「はい、わかりました。出ていきます」
夫の勝ち誇った笑い声を背中に、私はキャリーバッグを転がして玄関を出た。義母が何か叫んでいたが、振り返らなかった。
あれから一年。私はずっとこの瞬間を待っていた。
私の名前は半田直子。三十四歳の専業主婦だ。夫の大輔とは友人の紹介で出会った。大学を卒業してから仕事一筋だった私は、職場と自宅を往復するだけの生活を何年も送っていた。仕事が好きだったから苦ではなかったが、友人には哀れに思われていたらしい。「一度でいいから待ってみない」と引き合わせてくれたのが大輔だった。
大輔は有名大学の出身で、勤め先も名の知れた大企業。普通のOLだった私とは住む世界が違うと何度も思わされた。人望も厚く女性に言い寄られることも多かったと聞いた。それなのに、なぜか大輔の方から私に交際を申し込んできた。私も惹かれるものがあったから承諾し、あれよあれよという間に結婚の話が進んだ。
大輔には父親がいない。幼い頃に離婚して出ていったのだという。だから母親をとても大事に思っているらしく、結婚は実家での同居を強く望んだ。正直、同居には抵抗があった。赤の他人と一緒に暮らすのは気を遣うし、通勤には二時間以上かかる。仕事を続けたかったが、同居となれば退職せざるを得ない。私が決めかねていると、大輔は「絶対に直子を幸せにするから」と何度も強く宣言してくれた。
その言葉を信じることにした。入籍後、私は仕事を辞めて大輔の実家へ引っ越した。義母は笑顔で迎えてくれ、大輔も「同居してくれてありがとう」と何度も感謝を述べてくれた。これならうまくやっていけるかもしれない。その時は本気でそう思っていた。
仕事を辞めた私は、家事やご近所付き合いに専念する生活を送っていた。義母から家庭の味を教わったり、ご近所さんとスーパーの話で盛り上がったりするのは新鮮で楽しかった。
そんなある日、大輔が珍しく疲れた顔で帰ってきた。心配して声をかけると、彼は深刻な表情で言った。
「直子にお願いがあるんだ。仕事を手伝って欲しい。新しいプロジェクトの責任者になったんだけど、資料整理に手が回らなくて」
なんだ、そんなことか。深刻そうな顔をしていたからもっと大ごとかと思った。「もちろん手伝うわよ」と二つ返事で引き受けた。愛する夫の役に立てるのは純粋に嬉しかった。
最初は軽い調べ物程度だった。だが次第にプレゼン資料の作成まで頼まれるようになり、気づけばすべての資料を私が作っていた。家事をしながらでは明らかに無理が出てきた。二ヶ月が経った頃、私は夫に申し出た。
「ねえ、大輔。もう仕事の手伝いはやめにしていい?さすがに家事をしながらプレゼン資料を用意するのは難しいわ」
すると大輔はガバッと上半身を起こした。その顔は見る見るうちに歪んでいく。
「今更そんなこと言うなよ。直子の手伝いありきでプロジェクトを進めているんだぞ。まあ、専業主婦の直子には分からないか」
あまりの豹変ぶりに私は言葉を失った。今までニコニコと優しかった夫が、そんなことを言うなんて信じられなかった。私が何も言えないでいると、大輔はため息をついて続けた。
「わかった。それじゃあ役に立たないお前のことは、これからいないものとして扱わせてもらう。文句があるなら出ていってくれて構わないからな」
それから大輔は宣言通り私を無視し始めた。おはようと声をかけても無視。見送っても無視。夕飯を出しても「いただきます」も言わず黙って食べる。義母も同じだった。話しかけても答えない。次第に大輔は義母とだけ食卓を囲むようになり、私は一人台所で立ちながらご飯を食べる生活になった。リビングから響く笑い声が私を嘲笑っているかのようで、涙が出るほど惨めだった。
でもこれは私のせいかもしれない。もっと要領よく家事と手伝いをこなせていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。時間が経てば大輔の態度も軟化するだろう。そう思うと強く抗議することもできず、結局我慢するしかなかった。
ふと気づけば一年が経とうとしていた。大輔は生活費を渡してくれなくなったので、独身時代の貯金を切り崩して暮らしていた。これでは何のために結婚したのか分からない。
私は三人分の洗濯物を取り込みながらため息をついた。そろそろ昼食にしようと階段を降りた、その時だった。うっかり階段を踏み外し、そのまま転げ落ちてしまった。バタンと大きな音が響く。強く打ったお尻をさすっていると、リビングから慌てた足音が聞こえてきた。
「直子さん、どうしたの?大丈夫?階段から落ちたのね。怪我はしてない?」
義母だった。約一年ぶりに義母と会話したことに感動してしまい、私はつい「お母さんの声、久しぶりに聞いた」とこぼしてしまった。義母はポカンと口を開けて固まっている。
「あ、えっと、怪我はしてないです。大丈夫です。ご心配かけてすみません。それにしてもお母さんと久しぶりに話せて嬉しいです。なんちゃって」
暗い雰囲気にしたくなかったので冗談めかして言うと、義母はなぜか眉を寄せて泣きそうな表情を浮かべた。
「私のことが嫌いなんじゃなかったの?」
意味が分からなかった。私が義母を嫌うはずがない。そう尋ねると、義母は衝撃的な事実を話し始めた。大輔が私を無視し始めた頃、彼は義母に「直子は本当は母さんのことが嫌いだから、これからは話さない方がいい」と吹き込んでいたらしい。私が言う通りにしなかったことがよっぽど気に入らなかったのだろう。私をこらしめるため、あるいは支配するために、家庭内で孤立させようとしたのだ。
義母は優しい自分の息子が嘘をつくとは思っていなかったようで、すっかり信じてしまっていた。
「私はお母さんのこと好きですよ。料理のレシピを惜しげもなく教えてくれたり、嫁である私を受け入れてくれたりしたお母さんが好きです」
私がそう言うと、義母は口元を押さえ何度も頷いた。信じてくれたようだ。
「ごめんなさいね、直子さん。あなたにちゃんと確認しておけばよかった。今日大輔が帰ってきたら問い詰めてやるわ」
そうして話し合いの場を作ってくれることになった。その後、私と義母はそれまでの時間を埋めるようにたくさん話した。ここ最近で一番楽しい時間だった。
大輔が帰宅したのはそのすぐ後だった。私と義母が仲良く話しているのを見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに何事もなかったかのように冷蔵庫からビールを取り出した。
「大輔、ちょっとここに座りなさい。何の話をするかもう分かってるわよね。もう直子さんに嫌がらせをするのはやめなさい。今ここで直子さんに謝りなさい」
義母がそう言うと、大輔はふんと鼻を鳴らした。
「はあ。嫌がらせなんてしてねえよ。なんだ、証拠でもあるのか。ほら、早く証拠を出せよ」
勝ち誇ったようにまくし立てる。確かに客観的な証拠はない。撮影していたわけでも録音していたわけでもない。私も義母も答えに窮していると、大輔はさらに続けた。
「直子、俺のことがそんなに気に入らないのか?一年前にも言ったよな。文句があるなら出ていけって。まあ、専業主婦のお前が出ていってもどうにもならないだろうけどな」
その通りだった。収入源のない私が出ていったところで、すぐに生活できなくなるだろう。両親は健在だが、実家では妹夫婦が同居している。私の居場所はない。だがもう限界だった。
「わかりました。出ていきます」
義母の引き止めも振り切って、私は荷造りを始めた。当面必要な洋服や洗面道具だけをキャリーバッグに詰める。
「勝手にしろよ。どうせすぐ戻ってくるだろうけどな」
大輔の嘲笑を背中に、私は家を出た。
それから一週間、ターミナル近くのビジネスホテルに宿泊していた。今後の生活のための手続きや準備で忙しかったが、それが一段落した頃、大輔から猛烈な勢いで電話がかかってきた。十回目の着信でようやく応答した。
「もしもし。大輔?どうしたの?」
「ふざけんな。お前の仕業だろう」
鼓膜が破れるかと思うほどの大声だった。
「仕業って何のこと?」
「はがきだよ。はがき。俺がお前をいびってるとか仕事を人に押し付けてるとか書いて会社に送ってきただろう。どういうつもりなんだよ」
ああ、届いたんだ。私は実家を出た後、大輔の会社に何通かはがきを送っていた。「半田大輔は人に仕事を押し付けている」「半田大輔は妻をいびっている」「半田大輔は嘘つき人間」。赤い文字で大きく書き殴った。はがきという特性上、内容は嫌でも目に入る。多くの人の目に触れたことだろう。
「ふざけるな。お前のせいで俺は謹慎処分になったんだぞ。エリートのこの俺が。使えない部下に仕事を振ってやっただけなのに。使えない嫁に存在価値を与えてやっただけなのに」
もう穏やかで優しい大輔はいなかった。きっと頭を掻きむしりながら喚いていることだろう。
「そんなに言うなら証拠はあるんでしょうね。ほら、早く証拠を出しなさいよ。私がはがきを送ったっていう証拠」
つい先日大輔から言われた言葉をそっくりそのまま返してやった。大輔の怒りは最高潮に達し、声にならない声で叫び始めた。もう話し合いにはならない。私は「それじゃあ切るわね」と一方的に電話を切った。
そして翌日、私は大輔と今後の話し合いをするために実家を訪れた。約束はしていなかったが日曜日だ。きっと家にいるはず。勝手知ったる家の中に入ると、義母の靴がない。買い物にでも出かけているのだろうか。だが、代わりに見知らぬハイヒールが置いてあった。まさかと思っていると、寝室の方から物音が聞こえてくる。嫌な予感がした。私は荷物を廊下に放り投げ、スマホで動画を撮りながら寝室に近づいた。
覚悟を決めてドアを開ける。そこには一糸まとわぬ姿の大輔と見知らぬ女性がベッドに横たわっていた。
女性は短い悲鳴を上げた。大輔も「直子!?」と叫んだ。なぜか妙に冷静だった私は、無言で動画を回し続けた。女性は焦った様子で服を集め、上半身を隠す。
「もしかして奥さん?嘘でしょ?半年前に別れたって言ってたのに。私と結婚するって言ってたのに」
この男は私に嫌がらせをしていた上に、浮気までしていたのか。どうせ私のことは邪魔者としてちょうどいいと思っていたのだろう。
「え、いや、違うんだ。違うんだよ」
大輔はもごもごと口を動かすばかり。女性は「もう別れる」と言い捨てて出ていってしまった。
流れる沈黙。私が「大輔」と呼びかけると、彼の肩がビクッと震えた。そしてベッドから飛び降り、私の前で土下座をし始めた。
「何でもするから、その動画を拡散するのだけはやめてくれ」
恐れているようだ。あのはがき作戦が効いたのだろう。これなら素直に離婚に応じるはずだ。私がそう言うと、大輔は消え入りそうな声で「はい」と言った。
それからしばらくして、私と大輔は正式に離婚した。もちろん慰謝料も請求し、一括で支払ってもらうことになった。大輔は部下に仕事を押し付けていたことが上層部にバレて降格処分を受けた上、いびっていると噂の妻と離婚したことで社内評価はガタ落ち。外面を取り繕い人目を気にする大輔には耐えられなかったようで、結局自ら仕事を辞めてしまったらしい。今では実家で引きこもり生活中だという。
義母は私に迷惑をかけたお詫びにと、大輔と同居を続けて生活態度を監視し、再教育することにしたようだ。義母が悪いわけではないので少し心苦しいが、お言葉に甘えさせてもらおう。
そして私は、なんと以前働いていた会社に戻ることができた。急に退職者が出たそうで、偶然にも私が以前所属していた部署だったのだ。なんだか振り出しに戻ってしまった感じは否めないが、腐らずに真摯に人生と向き合っていこう。私はそう決心した。



