新婚初夜の夜、夫が「元カノが死にたいって言ってる」と家を飛び出した。制止する私を振り切り、「籍を入れた以上、妻はマリンだけだ」と言い残して。彼は知らなかった——私が婚姻届を出していないことを。翌朝、震える声で夫から電話が鳴る。「マリン、どこにいるんだ?あれ、何なんだよ」。寝室に並べられた写真を見たようだ。私は静かに告げた。「私はあなたのこと、もう好きでも何でもない」。彼が選んだその瞬間、すべ…

新婚初夜の夜、夫が「元カノが死にたいって言ってる」と家を飛び出した。制止する私を振り切り、「籍を入れた以上、妻はマリンだけだ」と言い残して。彼は知らなかった——私が婚姻届を出していないことを。翌朝、震える声で夫から電話が鳴る。「マリン、どこにいるんだ?あれ、何なんだよ」。寝室に並べられた写真を見たようだ。私は静かに告げた。「私はあなたのこと、もう好きでも何でもない」。彼が選んだその瞬間、すべ...

「千里が結婚して落ち込んでるって、俺が慰めに行かないと」

私は思わず耳を疑った。新婚初夜に、元彼女に会いに行く夫なんてどこにいるのか。

「はるとに会えないなら死ぬって千里が言ってるんだ。彼女は相当参ってる。今すぐ向かわないといけない」

私の必死の制止を振り切り、彼は玄関へと向かう。

「行ってらっしゃい。さようなら」

彼が家を出たのを確認して、私は小さくつぶやいた。はるとのやつ、きっとこの決断を後悔するに違いない。

そして翌朝、私の元に彼から電話がかかってきた。

「マリン、どこにいるんだ? お前、あれ、何なんだよ」

動揺しているのか、はるとの声は震えている。彼の反応からして、おそらく寝室に足を踏み入れたのだろう。はるとのやつ、私が泣きながら帰りを待っていると思っていたはずだ。

「私はあなたのこと、もう好きでも何でもない。二度とその家には帰らないから」

宣言した瞬間、電話の向こうではるとが息を飲む音が聞こえた。そろそろ彼に事実を告げる時が来たようだ。

私はマリン、三十歳。現在はとある調剤薬局で薬剤師として働いている。先日、一つ下の彼氏、北原はるとにプロポーズされたばかりだ。彼とは二年前、友人の紹介で知り合った。

「マリンさんの地元もあの辺りなんですか? それじゃあ、昔あったスーパーとか覚えてます?」

話していくうちに分かったのだが、私たちはどうやら同じ小学校に通っていたらしい。同郷だと知るや、はるとの顔は一気にほころんだ。

「俺、中学受験したから小学校の友達とはほとんど連絡を取ってないんです。だから昔の話ができる相手がいなくて」
「私も思い出を語れて嬉しいです。すごく懐かしい」

初対面だったものの、すぐさま意気投合した私たち。はるとに誘われ、後日二人で食事にも出かけた。出会ってまだ日が浅いのに、あっという間に距離が縮まっていく。不思議と彼とは話が弾んだ。

「俺、思い出したんですけど、マリンさんって小学生の時、何か作文で賞を取りました?」
「言われてみれば、そうだったかも」
「やっぱり俺、聞き覚えがあったんです。昔から真面目で成績優秀だったんでしょうね」

少し照れたが、自然と頬が緩む。私は優しくて真面目な彼に徐々に惹かれていった。はるとも私を気に入ってくれていたらしく、出会いから半年後、彼に告白され交際を開始した。

「今度の休み、二人でどこか出かけようよ。マリンは行きたいところある? どこでも連れて行くよ」

はるとのやつは理想を絵に描いたような完璧な恋人だった。付き合い出してからも優しく、いつだって私を気遣ってくれる。ただ、彼は収入面において劣等感を抱いていた。

「俺はマリンほど稼ぎがないからごめんね。毎回割り勘で」

外食の際、私が財布を出すと、はるとのやつは申し訳なさそうな顔をする。彼は女性にお金を出させることに罪悪感があるようだった。はるとのやつはとある文具メーカーの営業マンとして働いている。しかし成績はあまり良くなく、収入も平均より少なめだ。だが、私は収入のことはあまり気にしていなかった。隣で仕事を頑張っているなら、それでいい。とはいえ、彼のプライドを傷つけないよう、時には私が先に支払い、店を出てからお金を渡すこともあった。

そんな中、私は兄に交際している人がいると報告する。

「今度お兄ちゃんにもはるとに会ってみて欲しくて」
「そうか。おめでとう。是非会いたいよ」
「なんだか緊張するな」

私はすでに両親を亡くしており、家族は兄だけ。離れて暮らしているものの、定期的に連絡を取り合う仲だ。そんな兄にはるとを紹介したかった。はるとも私の事情を知ると、兄に会いたがる。

「ちゃんとご挨拶しないといけないね。俺、マリンと同棲できたらなんて思ってたから」
「嬉しい。私もちょうど考えていたの」

そう考え、私ははるとと共に兄の元を訪れた。最初は私たちのことを笑顔で歓迎していた兄だが、はるとと話していくうちに徐々に表情を曇らせる。彼の反応に戸惑っていると、翌日、兄から連絡があった。

「昨日は来てくれてありがとう。ただ、その北原君と交際を続けて大丈夫か?」
「何か気になることあった?」

私が気づかなかっただけではるとのやつが知らず知らずのうちに失礼なことを言っていた可能性もある。そう思って尋ねると、兄は訝しげな声を出した。

「彼は優しい人だと思う。だけど調子が良すぎる気がして。俺の言うこと何でもかんでも肯定してただろ。空気を読んでいるのかもしれないが、上だけなんじゃないかなって」

彼の言いたいことも分かる。確かに昨日のはるとのやつは、兄の言葉に毎回コクコクと頷いていた。経験がない釣りを好きだと言ったり、お酒が飲めない体質なのに酒好きの兄を誘ったり。それが本心でないことに気づいたのだろう。

「あんなことをしていたら彼はいつか周囲の人からの信頼を失うかもしれない。北原君は普段もあんな調子なの?」

兄は不安げに呟いた。

「お兄ちゃんが心配する気持ちも分かる。でも、はるとのやつはただ緊張していただけじゃないかな。いつもはそこまで空気を読まないし、彼はただ兄の機嫌を損ねたくなかっただけ」

私ははるとを庇い、彼の気持ちを汲んでほしいと伝えた。

「そうか。マリンがそこまで言うなら分かった。ごめんな。余計な心配をして。どうせ結婚するんだろ。これからも二人仲良くな」

最終的には私たちの交際を認めてくれた兄。プロポーズを受けたことも彼にはすぐ報告している。

「マリン、おめでとう。また今度はると君にも合わせてくれ」
「もちろん。改めて結婚の挨拶に行くよ」

プロポーズ後、私は義両親にも挨拶に伺った。幸い二人ともいい人だったため、ほっと胸を撫で下ろす。当時の私は結婚を目前にして幸せの絶頂にいた。

そんな中、私たちは着々と結婚式の準備を進める。最初の二人で話し合った結果、式は挙げずにフォトウェディングをする予定だった。だが、義両親が式をしてほしいと希望した。

「二人が嫌なら強制はしない。ただ、挙げるなら費用は俺たちが負担する」

彼らにとってはるとのやつはたった一人の大切な息子。そんなはるとの晴れ舞台を見たいと望む義両親の気持ちは理解できた。私だって結婚式が嫌なわけではない。フォトウェディングにすると決めたのは、はるとが収入面で劣等感を抱いている手前、出費を増やしたくなかったからだ。

「父さんたちがお金を出してくれるなら式を挙げようよ。俺もマリンの花嫁姿をみんなに見てもらいたいし」

お金を出さなくていいと言われた瞬間、はるとのやつは俄然乗り気になる。

「私も義両親が喜んでくれるなら是非したい」

こうして私は結婚式を挙げると決めた。

だが、ある時を境にはるとのやつは式の打ち合わせを欠席するようになる。彼は、会場選びまでは一緒に準備してくれていた。それなのに、料理や演出については私に丸投げしたのだ。

「俺、来週どうしても仕事に行かなきゃならなくて。マリンはしっかりしてるし、一人でも打ち合わせできるだろ」
「打ち合わせは前々から決まってた予定じゃない。急遽仕事が入るのは分かるけど、これで何回目?」

欠席の理由は毎回仕事だった。彼の会社は基本的に土日が休みだ。休日出勤は月に一、二度あるくらい。ただ、最近は毎週末家を開けている。どうして急に忙しくなったのか。さすがにおかしい。

「ごめんてば。俺もさ、出たくて出てるわけじゃないんだよ。マリン、分かってくれ」

はるとのやつが頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。仕方ないと分かっていても不満は募るばかり。

そんなある日、義母から電話がかかってくる。式の準備で手伝えることがあるなら力になると話す彼女。私はふと、はるとが打ち合わせに参加してくれないことを相談した。

「忙しいのは分かるんですが、これが毎回私に一任されると困っちゃって」
「マリンさん、ごめんなさい。あなたがしっかりしてるからって、あの子、甘えてるのかも。私からもちょっと注意しておくわ」

すると義母は早速彼に忠告したのだろう。夜帰宅するや、はるとのやつが不満げな顔をした。

「マリン。いくらなんでも母さんに告げ口するなんてひどいよ。俺が仕事だって分かってて文句言ったの?」

彼は仕事だからしょうがないの一点張りで、自分の意見ばかり押し通す。私だってわがままを言いたいわけではない。ただ、突然休日出勤が増えた理由を説明してほしいだけだ。

「はると、打ち合わせがある日だけ仕事が入るでしょ。他の土日は割と家にいる。それってどう考えてもおかしくない? しかも毎回、いきなり仕事が決まるじゃない。打ち合わせがあると分かった途端、仕事が入ったって言い出した時もあったよね」

今まで溜まっていた鬱憤を吐き出すうちに、はるとのやつは言葉に詰まり始めた。目を泳がせ、気まずそうに顔をそらす。私はその様子を見て、彼が何か隠し事をしていると確信した。

「正直に話して。仕事じゃないんでしょ」
「なんでそれを」

半ば勘で言っただけだったが、私の勘は当たっていたらしい。はるとのやつは激しく動揺し、どもり始める。私は呆れながらも事情を話すよう促した。

「ちゃんと話してくれるなら、私だって責めないから」
「あ、ごめん。実は友人と会っていたんだ」

観念したのか、はるとのやつが恐る恐る口を開く。どうやら彼は友人の相談に乗るため、打ち合わせを欠席していたようだ。

「相談って何の?」
「その友人の母親が病気になって、毎日介護してるんだよ。一日つきっきりで、仕事もやめるはめになってさ。だから生活も厳しいみたいで」

はるとの話によると、彼が私にプロポーズした頃、友人から久々に連絡があった。その際、少しでいいからお金を貸して欲しいと頼まれたそうだ。

「俺も金貸してあげたかったんだけど、貯金はあんまりなくて。だから代わりに食事を奢って、話くらいは聞いてやってるんだ」
「そうだったの。はるとにとって大切な友人なのね」
「ああ、なんだかんだ放っておけないやつでさ」

友人のことを思い出しているのか、はるとのやつが優しく微笑む。きっと彼にとって大事な親友なのだろう。そう思うと、私ははるとのことを責められなかった。

「マリン、迷惑かけてごめん。だけどあいつのこと今は無視できない。これからもあいつは困ったら俺に電話するはずだ。だから、その時は……」

はるとの気持ちは分かった。私も友達が悩んでると知れば、その子の元に飛んでいくと思う。じゃあ、と彼は途端に目を輝かせ、表情を明るくする。私が許してくれると思ったようだ。しかし、どんな理由であれ、打ち合わせを毎回ドタキャンするのはいただけない。

「友達に食事を奢るのはいいけど、ほどほどにしてほしい。はるとは今、準備を全部私に押し付けてるのよ」
「それは分かってる。ごめん。そうだよね」
「だから今後はちゃんと打ち合わせに出席してほしい。予定のない休みは友達と会ってくれて構わないから」

それが私なりに出した答えだった。当然、友人があまりにも追い詰められているのなら、打ち合わせよりも相手を優先して欲しいと思う。私もきっと同じことをするはずだ。そう伝えると、はるとのやつは何度も頭を下げた。

「マリン、ありがとう。俺もっとマリンとの時間を優先するから。式の準備も今まで任せてた分、頑張るよ」
「無理はしないでね」
「分かった。やっぱり俺、マリンとの結婚を決めてよかったよ」

目を細めて笑う彼を見て、私は正しい判断をしたと思っていた。それ以来、はるとのやつは打ち合わせに参加しつつ、時折友人の元へと駆けつけていた。

そんなはるとの裏切りを知ったのは、1か月後のことだった。兄から信じられない話を聞いた。

「マリン、大変なんだ。はると君が女の人と歩いてるのを見た」
「え、はるとが女の人と?」

どうやら兄は街中ではるとを見かけたらしい。その際、隣に若い女性がいたという。

「彼女もほぼ同年代だろうな。遠くではっきり分からなかったが、もしかしたら手をつないでいたかもしれない」
「嘘。お兄ちゃんの見間違いじゃない?」

兄が目撃した日、はるとのやつは友人に会いに行っていたはずだ。それなのに、なぜ女性と一緒にいたのか。不審に思い、私は兄に一部始終を伝えた。

「つまりその友人が女性ってことじゃないのか?」
「いや、でも……」

否定しようとした瞬間、はっとする。よく考えれば、はるとのやつは友人の性別を明言していない。私が勝手に男性だと思い込んでいただけだ。はると本人に確認すべきだろう。

「お兄ちゃん、教えてくれてありがとう。はるとに直接聞いてみるね」

私は兄に礼を述べ、電話を切った。そして夕方、仕事から帰宅したはるとに問いかける。

「ねえ、はると。先週末は友達に会いに行ったのよね?」
「ああ、そうだけど。どうしたの?」

質問の意図が分からないのか、彼は首をかしげた。そんなはるとの態度ですら疑わしく感じる。

「その友達って女性? 一緒に街中歩いてた」
「え、なんで?」
「千里って誰?」

あ、と友人の名前をつい零してしまったらしく、彼は慌てて手で口元を隠す。私はその名前に聞き覚えがあった。はるとと交際してすぐの頃、彼は間違えて私のことを千里さんと呼びかけたことがあったのだ。

「千里って誰?」
「いや、なんでもないよ」
「もしかして二股でもかけてる? もう一人の彼女の名前でも口にした?」
「二股なんてしてないよ。今のは元カノの名前なんだ。ごめん」

こちらは冗談半分だったものの、はるとのやつは気まずくなったのか素直に白状した。千里というのは、はるとが私と付き合う前に破局した恋人らしい。

「当然、千里とは昔に別れてる。だから安心して。俺が付き合ってるのはマリンだけだから」

はるとのやつはあの時そう断言していた。だが、今もまだ千里と会っていたなんて。自然と拳に力が入る。

「どういうこと? はると、友人だと偽って元カノと会ってたの?」
「違う。元カノとはいえ、千里はもうただの友達だ。俺は嘘なんてついてない。あくまでも友人の一人として、彼女の相談に乗ってただけで」

はるとのやつは慌てながら弁解する。元カノの千里さんは現在二十六歳。以前聞いていた通り、母親の介護に追われ、無職なのだそう。生活が厳しい上に、一日中母親に寄り添わないといけない。

「千里は今、大変な思いをしてるんだ。そんな彼女からの相談を無下には断れなくて」

はるとのやつはあくまでも千里は友人だと言いはる。だが、昔二人が交際していたのは事実だ。婚約者に隠れてこそこそ元カノと会うなんて許せるはずがない。

「はると、私より千里さんの方が大事ってことね。そんなに彼女の力になりたいなら、別れましょう。千里さんと結婚すればいいじゃない」

私は義両親にも今回のことを報告した上で、婚約破棄すると決めた。しかし、はるとのやつは顔を真っ赤にして拒む。

「待ってくれ。俺が本当に好きなのはマリンなんだ。千里とはただ話してただけで、浮気じゃないんだよ。信じてくれ」
「そんなの信用できるわけないでしょ。浮気じゃないなら、元カノに会いに行ってるって言えばよかったじゃない。ずっと黙ってたってことは、彼女に会ってることを私にバレたくなかったんでしょ」
「いや、友人が千里だってことを知ったらマリンが怒ると思って言えなかったんだ。ごめん。ちゃんと伝えるべきだったよな」

彼は深々と頭を下げ、謝罪を繰り返した。そして、もう二度と千里には会わないと告げる。

「マリンが嫌なら千里とは縁を切るよ。彼女のことは心配だけど、一番大切なのはマリンだ。だからお願い。婚約破棄なんて言わないで」

はるとの目には涙が浮かんでいた。彼なりに反省しているようだ。

「本当にもう千里さんには会わない?」
「もちろん。これからは千里に呼ばれても行かないから」
「分かった。じゃあ、今この場で彼女に連絡してくれる?」
「え?」

私の言葉にはるとのやつが目を丸くする。まさかの提案に驚いているのだろう。

「千里さんに電話するの? なんで?」
「直接本人に、もう会わないって伝えてもらわないと気が済まないの。それとも、今後も私に隠れて会い続けるつもり?」
「違う。俺は本気で反省してるんだ。マリンが望むならすぐに千里に連絡する」

はるとのやつは急いでスマホを手に取ると、千里に電話をかけた。

「ごめん、急に。実は……」

彼は事情を伝え、もう会えないと宣言した。千里さんは反論していたようだが、それを無視してはるとのやつが電話を切る。

「千里にちゃんと伝えたよ。これで俺のこと信じてくれる?」
「ひとまず今回のことは水に流すわ。でも、次また彼女に会ってたら本当に婚約破棄するからね」
「もちろん。二度と会わない。俺、これからはマリンを大切にする」

彼は私をまっすぐ見つめ、何度も首を縦に振った。疑いが晴れたわけではないものの、私ははるとを信じることにした。報告してくれた兄にもその事実を伝える。

「そうか。マリンが決めたなら反対はしない。でも俺はまだ心配だ。はると君は本当に約束を守るのか?」

兄は不安なら結婚を待った方がいいのではないかと告げた。彼の言う通りだろう。ただ、はるとのやつは困っている人を放っておけない優しい性格だ。彼のことだから、今回の相手が元カノでなくてもきっと手を差し伸べていたに違いない。

「はるとのやつはお人好しだから、自然と体が動いたんだと思う。それ自体は悪いことじゃないから、チャンスを上げることにしたんだ」
「そうか。分かった。もしまた何かあったら相談してくれ。俺も力になるよ」
「ありがとう」

未だに不安ではあったけれど、はるとも反省している。こんなことは二度と起きないと信じていた。

そして二か月後、迎えた結婚式。兄はウェディングドレス姿の私を見て目を潤ませた。

「マリン、おめでとう。とっても綺麗だよ。父さんも母さんも天国で喜んでるんじゃないかな」
「お兄ちゃん、ありがとう」

義両親は式の最中に大号泣。はるとのやつはそんな二人を見て恥ずかしそうに顔を赤くしていた。親族や友人、会社の同僚らが参列してくれて、とても幸せな一時だった。

だが、参列者の中に見慣れない女性がいることに気づく。彼女は新郎側の参列者のようで、目を細めてはるとを見つめていた。職場の同僚かと思ったが、それにしては親しげな様子だ。私はこっそり兄に確認を取った。

「お兄ちゃん、前に街中で見たはるとの元カノの顔って覚えてる? それってあの人?」

はるとや女性にバレないよう視線を送ると、兄は目を見開いた。

「多分そうだ。でもなんでここに? はると君はもう元カノとは会わないって約束したんだろ」
「そのはずなんだけど」

あろうことか、はるとのやつは結婚式に千里を呼んでいた。思わず彼を問い詰めたくなったが、大勢の参列者がここにいる。さすがに式の最中に彼らの前で喧嘩するわけにはいかない。私は友人と話しながら、それとなくはるとと千里を見張っていた。

すると千里は平然とはるとに声をかける。私は気づいてないふりをしつつ、耳を済ませた。

「はると、結婚おめでとう。お祝いに来たよ」
「お前、なんでここに……」
はるとが顔をこわばらせるが、千里はお構いなしに話し続けた。
「呼んだのはそっちでしょ。わざわざ来てあげたんだから、感謝してよ」
「あ、ごめん。ありがとう。でも、俺、伝えたよな。今日は来ないでって」
「奥さんが私の出席を嫌がる気持ちも分かるよ。そりゃ不安になるよね。私の方が若くて美人だから」

けらけらと笑う彼女の声が聞こえてくる。はるとのやつは額に汗をかき、慌てているようだった。千里と一緒にいるところを私に見られたくないのだろう。さりげなく彼女との会話を終わらせ、はるとのやつは他の友人の元へと移動する。千里はそんな彼に不満げな顔をしたかと思えば、次は私の元へとやってきた。

「マリンさん、おめでとうございます」
「あの、あなたは……」

「ほら、友人の千里ですよ。はるとから話は聞いてますよね」

彼女は悪びれることなく、にやにやと笑う。自分のせいではるとが浮気を疑われたことを知っているはずだ。それなのに彼女は一切反省していなかった。

「はるとが言ってましたよ。私のために相談に乗ってあげたいけど、奥さんに怒られちゃうって。マリンさんって心が狭いんですね」

「よく来れたわね。はるとが電話したでしょ。あなたとはもう会わないって」
「あの時、すでにはるとから結婚式に招待されてたんです。出席に丸してないと、お二人に迷惑かけちゃうじゃないですか」

はるとが相談に乗っている相手が千里だと分かったのは、招待状を送った後。彼は当時、千里とも式に招待していたようだ。元カノを結婚式に呼ぶはるともおかしいが、平気でやってくる彼女もどうかしている。

「私、マリンさんにずっと会いたかったんです。はるとが結婚を決めた女性ってどんな人かなって気になって。でも、大したことないですね」

千里は私をじろじろと見たかと思えば、ぷっと吹き出した。

「はるとってば、結婚を急いでたのかな? もっといい人いただろうに」
「そんなことをわざわざ言いに来たの?」
「怒らないでくださいよ。冗談ですから。はるとと結婚できてよかったですね。彼、何かあったら、いつでもどこからでも駆けつけてくれる」

彼女は声を高くし、得意げに語る。私を見下していることなど一目瞭然だった。

「マリンさんもはるとは優しい人だと思いますか?」
「ええ、もちろん」
「お人好しすぎるけどね。でも勘違いしないでください。彼の一番は私。はるとは私の味方なんだから」

千里と言い終えると、にんまりと笑ってその場を離れた。牽制でもしに来たのだろう。その後も彼女は参列し続けた。私は帰宅後、すぐさまはるとを問い詰めた。

「はると、どういうこと? あなた約束破ったわね。なんで式に千里さんが出席してるの?」
「マリン、落ち着いてくれ。俺も式には来るなって千里に伝えたんだよ。だけど、出席しちゃって」
「そもそも招待してる時点でおかしいでしょ。いくらはるとが友人だと言い張っても、実際元カノなんだから」
「千里は元カノだけど、俺にとっては友人の一人みたいな感覚で……」

彼は俯いて、ごにょごにょと言い訳を並べる。はっきり聞き取れないが、どうやら約束を破ったわけではないと伝えたいようだ。

「今日まで一度も千里に会ってない。だからこそ、彼女がここに来るのを止められなかったんだ。ごめん。許してほしい。これからは千里とも会わないから」
「彼女を招待してしまったこと、私に言えばよかったんじゃないの? なんで教えてくれなかったのよ?」
「マリンのことだから、また怒ると思って……」

彼は私から目をそらし、気まずそうな顔をする。子供じみた理由を聞き、私は思わず頭を抱えた。すると、こちらが呆れていることに気づいたのだろう。

「本当にごめん。これからはちゃんと正直に言うよ。二度とマリンに隠し事しない。だから…父さんたちには黙っててくれないか?」

はるとのやつは慌てふためきながら私に許しを乞うた。元カノを結婚式に招待したなんて知れば、義両親は激怒するに違いない。二人ははるとと違って常識人だ。

「分かった。とりあえずお父さんたちには話さない。私たちの夫婦喧嘩に二人を巻き込むのも違うしね」
「マリン、ありがとう。マリンなら分かってくれると思ってた」

そう言うと、彼は私の手を力強く握りしめた。

「俺、これからは夫としてマリンを絶対に幸せにする。だから安心して。二度と裏切ったりしないから」

はるとのやつは言葉巧みに私を言いくるめようとした。私がまだ彼に惚れ込んでいるという認識なのだろう。ただ、こちらは目を細めて微笑む彼を見ても何も感じない。義両親に報告しないと決めたのは、あくまでも私なりに理由があってのことだ。彼のためではない。

しかし、私は本音を伝えず、しばらくの間彼を泳がせていた。平日は仕事に行き、休日は家でのんびりと過ごす。その様子だけを見ると、千里とは会っていないように思える。だが、私はある事実を耳にしていたからこそ、彼を疑い続けていた。

式から一か月半後、私たちはとうとう婚姻届を提出することとなった。実ははるとの希望で、クリスマスに出すと前々から決めていたのだ。

「俺、記念日とか忘れちゃいそうだからさ、何かイベントごとに合わせて入籍したいんだ」
「でも私もはるとも、この前誕生日が終わったばかりだから、それを待ってたら入籍が一年後になっちゃうわよ」
「じゃあクリスマスにしようよ。ロマンチックだし」

そこで彼の提案を受け、私たちは十二月二十五日に婚姻届を提出することになった。約束していたので、お互いあらかじめ休みを取っていた。しかし、当日の朝、はるとのやつがバタバタと支度を始める。

「こんな早くに起きてどうしたの? 今日休みよね」
「マリン、ごめん。俺、ちょっと仕事に出なくちゃいけない。婚姻届、出しておいてくれる?」

彼は急に仕事が入ったらしい。申し訳なさそうに謝るはるとを見て、妙な違和感を覚えた。かつての打ち合わせをドタキャンしていた時と同じような雰囲気だったのだ。

「もしかしてだけど、今から千里さんのところに行くわけじゃないわよね」
「彼女とは結婚式以来会ってない。これから先も会わないって約束したじゃないか」
「そうよね」

はるとのやつはあくまでも仕事だと言い張り、そのまま家を出ていく。仕方がないので、婚姻届は私一人で提出することとなった。

すると、その日の夜。

「マリン、今日はごめんな。ほら、お詫びのケーキ」

はるとのやつは小さなケーキの箱を手に帰宅した。仕事帰りにお店に立ち寄って購入したという。彼もさすがに罪悪感があったらしい。

「機嫌直してくれよな」
「ありがとう。夕食後に食べましょうか」

私はケーキの箱を冷蔵庫に入れ、夕食のおかずを温め直した。すると食事中、はるとのスマホが鳴る。彼は慌ててポケットに手を入れ、画面を確認した。

「ごめん、電話だ」

そう言うと立ち上がり、別室で通話を始める。五分ほど経って戻ってくると、彼は急にアウターを羽織り始めた。

「まだ夕食も食べ終わってないのに、どこに行くの?」
「あ、ちょっと仕事」
「嘘をつかないで。電話の相手、千里さんでしょ」

実は先ほど、はるとが電話に出る直前、スマホの画面が一瞬見えた。そこに表示されていた名前は千里だった。彼らのやり取りは聞こえなかったものの、電話を終えてすぐ家を出るということは、今から千里の元に行くつもりなのだろう。

「はると、約束を破るつもり? 千里さんには会わないって言ってたわよね。今日は新婚初夜よ。そんな日に元カノに会いに行く夫なんてどこにいるのか」

私は改めてはるとに行き先を尋ねた。

「正直に言って。あなた、今から千里さんに会いに行くの?」
「ああ、そうだよ」

もう隠し通せないと悟ったのだろう。彼は事実を認め、ため息をついた。

「千里が結婚して落ち込んでるって、俺が慰めに行かないと」
「慰め? なんで、そもそもどうしてはるとが結婚して、千里さんが落ち込むのよ。二人はちゃんと別れたはずじゃない」
「会えなかった間、千里は悩みを抱えたまま、誰にも頼れなかったんだ。そこで限界を迎えたんだろうな。電話口で泣いてたよ。はるとに会いたいって」
「千里さんだって友達はいるでしょ。いくら辛い思いをしてるとはいえ、はるとが行く必要はないんじゃない? はるとのやつは今日から既婚者だ。そんな彼に頼る千里さんもおかしいし、駆けつけようとするあなたも何を考えてるのか」

私は正論を言ったつもりだった。しかし、はるとのやつは表情を暗くする。

「マリンは千里が死んでもいいのか?」
「なんで彼女が死ぬのよ」
「はるとに会えないなら死ぬって千里が言ってるんだ。彼女は相当参ってる。今すぐ向かわないといけない」

「じゃあ、別れるってこと? 私たち、千里さんに会ったら婚約破棄すると約束したはずだ」

私ははるとに決断を迫った。だが、彼は首を横に振る。

「何言ってるんだよ。俺たちもう結婚したじゃないか。こんなことで離婚なんてしないよ。あくまでも様子を見に行くだけだし」
「本気なの? はると、私よりも千里さんを優先するってことなのね」
「ごめんてば。俺にとって一番大切なのはマリンだよ。でも千里を見殺しになんてできない。今、彼女は俺を必要としてるんだから」

私がいくら止めても、はるとの考えは変わらないらしい。彼はそのまま玄関へと向かおうとした。リビングを出る直前、振り返る。

「これだけは分かってくれ。籍を入れた以上、俺の妻はマリンだけだ。マリンを裏切ることは絶対にしない。悲しい思いをさせてごめんな。帰ってきたら一緒にケーキ食べよう。だから待っててくれ。愛してるよ、マリン」

はるとのやつは私が彼を愛しているがゆえに、引き止められたと思っている。だから甘い言葉を吐けば許されるとでも考えたようだ。勘違いも甚だしい。私はとっくに彼のことを愛していないというのに。

「行ってらっしゃい。さようなら」

彼が家を出たのを確認して、私は小さくつぶやいた。はるとのやつはきっとこの決断を後悔するに違いない。

すると、翌朝、私の元にはるとから電話がかかってくる。今頃自宅に戻ってきたのだろうか。私はしぶしぶながらスマホを手に取った。

「もしもし。おはよう。どうしたの?」
「マリン、どこにいるんだ? お前、あれ、何なんだよ」

動揺しているのか、はるとの声は震えている。彼の反応からして、おそらく寝室に入ったのだろう。

「あれ、見てくれた? よく撮れてたでしょ?」
「黙れ。早く帰ってこい。あんなことしやがって。一旦冷静になれよ」
「千里を選んだことが、そんなに気に入らないのか?」

冷静になるべきはむしろはるとの方だ。未だに彼は私に愛されていると誤解したまま、私が泣きながら帰りを待っているとでも思っていたに違いない。その間違いをまず訂正した方がいいだろう。

「私はあなたのこと、もう好きでも何でもない。二度とその家には帰らないから」

宣言した瞬間、はるとが息を飲む音が聞こえた。彼に事実を告げる時が来たようだ。

「はると、ずっと千里さんと浮気してたんでしょ」
「それは……」

先ほどまでの勢いは消え去り、はるとが言葉をつまらせる。寝室に散らばった写真を見て、もう言い訳などできないと悟ったのだろう。

「証拠はあるんだから、否定しても無駄よ」

実は昨日、はるとが千里の元へ向かった後、私は荷物を持って家を出た。ただし、出発する直前、寝室のベッドの上に彼ら二人の浮気現場を撮影した写真を並べておいたのだ。帰宅してすぐ、私を探しに寝室へ足を踏み入れたはると。その際に写真を目にしたようだ。

「マリン、俺のことを疑ってたのか。調査してたってことだよな」

電話の向こうではるとが悔しそうに唸る。疑われて不快なのだろうが、怪しい行動を取ったのは彼らの方だ。千里と浮気なんてしていなければ、私だってはるとを信じていた。

「探偵事務所に依頼して、あなたと千里さんのことを調べてもらったの。はるとってば、私に隠し事ばかりするでしょ。だからちゃんと調査しないとすっきりしなくて」
「千里のことは隠してたわけじゃない。俺はただマリンを悲しませたくなかっただけで」
「浮気しておいてよく言えるわね。あなたのせいで私がどれだけ苦しんだか」

私が疑惑を深めたきっかけは、結婚式での千里との発言だ。参列した事自体おかしいと思ったが、彼女は式の最中も私を見下してマウントを取るような発言を繰り返した。千里がこちらを敵視している以上、二人はただの友人関係ではない。私はそう確信し、事実を知るために動いた。

そして、調査の結果、二人はやはり浮気していた。はるとのやつは私との約束を破り、何度も千里と会っていたそうだ。ベッドに散らばる写真を見れば、二人が関係を持っていたことは明白だろう。

「食事に行ったり、ホテルで休憩したり。二人はしょっちゅう会ってたみたいね。仕事が入ってるだなんて、真っ赤な嘘だったじゃない」
「千里とは悩みを相談し合う仲なんだ。だから俺は彼女の力になりたくて、隠れて会ってたことは事実だけど、浮気じゃない。俺はあくまでも千里の相談に乗るために時間を作ってただけなんだ」
「わざわざホテルに入って相談? 冗談はほどほどにして。私のこと、どこまで馬鹿にしてるんだか」

何より許せないのは、私が仕事の日、はるとのやつが千里を自宅にまで連れ込んでいたことだ。

「この家で二人は一体何をしてたの? 千里さんは、私が住んでると知った上で、平然と入り浸ってたのよね」
「千里は悪くない。彼女を家に呼んだのは俺だ。重い話だから、家でゆっくり聞いた方がいいと思って」
「そう。私の気持ちなんて、はるとには一切考えてないのね。やっぱりあなたは千里さんが大事なんでしょ? それがよく分かったわ」

浮気相手を招き入れた家に、今後住み続けるなんて無理だ。私は探偵事務所で結果を知らされた後、すぐに家を出ると決めた。

「そうか。マリンは全部知ってたんだな」

覇気のない声で小さくつぶやくはると。彼は自分の浮気を認めるものの、謝罪はしなかった。

「俺はマリンを裏切りたかったわけじゃない。ただ千里に泣きつかれて、断れなかっただけなんだ。彼女がどれだけ大変な目に遭ってるか、話しただろう?」
「言い訳はもうやめて。どんな理由であれ、浮気は事実でしょ。千里さんの力になりたかったなら、先に私と別れるべきだったのよ」
「俺にとって大切なのはマリンで、千里はその妹みたいな感じなんだ。だから彼女が好きなわけじゃない」
「そんなのどうだっていいわ。とにかく、はるととは別れる。家にももう戻る気はない。分かってくれるかしら?」

謝るどころか弁解を続けるはるとに、呆れ果ててため息をついた。だが、彼はまだ私との関係を修復できると考えているらしい。

「マリンがそこまでショックを受けてるとは思わなかった。俺のこと、本当に大好きなんだな。だって浮気されて落ち込んでるんだろ? 自分から別れを切り出すほどマリンが悲しんでるとは思わなかった。だけどさ、俺たちはもう結婚したんだ。安心してよ。マリンは何があろうと俺の妻なんだから」

はるとの言っていることが理解できず、あっけに取られる。彼は、私が気を引くために離婚を突きつけていると思ったようだ。

「離婚なんてありえないよ。ちゃんと二人で話し合おう」
「何を話し合うの? はると、自分のしたこと分かってる?」
「電話じゃ俺の気持ち伝わらないよね。ほら、帰ってきてよ。今どこにいるの? 俺がそっちに行こうか」

なんとしてでも私に直接会おうとする。けれど、こちらとしては彼の顔すら見たくない。

「私ははるとと別れる。その答えは変わらない。会う必要なんてもうないのよ。今日から私たちは赤の他人だし」
「何言ってるんだ? 俺たち夫婦なんだ。そう簡単に赤の他人には戻れないって」
「どうして? 婚約者でなくなるだけなのに」
「マリン、忘れたのか? 俺たち、昨日入籍したんだろ」

はるとのやつは私たちが昨日籍を入れたと信じ込んでいた。だからこそ、話し合いでどうにかできると思ったのだろう。私はそんな彼に本当のことを伝えた。

「悪いけど、入籍してないわよ。私、婚姻届は出してないし」
「は? 昨日マリンが役所に行ったじゃないか。そこで婚姻届を提出したんじゃないのか?」
「いえ、そもそも役所にも行ってない。二人で書いた婚姻届なら、昨日破って捨てたわ」
「嘘だろ? なんで?」

衝撃的な事実に言葉が出てこないのか、はるとが絶句する。彼の浮気が発覚したのは先週のことだった。当時すでにクリスマスが迫っており、はるとを追求する時間もない。そこで私はとりあえず、婚姻届を出すふりをしようと考えた。ただ、あいにくはるとのやつは私に一人で役所に行くよう告げる。ちょうど良かったわ。

「マリン、俺に嘘をついたのか? 昨日婚姻届を出すために休みを取ったって言ってたじゃないか」
「休みは取ってたわよ。でも、それは他にやることがあったからってだけ。そもそもはるとの方こそ嘘をついたじゃない。あなた、昨日は会社に行ってないわよね」

問いかけた途端、彼は声を上ずらせた。

「どうしたんだよ。俺は嘘なんてついてないってば」
「昨日は仕事でごまかしたって無駄よ。千里さんに会いに行ってたわよね」
「いや、それは……」

はるとのやつはうまい言い訳が思いつかないのだろう。そのまま黙り込んでしまう。昨日、急に仕事が入ったと言い出した。私は彼が千里に会いに行くと確信し、こっそり後を追った。はるとのやつは会社と逆方向に向かい、千里の家を訪ねた。そこから二人でホテルに入っていった。そうよね。

「否定も肯定もできないからか、はるとのやつは向こうで沈黙を続けている。私はスマホで彼に一枚の画像を送った。すると、はるとが「まっ、抜け」という声を出す。

「これは昨日の写真よ。二人でホテルに入っていく姿が、ばっちり映ってるわ。これで事実を認めてくれるかしら?」

昨日、二人は私が尾行していることに気づかず、平然とホテルに向かった。その決定的な場面を写真に収めたのだ。はるとのやつは観念したのか、事実を認める。

「ごめん。千里がどうしても会いたいって言うから、仕方なく行ったんだ」
「でも、結婚したらもう二度と会わないって約束をしたんじゃなかったの? この先、彼女とは会わせないわよ。昨日の夜も彼女に会いに行ったじゃない。はると、婚姻届を提出したと思ってたんでしょ。つまり、結婚してるのに千里さんに会ってるってことよね」
「昨日が最後って約束だったんだ。千里が本当に辛そうだったから……」

彼はくぐもった声でぼそぼそと話す。ただ、はるとのやつはどうせ約束なんて守らない。私にバレなければ、今後も千里に会い続けたに決まっている。はるとのことを理解しているからこそ、婚姻届を出さなくてよかった。

「はると、知らないと思うけど、私は昨日、あなたたちがホテルに入ったところを撮影した後、一日中荷物をまとめてたの。すぐにでも家を出られるようにね」
「え、そんな……」

驚きを隠せないのか、彼の声が引きつる。

「昨日私が休みを取ってたのは、あくまでも荷造りのためよ。はるとのやつはどうせ千里に会いに行くから、家で一人になれるはずだと思ったの。実際、会いに行ったんだから、本当に分かりやすい人ね」
「そりゃ、あなたは気づかないわよね。千里さんと別れて帰宅した後、またすぐ彼女に会いに行ったんだから。荷物をまとめたダンボールが寝室に置いてあったけど、気づきもしなかったでしょ?」

はるとのやつは昨夜、夕食を食べ終わる前に家を出た。それゆえ、家で過ごした時間はおよそ二十分くらいだっただろうか。私の荷物がリビングから減ったことにも気づいてなかったらしい。

「なんで教えてくれなかったの? マリンの気持ちを知ってたら、俺だって千里のところには行かなかった」
「昨日、はるとが千里さんの元に行かなかったとしても、私は別れを選んでたわ。むしろバレなくてよかったとすら思うわ。そのおかげでスムーズに荷物を運び出せたもの」
「少しでも私のことを怪しんでいたら、はるとのやつは急いで帰ってきた可能性がある。彼が呑気で助かったわ」

そう伝えると、はるとが切羽詰まったような声を出す。

「マリン、本気で俺と別れるつもりなのか? 俺が結婚したいと思ったのはマリンだけなんだよ。千里はただ頼られて、断れなかっただけなんだって」
「じゃあ、千里さんに結婚を迫られたらどうするの? それでもはるとのやつは断れないんでしょ?」

はるとのやつはとっさに否定できない。その様子からして、大方私の予想は当たっているのだろう。

「はるとのやつは昨日、一人ではるとのほぼ一日中、千里さんと一緒にいた。それだけ彼女のことが好きなんでしょ? じゃあもう千里さんと結婚すればいいわ」

はるとの優しいところが素敵だと思ったのは事実だ。しかし、彼はお人好しがゆえに千里を優先し、私を蔑ろにした。そんなはるとと夫婦になっても、幸せにはなれない。

「結婚の話はなしにしてください。私はもうはるとと別れます。そして、お二人には慰謝料を請求するので」
「慰謝料? ちょっと待てよ。俺たち、結婚してなかったんだろ? じゃあ慰謝料なんて」
「婚約していたんだから、慰謝料は支払わなくちゃ。はるとは私を裏切り、傷つけたの。その罪、ちゃんと償ってちょうだい」

電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。はるとのやつは黙り込んでしまう。ここまで大事になると思っていなかったのだろう。

「あのさ、この家の家賃って、マリンが支払ってくれるのか?」
「なんで? 私はもうその家には戻らないって言ったはずよ。はるとが住み続けるなら、あなたが家賃を支払うべきでしょ」
「嘘だろ? 俺、そんな金ないって。せめて来月の生活費だけでも渡してくれないか?」

恐る恐るといった様子で頼み込んでくる。彼は相当お金に困っているらしい。元々収入は私の方が多かったため、生活費の大半はこちらが出していた。今後はそれを全額、はるとが負担することとなる。慰謝料も支払うとなれば、首が回らないのだろう。

「マリン、許してくれ。慰謝料なんて支払えない。お前は優しいから、俺のこと助けてくれるよな」

電話の向こうで泣いているのか、はるとの声が震えている。

「やっぱり一度会おうよ。俺、ちゃんと顔見て謝りたい。マリンを傷つけたこと、本当に後悔してる。ごめんな。裏切って」

だが、今更謝られたところで、私は何も感じない。はるとを信じることに疲れてしまった。彼の言葉はどれも嘘に聞こえる。

「もういいわ。慰謝料については弁護士を通して請求するから」
「待ってくれよ。こんなの割りに合わない。俺はこんなの嫌だ。ちゃんと最後まで話し合おう」

すがり続けるはるとを無視して、私は電話を切った。そして、彼の電話番号を着信拒否にする。これでもう、はるとと話すことはないだろう。

「マリンさん」

振り返ると、兄がにっこりと微笑んでいた。実は私は新居が見つかるまでの間、兄の家でお世話になることにしたのだ。はるとの調査に踏み切ったのも、兄の助言があったから。

「怪しいと思うなら、しっかり調べた方がいい。結婚してからだと、色々面倒だし」

そう言われ、探偵事務所に依頼したのだ。浮気が発覚した後、兄ははるとと別れるよう告げ、その上でしばらくは自分の家に住めばいいと提案してくれた。

「家のことは心配しなくていい。こういう時こそ家族を頼ってくれ。今は一刻も早く、はると君と離れることが大事だ」
「お兄ちゃん、ありがとう。もっと早くはるとを疑うべきだった。お兄ちゃんは心配してくれてたのに」

交際が始まった時から、はるとを怪しんでいた兄。彼の話をちゃんと真剣に受け止めるべきだった。しかし、兄は私の考えに首を横に振った。

「マリンは悪くない。悪いのは浮気してたはると君なんだ。入籍前に事実が分かって、良かったじゃないか」
「そうだね」

私に手を差し伸べてくれた兄には、本当に感謝している。だからこそ、しっかり恩返しをせねばと考えていた。

その後、私は弁護士に相談して慰謝料請求の手続きを進めた。ただ、はるとと別れて二週間後のことだった。

「マリンさん、婚約を破棄したってのは本当か?」

私の元に義父から電話がかかってくる。義両親ははるとに事情を聞いたようだ。しかし、婚約破棄に至った経緯に納得がいっていないという。

「あなたがいきなり家を飛び出して、一方的に別れを告げたって聞いてる。でも、マリンさんがそんなことをする人だとは思えなくて」

はるとのやつは浮気したことを隠し、あくまでも私が急に婚約を破棄したと伝えていた。義両親はその話に疑問を抱き、私に事情を尋ねることにしたそうだ。電話で説明してもいいが、証拠を見てもらった方が早いだろう。何より、式の費用を出してくれた義両親には罪悪感もある。

「一度、そちらに伺いますね」

私は二人に会い、婚約を破棄した理由を直接伝えると決めた。そして後日、義実家を訪れ、説明を始めようとしたその時だった。

「父さん、母さん、いるんだろ?」
「え、なんで? マリンが……」

なんと、はるとのやつが現れる。彼は私を見るなり、顔を真っ赤にした。会いたくなかったが、今回ばかりは仕方ない。むしろ本人がこの場に来てくれて好都合だ。

「今、お父さんたちに婚約を破棄した話をしようと思ってたの。はるとが来てくれて助かったわ。ほら、こっち来て」

私ははるとに隣の席に座るよう促した。義両親も深く頷く。

「できるなら、二人から話を聞きたかったんだ。ほら、早く座りなさい」
「いや、今日のところは帰るよ。マリンは俺の顔なんて見たくないって言ってたし」
「何言ってるの? マリンさんははるとがいても平気そうじゃない? それぞれの意見もあるだろうし、二人揃ってた方がいいでしょ」
「私は気にしてないから、大丈夫よ」

三人に見つめられ、はるとのやつはうろたえた。これから自分の浮気が義両親にバレるのだ。今すぐにでも逃げ出したい気持ちだろう。だが、義両親が彼を逃がすはずがない。はるとのやつはとうとう観念したのか、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「この度は急に結婚の話を白紙にさせてしまい、申し訳ございません。婚約破棄に至ったのは、実ははるとの浮気が原因で……」

私は持ってきていた証拠写真を机に一枚ずつ並べていった。義両親は目を大きく見開き、写真を凝視する。

「なんだ、これは? はると、お前、マリンさんがいながら、他の女性と交際してたのか?」
「違うんだ。千里はただの友人で……」

もしかして、と義母が息を飲む。義両親はどうやら千里を知っているらしい。二人は顔を見合わせる。

「あろうことか、浮気相手が千里さんとはな」
「マリンさん、本当にごめんなさい。早くマリンさんに謝罪しなさいよ、このバカ息子」

義父は顔を真っ赤にし、義母は声を震わせながら激怒した。二人は息子の不貞行為が許せないのだろう。しかし、はるとのやつは冷や汗をかきながら言い訳を口にする。

「千里とは会ったよ。でも彼女とは何もない。俺が好きなのはマリンだけなんだ」
「こんな場所に二人で行っておいて、何もないだって? いい加減にしろ」
「自分のせいで結婚の話がなくなったのには、それを隠してたのね。ありえない。マリンさんがどんな気持ちか、分かる?」

「二人とも俺の話を聞いてくれよ。なんで自分の息子よりマリンの話ばかり信じるんだ?」

はるとのやつは義両親にすら信用されていないようだ。そんなはるとを見つめながら、私は口を開いた。

「はると、自宅謹慎中でしょ。頻繁に千里さんに会えて、よかったわね。仕事がないのをいいことに、私に隠れて会ってたんでしょ」
「自宅謹慎? はると、本当なのか?」
「いや、なんでマリンがそのことを知ってるんだよ」

彼は私にはバレてないと思っていたようだ。調査を依頼した以上、はるとのことなど全て知っているというのに。

「実ははると、先月から自宅謹慎中なんです。彼、どうやら会社の備品を盗んで、フリマアプリで売ってたみたいで」
「何だと? それは本当なのか?」

浮気だけでなく窃盗まで。信じられないといった様子で、義母は口をぽかんと開けて固まっている。義父は頭を抱えた。

「今は処分が下されるのを待ってるのよね。浮気相手と遊んでる暇なんてないと思うんだけど。はると、仕事がなくなるかもしれないのよ」
「待ってくれよ。だからなんでマリンはそんなことまで知ってるんだよ。会社に行ってないことを把握してるのは分かる。だけど、備品を盗んだことまで知ってるなんて、おかしいじゃないか」

確かに、はるとが疑問を持つ理由も分かる。彼は仕事がないのに、わざわざ毎日出勤するふりをしていた。そこまでして私に隠してた事実がバレたのだから、驚くのも無理はない。

「探偵事務所って、そこまで調査してくれるのか?」
「いえ、あなたが会社で起こした事件については、事前に聞いてたの。だからこそ、はるとを怪しんだ」

実は結婚式の後、私の元に共通の友人から電話があった。彼は何かとはるとのこと、大丈夫なのかと聞き、私たち夫婦のことを心配していた。その様子に違和感を覚え、事情を尋ねたところ、はるとが会社で問題を起こして自宅謹慎中だと教えてくれたのだ。

「でも、はるとのやつは毎日出勤してる。さすがにおかしいじゃない。だから、あなたがどこに行ってるか調べることにしたの。結果として、彼は毎日千里に会ってた」

浮気が確定した途端、次は別の疑問が湧く。

「千里さんは仕事をやめて、一日中母親の介護をしてるって話だったわよね。なんではるとに会う時間があるの? その間、お母さんはどうしてるの?」

千里と会う時、当然彼女は一人。母親がそばにいるわけではない。だとすれば、千里は介護が必要な母を家に置き去りにしていることとなる。はるとも違和感を覚えるはずだ。

「俺が千里に提案したんだよ。ヘルパーを頼んだ方がいいって。じゃないと千里まで体調を崩す気がして」

はると曰く、ヘルパーに母親の介護をしてもらっている間、二人きりの時間を過ごしてたらしい。

「でも千里さんは無職よね。貯金でやりくりしながら、ヘルパーさんに頼んでたの?」
「いや、それは……」

「はっきり言え。今更隠し事をしようとしたって、無駄だぞ」

義父が口ごもるはるとを厳しく叱責する。都合が悪いと黙り込む息子の癖を、よく理解しているのだろう。

「仕事のない千里さんは、なんでヘルパーを頼めたんだ?」
「俺がお金を出してたんだ」

「はると、なんであなた、浮気相手にお金を貢いでるのよ」
「違う。俺は千里を助けたかっただけだ。彼女の生活の足しになればと思って、少ないけど毎月渡してた」

どうやら彼が備品を盗んで売っていたのも、千里に金を渡すためだったらしい。私のことが大切だと思っている割には、相当な惚れ込みようだ。呆れてしまう。

「生活費の大半を私に出させておいて、はるとのやつは千里さんを援助してたのね」
「マリンは俺より稼ぎがいいんだから、平気だろ。こっちは少ない収入の中でどうにかやりくりしてたんだ。千里はもっと金がないのに」
「そこまでして、千里さんを助けたかったの? はると、仕事を失う可能性が高いのに」
「だって千里に泣きつかれて、断れなくて」

また同じ言い訳を繰り返すはると。彼は千里に都合よく使われていることに、気づいていないようだ。義両親は呆れ返って、言葉も見つからないのだろう。黙ったまま、冷たい視線を送る。

「はるとのやつは結局、千里さんのせいで全てを失ったわね。それでも彼女を助けたこと、後悔してないの?」
「放っておけなかったんだ。千里には俺しかいない。だけど、俺はマリンに甘えてたんだと思う。マリンはしっかりしてるから、俺がいなくても大丈夫だと」

「そうね。私ははるとがいなくても平気よ。むしろ、別れることができて清々したわ」

「お父さん、お母さん、本当にすみませんでした」

私は義両親に頭を下げた。しかし、二人はすぐさま顔を上げるように言う。

「マリンさんが謝る必要はない。謝るべきなのはこっちだ。本当に申し訳なかった。もちろん、はるとに慰謝料を支払わせるからね。この子にはしっかり罪を償わせるわ」
「ちょっと待ってくれよ。俺の話、聞いてた? こっちは仕事が首になりそうなんだよ。戻れたとしても左遷や減給の可能性が高い。慰謝料なんて支払えないんだ。だからこうしてここに来たのに」

はるとのやつが目を丸くする。

「意味が分からないな。慰謝料が支払えないからって、なぜ俺たちに会いに来たんだ?」
「ちょっと考えたら分かるだろ。金を貸して欲しいんだ。マリンから請求される慰謝料分と、あと千里の生活費。今、カツカツなんだよ。俺が頼れるのは父さんたちだけだ。だからお願いします。ちょっとでいいから、お金を貸してください」

彼は床に頭を擦りつけて、土下座する。式の費用を出してくれたこともあり、義両親ならお金を渡してくれると考えているようだ。ただ、義父は仏頂面で言い放つ。

「ふざけるな。はるとに貸す金はない。お前に渡したところで、返ってこないだろ」
「そんなことないよ。ちゃんと全額返すって」
「お金を貸す以前に、はるとには結婚式の費用も返してもらわなくちゃね」

義母の言葉にはるとのやつは絶句する。まさか義両親からもお金を請求されるとは予想していなかったのだろう。とっさに貼り付けたような笑みを浮かべた。

「冗談はよしてくれよ。あれは二人がどうしても結婚式をして欲しいって言うから、あげただけで。俺に請求するのはおかしいだろう」
「そりゃ、はるとが浮気なんてしなければ、私たちも返金を求めなかった。二人の晴れ舞台には、いくらでも出そうと決めてたから。だけど、結婚がなくなったのは、はるとの責任よね。俺たちははるととマリンさんの結婚を祝福してた。だから金を出したんだ。だが、結婚しない以上、返すのが筋だろ」
「いやいや、式の費用まで請求されたら、俺、生活できない。父さんたちは一人息子の俺がこの先どうなってもいいのか? 二人の老後の面倒を見れるのは、俺しかいない。こっちは父さんのためなら、何だってするって決めてるんだ。だから金を少し貸してくれるくらい、なんてことないだろ」

そう話すはるとに、義両親は肩をすくめた。

「俺たちの老後は、貯蓄でどうにかするぞ。少なくとも、はるとに頼る気はない。俺ははるとと縁を切るつもりだ」
「は、冗談だよな?」
「冗談じゃないわ。私もお父さんと同じ考えよ。はると、あなたは窃盗と不貞行為を行った。そんな息子、もう不要だから」

二人が本気だと気づき、徐々にはるとの顔色は悪くなっていく。すると、彼は私に視線を送った。

「マリン、助けてくれ。俺を庇ってくれよ。父さんたちの怒りを沈められるのは、マリンしかいない」

涙ながらにすがりつく。私は彼を無視した。

「そういえば、お父さんたちは千里さんを知ってるんですよね。かつて二人が交際してた時に、会ったことがあるんですか?」
「ああ、この家にも来てる。マリンさんが嫌じゃなければ、彼女をここに呼びましょうか。ちゃんと謝罪させるべきだと思うし」
「千里とは今関係ないだろ。彼女を巻き込むな」

はるとのやつが慌てて遮る。この場に彼女を呼ぶことに、何か問題でもあるのだろうか。私ははるとが慌てる理由が気になり、千里を呼ぶことにした。

「千里さんを呼んでくれる?」
「マリン、何を言ってるんだ? 本当は会いたくないんだろ? 父さんたちの言いなりになる必要なんてないって」
「いえ、会えるなら会いたいわ。はると、スマホを出せ」

義父が有無を言わせぬ口調ではるとに要求する。私まで思わず息を飲むほど低い声だった。その圧力に負けたのか、はるとのやつはスマホをポケットから取り出す。

「貸しなさい。私が電話するわ」

私は彼からスマホを奪い取り、着信履歴から千里の名前を探した。そして電話をかける。

「千里さん? はるとの元婚約者のマリンです。今から彼の実家に来れますか?」
「は? なんでマリンさんが?」

最初は怪しんでいたが、義両親が会いたがってると伝えた途端、急に明るくなる。

「もしかして、お父さんたちがようやく結婚を認めてくれるの? 今からすぐ行くね」

彼女はあっという間に乗り気になり、そのまま電話は切れた。

「スマホ、返してくれよ」
「だめだ。千里さんが来るまでは、俺が預かっておく」

私の手からスマホを奪い取ると、義父ははるとの手が届かないよう背後に隠した。はるとのやつは千里にメッセージでも送って、彼女に来ないよう伝えたかったのかもしれない。その考えを義父は見破っていた。気まずそうに黙り込むはると。千里が到着するまで、彼は居心地悪そうにそわそわしていた。

三十分ほど経った頃だろうか。

「お邪魔します。あ、はると」

千里が満面の笑みで義実家へと入ってくる。彼女は迷うことなく、そのままはるとの隣に座った。ただ、私のことは鋭い目つきで睨む。

「なんでここにマリンさんがいるの? 婚約破棄になったんだよね。もしかして、はるとと復縁したくなったとか?」

にやにやと笑う千里の言葉を無視して、義父が口を開いた。

「千里さん、はるとと浮気してたのは本当か?」
「浮気って言うんですかね? はるとが本当に好きなのは、私なんです。お父さんたちが反対しなければ、私たちは今頃結婚してたんですから」

彼女は悪びれることなく、はるとの腕を絡めようとする。その様子を見て、義母が目を吊り上げた。

「はると、私たちを騙してたのね。千里さんと別れたっていうのは、嘘だったんでしょ。あの時、もっと強く言うべきだった」

義母は悔しそうに唇を噛みしめる。どうやらはるとと千里はかつて結婚を考えていたという。その際、義両親にも挨拶をしていたらしい。だが、彼らは二人の結婚に大反対した。

「千里さんは、今も昔も変わってないんだな。家族の病気だなんて嘘をついて」
「嘘じゃないわ。当時もそう説明したでしょう」
「昔も? どういうことですか?」

問いかけた瞬間、義両親は目を伏せる。

「うちに結婚の挨拶に来た際、千里さんは父親が病気だと話してたんだ。そのせいで家計が厳しく、苦労してるって。はるとの婚約者が困ってるなら、私たちなりに力になりたくて、少しだけどお金を渡したの」

「しかし、その後、千里の話が真っ赤な嘘だと発覚した。うちの近所に千里の同級生がいるんだけど、そのお母さんが教えてくれたわ。千里さんの父親は、中学生くらいの時に亡くなったって」

義両親はその事実を知り、すぐに千里を問い詰めたそうだ。だが、彼女は泣きを見せて、適当な言い訳を並べただけだった。

「お父さんたちが優しくて、つい甘えたくなったんです。悪気はなくて」

そんな千里を、はるとのやつは庇った。彼女は父親がいないから、甘え方が分からなかっただけなんだと。ちょっと嘘をついただけで、そこまで怒らなくてもいいじゃないか。彼女にも悪気があったわけではない。だから許してあげて欲しいと告げたのだそう。

しかし、義両親は騙された結果、お金を渡している。彼らは今回のことを水に流す代わりに、お金だけは返して欲しいと伝えたけれど、千里はそれを拒んだ。

「千里さんは俺たちが渡した金をとっくに使い切って、返せないの一点張りで、後々返済するつもりもないと告げたんだ。さすがにそんな人は信用できないだろ。だから、お金を返さないのなら結婚は認めないことにした」

義両親は当時を思い出し、表情を曇らせる。千里にはいい印象がないのだろう。だからこそ、二人は浮気相手が彼女だと知って愕然としていたそうだ。

「はると、お前はマリンさんだけでなく、俺たちも裏切ったんだな。あの時、確かに千里さんとは別れたと言ってたはずだが」

義父が眉間にしわを寄せる。彼の顔を見て、はるとのやつは目をそらした。

「いや、別れたのは本当だよ。でも時々連絡が来てて。マリンにプロポーズした頃に相談に乗って欲しいって言われたんだ」
「へえ。ずっと連絡は取ってたのね。つまりはるとのやつは、別れてからも千里さんを気にかけてたってことか」

「もう今だから言うけどさ、マリンのことが本気で好きだったわけじゃないからね。俺は稼ぎがいいから結婚を考えただけで」

「はると、お前……」

怒りのあまり、義父が立ち上がってはるとに詰め寄る。今にも殴りかかりそうな勢いだった。義母が止めなければ、きっと手が出ていただろう。

「千里さんにお金を渡したいから、私と結婚したの? 生活費を負担してもらえてラッキーとでも思ってたわけ?」

「そうだよ。俺の収入だけじゃ千里の生活を楽にしてあげられない。父さんたちが反対してる以上、結婚もできない状況だった。だから、掛け持ちしながらでも千里を支えるために」

「はると、本当に優しいね。あなたのおかげで、私は今すごく幸せ。お父さんたちも、よく分かったと思います」

千里は口元をほころばせ、はるとと顔を見合わせる。はるともまた頬を緩めて、デレデレとしていた。ある意味、お似合いのカップルだろう。二人が結婚しようが、私にはもう関係ないことだ。ただ、千里の嘘を暴く必要がある。

「お父さんたちは気づいてるみたいだけど、はるとのやつはまだ騙されてるのね。千里さんのお母さんは、元気よ」
「わけの分からないことを言うな。俺はヘルパーを雇うために、金を渡してるんだよ。そうだよな、千里」

はるとのやつは疑うことなく、千里に尋ねる。すると、彼女は首を横に振った。

「マリンさん、はるとを取られて悔しいのね。だけど、私たちの関係を壊そうたって無理だから」

「相変わらずね。家族が病気だと言えば、周囲が助けてくれると思ってるんでしょ。嘘をつく千里さんにも問題はあるけど、騙されるはるともおかしいわ」

義両親は二人揃って大きなため息をついた。彼らは千里を信用していない。一度騙されているからこそ、彼女の話を怪しんでいるようだ。一方、私には千里が嘘をついている証拠があった。

「はると、この写真を見ても、お母さんが病気だって信じる?」

私は写真をカバンから取り出した。そこに映っているのは五十代くらいの女性。彼女はスーパーでレジ打ちをしていた。

「それ、千里のお母さんじゃないか」

実は探偵事務所で調査してもらった結果、千里の母親が今も元気に働いていることが分かったのだ。なんなら、千里が無職だからと、彼女が家計を支えていたほどだ。

「千里さん、説明してくれます? どうして病気の母親がスーパーで働いてるんですか?」
「それは……」

「お母さんは体調が悪くて、今は会えないって話だったよな。それも嘘? 千里、お前、何か理由があるんだろ?」

はるとのやつは自分が騙されていたと思いたくないのか、潤んだ瞳で千里にすがりつく。それでも彼の問いかけに、千里は声を震わせた。

「ごめんなさい。はるとに会いたくて嘘をついたの。悩みがあるって言えば、寄り添ってくれるかなって」

「嘘よ。千里さんははるとを都合よく使ってただけ。お金が欲しくて、彼を騙したんでしょ?」
「違う。あんたは黙ってて」

彼女は激しく動揺し、顔を真っ赤にした。図星だったからこそ、これ以上余計なことを言われたくないようだ。

「俺に会いたいだけなら、お金は返せるよね。お母さんが働いてるってことは、生活に困ってないでしょ」
「そう言われても、今こっちは大変なんだ。慰謝料やら式の費用を請求されそうで。おまけに仕事も首になるかもしれない」

はるとの言葉を受けて、千里が絶句する。彼が自宅謹慎中だということを、千里は知らなかったらしい。

「首? はると、リモートワークだから会社に行かなくてもいいって話だったよね。もしかして、ずっと休んでたの?」

二人で会える頻度が増えた理由を、在宅勤務だからと伝えていた。それを千里は信じ込んでいたのだろう。

「お互い嘘をついて交際してたなんて、つくづく似た者同士の二人ね。リモートワークじゃなくて、はるとのやつは自宅謹慎中だったのよ」
「何よそれ。仕事が首になったら、生活どうするの?」

千里は恐ろしい形相ではるとに詰め寄る。彼はその表情を見て、眉をひそめた。

「いや、仕事はまた探すよ。千里だって働けばいいじゃん。二人で一緒に生きていこうよ」
「ふざけんな。こっちは援助してくれるから付き合ってただけ。無職なんて結婚できるわけないでしょ」
「嘘だろ? 俺は千里に金を渡すために、備品を売ってたのに」

やっと千里の本性を知り、体を震わせるはると。彼は本気で千里の話を信じきっていたらしい。お人好しというより、ただ単にバカなのだろう。義両親は二人のやり取りを聞き、呆れ返っていた。

「はると、お前は千里さんに騙されたんだよ。お前も嘘をついてたけどな」
「そんなのいいから、今まで渡した金、全部返せよ。母親の病気が嘘なら、どうせヘルパーなんて雇ってないんだろ」

はるとのやつは血走った目で千里を睨みつける。しかし、彼女は鼻で笑った。

「いやよ。もう全部使い切っちゃったし。はるとだって、よかれと思ってお金をくれたんでしょ。文句言わないで」
「俺は千里が困ってるから助けたんだ。少しずつでいいから、返済しろよ」
「無理だって言ってるでしょ」

二人は私たちの視線など気にせず、激しい口論を始める。そんな彼らを義父が一括した。

「喧嘩するなら、さっさとここから出て行け」
「ごめん。でも俺、本当に千里に騙されてただけなんだ」

はるとのやつは助けを求めるかのように義父にすがりつく。

「今の話、聞いてただろ? 千里って最低なんだ。俺の金を奪ったあげく、こっちが困ってるのに助けてくれない」
「だからなんだ。俺たちの反対を押し切って交際を続けたのは、はるとだろ。今更かばってもらおうなんて、虫が良すぎるんじゃないのか」
「お父さんの言う通りね。そもそも私たちははるとと縁を切る。今回のことにも関与する気はないから」

両親の目は冷たく、はるとのやつはその場に立ち尽くした。彼はまたもや私に視線を送るが、当然、こちらも助けるつもりなどない。

「慰謝料、必ず支払ってもらうから。仕事がどうなろうと、金がなかろうと、私には関係ない」
「マリン、俺は被害者なんだよ。ちょっとは同情してくれても」
「私を裏切って、千里さんを助けたのは、はるとの意思よ。あと千里さんにも、当然慰謝料を支払ってもらうから」
「そんなお金、ないってば」

千里は激高して声を荒げる。ただ、彼女に拒否権はない。

「すでにあなたがお住みのご実家に、内容証明を送ってます。今日か明日には届くんじゃないかしら。お母さんが確認するかもね」
「待ってよ。お母さんにバレたら、私、家を追い出されちゃう」

はるとが既婚者だとか、母親が病気じゃないとか、知られたら。みるみるうちに、千里の顔から血の気が引いていく。

「俺が病気? 何言ってるんだ?」
「はると、もしかして……」

はるとのやつが不思議そうに首をかしげる。しかし、次の瞬間、はっとしたような表情を浮かべた。

「もしかして、お母さんにも嘘をついてるの?」
「はるとが病気だから、介護をしてるってお母さんには説明してるの。だから、仕事をする余裕がないって」
「家族にまで嘘。ひどい人ね」
「仕方ないでしょ。働きたくないんだもん」

本性を現し、義母をきっと睨みつける千里。そして、彼女は突然、私の足元にすがりついた。

「マリンさん、ごめんなさい。はるとのこと、返します。彼とはもう別れる。だから、お母さんには今回のこと、黙っててくれない?」

今にも泣きそうな顔で千里は許しを乞うた。だが、私は別に彼女の母親に浮気の事実を伝えるつもりはない。偶然、千里が実家に住んでいるがゆえに、母親にバレる可能性があるだけだ。

「もう遅いわよ。内容証明は送っちゃったし。あとはるとなんて、いらないから返されても迷惑です」
「そんな言い方、しなくてもいいだろ。千里もこう言ってることだし。俺たち、やり直そうよ。もうマリンを裏切ったりしない。だから慰謝料だけ、支払ってくれたらそれで十分」
「あ、一生私に関わってこないでください」

きっぱり言い放った途端、はるとのやつは絶望した顔でその場に崩れ落ちた。これ以上すがっても無駄だと、ようやく悟ったらしい。

「一通り要件は伝えたので、今日のところは失礼しますね」

私は義両親に軽く会釈をして、玄関へと向かった。二人はそんな私に何度も謝罪する。

「本当に済まなかった。慰謝料だけは、必ず支払わせる」
「マリンさん、ごめんなさい。きっとあなたなら、もっと素敵な人に出会えるわ」
「お父さん、お母さん、今までありがとうございました」

彼らと家族になれたら、どんなに幸せだったか。家の奥から、泣き叫ぶはるとと千里の声が聞こえてきたが、私は無視して義実家を去った。

その後、無事にはるとから慰謝料を支払ってもらえた。彼は仕事を首になった挙げ句、会社からは賠償金、義両親からは結婚式の費用を請求されたらしい。全て借金で支払った結果、今は返済に追われているのだそう。二人で暮らしていた自宅は住み続けられず、退去したようだ。現在はるとのやつはボロアパートで暮らしながら、バイトをかけ持ちしていると聞いた。義両親から絶縁され、頼る人もいない。

ちなみに、千里とは別れたそうだ。彼女もまた、母親に浮気と嘘がバレて、家を追い出されたらしい。慰謝料は全額一括で支払ってくれたものの、噂では別の既婚者の男性に近づき、慰謝料を請求されたとか。今は夜の街で働いているという話を耳にした。真偽は不明だが、これから先、二人は苦労することになるだろう。

一方、私は新居に引っ越して、新しい生活を始めた。兄とは今も定期的に会っている。

「どうだ? 新しい家には慣れたか? 何か欲しいものがあるなら言えよ。引っ越し祝いでプレゼントするから」
「何言ってるの? お礼をしなくちゃいけないのは、私の方なんだから。欲しいものがあったら言ってね」

兄がいなければ、ここまでスムーズにはるとと別れられなかったかもしれない。彼には本当に感謝している。そんな兄から、先日「紹介したい人がいる」と告げられた。結婚を考えている女性なのだそう。

「おめでとう。会えるのが楽しみだな」

彼の選んだ女性なら、きっと素敵な人なのだろう。嬉しそうに微笑む兄を見て、私まで頬が緩む。私は自分なりの幸せを、これからまたゆっくり探すつもりだ。

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