昼休み、私はいつもの定食屋で生姜焼き定食を頼んだ。ことこさんと娘のれみちゃんが切り盛りする、あの店だ。3年前にご主人を亡くしてから、二人で頑張っている。私がこの店に通い始めてからもう何年も経つ。ここは、私がヤクザを辞めて普通の会社員として生きようと思ったきっかけの場所でもある。
「サバエさん、いらっしゃい!今日は生姜焼きがおすすめだよ!」
れみちゃんの元気な声に癒されながら、私は席に着いた。ほどなくして運ばれてきた生姜焼き定食に箸をつけようとした、その時だった。
「邪魔するぜ。」
黒いスーツの男が、部下を連れてどかどかと店に入ってきた。明らかに普通の客ではない。男はことこさんに詰め寄った。
「おい、奥さん。そろそろ借金を返してもらえねえかな?お前の旦那がうちの組に残した借金、2000万。耳を揃えて返してもらおうか。」
ことこさんは青ざめた顔で首を振る。
「そんな借金があるなんて、夫からは聞いてません。いくら何でも2000万もの借金を、私に黙って作るなんて…」
「うるせえな。男だったら家族に言えない秘密の一つや二つあるもんだぜ。払えないって言うなら、土地の権利書をよこせ。こんなボロ店でも立地はいいんだ。借金の代わりくらいにはなるだろ。」
店にいた客たちは、慌てて会計を済ませると逃げるように出て行った。残ったのは私だけ。れみちゃんが勇気を振り絞って言った。
「待ってください!父が家族に内緒で借金していたなんて信じられません。その借用書、本当に父が書いたものなんですか?」
「なんだお前?俺の言ってることが信じられないっていうのか。」
「当たり前じゃないですか!あんなに真面目だった父が、私たちに内緒で借金するなんて…。もし借金があったなら、必ず私たちに伝えていたはずです。その借用書、偽物なんじゃないですか?」
「言いがかりはよしてくれよ。お前の親父はうちに借金してたんだ。きっとギャンブルで溶かしたから、家族にも言えなかったんだろうよ。」
ことこさんもれみちゃんも、必死に食い下がる。
「その借用書を見せてください。きちんと弁護士さんと相談します。借金が正当なものであればお支払いしますから、どうか…」
「ごちゃごちゃ言うんじゃねえ!」
男は苛立たしげに声を上げた。
「いいか?俺はこの辺り一体を縄張りにしている安倍組の若頭だ。親父が組長でな。この周辺の商店街も全部、俺たち組が支配してるんだ。その組に盾突くとは、いい度胸じゃねえか。」
ヤクザだと名乗られたことで、ことこさん親子はすっかり動揺してしまった。
「お母さん、どうしよう…」
「ま、待ってください。支払いは何とかします。ですから、娘には何もしないでください…」
「はっ、今更後悔しても遅いんだよ。おい、てめら、俺たちに逆らったらどうなるか、ちょっとばかり分からせてやれ。」
男の命令で、背後に控えていた部下たちが一斉に暴れ出した。椅子は倒され、窓ガラスも割られ、店はどんどんめちゃくちゃになっていく。ことこさん親子は震えながら、その場に座り込んでしまった。
「さあ、もう分かったろ。俺をあんまりイラつかせないうちに、さっさと2000万準備するんだ。いいな。」
「でも、2000万なんて大金はすぐに準備できません。だから、もう少し時間を…」
「うるせえ。借金してでも金を作ってこいって言ってんだよ。借金が嫌なら、親戚全員に土下座して頼んでこい。何もしてねえうちから無理とか言ってんじゃねえや。」
さすがに黙っていられなくなった。私は二人の間に割って入った。
「あの、すみません。あなた、この辺りは全部安倍組の縄張りだって言ってましたけど、それって違いますよね。この地域は全て、サバエ組の縄張りじゃないですか?」
「はあ?何言ってんだお前。俺の前でサバエの話なんかするんじゃねえよ。腹立つ。」
「なんでサバエ組の名前を出したらいけないんですか?サバエ組と何かあったんでしょうか?」
「サバエ組はうちの組にとって目の上のタンコブみたいな奴らなんだよ。あいつらの名前を聞くだけでヘドが出るぜ。大体、片着の人間が知った風に入ってくるんじゃねえや。下がってろ、このクソが。」
男はそう言うと、私の髪を掴んでそのまま突き飛ばした。私は勢いに耐えきれず、テーブルの前で尻餅をついてしまった。だが、すぐに立ち上がると、テーブルに置かれていた湯飲みを手に取り、中のお茶を男の背中にかけた。
「あっ、熱いだろ。なんてことしやがるんだ。」
「まあ、こっちの話は終わってないんですけど。それに、ヤクザが片着を怒鳴って脅すなんて、三流もいいところですよ。ことこさんたち、こんなに怯えているじゃないですか。いくら何でもやりすぎです。」
「うるせえ。ガイアは黙ってろ。」
「ガイアですか?確かにそうですね。それなら、その借金2000万を私が立て替えるというのはどうでしょうか?私が親戚に頼んで支払ってもらいます。それなら、もう私もガイアじゃないですよね。」
「はあ?何言ってんだ。どう見ても普通の会社員じゃねえか。お前の親戚がポンと2000万支払えるとは、とても思えねえんだがな。」
「でも、あなたは2000万もらえればいいんでしょう。私の親戚なら、すぐに準備できますよ。」
「あんまり調子に乗るな。そんなに言うなら、親戚呼んで支払ってもらおうか。もし払えなかったら、俺の背中に茶をぶっかけた詫びも入れて、5000万支払ってもらうから覚悟しておけよ。」
「ええ、いいですよ。それなら、私の姉を呼ばせてもらいますね。」
私はすぐにスマホを取り出すと、一瞬迷った後にメールを送った。姉に連絡するのは、私がヤクザを辞めてから5年ぶりになる。すぐにメールを見てくれるか不安はあったが、姉は昔から連絡があったらすぐに対応するタイプの人だ。きっと来てくれるだろう。
「どうなんだ?お前の姉とやらは来るのか?」
「そうですね。姉だったら、10分もあればここに来てくれると思いますよ。」
「そうか。もし来なかったら、1分遅れるごとに10発お前を殴ってやるから、覚悟しておけや。」
男はそう言って下品に笑った。だが、姉は5分も経たぬうちにやってきた。店の駐車場には何台もの黒塗りの高級車が止まり、部下を引き連れた姉が店に入ってくる。
「ミカ、こんなところで安倍組と揉めてるってのは本当かい?全く、5年ぶりに急に連絡してきたと思ったら、随分なお呼び出しだよ。」
「姉さん、来てくれてありがとう。助かったわ。」
姉の姿を見た瞬間、男は目を丸くした。
「なんだと?あいつはサバエ組の組長じゃねえか。どうしてこんなところに?」
「そういうあんたは、安倍組のバカ息子だね。どういうことだい?ここはうちの縄張りで、よそ者のあんたが荒らしていい場所じゃないんだけどね。」
「あ、くそ…。なんでサバエ組の組長が来るんだよ。」
「だから、その人が私の姉です。ちなみに私も昔はサバエ組にいたんですよ。5年前まで若頭をしていたのが、私ですから。」
「嘘だろ…。サバエ組の若頭といえば、喧嘩最強の伝説があるヤクザじゃねえか。消えたと思ったが、まさか生きてたのか。」
私が元ヤクザだと聞いて、ことこさん親子は驚いた様子だった。本当は黙っておきたかったが、この状況では仕方ないだろう。
「そ、それで思い出したんだけど、あなたは昔、私を襲撃したことがありますよね。初めて見た時から知っている顔だと思っていたけど、あなたが安倍組の若頭だと名乗った時に思い出しました。いきなり仲間を連れて襲いかかってきたくせに、私にボコボコに殴られて、惨めに逃げていった人ですよね。私のこと狙ってきたくせに、私の顔忘れてるなんて、失礼じゃないですか?」
「え、ロ…。お前が敵になって雰囲気が全然違うから気づかなかったんだよ。気づいてれば…ちくしょう。」
悔しそうに歯噛みする男を前に、姉が私に聞いてきた。
「ミカ、一体どういうことだい?あんたに呼ばれてきたけど、どうして安倍組の小僧がここにいるんだ?」
私は、男がこの地域一体を自分たちの縄張りだと言っていたことや、ことこさん親子を脅していたことを報告する。姉は般若のような顔で男を睨みつけた。
「ここはうちの縄張りだってのに、片相手に無茶な取り立てとは、いい度胸をしてるね。」
「ちっ、バレたら仕方ねえな。いい機会だ。サバエ組の連中をぶっ潰して、この縄張りを手に入れてやる。お前ら、やっちまえ!」
男の声を合図に、部下たちが襲いかかる。姉は応戦し、たちまち店内は乱闘状態になっていた。
「ことこさん、れみちゃん、こっちに逃げて!」
私はことこさん親子に声をかけると、二人を裏口まで護衛した。そして無事に外に出た時、私は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、ことこさん。あなたの大事な店でこんな騒ぎを起こしてしまって。あなたを助けるつもりが、かえって大事になってしまったわ。」
「いいのよ、サバエさん。だって、あなたは私たちを守ろうとしてくれたんでしょ。暴れたのも店を壊したのも、全部あの安倍って男ですから、どうか気にしないで。」
「でも、あの店はご主人との思い出が詰まった…」
「それはサバエさんにとっても同じでしょ。サバエさんだって、今よりもっと若い頃からずっと私たちの店に通ってくれてたじゃない。初めて会った時はボロボロでびっくりしたけど、あの時泣きながらご飯を食べて、最後は笑顔で『ありがとう』と言ってくれた姿。今でもはっきりと覚えているわよ。」
ことこさんに言われ、私は顔を上げる。今から数年前、私がまだ若頭をしていた頃、抗争でボロボロになり逃げる途中、私はこの定食屋の裏で力尽きてうずくまっていた。そんな私に温かなおにぎりを差し出してくれたのが、ことこさんと旦那さんだったのだ。私はそれを食べた時、あまりの美味しさとぬくもりに涙が出た。そして、ことこさん夫婦を見て、自分もこんな風に片着として生きてみたいと思うようになった。それから私は若頭を辞め、普通の企業に就職した。職場を定食屋の近くにしたのは、夫を亡くした母と娘になった二人を、私なりに守りたいと思ってのことだ。
「亡き主人は、あなたの笑顔が嬉しかったみたいで、『自分の料理で人を喜ばせることができてよかった』って何度も話していたわ。だから、あまり自分を責めないでね。」
「そうだよ、サバエさん。あの店もそろそろイメージチェンジして今風にしようと思ってたところだったんだから、気にしないで。」
「ことこさん、れみちゃん、本当にありがとう。あの男とは必ず決着をつけるから、今は逃げてください。無事に終わったら、すぐに連絡しますから。」
「わかりました。サバエさんも、絶対に無理しないでくださいね。」
ことこさんは頭を下げ、れみちゃんを連れて立ち去る。私はすぐに店内に戻ると、すでに姉たちが安倍組の連中をあっという間に倒しており、残っているのは男一人だけになっていた。
「相変わらず強いわね、姉さん。もうほとんど片付いてるじゃない。」
「こいつらが弱すぎるだけだよ。こんな雑魚のくせに、私たちをぶっ潰すなんて、笑わせるとはこのことね。」
「姉さん、あの安倍って男は私にやらせて。あいつだけは絶対に許せない。」
私が男の前に立つと、男は顔を引きつらせる。
「くそ…。伝説のヤクザと言っても、もう引退してんだろ。片着のお前になんか負けねえんだよ。」
「私にあれだけボコボコにされたくせに、まだ挑んでくるなんて、いい度胸ね。悪いけど、手加減してあげないから覚悟しなさい。」
向かってくる男の体をかわすと、私は思いっきり腹を殴りつけた。よほど効いたのか、男はその場に倒れると、ニヤニヤしながら私を見た。
「なんだよ。さっきは簡単に俺にやられたくせに。」
「あの時は店で暴れたらまずいと思って、手を出さなかっただけよ。これより、なんてことするの、あなた。店内で暴れたから、せっかくのご飯が床に落ちて台無しじゃない。ちゃんと綺麗に食べなさいよ。ご飯がもったいない。」
私はそう言うと、落ちていたとんかつを男の口に無理やり詰め込む。
「ちょっと待て。そんな落ちてるもん、食えるわけが…うえっ。」
男は必死で吐き出そうとしたが、頭を無理やり押さえ、落ちていたとんかつをどんどん口に詰め込むうちに呼吸が詰まったのか、その場で気を失った。
「どうやら決着がついたようね。全く、弱すぎてあびが出るってもんだわ。姉さん、来てくれてありがとう。あとは任せていいかしら。」
「ええ、ヤクザの始末はヤクザである私がちゃんとつけておくわ。それが筋だもの。」
私は男の始末を姉に任せ、店を去ることにした。
それから3日後、ことこさん親子はサバエ組の組員たちに護衛されながら日々を過ごしていた。安倍組に目をつけられているのだから、しっかり決着がつくまで何かあってはいけないと、姉が配慮してくれたのだ。話によると、世話をしている組員たちに温かい料理を振るまってくれているそうだ。
私は姉に呼ばれ、5年ぶりにサバエ組の事務所へ行く。
「姉さん、久しぶり。私に用があるって言うから来たけど、一体どうしたの?」
「ミカ、来てくれたのね。ことこさん親子のことなんだけど、ヤクザの護衛がついたまま生活するわけにはいかないでしょ。だから、私が安倍組に掛け合って、組長と話し合うことになったの。これから安倍組に行く予定なんだけど、あなたにとってあの親子は特別なんでしょ。あなたも一緒に来てくれない?」
「そうね。私も行かせてもらうわ。ことこさん親子の件が片付くまで、安心できないもの。」
姉に誘われ、私は安倍組の事務所に向かう。事務所に到着すると、すぐに安倍組の組長が応対してくれた。
「この度はわざわざうちの事務所までお越しいただき、ありがとうございます。しかし、妹さんである元若頭までいらっしゃるとは。」
「私もあの親子と親しくしているので、片着の身ですがやってきました。どうかご容赦を。」
「まあ、いいでしょう。さ、こちらにどうぞ腰かけてください。」
組長に進められソファーに座り、私たち姉妹は顔を見合わせる。室内のあちこちから人の気配を感じたからだ。おそらく部屋の影に多くの部下たちを潜ませて、私たちを狙っているんだろう。どうやら姉も誰かが潜伏していることに気づいているようだった。
「組長さん、最初に一つお聞きしてもいいですか?今日は確か話し合いの予定でしたよね。あちこちに組員が潜んでいる気配がするんですが、これは一体どういうことでしょう?」
私の言葉が聞こえたのか、背後からどかどかと音がする。振り返れば、男と部下が私たちを取り囲んでいた。
「何やってんだよ、親父。部屋になんか通さず、油断してるところを一気に叩けば良かったってのに。余裕かましてるから、俺たちが潜んでるのがバレちまったじゃねえか。」
「組長、一体これはどういうこと?」
「サバエ組の組長が来るなんて、好機を逃すはずないでしょう。姉妹揃ってここで始末して、我々がサバエ組を乗っ取るためですよ。」
「この程度の人数で私に勝てると思うなんて、甘い考えね。あんたたちはいつまで経っても下なのよ。ミカ、やるわよ。」
姉に言われるより先に、私はまっすぐ男を狙って突っ込んでいった。まさか自分が一番に狙われるとは思っていなかったのだろう。男は驚き、慌てて刀を構えるが当たらない。
「くそ、当たらねえ。なんで当たらねえんだよ。」
「それはね、あんたが雑魚だからよ。」
私は男を殴り飛ばすと、倒れた男の上に馬乗りになってボコボコに殴りつける。
「ミカ、やりすぎよ。死なせないように気をつけなさい。」
姉に言われ振り向いた時、姉は周囲の部下たちを全員倒しており、組長を壁に追い詰め、ボコボコに殴りつけていた。
「姉さんも相変わらずね。でも、姉さんこそ気をつけて。少し手加減してあげないと、そいつ死んじゃうわよ。」
その後、私たちは潜伏していた組員たちも全員始末し、組長を床に正座させる。
「それじゃあ、今後安倍組は二度とうちの縄張りを荒らさないこと。もし次にやったら、あんたたちを徹底的に潰すから覚悟しておきなさい。それと、あんたのバカ息子がボロボロにした定食屋には、店の修繕費と慰謝料含めて2億を支払うこと。分かったわね。」
「はい、わかりました。本当に申し訳ございませんでした。」
これだけボロ負けして逆らえないと思ったのだろう。安倍組の組長は全ての言いつけに従うと宣言し、その場で土下座するのだった。
それから1ヶ月後、私は姉に呼ばれ、久しぶりに2人で会う。この事件をきっかけに、私は姉と連絡を取るようになっていた。ヤクザの組長と元若頭としてではなく、姉妹として話をするようになったのが、5年前との大きな違いだろう。
「ことこさん親子の店だけど、今回改装中みたいよ。新たにオープンしたら、男性の従業員も雇う予定みたい。」
「そうなのね。もう安倍組が来ることはないでしょうけど、男の人がいるなら少しは安心だわ。」
「それと、あの親子に2億の慰謝料を届けたら、多すぎるからって1億は寄付に回したそうよ。本当にお人よしだと思うけど、ミカが気に入った人たちなだけあるわね。あなた、片着になってからもあの店を守っていたんでしょ。」
「姉さんは全て見通しね。そうよ。以前、忘れられない思い出をもらった大事な店なの。」
「そうだったの。でも、もうあの店は大丈夫よ。だから、そろそろまたうちの組に戻ってこない?やっぱりあなた、ヤクザとしての才能があるもの。」
姉に誘われ、私は一瞬だけ姉の隣で若頭として働く自分の姿を想像する。別に仲違いをしたわけでもなければ、この組が嫌いだというわけでもない。きっとヤクザに戻っても楽しく過ごせるだろう。
「うん。そうね。嬉しいけど、私はもう少しだけ片着として生きていたいかな。」
「そう。でも、いつでも待ってるから、その気になったら声をかけてね。」
私の答えを聞いて、姉は優しく笑う。私は店が元通りになったら、また昼食を食べにあの店に行こうと密かに思うのだった。



