朝の会議室の空気は重かった。長机の上に並んだカルテと白く光るモニター。俺は一番奥の席で配られた資料に目を落としていた。正面に座る黒崎外科部長がゆっくりとページをめくる音だけが響く。
「先週の症例だが」
名前を呼ばれて、俺は背筋を伸ばした。
「術中判断に二度迷ったな。出血の処置、それと剥離の手順。なぜすぐに動かなかった?」
「薄い部分の血管走行が術前画像と少し違っていたので、慎重を期したつもりです」
「慎重と臆病は違う」
短い言葉だった。だが、その一言で会議室の全員が黙った。俺は資料を握る指に無意識に力を込めていた。
「次の症例だが、これは神谷で行く。高代は第二助手だ」
「了解しました」
短く返事をする。それ以外にできることがなかった。斜め向かいの席に座る神谷が申し訳なさそうに俺をちらりと見た。こいつは悪い男じゃない。だが、その目に浮かぶ哀れみが、俺には何より堪えた。
俺の名前は高代誠。四十三歳。地方総合病院の外科医だ。医師になって十六年。この病院に来てからは八年になる。かつてはそれなりに手術を任されていた。ところが二年ほど前から、俺は手術中に判断を迷うことが増えた。ほんの数秒の迷いが、ベテラン医師には致命的だった。気づけば、俺は「決断が遅い男」と呼ばれていた。
カンファレンスが終わり、医師たちが立ち上がる。俺はノートを閉じ、最後に部屋を出た。廊下に出ると、神谷が後ろから追いかけてきた。
「高先生、すみません。次の症例、俺が」
「気にするな。お前の腕なら問題ない」
「いや、でも前回の手術は先生が」
俺は足を止めて、できるだけ穏やかに笑った。
「お前はもう一人前だ。胸を張れ」
神谷は何か言いかけて、結局口を閉じた。俺は先に廊下を歩き出した。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。振り返れば、自分の弱さが顔に出そうだった。
午後、神谷の執刀での手術が始まった。俺は第二助手。要するに術野を広げ、邪魔にならないように立っているだけの役割だ。無影灯の下、神谷の手は確かだった。若いが、迷いがない。俺はその手元を見ながら、自分の指先が動かないことに気づいていた。
神谷が剥離の手順で一瞬迷った。
「ここ、もう少し奥でいいですか?」
「いや、その手前で止めた方が」
言いかけて、俺は口を噤んだ。意見を言える立場ではない。そう思った瞬間、隣の器械出しがすっと別の鉗子を差し出した。朝倉美生。この病院で一番優秀と言われる看護師だ。彼女は俺の言いかけた言葉を察したのか、神谷の手元にちょうどいい位置で器具を置いた。
「先生、こちらの方が動きやすいかと」
「ああ、助かる」
神谷は気づいていない。だが、彼女が今、俺の判断を拾ってくれたのが、俺には分かった。手術は無事に終わった。患者がストレッチャーで運ばれていく時、麻酔が浅くなった患者がうっすら目を開けた。不安そうな目だった。俺は思わずその手に軽く触れた。
「もう終わりましたよ。大丈夫です」
患者が小さく頷く。その横で美生が患者の肩にそっと手を添えた。
「高代先生がついていてくださいましたから、安心してくださいね」
患者はほっとしたように目を閉じた。俺は何も言えなかった。俺がついていたと彼女は言った。本当はただ立っていただけなのに。
手術室を出て休憩室に向かった。缶コーヒーを買い、ソファに腰を下ろす。脱いだ上着を膝に置いた時、ふと隣の棚に置かれた小さな布袋が目に入った。美生のものだ。口が少し開いている。中から古びた札のようなものが覗いていた。「白川」と書かれた変色した札。誰のものだろうか。俺はそれをぼんやりと眺めていた。
ドアが開いて、美生が入ってきた。俺の視線に気づいた彼女は、一瞬だけ表情を固くして、すぐに袋の口を閉じた。
「あ、見るつもりじゃ」
「いえ、古いものなので」
それだけ言って、彼女は袋を引き出しの奥にしまった。
「先生、お疲れ様でした」
「ああ、お前もな」
彼女は短く頭を下げて出ていった。
その日の夜、俺は当直明けの神谷と入れ替わりで病棟の見回りをしていた。廊下は静かで、ナースステーションの蛍光灯だけが白く光っていた。午後、手術した患者の病室を覗く。患者は目を開けて天井を見つめていた。俺に気づくと、小さく手を上げた。
「先生、あの、明日からもよろしくお願いします」
「ええ、しっかり見させていただきます」
「先生に見てもらえると安心します」
その言葉が胸に刺さった。安心。俺にその資格があるのか? 迷い続け、手術すら任されない。
俺は病室を出て、廊下の窓際に立った。外は雨が降り始めていた。ガラスに自分の顔が映っている。疲れた中年の男の顔だ。
医師をやめようか。そんな考えが、最近よく頭をよぎる。やめて何か別の道を探した方が、患者のためかもしれない。俺の迷いが、いつか誰かを死なせるかもしれない。そう思うと、メスを握る手が震えそうになる。
足音が近づいてきた。振り返ると、白い制服の上にカーディガンを羽織った美生が立っていた。
「先生、まだお帰りじゃなかったんですね」
「ああ、少し見回りを」
美生は俺の隣に並んで、同じように窓の外を見た。しばらく二人とも黙っていた。雨音だけが廊下に届いていた。
「先生、今日の手術中、本当はおっしゃりたいことがあったんじゃないですか?」
「いや、特にはない」
「私、見ていて分かりました。先生の判断、合ってましたよ」
俺は窓ガラスを見たまま答えなかった。俺は決断が遅い。黒崎先生にも言われている通りだ。
「決断が遅いんじゃありません。先生は優しすぎるだけです」
俺は彼女の方を向いた。美生は窓の外を見たまま続けた。
「迷うのは、患者さんの命をちゃんと重く感じているからです。それを悪いことみたいに言わないでください」
その声は静かだったが、芯があった。美生は小さく頭を下げて、ナースステーションの方へ歩いていった。彼女の言葉が胸の奥にゆっくりと落ちていった。優しすぎるだけ。そんな風に言われたのは、医師になって初めてだった。俺はもう一度窓の外を見た。雨は強くなっていた。ガラスに映る自分の顔が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
その日の夕方、外来が一段落した頃、救急の連絡が入った。五十代男性、腹部激痛。意識やや混濁。俺は救急外来へ駆け下りた。ストレッチャーで運ばれてきた患者の顔を見て、俺は息を飲んだ。
村瀬源三。四年前、俺がこの病院で執刀した患者だった。胃癌の難症例。長時間の手術で何度も冷や汗をかいた覚えがある。村瀬は脂汗を流しながら俺の顔を見て、薄く笑った。
「先生、またお世話になります」
「喋らなくていい。すぐ見ますから」
CTを取ると、術後の癒着部に腫瘍の再発が確認できた。場所が悪い。血管を巻き込みかけている。黒崎部長がモニターの前に立ち、しばらく無言で画像を睨んでいた。
「神谷を呼べ」
「部長。明日の朝一で開ける執刀は神谷です」
俺は一瞬言葉に詰まった。
「前回の術野を把握しているのは私です」
「知っている」
「癒着の位置も血管の走行も、執刀した私が一番」
黒崎は画像から目を離さず、低く言った。
「お前は迷う。この症例で迷われたら、患者は死ぬ」
俺は何も返せなかった。
夜になって、神谷が画像確認に来た。彼は俺の隣に立ち、しばらくモニターを見つめてから、ぽつりと言った。
「高先生、前回の手術記録、見せてもらえますか?」
「ああ、全部出す」
「正直、自信はないです。でも、やります」
その横顔は、若いなりに覚悟を決めた顔だった。俺は黙って頷いた。頷くことしかできなかった。
夜、俺は病棟の家族待合室に呼ばれた。ドアを開けると、若い女性が立ち上がった。村瀬の娘、綾だという。二十二歳。四年前に会った時はまだ高校生だった。綾は俺の顔を見るなり、目に涙を浮かべた。
「先生、父のこと、覚えていてくださったんですね」
「ええ。お父さんの手術はよく覚えています」
綾は深く頭を下げた。そのまましばらく顔を上げなかった。
「父はずっと先生のことを話していました。あの時、命を救ってもらったって。先生のおかげで私の卒業式にも来てくれて、就職の報告もできて」
「それは良かった」
「先生」
綾はゆっくりと顔を上げた。目が赤かった。
「明日、執刀されるのは別の先生だと聞きました」
「ええ。神谷という優秀な医師です」
「でも、父は高代先生にお願いしたいと言っています。父は先生を信じています」
俺は口を開きかけて、閉じた。何を言えばいいのか分からなかった。信じているという言葉が、刃のように胸に刺さった。
「お父さんの容態は前回より厳しい状態です。神谷は私より腕が確かです。任せて大丈夫ですから」
「先生、父が信じているのは腕じゃないんです」
俺は綾の顔を見た。
「先生があの時、手術の前に父の手を握って『一緒に頑張りましょう』って言ってくれたこと、父は一生忘れません。あの言葉で父は生きようと思えたって」
俺は覚えていなかった。そんなことを言ったのか。四年前の自分が何を考えていたのか、もう思い出せない。綾は涙を拭いて、もう一度頭を下げた。
「無理を言ってすみません。ただ、伝えたかったんです」
俺は待合室を出た。「信じている」という言葉が頭から離れなかった。
夜が更けて、医局の電気を消した。廊下に出ると、ナースステーションにまだ美生がいた。書類を整理しているらしかった。俺の足音に気づいて、顔を上げた。
「先生、まだいらしたんですね」
「明日の準備を少し」
「明日、村瀬さんの」
「ああ」
美生は手を止めて、俺の顔をじっと見た。
「少し、お話してもいいですか?」
俺たちは夜の休憩室に入った。蛍光灯を一本だけつけて、向かい合って座った。美生は手の中で、あの古びた名札の入った布袋を握っていた。
「先生、この前、見られた名札のこと。ちゃんとお話ししようと思って」
俺は黙って彼女を見た。美生は袋から変色した名札を取り出した。「白川」と書かれていた。
「私が看護師になって二年目の患者さんです。白川さんという、五十代の方でした。私の受け持ちでした。結果は順調だったのに、夜中に急変して。気づいた時にはもう」
美生の声は抑えていたが、震えていた。
「私、自分を許せませんでした。サインを見落としたんじゃないか、もっと早く呼べたんじゃないかって。看護師をやめようと思っていました」
俺は彼女の手の中の名札を見ていた。
「その時、当直で来ていたのが先生だったんです。私が覚えていらっしゃらないと思います。私、ナースステーションの隅で泣いていて。先生が通りかかって、こうおっしゃいました」
美生は少し息を整えた。
「『迷ったり悔やんだりするのは、その人の命をちゃんと重く受け止めてる証拠だ。それは悪いことじゃない』って」
俺は覚えていなかった。だが、それが自分の口から出そうな言葉だということだけは分かった。
「私、その言葉でもう一度この仕事を続けようと思えたんです。だから白川さんの名札は、ずっと持っています。忘れないように。そして先生の言葉も、忘れないように」
俺はしばらく何も言えなかった。膝の上に置いた手を、ただ見ていた。俺は自分が誰かの役に立っていたなんて思っていなかった。
「立っていましたよ。先生はずっと前から、誰かを救ってきた人です」
俺の目の奥が熱くなった。
「明日、神谷先生の執刀で入られるんですよね」
「ああ、そうだ」
「先生は、優しすぎるだけだって、この前申し上げました。でも、今の先生に必要なことがもう一つあると思うんです」
俺は顔を上げた。美生はまっすぐに俺を見ていた。
「ご自分を信じてあげてください」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
休憩室を出て、駐車場まで歩いた。雨は上がっていた。夜空に、雲の切れ間から月が見えていた。俺が彼女を救っていた。そのことが、不思議と俺の背中を押した。明日、何が起きるかは分からない。車のドアに手をかけて、俺はもう一度夜空を見上げた。村瀬さんの顔。あの涙。美生の真っすぐな目。全部胸の中にしまって、俺は車に乗り込んだ。
翌朝、第一手術室の空気はいつもより張り詰めていた。無影灯が村瀬さんの腹部を白く照らしていた。執刀は神谷。第一助手はベテランの医師。俺は第二助手の位置に立っていた。
切開してすぐ、神谷が小さく息を飲むのが分かった。癒着が想定よりはるかに深い。前回の手術の後に再発した腫瘍が絡みつき、血管の境界が見えない。
「まずいな。血管走行が画像と違います」
「先に剥離を進めるか」
「いや、待ってください。ここの層が」
神谷の手が止まった。鉗子の先が空中で迷っていた。無影灯の下、汗が彼の額を伝った。俺はその術野を見ていた。四年前、自分の手で繋いだ場所だ。血管がどう走っているか、どこに余裕があるか。目を閉じても浮かんだ。
正面のガラス越しに、黒崎が立っていた。腕を組み、モニターと術野を交互に見ていた。その視線が、ゆっくりと俺に向いた。黒崎は何も言わなかった。ただ俺を見ていた。昨日までの俺なら、目をそらしていた。だが、今日は違った。
「神谷」
「はい」
「代わります」
自分の口から出た声が、思ったより落ち着いていた。神谷が顔を上げた。驚きと安堵が混ざった顔だった。
「お願いします。高野先生」
「高代」
黒崎が声を出した。
「私にやらせてください」
「やれ」
短いやり取りだった。俺は手袋を変え、術者の位置に立った。隣に美生が立った。器械出しの位置だ。彼女はいつもと同じ静かな目で俺を見ていた。
「高先生、あなたなら救えます」
その一言で、指先の震えが止まった。俺はゆっくりとメスを受け取った。四年前、この腹を開けた時の感覚が手のひらに戻ってきた。血管の走行、組織の硬さ、剥離の手応え。全部、俺の手が覚えていた。
「ここから層を変えます。鉗子、二センチ下げて」
「はい、分かりました」
「器械、もう一本頼む」
「どうぞ」
美生の手は、俺が言葉にする前に動いていた。俺が必要とする器具が、必要な時に、必要な位置に出てくる。癒着の一番深い場所に到着した。数秒、俺は術野を見つめた。迷いではなかった。見極めだった。血管の走行をたどり、一番安全な層を頭の中で描いた。
「ここから入ります」
メスが入った。血が滲んだが、想定の範囲だった。腫瘍がゆっくりと血管から離れていった。第一助手が小さく息を吐いた。ガラスの向こうの黒崎が、組んでいた腕を解いた。
手術は三時間続いた。最後の縫合を終え、俺は手を止めた。
「閉じます」
手術室を出ると、廊下に村瀬の娘、綾が立っていた。俺の顔を見て、彼女は深く頭を下げた。頭を下げたまま、肩が震えていた。
「先生、ありがとうございます」
「お父さんは、よく頑張れました」
「先生も。先生もありがとうございます」
その声を、俺は一生忘れないと思った。
医局に戻る途中、黒崎と廊下ですれ違った。黒崎は俺の前で足を止め、しばらく俺の顔を見ていた。
「高代」
「はい」
「お前は迷う男だ。だが、今日は迷わなかったな」
「はい」
「いい手術だった」
それだけ言って、黒崎は背を向けて歩いていった。
医局に入ると、神谷が立ち上がって俺を待っていた。彼は深く頭を下げた。
「高先生、今日は本当に勉強になりました」
「お前のおかげで、俺は立てた」
「いえ。先生の手元、ずっと見ていました。あれが外科医の手なんだと思いました」
若い男が、まっすぐに俺を見ていた。俺はただ頷いた。言葉にすると、何かが崩れそうだった。
その日の夕方、村瀬は意識を取り戻した。ベッドの脇で綾が父の手を握っていた。俺が病室に入ると、村瀬はにっこりと笑った。
「先生、二回も助けてもらって」
「お互い、しぶといですね」
村瀬は小さく笑って、目を閉じた。綾がその横で、声を殺して泣いていた。窓の外は夕焼けだった。オレンジ色の光が、ベッドの白いシーツを染めていた。
廊下に出ると、美生が壁に寄りかかって立っていた。俺の顔を見て、ほっとしたように笑った。俺は何も言わずに、彼女の隣に並んだ。二人とも、しばらく窓の外を見ていた。
それから季節が変わった。俺は執刀医として、再び手術台に立つようになった。迷うことがなくなったわけではない。ただ、迷うことをもう恐れなくなった。迷いの先で決断する手を、自分の中に持てるようになった。
ある日の夕方、仕事を終えて、俺は美生と二人で病院を出た。近くの小さな公園のベンチに、自然と並んで腰を下ろした。桜が散り終わって、若葉の季節だった。風が青い匂いを運んできた。
「美生」
「はい」
「俺は、お前がいたから立てた。これからも、俺の隣にいてほしい」
美生はしばらく俯いていた。やがて顔を上げると、目に涙が滲んでいた。
「泣きながらで、すみません。私も、隣にいさせてください」
俺は彼女の手を握った。
一年後の春、俺たちは小さな結婚式を挙げた。病院の仲間だけを呼んだ、温かい式だった。黒崎は不器用な祝辞を述べた。
「高代は迷う男だ。だが、迷うからこそ患者の命を重く扱える。朝倉君、こいつを頼む」
それだけ言って、席に戻った。神谷は満面の笑顔で何度も乾杯の音頭を取った。村瀬と綾も、一番前の席で拍手をしていた。綾は終始泣いていた。
そして今、朝の手術室前の廊下を、俺と美生は並んで歩いている。
「先生、今日も行きましょう」
「ああ、行こう」
俺は力強く頷いた。彼女が先に手術室に入っていく。廊下の窓の外、空はよく晴れていた。昔、雨の夜に映った自分の顔を、ふと思い出した。あの夜、やめようと思っていた男が、今ここを歩いている。俺はもう役立たずではない。医師として、夫として。隣を歩く彼女と一緒に。


