俺は今、ファミレスの厨房で経営陣が信じられない宣告をされるのを、震えながら聞いていた。「仁君、来月から君を新しい支店長に任命するよ」って。でもその瞬間、頭の中でよぎったのは、姉がコーヒーまみれになったあの日の光景だった。あの時、姉は必死で俺を守ろうとしてくれたのに、俺は何もできなかった。それから七年。俺は琴浦家の一員になり、姉は幸せそうに笑っている。でも、あの日浴びせられた言葉は、今でも忘れ…

俺は今、ファミレスの厨房で経営陣が信じられない宣告をされるのを、震えながら聞いていた。「仁君、来月から君を新しい支店長に任命するよ」って。でもその瞬間、頭の中でよぎったのは、姉がコーヒーまみれになったあの日の光景だった。あの時、姉は必死で俺を守ろうとしてくれたのに、俺は何もできなかった。それから七年。俺は琴浦家の一員になり、姉は幸せそうに笑っている。でも、あの日浴びせられた言葉は、今でも忘れ...

「本当に申し訳ございませんでした。」

そう言って頭を下げる姉の背中を、俺は何度見てきただろう。俺の名前は倉田仁。二十歳。ふと昔の夢を見て、情けない過去の記憶が蘇ってきた。

幼い頃、母はいつも言い聞かせていた。「仁という名前は、人を思いやるという意味なのよ。だからいつもそばにいる人のことを考えて行動しなさいね」と。

我が家は貧乏な母子家庭だった。父を早くに亡くし、母は病弱で寝込みがち。小学校の給食だけが、お腹いっぱい食べられる唯一の機会だった。俺と三歳年上の姉・蒼井は、いつもサイズの合わない汚れた服を着ていた。

「貧乏兄弟が来るぞ」「きたねえ」

学校でからかわれるたび、俺は姉に泣きついた。どうして自分たちだけこんな目に遭うのか。悔しくて仕返しをしてやりたいと。

そんな俺に、姉は母そっくりの口調で言い聞かせた。「仁、自分が傷つけられても、人を傷つけちゃだめ。悲しい気持ちになっても、他の人を悲しませちゃだめなのよ」。

でも納得いかない俺の頭を、姉は優しく撫でてくれた。「大丈夫。お姉ちゃん、将来たくさん働くから。お金持ちになって、仁とお母さんのことを幸せにしてあげる」。

だけど、そんな言葉を信じ続けるほど、俺はいつまでも子供じゃなかった。中学に上がる頃には、自分たちの状況が一人の努力でどうにかなるものじゃないと、嫌というほど思い知らされていた。ついに俺の鬱憤は爆発した。

授業をサボって喧嘩するのは日常茶飯事。夜中に集団で騒いだり、仲間のバイクで暴走したり。思いつく限りの悪さをして、かけられるだけの迷惑を周りにかけまくった。

そんな俺の尻拭いをするのは、いつも姉の役目だった。俺が補導されれば警察署まで飛んできて、学校や近所から苦情が入れば、すぐさま頭を下げに来た。

そんな姉の苦労を、俺はちっとも理解していなかった。「あんた、呼ばれたらすぐ来るよね。いつも暇なわけ? 仁なんかに構ってないで、バイトでもすれば?」

姉は小さく笑って、俺を咎めることもしなかった。後で知ったのだが、これは反論できなかったんじゃない。当時の姉には、もう反論する気力さえ残っていなかったんだ。

姉が過労で倒れたのは、それから数日後のことだった。

「制服、縫っておいたから、もう破らないようにね」

「何やってんだよ。寝てろって言われたんだろうが」

「でも、お母さんのご飯作らないと。今日はお風呂に入る日だし」

青ざめた顔で、今にも倒れそうになりながらキッチンに立つ姉。さすがの俺でも、これが異常事態だと理解できた。倒れたその日、病院から戻った体で家事を始めるなんて。

「そうだ、電話しなきゃ。倒れて迷惑かけちゃったし」

「電話? どこにだよ」

「角を曲がってすぐのコンビニ。そこでバイトしてるの」

「バイトって?」

そこで初めて、姉がバイトしていたことを知った。考えなくても分かることだった。母は寝たきり状態で、俺はまだ中学生で、家計を支えられるのは高校生の姉しかいなかったんだから。

「じゃあ、高校は?」

俺の問いに、姉は寂しそうな笑みを浮かべて答えた。「とっくにやめたわよ」。

「いいの? 元々授業中も寝てばっかりだったし」

その瞬間、俺は頭を鉄骨で殴られたかと思った。それは日々の疲れと、間違いなく俺のせいだった。夜中でも必ず警察署や学校まで迎えに来てくれる姉。疲れた姉が休む時間を奪っていたのは俺。何も知らず、好き勝手なことばかりやっていた。バカな俺だった。

「俺がやる」

体が勝手に、姉からフライパンを奪っていた。それから俺は、目を丸くする姉を寝室に追いやった。

「ちょ、ちょっと待ってよ。仁、料理できないじゃない」

「やるんだよ、今から」

洗濯も掃除も、母の世話も全部俺が。姉の背中を押しながら、俺はぼろぼろと泣いていた。目標だった高校に合格した時、すごく喜んでいたのに。それを辞めるのが、どれだけ苦しくて悲しかっただろう。想像すればするほど、自分が情けなくて涙が出た。

「ごめん。これからは真面目にやる」

俺がぼそぼそと言うと、姉はこちらを振り返って微笑み、昔のように頭を撫でてくれた。「料理は明日から教えるわ。とりあえず今日は洗濯物を干してくれる? それと、できたら買い物にも行って欲しいんだけど」

「やるよ。行くよ、買い物も」

「ありがとう」

申し訳なさそうな、でも柔らかい表情。どれだけの重圧を一人で抱えていたんだと、俺は胸が締め付けられた。そして、この痛みは一生忘れないと誓った。二度と自分勝手なバカな真似はしない。これからは家族のために、自分にできることは何でもやっていく。

それから姉の指導の下、家事全般を習得して、やがて母の介護をするのも主に俺の仕事になった。当時はすでに中学三年だったが、高校受験はしないことに決めた。

「四月からバイトするよ。俺が働けば、少しは家計も楽になるだろう」

姉の反対を押し切り、俺は中学を卒業した直後からバイトを始めた。最初は建設現場。次は工場、ホテルの清掃。そして二年前から現在のファミリーレストランでキッチンのバイトをしている。姉に料理を教わったのが役立って、作業の手際がいいと評判だ。

しかし、一度道を踏み外した人間は、そう簡単に信用してもらえない。二十歳になった俺は、そのことを改めて思い知らされているのだった。

「あの、すいません」

「きゃっ! な、何ですか?」

シフトについて相談しようと声をかけただけなのに。女性の店長は大げさなほど驚き、一瞬で俺と距離を取った。

「びっくりした。未だになれないわ、彼。わかります。怖いんですよね。なんか随分荒れてたんでしょ? 雇って大丈夫なんですか?」

他のスタッフとひそひそ話しながら、店長は警戒するようにこちらを睨みつけてくる。今までのバイト先でも、噂は必ずどこからか伝わってきた。それが原因で人間関係がうまくいかず、首になったこともある。だから今更、こんな態度に傷つくこともない。自分が原因なんだから、そもそも傷つく資格もない。

「店長、シフトは来週もっと入れられます」

「そ、そう。助かるわ。人手が足りないから」

言いつつ、店長が本心で何を思っているかは分かる。あんなに働いて、お金を何に使っているんだか。危ない遊びに違いないわ。

そんな言葉を背中で受けながら、俺は黙々と調理の手を動かし続けた。すると、ある日のことだった。

みんなが俺に興味をなくすほどの、とても風変わりな新人が現れたのは。

「すごい! あの方が元ヤンなんですね。初めて拝見しました」

はしゃいだ明るい声に、俺の悪口を彼女に吹き込んだ店長は、ぽかんとあっけに取られた顔をした。

「え、どうしました?」

と首をかしげるのは、新人バイトの女子大生、琴浦かなさんだ。このファミレスには似つかわしくない、バカ丁寧でふわふわとした喋り方。絵本の世界からでも出てきたような、こちらもふわふわとした雰囲気の愛らしい女性。そして、度々飛び出す突拍子もない天然発言。つい先日入ったばかりなのに、彼女はすでに話題の中心だった。

「だからね、私は親切で言ってあげたのよ。倉田君は訳ありだから、あんまり関わらない方がいいって。そしたら『ドラマや映画でしか見たことがないから、本物のヤンキーに憧れてた』って。やっぱり変わった子ですよね、琴浦さん」

知らずというか、店長たちがひそひそと噂話をするのも気づいていないのか。琴浦さん本人は、掃除の仕方を覚えようと一生懸命メモを取っている。

「あの、なんで俺? 他の人に聞いた方がいいよ」

「そんなことありません。素晴らしいです。村田さんの技は?」

「技って、マニュアル通りなんだけど」

「なんて無駄のない動き。見ていると惚れ惚れしてしまいます」

ああ、彼女は何かとそばに近づいてきて、こちらを妙に持ち上げてくる。褒められるより疎まれる方が多い俺は、居心地が悪くて仕方がない。

「琴浦さんが憧れるみたいないい人間じゃないから。自分はただ周りに迷惑をかけていただけ。毎日のように喧嘩をしていたのも、自分の鬱憤を晴らすためだけ。組んでいた仲間とも、一方的に縁を切る形で別れたんだ。現実は映画やドラマの世界と違うんだよ」

わざと突き離すような言い方で、もう近づいて来ないように壁を作る。彼女に何かあったと噂されて、仕事を失うわけにはいかない。母が入院することになり、その費用に姉と二人で頭を悩ませていたからだ。

「仕事は別の人に教わって。正直、うろうろされると邪魔だから」

「はい。ご指導ありがとうございました」

しゅんと肩を落とす姿に、少し胸が痛むような気もしたけど、俺にとっては家族のために稼ぎ続ける方が重要だった。

ところが後日、職場で事件が起こる。レジの売上金が、夜のうちにごっそりと消えてしまっていたのだ。

「昨日も深夜シフトに入ってたわよね。倉田君、あなたじゃないの?」

店長はスタッフ全員の前で、真っ先に俺を疑った。集められたホールにざわめきが広がる。戸惑いと「やっぱりか」という声が。

「待ってください。俺は何もやってません」

「布団を入れていたのも、盗むチャンスを伺うためじゃないの?」

「違います」

「どうだか。信用できないのよね。いくら改心したって言っても、口だけなら何とでも言えるんじゃないの? お金に困っていたみたいだし。あなたしかいないのよ」

店長の言葉に、同僚たちも次々に頷く。この二年間、誰よりも真面目に働いて、お盆や年末年始のシフトも積極的に引き受けてきた。そうやって地道に信用を積み上げてきたつもりだったのに。それは俺の思い込みでしかなかったのか。

厳しい視線が集まる中、目の前が真っ暗になって立ち尽くす。その時だった。

「倉田さんではありません」

たった一人だけ、俺の味方をしてくれる人がいた。琴浦さんだ。

「倉田さんは、人様のお金を盗むような悪人ではないと私は思います」

足を震わせ、目を潤ませながら、琴浦さんが声を張り上げる。大量の視線が突き刺さるのは、きっと今すぐ泣きたいほど怖いだろうに。

「証拠でもあるの? 琴浦さん」

「証拠は、ないんでしょ? やっぱり。でも、倉田さんではありません」

彼女は必死に俺の無実を主張し続けた。やがて店長が降参して、改めて調査したところ。同じ深夜のシフトに入っていた、この日は休んでいたスタッフが犯人だと判明したのだった。

「店長も謝ってくれたよ。その、ありがとう、琴浦さん」

居心地悪く感謝を伝えると、俺は彼女に訪ねた。どうして証拠もないのに信じてくれたのか、と。

すると琴浦さんは、にっこりと屈託なく笑って言うのだった。「掃除がうまいやつに悪いやつはいないって、映画で組長がおっしゃっていたので」。

「琴浦さん、ヤクザ映画も見るの?」

「はい、大好きです」

こんなにふわふわした、お嬢様みたいな雰囲気の琴浦さんが真剣にヤクザ映画を見ている場面を想像して、俺は思わず吹き出してしまった。だめだ、全然想像できない。

「とても素晴らしい世界ですよ。倉田さんも、今度ご一緒にいかがですか?」

「ご一緒って」

腹を抱えて笑う俺を、琴浦さんはきょとんと不思議に見つめていた。そしてやがて、自分も一緒に笑い出す。俺たちは二人でしばらく笑い続けて、それをきっかけにいい距離に縮まるのだった。

それから七年後。俺は琴浦かなと結婚して、一緒に暮らしている。俺たちの間には一人の娘が生まれ、現在五歳。今日はカノンを連れて、久々に母と姉がいる実家を訪れている。

「あーい、蒼井ちゃーん」

「こら、カノン。おばさんの邪魔をしない。今日は大人しくしてる約束だろう」

「もう支度は終わったから大丈夫よ。おいで、カノンちゃん」

「わーい」

姉が両手を広げると、そこに満面の笑顔で飛び込むカノン。まだ言葉も話さないうちから、カノンは姉に一番よく懐いていた。それは、将来の夢が「コンビニの店長さん」だというくらい。

「カノンちゃんみたいになるんだって、かっこいいから。本当に嬉しい」

「どこがかっこいいんだよ」

「それからね、お洋服というのは」

姉がいつも着ている制服のことだ。バイト先のコンビニで働き続けた結果、とうとう姉は店長に抜擢された。カノンもよく「蒼井ちゃんのお店に行きたい」とせがんでくる。

ちなみに母は治療が功を奏して、無事に退院。今も寝ている時間が多いものの、以前よりずっと元気な様子だ。

そんな嬉しい出来事が続いた実家に、特大のニュースが舞い込んだ。

姉が結婚することになったのだ。

「今更だけど、本当にいいのかしら? 高校も出ていない私なんかが」

「璃人さんが言ったんだろ。蒼井さんだからいい人だよ、って」

姉の婚約者である花淵璃人さんは銀行員。職場は某メガバンクの支店で、そこの支店長は実の父親。祖父もかつては銀行員で、親族は弁護士や医者、教師などが大半という、まさにエリートの家系に生まれ育った男性だ。だが、それを鼻にかけることもなく、人当たりのいい穏やかな性格をしている。

姉と璃人さんの出会いは、姉が店長を務めるコンビニ。立ち寄った璃人さんが一目惚れして、少しずつ交流するようになったらしい。そして先日、とうとうプロポーズを受けて、姉は今日璃人さんの実家への挨拶に行く。

「本当はね、ちょっと不安なの。あまりに家柄が違いすぎて、ご両親に受け入れてもらえるのかなって」

「だめね。結婚するって決めておきながら」

結婚が決まってから、姉は嬉しそうな反面、浮かない顔をすることも増えた。それは自分が中卒で母子家庭育ちだから。璃人さんは気にしないというが、やはり格差が大きすぎる。

「このワンピースも奮発して買ったんだけど、やっぱり。あちらから見れば安っぽいわよね」

「姉さん」

すると、姉の不安な心が伝わったのだろうか。膝の上にいたカノンが、不意に姉の顔を見上げていった。

「今日の蒼井ちゃん、すっごく可愛い。お姫様みたい」

「まあ、カノンちゃん。本当?」

「うん」

無邪気なカノンの笑顔に、ようやく姉も笑顔を見せた。少し不安がほぐれたようで、俺も安心したのだが、ここで姉は思いもよらない提案をしてきた。

「ねえ、仁。一緒に来てくれない?」

「え?」

「あちらで璃人さんが待ってくれるけど、やっぱり一人で向かうのは不安で。本来なら両親が一緒に行くものだと思うけど、お母さんは動けないしね。お願い」

「いや、でも俺なんかが行ったところで」

「仁がいてくれるだけで心強いの。お願い」

カノンを膝に乗せたまま、姉が切羽詰まった様子で手を合わせてくる。まだ遊びたい年頃からこの家の大黒柱を押し付けられて、病気の母親と出来の悪い弟を抱えながら、全てを自分一人で背負って。俺が改心した後は、母の入院費のため自分の体調が悪くても働き続けて。長年苦労した末に、ようやく幸せを掴もうとしているのだから。誰より迷惑をかけた俺は、こんな時ぐらい力にならなくてどうする?

「分かったよ。行くよ、一緒に」

「本当に?」

姉の顔がぱっと輝く。するとカノンはその膝から飛び降りて叫んだ。

「カノンも行く!」

「え? カノン。パパと蒼井ちゃんお出かけするんでしょ? カノンも行く!」

カノンちゃんはきっと、どこに行くかも分かっていないのに。カノンは俺たちに向かって、「一緒に行く」と言い張った。

「遊びに行くんじゃないんだよ。すぐママに来てもらうから、一緒にお留守番を」

「やだやだ! 行くの! カノンも!」

「こら、カノン。わがまま言わない」

俺が叱ると、カノンは見る見るうちに目を潤ませた。まずい。そう思った次の瞬間には、姉に飛びついて大泣きを始めていた。

「蒼井ちゃんと行くのー!」

「ああ、ワンピースにしがみついて。ごめんね。すぐ話すから、いいのよ。それじゃあ、一緒に行きましょうか。カノンちゃんも」

姉の言葉に、カノンは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をあげた。

「本当?」

「ええ。カノンちゃんも来てくれたら、蒼井ちゃんはもっと心強いわ」

「いやいや、だめだって。あちらに迷惑だから」

俺は止めたが、姉は璃人さんに電話してみる、と言って廊下に出てしまう。そして数分後、姉は笑顔を浮かべて戻ってきた。

「ご両親も子供が好きだから、大歓迎ですって。一緒に来てくれる? カノンちゃん」

「うん!」

「え、本当に?」

俺は先方の好意に申し訳なく思う反面、こんなに心が広い人たちなら、姉のことも受け入れてくれるんじゃないか。そう、少しだけ希望の気持ちも抱くことができた。

やがてカナにスーツとカノンのよそ行きの服を持ってきてもらって、俺たちは璃人さんが待つ彼の実家へと出発したのだった。

ところで、子供というのは時々大人がドキッとするような発言をする。大人にはない特別な勘が備わっているんだろうか。カノンが駄々をこねたのも、この先にある何かを感じ取っていたのかもしれない。

思えば最初から違和感はあった。俺たちが到着しても璃人さんが出迎えに来なかったり、玄関を上がってリビングに入るまで一挙手一投足じろじろと視線を感じたり。

「あの、璃人さんは?」

ひとまず挨拶を終え、姉が璃人さんの両親に訪ねる。すると璃人さんの母は、大きなため息を一つ吐いて言った。

「息子はいません」

「え?」

「いなくても構わないでしょ。どうせすぐお帰りになるんだから」

「帰る? それはどういう」

姉の言葉を遮り切り、彼女は笑みを浮かべた。それはまるで上から姉を見下ろすような、とても意地の悪い、ぞっとするような笑い方だった。

「璃人と別れてくださるよう伝えたくて、今日はお呼びしたんですけど」

「え?!」

これには俺も姉と同時に声を上げてしまった。今日は結婚の挨拶に来たはずなのに、一体これはどういうことだ?

「ねえ、あなたも何か言ってちょうだい。この方たち、お話を理解できていないようだから」

話を振られると、璃人さんの父も口を開いた。腕を組んだ尊大な態度を取りながら。

「やはり中卒は中卒だな。身の程知らずに息子へ近づき、ずるずると付きまとっていただけはある。全く、学歴が低いと恥というものも知らないのかな」

「待ってください!」

その時、リビングに飛び込んできたのは、姿が見えなかった璃人さんだった。

「璃人さん、どこにいたの今まで?」

「ごめん、蒼井さん。まずは自分たちで話したいから、奥で待っているように言われて。そろそろ終わったかと」

「父さん、今の言葉は聞こえていたなら話は早い」

「そのままの意味だ、璃人」

「そうよ、璃人。わざわざ母子家庭なんて育ちの悪いお嬢さんを選ばなくたって」

璃人さんの両親は二人で姉をこき下ろした。

「どうせうちの金目当てで息子を誘惑したんだろう。うちは由緒正しい家系なんだ。そこに出来の悪い血を入れるわけにはいかない」

「普通は自分から身を引くだろうに。飛んだ恥知らずだ」

「知っての通り、夫はメガバンクで支店長をしているの。いずれは本店の頭取も夢じゃない地位にあるのよ。分かりやすく言ってあげれば、とっても偉いの。ちょうど同じ年頃の娘さんを本店の副頭取がお持ちらしい。おい、璃人。この意味は分かるな。つまらない女に引っかかって、私のチャンスを潰すんじゃないぞ」

「あ、蒼井さんはつまらない女なんかじゃありません!」

拳を握りしめ、声を震わせて璃人さんが反論する。それはあまりにも弱々しい抵抗だった。当然ながら、彼の両親を止めることはできなかった。

「話は終わりだ。璃人、さっさと帰らせないか」

「見て、あなた。あのワンピース、薄っぺらでいかにも安物ね」

「あ…」

璃人さん親子のやり取りに呆然としていた姉が、顔を曇らせて俯く。ずっと耐えてきた俺も、ついに声を上げた。

「いい加減に、姉を侮辱するのはもうやめてください!」

「申し訳ない。仁君」

「本当にあなたに謝って欲しいんじゃないです。璃人さん、ご両親もこの結婚に賛成していたんじゃないんですか?」

「僕もそう聞いていたんだ。でも…」

下を向いて、もごもごと璃人さんが口ごもる。そんな頼りない様子に俺が苛立ちを感じた時、信じられない言葉が俺を襲った。

「これだから低学歴は野蛮なのよ。後先考えずに子供を作ったりして。可哀想に」

「今、なんて?」

「可哀想だって言ったのよ。聞けばあなたも中卒らしいじゃない。そんな親を持って、その子の将来も高が知れているわ。普通は遠慮するものなのに、のこのこ連れてきたりして。親が常識を知らないと苦労するのは子供だ。いかにも育ちの悪そうな顔をしているし」

ついに罵倒の矛先は、ずっと大人しく座っていたカノンにまで及んだ。カノンも連れてきていいと言ったのは、子供好きなんて理由ではなく、難癖をつけられる部分を増やすためだったのか。

もうさすがに我慢できない。人の姉ばかりか、娘にまで。いい加減にしろと怒りのまま立ち上がりかけた、その時だった。

「いい加減にしてください」

先に立ち上がったのは、見たことのない顔をした姉だった。

「人の大事な弟と娘に向かって。どれだけ素晴らしい家柄か知りませんが、私にとって恥知らずはそちらです。璃人さんは黙っていて」

初めて見る鬼の形相で、俺たちに謝罪するよう詰め寄る姉。だが、詰め寄られた側も、見る見るうちに顔を真っ赤に染めた。

「な、なんて無礼な女だ。よくも我々に向かって。璃人にも黙れと言ったわ。もう許さない。絶対に結婚なんてさせませんから!」

止める間もなかった。姉は頭から濡れになり、新品のワンピースまで茶色く染めた。璃人さんの母に、コーヒーをぶちまけられたのだ。

ぶつん、と俺の中で何かが切れる音がした。本当に、もう我慢できない。立ち上がり、これから掴みかかろうと相手を睨みつけた。ところが。

不意に上がった無邪気な声に、その場にいた全員の視線が集中した。

「口座、解約しちゃおうと」

「え?」

「ママがいつも言ってるもん。信用できない人とは取引しちゃダメだって。取引できない人は、意地悪ばっかりする人。意地悪ばっかりな人は…」

カノンは目を輝かせて俺を見上げる。「おじさんとおばさん、意地悪だから、口座を解約するの。正解だよね?」というように。

きっと母親の言葉を思い出して、意味は分からないまま口にしたんだろう。そんな娘に、俺は笑顔を見せて大きく頷いた。

「そうだね。カノン、口座を解約しちゃおうか」

「うん!」

「娘がこういうものでして。そちらの銀行にある口座は、解約させていただきますね」

「はあ? 仁君、それは」

俺の言葉に、璃人さんの両親は軽蔑した顔をして。璃人さんは言葉の意味を察したのか、にわかに慌て始めた。

「は、何を言ってるんだか。うちの口座がどうしたって言うんだ」

「どうせ。どうぞご自由に解約なさったら」

「母さん!」

璃人さんの声は間に合わなかった。俺は「その言葉を待っていました」とばかりに、笑顔で言い放った。

「解約するので、百億の預金は引き出しておきますね」

「百億?!」

目を丸くする彼らを見て、俺は思わず苦笑い。これは当時の俺も、似たような顔をした覚えがあるからだった。

「え? カナのお父さんって、あの会社の?」

あれはカナと付き合い始めてしばらく経った頃。だんだん結婚も意識するようになり、お互いの家族について打ち明け合った時だった。カナは何かを覚悟したように自分の父親について切り出して、俺は目を丸くして、顎が外れるほど驚いた。

「ええ、私の父は琴浦の社長をしているの」

カナが口にした会社名は、俺でも知っているような大企業だった。つまり彼女は、社長令嬢。ファミレスでバイトしているのは、社会勉強のためだと言った。

「隠していてごめんなさい。私のこと、嫌いになった?」

「いや、そんな程度のことは、俺にとって大した問題じゃなかった」

もっと気がかりな問題は、俺自身のこと。中卒で、貧乏で、バイトで病気の母親を養っているような俺。とてもじゃないが、カナとは釣り合わない。

「カナが誰の子供だろうと、もちろん嫌いになんてならないよ。ただ、一度ご両親に挨拶させてほしい。その前に、俺の事情を話しておいて欲しいんだ。ご両親が知れば、きっと交際に反対するだろう。その時は、自分から引こう」

カナのことを愛しているからこそ、自分にふさわしい人物と幸せになって欲しかった。そう考えたんだ。

そして後日、カナの実家を訪れた俺は、ぱん、という乾いた音に出迎えられた。

「え? もう、お父さんたら。クラッカーはやりすぎって言ったのに。仁さんがびっくりしているじゃない」

「申し訳ない。やはり気持ちというのは、形にして伝えるべきだと思って」

「形なら、私が料理をたくさん作ったでしょう」

「ごめんなさいね、仁さん」

朗らかに笑う品のいい夫婦と、その後ろで困り顔するカナ。罵倒されても仕方ないとまで覚悟してきた俺は、あっけに取られて棒立ちになった。

「歓迎するよ、仁君。我が家へようこそ」

「お会いできて嬉しいです。ゆっくりしていってくださいね」

「さあ、仁さん、入って」

俺は三人分の笑顔と、テーブルに乗りきらないほどのご馳走に出迎えられた。つまり、カナの両親、俺にとっての義両親は、俺を大歓迎してくれたのだった。

「君にはね、すごく感謝しているんだよ、仁君」

食事を終えると、義父は穏やかな笑顔でそう言った。

「感謝ですか?」

「ああ。君の話はカナからよく聞いていてね。もちろん、君がどんな身の上なのかも聞いたよ」

義父の表情が真剣なものになり、俺も背筋を正した。やはり、彼女との結婚を反対されるのかもしれない。そう覚悟した瞬間、義父の目からぽろりと涙がこぼれた。

「え? ああ、すまない。ようやく君に会えたと思ったら、つい。ずっと会ってみたかったから」

「そ、そんな。どうして俺なんかに? それに、感謝って、俺なんかではないです」

「君は、私たち家族の恩人なんだから」

義父が語ったのは、崩壊寸前だった琴浦家の過去だった。その仕事柄、常に駆け引きの世界に身を置いている義父。残念ながら、そんな世界にはずる賢い人や、平気で人を騙そうとする人も多い。そんな人たちに負けまいと義父も常に気を張っていて、そのストレスから自宅では義母やカナに辛く当たることも多かったという。

「その後、我に帰ると二人に申し訳なくて仕方なかった。私は最低な夫で父親だった。ある時などは、妻に『カナを連れて出ていけ』と言ったこともある。こんな父親のせいで、カナも変わってしまった。表面上は元のように明るく振る舞っていても、その一方ではいつも人を疑ってかかるように」

え? とても信じられなかった。だってカナは、たった一人だけ俺の無実を信じてくれたのに。すると義父は、その答えは俺だと明かした。

「バイトを始めてすぐ、カナが話してくれたんだ。とても掃除が丁寧で、料理もすごく上手な先輩がいる。その先輩はずるやごまかしを絶対にしないんだ、と。それで、その先輩のことは信じてみたい、と。あの時、カナの笑顔を久しぶりに見たよ。私も、あんなに穏やかな気持ちになるのは久しぶりだった。他人を疑うことが辛かったんだと、その時に気づいたよ。だったら、今後はまた少しずつ他人を信じてみようと。君のおかげで、そう思うことができたんだ」

「仁君。他人を信じてみることで、常に張り詰めていた気持ちが楽になった。すると、穏やかな気分で帰宅することができ、家族に当たることもなくなって、以前よりも家族仲は格段に良くなったという。だから君は、私たち家族を救ってくれたんだ。そんな君がカナと結婚してくれるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」

「え? てっきり、今日は結婚の挨拶に来たものだと。君ほど娘と結婚して欲しいと思える相手は、他にいないと私は思うんだが」

「あ…」

義父は俺のことを、カナにふさわしい人物と認めてくれたのだ。

「もしかして、違うのかい?」

「いえ、もちろんです。娘さんと結婚させていただきたいと思っています」

俺が頭を下げると、義父は飛び上がる勢いで大喜びした。そして義実家では、改めて俺の歓迎パーティーが始まったのだった。

「けれど、今の時代に中卒ではさすがに大変だろう」

義父はそう言い、まずは高卒の資格を取るように勧めてくれた。そして、できれば大学にも進むようにと。学費は自分が出すから、出世払いで返してくれたらいい、とも言ってくれた。

その言葉に甘え、俺は働きながら高卒認定試験の勉強を始めた。そして合格後、大学にも進学。その間にカナと結婚し、彼女に似た可愛い娘にも恵まれた。現在は義実家の援助もあり、琴浦人として義父の会社で働いている。当初の「コネ入社」だと言われないよう、地道に信用を積み上げていった結果、今では人事部に所属して新入社員研修の担当という大切な役割を任せてもらっている。即戦力になる人材を一人でも多く育てることで、義父に恩返しをしたい。大切な家族に支えられながら、精力的に仕事をする毎日だ。

「そちらの銀行には、数多くの社員が身を粉にして築いた大切な会社の資金を預けてあります。それは社長がそちらを信用したからこそです。取引をするなら、誰でも信用できる人間としたい。そして娘の言う通り、信用できない相手とは取引ができません。つまり、あなた方のことです」

「あ、いや、その…」

姉にコーヒーをかけるまでの勢いは、どこに消えたのか。俺がじろりと睨みつけると、璃人さんの両親は縮こまって俯いた。相手の立場で態度を変えるのも、信用できない人間の証拠だと義父が教えてくれた。

俺は姉とカノンの手を取り、足早に玄関に向かった。

「自分にとって姉は大事な人ですから。大事な人を、こんな家に。あなた方のような人間に渡すことはできません。さようなら」

「仁君、蒼井さん、本当にごめん」

最後の言葉は、同じく俯く璃人さんに向けたものだった。両親に逆らえず、姉を守ることができなかった。彼にも、姉を渡すことはできない。本人が望んでも、結婚には絶対に反対すると、俺は心に誓いながら姉の方を振り返った。

「帰ろう、姉さん」

「え? そうね。行きましょう、カノンちゃん」

「うん」

俺たち三人は、こうして璃人さんの実家を後にした。姉は結局、一度も婚約者の方を振り返ることがなかった。

その日の夜。俺はカナに、姉がコーヒーまみれで帰ってきた理由を話した。そして、口座解約だと勝手に断言したことを謝罪した。

「お父さんにも、会社のみんなにも迷惑をかけてしまうよ。責任は俺が全部取る」

「顔を上げて、仁さん。怒ったりなんてしないから」

その声に、恐る恐る顔を上げる。カナは優しく微笑んでいた。

「私でも、きっと同じことをしたと思うの。お姉さんのことは大好きだもの。幸せになってほしい。傷つける人がいたら、許せないわ。でも、あの銀行も前からいい噂を聞かなかったの。だからきっと大丈夫よ。それに、私は仁さんを信じているから」

その言葉が、俺の決断を何よりも肯定してくれた。そしてカナの言う通りになった。銀行の評判が下がっていたこともあり、社長は口座を解約し、会社の資金を別の銀行に移すと決定した。百億の預金を失った責任を問われ、支店長は更迭の上、地方の支店に左遷という処分を受けた。夫婦で左遷先へ引っ越すはめになり、自慢だった豪邸も泣く泣く手放したという。

そして姉の結婚については。

姉が自分から璃人さんに別れを告げたと聞いた。

「優しい人だから、きっとご両親を見捨てられないと思うの。仕方ないわ。ご縁がなかったのよ」

「姉さん…」

その言葉とは裏腹に、寂しそうな表情を浮かべる姉。それを見て、俺は目の前の人物に視線を向けた。

「姉はこう言っていますが、どうするつもりですか」

正直、二度と顔を見たくなかった。姉を守れなかったくせに、今更顔を出して。一体どういうつもりか。

「璃人さん」

「ぼ、僕は…」

姉が彼を責めないから、代わりに俺が責める。ここで逃げたら、もう二度と姉には近寄らせない。そんな視線を向けながら、璃人さんの返事を待った。すると彼は、一旦下を向いて。やがて顔を上げると、その目には強い力が宿っていた。

「僕は、両親と縁を切る」

「璃人さん?」

「僕にとって本当に大切なのは、君だよ。蒼井さん」

璃人さんは、姉を好きになった瞬間のことを、話し始めた。コンビニで、テキパキと店内を歩き回り、忙しくても笑顔を絶さない姉の姿に惹かれた。あれは底辺の仕事だと両親に教えられていたのに、姉が働く姿はとても輝いていて、自分と両親は間違っていたのだと、頭を殴られたようなショックを受けたという。

「君と出会えなかったら、僕は今でも両親の言い成りだった。あの二人に言い返したのは、あれが生まれて初めてだったんだ。両親とは縁を切って、銀行もやめる。全てゼロにしたところから、今度は自分の力で始めたいんだ。自信を持って、僕のものだと言える人生を。こんな僕だけど、恋人からやり直させてもらえませんか? そしていつか、また必ずプロポーズさせてください」

「璃人さん…」

その目から涙を溢れさせ、姉の顔がくしゃりと歪む。そして、一つ静かに頷くのが見えた。璃人さんは立ち上がると、俺にも深く頭を下げるのだった。

「今度こそ、必ずお姉さんを大切にします。今はまだ信じてもらえなくても、必ず信じてもらえるように努力していきます」

「…うん」

信じる、とは軽々しく相手に伝えていいものじゃない。誰かを信じるというのは、それだけ重い決断だから。今の俺に言えるのは、この一言だけだった。

「俺は姉を信じます。あなたを信じると決めた、姉を」

「ありがとう、仁君」

顔を見合わせて、姉と璃人さんが微笑み合う。幸せそうな姉の表情を見て、俺は納得することができた。自分の答えは、間違っていなかったのだと。

やがて二人は改めて順調に交際を重ねていった。そして、つい先日。俺は姉から相談を受けたのだった。カノンに、リングガールを務めてもらえないか、と。

レジの金を盗んだと俺が疑いをかけられた時、妻が無実を信じてくれなければ、俺はどうなっていただろう。きっと自分も人を信じられなくなり、再び荒れる毎日に戻っていたはずだ。人を信じることは簡単じゃないけど、だからこそ強い力がある。時には自分や誰かの人生を左右するほどの力が。

最愛の娘には、それと上手に付き合って欲しいと思っている。決して全ての人を信じろ、とも、まずは誰でも疑ってかかれ、とも言わない。信じると決めた人は、全力で信じてほしい。そして、心から信じた人を愛して、自身も愛されてほしい。父が願うのは、それだけだ。

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