スーパーの野菜売り場で、見知らぬ女性が私に話しかけてきたのは、穏やかな午後のことだった。
「あなた、栗田さんよね。ちょっと今いいかしら」
「はあ、いいですけど…」
突然の呼び止めに振り返ると、そこには派手な服装と強い香水の匂いをまとった近所の田洋子さんが立っていた。普段は挨拶程度しか交わしたことのない相手だ。彼女が近所のママたちに因縁をつけては地域から追い出しているらしいという噂を、私は聞いたことがあった。
「あなたって専業主婦なんでしょ? 毎日暇だわよね」
「え? 別に暇というほどでは…」
「どうせ家事と子育てくらいしかやることないんでしょ。小さい子がいるって言っても、もう歩いてるんだから。あなたがどん臭いだけなんじゃないの?」
失礼極まりない言葉の連続に、私は内心呆れていた。なぜこんなことを言われているのか。同じ主婦として、どうしても彼女とは波長が合わない。
「あの、そろそろ子供のご飯の時間なので…」
「まあ待って。あなた、私のお友達になってくれない?」
「お友達…ですか?」
「そうよ。実はね、私のママ友の一人が引っ越すことになってね。新しい人を探してたの。あなた、いい人そうだから。なってくれない?」
要するに、仲間が抜けた穴埋めをさせられるということだ。嫌だと思いながらも、断ったらさらに面倒なことになりそうで、私は言葉を濁した。すると彼女は、ママ友になった時の「メリット」を話し始めた。
「私のお友達になると、いいことがたくさんあるのよ。ほら、私って美人でしょ。だから男が次から次へと寄ってくるのよ。そのメンズたちとお友達との交流会を、毎週のように開いてるの」
「はあ?」
「旦那一人だけ相手にしてたら飽きるでしょ? 若い男を連れて歩くのって気持ちいいわよ。あなたもどう?」
「いや…結構です。というか、結婚されてるのに男を侍らせるって、大丈夫なんですか?」
「私くらい美人なら大丈夫なのよ。あなたみたいな地味なブスには想像できないでしょうけどね」
私は思わず言葉を失った。どうやら彼女は、ママ友を使って家事や生活の世話をさせているらしい。その上、男まで紹介させているというのだ。
「私は結構です。お引き取りください」
「ちょっと、勘違いしてない? この私が声をかけたってことは、あなたは選ばれたってことなのよ。それを断るなんて、おかしいんじゃないかしら」
「友達って、そうやって一方的に頼んでなるものじゃないでしょう」
「私の言う“お友達”っていうのはね、世間で言う普通の友人関係とは違うのよ。私の生活をサポートする代わりに、私から素敵なプレゼントをあげる。そういうギブアンドテイクの関係なの。いわば特権階級のようなものね」
「生活をサポート? 特権階級? どういうことですか?」
「まあ、そういうのはおいおい分かっていくから心配しないで。とりあえず、証として栗田さんには私の家の養育費と光熱費の支払い担当になってもらうわ。後で請求書を持っていくから、待っていてね。ああ、そうだ。連絡先を交換しなくちゃ。スマホ出しなさい」
そう言って、彼女は強引に私のスマホを奪い取ろうとした。
「ちょっと、返してください! というか、払いませんよ。友達にもなりません!」
私は慌ててスマホを奪い返し、はっきりと言い返した。すると、それまで余裕の態度だった彼女の目つきが、一瞬で恐ろしいほどに変わった。
「はあ? あんた、そんな態度を私にとっていいと思ってるの?」
「すみません。ただ、ちょっと強引すぎるかなと思って」
「この私があんたに特別に養育費と光熱費を払わせてあげるって言ってるのよ。ありがたく思いなさいよ」
「無理です。意味が分からないですし」
「まあ、あんたみたいな貧乏人には、このありがたみが分からないのも無理はないわね。仕方ないわ。あんたの旦那さんも交えて話し合いましょう。きっと分かってくれるはずよ。我が家のような後ろ盾があると、この地域でも何かと有利でしょうし、旦那さんも喜ぶんじゃないかしら」
「まず、うちは貧乏じゃないですし、夫もそんなこと了承しませんから」
「さっきから何よ、その態度! あんたね、私の旦那が誰か知ってるの?」
「旦那さん…?」
「ふん。その様子じゃ知らないのね。私の旦那はね、千田組の若頭なのよ」
千田組。その名前に、私は内心動揺した。うちの組と長年因縁のある、同業者の名前だったからだ。しかし、私のこの動揺を、彼女は自分の思い通りになったと勘違いしたらしい。
「そうよ。つまりあんたはヤクザの若頭の妻に逆らったのよ。どういうことか分かる? あんたはもうこの地域で生きていけないわよ」
彼女の言葉に、私はむしろ呆れてしまった。ヤクザの名前を勝手に語って、一般の人を脅すなんて。同じヤクザとして、これ以上の恥さらしはない。
「…そうですか。ご丁寧にどうも」
「本当にムカつくわね。あんた、今に見てなさいよ」
そう言って、彼女はどこかへ電話をかけ始めた。おそらく旦那さんだろう。電話の向こうに話し始めた瞬間、彼女の声は急に甘えたような調子に変わった。
「もしもし、あなた。なんかね、近所の栗田ゆきっていう女が超ムカつくのよ。あんたの名前出しても全然ビビらないの。あんたのことも多分舐めてんのよ。だからちょっと痛い目見せてやってくんない? うん、分かった。じゃあ楽しみにしてるわね」
電話を切ると、彼女は高笑いしながら言った。
「千田組の若頭があんたをボコって、貧乏症を直してあげるわ。覚悟しなさい」
スーパー中に響き渡るその笑い声を聞きながら、私は冷静に状況を整理していた。たまたま私がヤクザの組員だったからいいものの、普通の主婦だったらどうなっていたことか。あまりにも調子に乗りすぎだ。
「…それで? 千田組の若頭が私をボコるの? 楽しみに待ってるわ」
「あ、どういう意味よ?」
「そのまんまの意味よ。ごちそうさま」
私はそれだけ言い残して、その場を去った。後ろで何か叫んでいる彼女の声を聞きながら、私はすぐにスマホを取り出し、ボディガードを兼ねている組員に連絡を入れた。私は栗田組の組長の一人娘であり、次の組長の座につくことが決まっている身だ。日頃は子育てに専念するため、一般人として平和に暮らしているが、万が一の事態に備えて、周りには何人か組員を配置してあった。
数分後、待ち合わせ場所に現れた組員に、私は今までの経緯を説明した。組員は目の前で起こった出来事に、さすがに呆れた顔をしてため息をついた。
「千田組とは前々から因縁がありますから、万が一の時に備えて配置してはいましたが…まさか主婦同士の会話でこんなことになるとは思いませんでした」
「千田組は相当素行が悪いって有名ですから、いずれ何かしらでこうなったのかもしれないわね。とにかく、売られた喧嘩は買わなくちゃ」
「千田組の取引先は、もう把握してあります」
「彼らの取引先を全部、栗田組に切り替えるようにもっていきなさい。おそらく取引先の方も、千田組とは手を切りたいと思ってるはずよ。うちが提示すればあっさり切り替えると思う。もししつこく抵抗するようなら、脅してでも奪いなさい」
「承知しました。早急に動きます」
組員たちは、久しぶりの命令に生き生きとした表情で動き始めた。優秀な者たちばかりだ。おそらく30分もあれば、全ての取引先を抑えられるだろう。私はさらに、栗田組の息のかかった金融機関を通じて、千田組の若頭の資金を凍結させた。これで、千田組の資金源は完全に断たれる。
私はスーパーで買った荷物を一度家に置き、そのまま千田組の事務所へ向かった。この地域に本拠地があるからこそ、よ子さんがあんなに大きい顔をしていたのだろう。場所は曖昧にしか知らなかったが、近くまで行くと、やけに悪趣味で監視カメラだらけの建物があり、ここだと確信できた。少し離れた場所から眺めていると、事務所から一人の男性が現れた。これ幸いと、私は声をかけた。
「すみません。千田組の若頭っていますか?」
「ああ? 若頭は俺だけど…何だよ、俺は今忙しいんだ」
まさかの本人だった。見た目はただのチンピラにしか見えないから、てっきり下っ端だと思ってしまった。あのよ子さんの夫が、こんな男だったとは。
「忙しいところすみません。ちょっとお話ができますか? 多分、その忙しさと関係あることだと思うんで」
「は? どういうことだよ、てめえ」
ヤクザとは思えない、乱暴で知性の欠片もない物言いだ。全く、夫婦揃ってこうだからヤクザが嫌われるのだ。私はヤクザの立場としての情けなさを感じながらも、話を続けた。
「私、栗田ゆきと申します。奥様のよ子さんに、ママ友になるよう依頼されたんですけど、それを断った者です」
「…よ子の? ママ友? はあ? なんでそれを断るんだよ。頭おかしいのか?」
「それ、さっき奥さんからも言われましたよ。そうやって一般の人を脅して優越感に浸ってるから、取引先が全部逃げたんじゃないですか?」
「ああ? なんで、そのことを知ってるんだよ。てめえ、何なんだ?」
「私がよ子さんのママ友を断ったのはね、ヤクザなんて怖くないからよ。特に、千田組なんてね。しかも若頭でしょ? 大したことないじゃない」
「てめえ…! ヤクザが怖くないだと? どうやら相当、世間知らずのバカみたいだな」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ。なんで私がヤクザを怖がらないのか、考えて分からないの? 私もヤクザだからよ」
「は? 何? てめえみたいな、どこにでもいる女がヤクザなわけないだろ」
「事情があって、ヤクザだと隠して振る舞ってるだけよ。さっき名乗ったけど、私、栗田ゆきっていうの。苗字に聞き覚えはない?」
「…栗田? まさか、栗田組? あの…栗田組の、次期組長だとでも言うのか?」
「あなたが忙しい理由と関係あるって言ったでしょ。千田組の取引先を全部、栗田組に切り替えるよう指示したのは、私よ」
「冗談じゃねえ…! なんで栗田組にそんなことされなきゃいけないんだ!」
「それだけじゃないわ。あなたの口座やクレジットカードも、もう使えないようにしてあるから」
「嘘ばっかり言ってんじゃねえ!」
「嘘だと思うなら、そこら辺のコンビニで試してみればいいわ。まあ、手持ちがいくらかは分からないけど」
私の言葉で、千田組の若頭は血の気が引いたように顔色を変え、わなわなと震え始めた。どうやら、想像以上に器の小さな男らしい。その時、連絡を受けた栗田組の組員たちが、ゾロゾロと私の元に駆けつけてきた。30人ほどいただろうか。対する千田組の若頭は、たった一人だ。さすがに恐怖で顔色を失っている。
「みんな、ご苦労様。無事終わったみたいね」
「はい。どうやら千田組は、取引先に対してもかなり横柄な態度を取っていたようで、取引先を栗田組に切り替えられると、涙を流して喜んだ会社もありましたよ」
「てめえ…、マジでヤクザなのかよ…」
「まだそんなこと言ってるの? ほら、あと一つ忘れてない? よ子さんから頼まれてた事でしょ」
「あ…? 何の話だよ…」
「さっき電話で頼まれてたでしょ。『栗田ゆきっていう女が超ムカつくから、痛い目見せてやって』って。栗田ゆきって、私のことよ。だから、あなたが来る前に、わざわざ来てあげたのよ」
「…な…、よ子のやつ…。ヤクザの次期組長に喧嘩を売るたあ、何考えてやがる…」
「さっきまで、あなたも私がヤクザだって信じなかったくせに。よ子さんが気づけるわけないでしょ」
「とにかく、さっさと私をボコってみなさいよ。できるものならね」
追い詰められた千田組の若頭は、完全にパニックになっていたのか、突然その場から走って逃げ出そうとした。しかし、もちろん栗田組の組員たちに取り押さえられてしまう。
「話は聞いたぞ。お前の嫁さんは、ママ友たちに男を紹介したりする代わりに、お前らの生活費を負担させていたらしいな。一般の人に対して、そんな振る舞いをするなんて。お前ら夫婦は、ヤクザ全体の恥だ!」
組員の一人がそう言って、若頭を殴りつけた。それに続いて、他の組員たちも次々と殴りかかる。今日、この地域の癌とも言える千田夫婦を潰せる。そう確信した私は、ボディーガードでもある組員に指示を出した。
「千田組の事務所を制圧しなさい」
組員たちは、瞬時に事務所へと乗り込んでいった。事務所では、数人の組員たちが慌てて電話をかけているだけだった。取引先を失ったことで、組全体がパニックに陥っているのだろう。容易に制圧は完了した。ぐったりと座り込んでいる千田組の若頭に、私は声をかけた。
「制圧は完了よ。もし望むなら、千田組を栗田組の下に置いてあげてもいいけど、どうする?」
「…お願いします。そうじゃなきゃ、俺たちはもう全部失って、路頭に迷ってしまう…」
土下座しながら、懇願する若頭の姿は、実に惨めだった。これでようやく一息つける。そう思った、その時だった。
「あら? あんた、さっきの女じゃない」
聞き覚えのある声に、私は振り返った。そこには、スーパーで別れたはずのよ子さんが立っていた。
「なんで、こんなところにいるわけ? ああ、分かった。自分の旦那さんに、わざわざボコボコにされに来たってわけね。そうよ、自ら来たの。最も、結果はそうならなかったみたいだけど」
「は? 何言ってんのよ。ていうか、あんたなんでこんなにピンピンしてんのよ? ちょっとあなた、話が違うじゃない! さっさとこいつをボコボコにして、痛い目を見せてやりなさいよ!」
「いや、よ子…違うんだ。この人は…」
「ていうか、なんでそんなにボロボロなのよ? まさか、あの女が仲間を連れてやってきたとか? ひどい! 性格最悪じゃない! こいつ!」
「話を聞け! バカ! この人は…栗田組の次期組長なんだよ!」
「え? …栗田組? あの、昔から千田組と因縁があるっていう組の? 次期組長? そんなわけないわよ! 第一、聞いたことないわ! そんな話、聞いてないし!」
「あのね、私は自分からヤクザだって名乗ってるの。『優遇してください』なんて、そんなことを他人に言って恥ずかしいヤクザなんて、あんたたち夫婦くらいよ。本当に、この恥さらしな」
「何なの? ひどくない? しかも、ヤクザの次期組長って、若頭より偉いんじゃない? あんた、影で私のことをこっそりバカにして笑ってたってこと? 本当に、性格最悪だわ!」
「いい加減にしろ! お前がママ友にやってきたことと、この人への喧嘩を売った行為のせいで、うちの組は終わったんだよ! 財産も全部差し押さえられたんだ! どうしてくれるんだ!」
「組が終わり? 財産が差し押さえ? 何を言ってるのよ? どうしてそんなことになるわけ?」
「あんた、まだ自分が誰に喧嘩を売ったのか、ちゃんと分かってないみたいね」
私が低い声でそう言うと、よ子さんは反射的にその場から走って逃げ出そうとした。しかし、私は足をかけて、彼女を転ばせた。
「ちょっと! 痛いじゃないの? 何するのよ! 卑怯者!」
「卑怯者って、どっちが? ヤクザの夫を笠に着て、さんざん好き勝手やってきたあんたの方が、よっぽど卑怯でしょ」
「痛い! お前、いい加減にしろ!」
「ごめんなさい! 許してください!」
彼女は腰を強く打ったらしく、子供のようにその場でワンワンと泣き始めた。その泣き声は本当に凄まじく、通りがかった人々が立ち止まり、何人かはスマホを向けているのが見えた。髪はぐしゃぐしゃ、服も汚れ、大人の女性が声を上げて許しを請う姿は、なかなか見られるものではない。騒ぎを聞きつけて、よ子さんのママ友たちも駆けつけてきた。しかし、普段は気取った態度の彼女の姿とのギャップに、皆さん言葉を失っているようだった。
その後、よ子さんが路上で泣き叫ぶ姿は、その場にいた誰かによって撮影され、SNSで拡散された。一晩のうちに、彼女の姿は世界中に知れ渡ってしまった。
それから一年後、千田組は栗田組による経済的な制裁で、完全に解散となった。千田組の中の何人かは栗田組の傘下に入り、千田組から奪った新たな取引先も得たことで、栗田組はさらに規模を拡大した。千田夫婦は離婚したらしい。よ子さんの動画が原因で、子供がいじめられるようになってしまったという話もある。今まで彼女に侍っていたママ友たちも、目を覚ましたようで、完全に絶縁したらしい。結局、よ子さんはこの地域にいることができなくなり、どこか遠くへ引っ越していったという噂を、私は風の噂で聞いた。
日頃から近所の人に生活費を負担させたり、失礼な言葉を平気で投げかけたりしていた、あんなバカな女は、今になってみると、本当に愚かだったのだと思う。一方、私はというと、千田組の解体が無事に終わったことで、再びヤクザの世界から距離を置き、子育てと家事に専念する専業主婦に戻ることができた。今日も、スーパーに行っても因縁をつけられることのない、穏やかで平和な一日を過ごしている。



