判決は法廷で言い渡されるとは限らない。区役所の薄茶色の封筒に入って、静かに郵便受けに落ちてくることもある。この社会では、完璧であることが義務で、貧しさと恥は、どれだけ背負っても返しきれない借金のように、人間の背中にのしかかってくる。
2026年の冬。大阪府の外れにある古い団地で、一人静かに夜を生き延びている女性がいた。黒川静、66歳。夜間品出しの仕事を終え、午前2時を少し回った頃、業務用スーパーの駐車場を横切っていた。体つきは痩せていたが、背筋だけは頑固なほど真っすぐだった。歩く速度は速く、足音を立てない。まるで自分の存在を消しながら移動することに慣れきっているようだった。
スーパーの出口近くで足を止めた。総菜コーナーの棚に、半額シールの貼られた弁当がまだ2つ残っていた。一度通り過ぎてから、また引き返した。セルフレジの前で財布を開き、コイン入れの中身を目で数えた。500円玉が1枚、100円玉が3枚、10円玉が数枚。弁当の値段は270円。静は10円玉を1枚ずつ取り出し、画面に近づけた。機械が受け付けるたびに短い電子音がなった。その音が深夜の静まり返った売り場に響いた。
外に出ると、冬の風が首元を刺した。静はマフラーを顎まで引き上げ、弁当の入った薄いビニール袋を胸の前で両手で持った。ぬくもりは感じられなかった。弁当は冷えていた。
団地までの道は15分ほどあった。バス停が近くにあったが、静は歩くことを選んだ。210円。その金額が頭の中で自動的に換算される。今夜稼いだ時給の15分に相当する。
団地の入り口で、錆びかけた金属の郵便受けに鍵を差し込んだ。受け取るものなど何もないはずだった。だから鍵を回す手に力はほとんど込められていなかった。中に2通の封筒があった。一通は縦長の茶色い封筒で、左上に区役所の名称が印刷されていた。もう一通は白い封筒で、窓開きになっていて、黒いゴシック体で差出人の名前が透けて見えた。静はそれを見た瞬間、手が止まった。
封筒を2枚とも取り出し、階段を登った。402号室のドアを開けると、廊下は暗く静まり返っていた。靴を脱ぐ時、靴のゴムがすり切れていることに気づいたが、その感覚はすぐに遠のいた。
静は台所の電気だけをつけた。6畳と4畳半の2間続きの間取りで、奥の部屋との境には引き戸が1枚あった。戸の向こうは暗く、音もなかった。静は弁当を開け、そのまま食べることはしなかった。箸を一膳だけ取り出して弁当の蓋に置き、それをそっと戸の前の廊下に置いた。ノックはしなかった。音を立てることも、声をかけることもしなかった。ただ置いて、台所へ戻った。
奥の部屋に息子がいた。黒川信太、42歳。かつては物流会社で契約社員として働いていた。それほど出世を望んでいたわけではなかったが、仕事はきちんとこなしていたし、遅刻も欠勤も滅多にしなかった。それが2025年の秋に変わった。直属の上司が変わったのがきっかけだった。新しい上司は特定の部下に対して意図的に仕事を与えず、会議の場で発言を遮り、些細なミスを全員の前で取り上げた。信太がその標的になった理由を、信太自身は今でも正確には理解していない。3ヶ月が経つ頃には、朝に起き上がることができなくなっていた。会社に連絡する気力もなく、ある朝を境に、ただ会社へ行かなくなった。会社からの連絡は最初の2週間だけで、その後は静まり返った。契約期間が終われば、それで終わりだった。それから1年が過ぎていた。信太はその間、団地の奥の部屋から一度も外に出ていなかった。
静は自分用に湯を沸かし、インスタントの味噌汁を一杯作った。弁当は半分だけ食べ、残りはラップをかけて冷蔵庫の中にしまった。明日の朝ご飯になる。台所の椅子に座って、静は自分のノートを開いた。表紙が擦り切れた、小さな家計簿だった。今日の収入と支出を書き込む。時給と勤務時間の掛け算、交通費、今夜の買い物。数字を書き終えると、合計の欄に目を落とした。数秒、そこで視線が止まった。それ以上の感情は顔には出なかった。
電気を消して、台所のすぐ隣にある6畳間に布団を敷いた。横になってもすぐには眠れなかった。遠くで電車の音がした。それが通り過ぎても、また次の音が来るまで、静は天井を見ていた。
翌朝、午前6時半。静はゴミ袋を2つ下げて廊下に出た。燃えるゴミの日だった。袋を結ぶ前に、中の弁当容器を確認した。コンビニの袋は重ねて平たく潰し、その中に入れた。弁当容器は、さらに奥に折り畳んだ。1人暮らしとして登録している自分の部屋から、2人分のゴミが出ているとは思われてはいけなかった。
1階のゴミ置き場へ向かう途中で、白土松子に会った。白土松子、68歳。このフロアの自治会の組長を10年以上やっている女だった。温かそうな笑顔を常に持っていたが、目はいつも観察していた。人の玄関前に止まった自転車の台数や、廊下に出る洗濯物の量を、彼女はよく覚えていた。松子は静のゴミ袋をさっと一瞥した。その一瞥は素早く、だが確かなものだった。
「おはようございます」と静は先に頭を下げた。いつもより少し深く。
松子は笑顔で返した。「おはようございます。あら、黒川さん。最近ゴミ袋が多いみたいよね」
その言葉が放物線を描いて、静の胸に刺さった。顔には出なかった。出さないことに、静は長年慣れていた。
松子はすぐに口調を変えた。笑顔のまま、声は少し低くなった。「あのね、黒川さん。最近、管理組合が厳しくなっててね。年金生活者の独居っていう条件で入居してる部屋に、実は親族が住みついてるケースが多いって問題になってるんですって。そういう場合は家賃の見直しになるし、最悪は退去になるって、先日の理事会でも言ってたの。うちの棟も対象なのよ」
静は聞きながら、ゴミ袋を持つ手に力を込めた。それだけだった。
「あら、黒川さん、そのコート、古くなったわね。でも大切に使ってらっしゃるのね。偉いわ」
松子はそう言い添えてから、笑顔で頭を下げ、自分のゴミを置きに歩いていった。静はゴミ袋を所定の場所に置き、一礼して立ち去った。背中に松子の視線を感じたかどうかは確かめなかった。
棟の入り口まで戻ったところで、奥歯を噛みしめていることに気づいた。顎の筋肉が震えていた。ここ数ヶ月で身についた癖だった。感情を外に出すことは、静には贅沢に思えた。怒ることも、泣くことも、誰かに話すことも。そういうことをする余裕が自分にあるとは、なんとなく思えなかった。「すみません」という言葉だけが自然に出てくる。感情の代わりに謝罪が出てくる。それが長年のやり方だった。
部屋に戻り、昨夜受け取った2通の封筒を台所のテーブルに並べた。茶色い封筒から先に開けた。区役所からの通知だった。「令和8年度に向けた高齢者単身世帯向け住宅支援給付の適正性審査についての通知」という長い題名の下に、住所と名前が記されていた。要点を読むと、現在受給している住宅支援給付について、来年度より支給要件の見直しが行われると書いてあった。世帯員の変更、収入の変動、居住実態の確認などが対象になるという。静は通知を折りたたみ、テーブルに伏せた。
次に白い封筒を開けた。税務事務所からだった。中を取り出すと、書類は1枚ではなかった。黒川信太の住民税の滞納通知が入っていた。信太の最後の住民票がこの部屋の住所になっているため、ここへ届いたのだった。静は数秒で読んだ。住民税の滞納額と、それに加算された延滞金の合計。さらに国民健康保険料の滞納額が別途記されていた。2枚を合わせると、合計45万円を超えていた。数値の下の方に、太い文字で印刷された一文があった。「12月15日までに納付がない場合、財産の差し押さえを実施することがある」
静は書類をテーブルに置いた。視線が数字の上で止まった。それ以上動かなかった。手が冷えていた。台所の暖房は切ってあった。節約のためだった。
しばらくして、静は立ち上がった。戸の前に立ち、数秒そのままでいた。引き戸を少しだけ引いた。奥の部屋はカーテンが閉じられ、暗かった。目が慣れると、隅の方に人影が見えた。信太は壁に背をつけて座り、膝を両腕で抱えていた。顔は見えなかった。静は声をかけなかった。ただ、通知の書類を畳の上に静かに置いた。信太は動かなかった。
静は言った。「お母さんが力がなくてごめんなさい」
その声は、悲鳴でも嘆きでもなかった。抑揚のほとんどない、枯れた声だった。この失敗を親の不甲斐なさとして受け取る、長年の習慣が出た言葉だった。だが、声の奥に何があるかは、言った本人が最もよくわかっていた。
信太は依然として動かなかった。しばらくして、畳の上に置かれた書類の方へ、ゆっくりと視線を動かした。数字を読んだかどうかは分からなかった。静は戸を静かに閉めた。
台所に戻り、引き出しから通帳を取り出した。農協の普通預金、1冊だけ持っている口座だった。最後に記帳したのは先月だった。残高は8万2000円。今月の生活費と来月の家賃を引くと、余るものはほとんどなかった。45万円という数字は、その何倍もの額だった。静は通帳を閉じた。閉じた後もしばらく、テーブルの上に手を乗せたままでいた。
窓の外を電車が通り過ぎた。レールの軋む音が壁を通して伝わった。それが去んでから、また静寂が戻ってきた。
今日は区役所へ行かなければならない。そう思いながら、静は通帳を引き出しにしまい直した。1日の仕事を失う覚悟で、明日の夜勤を交代に回すことにした。交代できなければ欠勤になる。欠勤すれば、その分の賃金は出ない。それでも行かなければならなかった。行かなければ、12月15日が来る。
冬の朝の光が、台所の小さな窓から斜めに入ってきた。静はやかんの前に立ち、湯を沸かし始めた。まず今日を乗り越える。今日を乗り越えてから、次のことを考える。それが静の考え方だった。というより、それ以外の考え方を、彼女はもうずっと持っていなかった。
翌朝、静は5時に目が覚めた。眠れていたのか、眠れていなかったのか、区別がつかないまま布団から出た。窓の外はまだ暗く、高架を走る始発前の保線車両の低い振動音が壁越しに伝わってきた。まず台所の電気をつけた。蛍光灯が一度点滅してから安定した。やかんを火にかけ、昨夜の残りの弁当をラップごと冷蔵庫から出した。冷たいまま食べた。噛む回数を多くすれば腹持ちがいい。
朝食を終えて、静は昨日の2通の封筒を再びテーブルに出した。区役所の通知と税務事務所の差し押さえ予告。どちらも昨日と同じ文だったが、今日は読む目が少し違った。焦りではなく、作業として読もうとしていた。まず区役所への行き方を考えた。開庁は午前8時半だった。夜勤明けで行くか、それとも別の日に休みを取るか。夜勤を抜ければ、その日の賃金が丸ごと消える。だが12月15日まで残り日数は少なかった。静はメモ帳を開き、今日の行動を書いた。区役所窓口番号の確認、持参書類。そして欄外に小さく「夜勤シフト調整」。書いているうちに、持っていく書類が何になるのかも、まだはっきり決していないことに気づいた。
6時半になったところで、静はゴミ袋を下げて廊下に出た。袋の中身は昨日と変わらない手順で詰めてあった。弁当容器は重ねて押しつぶし、その間に食品トレーを挟んだ。ペットボトルは1本だけだったが、ラベルを剥がして中で丸めた。1人暮らしの老女の生活として、量も内容も不自然に見えないように。この作業を、静は1年近く続けていた。最初は気にしていなかったが、白土松子にゴミが多いと言われてから、毎回確認するようになった。手順は体に染み込んでいた。
1階に降りてゴミを置き、戻ろうとしたところで、松子と待ち合わせた。今日は昨日より早い時間だった。松子はすでに身支度を整え、自治会のゴミ当番らしきゴミ袋を手に持っていた。
「おはようございます」と静は先に頭を下げた。
松子は今日も笑顔だった。「あら、黒川さん、早いのね。夜勤の帰りじゃないの?」
「いえ、今日はお休みです」と静は答えた。声に感情が乗らないように気をつけた。
「そう」と松子は言い、ゴミ袋の置き方を確認するふりをして、静の袋に目をやった。今日のゴミの量も、昨日と変わらず多かった。松子はすぐに顔を上げた。「黒川さん、昨日も言いかけたんだけど」
松子の声が少し改まった。「実はね、この棟のことで、管理組合から通達が来たの。来月から巡回調査が入るって。各部屋の居住実態の確認をするって言うんだけど」
静は動かなかった。松子は続けた。「私は組長として協力しなきゃいけないのよ。だから事前にこういう形でお知らせしてるの。もし何か届け出と違う状況があるなら、早めに自分で申請した方がいいわよ。後から発覚すると大変なんですから」
静の背中に冷たい汗が滲んだ。顔には出さなかった。顔に出すことは、負けを認めることに等しいと感じていた。
「そうですね。ありがとうございます」と静は言った。頭を下げる角度がいつもより5度ほど深かった。
松子はそれを見届けてから、また笑顔に戻った。「お互い年金生活、大変よね。仲良くしましょうね」
そう言って、先にゴミ置き場へ向かった。静は廊下に立ったまま、松子の後ろ姿が棟の角を曲がるのを待った。それから、402号室の方向へ歩き始めた。階段を登りながら、静は奥歯を噛んでいた。昨日から続いている癖だった。噛むと顎が痛くなるのは分かっていたが、止められなかった。これが唯一、感情を閉じ込める便のように機能していた。
部屋に戻り、通知を広げた。今度は落ち着いて数字を整理しようとした。信太の住民税滞納額は、24年度と25年度の合計で28万円ほど。延滞金を加えると31万円を超えていた。国民健康保険料の滞納が別に14万円。合計45万2000円余り。静の手元には、今月の賃金が振り込まれた後でも8万2000円しかない。来月の家賃が3万4000円。光熱費と食費を最低限にしても、毎月使える金は1万円台だった。45万円という額は、静にとって手の届かない山だった。
一度に払えないなら、分割にしてもらうしかない。区役所へ行って分割払いを申し出る。それが今できる最初の一手だった。だが、通帳には本人の来庁が必要と書かれていた。本人、つまり信太が直接来なければ、原則として手続きができないということだった。
静は書類を重ねてテーブルの端に寄せた。戸の前に立った。昨日と同じ場所だった。引き戸を少し引くと、昨日よりも光が入った。信太は同じ場所に座っていたが、体の角度が少し変わっていた。書類が畳の上に置かれたままだった。読んだかどうかは分からなかった。
「信太」と静は読んだ。返事はなかった。「区役所に行かないといけない。あなたが行けないなら、お母さんが行く。でも、あなたの印鑑がいる。それだけでいい」
信太の指がかすかに動いた。それだけだった。静は言葉を続けなかった。印鑑の用紙を1枚、畳の上に置いた。昨日の夜に税務事務所のウェブサイトで書式を印刷しておいた。名前と生年月日と委任内容を書いて、判を押せばいい。「それだけでいい」と繰り返した。戸を閉めた。
台所に戻り、家計ノートを広げた。静のノートには、1円単位で今月の収支が記されていた。今月の夜勤収入の見込み。それから、スーパーの人事から先日受けた電話を思い出した。来年1月から、65歳以上の深夜勤務を段階的に削減するという話だった。詳細はまだ出ていないが、もし週4日から3日になれば、月の収入は2割近く落ちる。静は鉛筆でノートの余白に数字を書いた。3日勤務になった場合の試算。現在の家賃、光熱費、食費の最低ライン。そして滞納税の分割払いを仮に月2万円とした場合の残額。数字はマイナスになった。鉛筆を置き、ノートを閉じた。解決策は頭に出ない。出なくてもいい。今日は区役所へ行き、信太の分割払い申請の手続きができるかどうかを確認する。それだけでいい。
出かける支度をしながら、静は鏡の前で一度だけ自分の顔を見た。目の下にうっすらと疲れの色があった。それだけで、他に何も見なかった。化粧はしない。区役所の窓口に化粧をしていく意味を、静は考えたことがなかった。コートを羽織り、財布を確認した。今日の交通費として、500円玉を1枚、別のポケットに入れた。それ以外の金は使わない。玄関を出る前に、戸の方を一度振り返った。中から音はしなかった。静は鍵をかけて廊下に出た。
最寄り駅から区役所の最寄り駅まで、阪和線で2駅だった。普通に乗った。快速より5分遅いが、運賃は変わらない。座席は空いていた。静は窓側に座り、鞄を膝の上で抱えた。隣の車両から、ベビーカーを押した若い母親が乗り込んできた。静はとっさに立ち上がり、スペースを開けようとした。母親は驚いた顔をして「ありがとうございます」と言った。静は頭を下げて、扉近くに立った。電車が走り出すと、窓の外に団地が見えた。自分の住んでいる棟とよく似た作りの、灰色の建物が並んでいた。この地域には、昭和30年代から40年代に建てられた団地がいくつも残っていた。建物の古さと、そこに残っている人間の年齢は比例しているように見えた。
区役所の建物に入ると、受付ロビーに番号札の発行機が並んでいた。静は税務関係の窓口の番号札を引いた。番号は73番だった。電光掲示板には、今の呼び出し番号が出ていた。51番。待合いの椅子に座り、番号が呼ばれるのを待った。隣には70代とおぼしき男性が、厚い書類の束を膝に置いて目を閉じていた。その向こうには、補聴器をつけた女性が窓口の方向を見つめていた。待合室の空気は、薄い消毒液の匂いがした。蛍光灯の光は、顔の影を作らなかった。人々の表情が、その光の中で、のっぺりと見えた。
番号が進むのは遅かった。静は膝の上の鞄を両手で持ち、背中を椅子の背もたれにつけずに座った。椅子に深く座る習慣がなかった。いつでも立てる体制でいることが、彼女にとっての礼儀だった。
「73番、2番窓口へどうぞ」
アナウンスが流れた。静は窓口に近づいた。担当は20代後半に見える男性職員だった。ネクタイを締め、名札をつけ、姿勢は正しかった。笑顔ではないが、声は丁寧だった。「今日はどのようなご要件でしょうか?」
静は税務事務所からの通知を出し、息子の住民税と保険料の滞納について、分割払いを申し出たいと説明した。委任状を書いてもらえれば、代理で手続きができるか確認したかった。職員は通知を受け取り、番号で内部のシステムを照会した。しばらくパソコンの画面を見てから、顔を上げた。「こちらの件につきましては、原則として納税義務者の方、本人に窓口へお越しいただく必要があります」
静は言った。「本人が来られない場合は、委任でも対応していただけると聞いたのですが」
職員は頷いた。「委任による代理手続きは可能な場合もございますが、分割納付の申請に際しては、義務者本人の健康状態や経済状況をご申告いただく必要がございます。代理の方が申請される場合には、医療機関の診断書または福祉関係の書類など、本人が来庁できない理由を客観的に証明する書面が必要となります」
静は息を一度吸った。「息子は病院には行っておりません」
「そうしますと、現状では診断書のご用意が難しいということでしょうか?」
「はい」
職員は小さく頭を下げた。「申し訳ございませんが、その場合は、一旦義務者本人に来庁いただくか、あるいは行政の福祉相談窓口を通じた支援申請に切り替えていただく形になります」
「福祉相談窓口というのは、どこになりますか?」
「別の建物になります」と職員は言い、1枚のパンフレットを出した。「こちらに地図と電話番号が載っております。ただし、こちらも本人または代理人の面談が必要となります」
静はパンフレットを受け取った。両手で受け取り、一礼した。「ありがとうございます」
職員はさらに言い添えた。「なお、12月15日以降につきましては、差し押さえ手続きが進む可能性がございますので、できる限りお早めのご対応をお願いいたします」
「わかりました」と静は答えた。もう一度一礼して、窓口から離れた。待合いエリアに戻ると、番号の電光掲示板に次の番号が出ていた。74番。次の人が窓口に向かっていた。静は出口に向かって歩いた。ロビーは相変わらず人が多かった。それぞれが番号札を持ち、それぞれの要件を抱えていた。誰も静を見ていなかった。静も誰も見ていなかった。
外に出ると、細かい雨が降り始めていた。朝に家を出る時は曇りだった。傘は持っていなかった。戻る時間と交通費が惜しかった。静はコートの襟を立て、駅への道を歩き始めた。雨は、傘がいるほどでも、いらないほどでもない、中途半端な降り方だった。そのくせ、時間が経つほどにコートの方がしっとりと湿ってきた。静は歩く速度を上げた。早歩きにすれば、濡れる面積が減る。
駅への道沿いにスーパーが一軒あった。目的はなかったが、足が自然に中に入った。総菜コーナーを通った。昼前の時間で、まだ値引きシールは貼られていなかった。鮮魚コーナーの前を通り過ぎた。野菜コーナーで足が止まった。もやしが29円、豆腐が38円。売れ残りの大根の半切りが50円の値引き品になっていた。静は大根を手に取り、重さを確認し、元に戻した。今日は買わない。手元の金を、今以上に減らしたくなかった。
駅に向かう途中、バッグの中でスマートフォンが振動した。スーパーの人事部からだった。静はその場で立ち止まり、画面を見た。出るべきか迷う間もなく、次の振動が来た。出た。
「黒川さんでいらっしゃいますか?」人事の担当者と名乗る男性の声だった。
「はい」と静は答えた。
「先日お伝えした、65歳以上スタッフの夜間シフト見直しの件ですが、正式決定しましたのでご連絡しました。来年1月から、週の夜勤回数を最大3回までとさせていただきます」
静はその場に立ったまま聞いていた。「また、誠に恐れ入りますが、今月分のお給与のお支払いについて、システムの不具合で3日ほど遅れるかもしれません。ご不便をおかけして、大変申し訳ございません」
「わかりました。ありがとうございます」と静は言った。それだけ言って、電話を切った。
雨がまた少し強くなった。駅の屋根の下に入り、静は少しの間、足を止めた。スマートフォンを鞄にしまい、パンフレットを折りたたんで、ポケットに入れた。週3回になるということは、来月から収入がおよそ2割落ちる。システム障害で、今月の振り込みがさらに3日遅れる。12月15日の差し押さえ期限まで、残りは12日だった。数字が静の頭の中で静かに並び替えられた。感情ではなく、計算として。この感覚は、静にとって慣れていることだった。慣れてしまったことが、良いことなのか悪いことなのか、もう分からなくなっていた。
帰宅すると、玄関に信太の靴があった。昨日と同じ位置だった。変わっていなかった。静は靴を脱いで台所に入った。戸の向こうは静かだった。昼だったが、音はしなかった。静は冷蔵庫を開け、昨日の残りの豆腐と、昨夜残した弁当の菜を取り出した。鍋で軽く煮て、茶碗に盛った。それを一つ、戸の前に置いた。自分には何も作らなかった。残り物を茶碗に一杯だけ取り、立ったまま食べた。
食器を洗い終えてから、もう一度戸の前に立った。引き戸を少し開けると、昨日置いた印鑑の用紙の姿がなくなっていた。信太はまた壁際に座っていたが、膝の上に用紙を持っていた。静は何も言わなかった。信太が口を開いた。
「印鑑、どこにある?」
それだけだった。声は低く、枯れていた。1年で、声の使い方を忘れたような声だった。静は台所の引き出しから印鑑を取り出し、戸の隙間から差し入れた。余計なことは言わなかった。押し付けがましい言葉は、今は逆効果だということを、静は知っていた。
しばらくして、用紙と朱肉が戸の隙間から戻ってきた。用紙には、信太の名前と生年月日と委任内容の欄に、静の名前が書かれていた。認めの朱肉がまだ乾いていなかった。静は用紙を手に取り、一度だけ眺めた。字は崩れていたが、読めた。判を押す力が弱かったのか、朱影が薄かった。これで区役所が受け付けてくれるかどうか分からなかった。だが、今できることはこれだけだった。
「ありがとう」と静は言った。戸の向こうから返事はなかった。だが、静はそれで十分だった。
夕方になり、静は通帳を再び出した。8万2000円。来週の振り込み分が入れば、それより少し増える。だが、今月分の給与は3日遅れる。静は通帳を持ったまま、椅子に座って窓の外を見た。高架の向こうに日が沈もうとしていた。空の色が、橙色から灰色に変わっていくのを、静はただ見ていた。何かを感じたかどうかは、自分でも分からなかった。怒りとも悲しみとも呼びにくい何かが、胸の奥の辺りにあった。それを言葉にすることを、静はしなかった。言葉にした瞬間に、それが実態を持ってしまうような気がしていた。
夜の8時半、静はスーパーへ向かった。勤務の開始は9時だった。制服に着替え、タイムカードを押す。その動作だけで、日中の出来事は一旦棚上げにされる。仕事中は、仕事のことだけを考えればいい。それが静にとっての、働く理由の一つだった。
今日の担当は、飲料と関連の棚だった。カートにダンボールを積んで、バックヤードから売り場へ運ぶ。ダンボールを開け、商品を確認し、賞味期限を見て、棚の奥から押し込んでいく。作業中は無心になれた。手と体だけ動かしていればいい時間だった。
深夜1時を過ぎた頃、棚の補充が一段落し、バックヤードで小休止を取った。ロッカールームの椅子に座り、紙コップの水を一口飲んだ。隣に座った50代の女性パート、堀内さんが言った。「黒川さん、来年からシフト減るって聞いた」
「ええ」と静は答えた。
「大変よね。この年でパートだし。でも黒川さん、体力あるから大丈夫よね。私なんてもう膝がやばくてさ」
静は小さく笑った。「そうですね」と言った。それ以上、何も言わなかった。大丈夫かどうかは、誰にも分からなかった。
午前2時、タイムカードを押し、制服から着替えた。外に出ると、昼間の雨はすっかり上がっていた。空気が冷えて、息が白くなった。足元のアスファルトが、濡れたまま光っていた。静は帰り道を歩きながら、明日の区役所行きの段取りを頭の中で組み立てた。委任状を持っていく。信太の本人確認書類もいるかもしれない。コピーを取っておく必要がある。考えながら歩いていると、団地の入り口に着いた。郵便受けには、今日は何も入っていなかった。階段を登り、402号室のドアを開けた。廊下は暗かった。戸の向こうも暗かった。静は台所の電気だけをつけ、制服を脱いで洗面所に入れた。布団に入り、天井を見た。今日一日で何かが解決したわけではなかった。委任状は取れた。それだけだった。明日また区役所へ行き、また窓口に座り、また丁寧な言葉で拒絶されるかもしれない。それでも行かなければならなかった。行く以外に、前にできることがなかった。高架の向こうで、深夜の貨物列車が通り過ぎた。その音が遠ざかり、また夜が静かになった。
区役所へ行く日は、前の晩から準備した。委任状、信太の健康保険証のコピー、自分の身分証明書、通帳のコピー、税務事務所からの通知の原本。それらを古い封筒に入れ、玄関の棚の上に置いた。忘れ物をしたくなかった。忘れ物をして出直せるほど、交通費も時間も余裕がなかった。
その夜の夜勤は、シフトの仲間に無理を言って交代してもらっていた。交代を頼んだのは、堀内だった。堀内は二つ返事で引き受けてくれたが、「黒川さん、体調でも悪いの?」と聞いてきた。「ちょっと用事があって」と静は答えた。それ以上は言わなかった。働かない日は収入がない。それだけだった。干渉的になる意味はなかった。
翌朝、6時に目が覚めた。前日より30分早かった。眠れていない時間の方が長かったが、体は動いた。静はそれで十分だと思っていた。台所で湯を一杯飲み、封筒の中身を再度確認した。書類を1枚ずつ取り出し、順番を確認して、またしまう。委任状の朱影が薄い箇所があるのが気になった。朱肉を持っているかどうか調べたが、見当たらなかった。信太が使ったはずだった。戸を少し開けて、台所に近い場所を照明で探したが、見えなかった。声をかけることも、引き戸をもっと開けることも、しなかった。薄い朱影で受け付けてもらえなければ、その時に考える。できることを積み重ねていくしかなかった。
戸の前に朝食を置いた。昨夜の残り物の煮物を小皿に盛ったものと、湯の入った湯呑みを一つ。静は台所で食パンを1枚、何もつけずに食べた。
7時半に家を出た。開庁時間より1時間早い。並ぶためだった。区役所の税務窓口は、開庁前から列をなすことがある。1番乗りではなくても、早く番号を取れれば待ち時間が短くなる。外は晴れていた。冬の朝の光は低く斜めに差し込み、団地の外壁のシミや亀裂を鮮明に浮かび上がらせた。廊下の手すりに、誰かが洗濯物を干し始めていた。バスタオルと作業着だった。団地の入口近くで、老人が一人、ゆっくりと歩いていた。背が丸く曲がり、手押し車を押しながら進んでいた。靴の底を引きずる音が、静かな朝の空気に響いた。静はその人を追い越さず、少し速度を落として歩いた。追い越す理由もなかった。
駅に向かいながら、頭の中で今日の手順を組み立てた。窓口で何を言うか、どう説明するか。前回拒絶された経緯がある。今日は委任状がある。条件が違う。だが、結果は行ってみなければ分からなかった。
区役所に着いたのは8時10分だった。開庁の20分前。入り口のシャッターはまだ半分しか上がっていなかったが、すでに10数人が外の長椅子と柱の周りに立っていた。静は列の後ろに並んだ。前に並んでいたのは、70代とおぼしき男性と、酸素ボンベを引いている女性だった。誰も話さなかった。ただ開くのを待った。
8時半になり、シャッターが完全に上がった。職員が出てきて、整理券の発行機が稼働し始めた。静は税務関係の窓口の番号を取った。今日は14番だった。前回の73番より格段に早い。待合いの椅子に座り、番号が呼ばれるまでの時間に、静は持参した書類をもう一度確認した。委任状の朱影の薄さが、やはり気になった。受け付けてもらえなければ、もう一度来るしかない。その場合は、また1日分の賃金が消える。
隣の席に50代の女性が座った。きちんとした服装で、書類を挟んだバインダーを持っていた。会社の経理担当者か何かだろうかと、静は思った。その人は迷いなくスマートフォンを操作し、メモを取っていた。静もスマートフォンを持っていたが、データの節約のために、ほぼオフラインで使っていた。今日の窓口対応をどう乗り越えるかを、頭の中で繰り返しシミュレーションしながら待った。
「14番、3番窓口へどうぞ」
今日の担当は、30代前半の女性職員だった。眼鏡をかけ、前回の男性職員と同じように丁寧な言葉遣いだった。静は委任状と通知書類を差し出し、前回の経緯を短く説明した。
「委任状を確認しますね」と女性職員は言い、書類を手に取った。朱影を見て、一度静を見た。その目の動きは、素早く判断するためのものだった。「少々お待ちください」と言って、奥の席の上司らしき職員に書類を持っていった。2人が小声で話す様子が見えたが、内容は聞こえなかった。静は窓口の前で待った。背筋を伸ばし、カウンターに手を置かず、ただ立っていた。
女性職員が戻ってきた。「申し訳ございません。委任状は確認できました。ただ、こちらのご住所について、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい」と静は答えた。
「黒川信太様のご住所と、今回申請されている方のご住所が同一になっております。現在、黒川様のご状況についてお聞きしたいのですが、現在もこちらの住所にお住まいということでよろしいでしょうか?」
静の呼吸が一瞬だけ止まった。「はい」と答えた。声は平静だった。
女性職員は頷き、続けた。「ありがとうございます。実は、この住所は現在、高齢者単身世帯向けの住宅支援給付が支給されているご住所になっております。給付の条件は単身世帯となっておりますが、別の方が同住所にお住まいの場合、給付の見直し対象になる場合がございます。本日の分割払い申請とは別になりますが、住宅支援給付の担当窓口にもご確認いただく必要が生じるかもしれません」
静はその言葉を全て聞いた。一言も聞き逃さなかった。頭の中で状況が整理された。分割払いを申請するために来た。委任状を持ってきた。しかし、息子が同居していることが記録に残れば、住宅支援給付が止まる。給付が止まれば、毎月4万円近い補助が消える。それだけでなく、団地の管理上、単身高齢者向けの低家賃が適用されなくなる。最悪の場合、退去を求められる。一つの問題を解決しようとすると、別の問題が現れる。その構造を、静は頭の中で見ていた。感情は後ろに押しやった。今は感情を出している場合ではなかった。
「こちらの住所のことは、別途ご相談させていただきます。本日は、分割払いの申請だけを進めることは可能でしょうか」と静は言った。声に感情は乗っていなかった。
女性職員は少し間を置いてから答えた。「分割払いの申請自体は進められます。ただ、先ほど申し上げた内容については、後日改めてご連絡が入る場合がございます。あらかじめご承知おきください」
「分かりました」と静は答えた。
分割払いの申請用紙が渡された。義務者の氏名、住所、税の総額と希望する分割回数。支払い能力に関する申告欄には、世帯の収入状況を書く欄があった。静は鉛筆で記入した。信太は現在無職で、収入がない。世帯の収入は、自分のパート収入のみ。月額の手取りを書いた。正直に書いた。偽る意味もなかったし、偽る気力もなかった。
申請書を職員に返すと、内容を確認してから、月の分割額の目安が書かれた用紙が渡された。1回あたりの最低分割額は2万円からとなっていた。2万円。静は数字を見た。来月から収入が減る。今でも毎月の余りは数千円しかない。
「ありがとうございます」と静は言い、一礼した。窓口を離れながら、静は分割払いが認められたことを、良いことと捉えるべきかどうか分からなかった。問題が解決したのではなく、問題が形を変えただけだった。
外に出ると、朝の晴れはどこかへ行き、空は白く曇っていた。駅への道を歩きながら、静は今日ここで得たことを頭の中で整理した。分割払いは受理された。ただし、住宅支援給付の見直しが入る可能性がある。それが現実になれば、家賃が上がり、給付がなくなり、毎月の赤字が確定する。どうするべきか、今すぐには答えが出なかった。信太を住民票から外すことも考えたが、そうすれば信太は医療機関や行政サービスから弾き出される。今も無保険同然の状態だが、住民票まで動かせば、取り返しがつかなくなる。答えのない問いを抱えながら、静は歩いた。
帰宅すると、玄関に、静が朝に置いた湯呑みが廊下に出ていた。中が空になっていた。信太が飲んだということだった。それだけで、静の胸に小さな何かが通り過ぎた。良かったという気持ちとも違う、もう少し薄い感覚だった。今日も生きている。それだけだった。台所に湯呑みを引き取り、洗って片付けた。戸を開けて中を覗いた。信太は布団に横になっていた。眠っているのか、起きているのか分からなかった。朝食の皿は、食べた後があった。静は戸を閉めた。
午後、静はテーブルに家計ノートを広げ、来月以降の収支を細かく書き直した。夜勤が週3回になった場合の月収見込み。現在の家賃3万4000円。光熱費の最低ライン、食費の最低ライン。国民健康保険料は滞納しているため、今月は引き落とされないが、分割払いの初回が来月からある。2万円計算すると、毎月数千円のマイナスが出た。これは貯金を食いつぶすペースだった。貯金は今、8万2000円しかない。4ヶ月でそこを突く計算だった。
もう一つ収入を増やすか、支出を削るか。支出の削れる余地は、もうほとんどなかった。電気代は最低限まで使い、食費はすでに切り詰めていた。削れるとすれば、スマートフォンの契約を解約することくらいだった。だが、連絡手段がなくなれば、仕事の連絡も取れない。
もう一つ仕事を増やす。静はその言葉をノートの余白に書いた。どんな仕事でも。
夕方、静は近所を歩いた。仕事を探すためだった。ハローワークに行く余裕はなかった。スマートフォンで求人サイトを調べることもできたが、データ通信費を使いたくなかった。自分の目で確認できる範囲の求人張り紙を探す方が確実だった。
団地から駅にかけての商店街は、シャッターが目立つようになっていたが、それでもいくつかの店が営業していた。コンビニ、クリーニング店、整体院、薬局、小さな定食屋。コンビニの入口に求人張り紙があった。時給は最低賃金に近い金額で、勤務時間は昼間だった。夜勤と掛け持ちできる時間帯かどうかを確かめた。早朝5時から8時の枠があった。静は張り紙の番号を手帳にメモした。
さらに歩いた先、駅前のビルの1階に清掃会社の事務所があった。窓に手書きの張り紙があった。「早朝スタッフ募集。勤務地は近隣の駅内及び公共施設。勤務時間は午前4時から午前8時」。時給は少し高かった。静はしばらくその張り紙を見ていた。午前4時。夜勤が終わるのは午前2時。2時間しか感覚がない。体が持つかどうか分からなかった。体が持つかどうかより、やるかどうかを先に決める必要があった。張り紙に書いてあった電話番号を手帳に書き取った。
夜9時、スーパーの夜勤に入った。今日の担当は、冷凍食品の棚と日用品の補充だった。カートを押して売り場に出ると、昼間のシフトから引き続き勤務している主任の田辺が棚の前に立っていた。田辺は30代の男性で、正社員だった。仕事はできたが、言い方が直接的すぎることがあった。悪意ではないと静には思えたが、言われた言葉は刺さった。
「黒川さん、昨日のシフト、変わってもらったの聞いたけど」田辺が言った。「あんまりそういうのやらないで欲しいんだよね。チームで動いてるんだからさ」
「申し訳ありませんでした」と静は言い、頭を下げた。田辺はそれ以上言わなかった。ただ、状況を指摘し、「ここ、昨日補充が甘いんだよね」と言って立ち去った。静は棚の前に立ち、ダンボールを開けた。言い訳をしなかった。した方がいいかどうかも考えなかった。頭を下げて作業を続ける。それだけが今の自分にできる対応だった。
手はダンボールを開けながら、少し震えていた。疲れのためか、感情のためか、自分でも分からなかった。
深夜1時の休憩で、静はロッカールームに1人でいた。堀内は今日は早上がりだった。他のパートスタッフも先に休憩を終えていた。静は紙コップに水を入れ、一口ずつ飲んだ。田辺に言われた言葉が頭の中でもう一度再生された。「あんまりそういうのやらないで欲しい」。正しい指摘だった。だから余計に、胸のどこかが痛かった。正しい言葉ほど、刺さり方が深い。静はそのことを、長く生きる中で知っていた。間違った攻撃には反論できる。だが、正しいことを言われた時、人間は黙るしかない。紙コップを握りしめながら、静は天井を見た。見るものが天井しかなかった。
午前2時、帰宅した。鍵を開けて廊下に入ると、台所の電気がついていた。出かける前に消したはずだった。静は靴を脱いで中に入った。台所に人はいなかったが、シンクの中に茶碗が1枚置かれていた。すすいだ後があった。信太が何かを食べて、シンクに置いたということだった。電気のスイッチを切る前に、静はその茶碗を一度手に取った。持ち方が雑で、縁に小さな欠けがあった。昔からあった欠けだった。以前、信太が洗い物をする時、乱暴に積み上げてできた欠けだった。静はその茶碗を洗い直し、拭いて棚に戻した。電気を消した。何かが変わったとは思わなかった。でも、昨日と今日で、何かが1ミリだけ動いたかもしれないという感覚はあった。それを大きく見ることを、静はしなかった。大きく見た分だけ、裏切られた時に崩れる。
布団に入り、電気を消した。目が覚めている間、清掃会社の求人のことを考えた。午前4時。夜勤が終わって2時間後に、次の仕事が始まる。週に何日かそれをこなすということは、連続して眠れる時間が3時間未満になる日が出てくるということだった。続くかどうか分からなかった。続かなければ意味がない。だが、続くかどうかを考える前に、まず面接を受けなければ分からない。面接。その言葉が頭に浮かんだ時、静は久しぶりに小さな引っかかりを感じた。年齢のことを聞かれる。66歳で、新たに清掃の仕事に応募する。雇ってもらえるかどうか分からない。でも、電話するだけならただだと、静は思った。ただで試せることは、試してみる価値がある。
窓の外で、遠くの踏み切りが鳴った。カンカンカンという規則正しい音が続き、電車が通り過ぎると止まった。
翌朝、郵便受けに一通の封筒があった。差出人は、団地の管理組合だった。内容は簡潔だった。来月、居住実態確認の巡回調査を行う。対象は単身高齢者世帯として入居している部屋。調査は担当者が直接訪問する形で行われる。立ち合いを拒否した場合、契約内容の再確認手続きに移行する場合がある。静は封筒を台所のテーブルに置いた。松子が言っていたことが、正式な書面になってきた。来月、担当者が来る。その時、部屋に信太がいれば、全てが発覚する。どうするか?その問いを、静はしばらくテーブルの前で抱えた。答えはすぐには出なかった。出るはずがなかった。
戸を薄く開けると、信太は今日は少し違う場所に座っていた。壁ではなく、窓の近くだった。カーテンは閉じたままだが、体の向きが違った。それだけのことだったが、静は気づいた。
「管理組合から手紙が来た」と静は言った。「来月、部屋の確認が入る」
信太は何も言わなかった。
「どうするかは、あなたが決めることではない。お母さんが決める。あなたは、今いるだけでいい」
そう言って、戸を閉めた。台所に戻り、やかんを火にかけた。湯が湧くまでの時間、静は窓の外を見た。電線にスズメが一羽止まっていた。何もしないまま、しばらくそこにいた。それから飛んでいった。静は茶を一杯入れ、テーブルに座った。どこにも逃げ場はなかった。でも、逃げる気もなかった。逃げる体力があれば、それを別のことに使った方がいい。清掃会社に電話する。区役所の通知に返答する。シフトの調整を続ける。それだけのことを、一つずつやる。それ以外に、今の自分にできることはなかった。
静は手帳を開き、清掃会社の電話番号を見た。まだ午前8時前だった。事務所が開く9時まで、あと1時間あった。その1時間を、静はテーブルで過ごした。茶を飲み終えても、そのままでいた。何を考えていたかは、後になっても自分ではっきりわからなかった。ただ座っていた。ただ次の一手を待っていた。窓の外にまた電車が通った。今日もこの町は、何事もなかったように動き続けていた。
9時ちょうどに、静は清掃会社に電話した。呼び出し音が3回鳴り、女性が出た。声は事務的だったが、感じが悪くはなかった。
「求人の張り紙を見て電話した。早朝の仕事について聞きたい」と静は言った。
女性は少し間を置いてから、「今、いくつですか?」と聞いた。
「66です」と静は答えた。
また少し間があった。「うちの仕事は体力いりますけど、大丈夫ですか?トイレ清掃もありますよ」
「大丈夫です」と静は言った。
「それでは、一度面接にいらっしゃいますか?」
静は手帳に日時をメモした。来週の月曜日、午前10時。場所は駅前のビルの事務所。電話を切った後、静はしばらく受話器を持ったまま立っていた。面接。その言葉が頭の中で少し重くなった。66歳で、新しい仕事の面接を受ける。それが今の自分の現実だった。重くなっても意味がない。面接があるということは、可能性があるということだ。それだけのことだった。
12月15日になった。朝7時、静は悠々銀行のATMに立っていた。近所のコンビニに入った機械だった。カードを差し込み、暗証番号を押した。画面が止まった。しばらく待ってもそのままだったので、もう一度操作した。今度は画面に文字が出た。「お取り扱いできません」という一文と、長い数字の羅列が表示された。エラーコードだった。静は機械の横にある通帳記帳機に移った。通帳を差し込んだ。印字が始まり、一行だけで止まった。引き出された通帳を手に取り、最新の行を見た。残高の欄に、ゼロという数字があった。その隣に「差し押さえ」という文字と、税務事務所の番号が記されていた。
静は通帳を持ったまま、しばらく動かなかった。コンビニの入り口のそばで、他の客が入ってきた。静は少し横にずれた。8万2000円。今月の残高は、全てなくなっていた。税務事務所が15日を期限に、差し押さえを実行したのだった。分割払いを申請したばかりで、初回の支払いがまだ発生していない段階だった。申請が処理されるより先に、期限が来てしまったということだった。
静は財布を開いた。中に入っていたのは、500円玉が3枚と100円玉が数枚だった。合計で1500円ほど。今日から次の給与が振り込まれるまで、この金額だけで生活しなければならなかった。給与の振り込みは、システム障害で3日遅れている。3日後まで、手元にあるのは1500円だけだった。コンビニの自動ドアが開いて、冷たい外気が入ってきた。静は財布を締め、コートのポケットに手を入れた。指先が冷えていた。
帰り道、静は商店街を通った。八百屋に見切り品の箱が出ていた。傷のついた大根が1本30円。人参の袋が80円だった。静は立ち止まり、財布を出しかけた。やめた。今日の食事より、この3日間を乗り切ることの方が先だった。一度に使える金額を計算した。3日で1500円。1日500円。500円あれば食べられる。豆腐と卵と米があれば、2人で1日過ごせる。米はまだ少し残っている。問題ない。そう、自分に言い聞かせながら、静は歩いた。言い聞かせることで、体が動いた。
部屋に戻り、台所のテーブルに通帳を置いた。ゼロの数字を再び見た。落ち着けと静は思った。落ち着いた。感情を動かすより、次の手を考える方が先だ。まず、分割払いの申請が差し押さえより先に処理されるべきだったのではないかを、区役所に確認する。であれば、返還請求ができるかもしれない。できないかもしれない。どちらにしても、確認が必要だった。電話するために受話器を取ったが、かける前に手が止まった。区役所の窓口番号を知らなかった。パンフレットを探した。先日もらった税務事務所関係のパンフレットを引き出しから取り出し、電話番号を確認した。電話した。呼び出し音が長く続いた後、担当の部署につながった。静は事情を説明した。分割払いを申請したが、それより先に差し押さえが実行された。申請の処理はどうなっているのか。
オペレーターは少しの間、保留音が流れた。しばらくして戻ってきて言った。「分割払いの申請は受理されていますが、差し押さえの手続きは、申請受理より前に開始されていたものです。今回の差し押さえは有効な手続きです。差し押さえ分は、滞納税の一部に充当されます。残額についての分割払いは、引き続き有効です」
静は内容を紙に書きながら聞いた。「つまり、8万2000円は戻ってこない。残額の分割払いは続く。そういうことか」と確認した。
「はい。その通りです」と答えが帰ってきた。
「わかりました」と静は言った。「ありがとうございました」
電話を切った。書き取った紙をテーブルに置いた。そのまましばらく、テーブルの木目を見ていた。残高が0になったことで、差し押さえ分が滞納税の一部に充当されたということは、残りの分割払い総額は減った。それは良いことだ。だが、手元の金がなくなった。給与が入るまで3日間、1500円で生活する。
静は米の袋を確認した。3合ほど残っていた。冷蔵庫を開けた。豆腐が半丁、卵が2個、もやしが半袋、納豆が1パック残っていた。信太と2人で3日間、これで乗り切れる量だった。乗り切れるかどうかより、乗り切るしかなかった。今日の夜勤前に、残った500円のうち300円を使って、足りないものを一つだけ買う。味噌か、ごま油か。味噌の方が汎用性がある。そう決めた。
夜勤は9時から始まった。今日の担当は、生鮮食品コーナーの整理と冷蔵庫の清掃だった。カートを押して売り場に出ると、バックヤードから卵のケースを運ぶ作業があった。1ケース30個入りの紙パックが6つ、積まれていた。一往復目は問題なかった。二往復目の時、静はカートを押しながら売り場の角を曲がった。前からカートを押した別のパートスタッフが来て、静はとっさに避けた。その動きで、カートの上の卵ケースが1つ傾いた。静は片手で抑えようとしたが、間に合わなかった。ケースが落ち、床に当たり、フィルム越しに数個の卵が割れる音がした。静はすぐにしゃがんで状況を確認した。外から見て4個は割れていた。中がどうかは分からなかった。
「何事だ」と田辺の声がした。売り場の奥から田辺が歩いてきた。状況を見て、怒鳴りはしなかったが、表情が変わった。「黒川さん、こういうのは気をつけてもらわないと。これ、1ケース何百円すると思ってる」
静は頭を下げた。「申し訳ありません」と言った。
田辺はもう少し言い続けた。「今は、ただでさえ人が少ないんだから、こういうミスが出ると、全体の段取りが狂うんだよね。ロスは今月増えるし」
静は頭を下げたままだった。謝罪の言葉を繰り返した。それ以外に言えることがなかった。田辺は最終的に、割れたケースを下げて、奥へ戻っていった。静はしゃがんで、割れた卵ケースを持ち上げた。床に染みた卵液を、モップで拭き取った。作業は丁寧にした。やけくそになることはなかった。丁寧にすることが、今の自分にできる唯一の反論だった。作業をしながら、口の内側を噛んでいた。痛かったが、止めなかった。泣くのと同じだけの力が、口の中の一点に集中していた。
ケースをバックヤードに持ち帰り、処分の所定の場所に置いた。他の従業員はそれを見ていたが、何も言わなかった。静も何も言わなかった。
深夜1時の休憩で、ロッカールームに入った。バッグを開け、財布を取り出した。残りは1200円。今日の帰りの交通費を引けば、実質使えるのは1000円以下だった。明後日には給与が振り込まれるはずだった。それまでの食材は確保した。足りる。と静はもう一度心の中で言った。声に出すと、現実になる気がした。
紙コップの水を飲みながら、今日の出来事を順番に整理した。通帳が0になった。区役所への電話で状況を確認した。卵を落とした。田辺に言われた。家に帰れば信太がいる。明後日に給与が入る。面接が来週ある。一つずつ並べると、それぞれは大きすぎない。まとめて見ると潰れそうになるが、一つずつ見れば、対処できないものはなかった。そう思うことにした。
午前2時に仕事を終えた。外は凍えるような寒さだった。息が白く出た。団地への道を歩きながら、静は体を温めるために早足にした。急いでいるわけではなかった。ただ体を動かしていた方が、考えすぎずに済んだ。
団地の入口まで来たところで、静は立ち止まった。白土松子が、棟の入り口の前に立っていた。この時間に、コートを着て、腕を組んで待っていた。静の足が止まった。松子が静を見た。
「あら、黒川さん、ちょうど良かった」
松子の声は、昼間より低く、近所に聞こえないように抑えられていた。「ちょっと話があって待ってたの」
「こんな時間に」と静は言った。声は平静を保とうとした。
「昼間は会えないでしょう。あなた、夜勤だから」と松子は言い訳をするように、でも言い訳ではないという表情で言った。「大事な話だから、直接言いたかったの」
静は黙って待った。松子は少し身を乗り出すようにして言った。「黒川さん、今日、夜中にあなたの部屋の窓際で、人の影が見えたって、向いの奥さんから連絡があってね。カーテンの裏に、明らかに大人の男性の影だったっていうの。あなたがこの時間まで仕事してることはみんな知ってるから、空き巣が入り込んでるんじゃないかって心配で」
静の体に静かな緊張が走った。顔には出さなかった。「心配ありません」と静は言った。
松子は引かなかった。「でもね、黒川さん。単身入居の部屋に、別の人が住んでると、管理の問題になるじゃない。私も組長として、放っておくわけにいかないのよ。あなたのことを思って言ってるの」
「思って」という言葉が、静の耳に引っかかった。誰かのことを思って動く人間と、誰かを見張って動く人間は、外から見ると同じに見えることがある。どちらが本当かは、言っている本人にしかわからない。そして、その本人でさえ、自分のことを正確には把握していないことがある。静はそのことを、長く生きる中で知っていた。だから、松子を悪人とは思わなかった。ただ、今の静には、松子のそういう動き方が、体力的にも精神的にも耐えられなくなってきていた。
「申し訳ありません」と静は言った。それから、すぐにいつものように頭を下げようとした。だが、体が少し遅れた。頭が下がる前に、松子が続けた。「今度、管理組合の巡回が来る時、一緒に立ち合いましょうか?私が説明してあげてもいいし」
その言葉で、静の中の何かが静かにずれた。立ち合いの申し出は、表面上は親切だった。だが、実際にそうなれば、松子は部屋の中を見ることになる。そこに信太がいれば、全てが終わる。
「大丈夫です」と静は言った。今度は頭を下げなかった。自分でも気づかないうちに、そうなっていた。松子は少し表情を変えた。驚いたのか、不満なのか、どちらとも取れる顔だった。
「そう」と松子は言った。「でも、何かあったら言ってね」
それだけ言い残して、自分の部屋の方へ歩いていった。静は松子の後ろ姿が廊下の角を曲がるのを見届けてから、息を吐いた。階段を登りながら、さっきのやり取りを頭の中でもう一度見た。頭を下げなかった。それはいつもと違う自分だった。なぜそうしたのかは、自分でも分からなかった。疲れていたからか、限界が近かったからか、あるいは今夜すでに何度も頭を下げていたからか。
402号室の鍵を開けた。廊下は暗かった。奥の戸の下の隙間から、わずかに光が漏れていた。信太が起きているということだった。静は廊下に立ったまま、その光を見た。起きている。それだけで、今夜は十分だった。声はかけなかった。靴を脱いで、台所の電気をつけた。やかんに水を入れかけた。コートを脱いで、椅子に座った。足が少し重かった。重いと思った。それだけだった。
テーブルの上に、昼間に書き取った区役所への電話内容のメモが残っていた。「ゼロ充当、残額分割継続」。その言葉が並んでいた。やかんが鳴り始めた。静は立ち上がり、急須に茶を入れた。茶葉は少なめにした。薄くなるが、茶葉の量を気にしている場合ではなかった。茶碗に注いで、両手で持った。ぬくもりが指先に伝わった。今日初めて、何かが温かかった。
戸が少し開いた。信太が出てきた。パジャマのままで、髪が乱れていた。目が合うと、信太の視線は少しそらした。それでも、部屋から出てきたのは久しぶりのことだった。信太は台所の入り口に立ったまま、「あの金のこと」と言った。
静は茶碗を持ったまま、「うん」と答えた。驚かないように気をつけた。驚いた顔を見せると、信太の心が引っ込んでしまうかもしれなかった。
「差し押さえられたんだろう」と信太は言った。「通帳、見てしまった」
静は少し間を置いてから、「そう」と言った。
信太は壁に肩を持たせかけた。「俺のせいだ」
静は答えなかった。信太は視線を床に落としたまま、言い続けた。「面接、どこでもいい。清掃でも、ゴミの収集でも、どこか雇ってくれるところがあれば、行く」
静はその言葉を、茶を飲みながら聞いた。急がなかった。信太の言葉が空中に散らばってから、ゆっくり受け取った。
「ハローワークに行けば、相談に乗ってもらえる」と静は言った。「あなたの状況で使える制度もあるかもしれない」
信太は頷かなかった。でも、否定もしなかった。
「今夜は寝なさい」と静は言った。「明日、考える」
信太は少しの間立っていた。それから、戸の中に戻っていった。閉まる音がした。静は1人になった台所で、茶の残りを飲み干した。信太が部屋から出てきた。それだけのことだった。言葉も多くなかった。解決したことは何もない。明日もまた同じ問題が並んでいる。でも、今夜は昨日と少しだけ違った。その違いが何なのかを、静は言語化しなかった。言語化すると、期待になってしまう。期待は裏切られると、傷になる。茶碗を洗い、電気を消した。布団を敷き、横になった。
翌朝、郵便受けに管理組合からの封筒があった。昨日届いていたものだった。開けると、巡回調査の日程が記されていた。来週の水曜日、午前10時から11時の間に担当者が訪問する。不在の場合は、管理事務所に連絡するよう書かれていた。来週の水曜日。清掃会社の面接が月曜日にある。面接結果が出る前に、巡回調査が来る。静はカレンダーを見た。台所の壁に貼られた、薄い紙のカレンダーだった。日付に丸をつけた。面接の月曜日と、巡回の水曜日。2つの丸が並んだ。それぞれに対して、今日から動けることがある。そう思って、ノートを開き、書き始めた。
巡回調査について、静は2つの選択肢を考えた。一つは、調査が来る前に、自分から管理事務所に申告する。信太が同居していることを正直に告げ、家賃の変更と給付の見直しを受け入れる。隠し続けることの精神的な負担と、発覚した時の損害を比べれば、自分から言う方が長い目では安全だった。もう一つは、調査当日に信太をどこかに出す。コンビニでも、駅の待合いでも、1時間だけ外に出てもらう。信太がそれに応じてくれるかどうか分からなかった。どちらを選ぶにしても、信太に話を通さなければならなかった。
静は戸の前に立った。昨夜より、少しだけ立つのが楽になっていた。
「信太」と静は読んだ。しばらくして、返事があった。昨夜より、少しだけ早かった。
「来週の水曜日、管理組合の人が部屋の確認に来る」と静は言った。「あなたがここにいることが、契約違反になる。だから、その日だけ、外に出てほしい」
戸の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。それから、信太の声がした。「外に出るって、どこに?」
「駅の近くに喫茶店がある。1時間だけ、そこにいてくれればいい」
また沈黙があった。信太が外に出るのは、1年ぶりになる。それがどれほどのことか、静には分かっていた。だから、追い立てなかった。
「分かった」と信太は言った。声は低く、小さかったが、返事はあった。
「ありがとう」と静は言った。頭を下げる相手が見えなくても、そうした。
面接の準備を始めた。清潔な服装で行かなければならない。静のクローゼットを開けると、仕事と普段着の境がほとんどなかった。一番マシなブラウスを取り出し、確認した。首元が少し黄ばんでいた。洗っても落ちないシミだった。上からカーディガンを羽織れば見えない。カーディガンはまだ清潔だった。靴も確認した。かかとのゴムが、右側だけすり切れていた。左は持つかもしれない。どちらにしても、新しい靴を買う金は今なかった。このまま行くしかなかった。バッグを確認した。そこにシミがあったが、目立たなかった。
準備を終え、静は台所の椅子に座った。面接で聞かれることを考えた。なぜ応募したか。どんな経験があるか。体力に自信があるか。正直に答えればいい。嘘をつく必要はない。ただ、年齢のことだけは、どう言えばいいか少し考えた。66歳という数字は、どんな仕事でも不利になる数字だった。だから、言い方を工夫するわけではなかった。ただ、66歳でも続けられる理由を一言添えた方がいいかもしれなかった。夜勤を1年続けている。毎日往復で30分は歩いている。体は動く。それだけよ。と締めた。
夕方、信太が戸を開けた。台所に来て、冷蔵庫を自分で開けた。それから、棚にある乾麺を取り出し、静の方を見た。
「これ、茹でていいか」と信太は言った。
静は頷いた。「どうぞ」と言った。
信太は鍋に水を入れ、コンロに火をかけた。ぎこちなかったが、1人でやり始めた。湯が沸くまで待ちながら、台所の壁のカレンダーを見ていた。面接と巡回の丸が見えたはずだった。
「2人分、茹でようか」と信太は言った。声がまた少し大きくなっていた。
「お願いします」と静は答えた。
信太は何も言わずに、麺を2人分入れた。信太の動きはぎこちなかったが、やめなかった。湯が湧いて、麺が沈んで、やがて上がってくるのを、2人でその場で見ていた。台所に漂う湯気が、少しだけ部屋を温めた。暖房は今日もつけていなかった。
月曜日の朝、静は清掃会社の事務所へ向かった。最寄り駅まで歩き、電車に乗り、2駅で降りた。事務所は駅前のビルの2階だった。エレベーターはあったが、静は階段を使った。事務所のドアをノックし、中に入った。受付には40代とおぼしき女性が座っていた。電話で話した声と同じだった。
「黒川です。面接でお願いしています」と静は言い、頭を下げた。
女性は頷き、奥の打ち合わせスペースに案内した。小さな机と椅子が2つ、置いてあった。面接担当は50代の男性だった。がっしりした体つきで、作業着の上にベストを羽織っていた。清掃の現場に出ることもある人間だと、一目で分かった。書類を一度見て、男性は言った。「66歳ですね」
「はい」と静は答えた。
「体力的に大丈夫ですか?うちの早朝は午前4時スタートで、トイレの清掃や床磨きが主な作業です」
「夜間スーパーで品出しを1年しています。歩き仕事は慣れています」と静は言った。
男性は少し考えてから、「一度、現場に入ってみてもらって、判断しましょう」と言った。「結果は来週中にご連絡します」
面接は15分ほどで終わった。ビルを出ると、冬の空は高く晴れていた。採用されるかどうかは分からなかった。でも、面接は終わった。できることをした。結果を待つしかない。帰りの電車の中で、静は窓の外を見た。車窓に団地が見えた。自分が住んでいる棟とよく似た建物が、また流れていった。水曜日が来る。巡回がある。信太が外に出る。それをこなせば、また次がある。次が何であれ、その時に考える。今日は今日のことをやった。それだけだった。
帰宅すると、部屋が少し違って見えた。戸が開いていた。中を見ると、信太が座る位置が変わっていた。壁際ではなく、部屋の中心近くに座布団を置いて座っていた。手元には何かあった。靴下だった。靴下を手に持って、穴が開いた箇所をただ眺めていた。
「面接、どうだった」と信太は聞いた。
「来週、返事が来る」と静は言った。
信太は頷いた。それ以上は聞かなかった。静はコートをハンガーにかけ、台所に入った。今日の夕方の食事のことを考えた。残り物でどこまでできるか。あと1日乗り切れば、明日には給与が振り込まれる。振り込まれたら、まず米を1袋買う。それから味噌。それだけ買えれば、後はなんとかなる。そう思いながら、冷蔵庫を開けた。夕方の光が、台所の窓から斜めに入ってきた。
信太がまた台所に来て、昨日と同じように黙って鍋の前に立った。今日は何かを煮ようとしていた。残り物の野菜を取り出し、水を入れ、火にかけた。手つきはまだぎこちなかったが、昨日よりは少し早かった。静は椅子に座って、それを見ていた。
「何を作るの」と聞いたら、信太は少し考えてから言った。「味噌汁、作れるかわからないけど」
静は何も言わなかった。頷くこともしなかった。ただそのまま見ていた。鍋が音を立て始めた。2人の息が白くならない程度には、部屋が温まっていた。窓の外で、阪和線の電車が1本通り過ぎた。その音が遠ざかり、また静かになった。明日が来る。明日もまた、解決していない問題が並んでいる。でも、今夜は鍋の音がする台所があった。それだけのことが、今の静にはとても静かに重かった。
水曜日の朝、静は4時半に目が覚めた。アラームより30分早かった。眠れていたのかどうか、判断できないまま目が開いていた。天井のシミが、薄暗い中でも分かった。長く見慣れたシミだった。今日が管理組合の巡回調査の日だった。布団の中で、静は今日の段取りをもう一度整理した。調査員は午前10時から11時の間に来る。信太には9時半までに部屋を出てもらう。近くの喫茶店で1時間待ってもらう。調査員が来たら、静が1人で対応し、終わったら信太に連絡する。連絡手段はスマートフォンのショートメッセージ。信太はスマートフォンを持っていたが、通信費が払えず、ここ1年、ほぼ使っていなかった。昨夜、静がWi-Fiに接続させ、メッセージが届くことを確認した。問題は、信太が1年ぶりに外に出ることだった。
6時になってから、静は戸を少し開けた。信太は起きていた。布団の上に座り、膝を立てて、窓の方を向いていた。カーテンは閉じたままだったが、体は前を向いていた。
「今日のこと、覚えてるね」と静は言った。
信太は頷いた。「9時半に出てほしい。喫茶店の名前は、昨日言った通り。終わったら、メッセージを送る」
「分かった」と信太は言った。静は戸を閉めた。それだけだった。それ以上言う必要はなかった。
7時に朝食を作った。昨日の煮物の残りに、卵を1個割り入れて煮直した。米を炊いた。2人分だった。信太が台所に出てきた。昨日より自然な足取りだった。まだぎこちなかったが、台所の椅子に座ることを、もう迷わなかった。2人でテーブルについて食べた。会話はほとんどなかった。静が食べ終わり、信太がまだ食べている間、静は茶碗を洗い始めた。
「うまいな」と信太が言った。
「昨日、あなたが作ったんでしょう」と静は言った。
信太は少し止まってから、「そうだっけ」と言った。
「そうだよ」と静は言った。返し方が自然になっていた。自分でも気づいていなかった。
信太が自分の部屋に戻り、着替える音が聞こえてきた。引き出しが開く音、ハンガーが動く音。静は台所の片付けを続けながら、その音を聞いた。聞こえないふりをした。信太が意識されていると気づけば、余計な重さが加わる。しばらくして、信太が出てきた。灰色のカーゴパンツと、紺のフリースを着ていた。1年間着ていなかった服だろうから、少しシワになっていた。それでも、外に出られる格好だった。
「靴、サイズ合うかな」と信太は言った。玄関に並んだ自分の靴を見ていた。
「履いてみないとわからないね」と静は言った。
信太は玄関で靴を出して履いた。少し窮屈そうな顔をしたが、脱ごうとはしなかった。
9時25分、信太は玄関に立った。静は台所から見ていた。信太はドアの取っ手を持ち、1秒ほど止まった。「行ってきます」と言った。声が少し枯れていた。
「行ってらっしゃい」と静は答えた。
ドアが開き、閉まった。廊下に足音がした。それが遠くなり、階段の音になり、やがて聞こえなくなった。静は台所に立ったまま、しばらくその静けさを聞いていた。信太がいなくなった部屋の静けさは、今までの静けさとは少しだけ違った。1年間の静けさは、重くて沈んでいたが、今の静けさは、薄くて、どこか続きがあった。
10時を少し過ぎたところで、インターホンが鳴った。静は深呼吸を一度して、受話器を取った。
「管理組合の担当のものですが」と男の声がした。
「はい、今開けます」と静は言い、解錠ボタンを押した。ドアのそばに立って待った。廊下に足音が聞こえてきた。2人分だった。ノックがあった。静はドアを開けた。40代と50代とおぼしき男性が2人立っていた。1人は管理組合の証票をつけ、もう1人はスーツにネクタイだった。スーツの男は、管理会社の担当者だろうと静は判断した。
「黒川さんでいらっしゃいますか?」証票の男が言った。「今日はご都合をいただき、ありがとうございます。居住実態の確認ということで、少々中を拝見してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」と静は言い、横に寄り添った。2人が中に入った。玄関から廊下を見渡し、台所に入った。静は後ろについて回った。台所には1人分の食器が出ていた。昨夜の信太の茶碗は、棚にしまってあった。テーブルの上には何も置いていなかった。スーツの男が部屋の広さを確認しながら、「現在、1人でお住まいということで、間違いないですか?」と言った。
「はい」と静は答えた。
「ご家族のご連絡先など、変わりはないですか?」
「変わりありません」と静は言った。
2人は戸の方を見た。静の体がわずかに固まった。
「こちらは?」と証票の男が言いかけた。
「物置きにしています」と静は言った。声は平静だった。男は少し間を置いた。「開けてもいいですか」と言った。静は動かなかった。1秒があった。「どうぞ」と静は言った。
証票の男が戸を引いた。中は薄暗かった。布団が畳まれて、壁際に置かれていた。信太が使っていた毛布と枕は、昨日、静が押入れの奥にしまっておいた。部屋の中央には何もなかった。座布団が1枚あるだけだった。男は部屋の中を一通り見て、「わかりました」と言って、戸を閉めた。スーツの男が何かをタブレットに入力していた。
「確認は以上です。ご協力ありがとうございました」
それだけ言って、2人は玄関を出た。静はドアを閉め、そのまま廊下に立ち続けた。足音が遠ざかるのを聞いた。エレベーターが動く音がして、止まった。それから、やっと息を吐いた。スマートフォンを取り出し、信太にメッセージを送った。「終わった。戻っていい」
既読がついたのは5分後だった。返信はなかったが、既読だけで十分だった。静は台所に入り、やかんを火にかけた。今日の午前中に2杯目の茶を飲むのは珍しかった。いいだろうと思った。今日くらいは、いいだろうと思った。
30分ほどして、玄関のドアが開く音がした。信太が戻ってきた。靴を脱ぎながら、「どうだった」と聞いた。
「問題なかった」と静は言った。
信太は台所に入り、椅子に座った。何も言わなかったが、手をテーブルの上に置いて、少し肩が下がっていた。外に出て、戻ってきた体だった。
「喫茶店、どうだった」と静は聞いた。
「コーヒー飲んだ」と信太は言った。
「お金は?」と静は聞いた。
「財布に少し残ってた」と信太は言った。少し経ってから、「外、久しぶりだった」と言った。
静は茶を2人分注いだ。信太の前に置いた。信太はそれを両手で持って飲んだ。
午後2時過ぎ、スマートフォンが鳴った。清掃会社の担当者からだった。
「先日面接に来ていただいた、黒川様ですね」と男の声が言った。
「はい」と静は答えた。
「結果をお伝えしたくて、ご連絡しました。来月から採用ということで、いかがでしょうか?勤務は週3日からのスタートで、慣れてきたら増やす形を考えています」
静は少し間を置いてから、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と言った。電話を切ってから、手帳を開いた。来月からの新しい収入の見込みを書き加えた。数字はまだ概算だったが、0ではなくなった。それだけで、計算の方向が変わった。
信太が戸から顔を出して、「どうした」と言った。
「仕事、決まった」と静は言った。
信太は少しの間黙ってから、「そうか」と言った。「そうか」という2文字に、いくつかの感情が薄く混じっているように聞こえた。静はそれを救い上げようとしなかった。ただ、「そう」と短く返した。
翌朝、静は管理事務所へ向かった。一晩考えた結果だった。昨日の巡回は乗り越えた。だが、調査員が押入れを確認しなかったことは、今後も続く隠蔽が通用するという意味ではなかった。遅かれ早かれ、信太の存在は表に出る。松子の目がある。管理会社の書類がある。自分から言う方が、発覚した時よりも傷が浅い。それは頭で分かっていたことだった。だが、実際に管理事務所の前に立つまでの時間、静の足は何度か止まりかけた。止まるたびに、また歩き始めた。
管理事務所は、団地の1階奥にあった。小さな窓口があり、担当者が1人いた。50代の男性で、昨日の調査員とは別の人だった。
「黒川と言います。402号室の」と静は言った。「実は、届け出と異なる状況がありまして、ご報告に来ました」
担当者は表情を変えずに、書類を取り出した。変更届の用紙だった。静が同居人の届け出をしたいと言うと、用紙を渡しながら、「同居の理由をお聞きしてもよろしいですか?」と言った。
「息子です。事情があって、昨年からここにいます」と静は言った。
担当者は頷いた。「用紙に記入してください。家賃の変更が必要になります。今より高くなります。また、区の住宅支援給付の担当窓口にも、届け出が必要になります」
「分かっています」と静は言った。
用紙に記入した。信太の名前、生年月日。続きからペンを走らせながら、静は顔を上げなかった。手が震えていないことを確認しながら書いた。震えていなかった。用紙を渡し、控えを受け取った。担当者は「手続きに数日かかります」と言った。静は頭を下げ、「ありがとうございました」と言って、事務所を出た。
外に出ると、冬の空が高かった。身軽になったとは言えなかった。これから家賃が上がる。給付が止まる。毎月の計算が変わる。それはまだこれからの問題だった。でも、隠すことをやめた。それだけは確かだった。隠すことにどれだけの体力を使っていたか、やめた後には分かった。ゴミを細かく分ける作業、松子の言葉に頭を下げ続けること、区役所の窓口で嘘をつくように空気が動くのを感じながら立っていること。それらが、一つずつ終わった。全部が解決したわけではなかった。だが、背負い方が少しだけ変わった。静は団地の方へ歩き始めた。
帰ると、信太が戸を開けて、台所の椅子に座っていた。静のスマートフォンを借りて、何かを調べていた。
「何見てるの」と静は聞いた。
「ハローワークの場所」と信太は言った。スマートフォンを静に返した。画面には地図が表示されていた。最寄りのハローワークは、電車で3駅のところにあった。「来週、行こうと思う」と信太は言った。
静は椅子を引いて座った。「うん」と言った。「一緒に行こうか」と静は聞いた。
「いい」と信太は言った。「1人で行く」
静はそれ以上、何も言わなかった。「1人で行く」という言葉を、そのまま受け取った。
翌日、静は住宅支援給付の担当窓口に出向いた。管理事務所の担当者が言った通りの手続きだった。同居者が増えたことを届け出ると、審査の結果として、給付の見直しになる可能性があるという説明を受けた。確定するまで数週間かかる。その間は現状維持のままで、変更があれば書面で通知する。「わかりました」と静は言い、帰った。
帰り道、静は立ち止まって、空を一度だけ見上げた。雲が薄く広がり、太陽が白く透けて見えた。寒かった。それだけだった。でも、その1秒の仰ぎ方が、以前とは少し違った。以前は、空を見る余裕がなかった。今日は見た。それだけのことが、静には静かに意味のあることだった。
1月の最初の月曜日、静は午前3時半に起きた。清掃会社の初日だった。夜勤のスーパーで働いて戻ってきたのが、午前2時だった。眠れた時間は1時間半だった。それでも体は動いた。顔を洗い、作業着に着替えた。清掃会社から支給された紺の作業着を、自分のセーターの上から着た。鞄にタオルを入れて、玄関を出た。
4時ちょうどに現場に着いた。集合場所は、駅の改札階のコンコースだった。同じ作業着を着た人が3人いた。60代とおぼしき男性1人、40代の女性1人、そして50代の男性1人だった。誰も余計な話をしなかった。リーダーらしき男性が来て、今日の担当区域を割り振った。静の担当は、男女別のトイレ3箇所と、コンコースの隅の床磨きだった。
トイレ清掃は、1室あたり15分が目安だった。便器を磨き、床を拭き、鏡を拭き、ゴミ箱を確認する。手順を教わり、道具を渡され、最初の1室を1人でやった。思ったより体を使った。しゃがんで立つ動作を繰り返す。床に膝をつくことはなく、腰を落として作業した。足の筋肉が使われた。夜勤のスーパーとは、使う筋肉が違った。2室目からは少し慣れた。手順が体に入ってくると、考えることが減った。考えることが減ると、体が楽に動いた。
午前7時半に作業が終わった。リーダーに今日の分のサインをもらい、解散した。外はすでに明るくなっていた。人が増え始めた朝の駅に、静は立っていた。作業着のままだった。誰も見ていなかった。見ていたとしても、静はもうそれを気にする体力の使い方をしなかった。
帰り道、静は商店街を通った。朝の8時前で、シャッターが上がり始めている店があった。八百屋の親父が野菜を並べていた。豆腐屋が店の前を掃いていた。その光景を、静はゆっくり歩きながら見た。急がなかった。今日の残りの予定を考えながら歩いた。昼間は少し眠る。夜勤がある。清掃の仕事は週3日から始まる。来週、また来る。重なる仕事の量を、静は今は恐れていなかった。恐れる前に、体が動くかどうかを試してみなければ分からない。今日の初日は動いた。それで、今日は十分だった。
帰宅すると、台所に明かりがついていた。信太が卵を炒めていた。鍋ではなく、フライパンを使っていた。音と匂いがした。入り卵らしかった。
「お帰り」と信太は言った。
「ただいま」と静は言った。
信太は振り向かずに、「食べる?」と言った。
「うん」と静は言った。静は作業着を脱いで洗面所に置き、手を洗い、台所の椅子に座った。信太が皿を2枚テーブルに置き、入り卵を盛り付けた。米は昨夜の残りを温めていた。2人でテーブルについて食べた。前に2人でここで食べていたのは、いつだったかと静は思った。答えは出なかった。それより前の生活は、もう遠くなっていた。
食べながら、信太が言った。「ハローワーク、明日行く」
「うん」と静は言った。「何か必要なものあるかな」と信太は言った。
「履歴書かな。文房具屋で売ってる」と静は言った。
信太は頷いた。しばらく黙って食べた。信太が茶碗を置いて、「ご馳走様」と言った。静は「美味しかった」と言った。信太は立って、皿を台所に運んだ。洗い始めた。音がした。ぎこちない音だったが、音がした。
その日の夕方、郵便受けに、住宅支援給付の担当窓口からの書面が来ていた。内容は、給付の見直し審査が開始されたという通知だった。審査期間中は現状の給付を継続するが、結果によっては来年度から給付の減額または停止になる可能性があるとの記載があった。静はそれを読み、テーブルに置いた。来年度から変わる可能性がある。それに備えて、今から計算を組み直す必要がある。清掃の収入が月にどれだけになるか。家賃の変更がいつ来るか。信太がいつ収入を持てるようになるか。変数が多すぎて、正確な見通しは立てられなかった。それでも、静はノートを開き、今は分かっていることだけを書いた。分からないことは空白にした。空白を埋めるのは、分かった時でいい。今できることは、今分かっていることを正確に把握しておくことだけだった。
1週間が経った。信太はハローワークに行った。担当の相談員と話し、就職者支援制度の説明を受けた。すぐに仕事が決まるわけではなかったが、登録はした。「来週、また行く」と信太は言った。静の清掃の仕事は、週3日のペースで続いていた。体は疲れたが、動けた。夜勤との掛け持ちは、確かに眠れる時間を削った。でも、体が完全に壊れるほどではなかった。少なくとも、今週はそうだった。来週はそうかどうかわからない。分からないことに備えて、今の体力を使いきらないようにすることだけを考えた。
ある日、仕事から帰った静は、信太が夕食を作っていた。
「今日は何?」と静は聞いた。
「豆腐と大根の味噌汁」と信太は言った。「あとはご飯だけ」
「それでいい」と静は言った。食卓に2つの茶碗が並んだ。暖房はまだつけていなかった。台所は冷えていた。でも、熱い味噌汁があった。2人で飲んだ。黙って飲んだ。それで十分だった。
夜、布団に入りながら、静は今の状況を頭の中で並べた。滞納税の残額はまだ30万円以上ある。分割払いは来月から始まる。家賃が変わる可能性がある。給付が変わる可能性がある。信太はまだ仕事がない。清掃の仕事は始まったばかりで、続くかどうか分からない。一つも解決していない。並べると、そうだった。だが、1年前と今では、何かが違った。1年前は、問題が暗闇の中に沈んでいた。沈んでいるから、見えなかった。見えないから、対処できなかった。今は、問題が目の前にある。見えている。見えていると、対処できるものとできないものの区別がつく。できるものを、一つずつやる。できないものは、できるようになるまで待つか、諦めるかを決める。そういう考え方ができるようになったということが、静にとっての今の現実だった。大したことではないかもしれなかった。でも、1年前の自分にはできなかったことだった。
冬のある夜、台所には暖房が入っていなかった。節電のためだった。2人分の夕食は、白いご飯と醤油と刻みのりだけだった。信太がご飯を茶碗に盛り、静の前に置いた。自分の分も持った。醤油を少しかけ、のりを散らした。それだけだった。2人で向かい合って食べた。
「うまいな」と信太が言った。
「うん」と静は言った。ご飯に醤油をかけるだけで、なぜかそう感じた。腹が減っているからか、一緒に食べているからか、分からなかった。どちらでも良かった。
食べて、静は茶碗を持ったまま、少しの間、信太の顔を見た。信太は気づかなかった。茶碗の縁を指でなぞっていた。42歳の息子が、ご飯を一緒に食べている。1年前はなかったことだ。それが今はある。それだけのことが、静には今の全部に思えた。解決したことは少ない。これからも、すぐに解決することは少ないだろう。この社会の底の方で、目立たずに生きていくことは、ずっと続く。借金は残る。家賃は変わるかもしれない。体はいつか限界を迎える。信太がいつ立ち直るかは、誰にも分からない。でも、静はもう目をそらしていなかった。見えているものを見ながら、できることをする。今日もそうした。明日もそうする。それが、静という人間の生き方だった。見栄えはしない。誰かに褒められることもない。でも、それが彼女の、誰にも奪えない一点だった。
翌朝4時、静は作業着を着て玄関を出た。外は暗く、冷えていた。息が白く出た。街灯の光が、濡れた地面に小さく反射した。駅に向かって歩き始めた。足音だけが聞こえた。静かな冬の朝だった。阪和線の始発が、遠くから近づいてくる音がした。静はその音を聞きながら、歩き続けた。音は大きくなり、通り過ぎ、また遠くなった。町がゆっくりと目を覚まし始めていた。



