「ハワイ、最高だったね。もう一度行きたいね」
羽田空港のロビーに、息子夫婦の浮かれた声が響き渡る。大きなスーツケースを引きながら、嫁の里穂は満面の笑みを浮かべていた。その横で息子の達也も、日焼けした健康的な顔で楽しそうに話している。
私と夫の修二は、二人を出迎えるために空港へ来ていた。しかし私たちの胸のうちは、複雑な思いで満たされていた。
「あら、お母さん、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
里穂の言葉には、感謝というよりも意外そうな響きがあった。まるで私たちが来ることを予想していなかったかのように。
「ハワイの海、本当に綺麗だったわ。達さんも喜んでたでしょう」
里穂は私に目も合わせず、夫に話しかける。
「ああ、最高だったよ。また絶対行こうね」
達也も嬉しそうに答えた。
その会話を聞きながら、私の心には静かな苛立ちが広がっていく。私たち夫婦はこの旅行に一切誘われることはなかった。それどころか、留守番と掃除を言いつけられていたのだ。
空港からの帰り道。車の中で里穂の声が響く。
「お母さん、留守の間ちゃんとお掃除してくれましたよね」
その言葉に、私は小さく頷く。
「はい。毎日きちんと」
「そうよね。遺相老なんだから、それくらいしないとね」
里穂は当然のように言い放つ。その瞬間、私の胸が締めつけられるように感じた。遺相老。この家は、私と修二が三十年前に購入した、私たち名義の家だ。それなのに、なぜ私が「遺相老」と呼ばれなければならないのだろうか。
隣で修二が口を開きかけたが、里穂の視線に気づいて黙り込んでしまう。
「それにしても、お母さんみたいな底辺のお仕事してる人には、お掃除くらいしかできないわよね」
里穂の言葉が容赦なく続いていく。
私は三十三年間、事務職として働いてきた。一度も休むことなく、毎日会社に通い続けてきたのだ。その給料でこの家のローンを払い、息子の教育費も全て負担してきた。大学卒業までの総額は、およそ九百万円にもなる。それなのに「底辺」という言葉で片付けられてしまう。私の人生の全てが否定されているように感じられた。
修二の握りしめた拳が目に入る。夫もまた、同じ思いを抱えているのだろう。
家に帰りつくと、里穂はすぐにソファーに身を投げ出した。
「あー、疲れた。お母さん、お茶を入れてくれる?」
私は黙って台所へ向かう。お茶を入れながら、この五年間のことを思い返していた。
息子の達也が里穂と結婚したのは五年前のことだ。あの頃の里穂は、とても優しい女性だった。「お母さんのこと、本当のお母さんみたいに思ってます」そう言って微笑んでいた彼女の顔を、今でも覚えている。けれど、その笑顔は次第に消えていった。
最初の変化は、ちょっとした文句から始まった。「お母さん、このお料理少し味が濃いかもしれませんね」「その服装、ちょっと時代遅れじゃないですか」。小さな違和感が、日々重なっていく。
決定的に変わったのは、里穂が妊娠してからだった。
「お母さん、この部屋を子供部屋にしたいんです」
里穂が指さしたのは、私たち夫婦の寝室だった。
「でも、あの部屋は私たちの……」
「え、まさか嫌だなんて言わないですよね。孫のためですよ」
達也も同じように言う。「母さん、頼むよ。俺の子供のためなんだ」
結局、私たちは小さな部屋に追いやられることになった。荷物を運びながら、修二が悔しそうに唇を噛んでいたのを覚えている。
孫が生まれてからは、さらに状況が悪化していった。ある日、里穂は友人たちを家に招いていた。
「お母さん、お茶のお代わりをお願いします」
私は給仕係のように、何度も台所を往復させられる。
「お母さんに休ませるんだ」
友人の一人が驚いたように言う。
「いいんですよ。うちのお母さん、事務職なんです。底辺のお仕事しかしてないから、こういうことしかできないんです」
里穂の言葉に、友人たちが困惑した表情を浮かべる。
「でも、ここってお母さんの家なんでしょう」
「ああ、そうなんですけど、まあ遺相老みたいなものですから」
その会話を聞いて、私の手は震えていた。お盆の上のカップが、カタカタと音を立てる。別室で聞いていた修二も、拳を握りしめていた。
それからというもの、毎日が家事労働の連続だった。「遺相老なんだから、家のことくらいちゃんとしてくださいね」。里穂は専業主婦なのに、家事を全て私に押し付ける。朝五時に起きて、夜十時まで休む暇もない。掃除、洗濯、料理、孫の世話。全てが私の方にのしかかってくる。仕事との両立で、体が悲鳴を上げていた。
「お母さんにも仕事があるので」
私が抗議すると、里穂は鼻で笑う。
「え、底辺の事務職でしょ。そんなの適当でいいじゃないですか。家のことの方が大事です」
修二が口を挟もうとした。
「里穂さん、それは言いすぎじゃ……」
「お父さんは黙っててください。これは女同士の問題ですから」
修二は言葉を失い、黙り込んでしまう。
経済的な搾取も始まった。
「お母さん、遺相老をさせてあげてるんだから、月十万円は払ってくださいね」
里穂の要求に、私は耳を疑う。
「でも、この家は私たちの……」
「え、何か言いました?まさか払わないとかなしですよね」
達也も便乗してくる。「母さん、俺たち夫婦が住んでやってるんだから、感謝しなよ」
修二が怒りをあらわにする。
「達也、お前というやつは……」
「父さんも黙ってて。これは俺たち若い世代の問題だから」
息子の冷たい言葉が、胸に突き刺さる。
そして、極めつけは孫の前での侮辱だった。
「ねえ、おばあちゃんは何のお仕事してるの?」
三歳の孫が無邪気に訪ねてくる。里穂が孫に優しく答えた。
「おばあちゃんは、底辺のお仕事しかできない人なの。でもお掃除だけは上手だから、使ってあげてるのよ」
「おばあちゃん、お掃除する人なの?」
孫の純粋な質問が、私の心を深く傷つけていく。涙をこらえながら、私は黙って頷くしかなかった。
「お父さんもうるさいですね。認知症ですか?」
修二が抗議しようとすると、里穂はそう言い放つ。私たちの尊厳は、完全に踏みにじられていた。
ある日の夕方、私は台所で夕食の準備をしていた。リビングから達也と里穂の楽しそうな声が聞こえてくる。
「来月のハワイ旅行、本当に楽しみだな」
達也の声に、私の手が止まった。ハワイ旅行。そんな話は一度も聞いていない。私は思わずリビングの戸口に立っていた。
「ハワイ旅行ですか?」
私の声に、二人が振り返る。
「ああ、お母さん。そうですよ。私たち夫婦でハワイに行くんです」
里穂は何でもないことのように答えた。私は言葉が途中で止まってしまう。家族旅行ではないのかと尋ねたかったのだ。
「え、まさか一緒に行きたいとか言わないですよね」
里穂が信じられないという顔で私を見つめてきた。修二も仕事から帰ってきたばかりで、同じように驚いた表情をしている。
「達也、私たちも家族でしょう」
私は息子に向かって必死に問いかけた。
「母さん、今回は俺たち夫婦だけで行きたいんだ」
達也の声は、どこか冷たく感じられる。
「でも、家族旅行なら……」
私の言葉を遮るように、里穂が口を開いた。
「家族?お母さんたちは遺相老でしょ?家族とは違いますよ」
その言葉が、私の心に深く突き刺さる。修二が怒りをあらわにした。
「達也、お前何を言ってるんだ?」
父の怒りの声にも、達也は動じる様子がない。
「父さんも母さんも、少しは空気読んでよ。俺たちの邪魔しないで」
息子の冷たい視線が私たちに向けられる。その目には、かつての優しさは微塵も残っていなかった。
翌日、さらに衝撃的な要求が待っていた。
「そうそう、お母さん」
里穂が明るい声で話しかけてくる。
「留守の間、ちゃんとお掃除しておいてくださいね」
私は黙って頷くしかない。
「遺相老は掃除してろですよ。覚えてますよね」
里穂の言葉が容赦なく続いていく。その時、達也が口を開いた。
「あと母さん、旅行資金を少し援助してくれない?三十万円くらい」
私は耳を疑った。旅行に行けない私たちが、なぜ旅行資金を出さなければならないのだろうか。
「でも、私たちは旅行に行けないのに……」
私の声は震えていた。
「え、まさか渋るんですか?ケチですね。底辺の人ってお金に汚いんですね」
その言葉に、私の中で何かが切れそうになる。けれど、私は深呼吸をして静かに答えた。
「わかりました」
「稽古、断れ!」
修二が叫んだが、私は首を振る。
「いいえ、いいんです」
翌日、私は銀行で三十万円を下ろした。これは私の半年分の貯金に相当する金額だ。通帳の残高が減っていくのを見ながら、涙がこぼれそうになる。でも、私はここで泣いてはいけないと思った。
夜、寝室で修二と二人きりになった。
「稽古、もう限界だ。俺たち、家を出よう」
修二の声には、怒りと悲しみが混ざっている。私は静かに首を横に振った。
「いいえ、修二さん。もっといい方法があるわ」
「いい方法?」
修二が不思議そうに私を見つめる。
「この家、誰の名義か覚えてる?」
私の問いかけに、修二の目が大きく見開かれた。
「俺たちの共有名義だけど……まさか」
「そう、私たちの家よ。私たちが三十年前に買った家」
私の声には、静かな決意が込められていた。修二が私の真意を理解したようだ。
「稽古、本気なのか?」
「ええ、私には完璧な仕返し方法があるの」
その夜、私たちは遅くまで話し合った。この家は私たち夫婦の共有名義。三十年前、若い頃の私たちが必死に働いて購入した大切な家。その家で「遺相老」と呼ばれる理不尽さ。「底辺」と侮辱される屈辱。そして「家族ではない」と言われる悲しみ。全てが、私の中で一つの決意に変わっていく。
翌朝、私は会社に有給休暇の申請を出した。三十三年間、ほとんど休みを取らなかった私に、上司は驚いた様子だ。
「森田さん、どうかしたんですか?」
「少し、大切な用事がありまして」
私は穏やかに微笑みながら答えた。
その日の午後、私は不動産会社を訪れていた。
「この物件を売却したいのですが」
私が差し出した書類を見て、担当者が目を輝かせる。
「この立地でしたら、すぐに買い手がつくと思いますよ」
「どのくらいで売却できますか?」
「早ければ一週間、遅くとも二週間です」
「わかりました。息子夫婦が来月ハワイ旅行に行く間に、全て済ませたいのです」
私の言葉に、担当者が少し驚いた表情を見せる。
「秘密裏に進めるということですね」
「はい。絶対に息子夫婦には知られないようにお願いします」
担当者は、理解したように頷いた。契約書にサインをする私の手は、不思議と震えていなかった。むしろ、心の中に静かな確信が広がっていくのを感じていた。これが私の選んだ道なのだと。
不動産会社から帰る道すがら、私の心は不思議なほど穏やかだった。三十三年間、真面目に働き続けてきた私。一度も人を裏切ったことはない。けれど、今回は違う。裏切られたのは、私の方なのだから。
翌日、私は弁護士事務所の扉を叩いていた。
「ご自身の名義の家を売却することは、完全に合法です」
弁護士の言葉に、私は安堵の息を漏らす。
「息子夫婦が住んでいてもですか?」
「はい。彼らとの間に賃貸契約がない限り、法的には何の問題もありません」
その言葉を聞いて、私の決意はさらに固まっていく。
「わかりました。では、進めます」
弁護士が少し心配そうな顔をした。
「ただし、売却後の彼らの退去については、相応の猶予期間を設けた方が……」
私は静かに首を横に振った。
「いいえ。即座に出て行ってもらいます」
弁護士は私の目を見て、何かを理解したようだった。それ以上何も言わずに、頷いてくれる。
帰宅すると、里穂の声が聞こえてきた。
「お母さん、遺相老は掃除して乗り切ったんでしょ?」
私はスマートフォンの録音ボタンを、そっと押す。
「底辺のお仕事しかしてない人には、お掃除くらいしかできないわよね」
里穂の言葉が、確実に記録されていく。「お父さんもうるさいですね。認知症じゃないですか?」修二への侮辱も、全て証拠として残していく。
数日後、私と修二は新しいマンションを内見していた。
「こちらの物件、いかがでしょうか?」
不動産担当者が案内してくれた部屋は、駅近の便利な二LDK。窓からは、穏やかな住宅街の景色が広がっている。
「素敵ね。修二さん、どう思う?」
私の問いかけに、修二が柔らかく微笑んだ。
「いいじゃないか。二人で静かに暮らすには十分だ」
「ええ、もう誰にも邪魔されない。私たちだけの空間」
修二の表情が、少し曇る。
「稽古、本当にいいのか?達也は……」
私は夫の手をそっと握った。
「達也は、私たちを遺相老と読んだわ。もう親子ではないの」
修二は深く頷いて、私の手を握り返してくれる。
「わかった。お前の決めたことを、俺は支える」
その言葉が、何よりも心強く感じられた。私たちはその場で契約書にサインをする。
「来月から入居可能です」
担当者の言葉に、私は静かに微笑んだ。それはちょうど、息子夫婦がハワイから帰ってくる時期だ。
家に帰ると、里穂が友人と電話をしていた。
「そうなのよ、来月ハワイに行くの。贅沢しまくりよ」「え、義理の両親連れていくわけないじゃない。遺相老なんだから」
私は台所で黙って、その会話を聞いていた。もう怒りすら感じない。ただ、静かな決意だけが心を満たしていく。
週末、私は銀行を訪れた。
「こちらが売却代金の三千五百万円になります」
窓口の言葉に、私は通帳の数字を確認する。三十年前に購入した時は二千万円だった。それが今、三千五百万円で売れたのだ。この中には、私たちの人生が詰まっている。必死に働いてローンを返済した日々、息子を育て、家族の幸せを願った時間。全てがこの数字に込められていた。
「新しいマンションの購入資金として千五百万円を」
私の指示に、行員が丁寧に手続きを進めてくれる。残りの二千万円は、私たちの老後のために大切に使いましょう。修二と二人、穏やかに暮らすための資金だ。もう誰にも「底辺」と言わせない。誰にも「遺相老」と呼ばせない。自分の人生は自分で守るのだと、心に誓う。
ある日、達也が旅行の準備をしていた。
「母さん、留守の間ちゃんと掃除しておいてくれよ」
息子の言葉に、私は穏やかに答える。
「ええ、とても綺麗にしておくわ」
達也は、私の言葉の意味に全く気づいていない。里穂も嬉しそうにスーツケースを準備している。
「お母さん、私の部屋のカーテンも洗濯しておいてくださいね」
「わかりました」
私の静かな返事に、里穂は満足に頷いた。
その夜、修二と二人で最後の確認をする。
「引っ越し業者は、彼らが出発した翌日に来る」
私の言葉に、修二が頷く。
「荷物は全て新しいマンションに運ぶ」
「家具も新調するわ。新しい人生の始まりだもの」
修二が少し寂しそうな顔をする。
「達也との思い出の品、写真だけは持っていきましょう。でも、それ以外は……」
私は静かに首を横に振った。
「過去の思い出として、心の中に閉まっておくわ」
修二は深く息を吐いて、私を抱きしめてくれる。
「お前は強いな、稽古」
「三十三年間働き続けたのよ。これくらいの強さは身につくわ」
私たちは、お互いのぬくもりを感じながら静かな夜を過ごした。
そして、ついにその日がやってくる。息子夫婦がハワイに旅立つ日。私たちの新しい人生が始まる日。全ての決着がつく日が、すぐそこまで来ていた。
出発の朝、玄関には大きなスーツケースが二つ並んでいた。達也はまるで遠足に行く子供のように浮かれている。
「お母さん、掃除ちゃんとしてくださいね」
里穂が最後の念押しをしてくる。
「遺相老は掃除してろですよ。忘れてませんよね」
その言葉を聞きながら、私は静かに微笑む。
「はい、分かっています」
「あと、私の部屋のカーテンも洗濯しておいてください。それから、リビングの窓も全部拭いておいてくださいね」
里穂の要求は、最後まで続いていく。
「承知しました」
私の穏やかな返事に、里穂は満足に頷いた。達也がタクシーに荷物を積み込みながら、私たちに声をかける。
「じゃあ行ってくるよ。もう思いっきり楽しんでくるから」
私は息子の顔をじっと見つめた。かつては可愛かった息子の顔が、今は全く別人のように見える。
「楽しんでいらっしゃい。あなたたちにとって、忘れられない旅行になるわよ」
私の言葉には深い意味が込められていたが、達也はその真意に全く気づいていない。
「そうだね。母さん、留守番よろしく頼むよ」
里穂もはしゃいだ声で言う。
「そうね。最高の旅行にするわ。お母さん、お留守番頑張ってくださいね」
「ええ、精いっぱい頑張りますよ」
私の静かな返事を聞いて、里穂は嬉しそうに笑う。タクシーが走り去って行くのを見送りながら、修二が小さくつぶやいた。
「本当にこれでいいんだな」
私は夫の手を握る。
「ええ、これが私たちの選んだ道よ」
タクシーが見えなくなると、私たちはすぐに行動を開始した。翌日の朝早く、引っ越し業者のトラックが到着する。
「森田様のお荷物ですね」
業者の方が手際よく作業を始めてくれた。私たちの大切な思い出の品、大切にしていた食器、これまでの人生が詰まった品々が、次々とダンボールに詰められていく。リビングの棚から、息子の成長記録が入ったアルバムを取り出した。ページをめくると、達也の笑顔が目に飛び込んでくる。一歳の誕生日、初めての運動会、小学校の入学式。全ての写真に、私たち家族の幸せが映っていた。
「お客様、このアルバムは……」
業者の方が訪ねてくる。
「それは、持っていきます」
私はアルバムを胸に抱いた。どんなに裏切られても、息子との思い出まで捨てることはできない。
「修二さん、この写真を見て」
私は夫に、達也が三歳の時の写真を見せる。「母さん、大好き」そう言って私に抱きついてきた、あの日の達也。修二の目が潤んでいた。
「あの頃は、本当に可愛かったな」
「ええ、でももう昔のことよ」
私は涙を拭って、作業を続ける。リビングの家具、ダイニングテーブル、私たちの寝室にあったベッド。全てが丁寧に梱包され、トラックに積み込まれていった。
午後になると、家の中はすっかり空っぽになる。三十年間、家族の笑い声で満たされていた空間。それが今、何もない静寂が残る場所になっていた。壁には、家族写真を飾っていた跡が残っている。私はその跡を指でなぞりながら、深く息を吐いた。
「お別れね」
小さく呟いた私の声を、修二が優しく受け止めてくれる。
「新しい人生が待ってるよ」
「ええ、そうね」
最後に、不動産業者の方が鍵を受け取りに来た。
「では、こちらで引き渡しは完了となります」
私は三十年間使い続けた鍵を、担当者の方に手渡す。金属の冷たい感触が、手のひらから離れていった。
「ありがとうございました」
私は深く頭を下げる。この家との、本当に最後の別れだ。
新しいマンションに到着すると、全く違う世界が広がっていた。明るい日差しが差し込む、清潔感溢れるリビング。誰にも邪魔されない、私たちだけの空間だ。
「修二さん、見て。この部屋、すごく日当たりがいいわ」
窓から見える景色は、穏やかな住宅街の風景。静かで平和な空気が流れている。
「そうだな。ここなら、二人でゆっくり過ごせる」
修二もようやく安堵の表情を浮かべた。
「ええ、もう誰にも遺相老なんて言わせない」
私たちはお互いを抱きしめ合う。長年耐え続けた日々が、ついに終わりを迎えたのだ。
新しい家具が次々と運び込まれていく。ダイニングテーブル、ソファー、ベッド、本棚。全てが新品で、新しい人生の始まりを象徴しているようだ。
「これから、私たちだけの時間ね」
私の言葉に、修二が深く頷いた。
「ああ、お前と二人、穏やかに暮らそう」
ハワイの夜、私の携帯電話が鳴る。画面には、里穂の名前が表示されていた。
「はい、もしもし」
私は穏やかな声で応答する。
「お母さん、ちゃんと掃除してますか?」
里穂の声は、南国のリゾート気分に満ちていた。
「ええ、とても綺麗にしましたよ」
私の返事に、里穂は満足そうな声を出す。
「そうですか。ところでね、ハワイ最高なんです。海も綺麗だし、ホテルも豪華で」
「それは、良かったですね」
私の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「でしょ?ビーチも最高だったし、ディナーも美味しかったわ。また絶対行きたいな。次は十日間くらい滞在したい」
里穂のはしゃいだ声が、電話越しに伝わってくる。
「そうですか。楽しんでくださいね」
「当然よ。お母さん、掃除頑張ってくださいね。遺相老の仕事ですから」
私は静かに微笑んだ。
「ええ、分かっています」
電話を切ると、修二が心配そうに私を見つめている。
「平気か、稽古?」
「ええ、大丈夫よ。もうすぐ、全てが明らかになるわ」
そして、ついにその日が来た。ハワイから帰国する息子夫婦を、私たちは羽田空港で出迎える。これが、最後のお見送りになることだろう。
到着ロビーに、達也と里穂の姿が見えた。二人ともすっかり日焼けして、幸せそうな表情をしている。大きなスーツケースを引きながら、こちらに歩いてきた。
「あ、お母さん、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
里穂が少し意外そうな声を出す。
「ええ、最後くらいはお迎えに」
私の言葉に、里穂が不思議そうな顔をする。
「最後?何言ってるんですか?これから何度もハワイ行くんですから、その度に迎えに来てくださいね」
達也も軽い様子で声をかけてくる。
「母さん、家の掃除ちゃんとしてくれた?」
「ええ、完璧にしましたよ」
「さすが母さん。じゃあ早く帰ろうか。疲れたよ」
車に乗り込んだ二人は、ハワイの話で盛り上がっている。
「あのビーチ、本当に最高だったよね」「ホテルのプールも素敵だったわ」
二人の楽しそうな会話を聞きながら、私は静かに微笑んでいた。修二も、複雑な表情で前を見つめている。
車が家に近づくにつれ、私の心臓は高鳴り始めた。もうすぐです。もうすぐ、全てが明らかになる。
車が元の家の前に止まった。達也が車から降りて、玄関に向かう。
「ただいま」
達也がドアの鍵に手をかけた瞬間、その手が止まった。
「あれ、鍵が合わない」
達也の戸惑った声が聞こえる。里穂も車から降りてきた。
「何やってるの?早く開けてよ。疲れてるんだから」
達也は何度も鍵を差し込もうとするが、開く気配がない。
「おかしいな。鍵が入らないんだ」
その時、玄関のドアが内側から開いた。見知らぬ男性が、不思議そうな顔で立っている。
「どちら様ですか?」
新しいオーナーの登場に、達也と里穂の顔が凍りついた。そして、私たちの完全勝利の瞬間が、今まさに始まろうとしていた。
「どちら様ですか?新しいオーナーですか?」
達也の言葉に、里穂の顔が真っ青になっていく。
「何を言ってるんですか?ここは俺たちの家です」
達也の声が、怒りと困惑で震えていた。里穂も慌てて前に出てくる。
「そうよ。私たちがここに住んでるの。お母さん、何とか言ってください」
私は静かに、そして冷静に答えた。
「本当ですよ。この家、私たちが売却しましたから」
その瞬間、達也と里穂の動きが止まる。
「売却?何を言って……何の権利があってそんなこと?」
里穂の声が、信じられないという響きを帯びていた。
「権利はありますよ。この家、私たちの名義ですから」
達也の顔から、見る見る血の気が引いていく。
「母さん、何してるんだ?俺たちが住んでるのに」
私は息子の目をまっすぐに見つめる。
「あら、達也。あなた、私たちを遺相老と読んだでしょう」
その言葉に、達也の言葉が詰まった。
「それは、その……」
「遺相老は掃除してろ、とも言いましたね。里穂さん」
私の視線が、里穂に向けられる。里穂の顔が、みるみる青ざめていく。
「家族じゃない。外部の人とも言いましたよね」
私の言葉が、一つ一つ突き刺さっていく。
「だから、遺相老の私たちが出ていくことにしたんです。当然でしょう」
里穂が震える声で訴えかけてきた。
「そんな……あんまりだわ」
その瞬間、里穂の目が白目を向き、泡を吹いて地面に倒れ込む。達也が、膝から崩れ落ちた。
新しいオーナーの方が、困惑した表情で私たちを見ている。
「あの、お取り込み中すみませんが……」
私はオーナーの方に、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございません。もうすぐ片付きますので」
達也が這うようにして私に近づいてくる。
「母さん、これ本気なのか?」
「本気ですよ、達也」
私の声には、もう迷いはない。
「俺たち、これからどうすれば……」
達也の声が、情けなく震えている。
「さあ。でも、あなたたちは若い世代でしょう。自分たちでなんとかするんじゃないですか」
私の言葉に、達也の顔が絶望に染まっていく。里穂も意識を取り戻したようで、泣きながら私にすがりついてくる。
「お母さん、お願いです。許してください」
けれど、私の心はもう揺らがない。
「許す?私、何か悪いことしましたか?自分の家を売っただけですよ」
里穂の鳴き声が、さらに大きくなっていく。修二が、私の肩に手を置いた。
「稽古、もういいだろう」
「ええ」
私は達也と里穂に、最後の言葉を告げる。
「さようなら、達也。さようなら、里穂さん」
「母さん、待ってくれ!」
達也の声が背中に響いたが、私たちは振り返らなかった。
それから数週間が経ち、私たちは新しいマンションでの生活に慣れていった。朝、ゆっくりとコーヒーを入れる時間。誰にも急かされることなく新聞を読む、穏やかな一時。
「修二さん、今日のお昼は何がいい?」
「何でもいいよ。お前の作るものなら、何でも」
こんな何気ない会話が、どれほど幸せなことか。友人たちとのお茶会も、心から楽しめるようになった。
「恵子さん、新しいマンション素敵ね」
「ありがとう。やっと自分たちだけの時間を持てるようになったの」
友人たちは、私の決断を支持してくれている。仕事も、以前よりずっと楽しく感じられるようになった。三十三年間、真面目に働き続けてきた日々。それが誰かに「底辺」と呼ばれる筋合いはない。
夕暮れ時、修二と二人でベランダに立つ。
「稽古、後悔はないか?」
修二の問いかけに、私は首を横に振った。
「ないわ。これで良かったのよ」
「そうか」
修二が、私の手を優しく握ってくれる。
「これからは、二人で穏やかに暮らそう」
「ええ」
私たちは、夕日を見つめながら静かな時間を過ごした。理不尽に屈してはいけない。我慢にも限界がある。自分の尊厳は、自分で守らなければならない。私が学んだことは、とてもシンプルだった。
もしあなたも理不尽な扱いを受けているなら、一人で我慢し続ける必要はありません。正当な権利を主張し、自分を守る勇気を持ってください。
私は今、修二と二人、穏やかで幸せな日々を送っている。誰にも「遺相老」と呼ばれず、誰にも「底辺」と侮辱されない、自由な生活を。これが、正義が勝利した姿なのだ。


