大寒波で雪が降りそうな夜、駅前でフラフラと歩く女性が転んだ。薄汚れた服、ボサボサの髪。周りの誰もが目を逸らす中、俺はなぜか駆け寄っていた。「大丈夫ですか?」その瞬間、彼女の澄んだ瞳に目を奪われた。そのまま家に招き入れ、一緒に暮らし始めたんだ。彼女は礼儀正しくて、家事は全くできなかったけど、一緒に過ごす時間は本当に幸せだった。でもある日、彼女は突然姿を消した。「今までありがとう。さようなら」—…

大寒波で雪が降りそうな夜、駅前でフラフラと歩く女性が転んだ。薄汚れた服、ボサボサの髪。周りの誰もが目を逸らす中、俺はなぜか駆け寄っていた。「大丈夫ですか?」その瞬間、彼女の澄んだ瞳に目を奪われた。そのまま家に招き入れ、一緒に暮らし始めたんだ。彼女は礼儀正しくて、家事は全くできなかったけど、一緒に過ごす時間は本当に幸せだった。でもある日、彼女は突然姿を消した。「今までありがとう。さようなら」—...

大カパの影響で雪が降りそうなほどの寒さの中、フラフラと歩く女性が目に止まった。身につけているものはどれも薄汚れて、所々破れている。見るからに不労者にも見えるその姿に、周囲の人々は厄介ごとを避けるように道を外れていく。しかし俺はその人が気になって仕方なかった。

「大丈夫ですか?」

気がつけば声をかけていた。女性が振り返る。服装同様に顔も髪もボロボロだったが、俺は彼女から目が離せなくなっていた。そして、そのまま彼女を家に招き入れることにしたのだ。

あの時の判断は間違っていなかったと思う。あの出会いのおかげで、俺は人生において大切なものをこの手にすることができたのだから。

俺の名前は添え島友か。全国に飲食店を展開する大崎ホールディングスで、主に社内システムに従事する部署に勤務している。前社長である大崎安成の頃はまあまあなブラック企業体質だったが、現社長である息子の安美になってからは随分と環境が良くなった。

安美とは大学時代からの付き合いで、会社ではもちろん社長と一社員という関係だが、プライベートでは親友とも呼べる存在だ。彼がこの会社を継ぐということは知っていたので、俺は安美を支えられるようにとこの会社に入社した。

会社社長の息子で成績優秀。そして女子にモテる甘いマスクの持ち主。だが嫌味な部分など全くなくて、気さくで面倒見の良い性格の安美はどこへ行っても人気者だった。そんな安美と、ザ一般人である俺はなぜか気が合った。

「とかずは話しやすくて優しくていいやつだしさ。一緒にいて安心する」

そう言って安美は笑っていた。

「お前の方がよっぽどいいやつじゃないか。困ってる人放っておかないだろう」

「自分が助けられるなら助けたいからね」

そんなことを当たり前のようにさらりと言ってのける安美のことを、本当にすごいと思っていた。そしてそんな安美に「一緒にいて安心する」と言われて、素直に嬉しかった。安美の環境を考えれば、これまで周囲に敵も多かったのかもしれない。そんな彼に味方として認められたような気がしたから、俺はいつか社長として体制する安美を支えたいと思ったんだ。

俺が安美の会社に入ろうと思うという話をした時、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。しかし「とかずがいるなら俺も頑張れる気がするよ」そう言って笑ってくれたんだ。だからこの会社に就職した。その判断は間違ってないと思っていた。

でも、さすがに十二連チャンで深夜まで残業はきつい。ここ最近の安美のやり方は、父親である安成の台と似てきた。いや、それ以上かもしれない。環境を改善してくれた当初の頃のおかげはなく、今ではどの部署でも仕事量が増加して残業が続いている。俺のいるシステム部もそうで、今日も深夜まで働いていた。

なんとか今日のタスクを完了させてパソコンの電源を落とす。真っ暗になったモニターには、頬がこけ、目の下の熊が日に日に濃くなっていく俺の顔が映っていた。

「やばいな。さすがにエナジーだけでは持たなくなってきたぞ」

三十歳を過ぎてからの連日残業はマジできつい。言うことを聞かない両足に力を込めて、フラフラとした足取りで会社の裏口へと向かう。すっかり顔なじみになった警備員と軽く挨拶を交わして会社を後にした。

季節は冬。吹きつける冷たい風が痛いくらいだった。そういえば大寒波が来るとかニュースで見た気がする。首に巻いたマフラーで顔回りを防御しながら足を急ぐ。早く帰って寝ないと明日がやばい。そう思いながら駅前に差しかかった時だった。

あの人、すごいフラフラしてるけど大丈夫かな?

髪は風に煽られたのかボサボサで、着ている洋服もこの寒さをしのげるとは到底思えないような薄着だった。俺以外にも駅前には何人か人がいたが、誰もその人に近寄ろうとはしなかった。

あ、その人が石か何かにつまづいて転んだ。俺は思わず駆け寄っていた。周囲にいた人たちはそんな俺の様子を見てひそひそ話しているが、気にせず助け起こす。

「大丈夫ですか?」

俺が声をかけると、その人はびっくりしたように俺の顔を見上げた。華奢な女性だった。幼さの残る顔は俺より随分と年下のように見えた。そして薄汚れた姿とは真逆の、澄んだ綺麗な瞳に思わず見とれてしまう。それになぜかその瞳に見覚えがあるような気がした。

「あの、大丈夫です。助けていただきありがとうございます」

女性は礼を言うと、さっと俺から離れ立ち去ろうとした。しかし俺はとっさに彼女の腕を掴んで引き止めていた。

「え、あ、すみません」

驚いた表情の彼女を見てパッと手を離す。自分でもどうしてそんな行動を取ったのか理解できなかったが、とっさにこのまま行かせてはダメだと思ったのだ。

「あ、膝から血が出てる」

「え?あ、本当?」

俺はポケットから絆創膏を取り出して彼女の血を拭った。

「ありがとうございます。絆創膏を汚してしまってすみません」

深々と頭を下げる彼女に、俺は笑顔を向ける。

「気にしないでください。他に痛いところはありませんか?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「あの、失礼だとは思うのですが、何か事情があるんですか?その、あなたみたいな若い女性がこんなにボロボロな姿で深夜の町を彷徨っているなんて」

自分で言いながら直球だなと思った。しかし、先ほどから感じる礼儀正しさや丁寧な言葉遣いからは、ただのホームレスには感じられなかった。それに一瞬だったけれど見つめ合った綺麗な瞳。あの瞳が頭に焼きついて離れない。

彼女は少し考えていたが、消え入るように口を開いた。

「お恥ずかしい話ですが、私、家も仕事もお金もなくて、寒さをしのげる場所がないかと探して歩いていたんです」

薄汚れたコートをギュッと掴む手に力が込められる。

「そうだったんですね」

「すみません。行きずりの方にこんなお話をしてしまって。忘れてください」

そう言って微笑む。長い前髪で隠れていたが、その瞳が少し光ったように見えた。

「あの、よかったらうちに来てください」

俺は思わずそう声をかけていた。

「で、でも、綺麗じゃないですけど、お風呂も寝るところもありますから」

さっきと同じ、彼女をこのまま行かせてはいけないという強い思いが湧き起こる。彼女は迷っているようだったが、ゆっくりと顔をあげた。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

こうして彼女を家へと連れ帰ったわけだが、俺、実はとんでもないことをしているんじゃないだろうか。お風呂中の彼女を待ちながら、俺は部屋の中でパニックになっていた。生まれてこの方、部屋に女性を招き入れるという経験をしたことのない俺は、自分の部屋に女性がいるという事実にドキドキしっぱなしだった。もちろんこれは人助けであって、決してやましい気持ちからの行動ではない。しかしバスルームから聞こえるシャワーの音が変な妄想をかきたてる。

「バカ、バカ。何考えてるんだ」

一人で首を振ったり頭を抱えたりしているうちに彼女が出てきた。俺の予備のスウェットを着てもらったのだが、小柄な彼女にはかなりサイズが大きくてブカブカだ。

「お風呂、ありがとうございました。洋服もお借りしてしまって」

街で会った時は暗かったのと顔が汚れていたから分からなかったが、彼女はとんでもない美人だった。小柄だが出るところは出ている女性らしい体のライン。男の俺とは全然違う細い手首や足首。サラサラな黒髪は肩くらいまでの長さだが、彼女の可愛らしい顔立ちにとても似合っていた。そして俺が惹かれたあの大きな瞳は、今は少し恥ずかしそうに細められていた。

めちゃくちゃ可愛い。思わぬ美人の登場に俺の頭も心臓もパンクしそうだった。黙ったまま動かない俺を心配そうに見つめる彼女の顔が少し近づく。

「あ、そ、そうだ。お茶持ってきますね。そこら辺に座っててください」

「あ、はい。何から何まで本当にすみません」

こんな美人と一緒に過ごすなんて、俺は平常心でいられるのだろうか。そんなことを思いながら用意した二人分のお茶を運ぶと、彼女の向かいに座った。そして互いに自己紹介をする。

彼女の名前は山宮さん。年は俺の八歳下の二十四歳。母親はすでに亡くなっていて、父親が気難しい人でそりが合わず家を出ることになったらしい。その時に仕事もやめてしまったため、今は少ない貯金を切り崩しながら宿泊施設を渡り歩いていたという状況だったようだ。

「でもさすがにお金も尽きてしまって、そんな時に出会ったのが添え島さんでした。助けていただき本当にありがとうございます」

そう言ってもう一度深々と頭を下げる。

「いえ、いいんですよ。困った時は助け合わないと」

「添え島さんはお優しいんですね」

「え、そ、そうですか?」

目の前で美人に微笑まれる経験のない俺は、すぐにしどろもどろになる。外は極寒だというのに変な汗が吹き出してきそうだ。

「えっと、山宮さん、これからどうされるんですか?仕事も家も探さないとですよね」

「はい。そうしないと生活できませんから」

苦しそうな表情で俯く彼女を見ていたら、また勝手に俺の口が動いていた。

「家なら、うちに住みませんか?あ、いや、これじゃあ誤解がありますよね。えっと、うちでしばらく過ごしながら仕事と家探しをしたらどうかなっていう提案なんですけど」

「え、でも、さすがにそれはあつかましすぎます」

山宮さんはそう言って首を横に振った。

「俺、仕事が忙しくて家を開けている時間が長いので、留守を守ってくれる人がいてくれたら嬉しいです。お金も別にいいですよ。あ、でもそれじゃあ山宮さんの気が済まないと言うなら、出世払いというか、仕事が決まってから滞在費を払ってくれればいいです。ここで会ったのも何かの縁だと思いますから。もちろん山宮さんが嫌でなければの話です」

なるべく彼女が負担に感じないように、穏やかな口調を心がけた。しばらく沈黙が流れた。そして彼女が口を開く。

「添え島さんのお情けに甘えてばかりですが、正直言って助かります。少しの間ですが、お世話になります。よろしくお願いいたします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

こうして、偶然出会った山宮さんとの期間限定同居が始まったのだった。

翌日の俺はウキウキしていた。朝家を出る時、「行ってらっしゃい、添え島さん」と山宮さんに見送ってもらったのだ。それだけで今日の仕事がどんな量であろうと乗り切れる気がした。実際、今日も残業確定の仕事量だったのだが、俺はいつもの倍のスピードで終わらせて帰宅した。日付が変わる前に帰れたのは久しぶりだ。明かりのついている自分の部屋を見て、自然と口元が緩む。

「ただいま」

「って、どうしたんですか?」

ドアを開けたら強盗でも入ったのかと思うほどの散らかりようだった。床にはタオルや洋服、本や雑誌などが散乱していて、キッチンには焦げた香りが充満していた。

「あ、お帰りなさい」

部屋の奥からおずおずと山宮さんが顔を出す。

「山宮さん、あの、これは?」

「すみません」

俺の言葉に被せるように、山宮さんが勢いよく頭を下げる。

「住ませていただいてるのだから、せめて家事でもと思って、見様見真似で頑張ったんですけど、どれもうまくできなくて」

「なるほど」

「今までやってこなかったのをこれほど後悔したことはありません。本当にすみません」

「いえ、大丈夫ですよ。その気持ちだけで十分です」

謝る山宮さんをそう言って慰める。確かに部屋の中はひどい有り様だったが、その慌てた仕草も子犬のようで、愛らしくて、それだけでお釣りが来るくらいだ。笑顔の俺と、泣きそうな表情の山宮さんと一緒に片付けながら、俺は彼女がお嬢様育ちなのかもと考えを巡らせていた。礼儀正しく丁寧な言葉遣いや、家事を一切やってこなかったという発言。手荒れの一つもない綺麗な手などを見ていると、妙に納得がいく。それと同時に、彼女がこれから一人暮らしを無事に始められるのかも心配になった。

「あの、山宮さん、よかったらこの同居期間中に家事覚えませんか?」

「添え島さんが教えてくださるんですか?」

「一人暮らし歴は十年以上なので、一通りはできますから安心してください」

「あ、そういう意味で言ったわけではすみません」

「分かってますよ。是非お願いします。私、頑張って覚えますね」

そう言って小さくガッツポーズをする彼女の可愛らしさに目を細める。素直でいい子だな。守ってあげたくなる。そんなことを考えては我に帰る。これは期間限定の同居で人助けだ。勘違いしたらダメだろ、俺。心の中で俺は自分にツッコミを入れながらも、頭のどこかでこれから彼女との楽しくになりそうな日々に心が踊っていた。

そんな予感通り、彼女との日々は楽しかった。仕事終わりに彼女と一緒に喋りながら洗濯物を畳んだり、休日に一緒に買い物や料理をする。彼女自身も家事を覚えることで、今後の自分の生活がイメージできてきたのだろう。出会った時とは別人なくらい生き生きとしていた。そんな彼女と一緒に過ごす俺は、毎日彼女の笑顔を見て癒されて、心臓が持たなくなるくらいドキドキしていた。

そうして互いに過ごす時間が増えたことで仲も良くなってきて、互いに下の名前で呼び合うようになった。山宮さんのあの丁寧な口調も少し砕けて、俺に対して親しみを感じてくれているのかななんて思って口元が緩む。

結婚生活ってこんな感じなのかな。一緒に寝て起きてご飯を食べて、休日にはのんびり散歩したり、たまには遠出したり。女性と付き合ったことのない俺には結婚生活と同棲生活との境は分からなかったが、今のこの二人の生活はすごく幸せで、ずっと続けばいいのにななんてことまで考えていた。

彼女の方はどうかは分からないが、ほんの少しでいいから俺と同じ気持ちだったらいいなと思いながら過ごしていた。

ある日のこと。今日はもうこれで帰っていいよ、と部長がみんなに声をかけていた。時刻は十八時を少し回った頃。周りも時計を見てざわついている。

「え、本当にいいんですか?」

同僚の一人が信じられないといった顔で部長へと尋ねている。

「上の方がお許しになったらしくてね。今日は残業禁止だそうだ」

上の方ということは社長である安美も忙しくしてるってことか。最近はほとんど顔を合わせていないこともあって、少し安美のことが心配になった。とはいえ、長いこと残業が当たり前の日々を送ってきた俺たちは、一年ぶりくらいの定時上がりに心を躍らせながら帰宅準備に取りかかった。

そんなわけでいつもより早く帰宅できた俺は、彼女が喜ぶかもと思いケーキを買って帰ることにした。

「山宮さん、ただいま」

声をかけるが返事がない。部屋を見回したがどこにもいなかった。十分くらいした頃、ドアが開く音がした。

「あ、山宮さん、お帰り」

「え、とかずさん、もう帰ってたの?」

驚く彼女の元へと駆け寄るが、違和感に気づく。買い物かと思ったが、彼女は手ぶらで、表情もどことなく暗かった。話しかけても反応は薄く、何かあったのかと思い山宮さんに尋ねてみるも、「なんでもない」と首を振るだけで何も教えてはくれなかった。いつもと違う様子の山宮さんが気になったが、どうすることもできない。山宮さんが作ってくれた料理も、買ってきたケーキも、味がしなかった。

「山宮さん、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

気がつけば就寝時間になっていた。いつもならどちらかが寝るまで他愛もない話をするのだが、今日はそんな雰囲気にはならず、真っ暗な部屋に沈黙が流れる。時計の針の音だけが規則正しく聞こえていた。

本当は何があったのか問い詰めて聞き出したいくらいだったが、そんなことはできなかった。俺はただの同居人で、山宮さんとは特別な関係ではないのだから。彼女が話したくないのであれば仕方ない。彼女自身が話してもいいと思えるまで待つしかないのだ。

こんなに近くにいるのに、何かあったであろう彼女の心に寄り添うこともできない。この関係がじれったかった。でも俺にそのラインを踏み越える勇気なんかないんだよな。

俺は山宮さんのことを好きになっていた。あの瞳に惹かれた時からもう好きだったのだと思う。いわゆる一目惚れ。一緒に過ごす時間が増えていくほど、好きという感情は大きくなっていった。でもそれを表に出すわけにはいかない。きっと山宮さんは俺のことを無害だと思ったからこそ、この同居生活に踏み切ったのだ。無害でなければ、普通は男と二人で暮らそうとは思わないはずだから。出会った頃とは一変した彼女のあの明るい表情を、俺の身勝手な感情で失いたくなかった。

「山宮さん」

心の中で彼女の名前をつぶやく。ちょうどその時、山宮さんが動く気配がした。部屋が暗くて表情は分からないが、俺には彼女が泣いている気がした。

「山宮さん、どうしたの?」

声をかけると、山宮さんの体がピクっと震えた。

「とかずさん、隣に寝てもいい?」

「え?」

思いもよらなかった提案に思わず飛び起きる。布団に山宮さんの体重がかかる。俺は慌てて彼女が横に慣れるスペースを作ると、そこに山宮さんがするっと入ってきた。心臓の音がうるさいくらいになっている。俺は彼女の体に触れないように慎重に布団に入った。

「ごめんね、わがまま言って」

「いや、別に構わないけど」

裏返りそうになる声を必死に抑えながら、煩悩を消し去ろうとぎゅっと目を閉じる。少しの沈黙の後、山宮さんが口を開いた。

「あのね、私、兄が一人いるの」

唐突に始まった話に頭がはてなでいっぱいになるが、俺は黙って話を聞くことにした。

「強くて優しくて、自慢のお兄ちゃんだった。いつも私を助けてくれて、私は何も返すことができなかったけど、今でもすごく感謝してる」

「山宮さんはお兄さんが大好きなんだね」

「うん。お母さんが亡くなってからは、お兄ちゃんだけが私の味方だったから」

山宮さんの家族の話を聞いたのは初めてだった。母親が亡くなっていて、そりが合わない父親の元を離れたと言っていた。詳しいことは何も話してくれなかったけど、今の話を聞く限り、山宮さんは家庭内で父親からは冷遇されていたのだろう。

「今、お兄さんは何をしてるの?」

「お父さんの会社を継いで頑張ってる。だから私は会いに行けない。そんなお兄さんと会うだけなのに」

「どうして?」

「そういう家だから仕方ないの」

それ以上、山宮さんは何も言わなくなってしまった。再び沈黙が流れる。

「ねえ、とかずさん」

掠れた声。そして山宮さんの体が俺の方へと近づく。腕をあと少し動かしたら触れそうなくらいの近さだ。俺の心臓のドキドキが加速する。

「もしかしたら、とかずさんは私のこと、迷惑だと思ってる?」

「そんなわけないだろ」

「そっか」

また少し沈黙が流れる。

「とかずさんはね、私の話をたくさん聞いてくれて、優しくていい人で、一緒にいると安心する」

山宮さんの言葉に、俺の心の片隅にある何かが震えた気がした。

「とかずさんはね、お兄ちゃんに似ているの。年も同じだし、優しくて私を助けてくれるところも似てる」

「ああ、そうか。つまりお兄さんの代わりということか」

山宮さんが俺を無害判定しているのが分かった。その残酷な真実に、俺は打ちのめされそうだった。

「山宮さんのお兄さんなら超絶イケメンでしょうから、顔面のレベル差がすごいだろうけどね」

「そんなことない。とかずさんもとても素敵よ」

「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」

「お世辞なんかじゃ」

軽口を叩くことでなんとか気持ちを持ち直す。そして、起き上がりそうな勢いの山宮さんの頭をポンポンと撫でた。まるで妹に兄がそうするみたいに。

「もう遅くなってきたから寝た方がいい。山宮さん、疲れているみたいだから。とかずさんは眠るまでちゃんと隣にいるから、山宮さんはもう寝なね」

優しく諭すように言うと、山宮さんも何も言わずに静かに横になる。しばらくすると寝息が聞こえてきた。俺は暗がりの中、山宮さんの顔を見つめた。無防備なその顔にキスをしたくなる。だがその衝動を必死に抑える。これまでの甘酸っぱい日々が浮かんでは消えていった。

カーテンから漏れる朝日が顔に当たって目が覚める。いつの間にか寝てしまったようだった。隣を見るともぬけの殻だった。布団に触れてみてもすっかり冷たくなっていて、彼女のぬくもりは感じられなかった。

「山宮さん」

声をかけるが、部屋はしんと静まり返っている。起き上がって部屋を見回すが、やはり山宮さんの気配はない。そして彼女がいつも寝ているベッドはきちんと整頓されていた。

「あれ?あれは手紙?」

彼女が気に入って買った青いピンクの花柄の布団の上に、白い封筒がポツンと置かれていた。嫌な予感がして、俺は飛び起きる。慌ててその封筒を手にすると、中に入っている手紙を読んだ。

「今までありがとう。さようなら」

そこには彼女らしい丁寧な文字が綴られていた。いつかこの日が来ると分かっていたけど、こんなにも急に訪れるとは思わなかった。

「山宮さん」

俺は掠れた声で彼女の名前を呼んだ。返ってくるのは、俺の記憶の中でしか帰ってこない返事。大好きだった笑顔。もう二度と聞くことのない彼女の声を思い出しながら、俺は一人で涙を流していた。

精神状態はひどかったが、習慣というのは怖いもので、俺は無意識に仕事に行く準備を整えていた。そんな自分を笑いながら、俺は重い足取りで会社へと向かったのだった。家にいて彼女を思い出すよりはマシだろうと思いながら。

会社に着いて仕事の準備をしていると、社員全員が集められた。そこには前社長、現在は会長職についている大崎安成がいた。社内で姿を見るのは久しぶりだったが、以前にも増して顔には厳しさが滲んでいた。しかし、社長である安美の姿はどこにもなかった。

「社員諸君、今日は重大な発表がある」

低く威厳のある声が響き渡る。

「昨日付けで、私の愚息である安美の社長職を解き、新社長の就任を発表する」

その一言に社員がざわめきが広がる。というのも、会長は息子である安美に多大な期待を寄せていて、彼の社長就任時には「安美の采配でこの会社をさらに飛躍させることをみんなに約束しよう」と豪語して笑っていたのだ。その安美を解任するとは、一体何が起きているのだろうか。

「新社長は私の娘だ。さあ、こっちに来なさい」

つかつかとヒールの音を鳴らしながら、一人の女性が安成会長の横に並ぶ。会長に娘がいるとは初耳だったので、社員はみんな興味深く彼女の一挙手一投足を見守った。新社長は綺麗なお辞儀をしてみんなに向かって挨拶をする。

「初めまして。この度、大崎ホールディングスの社長に就任いたしました。大崎宮です。皆様、よろしくお願いいたします」

そこにいたのは、山宮さんだった。キリっとしたメイクのせいか印象がきつめだったし、冷たく刺さるような声色だったが、間違いなく彼女は山宮さんだった。会長の娘ということは、安美の妹。そして昨日話してくれた「父親」というのは安成会長のことで、「優しいお兄さん」というのは安美のことだったのか。

でも、あいつ、妹がいるなんて一言も言ってなかった。そう呟いてハッとする。安美とは大学の頃から色々な話をしてきたが、家族の話を聞いたことはほとんどなかった。家族構成や家族の話。山宮さんの話を聞いた今なら、なぜ安美が話さなかったのかも少し分かる気がした。

「前社長はうまくやりきれなかったようですが、今後は利益を出すことを第一に考えてください。無駄な費用を払うことはいたしません。結果を出せない部門社員はこの会社には必要ありません。そのことを頭に入れた上で業務に励んでください。私から以上です」

「うむ。まあ合格と言ったところか。では諸君、新社長のもと、さらなる成果を上げてくれることを期待している」

安成会長がそう言って下がろうとした時、俺は思わず声をあげていた。

「安社長はどうなったんですか?」

俺の声に、安成会長の眉がピクリと上がる。

「安美は工場へと移動になった。社長自らが輪を乱そうとしたのでね。諸君らもそうならないように気をつけてくれたまえ」

会長は「以上だ」と言うと、新社長を伴って退室した。全てが晴天の霹靂だった。たった一日で、様々なことが大きく変化した。親友は左遷され、好きな人は突然出ていき、新社長として再開した。安美とも話をしたかったが、まずは山宮さんと話がしたかった。

俺は山宮さんが一人になるタイミングを見計らっていたが、なかなかそんな時は訪れない。仕事の合間を縫いながら俺は山宮さんと話をする機会を伺って数日後。一人でいた山宮さんの姿を見かけた。俺はこの機会を逃すまいとダッシュする。

「山宮さん」

俺の声に、山宮さんの肩がビクっと震える。そのまま無視して行こうとする山宮さんの肩を掴むと、強引にこちらへと振り向かせる。山宮さんは無表情で俺を見つめていた。冷たいその眼差しに、俺は思わず掴んでいた肩から手を離す。

「何かご用ですか?」

眼差しだけではない。俺に向けられる声も冷たく、俺の記憶に残っている彼女とはまるで別人のようだった。

「あ、あの、山宮」

「気安く名前を呼ばないでもらえますか?」

突き放すような言い方に、頭を殴られたようなショックを受けた。

「そもそも、あなたは誰ですか?私に話しかけられるほどの立場の方ですか?ああ、申し訳ないですが、私には一般社員の方と無駄話をする時間はありません。業務に関することならば、あなたの上司を通してください」

そう言うと、彼女はキビスを返して去っていった。ヒールの音が廊下に響いている。俺は情けないことに、ショックでその場からしばらく動くことができなかった。

あれから数日、俺は安美へと連絡を入れているが、連絡は一向に帰ってこない。山宮さんとも、この日も休憩時間を利用して安美に連絡を入れたが、コール音が虚しくなるだけだった。肩を落としながらデスクへ戻ると、部長が顔を変えて俺の元へと走ってきた。

「ちょっと添え島君」

「部長、どうしたんですか?」

「この前確認したシステムに何かエラーでも」

「違うよ。社長が、新社長が君のことを呼んでいるんだ。すぐに社長室へ向かいなさい」

その言葉に同僚たちがざわつく。

「もしかして添え島さんも」

「前も営業部の」

その前はよく聞き取れないが、そんなことを話している人がいた。俺以外にも何人か、山宮さんに呼び出されているみたいだ。俺は急いで部長と共に社長室へと向かった。中へは俺のみが呼ばれ、部長とはドアの前で別れる。

「失礼します」

俺は緊張の面持ちで入室した。無言で椅子に座る山宮さんの視線は、相変わらず冷たい。

「添え島さん、あなたを解雇処分といたします」

「え?」

「最近のあなたの勤務態度は目に余るという報告が来ています。挨拶の時にも言ったように、会社に利益をもたらさない人間はこの会社には必要ありません」

確かに最近は安美のことや山宮さんのことがあって頭がうまく働いてはいないが、仕事はしっかりとやっている。そもそもそんな報告が行くなら、まずは上司である部長から注意があるはず。しかし、部長は俺には何も言ってこなかった。山宮さんが俺へ嫌がらせを。そんなに俺は嫌われているのだろうか。

「社長、身に覚えは」

「言い訳は無用です」

冷たく遮られる。ぐっと拳を握って彼女を見つめ返す。

「あなたにはこの会社は合いません。違う道を求めた方が幸せになるのではないですか」

そう言った彼女の瞳がかすかに揺れた。

「あ、山宮さん」

「話は以上です」

そう言うと、山宮さんは俺などいないかのように机の上の書類に目を通し始めた。そこに強い拒絶の意思を感じ取った俺は、黙って社長室を去ることしかできなかった。

翌日、俺は安美が飛ばされたという工場へと来ていた。何度も安美に連絡を入れても返事は帰ってこなかったので、直接聞きに来たのだ。今までは仕事があって無理だったが、幸いなことに解雇処分となった俺には時間ができた。その点だけは感謝するべきなのかもしれない。俺は「安美に会いたい」と伝えて待たせてもらうことにした。最悪何時間でも待つつもりだったが、安美はすぐに現れた。

「とかず。久しぶりだな」

「安美」

数ヶ月ぶりにまともに顔を合わせたのだが、安美の顔は疲れが滲んでいて、艶やかだった美男子の面影はなりを潜めていた。

「とかずもやつれたな」

「お互い様だろ。俺たちまだ三十代なのに」

そう言ってふっと笑い合う。そこには昔のような雰囲気が残っていて、懐かしいような悲しいような複雑な気持ちになった。

「父さん、会長絡みで何かあったのか?俺に話が会ってきたんだもんな」

俺は安美の言葉に頷くと、本題を切り出した。

「俺は昨日、解雇された。新社長である山宮さんに。お前の妹さんにな」

「山宮がお前を?」

「そうか。その口ぶりだと、新社長に山宮さんが就任したのは知ってるんだな」

「父さんから聞かされたからね。それよりも、なんでとかずが山宮を知ってるんだ?俺は妹がいるって話したことないはずだけど」

俺は山宮さんとの出会いから昨日の解雇通告までの経緯を安美に話した。山宮さんの暮らしについての話をした時の安美は驚いてはいたものの、どこか安心したような顔をしていた。

「そうか。とかずが山宮を世話してくれてたのか。よかった。見つけたのがとかずでさ。ありがとうな」

そう言った安美の顔は穏やかで、昔の頃と同じ笑顔だった。

「安美、話してくれないか。家族のこと。それから今回のお前の左遷のこと、全部だ」

「とかずには、全部話さないといけないな。山宮のこともあるから」

そして、安美は静かに話し始めた。大崎家は代々大崎ホールディングスを直系男子が受け継いできた。女性が当主になったことも社長になったこともない。むしろ表舞台で活躍することもなく、家のための政略結婚の道具として扱われてきた過去があった。安成会長自身は二人兄弟だったが、周りの評価は弟の方に軍配が上がっていた。しかし弟の方は家業を継ぐよりもやりたい仕事があると家を出たらしい。そうして会社を継いだのは長男である安成会長だった。しかし何をしても今はいない弟と比べられ、失敗すれば「弟の方が良かったのだ」と言われて、会長自身長い間苦しみながらも会社と社員を守ってきたようだった。その点だけは尊敬していると、安美は寂しげな表情で言っていた。

そんな環境だったこともあってか、安成会長は自身の息子である安美に会社を継がせることを小さな頃から言い聞かせ、そのための厳しい教育を受けさせてきた。自分のこれまでを正当化したい。正しかったと言わせたかったのだろう。だが、周囲への自身の能力の誇示のために振り回される子供の方はたまったものじゃない。

「遊びたかったのに、勉強勉強で毎日息が詰まりそうだったよ」

そう言って安美は笑っていたが、当時は相当辛かったに違いない。そしてそんな安美に妹ができた。安成会長が愛人に生ませていた子供。それが山宮さんだった。山宮さんの母親が亡くなり、安成会長が引き取ったことで共に暮らすことになったのだが、教育などはしっかりと受けてもらっていたものの、その存在は父親である安成会長から軽く扱われてきた。しかし兄弟仲はとても良かったので、山宮さんはそんな家の中でも孤独にならずに済んだ。安美もまた、自分を慕ってくれる妹をとても可愛がった。

「山宮がいたから、あの家の中でも暮らしていけたんだ」

そう話す安美と、出ていく前日の夜に俺へ兄の話をする山宮さんとが重なった。二人が強い信頼関係で結ばれているのを感じる。

山宮さんが大崎家に引き取られてしばらく穏やかな時間を過ごしていたが、安美が入社して数年が経った頃、状況は一変した。安成会長がそれまで以上に会社経営に熱を入れ始めたのだ。それはかつて家を出た安成会長の弟の存在が原因だった。

「おじさんが自分で立ち上げた会社がメディアで取り上げられたんだ。業種は全然違うからライバルになることもなかったんだけど、父さんにとっては業種なんて関係なかったんだ。弟に勝ちたい。ただその一心で、会社を大きくすることに心血を注ぎ始めた。その結果が、今みたいなブラック体質だ」

「そんなことが」

「しかも、おじさんには娘が一人いてね。俺にとっては従姉妹になるんだけど、彼女もまた優秀な人で、モデル業の傍らおじさんの会社を一社員として支えていたんだ。それもまた父を狂わせる一端になった。父さんが山宮を勘当したんだ」

「どうして?」

「大崎家が男子を重んじるからかな。かつて長男よりも優秀だと言われた弟の子供。しかもそれは男子ではなく女子。しかも優秀と騒がれている。娘でも負けていると感じて、許せなかったんだろうね。その従姉妹と山宮を比べるようになって、でもこれまで山宮は会社の経営に関する教育なんて受けていない。無理を押し付けられたようなものだ。でも父さんはそんなことは無視して、必死に努力した山宮を罵倒して、そのまま勘当したんだよ」

「なんだよそれ」

あまりの横暴さに、俺は思わず声を震わせた。そんな中で必死に頑張っていた山宮さんを振り回すだけ振り回して、自分の期待値を下回ったから簡単に見捨てるなんて。

「それだけじゃない。安美のことだってそうだ」

「とかず、ありがとな。俺たちのために怒ってくれて」

「安美」

「山宮を勘当した後、俺に会社を継がせたんだ。俺はまだ無理だって言ったんだけど、押し切られた。最初こそ俺のやりたいようにやらせてくれてたんだけど、俺が父さんのやり方を徹底的に否定して改善していったのが気に入らなかったみたいでな。俺はあっさりとお飾り社長にさせられた。ずっと実権は父さんが握ってたんだ」

「じゃあ、安美が急に方針を転換したのは」

「俺の意思じゃない。父さんが元に戻したんだ。全部な。俺はただ指を加えて見てることしかできなかった。山宮のことも」

「山宮さんのこと?」

「ああ、山宮が勘当された時、俺は父さんに怒鳴り込みに行ったよ。でも勘当は取り消してもらえなかった。だからせめても償いにと、山宮にこっそりと仕送りしてたんだ。何かあっても、しばらくの間だけでも生活に困らないようにな」

山宮さんが仕事がないにも関わらず宿泊施設を渡り歩くことができたのは、安美の仕送りがあったからだったのか。でも、それもあっさりバレて、俺もここに左遷された。

「山宮が新社長に就任したのは、多分扱いやすいと思ったからだろう。何かと反発してくる俺よりもな」

全て話し終わった安美は、額に手を当てながら深く息を吐いた。

「情けないよな。結局俺は何もできなかったんだ。父さんの暴走も止められない。会社を良くすることもできない。そして山宮を救ってやることもできない。とかず、お前のことも。ごめん。ごめんな。山宮、情けない兄ちゃんでごめん」

安美の手で顔が隠れて表情は読み取れないが、わずかに見える口元とその声からは、悔しさと悲しみを感じた。でも、俺は知っている。山宮さんの思いを。

「安美。山宮さん言ってたよ。いつも自分を助けてくれる強くて優しくて自慢のお兄ちゃんで、今でもすごく感謝してるって。俺にとっても、お前はいつだって困ってる人を放っておけない優しくていいやつのままだよ。それに俺はお前を支えたくてこの会社に入ったんだ。諦めるにはまだ早いんじゃないのか」

俺の言葉に、安美が顔をあげる。その目には涙が浮かんでいた。

「助けられる人は助けたいだろう。お前にも俺にも、まだ助けられる人がいる。そうじゃないのか」

「うん。俺は山宮を助けたい。それに、お前のことも。俺にとって二人は大事な人だからな」

「とかず、お前、山宮のこと」

安美の言葉に、俺は黙って頷いた。それを見て安美が笑う。俺がよく見知った親友の笑顔だった。

「とかず、ありがとな。目が覚めたよ。あと、これ渡しておく」

「なんだよ、これ」

手に渡されたのは二枚の紙だった。一つはどこかの住所。そしてもう一つは、一見するとただのアルファベットの羅列だったが、俺にはとある物の場所を示す地図のようなものだった。

「一枚目の方は、そこに行けば父さんの監視もなく山宮に会えるはずだ。もう一枚は、お前なら分かるよな」

「あ、でも、いいのか?」

「いいんだ。俺もなんだかんだ言って踏み切れなかった。でも、俺の大事なものがどんどん踏み荒らされるのはもう限界だ。お前に託すような形になって悪いけど、今の俺にできるのはこれくらいしかない」

安美の瞳に迷いはなかった。それなら、俺にもやれることをやるまでだ。親友のために。

「とかず、山宮をよろしく頼む」

「わかった。好きな人のために」

安美の言葉に力強く頷くと、俺は急いでメモに書かれている住所へと向かったのだった。

「とかずさん」

安美に言われた通りそこで待っていると、山宮さんが現れた。社長としての山宮さんじゃない。目の前にいるのは、俺の知っている山宮さんだった。俺の顔を見た瞬間泣き崩れる山宮さんを、俺はとっさに抱き止めた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

泣きながら謝る山宮さんの頭を撫でる。

「お兄ちゃんから全部聞きました。とかずさんには全てを話したって。まさかお兄ちゃんとかずさんが親友だったなんて知らなかった」

「俺も安美と山宮さんが兄弟だって知った時は驚いたよ。しかも社長として現れたんだからね。山宮さん、今まで辛かったね。よく頑張ったよ」

「とかずさん」

俺の言葉にまた泣き始めてしまった山宮さんを抱きしめながら、俺は彼女が落ち着くのを待った。

「ねえ、山宮さん。聞かせて欲しいんだ。俺を突然解雇した理由は何なのか?」

俺の問いに、山宮さんは少し黙った後、はっきりとした口調で答えてくれた。

「あなたを守りたかったんです」

「守る?」

「私も結局はお兄ちゃんの時と同じで、父にとってはお飾りの社長でしかありません。しかも私にはお兄ちゃんみたいに会社経営が分かるわけじゃありません。父のやり方が良くないことは分かっても、止める方法を思いつくこともできない。だから私にできることは、少しでも多くの人をあの会社から救い出すことでした」

「そのために悪役を買って出て、次々に人を解雇してるんだね。俺だけじゃない。他にもいるんだよね。山宮さんが解雇を言い渡した人」

俺がそう尋ねると、こくりと頷く。前に同僚が話してたのはそういうことだったのだ。新社長から呼び出された人は解雇になって辞めさせられる。だからあの日も、彼らはその話をしていて、「次は俺の番だ」と思ったんだ。

「幼稚な方法だっていうのは分かっています。でも私に思いついたのはそれくらいで。そこにいたらみんな不幸になってしまうから」

「そうか。なら、今度は二人でやろう。いや、三人か」

「え?」

戸惑う山宮さんに、俺は計画を伝える。それを聞いた山宮さんは声を変えて反対した。

「そんな危険なことしないでください。うまくいかなかった時はとかずさんが」

「もちろん、そうならないように気をつけるよ」

でも、言い募る山宮さんを、俺はギュッと抱きしめた。

「あ、とかずさん」

「山宮さんが俺を守ろうとしてくれたように、俺も山宮さんを守りたいんだ。俺は君のことが好きだから」

「え?」

「初めて会ったあの日から君に惹かれてたんだ。身元も分からない、もしかしたら危ない人かもしれない。
そんな思いもあったけど、最初に目が合った瞬間から、ずっと君のことが気になってた。一緒に笑って過ごすうちに、思いは大きく膨らんでいった。でも勇気がなくて、あの時には言えなかったんだ。君が突然いなくなって、後悔した。だからもう、あの時みたいに何も言わないまま後悔はしたくないんだ」

山宮さんは俺の腕の中で黙っている。

「俺は山宮さんのことが好きだから、君を守るために自分のできることをするよ」

顔をあげた山宮さんと目が合う。その瞳は涙に濡れてキラキラと輝いていた。出会った時と同じ、澄んだ瞳で俺のことを見つめながら、山宮さんが口を開く。

「とかずさん、私も出会った時からあなたのことが好きです。あんな状態の私を見捨てずに助けてくれたことも、家事ができない私に寄り添ってくれたことも、本当に嬉しかった。毎日あなたと過ごせるのが楽しくて、ずっと続いて欲しかった」

大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちる。その涙をそっと拭いながら、俺は山宮さんの思いを受け取った。

「山宮さん、俺もまた君と一緒に過ごしたい。だから、俺たちの手で取り戻そう。大丈夫。俺たちならできるよ、きっと」

「はい」

俺たちは互いを見つめ合いながら、戦う決心をしたんだ。大切な人、場所を守るために。

それから約一週間後のこと。俺は安成会長が社長時代から行ってきた不正の数々をまとめたファイルを手に、行政機関へと告発をした。これらの証拠は、安美があの日俺に渡してくれたメモから発掘したものだ。あのメモに書かれていたものは、会社の闇部、主に安成会長が直接指示を出した不正の詳細や証拠音声などをまとめたファイルの一部が保管されている場所を示すパスだった。「お前なら分かるよな」という安美の言葉通り、社内SEとして勤務してきた俺はそのメモからこのファイルへとたどり着き、他の証拠も集めた。俺と山宮さんで協力して、俺たちでまとめ上げたこの証拠が決め手となって、安成会長の不正は暴かれた。その結果、安成会長は逮捕され、会長職を辞することとなった。また会長の息がかかった役員や社員たちもこの件で一掃された。

もちろん、これは会社としても大ダメージを食らうことになった。取引先、銀行、取引企業、株主からの信頼を失い、会社として存続の危機に立たされた。だが、山宮さんは兄である安美を呼び戻し、二人で関係先を回り、誠心誠意の謝罪を行った。離れていった企業もあったが、自分たちをもう一度信じてくれた人たちへ、その信頼を二度と裏切らないことを約束し、兄弟で助け合って会社を再生することを誓った。真面目で人のことを考えられるこの二人なら、きっと会社が立ち直るのもそう遠くはない未来だと、俺は信じている。

「とかずさん。あの、仕事は終わったの?」

「ああ。山宮さん。俺、終わったよ」

「私も。あ、お兄ちゃんが今日は記念日なんだから早く帰りなさいって言ってくれて」

「安美、ナイス」

あれから、俺と山宮さんは結婚した。そして今日は初めて迎える結婚記念日だ。俺たちは小さなアパートで慎ましく暮らしている。元社長令嬢で現社長が住むにはどうなのかと思ったのだが、「出会った時みたいに暮らしたい」という山宮さんの希望を叶える形になったのだ。会社の立て直しも順調で、俺も二人をサポートするために毎日頑張っている。安美はまだ独身だが、仕事に忙しくて毎日楽しそうだった。

「とかずさん、私、今とっても幸せ」

「急にどうしたの?」

「言いたくなったの。記念日だから」

記念日のケーキを買って、二人で並んで帰る帰り道。山宮さんが俺の腕にぎゅっとしがみついて嬉しそうにしている。

「じゃあ俺も、山宮さんと結婚できて毎日幸せだよ」

そう言って頬にキスをする。見る見るうちに耳まで真っ赤に染める可愛い奥さんを眺めながら、俺はこの幸せを手にできた喜びを感じていた。山宮さんから解雇を言い渡された時、状況は絶望的に見えた。でも、あの時俺と山宮さん、そして安美の三人がそれぞれ自分にできることをやったからこそ、今のこの幸せにつながっているのだと俺は思っている。その体験があるから、俺はこれからも自分にできることなら、どんなに小さなことであっても全力で取り組みたいと思う。その行動が回り回って、困っている誰かに救いの手を差し伸べることになるかもしれないから。

「あ、危ない!大丈夫ですか?」

道端で、綺麗な女性が転びそうになっていた。慌てて助け起こすと、彼女は少し驚いたように俺を見た。

「あ、すみません。ありがとうございます」

その瞬間、俺は気づいた。人生は、思いもよらない出会いに満ちている。あの寒い夜、駅前でフラフラと歩いていた女性を助けたことが、全ての始まりだった。あの時、もし声をかけなかったら。もし見て見ぬふりをしていたら。今の俺は存在しなかった。誰かを助けるということは、巡り巡って自分自身を助けることになるのかもしれない。そして今度は、俺が誰かの光になれるように。山宮さんと二人で、これからも歩んでいきたい。

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