「このままじゃ会社が潰れる」——会議室に響いた若い社長の悲痛な叫びが、私の日常を一瞬で塗り替えた。ここは大手グループの傘下にある小さな子会社。もともと経営は綱渡りで、そこへ親会社の基幹システム障害が追い打ちをかけた。在庫の行き先は分からず、取引先への連絡もままならない。売上は急落し、事業の見直しまで迫られていた。誰もが下を向く中、私は立ち上がって宣言した。「俺が本社に行ってきます」。だが、そ…

「このままじゃ会社が潰れる」——会議室に響いた若い社長の悲痛な叫びが、私の日常を一瞬で塗り替えた。ここは大手グループの傘下にある小さな子会社。もともと経営は綱渡りで、そこへ親会社の基幹システム障害が追い打ちをかけた。在庫の行き先は分からず、取引先への連絡もままならない。売上は急落し、事業の見直しまで迫られていた。誰もが下を向く中、私は立ち上がって宣言した。「俺が本社に行ってきます」。だが、そ...

このままじゃ会社が潰れる。会議室に若い社長の悲痛な叫びが響き渡った。ここは大企業の傘下にある小さな子会社。元々経営は綱渡りだったところへ、親会社の基幹システム障害が追い打ちをかけた。在庫の行き先が分からなくなり、取引先への連絡もままならない。売上は急落し、事業の見直しまで迫られていた。

やっぱり本社のシステムが完全に止まってるみたいです。データが取れないんです。取引先との契約だって破棄されそうだし、支払いも滞っています。社員たちは次々と追い詰められた表情を見せる。俺も危機感を抱かずにはいられなかった。だがただ嘆いていても事態は好転しない。俺は立ち上がり、全員の視線を背中に受けながら宣言した。

俺が本社に行ってきます。

会議室が静まり返った。誰もが信じられないといった顔でこちらを見つめている。大丈夫なんですか?君一人が行ったところで。同僚が心配そうに問いかける。彼がそう言うのも無理はない。俺は本社から役立たずというレッテルを貼られ、左遷させられてここにいるのだから。だが俺は落ち着いた口調で答えた。

心配ない。なぜなら俺は――

そこまで言ったところで、場の空気が一気に緊張するのを感じた。何かが動き出す予感に、みんなの息が止まったようだった。俺が親会社に乗り込んで、止まったシステムを何とかすることなど本当にできるのか。そもそも左遷された身でありながら、再び本社に関わることが許されるのか。それでもここで動かなければ、この会社は潰れてしまう。ならばやるしかない。

すぐに戻るさ。待っててくれ。そう言い残し、俺は会議室を出ていった。この行動が後に会社を巻き込み、俺の人生を大きく変えることになるとは、この時は知る由もなかった。

俺の名前は真部蒼太。アリス川グループ本社のシステム部門でエンジニアをやっていた。いや、やっていたという過去形にするには、まだ俺の席はそこにある。だがほとんど形だけだ。明日にはここを出ていかなくてはならないらしい。昼夜を問わずシステムの最適化に没頭していた頃が懐かしい。コーヒーを片手にサーバールームでずっとログを眺め続けた日もあったし、コードを書いては消し、トラブル対応に追われていた時期もあった。それでも達成感があったんだ。子供の頃から夢中になれるものなんて、そうそう見つかるわけじゃない。俺にとってプログラムは数少ない逃げ場であり、誇りでもあった。

それに俺にはこの会社で頑張る理由があった。実家は小さな商店を営んでいたけれど、家族みんなが苦労していた。学校の学費も苦しかった。でも不思議な縁でアリス川グループの社長の息子、アリス川涼と出会って、そいつが俺の人生を変えた。あれは中学の頃だったか。近所の公園で一人でノートパソコンを触っている俺に、スーツ姿の使用人を伴って涼が現れた。漫画に出てきそうな金持ちスタイルの同年代の子を、俺は生まれて初めて見た。最初は気後れして逃げ出そうとした。でも涼は俺が作った簡単なゲームプログラムを興味深そうに覗き込んできた。見た目は完璧な王子様でも、プログラムの画面を見て目を輝かせる姿は純粋だった。そこで意気投合した俺たちは、案外話が合い、将来は一緒にすごいものを作ろうなんて少年らしい夢を語った。二人で起業してIT業界に革命を起こすんだと。まだ子供ながらに語り合ったその日は、俺の中で特別な光になった。

あれから高校生になっても、たまに連絡を取り合った。涼は普通の進学校に通っていたが、俺はバイトをしながら通信制の高校をどうにか卒業した。決して同じペースではなかったけれど、それでも涼はお前なら絶対うちの会社でやっていけるぞと笑ってくれていた。それが実際に実現したのは、俺が二十歳を少し超えた頃だ。アリス川グループの新卒採用枠に応募し、面接と筆記を経て合格した。もちろん社長の息子の友達という色眼鏡で見られたことは確かだ。でも俺はやましいことは何もないし、試験の結果も実力で勝ち取ったつもりだったから、胸を張って入社した。

最初の頃は周囲からの目線が厳しかった。どうせ涼さんと仲がいいから優遇されてるんじゃないのか、と影で言われているのを知っていた。だけど俺は笑って耐えた。ここで結果を出せばいいだけの話だと自分に言い聞かせながら。幸いプログラムの領域では、俺は常に最前線でいる自信があった。新製品向けのテストプログラムを任された時も、納期ギリギリまで粘って精度を追求し、大きなトラブルを未然に防いだ。実績を積み重ねていくうちに、同じ部署の先輩も手を差し伸べてくれるようになり、実力のあるやつだと評価してくれる人も増えた。俺はこの場所でなら、涼と一緒に夢を追いかけられるかもしれない。そんな期待を抱いていたんだ。

しかし数年後、肝心の涼との間に距離ができていた。顔を合わせれば言葉は交わすけど、以前のような親密さは感じられなくなっていた。彼は次期社長候補としてのプレッシャーを背負っていたのかもしれない。ある時、俺が大きなプロジェクトで成功を収めた後、涼は祝福の言葉どころか軽い皮肉混じりに「さすがだな」と言った。その言葉に嬉しさは感じられなくて、どこか妬ましい視線だけが残った。それでも俺は入社して数年が経つうちに、システム開発部門の中核として仕事をこなしていた。自分の技術を最大限に発揮できる場所を与えられている幸せを感じていたし、何よりも夢中になれるプログラムを書いて成果を出していくことが、俺にとっての生きがいだった。

ところが、そんな安定はあっけなく壊される。ある朝、上司から社内での移動が決まったと告げられた。ほとんど通告に近い形だった。アリス川グループの傘下には大小様々な企業がある。だがそれらは基本的に業績不振や経営立て直しが必要なところばかりで、グループ本社から人材を送り込んで立て直すのが通例だと聞く。まさか俺が行くことになるなんて、夢にも思っていなかった。成績が悪いわけじゃない。むしろ表彰も受けた。上司に理由を聞くと、曖昧に「お前なら立て直し先でも貢献できる。期待してるぞ」と言われた。ただその言葉の裏に何か含みがあるのを感じたのは確かだった。

翌日の夕方、最後に自分のデスクで荷物をまとめていると、不意に背後から声がかけられた。振り返ると、どこか他人行儀な笑みを浮かべた涼の姿があった。以前は明るい笑顔が印象的だったはずなのに、今の彼からはその面影すら感じられない。まるで俺の存在を妬むかのような冷えきった視線が向けられていた。

急な話だったからな。プロジェクトだってまだ途中だし、俺何か大きなミスでもやらかしたのか。自嘲気味に言葉を返しながらも、内心は不安でいっぱいだった。涼はそんな俺の様子をまるで楽しむかのようにニヤリと笑った。

ミス?さあな。ただお前、ちょっと暴走気味だったろ。新技術を試すだの、余計なコストをかけるだの。俺は会社の利益を最優先に考えてるんでね。だからお前には一旦向こうで頭を冷やしてきてもらおうってわけさ。

俺は思わず声を荒げそうになるのをぐっとこらえ、冷静に反論した。でも今の時代に新しい技術を試さなかったら、どんどん競合他社に遅れを取る。現状維持ばかりに固執していては、会社の未来はないと思うんだが。すると涼は呆れたように肩をすくめて鼻で笑った。

まあまあ、そう熱くなるなよ。理想論を語ってる暇があったら、まずは周りに合わせることを覚えたらどうだ?お前が思うほど簡単な話じゃないんだよ。

涼の目には明らかに軽蔑の色が浮かんでいる。俺がこれ以上言い返せないでいると、彼はさらに嘲るように口元を歪めた。そういえば思い出したけど、一緒に会社を大きくしようだの、昔お前がやたらと語ってた夢みたいなものがあっただろ。まだそんな寝言みたいな話を引きずってるのか?

あまりに突き放した言い方に、胸の奥がちくりと痛んだ。でもそれでも言わずにはいられなかった。

忘れたわけじゃない。お前と語ったことを、俺はずっと信じていた。だってあの時はお前も同じ気持ちでいたはずじゃないのかよ。

思い切って口にした途端、涼はケラケラと笑い出し、心底呆れたように首を振った。お前、いつまでそんな子供みたいなこと言ってんの?悪いけどはっきり言ってやるよ。今回の左遷を指示したのは俺だ。お前、うちの会社にはいらないんだよ。成果を出してるってお前が思ってるほど、大したもんじゃないってのがこっちの評価なんだよ。

言葉を投げつける涼の瞳には、かつての友人としての温かさは微塵もない。じゃあな、向こうで冷やしてこい。最後にそう吐き捨てると、涼は振り返りもせずに去っていった。俺は悔しさで胸がぎゅっと締め付けられた。しかし怒りと悲しみが混じったこの感情を、今ぶつける当てもない。だからこそ俺は唇を噛みしめながらダンボールを抱え、決意を新たにした。いいさ、思う存分やってやる。どんな逆境でも必ず結果を見せてみせるからな。

そうして俺は新たな環境に意欲を燃やしていた。どんな逆境でもやるべきことをやって結果を出してやる。そう誓いながら、俺は桜テックのオフィスの扉を開いた。

ようこそ桜テックへ。俺を出迎えたのは四条水希。まだ若い女性社長だった。先代である彼女の父親が体調を崩して急遽交代となったらしく、彼女が社長に就任してからまだ日が浅いという。初対面の印象は、整った顔立ちや凛とした態度も相まって、どこか近寄りがたい雰囲気があった。最も、その瞳の奥には少し疲れや焦りの色が見えていたが。

うちは今、あまりいい状態とは言えないわ。取引先からの信用も揺らぎかけているし、社内の管理システムもボロボロで、正直あなたを迎える余裕すらないのが実情よ。

実際、桜テックは危機的状況にあった。中でも致命的だったのが在庫管理の混乱だ。製品や部品の在庫数をバラバラのシステムでチェックしているせいで、発注漏れやダブルブッキングが頻発していた。手書きの伝票や旧式の表計算ソフトでやりくりしているんです。データが散在していて、私もどこから手を付けたらいいのか。そう言ってため息をつく水希を前に、俺は兼ねてから作り込んでいた一元管理システムの存在を打ち明けた。

独自の暗号化技術を組み込んであり、業務規模に応じて機能を追加できる拡張性が売りです。試験導入させてもらえますか?まずは在庫と受注だけでも一本化して、データの整合性を取ってみましょう。

そんなに短期間でできるものなの?やってみないと分からないですけど、今よりはずっとマシになりますよ。最初の設定と社員の方々の協力が必要ですけどね。

水希はしばし考え込んだ後、意を決したように頷いた。分かった。私も現場の社員たちに声をかけて、できる限り協力してもらうようにするわ。

しかし準備は想像以上に大変だった。各部署が独自に作り上げてきた管理表をかき集めるところから始まり、入力ミスや重複の洗い出し作業は膨大だった。「こんなの使いこなせるのかよ」「今までのやり方の方が慣れてるし楽なんだけどな」と、新人からベテランまで不安混じりの声が上がる。中には社長が変わった途端に急にこんなシステムを入れようとか言われてもな、と不満をあらわにする者も少なくなかった。水希は悔しそうに唇を噛んでいたが、表立って反論しようとはしなかった。周囲の視線を気にしながら、なんとかこらえている様子だった。

俺はその様子を見かねて一度手を止めた。皆さん、確かに今までのやり方を変えるのは大変だと思います。でもこのシステムが軌道に乗れば、はるかに効率が上がるはずですよ。百聞は一見にしかず。とりあえずテスト環境で一度試してみてください。きっとイメージが変わるはずです。穏やかでありながらもはっきりとした口調で言うと、一部の社員は反発の目を向けた。でも俺は構わず前に踏み出す。

それに、このシステムを導入しようと言い出したのは水希社長だけじゃなく、俺も技術者として本気で提案しているんです。お互い会社を良くするためにベストを尽くそうとしてます。新しい方法が全て正しいとは言いません。でも、すでに限界を迎えてる部分があるのも、皆さんだって分かってるはずでしょう。

一部の社員たちが互いに目を合わせる。その隙をつくように水希も前に出た。もちろん私にまだ足りないところがあるのは自覚しています。若くて経験も浅いと見られるのは仕方ありません。でもだからこそ、私は皆さんの力が必要だと思っています。お願いです。どうかもう少し協力してもらえませんか?

水希は頭を下げたまま真剣な眼差しを向けた。前までの彼女なら、こんな風に自分の弱さを見せることなどなかったかもしれない。それだけ切羽詰まっているのだと、周囲も感じ取ったようだった。すると社員の一人がしぶしぶといった様子で手を上げた。じゃあ試しにやってみるよ。どうせこのままだと在庫もダブついてるし、先月だって大口取引を他社に取られて痛い目見たばかりだからな。他の社員もそれに続き、少しずつ同意の声が上がっていった。

水希も安堵の表情を浮かべ、俺に微笑みかけた。ありがとう、真部さん。あなたが言ってくれなかったら、私一人じゃどうにもならなかったわ。いえ、社長がちゃんと前に出て声をかけてくれたからですよ。俺はただ横から少し手伝っただけです。そう言いながら、俺は再び端末を操作して在庫管理モジュールの初期設定を説明する。まだ不満げな社員もいたが、実際にシステムにデータを入れ始めると、その便利さに目を見張るものが増えていた。これでリアルタイムに在庫数量が分かるのか。以前の表計算ソフトよりもだいぶ早いな。重複チェックも自動でやってくれるのか。次第に驚きと好奇心が社員たちの表情を変えていく。

こうして俺の技術は少しずつ社内で認められていき、同時に水希も大きな変革に挑戦する若い社長として社員たちから一目置かれ始めていた。冒頭で抱いていた不安感が薄れていくにつれ、会社全体の空気が微妙にだが確実に好転していくのを感じた。導入した一元管理システムは稼働が安定し、在庫や受注処理の効率化によって取引先からの評価も上向いた。新規の取引の話もちらほら入り始め、社内はこれまでにない活気に包まれつつあった。

そんなある日の夕方、新システムの運用レポートをまとめた俺は、休憩がてら社長室を訪ねた。デスクの上で書類を整理している水希の横顔には、まだ少し疲れが色濃く見える。今日はもう上がりますか?最近はずっと残業続きですよね。そう声をかけると、水希は書類を重ねたまま手を止め、軽くため息をついた。そうよね。父が倒れた時もそうだったけど、もし私まで倒れちゃったら笑い事じゃないわね。本当に、あなたに社長を代わってもらおうかしら。軽い調子で口にしたその言葉に、俺は思わず息を飲んだ。え、冗談やめてくださいよ。

ごめんなさい。言うだけならただでしょ。でも本当にあなたがいなかったら、今頃どうなっていたかって思うのよ。私よりよっぽどしっかり会社を動かしてくれそうだもの。水希は書類をどかして机に肘をつき、やや上目遣いに俺を見る。先ほどまでの凛とした表情とは打って変わって、どこかほっと肩の力を抜いた素の表情だった。俺はまだ動揺を引きずりながら、なんとか言葉を返す。さすがに社長なんて柄じゃないですよ。

そうかしら。でもあなたなら、ちゃんとやり遂げられそうだけどな。小首をかしげるように笑った水希は、すぐに真剣な顔へと戻った。そして、少しためらうように言葉を続けた。ところで真部君、あなたどうしてうちみたいな会社に来たの?優秀だって噂は聞いてるし、実際にこれだけのシステム開発の腕を見せてもらったら、なるほどって思うわ。けど左遷されてきたっていう話が噂になってるのは、何か理由があるんでしょう。

彼女の瞳は好奇や詮索というよりも、ちゃんと知っておきたいという誠実な思いで満ちているように見えた。それが伝わったからか、俺は自然と隠さずに打ち明けようと思えた。自分でもはっきりとは分からないんです。大きなミスをした覚えはなくて、むしろ成果を出してきたと思っていたんですが、ある日突然本社から別の会社へ行ってくれって言われて。いや、もっと直接的に言えば、お前はいらないみたいなことを言われたんです。声に出してみると、改めて胸の奥がちくりと痛む。信じていた友人だったはずなのに冷たく突き離されて、正直まだ整理がつかないんです。

水希はわずかに目を伏せた。彼女はデスクの縁を指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。それって、社長の息子さんのこと?思わずどきりとしてしまう。まさかその名前をここで出されるとは思っていなかったからだ。俺が黙り込むと、水希は少しだけ申し訳なさそうな表情で続けた。ごめんなさい。あらかじめどんな人がうちに来るのか調べさせてもらってたの。会社を預かる身だし、来てくれる人がどんな経歴や実績を持ってるのか把握しておきたくって。

え、いいんです。隠すようなことでもないですから。そうです、アリス川グループの涼です。元々は学生時代からの友人で、立場が違ってもお互いを尊重し合えてると思ってたんですけど。自嘲気味な笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。今でも涼が態度を急に変えた理由は、はっきりとは分からない。彼なりの事情があったのかもしれないが、俺の方はその変化に追いつけず、ただ戸惑うばかりだった。

ふと視線を上げると、水希は真剣な眼差しをこちらに向けていた。立場が人を変えてしまうことって、あると思う。そう切り出した彼女の声は低く、どこか寂しさを帯びていた。同じ社長の子という立場。しかも急に父が倒れ、自分が会社を背負うことになった身だからこそ、思うところがあるのだろう。私だって最初は社長の娘ってだけで特別扱いされたり、あるいはただのお飾りだって言われたり、色々な目で見られてきたわ。でも環境が変われば人間だって少なからず変わらざるを得ない。良くも悪くも、どこかで責任を盾にしないと自分を保てなくなることがあるの。

その言葉には確かな重みがあった。周りからの評価や不安を全て背負い込み、それでも自分なりに答えを出そうとする。そんな苦労を経てきたからこそ言えることなのだろう。でも、だからと言って昔の夢や関係をなかったことにするのは、きっと違うよね。水希が小さく微笑むと、俺は何とも言えない気持ちになった。そうですね。けど今は俺にできることをやるだけです。もう一度あいつと語り合える日が来るのかどうか、正直分からないけど。少なくともここで水希さんたちと一緒に会社を支えていく道を、俺は選んでるつもりなので。

その言葉に水希は少し黙った後、静かに頷いた。ありがとう。あなたがそう言ってくれるだけで、私は十分心強いわ。もう一度彼と話し合える機会があるといいわね。もしできるのなら、あなたの気持ちもちゃんと伝えた方がいいと思うし。

その日の会話はどこか胸に残るものがあった。そして思いがけず、その答えを出す機会がすぐに訪れた。翌日、会社に出勤すると急に訪問客があるという連絡を受けた。受付のスタッフからアリス川さんが来ていると聞き、驚きながらもすぐに応接室に向かうと、そこには涼が立っていた。

俺が声をかけると、涼はすぐに振り向き、少し険しい表情を浮かべながら言葉を紡ぎ始めた。お前、ここでうまくやってるそうじゃないか。俺は少し驚きながらも淡々と答える。おかげ様で、水希さんやみんなのおかげで楽しくやってるよ。涼は軽く息を吐きながらわずかに目を細めた。そうか。じゃあ、用済みってことか。

なんだよ。用済みってどういうことだ。問いかけると、涼はまるで面倒そうに視線をそらした。お前がここでやることはもう終わったって言ってんだよ。桜テックなんて小さい会社の立て直しにずっと張り付いてる必要はないだろう。新システムとやらも軌道に乗ったんだろう。だったら本社に戻ってこい。

その言葉に胸の奥がざわついた。なんで急にそんなことを?元々俺を無理やりここへ飛ばしたのはお前じゃないか。それで今度は勝手に戻れって、あんまりだろう。遠慮のない言い方になってしまったが、どうしても納得がいかなかった。涼は相変わらず平然とした顔をしている。随分偉そうに言うじゃないか。望んで本社から飛ばされたわけじゃないんだろ。てっきりお前なら、少しでも早くあの大きな部署に戻りたいと思ってるかと思ったが。

そりゃ最初は、なんでここに移動になったのかって頭が混乱してたさ。でも、こっちで仕事をしてるうちに――言いかけたところで、涼があざけるように口元を歪めた。やりたいことが見つかった。この小さな会社で。おいおい、お前の夢はそんなにちっぽけなのか?俺は拳を強く握りしめ、涼の視線を真正面から受け止めた。確かに桜テックは本社から見れば小さい会社かもしれない。でもな、ここには俺が必要とされる場所がある。何かを変えようと懸命に食らいついてる人たちがいて、その人たちのために俺の技術を注げる居場所があるんだ。俺がやってきたことが直接役に立つのを実感できる。それってすごく大事なことだろう。

立派なこと言うね。だけどお前、一度は大きな舞台で勝負したいとか言ってなかったか?そんな田舎の中小企業に引きこもってるだけじゃ、結局は自己満足に過ぎないんじゃないのか。自己満足かどうかは俺が決めることだ。確かに大きなプロジェクトで成果を上げることは、エンジニアとしての夢だって思ってたよ。でもそれだけが夢じゃない。俺が書いたシステムで誰かの仕事がうまく回るなら、そしてそれが会社を救うきっかけになるなら、それって最高にやりがいがある仕事だろう。大企業だろうが小さな会社だろうが、作るものは同じなんだよ。結局は人の役に立つかどうか。それ以上に大事なことってあるのか?

言い放った瞬間、涼はわずかに目を見開いた。ふん。相変わらず理想ばっかりの綺麗事だな。一拍置いて帰ってきた言葉はやはり冷たいものだった。だがどこか躊躇を感じるのは気のせいじゃない。お前が思うほど綺麗事だけで回る世界じゃないのは、俺も分かってるよ。でもそうやって忖度とか会社の規模とか優先してたら、人を大事にする心はどこへ行くんだ?俺はもうそういうやり方に振り回されるのはごめんだ。自分が本当にやりたいことがあって、それに共感してくれる仲間がいるなら、俺はここに残る。それだけだ。

俺が言い終わると、応接室のドアがノックされる。続いてすっと扉が開き、そこに水希が姿を表した。彼女は涼の存在を認めると、一瞬だけ驚いた表情を浮かべてからすぐに落ち着きを取り戻した。失礼します。お客様と聞きましたが、もしかしてアリス川本社の方ですか?水希の凛とした声が静まりかけていた空気を揺らした。涼はその声に反応するように振り返り、少しだけ表情を引き締める。こちらこそ。急に押しかけて申し訳ない。アリス川グループ本社のアリス川涼です。

互いに軽く会釈をかわす。水希はそんな涼の態度をしっかりと見据えながら、言葉を選ぶように口を開いた。うちの真部さんに何かご要件があるようですね。けれど今は桜テックの復活が大事な局面で、彼は欠かせない存在です。勝手に連れ戻そうとされるのは困ります。

きっぱりと言い放つ水希の姿に、俺は内心驚く。社長としてのオーラが前に出ていて、まるで少し前までの不安げな表情が嘘みたいだ。涼も気迫に少しだけ視線をそらす。ああ、そうか。けど元々うちの社員だってことを忘れるな。戻すかどうかを決める権利は会社側にある。皮肉っぽい笑みを浮かべる涼に対し、水希はゆっくり首を振った。私たちがアリス川グループの傘下にあることは事実です。でも彼の意思も尊重していただきたい。ここで頑張りたいという本人の気持ちを無視して、大きな権力で押し切ろうとするのは、正直あまりいいやり方とは思いません。

涼はその言葉に明らかに眉をひそめた。そうですか。後悔しても知らないからな。そう言い残すと、涼は踵を返してさっさと応接室を出ていく。扉が閉まる音が妙に大きく響き、俺は思わず軽く息を吐いた。肩に乗っていた重圧が一気に緩み、身を支える力が抜けていくようだった。するとその様子を見ていた水希がそっとこちらに歩み寄ってきた。大丈夫?そう声をかける水希の手が、俺の腕に触れる。その指先が震えているのが分かった。すぐに水希ははっとして手を離し、申し訳なさそうに目を伏せる。

ごめんなさい。あなたが本社に行っちゃうかもって思ったら、思わず――情けないわね。私、またあの頃の何もできない自分に戻っちゃうんじゃないかって怖くなったの。あの頃、父親が倒れて経営が一気に傾きかけた桜テック。社長に就任したばかりで、彼女は不安と焦りに押しつぶされそうだった。そんな彼女がここまで不安を口にするなんて、よほど追い詰められていたんだろう。

水希さん、俺は彼女を安心させるようにゆっくりと口を開いた。大丈夫です。俺はここに残ります。もし本社が強引に呼び戻そうとするなら、会社をやめることになっても、俺は桜テックにいる。そう告げると、水希は驚いたように目を見開いた。次の瞬間、ぐっと唇を噛んで小さく震える声を漏らす。そこまで言ってくれるの?俺が深く頷くと、水希は堪えきれないように瞳を潤ませた。そして小さく鼻をすする。ありがとう。本当にありがとう。私も頑張るね。

涙をこぼす水希を見て、胸が締め付けられる思いがした。だけど同時に、確かな決意を噛みしめた。ここで成し遂げることは、ただ左遷先を生き延びるためじゃなくて、俺自身が選んだ新しい夢や居場所のためなのだと。

それから数日後、桜テックは一見すると順調に見えたものの、グループ本社からの理不尽な横やりが相次ぎ、経営が再び傾きかける危険が生じていた。ここまで露骨だと、いくら何でも分かりやすすぎますね。書類に目をやる俺の横で、水希も険しい顔で同意する。間違いないわ。これ、きっとアリス川さんが裏で手を回しているのよ。今まで工場案件で受注していた案件が突然白紙になった。しかも協力工場との契約見直しや、不利な取引条件の提示といった話が一方的に通告されてくる。まるで桜テックの経営を揺さぶる攻撃が、これ見よがしに立て続けにやってきている。

そんなある日、管理部のベテラン社員が眉間にしわを寄せながら書類に目を落としていた。取引先の一つも、グループ内の別会社との契約を優先するように言われたってぼやいてました。今はなんとか話を繋いでますけど、このままだと取引量が減って、また赤字に転落しかねません。水希もその話を聞いて大きくため息をついた。父の時代からの付き合いで続いていたお客様なのに、こうも急に。でも、ため息をついても仕方ないわよね。

その言葉をきっかけに、社員たちはじっと視線をかわし合う。心配そうな面持ちで、けれどどこか闘志を宿した眼差しがオフィスに広がっていく。すると一人の若い社員が口を開いた。大丈夫っすよ、社長。こんなのどうってことないっす。俺、聞いちゃったんですよ。真部さんの覚悟。彼がそう言うと、他の社員たちの視線が一斉にこちらへ向かう。そうそう。本社に戻れって言われても、絶対にうちに残るって。会社をやめることになったって構わないって。そこまで言い切ったんだろ。俺もその話を耳にして、胸が熱くなったんだ。技術者のエースがそう言ってくれてるのに、俺たちがくじけるわけにはいかないって。

みんなの視線が一層真剣味を帯びる。水希も驚いたように目をまたたかせながら、それでもすぐに笑みをこぼした。本当に頼もしいわ、真部さん。あなたの言葉が、こんなにも社員のみんなを鼓舞しているのよ。俺は照れくさそうに頬をかきながら軽く首を振る。いや、俺こそみんなに支えられてます。だから絶対に諦めない。例え大企業の圧力があったって、桜テックを盛り上げる方法はいくらでもあります。

すると管理部の社員が新しい書類を差し出しながら、声を弾ませた。ちょうどここ数日で、新規の取引先候補から打診が来てるんです。グループ外の会社で、これまで取引したことはないんですが、在庫管理の評判を聞いて興味を持ってくれたみたいで。もし上手くいけば、今まで以上に幅広い受注が見込めるわね。よし、すぐにアポイントを取りましょう。立ち上がった水希に続き、営業担当や管理担当の社員たちが次々と行動を始める。その姿は、以前のなんとなく空気が沈んでいた会社とはまるで別物だった。

そこから先の数日は、まるで嵐のような忙しさだった。水希は自ら新規取引先を訪れ、今の桜テックが誠実に、そして確かな技術力で勝負しようとしていることを熱心に説いた。俺も必要に応じて同席し、システム導入やサポート体制について細かくプレゼンを行った。最初は半信半疑だった相手も、実際の運用デモや社員たちの活き活きとした姿を見て、前向きな反応を示し始める。いやあ、なるほど。御社が導入している新システム、なかなか画期的ですね。小回りが効くし、サポートもしっかりしてくれそうだ。そう言って笑みを浮かべる取引先の担当者の言葉に、水希も思わず笑顔で応じた。

社内では連日残業が続いたが、誰もが疲れの中にも前向きなエネルギーを保っていた。時折、雑談の中で「こんなに忙しいのに妙に楽しいよな。うちの会社もまだまだ捨てたもんじゃないな」なんて声が聞こえてくる。そうした士気の高まりがさらにプラスの連鎖を生み、本社からの横やりで揺らいでいた取引先との関係も、なんとか継続に持ち込むことに成功した。こうして桜テックはわずかながらも踏ん張りを見せ、再び赤字に転落する寸前でなんとか持ちこえた。

その日の午後、急ぎの会議を終えて社長室に戻った水希は、やや疲れた表情ながらも晴れやかな笑みを浮かべている。正直どうなるかと思ったけど、みんなの頑張りで持ち直すことができたわね。真部さん、本当にありがとう。俺は軽く肩をすくめながら笑顔で答えた。いえ、俺一人の力じゃありません。桜テックには会社を守りたいって思う人がこんなにもいた。それが何よりの力ですよ。外からはまだ社員たちの賑やかな声が聞こえる。グループ本社の圧力や理不尽な仕打ちは、これから先もあるかもしれない。だけど、もう誰も下を向いてはいない。俺自身も、ここでならどんな逆境にだって立ち向かえると確信できた。さあ、ここからが本当の勝負ですね。俺はデスクに手をかけて微笑む。水希も頷き、凛とした眼差しをこちらに向けた。ええ、まだやるべきことは山ほどあるけど、あなたとみんながいれば大丈夫。絶対に乗り越えて見せましょう。

そう誓うように言い合うと、二人して再び忙しくなるオフィスへと足を踏み出した。ここが俺たちの居場所。そう信じて。

桜テックで日々の業務を進め、ようやく安定した利益と社内の結束を得始めたある日のこと、オフィスに一本の緊急連絡が入った。大変です。本社でとんでもないシステム障害が起こったみたいで。焦燥を帯びた社員の声に、水希や他のメンバーも顔を見合わせる。何があったのかと尋ねると、帰ってきたのは信じがたい内容だった。なんとアリス川グループ全体の基幹システムに深刻なトラブルが発生し、会計情報や大手取引先の受注データがクラッシュ寸前らしい。もし完全に破損したら、グループ全体で膨大な損害が出るのは避けられない。さらには取引先からの信用問題にまで発展しかねない状況だという。

せっかくみんなで踏ん張ってようやく軌道に乗り始めたのに、このままじゃうちも本社の混乱に巻き込まれて共倒れになりかねないわ。桜テックの社員たちもざわつき始める。ここで会社が再び赤字の泥沼にはまったら、せっかく取り戻したやる気や取引先との関係がまたゼロに逆戻りだ。そんな光景を一瞥した後、俺はデスクに置いてあったジャケットを手に取った。行ってきます。唐突な宣言に、周りの視線が一斉にこちらへ注がれる。立ち上がった俺を見て、水希がわずかに目を見開いた。真部さん、本社に行くつもりなの?どこか心細げな声で問う彼女に、俺は確信めいた笑みを浮かべて頷いた。ええ、向こうで何が起きてるのか実際に見て対応しないと。すると別の社員が遠慮がちに口を挟んだ。でも本社に乗り込むなんて、大丈夫なんですか?その、色々と事情もあるんですよね。社員たちは不安な表情で互いに目を見合わせる。それに対して俺は落ち着いた口調で答えた。大丈夫だよ。だって――俺の言葉を聞いて、周りの社員たちが一斉に息を飲んだ。すぐに戻ってきますから、安心して待っててください。それだけ言い残すと、俺は自分のスマホとノートPCを手に取って身支度を整え、オフィスを後にした。

本社へ到着すると、そこはまさに修羅場だった。サーバールームやデータセンターは混乱の極みにあり、行き交う社員たちがパニックに陥っている。怒鳴り声や電話の呼び出し音が絶えず響き、冷静さを失ってうろたえるスタッフたち。さらに奥へ進むと、慌ただしく指示を出している人影があった。見覚えのある後ろ姿。俺が息を切らしながらサーバールームに駆け込むと、赤い非常灯の明滅とエラーの警告音が飛び込んでくる。胸をつくような焦燥感に背中を押されるまま、思わず声を上げた。涼、一体何が起きてるんだ?そこには険しい表情を浮かべたままコンソールを操作している涼の姿があった。血走った瞳で振り向くと、彼は俺に向かって吐き捨てるように言う。お前か。お前はもうここには来ないんじゃなかったのか。余計なことをするな。

鋭い拒絶の言葉がまるで凶器のように突き刺さる。涼の怒号を浴びた瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられるような息苦しさを覚えた。でも今は立ち止まってる場合じゃない。ここで知らん顔していたら、一瞬で全てが崩れてしまう。そんな俺の元へ、システム部の社員が駆け寄ってきた。顔は青ざめ、悲鳴をあげる。真部さん、今すぐ助けてくれませんか?涼さんがグループのシステムに勝手にあなたのプログラムを組み込んで、強引に改変を進めたせいで不具合が止まらないんです。

まさかそこまでやられているとは思わなかった。俺が本社を去る時に感じていた嫌な予感が、最悪の形で現実になっていたのだ。俺が独自に開発した暗号技術を組み込んだシステムを、涼が勝手にコピーして流用していた。しかも保守管理の手続きが複雑な仕組みだったのに、それを無視して急増の改変をしたのだから、不具合が続出するのも無理はない。懸命に状況を説明するシステム部員の横で、涼が苛立ち紛れに声を張り上げる。うるさい。ここまでやったのに、今更後戻りなんかできるか?俺だってグループを効率化しようと思って――。その声には焦りと苛立ちが絡みついていた。

涼、このままだと本当にまずい。最悪の場合、グループ全体の信用が崩れる。お前が守ろうとしてる会社すら危うくなるぞ。俺がそう静かに諭すと、涼は苦しそうに唇を噛み、視線を落とした。やがて、まるで息を飲み込むような沈黙の後、ついに涼が頭を下げる。頼む。助けてくれ。弱々しく俯く涼の姿に、どこか昔の面影がよぎる。今の彼にはもう誇りも余裕も残っていない。ただ懸命に会社を救おうともがいている。その気持ちは嘘じゃないだろう。俺はぐっと息を飲み込んで、サーバーラックを見上げながら意を決した。分かった。今は復旧が最優先だ。ただし、そのためにはマスターキーが必要だ。

その言葉を聞いた周囲の社員たちはマスターキーと首をかしげ、涼も驚いたように目を見開く。お前、あの暗号化の根幹を握ってるキーを、まだ持ってたのか?当然だ。あれは俺が独自に開発した暗号技術で、特許も全部俺個人の名義だよ。そもそも俺の許可なしに使うのが間違いなんだ。周囲が慄然とするのが分かる。改めて言葉にすることで、このシステムの真の所有者が俺だと、みんながはっきり認識したのだろう。涼は悔しそうに唇を噛み、黙り込んだ。

よし、今から本番環境を部分的に止めつつ、暗号の最内部にアクセスする。みんなは俺の合図でサーバーを切り替えてくれ。そう言って専用端末にマスターキーのセキュリティ認証を走らせると、これまでブラックボックスだった領域が一気に解放される。同時に、奥深くで暴走していたバグが次々と浮かび上がってきた。すげえ、一瞬で原因箇所が一覧表示されてる。どうなってるんだ?周囲のシステム部員たちがどよめく声を上げる。だが俺は慣れた手付きで、浮かび上がったエラーを片っ端から修正パッチで潰していく。自分が作り上げたシステムの構造なら、誰よりも早く正確に理解できる。それこそが今の俺の強みだ。複製の時の改変が相当むちゃくちゃだな。よし、これでエラーの半分は落ち着くはず。残りは――社員の誰もが一瞬にして戸惑うが、俺は美打ちにせずキーボードを叩き続ける。幼い頃からプログラムを愛してきた。信頼してきた。今こそ人生をかけて学んできたその全てを発揮する時だ。

そうして数十分ほど経った頃、最終的な修正プログラムをサーバーにアップし、再稼働させる。警告音が徐々に静まっていき、モニターに溢れていたエラーもするすると消えていく。全てのシステムは正常に稼働中。メイン画面にそう表示された時、誰かが「やった」と叫んだ。復旧完了。ログインの再試行を頼む。俺がそう声を上げると、待機していた部員たちが一斉にキーボードを叩き始める。またたく間に真っ赤だったステータス画面は正常稼働のグリーンへ切り替わった。あちこちで接続成功の声が上がり、サーバー室全体が歓声と拍手に包まれる。助かった。これでグループ全体の会計も取引データも守られます。その場にいた人々はまるで奇跡でも見たかのように安堵し、口々に感謝を述べてくる。

ふと視線をずらすと、涼がポツンと立ち尽くしているのが見えた。何かを言いかけるわけでもなく、ただ黙って俺を見つめている。思わず呼びかけると、彼は小さく息を飲んだ後、絞り出すように言った。すまなかった。お前を左遷した挙げ句、システムを勝手に拝借して。最低だよな、俺は。だけど、どうしても結果が欲しかったんだ。お前が会社で結果を出すようになって、親父までお前を評価し始めてさ。周りがどんどんお前ばっかり見るようになって、俺は結果を出せない自分に焦ってしまった。俺だってできるって証明したかったんだよ。だけど、こんなやり方しか思いつかなかった。

涼は自嘲するように肩を落とし、歯を食い縛る。かつては同じ夢を語り合ったはずの友人が、こんなに追い詰められていたなんて。胸の奥が痛む。俺は一歩近づき、彼の背を支えるように手を置いた。震える彼の腕に、かつての誇り高き姿はもうない。だからこそ、俺ははっきりと言わなければならなかった。

バカ野郎。お前がいたからこそ、今の俺があるんだよ。学生の頃、俺が世界を変えるプログラムを作るんだって大口叩いた時も、お前だけは本気で笑わずに応援してくれただろ。あの頃、お前がどんなに力になってくれたか、俺は今でも忘れてない。

言葉を伝えながら、思わず俺の目にも涙が浮かぶ。涼は俯いたまま、かすかに首を振った。俺なんかが、お前の力になってたのか。当たり前だろ。あの時お前が背中を押してくれたから、俺は絶対に成功してやるって思えたんだ。今度は俺の番だよ。お前が立ち直るための手伝いなら、いくらでもやる。だから、一人で抱え込むな。涼は声も出せないまま、ぐっと唇を噛みしめている。悔しさと安堵が入り混じったような表情だった。俺はそっと涼の肩を叩き、そして微笑んだ。友達だったからこそ、道を踏み外しそうな時は支え合う。それが俺たちの関係だったはずだ。

結果的に本社システムの復旧は間に合った。アリス川グループは倒産の危機を免れ、取引先や金融機関への対応もギリギリのところでなんとか乗り切った。そしてエンジニアの真部がいなければこの危機は乗り越えられなかったという事実が社内外に知れ渡り、上層部や社員たちは俺の持つ特許や暗号化技術の価値を改めて痛感することになった。一方で、今回の騒動を引き起こした張本人である涼は、グループ全体から厳しい処分を受けることになる。勝手なシステムの改変が引き金となり、大切な取引先や銀行との関係さえ危うくしかけたのだ。社長の息子という立場ですら、今回ばかりは盾にならなかった。涼は経営会議の場で正式に謝罪し、当面は管理職から外れる処分を言い渡された。だが、涼が完全に再起不能になったわけではない。見かねた一部の上層部は更生のチャンスを与えたいという意向を示し、彼に新たな仕事の場を用意していた。そこは大規模プロジェクトから少し距離を置きつつも、グループの根幹となるシステム連携を担う部署だった。

涼が正式に移動の辞令を受けた日の夕方、俺と涼は本社ビルのエントランスホールで顔を合わせていた。新しく立ち上げる部門に行くことになったよ。社内システム連携推進課とかいう長ったらしい名前だけど、要するに新たな基幹システムを社内外で調整していく仕事らしい。自分で言うのもなんだけど、今の俺にちょうどいい再出発かな。涼は苦笑いを浮かべ、背伸びをしながら言う。そうか。いいスタートじゃないか。焦らず、まずは地道に信頼を取り戻すことから始めたらいい。涼ならきっとできるよ。俺はそう言って彼の肩を軽く叩く。すると涼は少し視線を落としてから、意を決したようにこちらを見返した。ありがとう。正直言うと怖いんだ。失敗を重ねた俺に、もう部下も上司も期待してないんじゃないかって。それでも、今回だけは俺がやりましたって胸を張れる成果を出したいんだよ。今度はちゃんと正面から努力して。

大丈夫だよ。少なくとも俺は、お前のことちゃんと見てる。何かあったら協力するし、また相談しろよ。そっちの部署の仕事、やりがいありそうだろ。俺が笑うと、涼は少しだけほっとした顔をした。ああ、社内の基幹システムをまとめ上げて、部署間の調整をスムーズにして全体の効率を底上げするやりがいがあるよな。下手をすれば、今回みたいに大問題になるかもしれないし。失敗はもうこりごりだけどな。そういう彼の声には、前とは違う決意の色が滲んでいた。まあ、転んだ分だけ人の痛みも分かるだろ。お前なら同じミスは繰り返さないさ。そう返すと、涼はすっと表情を柔らげた。ありがとな、蒼太。お前がいなきゃ、本当に今頃どうなってたか分からない。絶対に、今度こそは結果を出して見せるよ。涼はそう言って書類を持ち直し、大きく息を吸い込んだ。新たな環境、新たな任務。今回の失敗で味わった責任をバネに、涼は本当の意味でやり直す覚悟を固めたのだろう。

そしてシステムの引き継ぎを終えた数日後、俺が桜テックへ戻ると、まるで英雄を迎えるように社員たちが出迎えてくれた。真部さん、お帰りなさい。本当にありがとうございます。と口々に声をかけられ、正直少し照れくさい。そんな盛り上がりの中で、水希だけは遠慮がちにこちらを見ていて、少し浮かない表情をしているようだった。社内がすっかり落ち着いた頃、俺は水希に呼ばれて二人きりで話すことになった。

ごめんなさい。嬉しいはずなのに、どうしても素直に喜べなくて。小さな会議室で向かい合う水希は、どこか寂しそうな目をしていた。あなたが本当にすごい人だってことは、最初から分かってた。でも、ここまでとは思ってなかった。正直、あなたならもっと大きな部署でもっと活躍できる。だから、ここにいるべきじゃないんじゃないかって思うの。寂しいけど、あなたがいなくても私たち頑張っていくから。

彼女の言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。何勝手なこと言ってるんですか、水希さん。俺はこれからも桜テックで働きますよ。そう言うと、水希の瞳が大きく見開かれる。でも、本社の方から戻ってきて欲しいって、社長があなたに頭を下げたって聞いたわ。あなたほどの人なら、それこそ正社員どころか役員待遇だって。それは本当です。確かに本社でうちのために仕事をしてくれって頼まれたし、俺に頭を下げてくれました。でも俺は、桜テックの一員としてなら協力しますって返事したんです。これからもここで頑張るつもりですよ。だから、安心してください。

水希は思わず息を飲んだ後、うっすらと目に涙を浮かべる。そっか、よかった。本当は社長として優秀な人材を確保できるのは嬉しいんだけど、そうじゃなくて。あなたとこれからも一緒にいられるって思ったら、それだけで胸がいっぱいになっちゃって。ごめんなさい、失態しちゃってるわね。いいえ、むしろ俺も同じ気持ちですから。あなたと同じ場所で働けるのが、一番の幸せなんですよ。その言葉に水希の涙がぽろりとこぼれる。恥ずかしそうに笑いながら、彼女はそっと目元を拭った。ありがとう。これからもよろしくお願いします。こちらこそ、よろしくお願いします。桜テックを大きくしていくのも、あなたを支えるのも、全部俺の目標ですから。そうして俺たちは互いの思いを確かめ合うように、静かに手を握り合った。

その後、桜テックは売上を伸ばし、会社としての存在感も見る見るうちに高まっていく。社内には活気が溢れ、仲間同士の信頼関係もさらに深まった。これからも俺は自分の技術と情熱を信じ、そして隣にいる仲間たちと共に成長し続けたいと思う。今こそ、誰かを支えるシステムを作りたいと願っていた、あの頃の夢を形にする時だ。桜テックも俺自身も、まだまだこれからが本番。そう確信できる未来を、これからも水希と仲間と共に一緒に築いていく。

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