全社員を集めた会議の場で、新人の専務が言い放った。お前のやり方は古い。部長失格だ。広告か左遷か、どちらか選べ。
俺は上園、五十二歳。設備メンテナンス会社に入社して三十年。営業部長を務めて二十年になる。工場や商業施設の空調、電気、給排水といった設備を定期点検し、故障が起きる前に手を打つ。それが俺の仕事だ。
担当する顧客は百社を超える。その数字は、ただ成果を稼ぎたかったからではない。目の前の人間に誠実に向き合ってきた結果だと思っている。
ある日の午前、食品加工工場を訪れると、設備担当者が冷凍設備の前で腕を組んで立っていた。
「どうかしましたか」
声をかけると、担当者は口ごもった。「いや、大したことじゃないんですが、最近ちょっと気になることがあって」
俺はすぐに設備へ近づき、耳を傾けた。前回の点検と比べて、細かな振動がわずかに増している。コンプレッサーの内部ベアリングやガスケットが、長年の使用で少しずつ摩耗しているのだ。その変化は、数値に出る前に音と振動のずれとして現れる。
毎月同じ設備に触れ、同じ担当者と言葉を交わしてきたからこそ、正常時との差が感覚として刻まれている。マニュアルにもデータにも、この感覚は残せない。十年、二十年の積み重ねだけが、この違和感を異常と判断させる。
「部品が痛み始めています。気温が上がった時に負荷がかかって止まる恐れがあります。交換の手配をしましょう」
担当者の表情が一気にほぐれた。「ありがたい。来月から繁忙期なんで、止まったら困ると思っていたんですよ。上園さんはいつも、こちらが気づく前に見つけてくれますよね」
気づく前に見つける。それが俺のやり方だ。設備の状態だけでなく、顧客の仕事の繁忙期や、現場の小さな変化、担当者の様子も常に把握しておく。
「そういえば、お嬢さんの受験は先月でしたよね」
「ええ、おかげ様で第一志望に合格しました」
担当者の顔がふっと明るくなる。こんなやり取りは業務報告書には書けない。しかし、些細なやり取りの積み重ねこそが、長く続く取引の土台だと確信している。
車に戻ると、スマートフォンに着信が入っていた。別の顧客先から、俺の個人携帯への直接着信だ。「会社にかけるより、上園さんに直接かけた方が早いから」と、担当者は気軽にそう言う。しかし、その気軽さこそが、俺と顧客の間に育んできた信頼の証なのだ。
夕方、会社に戻ると部下の真田が声をかけてきた。
「来月着任する新専務の話、聞きましたか。コンサル出身で、データと数字で会社を変えるって意気込んでいるらしいですよ」
「ああ、耳には入っているよ」
「どうも最初に改革の手をつけるのは営業部だと触れ回ってるようです」
データと数字。俺がやってきたことは、その逆だ。顧客の担当者の眉間のしわ、電話口の声のトーン。数値化できないものばかりだ。しかし、新専務が何と言おうと、俺は自分のやり方を変えるつもりはなかった。
翌月、コンサル会社出身の中西が正式に新専務として着任した。全社員が集まった場で、中西は自己紹介の後、データに基づくコスト削減と利益率向上のための抜本的な改革が必要だと力説した。心なしか、中西の視線が俺に向けられているような気がした。
俺の抱える顧客は、数は多くとも利益率の低い案件ばかりだ。中西の改革の標的になりやすいのは、その意味で当然かもしれない。
着任から二週間後、中西は全社会議を招集した。参加者は七十八名。営業、管理、現場の各部門が一堂に会する場だ。ただし、社長の岩瀬は海外出張のため出席していない。中西が社長不在の隙を狙ったのかは定かではない。しかし、俺は嫌な予感を覚えた。
議題は営業改革。中西は冒頭、我が社と契約を結んだ案件リストをスクリーンに映した。俺が担当する百社の取引先も一覧に並んでいる。リストの右端には各案件の利益率が記されていた。
中西はまっすぐに俺を見た。「この上園部長が抱える案件群を見てください。低利益の塊です」
多くの社員の視線が俺に集中する。正面を向いたまま、俺は中西の言葉を聞いていた。数字だけで見れば、低利益という指摘は正しい。しかし、その一覧に映っていないもの、顧客ごとの事情や長年かけて育んできた信頼関係の厚さについて、中西は一切言及しない。数字で表す方法などないからだ。
「さらに問題があります」
中西がもう一枚のスライドを出す。営業部全員の一案件あたりの平均利益率と、費やした時間・移動時間の合計の相関グラフだった。俺のデータは、最も時間をかけ、最も利益が薄い領域にあった。
中西は会議室を見渡しながら言った。「これは何だと思いますか。ただの無駄です。一見顧客のためという美名に隠されていますが、会社の貴重な人件費と時間を浪費しているだけだ」
俺は奥歯を噛んだ。何年もかけて顧客との間に作ってきたものが、無駄に塗り替えられたのだ。しかし、声を荒げることはしない。怒りを表に出すことが、今この場で最善でないことは分かっていた。
「結論を言います」
中西は俺に向き直り、七十八名の目が集まる中で断言した。「お前のやり方は古い。はっきり言って部長失格だ。広告か左遷か、どちらか選べ」
一瞬の静寂の後、後列から声が上がった。「反面教師にします」
今年入社したばかりの新入社員で、営業部に配属された星野の声だった。数人の社員から笑いが起きたが、俺は気にも留めなかった。
中西は薄笑いを浮かべながら、俺の答えを待っている。広告か左遷か、どちらかを選べば、俺はこの男の土俵に乗ることになる。顧客は数字ではない。日々の仕事の暮らしに悩み、苦しみ、そして喜びを感じながら生きる人間だ。それを共有することで作り上げてきた信頼関係を、中西の土俵の上で判断されたくはない。
俺は覚悟を決めて、口を開いた。
「では、退職します」
会議室が再び静まり返った。七十八名の誰一人として、声を発しなかった。中西の表情が一瞬だけ崩れた。想定していなかった答えだったのだろう。しかしすぐに余裕を取り戻した顔で言った。「はあ、いいだろう」
広告でも左遷でもなく、退職。それが俺にできる唯一の反論だった。俺は答えず、静かに一人で会議室を後にした。
その日の夕方、急いで書いた退職届を人事に提出した。自分のデスクに戻ると、真田が近寄って言った。「上園部長のやり方が間違っているとは思いません」
そういう真田の目に、俺を哀れむ色はない。「そのうちわかる」
俺は微笑みながらそう言い、静かに会社を後にした。
退職した翌日の朝、俺が担当していた顧客の一人から着信が入った。会社から担当変更の連絡が来たという。中西のことだ。視せしめのつもりだったのかもしれない。その知らせを受けた顧客たちが、俺の携帯に電話をかけてきたのだ。
長年付き合いのある機械部品メーカーの担当者は、驚きを隠さずに言った。「上園さん、本当にやめられたんですか。昨日付けで。急でしたね。会社で何があったんですか」
俺は簡単に事情を話した。電話の向こうでしばらく沈黙があった後、担当者が言った。「そうでしたか。上園さんには何度も助けてもらったので、いなくなるのは正直困ります。新しい担当が上園さんのように動いてくれるか、正直不安です」
その言葉を聞いた瞬間、顧客がこうして自分から電話をかけてくるという事実が、俺に次の道筋を教えてくれているような気がした。
電話は次々とかかってくる。食品加工工場の担当者、商業施設の管理責任者、長い付き合いの科学メーカー。いずれも声の端々に、俺がやめたことを惜しむ気持ちがこもっている。
「もし独立されるなら、ぜひうちと契約を」
五件目の電話でそう言われた時、独立という言葉が現実味を帯びて耳に響いた。一方で、これでいいのかという疑問も湧き起こる。感情に任せて会社を飛び出したのではないか、逃げではないのか。しかし、次々とかかってくる顧客からの電話が、その問いを静かに消していった。
これは逃げではなく、選択だ。俺が長年かけて築いてきたものが、今まさに次の仕事の場所を呼び込んでいる。それが分かった瞬間、迷いは跡形もなく消えていった。
俺はその日から開業準備を始めた。個人事業主として税務署に開業届を出し、屋号を決め、請求書の書式を整えた。保険の手続き、契約書のひな形の作成。サラリーマンとして三十年間、一度もやったことのない作業が並んだ。しかし不思議と怖さはない。電話口で俺の名前を呼ぶ顧客たちの声がある限り、俺の手は迷いなく動き続けた。
一つだけ決めたことがある。自分からは顧客に声をかけて回らないことだ。連絡をくれた相手に、これまで通り誠実に応じるだけ。技術的な作業は、長年の付き合いで信頼を積み上げてきた協力業者に任せる。俺の仕事は、顧客が何を必要としているかを誰よりも早く察知し、最適な手を打つことだ。それは三十年前から、何一つ変わっていない。
退職から二週間後、俺は個人事業主として開業した。働き方は以前と変わりない。ただ、誰かに利益率を管理される立場ではなく、自分の判断と責任だけで動く。以前の顧客から連絡が入れば、それがそのまま俺の顧客に変わっていく。依頼があり、対応し、感謝される。それだけのことが積み重なっていく。
ある日、取引先の倉庫施設を点検した帰り、担当者が見送りながら言った。「連絡を入れれば、すぐにこうして来てくれる。これほどありがたいことはない」
「必要な時に来られなければ、メンテナンスの意味がないですから」
担当者は小さく笑って、「また来月もお願いします」と言った。
しかし、かかってくる電話の全てがこうした穏やかなものではなかった。
数日後、長く付き合いのある商業施設の担当者から、声を潜めた電話が入った。
「実は上園さんが前にいた会社から連絡が来ましてね。上園が客を持ち逃げしていると言われたんです。こちらは上園さんに頼もうと思っただけなのに、すっかり迷惑ですよ」
退職後、自分から顧客に連絡を入れたことは一度もない。顧客が自分の意思で選んで連絡してきた。それが筋というものだ。その顧客を、今度は会社が圧力で縛ろうとしている。中西なら、それくらいのことはやりかねない。俺はそう踏んだ。
退職から三週間が過ぎた頃、電話が入った。「上園部長、お元気ですか」
電話口の真田の声は、以前より重く疲れていた。
「最近どうだ」
俺が聞くと、しばらく間があった。「中西専務は相変わらずデータの話ばかりです。ですが現場はもう、その通りには回っていません。後任に引き継いでも、顧客ごとの設備の癖もこれまでの経緯もデータにはありません。問い合わせと苦情の電話が増えて、もう手が回らないんです。社長もさすがに様子がおかしいと気づいたようで、中西を社長室へ呼ぶ姿を何度か見かけました」
そう言って、真田は深いため息をついた。「実はもう一つ、お伝えしたいことがあります。あの会議で星野が言った『反面教師にします』という言葉、あれは命令だったらしいんです。会議の前日の夕方、星野が専務の部屋に呼ばれているのを見ていた社員がいまして」
それを聞き、俺は星野を責める気にはなれなかった。入社したばかりの若い社員が、専務の命令を断れるはずがない。権力を持ち、数字を握り、若い社員を道具にまでして俺を貶め、自ら掲げた方針に固執するやり方に、静かな怒りを覚えた。
短い沈黙の後、真田はこぼすように言った。「自分も、いつまでここにいるべきか正直分からなくなってきたんです」
その言葉の意味はよく分かった。だからこそ、励ますように言った。「真田、お前は能力のある人間だ。それは俺がよく分かっている」
「ありがとうございます。今の自分があるのは、上園さんという見本がいたからです。でも、今のこの会社はそれが評価される環境ではありません」
真田は気を取り直したように言った。「もう少し状況を見ます。また連絡させてください」
電話を切っても、頭から離れなかったのは、声を潜めて苦情を訴えた担当者の声だった。顧客が俺と会社の間で苦しんでいる。それを黙って見ているわけにはいかない. 退職から一ヶ月、俺は腹を決めた。ではなく、岩瀬社長に直接会おう。あの会社に入社して三十年、ずっとその背中を見てきた人物だ。話が通じる余地はまだ残っているはずだ。伝えるべきは、顧客を窮地から解き放つこと。そして、今何が起きているのかを数字ではなく事実として、岩瀬社長に示すことだ。
岩瀬社長への面談を申し込む連絡を入れると、面談はその週のうちに決まった。指定されたのは、本社の小さな会議室だった。
俺は中西への恨みを晴らすために来たのではない。顧客を俺と会社の間で苦しむ立場から解き放すために来たのだ。その一点だけを胸の真ん中に置いていた。
部屋に入ると、岩瀬が中央に座っている。その顔には、俺が知っている精錬さはなく、どこかやつれているように見えた。その隣に中西が浅く腰かけている。そして奥には、もう一人が硬い表情で座っていた。
「中西の他に、現場を一番近くで見ている真田君にも同席してもらう」
俺の視線に気づいた岩瀬がそう言った。苦情や問い合わせの電話を受けてきた真田を、岩瀬は自ら呼び寄せたのだ。
俺は控えていた一枚の紙をテーブルに置いた。そこに並ぶのは、俺自身が知り得る数字だ。
「私が会社を離れて、ちょうど一ヶ月です。この間に八十社を超える元の顧客が私の携帯に直接連絡をくれました。そのうち二十社とは、すでに新しい契約やその相談に入っています」
誰かを責める言い方はせず、ただ起きた事実だけを告げた。岩瀬が真田に目を向ける。真田は一度息を整えてから、話し始めた。
「上園さんが退職後、後任に引き継ぎました。ですが、顧客ごとの設備の癖もこれまでの経緯も書類には残っていません。担当者が客先で困惑することが続いて、問い合わせと苦情の電話はこの一ヶ月で百件を超えました。朝から晩まで鳴りやまず、現場はもう回らなくなっています」
真田の声はわずかに震えていた。会議室の空気が重く沈む。
中西がそこで口を開いた。「これは一時的な摩擦に過ぎません。新しい体制に移る時の避けられないコストです。顧客もいずれ、後任の担当者に慣れるはずです」
淀みのない言葉が並ぶ。だが、一ヶ月で百件という数字を前にして、その理屈は空しく聞こえる。中西は俺を一瞥してから続けた。「そこから離れた二十件は、上園さんの口車に乗っただけでしょう。元々利益率の低い案件です。すぐ取り返せます」
俺は落ち着いて答えた。「顧客はご自分の意思で選ばれました。私が誘ったわけではない。連絡をくれたのは、いつも顧客の方からでした」
中西の表情が初めて動いた。「あなたのやっていることは不正競争だ。うちの顧客を奪わないでいただきたい」
語気を強めたその声には、さっきまでの余裕がなかった。
俺は一ヶ月前のあの会議で中西が言い放った言葉を、そのまま返した。「あなたは言いましたね。顧客のために時間をかけることは、会社の人件費と時間の浪費に過ぎないと。ですが、その浪費と呼んだ時間の積み重ねだけが、会社と顧客を繋いでいた一本の糸だったんです。それをご自分の手で断ち切ったことが、今この会社を追い詰めているんです」
中西は口を開きかけ、そのまま閉じた。
岩瀬が言った。「中西君には数字は見えていたのかもしれない。だが現場は何一つ見えていなかった。営業改革の指揮は、一旦私が預かる。君の処遇は会議を含めて検討させてもらう」
岩瀬は俺に戻ってきてほしいと言った。俺は断った。「私が戻れば、顧客はまた巻き込みになります。それだけはもう終わりにしなくてはなりません。引き継ぎには、できる限り協力します」
席を立つ前に、中西に向き直った。あの会議で命令されて「反面教師」と言わされた新入社員の顔が浮かぶ。
「中西さん、今回のあなたご自身の態度を、反面教師にしてください」
席を立った時、真田と目があった。真田は無言で小さく頷く。俺も頷き返した。
数週間後、中西は取締役会の決議で解任された。顧客に多大な不利益を与えたことが理由で、そのまま会社を去ったという。それ以上の感慨はない。
一ヶ月後、真田が事務所を尋ねてきた。
「一緒にやらせてください」
俺は向かいの椅子を示し、笑みを浮かべた。
「頼むよ」
顧客は少しずつ増えていくが、俺がやることは変わらない。目の前の人間に誠実に向き合う。それが顧客との信頼関係を作り、長く安定した取引の土台になると、俺は信じている。



