居酒屋のバックヤードに叩きつけられたとき、俺はまだ状況を整理できずにいた。テーブルを蹴り、椅子を投げ、なんとか逃げ出したのに、酒が入った足では客引きたちの素早さに敵わなかった。瞬く間に捕まり、路地裏の汚い店の奥へと引きずり戻されたのだ。
「下手な真似すんじゃねえぞ。手こずらせた詫び台で500万請求するからな」
青龍会の組長を名乗る大将が、ドヤ顔で値札を読み上げた。お通し台50万円、お作り100万円、テーブルチャージ料25分で50万円。それに幻の日本酒とやらを提供したと言って、せベロプランプレミアムで100万円。合わせて300万円の請求書を突きつけられた。
「はあ?なんでこんなもんで300万なんだよ。ぼったくりにも程があるだろ」
俺が睨みつけると、大将はケケッと笑った。反論しようとしたが、その口元が緩んだ瞬間を狙って、俺はテーブルを蹴り飛ばした。椅子を掴んで投げつけ、相手の視線が逸れた隙に店を飛び出した。ケンジも走り出したが、二人とも酒が回っている。路地の角で足がもつれ、あっという間に追いつかれてしまった。バックヤードへ連れ戻され、今度は大将と客引きの二人、合計三人に囲まれている。体格では俺たちに分があるが、三人相手では勝ち目がない。ケンジは顔を真っ青にして震えていた。
「俺は青龍会の組長だ。命が惜しけりゃ金を払え。見たところお前さんたち、働いてない学生だな。だとすれば支払い能力がないってことだ。パパかママに連絡して金を準備しろ」
「本当にあんたが青龍会の組長か?」
「ふざけんな。俺が青龍会の組長って言ってるんだから間違いねえだろうが」
俺は冷静な口調を保ったまま言った。
「じゃあパパを呼ばせてください。今スマホで呼ぶんで。500万でいいんすか?」
ボディバッグからスマホを取り出し、ボタンを押す。呼び出し音が鳴るのを確認し、スピーカーに切り替えた。数秒後、電話の向こうから低い声が聞こえてくる。
「俺だ。どうした」
「ああ、父さん。青龍会の組長の偽物が、パパを呼べと言ってる」
「偽物だと?」
その言葉に大将が声を荒げた。それが電話越しに父へ伝わったのだろう。父は短く「すぐ行く。その場を動くんじゃねえぞ」と言い、通話を切った。
大将は呆気に取られた顔をしている。
「お、おめえ、何言ってんだ?」
「父親を呼んだので、すぐに来ると思います」
「どこにいるかも伝えてなかったじゃねえか」
「ああ、俺は親父にGPSで居場所を逐一位確認される箱入り息子なんで。どこにいても把握されてるんですよ」
その瞬間、店の前に車が数台止まる音がした。俺は堂々とバックヤードのドアを開け、そこに現れたスーツ姿の男たちにケンジを引き渡した。
「悪いんだけどさ、こいつの家まで送り届けてくれないか。怖がってるようなら、一人にさせないで俺の部屋で寝かせて。こいつ、片親だから脅かすなよ。頼むね」
黒いスーツにサングラスの男の一人が、ケンジを抱えるようにして店を後にする。残った男たちが次々とバックヤードへ入ってきた。大将も客引きも、目を見開いて立ち尽くしている。
俺は大将をまっすぐに見据えて、もう一度質問した。
「もう一度聞きますね。あなたは青龍会の組長だと言いましたよね」
大将の視線は、俺の後ろへと向いていた。そこに立っているのは、本物の青龍会の組長。俺の父だ。
「お前か。青龍会の組長だと偽ったのは」
父はゆっくりと大将に近づく。腰に手をやっている。ダークスーツの男たちも、物騒なものを今にも取り出しそうな勢いだ。客引きの二人はもう土下座をしていた。
「俺の息子が大変お世話になったじゃないか。怪我がなかっただけましだ。ただ、ぼったくりはいかんよな。ここは青龍会の縄張りだってことを知ってて悪さしてたんだろ」
父の声には怒気が籠っている。
「お前さん、見ない顔だが、どこの組のもんだ。そこのちんぴら二人も、どこの組の歩兵さんだ」
「あ、あの、自分は桜場組の若頭、野本と申します……」
「桜場組?聞いたことがねえな」
「3ヶ月前に旗揚げしたばかりで。組長の桜場と、若頭の俺と、こいつら二人で始めたばかりで……」
「で、組長はどこだ?」
「そ、それが行方不明で。この店を出す時に挨拶がなかったとか言われて……」
「嘘つけ。この縄張りを預かっているのは青龍会だ。挨拶がなかったからって組長を連れていくってことは、よほどの理由がある。そんなことがあったら、お前が今ここで営業できるわけがないだろう」
父は組長連中を見渡しながら続けた。
「考えられるとすれば、借りちゃいけないところから金を借りたんだろうな。支払えずに捕まったんだろう。そんな親分を信じて待ってると、この先ろくなことねえぞ」
父は一息ついて、大将に言った。
「悪いことは言わねえ。今なら目をつぶってやるから、人殺しから足を洗いな」
大将はうつむいたまま答えない。すると俺は、思わず口を挟んでいた。
「あのさ、お年の割に包丁さばきはいい感じじゃないっすか。お通しも刺身もうまかったですよ」
大将は顔を上げた。
「あの……その金がなくて」
「バカか。金がなくて片親だってんなら、料理の腕一本で働けるだろう。今ならまだ引き返せる。ぼったくりなんかしなくたって、ちゃんと商売できるじゃないっすか」
「俺の前に余罪があるだろうな。この大学生二人にぼったくりを働いたこと。あの青年が訴えたら、終わりだろ」
「あの……店を出して3ヶ月経つんですけど、今日が初めてでございます。客引きで引っかかったのは」
「なんとも情けない話だな」
俺は頭を抱えたくなった。自分がこんな素人に引っかかったのかと思うと、恥ずかしさでいっぱいだ。
「まあ、そういうことなら余罪はないってことか」
父はそう言って、大将に最後の言葉をかけた。
「悪いことは言わねえ。もうこの店は畳め。大将、調理の資格を持ってんなら、片腕で店を手伝え。仕事を探すってのは、人に紹介してもらうもんだ。友人に頼んで自分を売り込んで、使ってもらえ。俺はそんな奴らの世話なんてしねえからな」
父はそう言い残して、その場を去った。ダークスーツの男たちも無言で続く。
「こうなったら、もうあんたたちを助けてやることはできない」
俺はそう伝えて、店を出た。後に残った三人がどうなったのかはよくわからない。ただ、この辺りでヤクザを名乗って悪さをしているという話は、その後聞かない。桜場組という組も、組長が連れ去られたという話も、初めから存在しない架空の設定だったのかもしれない。そういう話を作って、ぼったくりで手堅く稼ごうということだったのだろう。
家に帰ると、ケンジが毛布に包まって母さんに介護されていた。
「腹は下すわ、吐き気はするわで参ったわ」
「すまん。巻き込んじまって」
「まあ、あの大将が出す飯は、下手すると保健所案件だったらしいな」
「病院行って診断書もらって、警察に被害届出すか?」
ケンジはブンブンと首を振った。
「いや、やめとく。ヤクザに絡まれたってことを親に知られたら……うち、病院の理事長の息子だから」
「まあ、そうだよな。俺の実家はこんな感じだけど、ヤバくないから。これからも付き合ってくれるか?」
「いや、その設定だけで十分ヤバいだろ」
中学時代、俺は親がヤクザだというだけでぼっちだった。高校に入ってようやく親しい友達ができた。そして大学でケンジと出会った。ケンジは、そんな俺の過去も含めて何も気にせず、自然に付き合ってくれる。
「ありがとな。でも、もう客引きはごめんだし、親父に尻拭いさせるのも、もうしたくないかもな」
ケンジはそう言って笑い、またトイレに駆け込んでいった。さっきよりは具合が良くなっているようだ。
俺は思った。これから先、俺は親の跡を継いで、普通の人とは違う生活を送ることになるかもしれない。それでも、ケンジとはずっと付き合っていけるような生活を軸にしていきたい。組のあり方も、これから父と話し合うつもりだ。少なくとも、今日のようなぼったくりまがいの商売は、もうさせない。ケンジはトイレから出てきて、少しだけ色の戻った顔で笑った。
「次は、ちゃんとした店で飲もうな」
俺はこっくりと頷いた。今度は、俺が店を選ぶ番だ。今度こそ、安心して飲める店を。



