「中卒の負け犬君、過去の不始末は酒で流してあげる」
そう言って、彼女は俺の頭からビールをぶっかけた。相手は誰もが認める小学校からの美人同級生、酒井美紀子だ。俺はこの美紀子のことが学生時代から苦手だった。それは中学の同窓会の席でのことだった。
元々俺は同窓会に行く気はなかった。だが親友の伶太に誘われ、一応出席したんだ。ビールをぶっかけられたのは、会も終わりに差しかかり、帰ろうとしていた時である。周りにいた一同も大爆笑だった。親友の伶太がすぐにタオルを数枚持ってきてくれた。そして伶太とタクシーで帰ったのだが、翌日、美紀子は地獄へ落ちることになる。
俺の名前は川崎政治。三十歳。体の弱い父と、正社員で働く母の元で育った。一応父はサラリーマンではあったが、長らく病を患っており、仕事をよく休んでいた。小学生になった頃、市営住宅に引っ越す。俺は内気な性格で、学校ではあまり友人ができなかった。
しかし同じ団地に伶太という同級生がいて、唯一仲良くしていた人物だ。伶太とはゲームをしたり、放課後一緒に遊んだり、何でも話せる仲になる。学校では真面目に授業を聞いていて、俺は勉強は嫌いではなかった。高学年になっても塾などには通わなかったが、夜は宿題をして予習復習を欠かさず、伶太とも一緒に夏休みは勉強していた。
伶太は母子家庭だった。お父さんを早くに事故で亡くしたらしい。伶太のお母さんは夜も昼も働いていたので、伶太はよくうちの家に遅くまでいたりしたが、両親はそんな伶太にも優しく、時には一緒にお風呂に入ったりする仲だった。
その頃クラスには、学年でピカイチと言われる美人の美紀子という同級生がいて、俺も少し気になっていた。だがお金持ちのお嬢さんで、いつもブランドの服を着て、取り巻きたちと一緒におとなしい子に嫌がらせをして、性格が悪いことに気がついていた。
中学も伶太や美紀子と一緒だった。そして俺は市立の進学校に合格。伶太は私立に通ったが、それでも近所だったので仲良くしていて、携帯メールをしながら将来の夢を語っていた。美紀子も同じ私立に通っていて、俺は案外成績が良く、美紀子は学年で一位や二位を俺と勝手に争い出したんだ。
俺が一位になった時には、美紀子は俺のテストのプリントを目の前で破る。「何よ?団地の貧乏人のくせに。あ、貧乏だから勉強しかすることがないのね」そんな嫌味を言いながら、いつも俺を敵視していた。俺はいつも無視をしていた。美紀子はいつも髪を綺麗にまとめていて、相変わらず美人で、男子たちにはちやほやされている。
俺は昼休みにいつも図書館へ行って、いろんな本を読んでいた。そこには清楚な感じの女子がいて、俺は片思いをしていた。そんな話も伶太とはメールで話しながら、高校生活を送っていた。
しかし父がとうとう倒れてしまった。高校二年の冬だった。とても優しい父だった。父方の祖父はかなり落ち込んでいたが、葬儀は母と協力して身内だけで済ました。伶太も来てくれた。俺は心にぽっかり穴が開いた感じで、なぜか涙は出なかった。
母は祖父の建設会社の事務員として働いていたのだが、落ち着いた頃にまた復帰する。俺はあまり食欲もなく、勉学にも身が入らない。それに普通に話すこともできなくなった。目の前に映し出される景色は全て灰色で、虚しさは消えない。ある夜中、ひどく震えていた母がキッチンで泣いている姿を見てしまった。母もとても悲しいだろう。二人は恋愛結婚だと聞いていた。
その頃テストの成績も悪くなっていく。悪くなっていくどころか、全くテスト用紙に回答が書けないんだ。父が亡くなったことは美紀子は知らない。「何?あんた今回零点じゃない?とうとう貧乏生活に疲れたのかしら?」そんな風に笑っていたが、俺には何の感情も湧かない。
そして高校三年生になる前に、俺は学校を中退した。心配した祖父が言った。「どうした?あんなに勉強ができたのに。政治にとっては優しいお父さんだったもんな。お前も辛いだろう。落ち着いたら、わしの知り合いの建築現場を紹介するから、体を動かして働く方がいい。いつでも連絡してくれ」
俺はしばらく家に引きこもっていたが、たった一人の母が頑張っているのに、いつまでも甘えることはできないと思った。そして祖父の紹介で建築現場で働くことに。先輩は厳しかったが、体力仕事のせいか食欲も少しずつ出てきた。
そんな仕事の帰り、美紀子と出くわす。「政治じゃない。とうとう学費を支払えなくなって中卒で働いているの?汚い作業服ね。かわいそうに」そう言ってまた俺をからかってきた。いつ会っても本当に性格の悪い美紀子だ。俺は無視して去る。
しばらくして現場に慣れた頃、祖父が俺にパソコンを買ってくれた。「今事務所にも導入したのだがの。便利な時代になったが、政治のお母さんもこのパソコンとやらに苦戦しているよ。政治も覚えて、お母さんに教えてやってくれよ」
俺は現場仕事が終わると夜パソコンに向かって、ネットサーフィンをしたりチャットをしたりして楽しみができた。母は祖父の会社の経理をしていたが、家にも持ち帰り俺のパソコンで苦戦。俺もそれを見ながら経理を少しずつ勉強していった。そして母の帳簿を見ながら、母に間違いを教えていく。伶太は弁護士になりたいと大学に進学し、伶太と色々パソコンで語ったりしていた。
俺は現場で頑張りながら二十三歳の時に祖父から言われた。「政治、お前も不動産を勉強してみないか?」「不動産の勉強って、俺中卒だし」「何を言っている?わしも中学しか出ておらんぞ。わしの本をあげるよ。結構楽しいかもしれない。それと宅地建物取引士の免許を取得すればいいよ」
そんな助言があった。二十五歳でその資格を取る。そして祖父が言った。「政治、いずれはわしの後を継いで欲しいと思っている。事務所は狭いが、政治もうちの営業として働いてくれないか?」「営業か。俺口下手だしな」「何?慣れればいいだけだ。最初はわしが一緒について行くよ」
こうして着替えのスーツを祖父から買ってもらって、営業として走り出した。しかしどうもうまくいかない。俺は祖父に相談する。「政治、営業はな、笑顔だ」そういえば、俺には笑顔が足りない。伶太と会う時はいろんな話で心から笑ったりできるのだが、普段の俺はどちらかと言うと暗い雰囲気だ。俺は鏡に向かって一生懸命笑顔の練習をした。最初は顔面痙攣のように顔が引きつるのだが、頑張って続けていった。そして少しずつ仕事がまとまっていく。
祖父は俺の実力を見込んでくれたようで、俺が二十七歳の時、祖父は全ての資産を俺に生前贈与してくれた。結構な金額と土地だった。そのお金を元手にして株の勉強をしていった。浮き沈みがあったが三年で大きく資産は膨らんでいく。俺は新しい土地を購入したり、リフォームの依頼など、仕事も順調になっていった。
ある日、どこかで見かけたような女性と喫茶店で出会った。それは俺の初恋の相手でもある、昔図書室にいた佐紀ちゃんだった。俺は営業で慣れてきたスマイルで、一人でコーヒーを飲んでいた佐紀ちゃんに声をかけた。すると向こうも俺を覚えていてくれて、俺たちは連絡先を交換した。その後一緒に食事に行ったりしながら、だんだんと交際が深まっていった。もうお互い三十歳になっていて、俺からプロポーズして結婚に至る。伶太もしっかり弁護士になっていた。そして合コンで知り合った女性と結婚している。
俺はマンションを買って、母にも同じ棟の部屋をプレゼントした。母は少し広いかなと言いながらも、とても喜んでくれた。やがて可愛い女の子にも恵まれた。祖父は暇を持て余し喜び、母も孫にはデレデレだった。祖父は俺にお祝いにと、祖父の川崎建設を俺に継がせて、祖父は会長となる。俺はまだ三十一歳で社長となってしまった。その頃、祖父が設立した川崎建設は昔よりも随分と大きくなり、営業社員も増やしていった。伶太には俺の会社の顧問弁護士になってもらった。
ある時、家族で買い物をしていると、あの性格の悪い美紀子と出くわす。「え、政治じゃない?あんた結婚したの?よく中卒で結婚できたものね。結婚に学歴は関係あるのか?当然今も大した職についていないんでしょうから。奥様も大変ね。お子さんもかわいそうにね」そんな言葉を投げかけてきた。妻は「なんて失礼な同級生」と怒っていた。いつまでも人を見下す嫌な女だと、俺は心の中で呟いていた。
そして俺は社長になったわけだが、以前の通り営業には出かけていた。そんなある日、伶太から電話があった。「なんだかさ、中学の同窓会があるそうなんだけど、あの美紀子っていただろ。俺の実家にはがきが届いたんだけど、政治の家には戻ってきたとか言って、俺の家に美紀子から電話があったんだけど」「ああ、そっか。実家も引っ越したから、はがきが届かなかったんだな。だけど美紀子から電話って、ひょっとして美紀子が主催なのかな?」「多分そうなんだろう。場所は駅の近くの居酒屋を貸し切ったそうだが」「あまり気が進まないな」「まあそうだけど、あれから十五年も経ってるし、久しぶりに行ってみれば楽しいかもしれないよ。別に美紀子だけが来るんじゃないしさ」「そういえばそうだな。みんな変わっているだろうな」
そんな感じで伶太と二人で出席することに。妻は子供の面倒を見ているから家にいると言っていた。その一ヶ月後、俺は伶太と一緒に同窓会へ向かう。遠方から来た同級生や懐かしい顔がずらりと並んだ。中には俺がかなりの笑顔で現れたので、俺に気づかない者もいたほどだ。「え、もしかして政治なのか?」と声をかけてくれた同級生もいて、男性同士は結婚している奴らがお互いに子供の写真を見せ合ったりして、場は盛り上がっていた。
美紀子は女性の中で割とナチュラルメイクで来ていて、「私さ、もちろん社長令嬢だから父の秘書もしているんだけど、夜は化粧品の販売もしているのよ。それでみんなにメイクを教えてあげようと思ってさ」そんな風に昔の取り巻きたちとキャッキャと盛り上がり、自分が販売しているメイク用品で同級生に化粧をしてあげたり、自分も手鏡を見ながらつけまつ毛をして化粧品をアピールしていた。俺にとっては三十を過ぎた厚化粧の化け物にしか見えないが。
それから料理も運ばれてきて、少しずつお酒も進む。懐かしい顔に会えて、やっぱり来てよかったと思った。未婚の女性と男性は席を同じ場所に変えて出会いの場になり盛り上がる。俺は今の自分の職業なども誰にも言わなかったが、伶太は仕事半分で名刺を配っていた。皆が「伶太は弁護士だ」と言ってはしゃいでいる。
そんな時、美紀子が俺に近寄ってきた。会も終盤になってきた頃だ。「政治じゃん。よく来たわね。あんたの友達は弁護士であんたはまだ建築現場で働いているんでしょ?中卒だもんね。高校の時は勉強のしすぎで頭がおかしくなったのかしらね。いきなり白紙のテストを出していたわね。あの時は本当に笑えたわ」「よくそんな昔のこと覚えてるね」「当たり前よ。だってすごく面白かったんだもん。その後高校もやめてしまって、貧乏人ってとことんかわいそうなものね。中卒の負け犬君。私があんたの過去の不始末は酒で流してあげる」
そう言った美紀子が、俺の頭から手に持っていたジョッキのビールをぶっかけてきた。「ちょっと何するんだ?」俺がそう言うと、美紀子の取り巻きたち一同が爆笑。ふと伶太を探すと、伶太はその様子をスマホで録画していて、すぐ居酒屋の大将のところへ走っていき、タオルを数枚持ってきてくれた。女将さんもやってきて声をかけてくれ、その場をすぐ雑巾で拭いてくれていた。それでもまだ美紀子の周りは笑っている。なんて陰険なんだ。俺はタオルで髪やら顔を拭き、スーツも少し濡れていた。男性の元同級生は一気に酔いも覚めたのか、俺のことを心配してくれた。
伶太が美紀子に言った。「お前って本当、小学生の頃から性格が悪いよな。何をしたか自分で分かってんのか」「だって普段建築現場でドロンコのくせに、今日はスーツなんか来ちゃってさ、ヘラヘラしていてムカつくっていうか。まあすっきりしたけどさ」伶太は顔を真っ赤にして怒っている。そして俺の腕を取って「もう帰ろう」と言い、タクシーを呼んだ。
俺はその翌日に美紀子と会うことになっていることを伶太に告げた。「今度は絶対美紀子を許さない」と言うと、伶太が言った。「ビールをぶっかけるなんてのは歴とした犯罪だよ。俺スマホに証拠あるからさ、警察へこのまま行こうか」俺にもその時の美紀子の行動の録画をスマホに送ってくれた。そして被害届を伶太と一緒に交番へ出しに行く。明日は面白いことになりそうだ。俺は翌日、美紀子への反撃の幕を明ける。
家に帰ると妻と娘はすやすやと眠っていた。俺はシャワーを浴びてすっきりとする。翌日の十時、俺は美紀子の父の会社で大きな商談がある。美紀子の父の会社は不動産関係で、俺は前から知っていた。しかし美紀子とは会いたくないので、営業マンが今まで美紀子の父の会社に出向いていた。今回は向こうからの依頼で、大きな契約である。
当日、俺は十時に美紀子の父の会社へ出向く。契約書はもう出来上がっていた。担当は美紀子だと俺は知っている。受付に着くと、俺は応接室に案内された。そしてドアを二回ノックすると、社長秘書と書かれた部屋から「どうぞ」という声が。「俺が部屋に入ると、美紀子が目をまんまるにしていた」「は、なんであんたがここに?今日は大切な商談の日じゃないですか」俺がさらっとそう言うと、美紀子は目を泳がせながら俺をソファーに招いた。俺は名刺を差し出す。すると美紀子が「は?あんたが川崎建設の代表取締役?え、嘘でしょ?」「俺が今の社長です。契約書を持ってまいりましたが」「え、社長?」「はい。その前に見てもらいたいものがあります」俺はそう言って、昨日の美紀子の同窓会での姿の録画を流した。
美紀子は慌てて「せ、政治、こ、これはつい酔っ払っていて」。「へえ、そうですか。しかし酔っていようが、やっていいことと悪いことはあります。ですので今回の五十億円の契約は白紙で」。「そ、そんな困る。私パパに叱られるわ」。「そうですか。しっかり叱ってもらってください。後ほど警察も来ると思いますので」俺はそう言い切ってソファーから立ち上がり、応接室を出た。玄関へ向かうと刑事のような人とすれ違った。しばらく車の中で様子を見ていると、美紀子はその刑事のような人に車で連れて行かれる。俺はすっきりして車に戻った。
すると伶太が俺に向かって走ってきた。「政治、どうだった?」「うん。契約は白紙にしたよ。それから刑事のような人が来て、あの女が乗せて行かれた」「そっか。じゃあ俺にも連絡があるかもだな。慰謝料はどうする?」「自由だぞ」「そっか。じゃあ百万で分かった。それで内容証明をあいつの父のところへ送り付けてやるよ」そう言って伶太も笑っていた。
他の同級生も見ていたその講習の場であのような暴言、そしてビールをぶっかけた傷害事件として、俺たちは警察から電話があり、軽く事情聴取を受けた。その場に美紀子の父が現れて、改めて謝罪してきた。そして会社に美紀子の父が来て、玄関で土下座。「どうか契約を」と被害届の取り下げを頼んでくる。「社長さん、どうぞ頭をあげてください。しかし今回のことでもうあなたの会社とのお取引はお断りいたします。何しろ娘さんが犯罪者なのですから」そこをなんとかとさらに頭を下げてくる美紀子の父。「あなたの娘さんに昔から僕は貧乏だの何だのと見下されていたのです。これで縁が切れるなら僕は何よりです。どうかお引き取りください」俺がそう言うと、美紀子の父は唸りながら帰っていった。
そして伶太がまた騒いでいるので何かと思えば。「昨日の同窓会での現場さ、他の誰かも録画していたみたいで、美紀子のアカウントのSNSが大変なことになってるよ」俺はスマホを見てみた。化粧品販売の美紀子のアカウントだ。俺たちの顔はぼかされていたが、誰かが投稿したのだろう。「これで美紀子の商売もアウトだな」これを見た同級生から、伶太の着信が鳴りまくる。そして美紀子の取り巻きたちも俺に謝りたいとのことで、俺の会社へも電話がかかってきた。お酒の場とはいえ、取り巻きたちから笑ってごめんなさいと謝罪があった。
警察に出向いた俺を心配した妻が「何があったの?」と聞いてきた。俺が全てのことを説明すると、妻も「あの美紀子さんならやりそうなことね」とぽつりと呟いていた。
その後、美紀子は両親に勘当されて、この町からは消えてどこかへ行ったようだ。いくら美人でも、あの性格が治らない限りどこへ行っても無理だろう。そして慰謝料は父親が立て替えたそうで、俺に振り込みがあった。
しばらく経った時、俺は接待で夜の繁華街で顧客と一緒に飲んでいた帰りのこと。美紀子らしき人物を見かけた。髪がボサボサで痩せていたんだ。そして路地裏の小さなアパートへ入っていった。何か夜の仕事でもしているのだろう。
その後、俺と伶太は美紀子からの慰謝料によって家族ぐるみで高級焼肉店へ行き、美味しい焼肉を頂いた。会社の方は順調で、今は地方の開拓の仕事で忙しくしている。そして川崎建設はだんだんと大企業として育っていく。伶太の息子もすくすくと元気に育ち、うちの娘もとても元気だ。俺たちは長い付き合いになっているが、いつまでも仲良く、夏は海へ一緒に行ったり、家族ぐるみで山へバーベキューをしに行ったりしながら、仕事もプライベートも充実した日々を送っている。
中卒だからと俺も引け目を感じたことはあったが、今は学歴など関係のない時代になりつつあるだろう。母も元気で、まだうちの会社の経理をして頑張ってくれている。父を亡くし悲しさに沈んだが、今はきっと遠い空からあの優しい笑顔で俺たちを見守ってくれているのであろう。そして俺は祖父が創設したこの会社を、今後も精一杯守っていくことを誓った。


