ゴミ捨て場に、私の洋服や掃除道具、キッチン道具が無造作に投げ捨てられていた。間違いない。私が大切にしているものだ。かずとからプレゼントされたものも、特別にイニシャルを入れてもらった道具もある。呆然と立ち尽くしていると、背後から声がかかった。
「うわ、帰ってきた」
振り返ると、にやにや笑いながら嫁のゆアが立っている。おそらく家の窓から私の様子を見ていたのだろう。
「これはどういうこと?」
「必要のないものを捨てただけですよ」
明らかに私を馬鹿にした態度。私を過労で倒れるまで追い込んだのは彼女なのに、倒れた途端にこうして私の物を捨てようとする。怒りと同時に呆れが湧き上がってきた。
「うちにはあなたのようなお荷物いらないんですよ」
私の様子に一切気づかず、彼女はさらに侮辱の言葉を重ねる。私はこいつを捨てよう。大事な息子の嫁であり孫の母親だからと我慢してきたが、さすがに堪忍袋の緒が切れた。
「あなたの気持ちはよくわかった。そこまで言うなら望み通りにしてあげる」
「あ、本当ですか?ありがとうございます」
相変わらず嫌味な笑みを浮かべるゆアを見つめながら、これから彼女に起こるだろうことを想像して、思わず笑みがこぼれた。
私は吉沢明美。もうすぐ還暦を迎える59歳の専業主婦だ。一つ年下でエンジニアの夫・かずと、28歳になる息子の琢磨と三人で暮らしている。
私は昔から家事をするのが好きだった。子供の頃、流行りのおもちゃが欲しいとねだると、母は「お手伝いしてくれたらお小遣いをあげるわよ」と言った。最初はただのお小遣い稼ぎだった。しかしリビングの掃除をやってみると、自分の手で汚れが落ちて綺麗になっていく様子に感動してしまった。家中を掃除したくなる勢いだった。
洗濯や料理も好きだと発覚し、私から積極的に手伝いを申し出るようになった。両親はパートの母が正社員になる話を進められていたが、家事が滞ることを心配していた。私が家事を覚えて自分から進んでやるようになったおかげで、両親の悩みは解決した。母は正社員になり、父も残業続きの日々を送れるようになった。
私が好きなことをして家事をしながらお小遣いをもらうという体験が、私の未来を決めた。高校に入った頃、両親に将来について聞かれた。周りの友人は進学を選択していたが、私は就職を選んだ。
「私、家事代行業界で働きたいって考えてるの」
両親は反対しなかった。むしろ納得していたほどだ。知り合いの伝手で会社に相談すると、若い戦力が欲しいと言われ即採用された。高卒で就職し、苦労はしながらも自分の好きなことをして稼げる生活を満喫していた。仕事に夢中になりすぎて、恋愛をする暇もないほどだった。
そんな私を気に入ってくれたのがかずとだった。25歳の頃に任されたのが彼の家だった。数日分の作り置きを用意すると、彼は感激して感謝してくれた。最初は仕事上の付き合いだけだったが、彼の家で家事をするうちに、住んでいる距離が近いことが発覚し、プライベートでも会うようになった。彼がシステムエンジニアで優秀な部類に入る人物だと知った。残業ばかりで充実していると語る彼の言葉は、私にも通じるものがあった。仕事が好きで毎日楽しくて仕方ない。恋人は仕事という私たちは、当然のように仲良くなった。
やがて彼から告白され、交際を開始。翌年には結婚し、30歳の時に琢磨を出産した。妊娠中のつわりが重く仕事をやめることになったが、その分可愛い息子の世話ができる。幸せで穏やかな家庭を築いていた。
問題は義母だった。琢磨が小学生の頃、家で一人で家事をしていると電話がかかってきた。
「明美さん、今度の週末、かずとと琢磨を連れてうちに来なさい」
毎回内容は同じ、義実家への呼び出しだ。私は断ろうとするが、義母は譲らない。
「今週末は琢磨の習い事の発表会があるんです」
「その後で顔を出せばいいじゃない」
「終わったら食事に行くので、そちらに行く時間はありません」
「寄ればいいだけの話でしょうが」
義実家と我が家は車で二時間かかる。往復できる距離ではないと分かっているのに、義母は毎回こうして強引に呼びつける。翌日はお祝いに遊園地へ行く約束もある。私が義母と距離を置きたいのは、彼女が家事の強要や嫌がらせをするからだ。義実家を訪れるたび、荷物を置く間もなく掃除道具を渡されたり、台所に立たされたりした。最新の家電が揃っているにも関わらず、雑巾やほうきを押し付け、洗い物は冷水でやるように命令するのだ。
義母が私を嫌う理由は分かっている。結婚挨拶の時、散々私の過去を攻めてきたのだ。
「大学に進学しなかった上に年上の家事代行なんて、かずとは最悪の女を嫁に選んだわ」
かずとは激怒して絶縁を宣言した。義母は大慌てで謝罪し、義父も間に入ってなんとかその場は収まった。以降はしばらく大人しくしていたが、琢磨が生まれてから再びこうして過干渉してくるようになった。
かずとは「俺の母親が申し訳ない。あまりにもしつこかったら絶縁しよう」と言って、私と義母の間に入ってくれる。一方、義父は見て見ぬふりをしていた。彼は私が義母から嫌味を言われても、注意しても無駄だと考えて何もしなかったのだ。
義母にはずっと悩まされるのだろうと思っていたが、予想よりも早く彼女と決別する出来事が起きた。義両親が離婚したのだ。家事をしない専業主婦の義母は、暇を持て余して近所の既婚男性と浮気し、それが義父に発覚した。義父は二度と顔を見たくないと、飛行機の距離にある義母の実家に連絡し、強引に帰らせた。
それからは義母の干渉がなくなり、穏やかな生活を送れるようになった。あんな姑には絶対にならないと私は心に決めた。
月日はあっという間に流れ、気づけば琢磨は28歳になっていた。彼は大学時代に一人暮らしをしていたが、我が家から近い会社に就職すると同時に、再び一緒に暮らし始めていた。
ある日、琢磨が真剣な顔でソファーに座り、スマホを見てはため息をこぼすのを繰り返していた。
「どうしたの?何か悩み事?」
尋ねると、彼は重い口を開いた。
「実は交際してる女性がいるんだ」
私は驚いた。琢磨はよくも悪くも私たちにそっくりで、仕事に夢中で異性に関心を持たなかった。学生時代も女子生徒に告白されても断っていたのに、付き合っている女性がいると知って驚いて固まった。
相手は同じ会社の事務さんで、宮原ゆめという人らしい。ある飲み会で隣の席になったのがきっかけで、解散後に彼女の方から連絡先を渡してきた。メッセージをやり取りするうちに、彼女が双子を一生懸命育てているシングルマザーだと知った。大学時代に子供を妊娠したものの、当時の交際相手に逃げられたらしい。高齢出産で生まれた彼女自身、両親に迷惑をかけられないと家を出て、女手一つで双子を育ててきた苦労人だという。
「俺は彼女を助けたいと思ってる。幸せにしたいって告白した」
「それが本心なのね。私はあなたが決めたなら反対しない。きっとお父さんも同じ考えよ。ただ、子連れ再婚は相当の覚悟が必要よ」
「分かってる。俺も子供たちのことが引っかかって」
しっかり子供たちと向き合ってから結婚しなさいと助言すると、琢磨は複雑な表情を浮かべた。その理由を後日知ることになる。
琢磨から話を聞いて一週間ほどした頃、彼は突然「結婚が決まった」と宣言した。
「え、こんなに早く?」
「ゆめとの赤ちゃんを妊娠してるみたいなんだ」
あの日の飲み会以降、一度だけ彼女に誘われて記憶を飛ばすほどお酒を飲んだことがあったらしい。酔った勢いで体の関係を持ち、その際にできた子供だという。
親としては歓迎できない事態だが、責任を取らせないという考えもあり、私たちは彼を応援することにした。
「できるだけ二人には迷惑をかけたくない。でも頼みがあるんだ。ゆめたちをこの家に住まわせてほしい」
ゆめたちはアパート暮らしで、これから生まれる赤ちゃんのために大きな金は使いたくないらしい。この家に住めば私たち夫婦に頼りやすいし、貯金もできるというのが彼らの考えだった。
「分かった。私はいいわよ」
「明美がいいなら俺も構わない」
こうして、顔も知らない嫁と孫たちとの同居が始まったのだった。
「初めまして。今日からよろしくお願いします」
ユアは妊娠している関係で琢磨と籍を入れるだけにし、双子を連れて我が家にやってきた。
「ほら、あんたたちも挨拶しな」
「いおり五歳です」
「蒼井五歳です」
背中を押されて前に出た双子の男の子たちは、落ち着かない様子で私たちを見上げる。そんな彼らの前にしゃがんで挨拶すれば、二人は目をそらした。
ユアは初対面の姑である私の前でも、肝が座った様子だった。
「お母さんって専業主婦なんですよね」
「ええ、そうだけど」
「じゃあ私たちの中で一番下ですね」
「下?」
意味が分からず首をかしげると、彼女は私を無視して双子たちを連れて家の中に入った。そしてソファーに堂々と座る。
「そういえばお母さんって高卒なんですよね。大学受験もしなかった感じですか?」
「そうだけど」
頷くと、ユアはにんまりと笑った。
「やっぱりそれなら大学に進学した私の方が上ね」
意味が分からない発言の連続に、私は不安を覚えた。やっぱり受け入れるべきではなかったかもしれない。
ユアとの同居が始まって半年、私は早速公開していた。彼女は妊娠を理由に何もしないのだ。双子の育児も家事も、すべて私に押し付ける。
「お母さん、そろそろ保育園の時間なんで送迎お願いします」
「つわりがひどくて歩けないんですよ。あ、帰ってきたらうちの分の洗濯もお願いします」
具合が全然悪そうに見えないが、彼女は基本的にソファーでゴロゴロしている。誰の子供を妊娠してると思ってるんだと言いたいが、琢磨が妊娠させたというのもあり、結局私は口を閉じてしまう。
幸い、双子たちは素直でこちらの指示に従ってくれる。最初は距離を置いていたが、目線を合わせて耳を傾けるうちに心を開いてくれるようになった。保育園に行く道すがら、今日の劇の練習の話を楽しそうに話す。家に帰れば彼女たちはママに話しかけても「うるさい。ママは赤ちゃん育てて具合が悪いの。話ならおばあちゃんに聞いてもらいなさい」と怒られているのを何度も見た。あくまで私がいる場のみで、かずとや琢磨の前では子供たちを可愛がるふりをしている。そんな二面性を双子たちも理解しているのか、琢磨たちがいる時にしか彼女に近寄ろうとしない。
ユアの本性をかずとや琢磨は知らない。二人とも忙しい身で、大きな案件を抱えて毎日残業している。彼らを煩わせたくないという考えもあり、なかなか相談できなかった。
きっと今だけよ。赤ちゃんが生まれればユアさんだって落ち着くはず。私は現実逃避をしてしまう。そしてユアは悪い意味で私の期待を裏切った。
ユアは女の子・誠を出産した。誠は目がくりくりとしており、目の下には特徴的なほくろがある。可愛らしい子だ。周囲が祝福する中、琢磨は誠を見て複雑そうな顔をした。そんな彼に違和感を抱きながらも、深く追求しない選択をした。
これでユアの母性が復活すると思っていたが、彼女は正反対の行動を取った。母乳を飲ませる時だけ誠を抱き上げ、後は私に放り投げる。彼女自身は妊娠中よりも外出時間が多くなった。夜は琢磨が対応し、かずとも家にいる間は積極的に面倒を見てくれる。しかし平日の昼間は私一人で赤ちゃんに付きっきりで、さらに双子の相手をする時間が減ったため、二人が寂しがって周りをうろちょろし始めた。
結果、なかなか休めず、大好きだった家事もろくにできない状況となり、精神的に追い詰められていた。還暦近い年齢の私では子供たち全員の面倒を見るのは大変だ。肉体的にも追い込まれ、保育園に双子を預けた直後、私は彼らの前で倒れてしまった。
「過労ですね。一週間ほど入院しましょう」
そのまま近くの病院に入院することになった。病院に駆けつけたかずとには、曖昧に返事をする。今の精神状態で、もしユアの味方をされれば私の心が折れかねないと感じたからだ。
琢磨たちは子供たちの面倒を見ている。双子は私が倒れたことで大パニックを起こしたらしい。誠も琢磨のところにいる。ユアは「大事な用事がある」そうだ。何度も琢磨が電話をかけ、ようやく出たと思ったら、どうしても外せない用事があると告げたそうだ。
「お前がユアさん絡みで悩んでいるのはなんとなく分かっていたよ」
かずと曰く、私がユアを見る目がかつて義母に向けていたものと同じだったとのこと。彼には何もかもお見通しのようだった。私は彼にだけはユアの普段の態度や育児放棄について包み隠さず話した。すると、かずとは彼自身もユアの調査をしていたことを打ち明けた。
「明美、もしお前が望むなら」
彼の提案に、私は少しだけ考えさせて欲しいと伝えた。
それから一週間後、私は予定通り退院した。病院にはかずとはもちろん、琢磨も子供たちを連れて顔を出してくれた。
「おばあちゃん大丈夫?ごめんね。僕たちがわがままばっかり言ったから」
「違うわ。あなたたちは何も悪くないの。私の方こそ急に倒れて驚かせてごめんなさいね」
お見舞いに来た双子は今にも泣きそうな顔で謝罪する。彼らは自分たちの行動が私を追い詰めたのだと考えているのだろう。目に見えて落ち込んでいる子供たちの頭を撫でながら、申し訳ない気持ちになった。一方、ユアは一度も病院に現れなかった。
迎えに来るという家族を断り、私は一人で家に帰ることにした。ユアの反応を予想しながら家に向かって歩く。すると、家の目の前のゴミ捨て場で、私は足を止めた。
そこには私の洋服や大切な掃除道具やキッチン道具が捨てられていた。かずとからプレゼントされたものや、特別にイニシャルを入れてもらった道具もある。間違いない。私のものだ。
「うわ、帰ってきた」
ゴミ捨て場で呆然としていると、にやにや笑いながらユアが声をかけてきた。
「これはどういうこと?」
「必要のないものを捨てただけですよ」
「あなたにとってはそうかもしれないわね。でもどれも私が大事にしているものなんだけど」
「知りません。家族の中で一番下の存在のくせに、子供の面倒もろくに見れずに倒れるような役立たずのババアのものなんて、家にあるだけで鬱陶しいし」
随分とひどい言い草だ。私がろくに反論しないのも、彼女を調子に乗らせているらしい。
「ついでにあなたも消えてください。育児で入院するようなババアは金食い虫にしかならないので。無料の家政婦がいなくなるのはちょっと残念だけど、琢磨たちに余計なこと吹き込まれたくないし」
「うちにはあなたのようなお荷物いらないんですよ」
明らかに私を馬鹿にした態度。私を過労にまで追い込んだのは彼女なのに、倒れた途端に捨てようとする。怒りと同時に呆れが湧き上がる。
「あなたの旦那の遺産も、琢磨や将来成人した子供たちの稼ぎも、あの家も全部私がもらうから。今後邪魔になりそうな姑は消えて」
そう言い切ると大声で笑う。私はそんな彼女をじっと見つめた。私はこいつを捨てよう。大事な息子の嫁で孫の母親だからと我慢してきたが、さすがに堪忍袋の緒が切れた。もう彼女には一切の慈悲はいらないだろう。先にやってきたのはユアの方なのだ。
「あなたの気持ちはよくわかった。そこまで言うなら望み通りにしてあげる」
「あ、本当ですか?ありがとうございます」
相変わらず嫌味な笑みを浮かべるユアに対し、これから彼女に起こるだろうことを想定して、笑みがこぼれた。
「何笑ってるの?もしかして現実が受け入れられなくておかしくなっちゃった?」
「心配ありがとう。意味はすぐに理解するわ」
この状況で笑顔なのが気味悪く感じたのか、ユアは「とにかく早く消えて」と家の方へと去っていく。残念だけど、お金もあの家もあなたのものにはならないわ。彼女の背中につぶやき、私はスマホを取り出した。
「ああ、琢磨、ごめんね。ちょっと手を貸してくれる?」
まずは捨てられた自分の荷物を回収しないと。そう考えた私は人手を呼ぶことにした。
ゴミ捨て場に駆けつけた琢磨は、目の前の光景に絶句する。
「まさかここまでするなんて」
「ええ、私も彼女には助ける価値なんてなかったわ。だから離婚の話を進めましょう」
「あ、そうだね」
琢磨の目は冷たく、ユアに対する怒りしか感じなかった。彼女は最後まで選択を間違え、自分から地獄への片道切符を掴んだのだ。
とりあえず荷物は琢磨たちに運んでもらい、私は本当の目的地へと向かった。
翌日、新居でくつろいでいると、近くに置かれたスマホが鳴った。琢磨のスマホだ。
「琢磨、彼女から電話みたいよ。今手が開かなくて母さん出てくれる?」
「分かった」
誠を抱き上げてあやしている彼の代わりに、私はその電話を取った。
「はい。何でしょうか?」
「え?その声は…なんでお母さんが?」
「琢磨は現在忙しいので、頼まれて代わりに電話に出ただけです」
夫のスマホなのに自分が追い出したはずの姑が出るとは予想していなかったのだろう。ユアの声は驚愕に満ちていた。
「もしかしてあなたが何かしたの?」
「あら、何のことかしら?あなたも知っていると思うけど、つい先日まで入院していたものだから、全く分からないわ」
「ふざけんな。で、あなたは何をしているの?もしかして家に誰もいないって今更気づいたのかしら?」
「そうよ。なんで誰も帰ってこないの?お父さんや琢磨はともかく、子供たちまでいないなんて」
「答えは簡単。あなたをおいて、みんなで新居に引っ越しただけ」
私たちは現在タワーマンションの一室にいる。私たち夫婦と、ユア以外の息子家族で隣同士の部屋を購入し、今日は引っ越し祝いをするためにこちらに集まっているのだ。
「新居?私何も聞いてないわよ」
「まあ、当然でしょうね。あなたを置いていくってみんなで決めたんだから」
「どういうことか説明しなさい!」
ユアの大声に、私はスマホを耳から少し離す。視線を周りに向けると、双子が驚いたように私を見ていた。
「ほら、蒼井、こっちにおいで。じいちゃんがおやつを用意したぞ」
「はい」
かずとが彼らに声をかけて別の部屋へ連れていく。琢磨の方も眠った誠をベビーベッドに寝かせるために退出した。
「急に大きな声を出さないでくれる?その家、賃貸なんだからあまり傷つけないでね」
「え?賃貸?お父さんの持ち家じゃないの?」
私たちが住んでいた家は、義母が再び現れた時にすぐに逃げられるよう、あえて購入しなかった。ユアが知らないのは当然だ。琢磨がわざわざ義母との過去の因縁を話す必要はなかったのだから。
「経緯はあなたには関係ないから省くけど、そこはかずと名義の賃貸で、あなたのものにはならないわ」
「意味わかんない。てか私が置いて行かれた理由は?」
「これから話すから、少しは静かにできないの?」
いくら電話越しとはいえわめかれると説明する気も失せる。そう伝えれば、ようやくユアは黙った。
「ところであなた、置いて行かれた理由に心当たりはない?」
「そんなのないわ」
「私たちは全部知ってるわよ。あなたの本性をね」
本当にバレていないと思い込んでいたのだろう。ユアの弱々しい声が聞こえる。
「あなた、よくも私の大事な息子を騙したわね」
彼女が琢磨に見せていた姿は全て偽りなのだ。
「まずシングルマザーになった経緯。あなたは相手に逃げられたと言っていたけど、実際は大学の教授、しかも既婚者の人と浮気をしたんだってね」
「な、なんで知ってるの?」
「当時はあなたたちのことで大学中が持ち切りだったらしいわよ。ちょっと調べただけで証言がゴロゴロ出てきたんだって」
琢磨があるきっかけでユアに不審感を持ち、興信所に調査を依頼したのだ。
「お相手の家庭は崩壊。教授さんはあなたと再婚しようとしたけど、ユアさんの方が『未来のないおじさんは無理』って逃げたんだってね。大学を中退したあなたは『相手が先生で断れなかった』と嘘をついて実家にお世話になっていた。でも娘の性格をよく理解している両親は密かに調査をして、事実を知って、双子が保育園に入った頃を見計らってあなたを追い出した」
生活するためには働かないといけない。それで渋々就職した会社にいた琢磨に目をつけた。優秀な技術者である琢磨は周囲より給料が高い。さらに恋愛経験も興味もなし。自分なら落とせるとずっと機会を伺い、あの飲み会の日に行動に出た。
「ここまで合ってる?」
「それに加えて、誠ちゃんは誰の子供なのかしら?」
「そんなの私と琢磨の赤ちゃんに決まってるじゃない」
「本当にあなたの同僚の男性じゃなくて?」
ユアが息を飲んだのが聞こえた。まさか私たちが浮気相手のことまで認知しているとは考えすらしていなかったはずだ。
「あなたは琢磨の他に、同僚の男性と関係を持っていた。頑張り屋のシングルマザーのふりして、二股するなんてとんでもない人ね」
「なんで…どうして分かったの?」
「最初に気づいたのは琢磨よ」
あの鈍感な琢磨が。確かに琢磨は仕事が好きで人との関わりは最低限だ。だが彼は観察力に優れており、ちょっとした違和感から真実を見抜いたのだ。
「琢磨はあなたの同僚に特徴的なほくろがあるのを覚えていた。誠ちゃんと全く同じね。そのことに気づいたから、琢磨は複雑な表情をしていた」
本当だと思いたかった彼は、あえて同僚の男性に接触し、誠の写真を見せたらしい。すごく喜んでいたそうだ。「ほくろって遺伝するんだな」と口を滑らせるくらいに。無意識につぶやかれたその言葉を聞いた琢磨は、ユアの浮気を確信した。しかし下手に動けば証拠を隠滅されてしまうと考え、ひとまず彼はかずとに相談した。そして二人は証拠集めを開始したわけである。
「そりゃ忙しくて帰りが遅くなるわよね。通常の仕事だけでなく、誰かさんの裏切り調査もしてたんだから」
かずとたちからは病院でユアを放置してて申し訳ない、すぐに助けられなくてすまないと謝罪されたものだ。
「ここまで裏切っておいて、自分は捨てられないと思った?」
「だって…」
「他にもあなたが私たちに隠していることがあるのも知ってる。だからあなたは置いて行かれたの」
彼女の所業について私も怒りを覚えた。だからこそ、ユアの人生を終わらせることに反対しなかったのだ。
「とりあえず今は引っ越しで忙しいの。あなたの相手をしてる暇はないから、切るわね」
そう告げて私は電話を切った。まだまだこれからよ。独り言をつぶやき、私は家族たちの元へと向かう。
実はユアを捨てるかどうかは私に一任されていた。琢磨は「一応子供たちの母親だから」とかずとは「自分が一番被害を受けていないから」と、それぞれ理由があったのだ。そのため、彼女に一番迷惑をかけられていた私の判断に委ねられた。
「お前が彼女を許したいという考えがあるなら、なんとか教育するつもりだ」
病院でそうかずとから提案された時、私は悩んだ。ユアのことは正直嫌いだったし、彼女のせいで心身共に疲弊した。それでも心のどこかで「私が甘やかしたから」という考えもあり、すぐに決断を出せず保留にしていた。少しでも謝罪の言葉や態度があったら、性格修正の方向にしよう。そう琢磨たちに言おう。やがて下した決断はそれだった。琢磨たちの前では猫を被って謝罪する可能性を考え、私は一人で家に帰宅することを申し出た。
そして、捨てられた私の荷物を見つけたわけである。知らなかったとはいえ、最後のチャンスを棒に振ったのは彼女自身だ。あれだけの暴言を吐いて、捨てられても仕方ない。自分の決断が間違っているとは思っていなかった。それどころか晴れ晴れとした気持ちだった。
ユアに真実の一部を明かした翌朝、私は以前のように双子を保育園へ送る。母親のことは全く気にしていないらしく、むしろ前より明るくなった。保育園の先生にもそう言われるほどだ。
あの子たちの親権をなんとか取れないかしら。双子は元はユアの連れ子で、親権は当然彼女にある。本来なら彼女が引き取るべきなのだが、私たちにはそうしたくない理由があった。琢磨が誠も含めて引き取れないか弁護士に相談中だ。本当の父親や彼女の両親を頼るのもね。
保育園に双子を預け、私はのんびりと家に帰ることにした。引っ越した関係でいつもとは違う道を進んでいると、あるチラシが視界に入った。「これなら私にもできそうだわ。前よりも時間があるし」足を止めて詳細を読み込んでいた時だ。
「あ、あんた見つけたわよ」
「あら、ユアさん」
少し離れたところから、どこか痛んだ洋服を着たユアが髪を振り乱して駆け寄ってくる。あまりにも必死な様子に通行人が驚いたように彼女を見ていた。
「あらじゃないわよ。私を捨てるなんていい度胸じゃない」
「そうされて仕方ないことをしたのはあなたでしょ」
目の前まで来たユアの体からは、独特な匂いがした。強烈な体臭と香水が混じった、不快感を感じるものだ。
「私たちがいなくなって随分と苦労してるみたいね」
よく見れば何日も洗っていないだろう洋服にボサボサの髪。風呂にも入れていないのが分かる。
「あんたたちのせいでしょ。あの後すぐに追い出されたんだから」
どうやらかずとはずっと前から家を手放す計画を立てていたようで、退去日は私の退院の日だった。入院している間に新居へある程度荷物を搬送し、残りは彼女が捨てた私のものだけ。元々賃貸物件なので、その類いのものを残したままだった。そのためユアは最後まで気づかなかったらしい。
「おかげ様で私は寝無家よ。私との電話の後に大家や警察官と共に現れて、問答無用で放り出された。彼女自身はさほどお金を持っていないので、アパートなどを借りることもできない。結果、一週間ほどでここまでやれたというわけだ」
「それは大変だったわね」
「大変どころじゃないわ。まあいい。さっさと新居に案内しなさい」
「あら、どうして?」
上から命令してくる彼女に私は首をかしげた。
「なんでって、私は嫁よ」
「琢磨はあなたと離婚するつもりしかないわ。あなたも聞いてるでしょ」
琢磨はすでに弁護士に依頼し、彼女に離婚を突きつけている。彼にとってユアは愛する存在ではなく、むしろ恨みの対象だ。だが彼女が離婚届にサインしないので、話が進まない状態なのだ。
「そんなの私は認めないわ。あんな都合のいい男を手放すつもりもない」
「あなたの浮気相手のところに行ったら?まあ、慰謝料を請求されるだろうけど」
「…っ」
ユアの浮気相手は既婚者でダブル不倫だった。しかも妻の実家に居候している。もし乗り込めば袋叩きに遭うのは目に見えているので、ユアは断念したのだろう。
「で、でも私は子供たちの…実の母親よ。あの子たちからお母さんを奪うつもり?」
「どの口が母親だっていうの?」
冷たく彼女を睨むと、一瞬ひるんだように口を閉じた。すぐに睨み返してきたが、私は全く引かなかった。
「あなたの言うお母さんって何?ただ産んだだけのつもり?」
「あ、当たり前でしょ。お腹を痛めたのは私よ」
「だからネグレクトしていいとでも?」
双子が母親のユアではなく他人である私に心を開いていたのは単純な結果だ。彼女は自分できちんとした子育ての手順を取らず、育児放棄していた。子供たちを愛することなく、自分のために時間を使い果たした。一人だけ美味しいものを食べたり、旅行に出かけたり、男に貢がせたりとやりたい放題だった。彼女の親が怒って追い出すのも当然である。
ちなみに養育費は一括でもらっていたため、追加分はなし。だから彼女は就職した。それで反省すればよかったのに、あなたは子供を愛するどころかないがしろにしてたんでしょ。
ここからは双子から聞いた話だ。ユアの両親が「こんな母親の元に生まれたから」と哀れに思い、保育園だけは通えるようにしていたので、実家にいた時と変わらず、何も問題のない普通の生活を送っていると周りは見ていた。しかし家の中に彼らの居場所はなかった。無視は当たり前。少しでも大きな声を出せば怒鳴られた。ご飯だって二人で一つのパンを分け合う状態だったと聞いて、私は泣きそうになった。
新居に引っ越してユアの存在が遠くなったからこそ、彼らは真実を話してくれた。いくらシングルマザーで双子の育児が大変だとしても、彼女の行動は母親のすることとは決して言えない。
「うるさい。うるさい。私の好きにして何が悪いの?あんなクソガキ、私だっていらないわよ」
「ならあの子たちは私たちが育てます。少なくとも琢磨の方がまともに育てられるわ」
琢磨からしたら赤の他人でしかない子供たちとはいえ、二人を見つめる目には愛情が込められている。一緒にいる時間は短くとも、彼にとって双子は大事な子供になりつつあった。だからこそ彼らを新居に連れて行き、今でも一緒に暮らしているのだ。
「誠ちゃんだってあなたじゃ育てられないわ。私がずっと面倒を見てたんだから」
下手すると誠はユアを母親だと認識できていない可能性もある。それほどまでに彼女は育児を放棄していたのだ。
「仕方ないでしょ。私はまだ若いんだから」
「若くてもちゃんと子供を育てる人はいる。そんなの言い訳にもならないわ」
きっぱり告げれば、彼女は唇を噛みしめた。先ほどから正論ばかり返され、反論できずに悔しそうだ。だが彼女はにやりと笑った。
「あんたの言う通り。私はガキなんて愛してない。だからくれてやるわよ。金を持ってこないなんて邪魔でしかないし」
「あなた…」
「その代わり私も離婚慰謝料で済ませなさい。あと生活費も寄こしなさいよ。じゃなきゃ離婚届にサインしないし、親権も渡せないわ」
その言い草に、私は呆れてしまう。彼女の本性もそうだが、そんな発言を複数の通行人がいる前でするのだから。
「あなたも働いているでしょ。自分一人くらいどうにでもなるんじゃないの?」
「特にやめたに決まってるでしょ」
ユアが勝手に退職したのは実は琢磨から聞かされていた。ただ、彼の稼ぎなら私たち夫婦を除いた家族全員を養えるため、これまで指摘しなかっただけだ。
「残念だけど、その交渉に応じるつもりはないわ」
「はあ。ババアが調子に乗るな」
カッとなったのか、ユアが私に掴みかかろうと迫る。
「やめなさい。その女性から離れろ」
しかし私に届く前に、間に警察が割り込んだ。どうやら通行人の誰かが通報してくれたらしい。
「あ、私は何も悪くない。あ、待ちなさい」
警察相手に逆上したのか、ユアは逃走する。もちろん警察が許すはずもなく、すぐに追いかけて確保された。そのまま抑えられながらパトカーへと連れて行かれる。
「あの、私さっきのやり取り録画してて、これお役に立てませんか?」
直後、一人の女性に声をかけられた。警察を呼んだのも彼女で、一部始終を記録してくれたらしい。
「ありがとうございます」
「どうぞ」
私は彼女の行為をありがたく受け取り、そのまま琢磨にメッセージアプリで送信する。数分の間を置いて既読。
「ありがとう。これなら優位になるかも」
という返信が来た。
「ご親切にありがとうございます。よければお礼をさせていただけませんか?」
「私は当然のことをしただけです」
「それでも私は助けられました。お茶だけでもどうでしょうか?」
「分かりました。じゃあコーヒーをお願いします」
私の言葉に、女性は笑顔で答えた。こういう人をお嫁さんにもらいたいなと思うほど好印象だった。
「あ、遅くなりました。私、吉沢明美と言います」
「え、明美さん?」
「ええ、そうです」
名乗ると、女性は驚いたような顔をした。思わず首をかしげたところで、彼女は慌てたように言う。
「な、何でもありません。私は本田リカです。これからよろしくお願いします」
そして輝くような笑顔で自己紹介してくれた。私たちは彼女のお気に入りだという喫茶店に向かうことになった。
落ち着いた雰囲気ですごくいいわね。彼女が案内してくれた店は私の好みにも合っていた。お互いに注文を済ませてリカと歓談を始める。話が盛り上がった私たちは、連絡先を交換する流れになった。
それから間もなく、琢磨とユアは無事に離婚した。ユアは逮捕まではされなかったが、周りへの印象は当然悪いものになっている。琢磨と弁護士が離婚裁判を起こしたところ、ユアの浮気の証拠はあったので慰謝料を勝ち取った。さらにユアの元では子供は育てられないと判断され、琢磨に親権が移り、彼の完全勝利となった。
その後、子供たちの親権を巡って裁判所が双子に「ユアと暮らしたいか」と尋ねた時、双子は「絶対に嫌だ。ママはママじゃない。僕たちを見てくれない。僕たちからおばあちゃんを取らないで」と泣き叫んだそうだ。それを見て、誰もユアに親権をという人はおらず、おかげで私たちは彼らと引き裂かれることはなかった。
ユアと絶縁して五年の月日が流れる。双子は十歳になり、時にはいたずらをしながらも五歳の誠の面倒を見る良い兄となっていた。
「明美さん、ちょっとお時間もらっても?」
「ええ、大丈夫ですよ」
現在私はリカが所長を務める家事代行会社で働いている。ユアと絶縁した時、私が見たチラシはこの会社の人員募集だった。「死歓迎」と書かれており、応募したのだ。面接の場でリカと再会した。
「明美さん、うちに来てくれるんですか?」
「あら、リカさん、まさかあなたがいるなんて」
リカはあの日、ちょうどチラシを掲示板に貼るためにあの辺りを歩いていたそうだ。まさかのご縁に驚きつつも、私は自分の年齢やブランクがある点を説明しながらきちんと面接を受けた。
「もちろん採用です。むしろ明美さんみたいな人を私は待ち望んでいたんです」
即採用された。三十年近いブランクは怖かったが、家事はしっかりしていた。さらにユアに酷使されていたおかげで、倒れたものの体力はそれなりにあったらしく、年を越した体でもお客様に満足してもらえる働きができていた。
「これから面接があるんです。明美さんも出席しませんか?」
「私が?別に構いませんが」
人事に一切関係ない私が面接に参加する意味は分からなかったが、反対する理由もなく承諾する。彼女の後に続いて会議室へと向かった。
「これ、応募者の履歴書です」
「はい。拝見しますね」
どこかいたずらな意味を浮かべる彼女から渡された履歴書を読む。あら、これって。
応募者の名前は宮原ユアと書かれており、思わず目を丸くした。写真も五年分やつれているものの、あのユアで間違いない。
「明美さんの目で見て、彼女が反省して別人になったかどうか判断して欲しいんです」
「なるほど。承知しました」
琢磨と離婚したユアは、どうしようもなくなって実家に帰ったはず。何があってこの会社に応募したかは分からないが、しっかりと見極めよう。心の中で決意し、彼女が現れるのを待った。
五分ほどし、ノックの後に扉が開かれる。
「失礼します」
入ってきたのは、五年前よりも見た目にある程度気を使った姿のユアだった。私はすぐに同一人物だと分かったが、向こうは気づいていないらしい。ちらっとこちらを見ただけで、視線は社長であるリカに向けられる。
「では面接を始めます。あまり緊張せず、肩の力を抜いてお答えください」
リカの言葉で面接が開始した。ユアはこちら側の質問にお手本のような返事をする。私はその様子をじっと観察していた。
「ところで、我が社は家事代行サービスを提供しているので、当然家事スキルを求めています。経験はどれほど?」
「はい。二十年近くがあります」
私の正体に気づいていないとはいえ、ここまで堂々と嘘をつくなんて。まだ五年程度と答えたなら、琢磨と離婚した後に頑張ったのかもしれないと考えただろう。しかし二十年とは大きく出たものだ。
「二十年もですか?ということは子供の頃から?」
「実は家庭に事情がありまして…」
リカが優しく促したので、油断したのかもしれない。ユアは嘘八百を並べ立てた。
「実は母を早くになくし、不遇な環境で育ったので、働くために家事をしました」
五年前の時点で彼女の両親は揃って都心で暮らしている。同情を誘うのが目的なのだろう。
「さらに結婚してからは嫁いびりに遭い、家事を押し付けられ、何もしない夫の分まで育児をしておりました」
どの口が言ってるんだ。そう言いたくなるのを必死に耐えた。つまり、私が彼女に家事をさせ、琢磨が育児に参加しなかったと。事実は当然真逆だ。家事をしていたのは私だし、血の繋がらない子供たちを琢磨は愛情を込めて面倒を見ていた。
「なるほど。それは大変でしたね」
リカはにっこりと笑いながら返す。彼女は我が家の事情を知っている。そのためユアの嘘にも当然気づいていたはずだ。
「はい。そのせいで体調を崩して、役立たずはいらないと親権を奪われました」
「なるほど。では、これから何をしたいとかありますか?」
「やっと働けるまで回復したので、お金を稼いで子供たちを迎えに行きたいです」
「素晴らしい考えですね」
ユアに返したリカは私へと振り返る。そして私たちは同時に吹き出した。
「え?」
突然のことに困惑するユアは、未だに私が誰か分からないらしい。
「よく私の前で言えたわね」
「は?」
「嫁いびりをする姑の顔なんて忘れたかしら」
そこまで言うと、ようやく察したようだ。彼女の顔がみるみる青ざめていく。
「ああ、まさか…お母さん」
「その呼び方やめてくれる?で、誰が家事を押し付けられてたって?」
にっこりと笑えば、ユアはガタガタと震え出した。彼女からしてみれば、真実を知る人物が目の前にいるのだ。怯えるのは当然かもしれない。
「残念ですよ、宮原さん。あなたが心の底から反省しているなら、彼女の部下として雇用することも検討したのですが」
リカが残念そうにため息をつく。本当に残念だと思っているのか、それとも芝居なのか。どちらにせよ、ユアの面接はここで終わった。
「彼女の部下として?明美さんはこの業界では伝説として有名なんですよ。彼女がいるから我が社が反映していると言っても過言ではないくらいです」
「過言ですよ。私がいなくても社長の手腕ならあっという間に成長してましたって」
知らなかったが、どうやら私は有名だったようだ。若いから体力もあり、丁寧かつ完璧に近い仕事ぶり。そんな姿が「伝説の明美さん」として広まっていたという。
「嘘。母さんってそんなすごい人だったの?」
ユアが驚愕の表情を浮かべる。妊娠を機にやめられてしまった際は、あちこちから残念がる声が上がったそうですよ。リカも私の評判については先代社長に聞かされていた。さらに当時を知る先輩たちも絶賛していたものだから、彼女は顔も知らない私のファンだったらしい。だからあの日、私の名前を聞いて驚いていたのだ。
「実際、伝説の彼女が復活したと聞いて、うちと契約したいと言うところもあるんですから」
リカの話を聞いて、開いた口が塞がらない状態のユアを見ていると、なんだか笑えてしまう。
「そんなうちの大事な戦力を貶めた人なんて、書類の時点で落とすべきだったかもしれませんね」
「違います!」
突然立ち上がり、ユアが喚き始める。
「伝説とか知りませんが、その人は卑怯な手を使って私を落とし入れたんです」
そう言って彼女は泣き真似を始めた。明らかに涙は出ていないし、三十代の彼女がやっても正直痛いと感じる。リカの方に視線を向けると、彼女も呆れ果てたという雰囲気を出している。
「ああ、悪いけど私と明美さんはプライベートでも仲良しなの」
「あ、」
「実はリカとはあの日以降、親交を深める仲になったのよ。明美さんとは五年の付き合いです。今更あなたの下手な芝居には騙されないわ」
彼女が冷たく言い放つと、ユアは泣き真似をやめて、がっくりと肩を落とした。
「面接は以上です。お帰りください」
きっぱりと告げられ、ユアはそのまま退出していった。
「はあ。全く変わってないわね、あの子」
「みたいですね。それにしても、なんでわざわざ家事代行の会社に応募したんだか」
リカの疑問も当然だ。ユアは私にそういった類いの家事を押し付け、琢磨と結婚する前も実母にやらせていたはずである。ほぼ経験のない彼女ができる仕事だとは思えなかった。
「念のため調べておこうかしら。もしかしたら義母のように、子供たちの周辺に現れる可能性がある」
帰ったら早速かずとや琢磨に報告しようと予定を組んだ。
「リカさん、よければ夕飯食べない?疲れも吹っ飛ぶような美味しいご飯作るから」
「是非ご相伴にあずかりたいです」
先ほどの仕事モードではなく、リカは純粋な笑顔で応じる。彼女の笑顔に癒されながら、私は何を作ろうか考えた。
私の予想は、残念ながら的中することになる。ユアとの遭遇から二週間後、私たちは家族揃って買い物に出かけていた。ショッピングモールでそれぞれ好きな売り場に行きたいという子供たちに、私たちは顔を見合わせる。
「誠には琢磨がついてやってくれ」
「俺はおい、一緒に行くか?」
「うん。おじいちゃんのおすすめ知りたい」
「俺はおばあちゃんに服を選んで欲しいからちょうどいいや」
「まあ、嬉しいわ」
というわけで、私たちはそれぞれ子供たちに付き添うことになった。いおりはおしゃれね。琢磨なんて私が買ってきた服を適当に着てたのに。
「おばあちゃんは基本的にセンスがいいんだよ。だからお父さんも安心してたんじゃない」
孫と一緒に買い物をするのはとても楽しい。成長ぶりを実感しつつ、最近の子供向けの服を物色していく。
「あ、あんた、なんでここにいるの?」
一瞬を堪能していると、嫌な声が聞こえてきた。振り返ると、中年男性と一緒に歩くユアの姿が。
「こんなところで会うなんて偶然ね」
「ふざけんな。あんたのせいで採用にならなかったのよ。このままじゃ結婚できないじゃない」
私の元に歩み寄ると、男性に聞かれないようにするためか声を抑えて攻めてくる。
「ちょっとおばさん、おばあちゃんに絡まないでよ」
その時、私の異変に気づいたのか、いおりが間に割り込んできた。いおりが冷たくユアを睨むと、彼女が鬱陶しそうな顔をする。
「何よ?ガキが邪魔しないでくれる?」
「あなた。この子が誰か分からないの?」
ユアの態度に思わず問いかけた。それでいおりのことに気づいたのか、彼女は目を丸くする。
「まさか…あいつらのうちのどっちか?えっと、蒼井の方?」
「…誰だよ。俺はいおり。なんとなくそんな気はしてたけど、やっぱり遺伝子だけの母親だな」
まさか自分の子供の名前も覚えていないなんて。内心呆れてしまう。いおりも同じく、ため息混じりに問いかける。
「ああ、いおり。久しぶり。随分と大きくなったじゃない」
「どうも。俺は嬉しくないけど」
彼の態度が気に入らなかったのか、ユアは不快そうな顔をした。
「生意気ね。一応これでも私はあんたの母親よ」
「生物学的にってだけでいい。俺たちの母親はあんたじゃない。もしかしてこのババアをママだっていうの?うわ、かわいそう。こんなのが母親なんて不幸でしかないじゃん」
やはり彼女は何も変わっていない。ユアの言動を見て、私はそれをしみじみ実感する。
「本当に低いね。そんなことしか考えられないから捨てられるんだよ」
一方、いおりは十歳とは思えないほどの毒舌ぶりで彼女に反論した。彼の態度にユアが明らかにいら立っているのが伝わってくる。
「誰のおかげで生まれてこれたと思ってるの?」
「おばあちゃんやお父さんたちに出会わせてくれたのは感謝してる。でも俺も蒼井もあんたを恨んでるから」
「そうだよ。あんたにされたこと、今でも覚えてるし」
振り返ると、いつの間にか蒼井とかずとの姿があった。蒼井は私に微笑み、いおりの側に立つ。
「ママって呼ぶだけでうるさいって言われて。話しかけようとしたら『ガキが近づかないで』って。ご飯だって安くなったパンを一個だけ。洋服だって小さくなったのに買ってくれなかった」
双子が淡々と彼女の所業について話した。
「ちょっと、変なこと言わないでよ」
すると先ほどまで余裕だったユアがそわそわし始める。何度も同行していた中年男性にチラチラと視線を送っているため、彼にも隠し事をしているのかもしれない。
「全部本当のことじゃん」
「そうそう。なんならあのおじさんに教えてあげようか」
双子も彼女の様子には気づいているらしく、にやりと微笑みながら言う。
「な、ふざけんな」
相変わらず我慢ということができないらしい。ユアが手を振り上げるのを見て、私が止めようと手を伸ばした。
「本当にお前は最低な人間だな」
ただ、そこでかずとが彼女の腕を掴んだ。
「やめなさい」
「ちょっと話しなさい」
「ユアさん、君の本性はそんな最低な人だったんだね」
その時、今まで黙って様子を見ていた中年男性が冷たい声でユアに話しかけた。途端に彼女の表情が強張っていく。
「これは…君には幻滅したよ。終わりにしよう」
「あ、ちょっと!」
男性はユアを一瞥すると、彼女を置いて歩き出す。ユアは慌てて追いかけようとしたが、高いハイヒールを履いていたせいで足がもつれて転んだ。そんな彼女を無視し、男性はそのまま立ち去る。
「あんたたちのせいよ。あとちょっとで金持ちと結婚できそうだったのに」
ユアが立ち上がった時には、男性は完全に姿を消していた。すると彼女は怒りの表情で私たちに向き直る。
「責任取りなさいよ」
「責任?私たちが取る必要なんてないと思うけど」
「うるさい。何もかも全部あんたたちのせいだ」
勢いのままに頭をぐしゃぐしゃとかき乱すユアを見て、いおりがつぶやく。
「やっぱり…」
「こら、やめなさい」
その姿は双子の言う通り、山ん場の鬼の形相のように見えた。とはいえさすがに失礼なので軽く注意する。かずとはそんなやり取りが面白かったのか、肩を震わせて笑っていた。
「そうだ。あんたの息子と再婚させなさい」
「はあ?」
「どうせあんな鈍感でブサイクな男、誰とも付き合えないし。まだフリーでしょ?だから私が…」
「ごめん。誰が裏切り者の最低男とよりを戻すか」
ユアがバッと振り返ると、そこには誠を抱いている琢磨が立っていた。どこから見ていたのか分からないが、彼は軽蔑の目を向けている。
「あら、久しぶり。見るからにいい男になったじゃない。今のあなたなら私も…」
「パパ、この怖いおばあちゃん誰?」
ユアの猫撫で声を遮って放たれた誠の言葉に、私たちはつい吹き出してしまった。
「私はあなたのママよ」
「違うもん。ママは怖いおばあちゃんじゃない。私はおばあちゃんじゃ…あ、ママ!」
再びユアを遮った誠は、琢磨の後ろにいた一人の女性にかけ寄った。
「トイレが混んでて遅くなっちゃった。待たせてごめんね」
「うん。平気。それよりも、怖いおばあちゃんが嘘言ってるの」
「そうね。きっとおかしくなっちゃったのよ」
「え、あんた社長?」
誠がかけ寄ったのは、先日ユアの面接を担当したリカだった。彼女は優しく誠を抱きしめ、ユアの方に目もくれない。
「今の子供たちの母親よ」
「そんなの嘘よ!私のお茶のみ友達である彼女は、実は二年ほど前から琢磨の大事なお嫁さんになっていたのだ。子供たちの相手は苦じゃないけど、体力は減っていく一方だから。ある日、自分では双子の相手に慣れていないのではという不安をリカに打ち明けたところ、「私に相手をさせてください。子供の相手をするのが大好きなんです」と笑顔で申し出てくれた。そこで試しに双子とリカを引き合わせてみると、驚くほど相性が良かった。そして琢磨とも合わせてみたところ、お互いに一目惚れ。子供たちを第一優先にしながら交際を開始し、無事に結婚したという流れだ。
「嘘?そんなのって…」
「俺たちにお前が入る隙間なんてない。とっとと消えてくれ」
琢磨がきっぱり言うと、ユアは絶望した表情に変わる。
「残念だけど、あなたは完全に捨てられたの」
そんな彼女に、私は笑顔で告げた。
その後、ユアは現実を受け入れられず大暴れして、近くの売店の売り物を破壊し、警備員に取り押さえられる事態になった。彼女は大勢の人に見られながら警察に引き渡され、厳重注意を受けたそうだ。
一緒にいた男性はどうやら恋人だったらしい。かずとが以前お世話になった興信所に再び彼女の調査を依頼し、ユアの現在を知った。一旦実家に帰った彼女だが、子供たちを手放した経緯を知られ、再び放り出された。で、今度はマッチングアプリを始めたらしい。そこで出会ったのが先ほどの男性である。ユアは専業主婦になりたいがために「自分の家事スキルはプロ級。なんなら家事を仕事にしてる」と見栄を張った。当然男性は「どこで働いてるんだ?」と質問したが、ユアはその場では曖昧に返事をしたらしい。うちに応募したのは、嘘を真実にするためだったのね。しかし面接は失敗し、その計画は失敗に終わる。その後も男性には適当に誤魔化したものの不審感を持たれ、先日のデートでなんとか挽回を図ろうとした。だがむしろ幻滅させる事態に発展し、警察沙汰になったのもあり、結局破局したそうだ。
「とりあえず相手の男性が無事に逃げられてよかった」
「ああ。被害者が増えなくて安心したよ」
出頭したユアを待っているのは、彼女が壊した売り物の賠償のみ。運の悪いことに、売店は高級品を扱うところだったようで、三桁万円の請求をされている。おそらく彼女の人生は地獄そのものだろう。まあ、自分で選んだ結果だもの。仕方ないわね。
その後、風の噂で聞いた話だが、借金を抱えた彼女は出所後、風俗店に転職したものの、相変わらずの虚言癖のせいでトラブルを起こし、店からも追い出されたらしい。危ない人たちに囲まれていたという目撃情報を最後に、完全に消息を絶った。
さて、今日は少し凝ったメニューにしましょうか。あれから私たちは大きなトラブルもなく、平穏な日々を送っている。
「俺も手伝っていいか?」
「ええ、もちろん」
最近は早期退職したかずとと一緒に家事をするのが楽しみとなっていた。
「それにしても、まさか琢磨が大家族を築くとはな。本当、人生って分からないものね」
先日、リカの妊娠が発覚し、琢磨たち一家は六人家族になるとのことだ。今日も妊娠のお祝いをするため、私たちの方に招待してお祝いをする予定である。
「はーい、いらっしゃい」
インターホンを開けると、玄関にいたのは予想通りの笑顔の琢磨たちだ。
「いい匂い」
「お腹空いた」
早速ご馳走の匂いに笑顔を浮かべる子供たちに釣られて、私も微笑む。こんな幸せな時間がずっと続いたらいいな。心の底からそう思うのだった。



