「私の夫は大学病院の副院長よ」——そう言った瞬間、美由さんの顔が凍りつき、隣にいた旦那さんの哲也さんは幽霊でも見たかのように青ざめていた。美由さんは夫の異変に気づかず、勝ち誇った笑みを浮かべて私を見下ろした。「何その格好。あなたの隣にいるボロ作業着の男、夫の前でそんな格好させるなんて、品がないわね」私は一瞬息を呑み、ようやく口を開いた。「旦那さんは、私の部下ですが」その一言で、美由さんの笑み…

「私の夫は大学病院の副院長よ」——そう言った瞬間、美由さんの顔が凍りつき、隣にいた旦那さんの哲也さんは幽霊でも見たかのように青ざめていた。美由さんは夫の異変に気づかず、勝ち誇った笑みを浮かべて私を見下ろした。「何その格好。あなたの隣にいるボロ作業着の男、夫の前でそんな格好させるなんて、品がないわね」私は一瞬息を呑み、ようやく口を開いた。「旦那さんは、私の部下ですが」その一言で、美由さんの笑み...

私の夫は大学病院の副院長。そう言った瞬間、美由さんの顔がこわばった。いや、それどころか、哲也さんの顔は青ざめて、まるで幽霊でも見たかのような表情をしていた。美由さんはそんな夫の様子に気づかず、勝ち誇ったように私を見下して言った。「私の夫は大学病院のエリート医師なの。何その格好。あなたの隣にいるボロ作業着の男、夫の前でそんな格好させるなんて、品がないわね。」私は一瞬、言葉を失った。だが、ようやく口を開いた。「旦那さんは、私の部下ですが。」「え?」美由さんの顔から笑みが消えた。彼女は嫌そうな顔で夫の哲也さんを見た。哲也さんは鬼のような形相で美由さんを見返していた。この後、どのような立ち回りをすれば、美由さんと哲也さん夫婦を奈落の底へ突き落とさずに済んだのだろうか。いや、私だけでなく、娘まで傷つけて見下したのだから、その報いは受けてもらおう。

私の名前は伊藤ナツ子。三十五歳の専業主婦だ。地元でも名前が知れた大学病院の副院長の妻で、五歳になる娘のエリカと三人暮らし。私の父は大学病院の院長で、母は理事長を務めている。子供の頃から両親の働く姿を見ていた私は、自然と自分も医療の道に進むものだと思っていた。そして看護師を目指して看護学校に通い、卒業してすぐ両親の元で看護師として働き始めた。ただ、周りから色眼鏡で見られたくなかった私は、院長と理事長の娘であることを隠していた。

看護師の仕事は想像をはるかに超えてハードなものだった。同期や学生時代の友人の中には「思っていたのと違う」と言って辞めてしまった者もいた。けれど私は子供の頃から両親の姿を見てきたので、どんな仕事も患者さんのためになると思えばやりがいがあった。いつも文句ばかり言う患者さんが心の中に秘めた不安や苦しさに初めて触れた日、その思いに寄り添って助けてあげたいと思った。私にとって看護師の仕事は天職だった。

そして看護師になって一番嬉しかったことは、夫のタモスと出会えたことだ。タモスとの出会いは今から十年ほど前。私の務める大学病院に医師として転勤してきたのだ。患者さんに優しく寄り添う姿に、私は心を奪われた。でもなかなか勇気が出なかった私は、ただひっそりと思いを寄せているだけだった。そんなある日、私の大好きなお笑い芸人のキャラクターボールペンを母がプレゼントしてくれて、嬉しくて胸ポケットにつけていた。するとタモスから興奮気味に声をかけられた。なんとタモスも同じ芸人さんの大ファンだったのだ。お笑い好き同士で意気投合し、休憩時間によく話をするようになった。そして休日に一緒にお笑いライブを見に行ったり、家でDVDを楽しむ関係になっていった。

順調に交際を続けていたが、一つ大きな問題を抱えていた。私は大学病院の一人娘であるため、結婚相手はお見合いをして婿養子を取ると両親に言われていたのだ。タモスは両親に結婚を承諾してもらうために身を粉にして働き、医師としての腕前を磨いていった。そんなタモスを精一杯支えていきたいと思った私は、看護師をやめることにした。そんな真剣な私たちを間近で見ていた両親は次第に応援してくれるようになり、ついに私の二十七歳の誕生日に結婚することを承諾してくれた。これから幸せな毎日が待っていると思っていた。だけど、ある人物との再会によって私たちの幸せな毎日は奪われていくのだ。

これは半年前のこと。車で一時間ほどかかる大型スーパーに買い物に出かけた時のことだった。テレビで激安と紹介されていてずっと気になっていたお店だったので、ウキウキしながら買い物かごを手にした時、不意に背後から声をかけられた。「あれ、もしかしてエリカちゃんママじゃない?」その声に私は恐る恐る振り返った。そこには美人で高級品を身にまとった女性が立っていた。洋服やバッグはブランドものばかり。一見憧れのマダムといった風貌だが、ニヤニヤとした品のない笑顔が美人を台無しにしていた。エリカがまだ赤ちゃんの頃に住んでいたマンションの住人で、ママ友だった美由さんだ。「やっぱりエリカちゃんママじゃない。久しぶりだね。いつぶりだっけ?」美由さんのニヤニヤとした笑みと声に、昔の嫌な思い出が脳裏に蘇る。思い返せば彼女とのいい思い出は一つもない。美由さんは社交的でパッと目を引くような美人だったが、中身は自分が何においても一番じゃないと気が済まない意地の悪い人だった。プライドが高くて平気で嘘をつき、人を落とし入れるような冷酷さを持っていた。

それは夫と結婚して三年が経った頃だった。当時、私とタモスの間にはなかなか子供が授からなかった。どうしても子供が欲しかった私は不妊治療を受けていたのだが、毎月毎月期待と絶望の繰り返しで精神的に苦しんでいた。そんな時、病院の経営を学ぶために夫が系列病院へ研修に行くことになった。タモスは毎月苦しむ私にいつも寄り添ってくれて協力してくれていたが、私の体を心配して一度不妊治療をやめて新たな地で心機一転しようと言ってくれた。そして一切ストレスがなくなった私は、引っ越して三ヶ月経った頃妊娠した。タモスと一緒に喜びを分かち合って、朝まで未来を語り合った。

無事にエリカを出産し、お宮参りに行った帰り道だった。「あれ、三階に住んでる伊藤さんですか?」「はい。あ、五階の高木さんですよね。」「もしかして、お子さんのお宮参り?うちもなんですよ。」そう言って美由さんはベビードレスの上に祝い着を羽織って気持ちよく眠っている娘のトミちゃんを傾けて見せた。「じゃあ、同い年ですね。私たち、まだ引っ越してきて間もないので、これからよろしくお願いします。」それからママ友付き合いが始まった。

美由さんは協力的で社交的な女性だった。定期的に同じマンションのママたちを家に招待し、みんなで料理を一品ずつ持ち寄ってランチ会を楽しんでいた。人付き合いがあまり得意ではない私だが、初めてのママ友ということもあり、美由さんと仲良くしたい一心で頑張って料理を作った。そして初めて美由さんの家へ行った時に、事件は起こった。「いらっしゃい、ナツ子さん。よく来てくれたわね。みんな紹介するわ。三階の伊藤ナツ子さんと娘のエリカちゃんよ。」美由さんはみんなに私とエリカを紹介して案内してくれた。そしてみんなで持ち寄った料理を出し合っていると、突然歓声が上がった。「うわ、すごい。この煮物、ナツ子さんが作ってきてくれたの?」「はい。皆さんのお口に合うかどうか。」「え、そんな一品でいいのに、朝から大変だったでしょ。」隣の煮物を覗き込む美由さんの顔を見て、私は凍りついた。いつも通りの優しい声とは正反対に、美由さんの目は冷たく睨みつけているようだった。ママ友たちは「どれも美味しいから、プロになったらいいのに」と褒めてくれたが、美由さんは一言も美味しいとは言ってくれなかった。

その日を境に、美由さんは私に対して風当たりが強くなった。まずは私だけ家に招待してくれなくなった。そしてマンションの廊下ですれ違っても、挨拶はおろか目も合わせてくれなかった。タモスに相談したが、「そんなことで怒ったりする人はいないだろう」と笑い飛ばした。数日後、たまたま同じ階に住んでいるママ友にばったり会って、私は愕然とした。挨拶しようと声をかけようとしたら、こう言われたのだ。「ごめんなさい。話しかけてこないで。美由さんに、ナツ子さん一家には話しかけられても無視するように言われているの。美由さんの旦那さんって有名な大学病院のエリートみたいで、逆らうと色々と面倒くさいのよ。悪気はなかったと思うけど、美由さんは自分が一番注目されていないとダメな人だから、あの煮物はやりすぎだったわね。」そう言うと、そそくさとエレベーターに乗って行ってしまった。

次の日、勇気を出して美由さんの家を尋ねることにした。「はい。」だるそうな声でドアを開けて、こちらを見た。「先日はごめんなさい。一品でいいって言われていたのに、良かれと思ってやりすぎてしまって。美由さんの作ってくれたアップルパイがとても美味しかったから、是非作り方を教えてくれないかな。またエリカ連れて遊びに来てもいいかな。」私はどうにか関係を修復したかったので、思いを全力でぶつけた。「あの、誰も手をつけなかったアップルパイよ。あなた、おとなしい顔して、そんな嫌なことを言う人だったのね。あんたが豪華な煮物を作ってきたもんだから、誰もデザートなんて食べなかったじゃないの。みんなに美味しいってちやほやされて、いい気分だったでしょうね。そんなつもりはない?あんたみたいなおとなしい顔して人をバカにするような奴は、早くどっか行けばいいんだよ。二度と私の目の前に現れないで。」そう言うと美由さんはバタンと大きな音を立ててドアを閉めた。ママ友達と仲良くなりたくて頑張って作った煮物が、こんな悲しい結末を迎えるなんて。それから美由さんたちと公園で一緒になっても、誰も私に声をかけることはなく、遠くから私とエリカを見てニヤニヤとした品のない笑顔で見てくるだけだった。

そしてエリカが一歳になった頃、夫の研修が無事に終わり、私たちは大学病院へ戻ることになった。早く引っ越したかった私は、あの時心の底から喜んだものだ。「でも、ナツ子さん、こんなちょっと高級なスーパーに来ていいの?失礼かもしれないけど、あまり裕福なご家庭じゃないでしょ。お宮参りの帰り道に赤ちゃんだったエリカちゃんの晴れ着、すごく古臭くて貧乏人が丸出しだったもの。」確かに古臭かったかもしれないが、あの晴れ着は私の両親が大事に取っておいてくれた、私がお宮参りで着た誂え着なのだ。初対面の時にすでに私や家族のことをそんな風に見ていたのかと、愕然とした。美由さんはまだ話したそうだったが、私は話を早々に打ち切って、逃げるように家へ帰った。もう二度と彼女には会いたくないと思っていたが、その三ヶ月後、私たちは再開した。

大学病院の建て替えが必要になり、工事が終わるまでいくつかある系列病院へそれぞれ勤務することになった。エリカの幼稚園を何度も変えたくない私たちは、これから勤務する系列病院と建て替え後の病院どちらにも通いやすいように引っ越し先を考えた。引っ越し先から一番通いやすい幼稚園に願書手続きを済ませ、なんとか年中さんに進級する前に間に合うことができた。そして年中さんに進級したエリカの初登園の日、私は目を疑うことになる。なんと幼稚園の入り口に、美由さんがいたのだ。美由さんは相変わらずのニヤニヤ顔で私を見ている。その日から、私の平穏で幸せな日常は崩壊した。美由さんは幼稚園の会長を任されていて、しょっちゅう幼稚園に顔を出していた。「私の夫は超エリートなの。将来、大学病院の院長になるかもしれないのよ。私に逆らったら、可愛いお子さんが子供たちから仲間外れにされるかもしれないわよ。」こう言って幼稚園のママ友たちに幅を利かせていた。大学病院の院長候補だからって、子供たちには何の関係もないことだと頭では分かっていても、誰も美由さんに逆らうことはなかった。それよりも、初めて会った頃の美由さんよりだいぶ態度や言動が傲慢なものになっていて、私は驚いた。以前はもっと外面は良くて、気に食わない相手だけに攻撃していたように思う。きっとあの頃からずっと夫を盾に好き勝手やってきて、まかり通ってきたのだろう。

私は子供たちを一番に考えて、みんなで仲良くやっていけるようにクラス委員に立候補し活動していた。「エリカちゃんのお母さん、いつも忙しいのに子供たちのためにイベントを企画してくれてありがとうございます。エリカちゃん、いつもお友達にお母さんのこと自慢してるんですよ。お弁当もいつもキャラ弁だし、愛情の深さを感じます。」「そんなことないですよ。先生こそ、まだ新人の先生なのに子供たちに好かれてて、愛情の深さを感じます。エリカは男の人だとパパ以外は怖がってしまうけど、先生のことは大好きだって話してくれますよ。」その時、背後に気配を感じた。美由さんがニヤニヤしながら私と担任の先生を遠くから見ていた。

次の日、エリカを迎えに行くと、泣きながら出てきた。理由を聞くと、美由さんの娘のトミちゃんからこんなことを言われたらしい。「エリカのお弁当は冷凍食品だらけなんだよ。うちのママが言ってた。いつも持ってくるキャラ弁も、冷凍食品の寄せ集めたって。」エリカは冷凍食品がどんなものか知らなかったが、ママを馬鹿にしてくるトミちゃんと一緒に笑って指を刺してきたお友達の行動が嫌でたまらなかったようだ。その日を境に、エリカも私も美由さんに仲間外れにされた。クラス委員の活動で幼稚園にいても、何かクスクスと笑い声が聞こえ、「いつも冷凍食品って虐待じゃない」などとひそひそ話が聞こえてきた。私だけならまだしも、エリカが巻き込まれてしまったことが一番悔しかった。私はタモスに相談した。タモスは前のマンション時代の件も私の気にしすぎだと言っていたが、今回は真剣に話を聞いてくれた。そして担任の先生に相談して、少し様子を見ようということになった。

幼稚園に迎えに行くと、前はお友達と遊んでいたエリカが、ぽつんと一人で砂場で遊ぶ姿が多くなった。そんな姿を見ると、私のせいでと胸が締めつけられた。なぜ自分の娘がこんな目に会わなければいけないのか。私は悔しくて悲しくて、涙が溢れた。

そんなある日、ついに最悪な形で私とタモスは美由さんに遭遇してしまう。その日、私とタモスは近くのショッピングセンターに買い物に行く約束をしていたけれど、タモスは建設中の病院から急遽呼び出されてしまった。建物の中に入って確認しなければいけないことがあるというので、両親に渡されていたボロボロの作業着を着て出かけた。仕方なくエリカと二人で出かけることにしたが、思ったよりも早く用事が済んだとタモスから連絡があり、タモスも合流することにした。タモスは急いで来てくれたようで、ボロ作業着のままだった。「こんな格好でごめん。恥ずかしいから早く着替えたいな。」「なんで謝るのよ。急いで来てくれてありがとう。」「そうね。洋服もちょうど買わないといけなかったから、買って着替えちゃおうか。」エリカもパパが来てくれたことが嬉しくて、久しぶりにとびっきりの笑顔を見せていた。

そこで目の前に、一番会いたくない人物の姿が現れた。「あれ、ナツ子さん、こんな場所で何してるの?」私の顔はどんどん青ざめていく。そんな私の反応を見て、タモスは美由さんが何者かを悟ったようだ。「ナツ子さん、無能な貧乏人のくせに、買い物とはいい気なものね。あなたが担当してるトミのクラスだけ、まだイベントの用意ができてないのよ。」私を睨みながら、美由さんは私の隣に立つタモスを見た。その顔が怒りからニヤニヤした笑いに変わった。「あなたの旦那さんかしら?貧乏人にお似合いだわ。やっぱりあなた、本当に貧乏人だったのね。そんな格好でよく人前に出れるものだわ。信じられない。」私は凍りついた表情のままのタモスをかばうように前に出た。「そうね。本当ならあなたみたいな貧乏人に合わせたくないんだけど、お宮参り以来かしらね。でも、あの時は遅い時間だったし、暗かったからちゃんと紹介してなかったものね。」そんな私を鼻で笑いながら、美由さんは手を上げて少し離れたお店で買い物をしていた男性を呼ぶ。「私の旦那の徹よ。」私たちを見下しながら得意げに話す美由さん。しかし哲也さんはどこか慌てた様子で、口をもごもごしている。「私の夫は大学病院のエリート医師なの。何その格好。私の隣でボロ作業着を着た夫のタモスをニヤニヤと品のない笑みを浮かべて見つめながら、美由さんは勝ち誇った顔で私を嘲った。」あまりにもぶれいなもの言い方に一瞬言葉を失ったが、ようやく口を開く。「旦那さんは、私の部下ですが。」「え?」美由さんが嫌そうな顔で夫の哲也さんを見る。青ざめた顔をした哲也さんは、鬼のような形相で美由さんを見返した。美由さんはそんな哲也さんを無視してこう続けた。「あなたが夫の上司ですって?笑わせないでよ。なんでボロ作業着の部下なのよ。夫は優秀な医師なのよ。」美由さんの強烈なキャラに圧倒されていたが、その後、プッと吹き出した。「何がおかしいのよ。」「失礼。お見苦しい格好で申し訳ありません。改めまして、いつも妻と娘がお世話になっております。」そう言いながらタモスは作業着のポケットから名刺を取り出し、美由さんに差し出した。美由さんは名刺を奪い取り、そして固まった。「嘘。大学病院の副院長ですって。」私は思わず笑ってしまった。「妻と娘とデートの約束をしていたんですが、建設中の病院の確認に呼ばれてしまって、そのまま来たもので。」タモスは私の腰に腕を回し、穏やかに微笑んだ。美由さんはその光景に唇を噛みしめて顔を真っ赤にした。「そ、そうですか。こんな貧乏人と結婚するなんて、よっぽど懐が深いんですね。絶対お金目当てですよ、この人。おとなしい顔して、ずるがしこいんだから。今からでも別れた方がいいんじゃないかしら。」「そんな、まさか。彼女は私にはもったいない女性ですよ。どうしてそんな風に思うんですか?」タモスが美由さんに詰め寄ろうとした時、やっと哲也さんが口を開いた。「申し訳ございませんでした。副院長。奥様、私の妻がこのような暴言を吐いてしまいまして。後できつく注意しますので。不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。」哲也さんはそう言うと、まだ文句を言いたそうな美由さんを引きずるように足早に去っていった。気づけば私たちの周りは野次馬でいっぱいになっていた。

翌日、私とエリカが登園すると、美由さんの話題で持ち切りだった。大きなショッピングセンターだったから、野次馬の中にママ友がいたらしい。一部始終を見ていた誰かから噂が広まり、美由さんの自慢のエリート医師が実はナツ子の夫の部下だったと幼稚園中に知れ渡った。これで美由さんも少しは大人しくなると、私たちは安心していた。

ショッピングセンター事件から約三ヶ月後、タモスから信じられない話を聞くことになる。「ナツ子に嫌な思いをさせないためにずっと言うか悩んでいたんだけど、もう隠しきれないから言うね。実はあのショッピングセンター後から、美由さんが毎日お昼の時間にお弁当を持って僕に渡しに来るんだ。」「どうして?毎日私の作るお弁当持って行ってるよね?」「もちろんナツ子が作ってくれたお弁当は毎日食べてるよ。でもさ、奥さんに冷凍食品ばかり食べさせられてるんだろうって。断っても断っても毎日持ってくるんだよ。だんだん院長や看護師たちから『本当に冷凍食品しか食べさせてもらってないんですか?』なんて真に受ける人が出てきちゃって、これ以上放っておけない状態なんだ。」「何よ、それ。どんだけあの人のこと根に持ってるのよ。」私は怒りを通り越して笑っていた。そして私とタモスは相談して、ある作戦に出ることにした。

その二日後、私は早起きをして弁当を作り、タモスが勤務している系列病院へと向かった。お昼時間になり、いつものようにお弁当を持ってきた美由さんを院長室に迎え入れた。「副院長さん、ようやく私のお弁当を食べてくれる気になったのね。冷凍食品には飽きたのかしら。」そうわざとらしく、誰かに聞こえるように大きな声で言った。「お疲れさま、ナツ子。待たせてごめんね。」美由さんは大きく目を見開いて私を見た。「うん。うん。大丈夫。お父さんとお母さんも今着いたところだから、それより早く始めようか。」美由さんは呆然としている。「ああ、言ってなかったね。私の父は大学病院の院長で、母は理事長をしています。哲也さんも今まで知らなかったと思います。私が大学病院の一人娘だということは秘密にしているので。」「徹也まで、なんでここに?嘘。あなたが大学病院の一人娘?」美由さんは混乱状態だ。「嘘ではありません。嘘をついているのは美由さんです。私が夫や子供に冷凍食品ばかりのお弁当を食べさせているって、貧乏人だって言って、娘のエリカが幼稚園でいじめられているんです。」「何よ、こんなところでそんな話しなくてもいいか。今日は何のために皆さんがここに?」「それは院長です。美由さんが毎日僕にお弁当を届けてくるものだから、院長や看護師が心配しているんです。それにお父さんやお母さんにも病院に関わることなので来てもらいました。私の妻が作るお弁当と、美由さんがわざわざ毎日作って持ってくるお弁当、どちらが美味しいか決めて、はっきりしましょう。」院長室には私以外に父と母、哲也さん、そして今夫が勤務している系列病院の院長と看護師数人が同席していた。「そ、そんな。私の知らないところで妻が大変失礼なことを。申し訳ございません。」「高木哲也さん、あなたに一つ確認しなければいけないことがあります。」理事長である母が思い切って口を開く。「実はそこにいる看護師数人から、あなたが病院の備品を持ち出しているという告発がありました。調査したところ、消毒液や薬品を無断で持ち出してネットで売っていることが判明しました。」「そ、それは何かの間違いでは?」「いいえ。あなたが備品を盗んでいるところを防犯カメラがしっかりと捉えていました。言い逃れはできません。まだ全ての調査が終わっていませんので、それまで自宅謹慎を命じます。」哲也さんは膝から崩れ落ちた。美由さんはそんな哲也さんを睨みつけていた。

それから一ヶ月後、哲也さんは正式に首になった。本来なら警察に届けるような事件だが、病院側もきちんと管理ができていなかった責任があると考え、解雇するに留まった。哲也さんは窃盗の噂がつきまとい、職を点々としていた。美由さんはそんな哲也さんの尻を叩くばかりで、次第に夫婦仲は険悪なものとなった。そして驚くことに、美由さんは幼稚園の担任の先生と不倫をしていた。ママ友の間で噂になり、哲也さんの耳に入るとすぐに離婚を言い渡された。美由さんは哲也さんに土下座をして謝罪したが、哲也さんは美由さんに慰謝料一千万円と子供の親権を主張した。今まで外で働いたこともない美由さんに親権など取れるはずもなく、美由さんは家を追い出される形となった。その後はどうやらボロアパートに引っ越しをし、深夜スーパーとコンビニバイトを掛け持ちして、親の脛かじりの生活をしているらしい。

私たち家族はやっと平穏な暮らしに戻った。大学病院の建て替えが終わり、タモスはまた気心知れた仲間たちと一緒に働いている。そして私は第二子を授かり、お姉さんになるエリカは楽しい幼稚園生活を送っている。これからも大変なことは色々とあるかもしれない。だけど、家族で協力して寄り添いながら、ゆっくり前向きに生きていこうと思う。

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