだ。
玄関のドアを開けると、少し冷たい空気が顔に触れる。いつの間にか、季節は秋になっていた。空は高く澄んでいて、どこまでも青い。こんなに綺麗な空だったのかと、今更のように思った。最近はずっと心が乱れてばかりで、空を見上げる余裕などなかったのだ。
「綺麗な空だね。」
「うん。とってもいい天気だな。新しい門出にぴったりの空だ。」
先に外に出た私とりんに続いて、集吾が玄関から姿を表した。ドアを静かに閉め、私の隣に並ぶ。彼は穏やかな笑みを、私とりんに向ける。
「さあ、帰ろうか。俺たちの家に。」
「ええ。」
三人で並んで歩く。口数は少ないけれど、沈んだ空気ではなかった。りんも集吾も、晴れやかな気持ちで歩いている。顔を見れば、すぐに分かった。足元を見ると、アスファルトに三人分の影が並んで伸びている。幸せだなと思った。
近くのコインパーキングに止めていた車に乗り込み、運転席に座った集吾がエンジンをかける。バックミラーに映る景色が、少しずつ遠くなっていった。ぼんやり眺めながら、ようやく終わったのだと実感する。
「ありがとう、マリエ。」
集吾がぽつりと呟いた。
「え?何が?」
「母さんと向き合ってくれただろ?普通なら避けるはずの大変なことだ。でも、マリエは逃げ出さなかった。」
「お母さんのためでしょ?私のためでもあるわ。」
もし私が逃げ出したら、義母は最低な人間のまま、この先の人生を送っていただろう。しかし、今回私たちが正面から対峙したことで、彼女はチャンスを与えられた。心の底から自分のしたことを反省し、改心する機会だ。嫌いな相手だが、不幸になってほしいわけではない。願わくば、私たちの義母もいい方向へ進めばいいと思っている。
「それでも、ありがとう。一緒に母さんと向き合ってくれて。俺、マリエと結婚してよかったよ。」
彼の言葉は、じわりと胸に染みた。私はうまく返事ができず、黙ってしまう。窓の外を眺めながら、小さく頷くのが精一杯だった。
「ちょっと、二人とも。そういうのは、私が見てないところでやってよね。」
後部座席に座っているりんが、冗談めかした明るい声をあげる。義実家からの帰り道は、もっと暗いものになると思っていたけれど、りんのおかげで前向きな気持ちになれそうだ。夕暮れが近づき、空は綺麗な橙色に染まり始めていた。
義母との対峙から一ヶ月後、集吾のスマホに義母からメールが届いた。
「見てもいい?」
「ああ。」
スマホを受け取り、文章を見て驚く。義母の親友は、自分の娘と集吾との縁談が完全に立ち消えになったことを知り、激しく怒ったらしい。誰か別の男を紹介しろ。そうしないと許さないと、義母に迫ったという。彼女は親友の要求に答えようと、パート先の同僚たちに声をかける。その話を聞いた同僚たちは、一様に義母にドン引き。結果、彼女はパート先で孤立した。ランチに誰も誘ってくれなくなり、休憩室でも話しかけられなくなったと、愚痴が綴られていた。長年積み上げてきた職場での人間関係は、たった一度の軽率な行動で崩れたのだ。
メールはまだ続いている。義実家に息子一家が訪れなくなったことに、近所の人が気づいた。私とよく話をしていたお隣の女性が、事情を聞いたらしい。寂しさを感じていた義母は、涙ながらにこれまでのことを打ち明ける。ただ、女性の反応は義母が期待したものではなかった。近所の人たちに話が広がり、義母を見る目が変わった。以前は気さくに声をかけてきた人たちも、今では目が合っても無視するようになったのだ。メールの最後には、寂しすぎてどうにかなりそうだと書かれている。
私はスマホを集吾に返した。
「自業自得だな。」
集吾はそれだけ言って、スマホをテーブルに置く。連絡する気はないようだ。
「りんに話す必要はないわよね。」
「ああ、これは黙っていよう。あの子は優しいからな。」
「そうね。」
それだけ話して、私たちは静かな夜を過ごした。
半年後、りんの誕生日の夜。私は台所に立ち、料理の仕上げをしていた。今日のメニューは、りんが好きなものばかりだ。特別豪華というわけではないけれど、りんは大喜びしている。
「よし、できたわよ。」
「やった。お腹ペコペコだよ。」
りんが台所に入ってきて、料理をテーブルへ運ぶのを手伝い始めた。集吾も立ち上がり、飲み物を用意している。食卓に料理が並んだ。
「ママ、ありがとう。これ、私からのプレゼントよ。」
「え、何かな?」
「パパとお揃いのセーターだ。」
紙袋の中から出てきたのは、りんが好きなピンク色のセーター。デザインは、集吾のセーターと同じだ。時期は春に差しかかっている。これを着るのは、しばらく後になるだろう。
「やった。」
セーターを手に、くるくると嬉しそうにその場で回るりん。集吾は目を細めながら、愛しそうにりんを見つめていた。幸福とは、今私の目に映っている光景のことを言うのだろう。
「じゃあ、食べようか。」
「うん。」
「いただきます。」
みんなで手を合わせ、穏やかな声が食卓に広がる。ここが、私の居場所だ。誰かに脅かされたり、傷つけられても、私はこの場所を守りたい。



