封筒の重さで、人生が終わる音がした。六月の夕方、郵便受けから取り出した茶色い封筒には「株式会社ストライク・クレジット管理部」と印字されていた。差出人を見た瞬間、六十八歳の俺の指が止まった。中身を開ける前からわかっていた。これはただの請求書じゃない。二年前、隣室に住んでいた中津省子という女性に頼まれて連帯保証人になった。息子の学費のためだった。「誰にも頼めなくて、あなたしかいないんです」と彼女…

封筒の重さで、人生が終わる音がした。六月の夕方、郵便受けから取り出した茶色い封筒には「株式会社ストライク・クレジット管理部」と印字されていた。差出人を見た瞬間、六十八歳の俺の指が止まった。中身を開ける前からわかっていた。これはただの請求書じゃない。二年前、隣室に住んでいた中津省子という女性に頼まれて連帯保証人になった。息子の学費のためだった。「誰にも頼めなくて、あなたしかいないんです」と彼女...

茶色い封筒を見た瞬間、松崎肖像の指先が止まった。差出人の欄に印字された「株式会社ストライク・クレジット管理部」という文字。郵便受けの縁を握ったまま、六月の生暖かい空気の中で男は三秒間、文字通り動けなかった。

中身よりも先に手に伝わる重みが判決を下す。六十八歳でわずかな年金を頼りに生きている人間にとって、その重みはそのまま残りの短い人生の重さに変わった。

午後八時四十分。昭和四十年代に建てられた鉄筋コンクリートの団地は、梅雨の湿気を吸い込んで固まったような外観をしていた。外壁の継ぎ目に沿って黒い苔が筋を引き、雨の錆が縦縞模様を描いている。肖像は封筒を持ったまま、エレベーターのない外階段を上がった。三階の三〇六号室の鍵穴に差し込む前にもう一度だけ封筒の表を確認した。書き留めの赤いスタンプ。松崎肖像様。間違いはなかった。

部屋の中は暗かった。節電のため、肖像は玄関ホールの灯りを点けずに台所へ向かった。換気扇のそばに立ったまま封筒の端を指でこじ開けた。中から出てきたのは薄い紙を三つ折りにしたもので、「保証請求書」という太い文字が最初の見出しを占領していた。

二年前のことを思い出した。正確には二年と三か月前の四月の終わり。隣の三〇七号室に住んでいた中津省子という女性は、当時まだ三十代の半ばで、小学生の息子を一人で育てていた。細い体に疲れた目をした人で、肖像と顔を合わせるたびに深く頭を下げた。その頭の下げ方は、単なる挨拶ではなく日常的な謝罪のように見えた。

ある日、彼女がチャイムを鳴らしてきた。肖像は仕事前で急いでいたが、彼女の表情を見て追い払うことができなかった。息子の専門学校の前期授業料の納付期限が三日後に迫っているが、勤務先の給料振り込みが遅れていて三十万円をすぐに用意できないという。「消費者金融に申し込んだが、過去に一度だけ返済が遅れた記録があるため審査が通らなかった。連帯保証人が一人いれば低利の制度融資が受けられると言われているが、誰にも頼めなくて」と言いながら彼女は顔を伏せた。

肖像は少し考えた。かつて部下を持ち、会社の資金繰りに関わっていた自分の経験から、保証人という立場のリスクは理解していた。しかし目の前にいる女性は隣室の住人で、毎朝挨拶をする人間だった。子供の学費のために頭を下げている。あの頃の自分ならこういう場面で躊躇しなかっただろうと思った。肖像は承諾した。

今夜届いた請求書には、中津省子が五か月前から返済を止めていることが記載されていた。貸付金が三十万円。遅延金と事務手数料を合算した請求額は三十八万七千四百二十円。保証人である肖像に対して三十日以内に全額を一括で支払うよう求めていた。支払いが履行されない場合は法的手続きに移行すると最後の段落に書いてあった。

肖像は封筒をテーブルの上に置いた。置いた瞬間に封筒が少し滑って端がテーブルの縁からはみ出した。それを直す気力もなく、肖像はパイプ椅子に座ったまま台所の蛍光灯を見つめた。蛍光灯がかすかに点滅していた。

翌朝、肖像は夜間警備の仕事から戻った。午前六時十五分、駅の高架にある自転車預かり所の夜勤から解放されるのが常だった。帰り道、駅前の大通りを歩きながら肖像は昨夜の請求書のことだけを考えていた。今月の年金受給額は月末に振り込まれる予定の六万八千円。夜勤のアルバイト代が月に八万五千円ほど。家賃が三万五千円。光熱費が一万二千円ほど。食費を削りに削って月二万円弱。残りのほとんどは医療費と交通費に消える。手元に残るものはほとんどない。三十八万七千円という金額は肖像の世界では天文学的な数字だった。

コンビニエンスストアの前を通りかかった時、肖像は立ち止まった。用はなかったが足が止まった。昨日の朝に確認した時の残高を思い出した。四万二千三百円。ここから電気代を払い、来週の食費を確保しなければならない。しかしそれよりも先に確認しなければならないことがあった。肖像は引き戸を開け、ATMの前に立った。暗証番号を打ち込み、残高照会のボタンを選んだ。画面が切り替わった。

残高一二五〇円。

肖像の指が機械の枠を掴んだ。理解するのに数秒かかった。一万二千五百円ではない。千二百五十円だ。昨日の朝には確かに四万二千三百円あったはずの口座に今朝は千二百五十円しか残っていない。画面の下に引落の記録があった。自動引落 ストライク・クレジット管理部 四万円。

口が乾いた。肖像はゆっくりと首を動かして周囲を確認した。誰もこちらを見ていなかった。それでも肖像の背中には全員の視線が集まっているような感覚があった。カードを抜き取って胸のポケットにしまった。動作はゆっくりとしていた。焦っているところを見られたくなかった。

外に出た。六月の朝の空気が顔に当たった。雨はまだ降っていなかったが、空は低く曇っていて湿気が肌に張り付くようだった。肖像は歩き始めた。いつもと同じ方向に、いつもと同じ速さで。ただし、いつものコースのコンビニはなかった。歩きながら頭の中で計算した。今月の年金振り込み日まであと二十三日ある。その年金も消費者金融が自動引き落としに設定されていれば振り込まれた瞬間にまた消える可能性があった。電気代の引き落とし日は来週の金曜だ。口座に千二百五十円しかなければ引き落としは当然失敗する。電気が止まれば冷蔵庫の中のものが腐る。朝飯を食べていなかった。しかし残高を思うと、何かを買うという選択肢は頭から消えた。

商店街のアーケードに差しかかった時、肖像は立ち止まって腕時計を見た。六時三十七分。何かを確認しないと自分がどこに立っているのか分からなくなりそうだった。シャッターの降りた店が並ぶ中に一軒だけ電気の点いたパン屋があった。ガラス越しに焼きたてのコッペパンが並んでいるのが見えた。百三十円の札が見えた。肖像は視線をそらして歩き続けた。

団地に戻ったのは七時を少し過ぎた頃だった。階段を上がりながら肖像は三〇七号室のドアを一瞬だけ見た。そこはもうただの無人の部屋だった。中津省子は五か月以上前に深夜のうちに荷物をまとめて出て行った。肖像がそのことを知ったのは、翌朝廊下に捨てられた段ボール箱と郵便受けに挟まれた管理会社からの退去通知書を見た時だった。あの朝のことを肖像はよく覚えていた。胸の中に浮かんだのは怒りでも悔しさでもなく、妙な諦めだった。ああ、そうか、出て行ったかという感覚。

部屋の鍵を開け、靴を脱ぎ、ハンガーにジャンパーをかけた。テーブルの上には請求書が端をはみ出させたままの状態で待っていた。肖像は椅子を引いて座り、請求書を手に取った。読んでも内容は変わらない。肖像はそれを裏返しにして伏せた。台所に立ち、ヤカンに水を入れて火にかけた。お茶でも飲もうと思った。しかし湯が沸く前に、肖像は椅子の背もたれに手を乗せたまま目を閉じた。長い夜勤の後の疲労感と、ATMの画面に映っていた数字と、六月の朝の湿気とが頭の中でゆっくりと混ざり合った。

今日これからどうすればいいのか。頭の中でいくつかの選択肢を並べようとした。消費者金融に電話して現状を説明して支払い猶予を求める。区役所の生活相談窓口に行く。娘に電話する。どれも簡単ではなかった。

肖像は区役所に行くことにした。夜勤明けに帰宅してシャワーを浴び、タンスの一番上の引き出しの奥に畳んで入れていたスーツを取り出した。紺色の結婚式と葬式と重要な用事のためだけに使ってきたスーツだった。最後に袖を通したのがいつだったか正確には思い出せない。少なくとも三年以上前のことだ。ハンガーから外して広げると樟脳の匂いが部屋に広がった。鏡の前に立った時、自分が見覚えのない誰かのように見えた。痩せた体にスーツが少し大きく、肩のラインが落ちている。それでも肖像は一番上のボタンまでしっかりと止めた。

区役所へは電車で二駅だった。肖像は生活保護の申請について相談したい。それだけのことを言いに来た。しかしその「それだけ」を口に出すことがどれほど難しいか、電車の中で感じ始めていた。

区役所の三階、福祉の入り口に「生活保護の相談は発券機で番号をお取りください」という張り紙があった。肖像は機械のボタンを押し、三十一番という紙を受け取った。待合いのプラスチック椅子は座面が硬く背もたれが体の形に合っていなかった。肖像は背筋を伸ばして座り続けた。掲示板の数字が少しずつ進んでいった。十九番、二十番、二十一番。

三十一番の表示が出た。「四番窓口にお越しください」というアナウンスが流れた。肖像は立ち上がり、ゆっくりとカウンターへ向かった。窓口の椅子に腰を下ろすと、アクリル板の向こうに担当者の顔が現れた。二十代後半から三十代前半くらいの男性で、眼鏡をかけていた。胸のネームプレートには「河合」という名前が書いてあった。

「今日はどのようなご要件で」と河合は事務的な口調で言った。肖像は少しの間口を開けなかった。喉の辺りに何かが詰まっているような感覚があった。かつて自分は部下に対して迷わず指示を出す側にいた。しかし今この瞬間、アクリル板一枚を挟んだ公務員の前で自分の窮状を言葉にすることが、なぜかひどく難しかった。

「生活保護の申請について相談したいと思いまして」と肖像は言った。声が少しかれた。

河合は現在の収入状況を聞いた。肖像は答えた。年金が月に六万八千円。夜間の警備アルバイトが月に約八万五千円。合わせて十五万三千円ほど。河合が少し間を置いた。「現在資産はお持ちでしょうか。不動産、株、預金など」

肖像は答えた。預金はほぼない。しかし熊本の実家に親から相続した土地がある。急斜面で農業もできず道路にも面していない土地で、固定資産税の評価額は極めて低い。売れる状態にはないが名義は自分のものだ。河合は書類に何かを書いた。「もう一つ確認させてください。お子様などご親族はいらっしゃいますか」

肖像は娘が一人いると答えた。東京で夫と子供と暮らしている。河合は書類を一枚めくり、制度について説明し始めた。資産については処分可能なものがある場合は原則としてその活用が優先される。お持ちの土地については換金性が低いとのことだが、そのご判断は審査による。また扶養義務者、つまりご家族が支援の可能性について照会される場合がある。

「照会というのは」と肖像は言った。

「お嬢様の世帯に対して支援が可能かどうか、確認の書類が送られます。義務ではありませんが、可能な範囲での支援のご意向をお伺いすることになります」と河合は答えた。

肖像の視線が一瞬だけアクリル板を外れた。娘の世帯に書類が届く。肖像がここへ来たことが娘に知れる。娘は今、夫の給与が削られてマンションのローンに苦しんでいると言っていた。そこへ父親が生活保護の申請をしているという通知が届く。

河合は続けた。「加えて現在の月収が合算でおよそ十五万円ということであれば、生活保護の支給基準額との差が少なく、今の段階では支給対象となる可能性は低いです。川口市の場合、高齢単身世帯の基準額はおよそ十二万円台となっておりまして、現収入がそれを上回っておりますので」

肖像は「理解しました」とだけ言った。立ち上がり、椅子を引いて窓口を離れた。廊下を歩きながら肖像は番号札をどこに捨てればいいのか分からず、しばらくそれを手に持ったまま歩き続けた。エレベーターホールの手前にゴミ箱があって、そこへ入れた。エレベーターが来るまでの間、肖像は壁を見ていた。握りしめていた番号の紙は、乗る前にすでに手の中でかなりしわくちゃになっていた。肖像はそれに気づかなかった。気づいたのは外に出て日差しの中で手を開いた時だった。紙はもう原型を留めていなかった。

区役所の建物から出て肖像は大通りを歩き始めた。来た道を戻るつもりだったが、角を曲がったところで足が止まった。駅とは逆の方向に細い路地が続いていた。肖像はそちらへ向かった。理由はなかった。ただ駅前の明るい人通りの中に戻りたくなかった。このスーツで来たことが今になって少し滑稽に思えた。娘には知らせるつもりがなかった。そもそも昨日の朝のATMの件も言っていなかった。娘の千佐子は東京で働いていて、週に一度か二度短い電話をかけてくる。肖像はいつも「問題ない」「元気だ」という方向で会話を切り上げる。千佐子の側もそれ以上深く聞いてこない。お互いがお互いの状況を掘り下げることを無言のうちに避けている。

帰宅したのは昼の十二時を少し回った頃だった。部屋に入り、スーツを脱いでハンガーにかけた。冷蔵庫を開けた。卵が二個と、四分の一になった豆腐のパックと、チューブに少しだけ残っている辛子があった。肖像は豆腐を皿に出し、辛子をほんの少し乗せてそのまま箸でつついた。今日はこれだけで昼食にした。

食べながら窓の外の団地の景色を見ていた。皿を洗いながら電話が鳴った。携帯電話の画面に表示された番号は千佐子のものだった。肖像は一瞬だけ受けるかどうか考えた。そして親指で通話ボタンを押した。

「もしもし。千佐子か」と肖像は言った。声はいつも通りの低くて短い声だった。

千佐子の声が聞こえた。少し疲れた声で、でもいつものように話し始めた。「ねえ、お父さん、最近どう。体は大丈夫」

「大丈夫だ」と肖像は言った。

千佐子は少し間を置いて、「そう、よかった」と言った。それから「実はちょっとね」と続けた。声のトーンがわずかに変わった。「あのね、啓介の会社がまたボーナス削られてさ、今年の夏は去年より少ないんだって。マンションのローンが月九万でしょう。それで子供の塾もあって、うちも結構きつくて。親にこんな話するのもどうかと思うんだけど」

肖像は台所の流しの縁に片手をついて話を聞いた。千佐子は続けた。「お父さんに毎月仕送りしてあげたいけど、今月はちょっと難しくてごめんね。来月には何とかするから」

肖像は聞きながら口の中で何かを言おうとした。お金がいる。少しかしてくれないか。電気代が払えないかもしれない。口座が空になった。そんな言葉が喉の手前まで来ていた。しかし千佐子の声の疲れ方がその言葉を押し戻した。千佐子は今、夫の給与削減と子供の塾の板挟みの中にいる。その状況で父親の口座が空だと告げることが何をもたらすか。千佐子はきっとどこかから絞り集めようとするだろう。そして自分をまた責めてしまう。

肖像は小さく咳払いをした。「そうか。大変だな。でもこっちは心配するな。お父さん、先日いいことがあってな。北海道のメロンもらったんだよ。お前らに送ろうかと思ってたくらいだ。食えない量で困ったよ」声は自然に出た。驚くほど自然に出た。千佐子は電話の向こうで笑った。「何それ。誰から。まあよかった。お父さんが元気そうで安心した」

通話が切れた。肖像は携帯電話を台所の棚に戻した。メロンという言葉が頭に残った。なぜそんな言葉が口から出たのか自分でも分からなかった。昔、会社の取引先から夏に届いたものを千佐子が喜んで食べていた記憶がどこかにあるのかもしれない。でももうそういうものが届く立場には当の昔にいない。

夕方、肖像はスーパーへ向かった。閉店前の値引きシールを貼られた食材を買うためだった。いつも同じ時刻にその場所に向かう。午後八時四十分から八時五十分の間に、鮮魚コーナーの担当者が割引きシールを張って回る。その時間を狙って売場の端に立ち、棚の影から自然な動作を装って値引き品を手に取るのが肖像の習慣になっていた。昨夜も同じことをした。半額シールの貼られた鯵の切り身を手に取りながら、肖像は胸の中に誰に向けるともない苦さを感じた。かつて自分は部下を持ち、取引先と名刺を交換し、年末になれば仕事仲間と居酒屋で乾杯していた。今は半額シールの貼られた魚のパックを誰かに見られないように手に取っている。しかしその辛さは、もうそれほど鋭くはなくなっていた。慣れてしまうというのは情けないことではあるが、生きていくためには必要なことでもあった。

今夜、スーパーで肖像は中年の女性に声をかけられた。同じ団地の三〇二号室に住む田中だった。「あら、松崎さん、こんにちは」肖像は軽く会釈した。田中は肖像の買い物かごの中に視線を落とした。百六十五円分の値引き食材が入っていた。お互い一人は大変ですね、と田中は言った。それから自治会の役員会のことを話し始めた。肖像は「届いていない」と答えた。今月から自治会の会費を払えなくなり、正式に退会の手続きをしていたからだった。退会のことは田中に言っていなかった。田中は少し首を傾げたが、それ以上聞かなかった。

夜九時五十分、肖像は自転車預かり所の詰所に入り、前の担当者から引き継ぎを受けた。利用者の記録の音と鍵の束と懐中電灯。それだけを受け取り、椅子に座った。深夜二時を少し過ぎた頃、自転車の列が崩れる音がした。肖像は懐中電灯を手に外に出た。スーツ姿の若い男が自転車の列に肩をぶつけて壁に手をついていた。三十代前半くらいだろうか。顔が赤く、目が潤んでいた。倒れた自転車が二台、地面に横たわっていた。

「お客様、大丈夫ですか」と肖像は言った。男は顔を上げ、肖像を見た。目が座っていた。「うるさい」と男は言った。声が大きかった。「お前みたいな夜勤の老人に何が分かる」肖像は静かに自転車に近づき、一台目を起こし始めた。男は肖像の背後から近づいてきた。肖像の前に回り込み、胸ポケットから千円札を一枚取り出した。それを丸めて肖像の顔に向かって投げつけた。「俺がやったんだから、これで自分でやれ」紙幣は肖像の頬辺りを掠めて地面に落ちた。雨上がりで路面が濡れていたため、紙幣は水溜まりの端に落ちた。

肖像はその紙幣を見た。立ったまま三秒か四秒見ていた。頭の中を何かが通り過ぎた。かつて部下のミスを叱責した時の声。得意先で深く頭を下げた時の背中の角度。自分の名刺の肩書きが変わるたびに感じた緊張と誇り。そういうものが順番もなく湧いて浮かんでは消えた。今の自分の口座には一千百十二円しかない。電気代が払えないかもしれない。千円は千円だ。肖像はゆっくりとかがんだ。濡れた紙幣を両手で拾い上げた。水気を帯びた紙幣は手に絡みつくような感触があった。肖像はそれをできる限り丁寧に伸ばした。立ち上がり、紙幣を男の方へ差し出した。「これはお返しします」声は低く、かすかに震えていた。「自転車は自分で直しますので、お気をつけてお帰りください」男は一瞬だけ肖像の顔を見た。それから引ったくるように千円札を取り、舌打ちをして立ち去った。肖像は男の背中が見えなくなるまで見送った。それから倒れた自転車に向かった。一台目を起こし、スタンドを立てた。二台目も同じように起こした。体を動かしながら頭の中は不思議なほど静かだった。あの千円を受け取っていれば電気代の助けになったかもしれない。受け取らなかった。受け取ることができなかった。あの状況で千円を受け取ることは、何かを引き換えに差し出すことだったから。何を差し出すことになるのかは言葉にできなかった。しかし体が先に判断していた。

チラシ配りのアルバイトを見つけたのは駅の掲示板だった。一枚当たり単価で計算され、一日で五百枚から七百枚ほどこなせば三千円から四千円になると書いてあった。雇用契約ではなく業務委託という形式で、税金や保険の控除もない。肖像はそれが合法の範囲内かどうかをあまり深く考えなかった。考える余裕がなかった。

翌日の午後、肖像は約束の場所に行った。駅前のコインパーキングの前に軽自動車が一台止まっていた。窓が開き、助手席から大きな紙袋が差し出された。中に束になったチラシが入っていた。居酒屋の宣伝で割引クーポンが印刷されていた。配布エリアの地図も入っていた。軽自動車はすぐに走り去った。肖像はチラシの束を抱えて指定されたエリアへ向かった。

六月の午後は蒸し暑く、じりじりとした日差しが肩に当たった。肖像は速度を上げた。早く終わらせるほど枚数をこなせる。三ブロック目を終えた頃、足の裏に違和感を覚えた。靴の底の部分が歩くたびに足を打った。靴底が内側から剥がれ始めているようだった。肖像は立ち止まり、靴を脱いで確認した。もう何か月も同じ靴を履いていた。靴を履き直して歩き続けた。チラシを五百二十枚配り終えたのは午後四時過ぎだった。集積場所として指定されたコンビニの駐車場に戻り、軽自動車を探したがいなかった。しばらく待っていると電話が来た。「本日分は翌日に現金で払います。明日また同じ場所で受け取ってください」という内容だった。今日の分がもらえるのは明日だった。今夜の夕食の算段がまた白紙に戻った。

肖像はコンビニの引き戸の前で立ち止まり、中を覗いた。おにぎりの棚が見えた。百三十八円から百五十八円のものが並んでいた。財布の中には四百六十五円があった。買えないことはない。しかし電気代のことを考えると手が動かなかった。肖像はドアに背を向けて歩き始めた。帰り道の途中に小さな神社があった。肖像はそこのベンチに腰を下ろした。木陰で気温が少しだけ和らいだ。靴を脱いで素足で靴の内側を触ると、指先にざらざらした感触があった。肖像は靴を履き直し、空を見上げた。明日も雨かもしれない。雨の日はチラシが濡れてポストに差し込みにくくなる。

翌朝、自治会長の桑田が肖像の部屋のドアをノックした。今年度の自治会費の集金に来た。五千円です、という要件だった。肖像はドアを開けたまま少し間を置いた。体が疲れていた。二日続けて満足に眠れておらず、前日に五百枚以上のチラシを配って歩き、昨夜の夜勤をこなして戻ってきたばかりだった。「申し訳ありませんが、今年は自治会を退会させていただきたいと思っています」と肖像は言った。声は低く、感情を乗せないように意識していた。桑田の眉がわずかに動いた。「この団地に住んでいて自治会に入らないということは、ゴミの分別収集日の管理や共有スペースの清掃当番からも外れるということになりますが、それはご理解されていますか」「理解しています」と肖像は言った。「住んでいる以上は最低限の共同生活のルールというものがあります。ここを使いながら何も出さないというのは、他の住人に対して失礼ではないですか」「おっしゃる通りです。ただ、今の自分には五千円を出す余裕がありません」桑田は肖像の目を見た。肖像も桑田の目を見た。桑田は一歩下がり、「それはご自分でどうにかしてください」と言った。声の中に軽蔑とも諦めとも取れるものが入っていた。肖像はドアを閉めた。

翌朝、ゴミを出しに行った。集積場所のネットを持ち上げて袋を置こうとした時、後ろから声がした。複数の女性の声だった。その中の一人が「あの人、自治会抜けたんですって」という言葉を発した。肖像はゴミ袋を集積場所に入れ、ネットを戻した。振り返ると田中が立っていた。ポートは軽く会釈し、その場を離れた。その翌日の朝、肖像が玄関のドアを開けると、ドアの前にゴミ袋が置かれていた。自分が昨日出したものと同じ袋だった。肖像はその袋を手に取り、部屋の中に戻した。袋を台所の隅に置き、椅子に座って壁を見た。集積場所から自分のゴミが返却されるということが、日本の団地の日常の中で何を意味するかは分かっていた。分かった上で、どうすればいいかが分からなかった。翌朝も同じことが起きた。今度は袋が少し破れていた。肖像は破れた袋を一回り大きな袋に入れ直し、廊下に出た。時刻は朝の六時四十分で、集積場所の前にはもう人影はなかった。肖像は素早くネットを持ち上げ、袋を奥の方に押し込んだ。

昼過ぎ、肖像はチラシ配りの二日目に出かけた。昨日の分の報酬、千五百六十円を受け取ってから出発した。受け取るまで四千円以上もらえると思っていたが、配布エリアと枚数の計算が肖像の想定と違っていたらしく、思っていたよりも少なかった。肖像はその千五百六十円を封筒に入れ、胸のポケットにしまった。四ブロック目に差しかかった時、視界の端が少し揺れた気がした。肖像は立ち止まらなかった。一瞬目がかすんだような気がしたが、疲れのせいだと思った。五ブロック目の入り口で再び視野が揺れた。今度は少し強かった。肖像は壁に手をついた。立ったまま三回ゆっくり息を吸った。頭の奥が重かった。左足が地面を正確に捉えなかった。体が傾いた。右肩からアルミのフェンスに激突した。フェンスが揺れ、金属音が路地に響いた。肖像は膝をついた。チラシの束が地面に散らばった。

どれくらいの時間が経ったか分からなかった。少しして遠くから声が聞こえた。「大丈夫ですか」という女性の声だった。肖像は顔を上げた。路地の向こうからエプロン姿の中年女性が早足でこちらへ向かってきた。肖像は体を起こそうとした。フェンスの柱を掴んで何とか立ち上がった。「大丈夫です」と肖像は言った。声がかすれていた。女性は肖像の顔を見て「顔色が悪いですよ。すぐ近くに小さなクリニックがあります。行った方がいいです」と言った。肖像は「お気遣いなく」と言った。女性はそれでも近くにいた。肖像は散らばったチラシを拾い集めようとして、またふらついた。女性が肘の辺りを支えてくれた。

女性に案内されて肖像は小さなクリニックに入った。処置室のベッドに横になり、点滴の針を腕に刺された。若い医師が血圧を測り、「熱中症の初期症状です。水分と糖分が著しく不足しています」と言った。それから「今日は何かお食べになりましたか」と聞いた。肖像は少しの間答えなかった。「朝に水を一杯飲んだだけでした」と言った。点滴が終わって処置室から出ると、受付の女性が会計の紙を差し出した。肖像はその数字を見た。八千四百円だった。肖像は財布を持ったまま受付の女性の顔を見た。財布の中には二千二十五円しかなかった。肖像は「少しお待ちいただけますか。トイレを借りたいのですが」と言った。トイレに入り、鍵を閉めた。便座の蓋の上に座り、財布を開いた。頭の中でいくつかの選択肢を考えた。どれも受付に戻って正直に話すという選択肢ではなかった。肖像はトイレから出た。廊下を進み、処置室の前を通りすぎた。廊下の奥に非常口のマークが見えた。肖像はゆっくりとバーのドアを押した。外の空気が入ってきた。肖像は出た。ドアが閉まる前に財布から二千円を取り出した。二千円をドアの隙間に差し込んでおいた。紙幣が風で飛ばないよう、ドアの金具の隙間に折り込むように挟んだ。二千二十五円のうちの二千円。残り二十五円。それから肖像は歩き出した。

帰り道、肖像は電柱の影の中で少し立ち止まった。クリニックの非常口から逃げたことへの後悔も自己嫌悪も怒りも、今この瞬間はほとんど感じなかった。あったのはただ、自分が二千円を置いてきたという事実だけだった。それが正しかったのか間違っていたのかは肖像には分からなかった。ただあの二千円を置いてこなければ、自分はこうやってまっすぐ立って歩いていられなかった気がした。それだけのことだった。

団地に戻ったのは夕方の六時を過ぎた頃だった。部屋に入り、靴を脱いだ。右の靴の踵の辺りがまた剥がれていた。台所に立ち、コップを開けて水を飲んだ。テーブルの前に座った。部屋は暗かった。電灯をつけようとして、一瞬だけ手が止まった。電力会社のことを思い出した。金曜の引き落としまであと二日だった。口座の残高は今朝の時点で一千百十二円だった。今日の手持ちは二十五円になっていた。肖像は電灯のスイッチを押した。今夜も夜勤がある。九時四十五分に家を出なければならない。その前に何か食べておきたかったが、食材はなかった。

木曜日の朝、携帯電話の電波が途切れた。最初は電波の悪さだと思った。しかし画面の右上を見ると、アンテナのマークの隣に「サービスの一時停止」という表示が出ていた。料金の滞納だった。先月分の通話料と基本料金を払えていなかった。通話ができなくなったことよりも、千佐子からの電話が受けられなくなったことの方が応えた。千佐子は週に一度か二度かけてくる。今週はまだかかってきていなかった。もしかけてきて繋がらなかった場合、千佐子はどう思うか。肖像は少しの間、先を考えた。千佐子は心配するかもしれない。心配すれば何らかの行動を取るかもしれない。例えば誰かに頼んで様子を見に来させる、あるいは自分で来る。それは困ると肖像は思った。どうして困るのか。部屋の中を見られたくないから。テーブルの上に積まれた郵便物を見られたくないから。冷蔵庫の中を見られたくないから。靴の底が剥がれかけているのを見られたくないから。

その日の午後、千佐子が来た。チャイムが鳴った時、肖像は夜勤前の仮眠を取っていた。ドアを開けると、廊下に千佐子が立っていた。肖像は一瞬言葉が出なかった。千佐子も肖像の顔を見た。どちらもすぐには口を開かなかった。千佐子は肩にトートバッグをかけていて、エコバッグも持っていた。「どうした」と肖像は言った。声が少しかすれていた。千佐子は「入っていい」と言った。聞き方というより確認だった。肖像は一歩脇に寄った。千佐子が靴を脱いで上がった。ポートはドアを閉めた。千佐子は部屋の中を見た。テーブルの上の書類の束。台所の流しに置きっぱなしの皿。積み重なった広告のチラシ。エコバッグを台所のカウンターに置いた。中に食材が入っているのが見えた。野菜と肉と缶詰が数点。千佐子はそれを並べながら「電話繋がらなかった」と言った。「ちょっと手続きが遅れていてな」と肖像は言った。「三日間繋がらなかった」と千佐子は言った。顔はこちらを向いていなかった。

千佐子はエコバッグを空にしてからテーブルの方を向いた。書類の束を見た。視線がそこに止まった。それから肖像を見た。「お父さん」と千佐子は言った。声のトーンが変わった。肖像は「問題ない。来週には整理がつく」と言った。千佐子はテーブルのそばに来て、椅子を引いて座った。「座って」と言った。肖像は反射的に自分の家で娘に座れと言われる理不尽さを感じた。しかし座った。千佐子はしばらくテーブルを見ていた。それから言った。「冷蔵庫見てもいい」肖像は黙っていた。千佐子は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。三秒ほど中を見て閉めた。振り返って肖像を見た。目が赤くなっていた。「いつからこんなことになってたの」と千佐子は言った。声が揺れていた。肖像は「大したことじゃない」と言った。千佐子は肖像を見た。声を荒げるでも泣き崩れるでもなく、ただまっすぐに見た。その目の中にあったのは怒りではなかった。もっと違うもの。痛みと疲れと、何年も積み重なってきた何かが混ざったものだった。

千佐子はテーブルの上の書類に手を伸ばした。一番上の封筒を手に取り、中身を確認した。消費者金融の請求書だった。千佐子は請求書を読み、読み終えてテーブルに戻した。「北海道のメロン」と千佐子は言った。肖像は千佐子の目を見た。「先月電話でそう言ってた。メロンをもらって食べきれないって。今、冷蔵庫に豆腐が少しと卵が一個しかない。テーブルの上には消費者金融の請求書が何枚もある。お父さん」声が一度詰まった。「なんでそんな嘘をつくの」肖像は答えなかった。千佐子は両手をテーブルの上に置いて、視線を下げた。しばらくそのままでいた。肩が小さく上下した。「お前に迷惑をかけたくなかっただけだ」と肖像は言った。声がひどく小さかった。自分でも驚くほど小さかった。千佐子は顔を上げた。目の縁が赤くなっていたが、涙は出ていなかった。「お父さんが迷惑だと思ったことは一度もない」と言った。ゆっくりとはっきりと言った。肖像はその言葉を聞いて、何かが喉の辺りに上がってくるような感覚を覚えた。それを押し込むように口を結んだ。

「私も今、正直に言わなきゃいけないことがある」と千佐子は言った。声が少し震えた。トートバッグから通帳を出した。テーブルの上に置いて開いた。最後の残高の欄に赤い字はなかったが、数字は小さかった。「うちもそんなに余裕がない。啓介の給料が減ってローンがある。子供のこともある。お父さんの借金全部一度に払うことは正直できない。でもこのまま放っておくこともできない。だから今月できる分だけ振り込む。それしか今はできない」肖像は千佐子の顔を見た。千佐子の目に今度は涙が浮かんでいた。こらえているのが分かった。「いい」と肖像は言った。千佐子は首を振った。「良くない。お父さんが死にそうになってからじゃないと気づけなかった自分が情けない。でも今できることを言ってる。受け取って」

肖像は椅子の上で少しだけ体を縮めた。六十八年生きてきて、娘に「受け取って」と言われる場面に来たと思った。「分かった」と肖像は言った。千佐子は通帳をしまった。それから立ち上がり、台所に向かった。持ってきた食材で何かを作るという気配だった。千佐子はしばらく台所に立っていた。鍋を出して水を入れた。野菜を切り始めた。包丁がまな板を叩く音が静かな部屋に響いた。肖像は椅子に座ったままその音を聞いていた。食事が出来上がって、千佐子は肖像と向かい合わせに座った。味噌汁と炒め物と白飯だった。「いただきます」と千佐子が言った。肖像も言った。箸を持って炒め物を口に入れた。油と塩と野菜の味がした。ただそれだけのことが、喉の奥まで体に染み込んでいった。食事の間、二人はあまり話さなかった。食べ終えて千佐子が片付けをした。片付けが終わり、千佐子が帰る準備をした。玄関に向かいながら言った。「また電話する。繋がるようにしておいて」肖像は「する」と言った。千佐子はドアに手をかけてから振り返った。もう一度、お父さんの顔を見た。それから「またね」と言って出ていった。ドアが閉まった。

肖像は玄関に立ったまましばらくそこにいた。部屋に戻ると、台所がきれいになっていた。流しに置きっぱなしだった皿も洗われていた。カウンターに残った野菜が袋に入れて置かれていた。肖像は仏壇の前に立った。肖像の妻、松崎けい子が七年前に亡くなった時に、千佐子と一緒に選んだものだった。高いものではなかったが、それなりに丁寧に作られていた。肖像は手を合わせた。目を閉じながら何かを言おうとしたが言葉にならなかった。すまないとも言えなかった。ただ手を合わせていた。手を下ろして位牌を見た。肖像は指先でそれに触れた。

翌朝、肖像は夜勤から戻った後、しばらく仏壇の前に座っていた。千佐子が振り込んでくれる五万円は月末に入る。しかし今目の前の問題がある。電気代の引き落としが今日だった。口座の残高は夜勤のアルバイト代が振り込まれる前で、一千百十二円のままだった。引き落としに必要な金額は一万二千円余り。当然落ちない。肖像は仏壇の扉を両手で開いた。位牌を見た。それから仏壇全体を見た。肖像は立ち上がり、押入れから風呂敷を取り出した。紺色の観音開きの時に使うものだった。仏壇の扉を閉めた。それから位牌を取り出した。手のひらに乗せてしばらく見た。位牌は思っていたよりも軽かった。肖像はワイシャツの胸ポケットに位牌をそっと入れた。風呂敷を広げ、仏壇を包んだ。四つ角をきちんと結んだ。包んでしまうと、それはただの四角い荷物になった。肖像はそれを両腕で抱えた。

駅の隣の駅まで歩いた。二十分ほどかかった。目的地はその駅前の商店街の中にあるリサイクルショップだった。肖像は仏壇を抱えたままカウンターに近づいた。「これを買い取っていただけますか」と言った。店長らしき五十代くらいの男性が風呂敷を解いて仏壇の扉を開け、中を確認した。「宗教関係のものは正直売りにくいんですよ。うちも引き取ることはあるんですが、お客さんに買い取られる場合が多くて。状態は悪くないですが、三千円ということでどうでしょう。売れなかったら廃棄になる場合もあるんで、そのご了承もお願いできますか」肖像はしばらく仏壇を見た。七年間、部屋の隅にあり続けたものだった。「お願いします」と肖像は言った。書類を渡すと、店長は引き出しから三千円を出してカウンターに置いた。肖像はその三枚を手に取った。受け取った瞬間、胸のポケットの中の位牌の重みを感じた。

団地に着いて部屋に入ると、仏壇があった場所が空だった。肖像は少しの間その空白を見た。長い間そこにあったものが消えると、その形だけが残る。肖像は台所に行って水を飲んだ。それから胸のポケットから位牌を取り出した。テーブルの上に置いた。三千円で七年間のものを手放した。その数字の意味を肖像はうまく整理できなかった。ただ三千円は今夜の食事と電気代の一部になる。けい子もそれでいいと思ってくれるかどうか。

肖像は百円ショップに向かった。落ち着いた色の小さいフォトフレームを一つ買った。帰り道にスーパーに寄って、豆腐ともやしを買った。部屋に戻り、台所の引き出しから古い写真を探して、けい子が一人で写っているものを見つけた。フォトフレームに収めた。押入れから段ボール箱を一つ出した。その上に白いタオルを畳んで敷いた。フォトフレームを段ボール箱の上に置いた。位牌をその隣に置いた。肖像はそれを少し離れたところから見た。整っているかどうかは分からなかった。しかし位牌はここにあった。けい子の写真もある。肖像はその前に正座した。手を合わせた。目を開けてけい子の写真を見た。写真の中のけい子はどこかの公園で撮ったもので、少し目を細めていた。肖像はいつもこの写真のけい子が何を思っているのかが分からなかった。今日もそれは分からなかった。

月末の朝、肖像は夜勤から帰宅してすぐに携帯電話を確認した。画面に通知が入っていた。昨夜のうちに千佐子から振り込みのメッセージが届いていた。「五万円振り込んだ。ちゃんと受け取って」それだけ書かれていた。肖像は靴を脱ぐ前にその文面を三度読んだ。着替えてから、ポートはコンビニのATMへ向かった。機械の前に立ち、カードを入れ、暗証番号を打ち込んだ。残高照会を選んだ。画面が切り替わった。五万千八百七十二円という数字が表示された。肖像はその数字をしばらく見た。消費者金融の今月分の最低支払い額、二万八千円。電気代の引き落とし失敗分の支払い、一万二千円。食費の補充、五千円。残りは一万円ほどになる。計算をしている途中で、画面の中の数字が少し滲んで見えた。肖像は目の前の機械の枠に両手をかけた。涙は出なかった。出そうになったが、出なかった。肖像は目を一度強く閉じた。それから開けて操作を続けた。

消費者金融の支払い窓口で、肖像は二万八千円をカウンターに置いた。担当者が確認して領収書を発行した。「松崎肖像様、今月分のご入金確かに受領いたしました」肖像は領収書を受け取り、折りたたんで胸のポケットに入れた。外に出ると、空が少しだけ明るくなっていた。肖像はそのまま歩いてスーパーへ向かった。鮮魚コーナーの前に立ち、値引きシールのない商品を手に取った。百八十円の卵焼きと二百四十円の豚の生姜焼きだった。半額シールを待たずに定価で買った。それだけのことが肖像の中で何か意味していた。

家に戻り、食材を冷蔵庫に入れた。卵焼きの一切れを段ボール箱の上のけい子の写真の前に置いた。手を合わせた。今朝のことをそのまま頭の中で話すように伝えた。千佐子が五万円を振り込んでくれた。消費者金融に月の支払いを済ませた。電気代も近いうちに払う。食事も買った。しばらくはどうにか、なる。肖像は台所に行ってお茶を入れた。今日は新しいティーバッグを使った。薄くなかった。椅子に座ってお茶を飲んだ。頭の中が珍しく静かだった。その時、玄関の郵便受けに何かが落ちる音がした。肖像はコップを置いて玄関へ向かった。白い封筒が一通入っていた。差出人を見た。川口市住宅管理課と書いてあった。

肖像は封筒を持って部屋に戻り、テーブルの前に立ったままで開けた。中には二枚の紙が入っていた。一枚目は「通知書」と書かれた公文書だった。この団地は、建物の老朽化と市の都市再開発計画により来年度末を持って解体される予定である。現在の居住者は退去期限である一年六か月後までに自ら先を確保した上で退去していただく必要がある。退去の際には市の補助金制度を利用できる場合があるため、詳細は住宅管理課の窓口までお問い合わせください。肖像は通知書を裏返しにしてテーブルの上に伏せた。お茶を飲んだ。冷めていた。冷めたお茶をそれでも飲み干した。一年六か月。その言葉を頭の中で転がした。一年六か月後にこの部屋を出なければならない。次の住まいを自分で探さなければならない。肖像は自分の状況を静かに確認した。六十八歳。収入は年金と夜勤の合算で月に約十五万円。消費者金融への返済が続いている。信用情報は傷ついている可能性がある。保証人を立てられるような人間的余裕のある知人は今の肖像にはいない。日本で高齢の単身者が民間の賃貸物件を借りようとする時、何が起きるかを肖像は知っていた。不動産屋の窓口に座って年齢と収入と保証人の有無を伝えると、担当者の顔が少しだけ変わる。物件の紹介が極端に少なくなる。あるいは紹介自体を断られることもある。

肖像は窓の外を見た。団地の敷地内の通路に猫が一匹いた。茶色と白の斑模様の猫で、通路の端をゆっくり歩いていた。どこかへ向かっているようにも、ただ歩いているだけのようにも見えた。猫は駐輪場の影に消えた。肖像はお茶を一口飲んだ。今夜も夜勤がある。九時四十五分に出れば間に合う。その前に少し横になろうと思った。眠れなくても横になるだけで体は少し回復する。それは経験で知っていた。通知書をテーブルの上の書類の束の一番下に挟んだ。押入れから薄い毛布を出して畳の上に敷いた。横になった。天井を見た。一年六か月後のことを考えようとしてやめた。今考えてどうにかなることではなかった。今できることをやって、今夜の夜勤をこなして、明日もどうにかやっていく。その繰り返しの先に一年六か月後があって、その時にまた考える。

夕方に目が覚めた。時計を見ると午後六時過ぎだった。起き上がり、顔を洗い、着替えた。夜勤の準備をした。台所に立って冷蔵庫から今朝買った豚の生姜焼きを出した。電子レンジで温めた。テーブルに座って食べた。肖像は普通の速さで食べた。急がなかった。玄関で靴を履いた。踵の部分がまた足に当たった。いつかこの靴を買い換えなければならない。しかしそれはまだ先のことだ。ドアを開ける前に振り返って、段ボール箱の上の小さな仏壇を見た。けい子の写真と位牌が並んでいた。朝に供えた卵焼きはそのままになっていた。今夜戻ったら取り替えようと思った。

肖像はドアを開けた。廊下に出ると、夜の空気が待っていた。六月の湿った夜の空気だった。肖像はそれを一度深く吸った。階段を降りながら手すりの錆びた感触が手のひらに伝わってきた。一年も使ってきた手すりで、握るたびに同じ感触があった。一階に降りて団地の敷地を出た。夜の通りに街灯が点々と続いていた。肖像はその光の下を歩き始めた。肩の痛みはまだ少し残っていた。電話代の支払いをしなければならないと歩きながら思った。来週窓口に行けば再開できるはずだった。それが済めば千佐子からの電話が受けられるようになる。高架へ向かう路地に入ると、周囲が暗くなった。自転車預かり所のある場所まであと五分ほどの距離だった。歩きながら肖像は今日届いた通知書のことを考えた。一年六か月後にこの団地を出なければならない。次の住まいをどうするか。答えは頭の中に出るものではなかった。しかし考えないわけにはいかなかった。一度区役所に戻って住宅相談の窓口を探すことはできる。市の補助制度の詳細を聞くことはできる。それが実際に使えるものかどうかは言ってみなければ分からない。言ってみなければ分からないことは、行くしかない。その程度のことだった。その程度のことを一つずつやっていく。他に方法がなかった。

高架が見えてきた。コンクリートの柱の列と、その間に並んだ自転車の屋根が夜の光の中に浮かんでいた。詰所の電球がついていた。肖像は歩を変えなかった。いつもの速さでいつもの道を歩いた。詰所のドアを開ける前に、肖像は一度だけ空を見上げた。高架橋に遮られて空の見える範囲は狭かった。それでも雲の切れ目から星が一つ見えた。肖像はドアを開けた。いつもと同じ匂いがした。金属と油と夜の空気が混ざった匂いだった。前の担当者が立ち上がり、「お疲れ様です」と言った。肖像は「お疲れ様です」と返した。記録ノートと鍵の束を受け取った。引き継ぎの内容を聞いた。特に問題はなかった。前の担当者が詰所を出ていき、肖像は椅子に座った。外から川口市内の夜の音が聞こえた。肖像は記録ノートを開き、今夜の日付と時刻を書いた。ボールペンが紙の上を走る音が静かな詰所の中に聞こえた。今夜もこうして時間が流れていく。一か月が過ぎ、半年が過ぎ、一年六か月が過ぎる。その間に何かが変わるかもしれない。何も変わらないかもしれない。変わることを期待するよりも、変わらないことに備えて動いていく方が肖像には合っていた。ただ生きていくということが、これほど具体的な作業の積み重ねであることを肖像は今になってはっきりと知っていた。肖像は水筒に入れてきた麦茶を一口飲んだ。今夜の川口市は、雨が降らないようだった。

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