私は資料を抱えたまま、会議室の隅で凍りついていた。創業会長が入ってくるなり、私の名前を呼んだ。「みおさん、大丈夫?」と。3年間、一度も私の名前を呼ばなかった黒田部長は、顔面蒼白だった。彼は部下たちの前で私を「そこの契約社員」と罵り、こう言い放った。「名前なんか覚える必要あるか? 契約社員だろ?…

私は資料を抱えたまま、会議室の隅で凍りついていた。創業会長が入ってくるなり、私の名前を呼んだ。「みおさん、大丈夫?」と。3年間、一度も私の名前を呼ばなかった黒田部長は、顔面蒼白だった。彼は部下たちの前で私を「そこの契約社員」と罵り、こう言い放った。「名前なんか覚える必要あるか? 契約社員だろ?...

取締役会の前日、黒田部長は大手町の会員制バーで同期と酒を酌み交わしていた。グラスの氷が溶ける音さえも、彼には勝利の前奏曲に聞こえていた。

「取締役会さえ通れば、俺の名前が役員名簿に載る。長かったよ」

同期が心配そうに尋ねた。

「例の契約社員の件、大丈夫なのか?」

黒田は軽く笑い飛ばした。

「3億8000万の削減だ。契約社員なんて、代わりはいくらでもいる。口を挟んだ女もな、名前すら知らんよ」

彼は上機嫌でボトルの栓を開けさせ、すでに役員室の椅子に腰かけている自分を想像していた。その夜、川島美緒は遅くアパートに帰り、電気もつけずに玄関に座り込んだ。それでも、言わなければいけないことはある。冷えた身体を動かして味噌汁を温め直し、窓の外の冷たい雨をじっと見つめていた。

そして12月、最初の月曜日。取締役会は予定通り午後2時に始まった。28階の役員会議室には、社長、役員7名、そして黒田強しが並んでいた。隅には、議事録係として呼ばれた美緒も資料を抱えて立っていた。

プロジェクトの説明は順調に進んでいた。スクリーンには削減される人件費のグラフが映し出され、黒田の声には自信が満ちあふれていた。

「本契約により、年間人件費を3億8000万円削減できる見込みです。業務効率はAIサービスの導入により、従来比135%に向上します」

「移行期間中の業務は担保できるのか?」

「もちろんです。移行スケジュールは慎重に組んでおります」

黒田は淀みなく答えた。役員の何人かが頷き、社長も満足そうな表情を浮かべていた。

「対象になる社員への説明は、もう済んでいるのか?」

「順次進めております」

黒田は即座にそう答えた。誰も、その言葉の真偽を確かめなかった。

「対象となる契約社員58名の業務は、来期第1四半期までに完全移行が可能です。うち契約社員分だけでも、年間1億2000万円の圧縮になります」

「素晴らしい数字だ。黒田君、よくやってくれた」

黒田は軽く会釈し、もう勝利を確信したような顔をしていた。これで決まりだ。執行役員は俺のものだ。

拍手が起きかけた、その時だった。

廊下から複数の足音が近づいてきた。

「あれ、会長じゃないか」

扉がノックもなしに開き、創業会長の長井が秘書の佐々木を伴って入ってきた。灰色のスーツに質素な革靴。創業者らしい派手さはどこにもなかった。長井が本社の取締役会に顔を出すのは、3年ぶりのことだった。佐々木以外に、長井が今日ここに来ることを知る者は、誰もいなかった。

「座ったままでいい。続けなさい」

その声は穏やかだったが、誰も続きを話せる空気ではなかった。黒田の顔から血の気が引き、レーザーポインターが小さく震えた。スクリーンに映ったグラフの数字だけが、まだ誇らしげに輝いていた。

長井は誰にも挨拶をせず、まっすぐ美緒の方を見た。

「みおさん、大丈夫?」

その一言に、黒田は息を飲んだ。黒田が3年間、一度も名前を呼ばなかった相手を、創業会長は迷いなく呼んだのだ。

名前を呼ばれた美緒は、資料を抱えたまま動けなくなった。なぜ会長が自分の名前を知っているのか。心臓がいつもより速く打ち、抱えていた資料の重みだけが腕に伝わっていた。

「失礼します」

美緒は一礼して扉の方へ下がろうとしたが、長井は手で制した。

「川島さんは残っていてくれ。証人として必要だ」

「会長、この者は議事録係の契約社員で、間違いありません」

「知っている。川島美緒さんだ」

その言い方には、黒田の「そこの契約社員」とは全く違う響きがあった。佐々木が黒田の前に契約書の別紙と手書きメモのコピーを置いた。

「先ほどの契約書の別紙、確認させてもらった」

長井の声は大きくなかった。だが、会議室の誰もが息を止めて聞いていた。

「契約社員全員の雇用を一斉に打ち切る情報が入っている。この説明はまだ聞いていないが?」

「それは…経営判断として数字を出すのが私の仕事でして」

「経営判断は、誰かの生活を黙って切り捨てていい理由にはならない」

長井は怒鳴りもせず、事実を確認しているだけだった。それが黒田にとって最も恐ろしかった。

「父さん、まずは私が事情を確認してからに」

「お前が確認していれば、こんなことにはなっていない。契約社員58名全員が対象になっている。業務の効率化のためには、必要な決断でした」

「それに、契約社員は有期雇用だ。更新しない自由は会社にある」

「自由を、説明なしに使うなと言っている。以前、電話でこう言っていたそうだな。『人件費が減れば、数字は一気に良くなる』と」

黒田の顔が青ざめた。

「それを聞いていたのは、お前が空気のように扱っていた、この契約社員だ」

「対象者への説明は順次進めていると言ったな。この川島さんへの説明は、いつ済ませた?」

黒田は答えられなかった。嘘は誰の目にも明らかだった。佐々木が手書きメモを役員一人ひとりに配った。

「これは録音ではなく、手書きの記録か?」

「はい。川島さんが、忘れないうちに書き留めたものです」

「勝手にメモを取るなんて、スパイ行為じゃないか!」

「お前が空気扱いした社員の記録だ。事実から逃げるな。契約は白紙に戻す。ゼロから対象者一人ひとりに説明した上で、考え直す」

「白紙というのは…」

「言葉通りだ」

長井の答えに反論する者は、誰もいなかった。

「私は会社のためを思って。数字さえ出せれば、誰も文句は言わないと」

「その『誰も』の中に、この人は入っていなかったのか」

長井が身を乗り出しながら言った。黒田は答えられなかった。

「『代わりはいくらでもいる』とも言っていたそうだな」

黒田の肩が落ちた。どこで聞いたのかを考える余裕もないようだった。黒田はすがるように、隣に座っていた斎藤を見た。

「斎藤、お前も資料の作成に関わっていただろう」

「いえ、私は部長の指示に従っただけです。情報の追加は、部長一人の判断だったと記憶しています」

黒田の顔が、初めて赤ではなく白くなった。頼みの綱だった部下からも切り捨てられた瞬間だった。

「斎藤、お前まで俺を売るのか?」

斎藤はそれ以上、何も答えなかった。

「説明を『順次進めている』と偽った点も、重大な虚偽報告だ。本件は内部通報案件として受理する。監査も即日開始する。執行役員候補としての適格性は、この場で失ったと見て良い」

黒田の唇が小刻みに震えた。隣の斎藤は、すでに椅子を半分後ろにずらしていた。

「それは酷です! 会長だって昔は、数字で会社を大きくしたはずだ!」

「私は人の名前を、決して数字にしたことはない。58人の生活を、数字の影に隠したな」

「黒田君。私は川島さんの名前を忘れたことがない。君は3年間、一度でも彼女の名前を呼んだことがあったか?」

会議室は静まり返った。誰も答えなかった。

美緒は胸ポケットから、総務の名札をそっと取り出した。「川島美緒」と印刷された文字が、蛍光灯の下で静かに光った。

「名前がある。私にも、みんなにも」

「それが君の答えだな」

役員たちの視線が黒田から離れ、誰一人、彼を庇う者はいなかった。社長も静かに目を閉じ、窓ガラスに映る自分の顔だけが、黒田を見つめ返していた。

長井は美緒に穏やかな声をかけた。

「覚えているか?」

美緒は首をかしげた。会議室の全員が息を潜めて見守っていた。

「入社する前の年の、11月の雨上がりの夜だ。この本社ビルの前の歩道で、具合を悪くして座り込んでいた老人がいた」

「大丈夫ですか? お名前言えますか?」

それは、あの夜、美緒自身が口にした言葉だった。美緒の目が大きく見開かれた。

あの夜、美緒は残業帰りに歩道で座り込んでいた老人を見つけた。街灯の下、雨上がりの路面が黒く光っていた。老人は意識が朦朧としているようだった。通りがかりの人は足早に通り過ぎ、誰も足を止めなかった。美緒だけが膝まずき、声をかけた。

「大丈夫ですか? お名前言えますか?」

老人は、ろれつが回らない意識の中で、自分の名前だけを答えた。

「長井…です」

美緒も、聞こえるままに名乗り返した。

「川島です」

「川島さん…」

老人はその名前を確かめるように一度繰り返し、美緒はただ頷いた。救急車が来るまでの、ほんの数分間だけの出来事だった。美緒は老人の手を握り続けていた。冷たい雨の匂いと、老人のかすかな息遣いだけを覚えていた。アスファルトの冷たさが、美緒の膝にも伝わっていた。救急車を見送ると、美緒はそれが誰であるかも確かめないまま、家へ帰った。

翌年、契約社員として面接を受けた時も、あの老人が創業会長だとは思いもしなかった。

「あの夜、名前を呼んでくれたのは、後にも先にもあなただけだった」

長井の声が、わずかに震えていた。

「私はあの声を、忘れたことがない」

美緒は何も言えず、ただ目の奥が熱くなるのを感じていた。

「あなたがこの会社に入ったと知った時、正直迷った。名乗り出て、特別扱いもできた。だが、あなたはそういうことを望む人ではないと思った。だから、名前だけを呼び続けた。それが私にできる精一杯の礼だった」

「会長はあの夜からずっと、社員名簿で『川島』という名前を探していたんです。もし見つけたら知らせるようにと、おっしゃっていました」

佐々木の言葉に、長井は少し照れたように視線をそらし、最後に黒田の方を見た。

「人の名前を軽んじる人間に、人を預ける気にはなれない」

「待ってください! 執行役員候補です! これまでの数字は成果です!」

「候補から外す。諭旨解雇を視野に入れた処分を、社長の元で進めなさい」

「わかりました。直ちに手続きします」

「黒田部長、明日10時、聴聞の場を設ける。欠席は認めない。損害賠償の請求も法務で検討する。業界団体への報告も行う」

「そんな…俺が…そこの契約社員ごときが…」

その口が、全てを物語っていた。美緒は名札を胸に戻し、静かに一礼した。

「川島美緒です。今日は議事録係として、ここにいました」

小さく名乗っただけだった。勝ち誇る気配は、どこにもなかった。

「黒田さん。社用端末と入館証は、この場でお預かりします」

黒田の手が震え、名札を外す音が会議室に小さく響いた。

「俺の名前が…消える」

会議室の窓の外では、雨が降り始めていた。あの夜、美緒が歩道で膝まずいた時と同じ、冷たい雨の匂いだった。

1週間後、黒田強しの諭旨解雇が社内に通知された。理由は、パワーハラスメントと虚偽報告だった。契約社員全体の雇用に関わる重大な情報を、取締役会に無断で盛り込もうとしたことも含まれていた。退職金は大幅減額され、役員候補名簿からも名前は完全に消えた。同時に社内システムへのアクセスも停止され、デスクは即日撤去された。業界団体への報告も行われ、転職の門は次々と閉じた。

「パワハラで契約社員を切り捨てようとした方は、お引き取りください。当社のブラックリストにお名前が載っております」

出勤記録まで残っている案件は、どの人事も怖がる。最後に黒田を見た社員は、誰も彼の名前を覚えていなかった。

「あの、経営企画部にいた人」

社内で、彼はそう呼ばれるようになった。かつて自分が「代わりはいくらでもいる」と言った言葉が、そのまま帰ってきた形だった。

半年後、黒田は都内の小さな物流会社で、契約社員として働いていた。倉庫の入荷作業。名札には、部署名と番号だけが記されていた。月収は手取り18万円。かつての年収のほんの一部だった。

「そこの契約の人、そのパレットを向こうへ。急いでくれ」

現場の主任がそう指示した。名前を聞かれることも、呼ばれることもなかった。かつて自分が美緒に投げつけた言葉と同じだった。

「前は何の仕事してたんすか?」

「経営企画」

「へえ。なんて名前でしたっけ? 下の名前」

黒田は答えなかった。誰もしつこくは聞かなかった。

夜、ファミリーレストランでカップ麺をすすりながら、黒田は天井を見つめた。

「川島美緒…俺は、一度も呼ばなかった」

一方、生和ホールディングスでは、58人の契約社員の雇用が全員継続されることになった。年間3億8000万円の削減案は白紙に戻された。契約更新のために不安を感じていた総務の空気も、少しずつ柔らかくなっていった。

発表の日、総務のフロアには珍しく小さな拍手が起きた。美緒はその輪の中で、少し戸惑いながら頭を下げていた。

「子供がまだ小さくて、正直来年の契約がどうなるか、ずっと不安だったんです。それでも言ってくれる人がいたから、あと3年、なんとか務め上げられそうです。ありがとな」

「私は、ただ気づいたことを言っただけです」

「みおさんのおかげだね」

「『ただ』が1番難しいんだけどね」

森下が笑いながら言った。斎藤も、取締役会の日以来、美緒に会うたびに小さく頭を下げるようになった。何も言わなかったが、それで十分だった。

新しい経営企画部長は着任初日、契約社員一人ひとりへ名前を確認して回った。小さな変化だったが、フロアの空気は確実に変わっていった。契約社員への説明会も正式な制度となり、「上司の一存です」という言葉はもう聞かれなくなった。

美緒の日常は、大きくは変わらなかった。相変わらず朝7時半に味噌汁を温め、7時50分の電車に乗り、8時20分にはデスクに着いていた。

「川島さん、おはよう」

森下の声も、いつも通りだった。ある月曜日の朝、長井が事前連絡の上でフロアに姿を見せた。

「みおさん」

長井が声をかけると、美緒は椅子から立ち上がった。

「おはようございます」

「これからも、この会社で働いてもらえるだろうか」

長井の問いに、美緒は少し考えてから頷いた。

「はい、よろしくお願いします」

「無理にとは言わない。あなたが望むなら、正社員としての道も用意できる」

「今のままで大丈夫です。契約社員という働き方が、今の自分には合っているので」

「そうか。わかった」

長井はそれ以上勧めず、去り際に社員一人ひとりへ小さく会釈をしていった。以前にはなかったことだった。

「結局、会長とはどういうご関係だったの?」

「ちょっと、お手伝いしただけです。それだけ」

美緒は少し微笑んで答え、また書類に向き直った。窓の外では、朝の光がオフィス全体を静かに照らしていた。その日の午後も、美緒は体調を崩した来客に声をかけ、水を汲みに行った。

「大丈夫ですか?」

相手が誰かも確かめずに動く。前と何も変わらない光景だった。

社内の語り草に残ったのは「名前を呼ばれた人」という一点だった。総務の新人研修資料には、いつしか「相手の名前をきちんと呼ぶこと」という一文が加えられていた。

創業会長が迷わず呼んだのは、契約社員の名前だった。人を預ける資格は、名前を覚えようとする心にある。黒田部長は名前を覚えなかった。代わりはいくらでもいると思った。だが、この世界に「代わり」の効く人間など、一人もいないのだ。

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