新入社員のボス的な存在・佐々木が、全員分の退職届を握りしめて俺の前に立った。一流大学を卒業したばかりの若者たちが、そろいもそろって同じ要求を掲げている。「給料を上げないと全員やめます」。
俺は宮本、三十歳。大手広告会社の総務部で主任を任されている。高卒で入社して十二年目のベテランだ。久しぶりに新入社員の研修担当を任されたのは良いが、たった三日で俺は精神的に擦り切れていた。全員が優秀な大学を出ているというのに、研修中の態度が酷すぎる。そんな中での四日目の朝に、佐々木からあの言葉を投げられたのだ。
俺は一呼吸置いて、全員に一言だけ放った。その瞬間、新入社員たちの表情が一変する。その後、彼らはとんでもない結末を迎えることになる。
俺は幼い頃から絵を描くことが好きだった。小さな広告会社の外回りの仕事をしていた父と、パートで働く母との間に生まれた一人息子。人見知りな性格で、幼稚園の頃から集団生活に馴染めず、いつもクレヨンを持って隅っこで絵を描いていた。小学校に入ってもそれは変わらず、同じく絵が好きなケントというクラスメイトと仲良くなった。家も近く、幼い頃から一緒に遊んでいた。
母がプランターで季節の花を育てていたので、俺はその花の成長を絵に描いて記録した。やがて校庭の花や教室の窓から見える風景を、休み時間になるとノートに書き留めるようになる。他のクラスメートはゲームに夢中だったが、俺はいつも一人で絵を描いていた。父が家で英語を話す仕事をしていた影響で英語に興味を持ち、英会話教室にも通わせてもらっていた。
中学生になってもケントとは変わらず仲が良く、一緒に宿題をしたりした。高校は別々になったが、携帯のメールで絵を交換しながら連絡を取り合っていた。高校生になる頃にはビジネス英語も話せるようになり、父とよく英語で会話をして楽しむほどだった。父は俺の成長を心から喜んでくれていた。
だが高校二年のある日、父が突然交通事故で亡くなった。母からの電話で病院へ駆けつけたが、もう話すことのできない父に母は何度も名前を呼んで号泣していた。俺は現実を受け入れられず、ただ呆然とその場に立っていることしかできなかった。葬儀の後、小さくなってしまった父が祖父の墓に入る時、俺は涙が止まらず、ただ黙って手を合わせた。
母はしばらく落ち込んでいたが、パート先で正社員として働き始めた。母の姿を見て、俺は大学へ行くことを諦めた。ケントも家庭の事情で大学には行かないと言っていた。高校三年の進路選択の時期、ケントと将来のことを話し合い、一緒に求人情報を見た。そこで目に留まったのが今の会社だった。広告会社なら、得意な絵の才能を伸ばせるかもしれない。当時はまだ小さな会社だったが、ケントに話すと彼も面接を受けてみたいと言い、二人で内定をもらった。
入社後、俺とケントは同じ総務部に配属された。上司も良い人ばかりで、パソコンが得意な俺たちは資料整理をコツコツとこなしていた。やがて会社は成長し、五年目にはビルへ移転して大手広告会社へと発展していった。海外との取引も始まり、英語が話せる俺は海外担当となり、三十歳で総務部の主任を社長から任された。俺の絵の才能は特に発揮する機会はなかったが、会社は順調に大きくなっていった。
しばらく新入社員は入っていなかったが、今期から十二名の新卒が入ると人事部から連絡があった。田中部長から声をかけられたのは、その少し後のことだった。
「宮本君、今回の新入社員は一流大卒だ。研修期間は一週間だが、担当を任せたいのだが」
「かしこまりました」
こうして俺は新入社員の研修担当を任されることになった。これがすべての始まりだった。
研修初日。会議室で会社の概要を説明しようとしたその時、佐々木がいきなり声を上げた。
「あー、スーツなんて堅苦しくて着てらんねえ。みんな上着脱げよ」
女子社員たちも「暑い暑い。さっさと脱ごう」と言いながら上着を脱ぎ始める。俺はたまらず注意した。
「君たち、一応会社ではスーツを着ておくのが常識だよ。きちんと着てください」
「はあ。おっさん、学校じゃあるまいし」
おっさん呼ばわりされた。俺はため息を飲み込みながら言い返す。
「君たちから見ればおっさんかもしれないが、せめて苗字で呼んでくれ。俺には宮本という名前がある」
「いいじゃん。おっさんはおっさんなんだから。それに大学時代は学生服さえ着てなかったのに、スーツなんて」
「いや、それが社会人だよ。マナーとしてきちんと上着を着るように。営業に配属されればお客様とも会うことになるかもしれない。夏であってもマナーとして上着を脱ぐわけにはいかない」
「今は研修期間だからいいんじゃねえの?」
「そのための研修期間でもあるんだ」
「はあ。細かいこと言うね」
別の新入社員が鼻で笑う。
「宮本さんとか言ったっけ? 俺たちさ、一流卒だぜ。そんな底辺のバイトなんかしたことないし。バイトは家庭教師、それもネット越しだよ。スーツとか作業服とか着るわけないじゃん」
「……バイトの話をしているんじゃない。社会人としての常識の話だ」
しかし誰も聞く気配がない。結局、全員が上着を脱いだままの状態で研修を続けることになった。会社の概要や歴史を説明しても、全員が雑談を始める。
「この内容は会社の大切な話だ。雑談はやめて真面目に聞くように」
俺がそう言うと、しばらくは静かになったが、ホワイトボードで説明を始めると、ほとんどの新入社員がスマホを取り出し始めた。
「スマホは一旦置いてください。大切なことはノートにメモしていってください」
「え、ノート? どんな時代だよ。スマホに宮本さんの声を録音するだけでいいじゃん」
「そうだよ。なんでノートなんだよ」
「私、そもそもノートなんて持ってきてないし」
「後で全員に復習資料をまとめて提出してもらうから、ノートに書いてください。持ち物の中にメモかノートと書いてあったはずだが」
「うっかり忘れちゃったわ」
そう言う女子社員に、俺は仕方なくコピー用紙を渡した。初日はなんとか終わった。
二日目、俺は新入社員たちに総務部の清掃をしてもらうことにした。
「はあ? なんで俺たちが掃除すんだよ」
「緊急にコーヒーをこぼしたりした時のためだよ。掃除道具がどこにあるか案内するので、全員ついてきてほしい」
俺は掃除道具の部屋へ案内し、モップや雑巾などを配った。
「もうやってらんねえ。俺たちみたいなエリートが掃除だって」
「そうだぜ。俺たちは一流大学なんだぜ」
「どのようなエリートであっても、自分でコーヒーをこぼすこともある。社員食堂で食べ物をこぼしたら自分で片付けるのが常識だ。職場を清潔に保つのは当たり前のことだよ」
「はいはい。やればいいんだろ。やれば」
女子社員は「まさか私が掃除をさせられるなんて」とブツブツ言いながら、適当にモップをかけ始めた。掃除が終わると全員が道具を投げ捨てるように置いた。
「使った掃除道具や雑巾は、きちんと綺麗にしてから片付けること」
「そんなの掃除のおばちゃんがやってくれるでしょ」
「使ったものは自分で綺麗に片付けてください」
「全くめんどくせえな」
常識が通じない新入社員たちに、俺は呆れ果てた。三日目は社員用のパソコンを並べて資料整理をさせた。パソコンは得意なようで、キーボードを叩く音が会議室に響く。だが、また雑談をしながらだ。
「業務内の分からないことの相談は自由だが、プライベートな会話は禁止だよ」
するとすぐに「はい、終わりました」「俺も終わったけど」「私も」と声が上がる。
「じゃあ次の資料を配る。資料はいくらでもある。俺が夕方に見るから、頑張って打ち込んでくれ」
「終わったのに、休憩させろよな」
「休憩は午前十時と昼、そして午後三時と決まっている。それまではない」
「はいはい。やればいいんだろ。やれば」
午前十時の休憩になると、全員がスマホを手に取り、電話やメールを始めた。スマホの着信音が鳴りっぱなしだ。俺はケントを誘って昼休憩に近くのカフェへ行った。
「ケント、顔色が悪いぞ。どうしたんだ?」
「ああ。新入社員たち、一流大卒だそうだが、全く一般常識がなくてさ。スーツの上着は脱ぐわ、雑談はするわ。まるで小学生の担任になった気分だよ」
「一流大学と言っても、俺たちとは世代が違うもんな」
「変わってくれよ」
「それは無理だな」
ケントに愚痴を聞いてもらい、少しだけ気が楽になった。しかし昼からまた研修に戻ると、昼休憩から引き続きスマホの着信音が鳴り響き、パソコンを打ちながらも新入社員たちはスマホを触っている。
「皆さん、今は業務中です。使用のスマホは禁止です。それから音はサイレントにしておいてください。できれば休憩時間もマナーモードに」
「はあ。病院じゃねえんだからさ。休憩時間ぐらい、いいんじゃね?」
「佐々木君、まず言葉遣いから直そうか。一応俺は目上でもあるし、総務部の主任だ。せめて敬語で話して欲しいんだが」
「もう細かいことばかりやってらんねえよ。あまり文句ばかり言うなら、田部長に言うよ」
「ん? 田中部長のことか?」
「そうだけど」
「そっか。一応全員、今日は資料を仕上げておいてくれ。俺は少し席を外す」
俺は田中部長の元へ走った。
「田中部長、少しご相談があります。お時間よろしいでしょうか?」
「ん? どんな話だ?」
「新入社員のことで少し」
「なるほど。じゃあ少し別室で聞こうか」
別室で俺は佐々木が田中部長の名前を出したこと、全員の態度や言葉遣いの酷さを伝えた。すると田中部長が意外なことを言い出した。
「内密にしていたんだが、実はあの十二名は俺の大学時代の同級生の子供たちなんだよ。親御さんから就職先を頼まれてな」
「え、部長、それってコネ入社じゃないですか?」
「まあ、そうなるな」
「そうでしたか……。世代が違うのもあるのですが、なかなか文句だらけで困ってるんですよ」
「まあ、俺の紹介だからその辺は甘く見てやってくれ」
「いや、本当にひどいんです。まず敬語も使えません」
「それなら僕ちょっと社長に相談させていただきます」
俺は田中部長にそう言い切って、すぐ社長室へ向かった。会議室にも総務部にも防犯カメラがついている。俺は社長に全てを打ち明け、今までの新入社員の行動のカメラ動画を見せた。
「これはひどいなあ。まさか田中部長がコネ入社をしていたとは」
「社長、今回の新入社員の応対態度は常識外れです」
「わかった。全員首だ。田中にはわしから言っておく」
社長の返答に、俺は胸をなで下ろした。その日の研修は資料作成だったが、俺がいない間にサボっていたようで、提出された資料が少なすぎた。
そして四日目。俺は新入社員たちを営業部に連れて行き、一人ずつ紹介した。佐々木は「佐々木っす。よろしく」と、相変わらず気の抜けた挨拶だ。全員がそんな感じだった。紹介を終えて会議室へ戻ると、皆が席に着いた瞬間、佐々木が全員から何かを集め出した。すると佐々木がその書類を持って俺の元へ来た。それは退職届だった。
「会社の規則が、あまりにも厳しすぎるよ。給料を上げないと全員やめる。これ、受け取ってね」
俺は一言だけ放った。
「本当に残念な話だが、そもそも君たちは研修期間中に首になっています」
「え、首?」
そう言った瞬間、全員の顔が真っ青になった。そして全員が立ち上がり、走り出して総務部へ向かった。十二名は田中部長に詰め寄る。
「田中さん、首ってどういうことですか?」
「そうですよ。宮本さんに首だと言われたんですが」
「え、宮本が?」
俺は内線で社長を呼んだ。田中部長が俺に向かって怒鳴る。
「宮本君、全員首とはどういうことだ?」
「それは社長からお話がありますので」
しばらくして社長が総務部に現れた。
「おい、田中。コネ入社とはどういうことだ? わしは何も聞いておらん。それに今回の社員のマナーはまるでなっていない。こんな社員にこれから会社にいられると、わしが困るんだよ。だから全員を首だ」
「あ、あの、社長。これには理由がありまして」
そう言う田中部長は少し震えていた。するとまた佐々木が口を挟む。
「社長さん、会社の規則が厳しすぎです。これなら給料を上げてください」
「君の名は?」
「佐々木です」
俺は佐々木がそう言った後、社長に全員分の退職届を渡した。社長はそれを見て、静かに言い放った。
「佐々木君たち、君たちはまだ研修期間中だ。わしは研修中の君たちの態度を見せてもらっている。あのような態度では、給料どころか会社にいられるとこちらが困る。退職届は預かった。自主退職してくれてありがとう。全員、私物を片付けて帰りなさい」
佐々木たちは背中を丸めて、総務部を出て行った。
その翌日のこと。朝から田中部長の席の電話が鳴り止まない。耳を澄まして聞いていると、どうやら新入社員たちの親御さんからの電話のようで、部長が謝っている様子だ。俺はスマホを録音モードに切り替えた。午前中は電話の嵐だった。そして午後からいきなり何名かの来客があった。玄関で誰かが「田中呼べ!」と叫んでいる。田中部長が対応しているのは、新入社員の親御さんたちのようだ。俺はすぐ社長室へ行き、これまでの防犯カメラの動画をスマホに録画して社長に渡した。
社長が賑やかな受付に現れる。
「これは何の騒ぎかね」
「社長、あの新入社員の親御さんたちです。採用の取り消しを申し出られまして……」
「なるほど。じゃあこの動画を親御さんたちに見てもらおうか」
そう言って社長は、研修中の新入社員たちの様子を親御さんたちに見せ始めた。総務部の全員も、親御さんたちも、その場にいる全員が絶句した。
「いや、このような普通のマナーもない新入社員は、こちらからお断りしようかと思っていたんですがね。退職届は確かにわしが受け取りました。今回はお引き取りください」
そう社長が言うと、真っ青な顔の親御さんたちは社長に土下座して謝り始めた。「今からどこも面接がないんです」と。すると社長は冷静に言い放った。
「うちでなくても、中途採用の会社もあるはずです。これ以上ここにおられると業務妨害になります。皆さん、どうか顔を上げてお帰りください」
親御さんたちも背中を丸めて帰って行った。俺は大きなため息と共に、ほっとした。
その後、社長が真っ赤な顔で田中部長に向かった。
「当社ではコネ入社は禁止しておる。田中、お前も知っているはずだ。それを分かっていて、大学の同窓会とやらで、当社が少しばかり大企業になったからといい格好でもしたかったのか?」
「し、社長、決してそんなつもりでは。彼らが一流大卒と聞いておりましたので」
「いくら一流大卒だろうが、一般常識も知らないような社員はいらん。それに勝手なコネを使った田中は会社の規則を破った。君は今すぐ降格処分とする。もう一度、平社員として頑張りたまえ。これは社長命令だ」
そう言われた田中部長は冷や汗を流しながらデスクを片付け、平社員の席へ移動した。その後のことだが、田中部長は給料が下がり、奥さんに離婚されたようだ。そして、退職した十二名の元社員たちは、新しい就職先も決まらずアルバイトをしているという噂だ。一流大学を出ていても、世代が違っていても、社会人としてのマナーをしっかり学んで欲しいと、俺は心から思った。
研修期間は結局三日で終わった。短い間だったが、俺にとっては本当に疲れた三日間だった。その後のことだ。社長が俺の履歴書をもう一度見てくれたようで、絵を書くことが好きだと書いていたことを知り、海外から依頼されている広告デザインを任せると言ってくれた。俺はケントのことも社長に紹介し、二人でデザインの企画を立ち上げた。そのデザインがクライアントから認められ、俺とケントは企画部の部長と課長として働けることになった。
俺たちは今、好きなことを仕事にできて、毎日充実した日々を送っている。



